花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設16年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調が重なり、家の回りの生活が主になった。

本の力

2010年02月28日 | TV・映画・音楽・美術
昨夜、BS日テレで放映した中仏共同製作映画「小さな中国のお針子」を見た。

あらすじー文化大革命が行なわれていた時代の中国で、父親が知識人・反革命分子の医者だということから山間の小さな村に再教育のためにやられた2人の青年マーとルオが、そこで仕立て屋の祖父と暮らす美しいお針子に出会う。
彼女に一目惚れした彼らは、当時、西洋文学を読むことは禁じられていたのだが、手に入ったバルザックの小説を、毎日秘密裏に文盲の彼女に読み聞かせて行くのだ。

やがて彼女は、ルオと恋愛関係になり妊娠する。
25歳にならないと結婚できない中国で、ルオが一時、帰省してしまっていない間、彼女は途方に暮れるが、マーが父親の知人だという医者に頼み込み、こっそり中絶してもらう。
ルオは村に戻ったが、ある日彼女は2人に黙って1人で町に出る決心をする。
それを知った2人は、彼女の後を追い、戻るように説得するが、彼女は自分の可能性を試したいと言うのだ。
そして、そう考えるようにさせたのは、バルザックだったといって彼らの元を去って行くのだ。

映画の舞台は、多分長江上流だろうが、険しい山々が聳え立つ山間に、へばりつく様にして貧しい家々が点在する村だ。
旅人にとっては風光明媚な場所に見えても、そこで暮らす人々の生活は厳しい。
学校はなく、村長以下皆ほとんどが文盲だ。
山奥の畑には、肥やしを人力で背負って運ぶのだが、再教育を受ける2人が歩くたびに背中の背負子から撥ねてこぼれる肥やしがかかる。しかし、風呂などはないから、滝の下にできた小さな湖に行くのだ。
(先日見たシリーズ「コメ食う人々」の中国版では、今も、もっこで堆肥や苗を運び上げて棚田を守る人々の姿が映し出されていた。美しい棚田の陰で、人力しか使えないコメ作りの厳しさに、今まで思いが及ばなかった自分を恥じたのだった)

実は私も、中学高校の頃に読んだ西洋文学に大きな影響を受けた。
高校の時は、育英会の奨学金の中から毎月買って読んだ世界文学全集の中で、今思えば、モーパッサン、エミール・ゾラ、パール・バック、ヘルマン・ヘッセ、ゲーテなどの小説に心を動かされ、自分の人生を重ねて考えたのを覚えている。

この映画の原作は実話に基づいたもので、世界30カ国で翻訳、出版されたというが、私は知らなかった。
中国の社会主義体制にあって、自由、民主主義、夢を追うなどという事を知らなかった辺境の地に生きる彼女が、西洋文学から大きな影響を受け、新しく目覚めた自由への希求心が恋愛さえも超える行動を促したのは想像できる。

本は、読者にまだ知らなかった考え方や未知の世界を知らせ、小説に登場する人々の人生を疑似体験させることによって、考え方、生き方にも影響を与える力を持っている。
そして今は、苦労して活字を読まなくても、簡単に映画やTV他のマスメディアがその役割を果たしていると言える。
特に映画やTVの映像が持つ力は、本以上である。
何でも知ろうと思えば知る事ができる時代にあって、若者達は今、何を見出そうとしているのだろうか。





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ごっこ汁

2010年02月22日 | 医療・健康・食生活・衣生活
「ごっこ」という魚があるのを、以前の私は知らなかった。
この町へ引越しして来てから、徐々にご近所と親しくなったが、その中の1人の奥さんが、3年前のある日、鍋を持って我が家の玄関に現れ、「ごっこ汁を作ったけれど食べる?」と言われたのが最初の出会いだった。

それから何度、ごっこ汁をいただいた事だろうか。
初めて食べた時から、ごっこのだしが効き、独特なぬめり気があるこの汁が大好きになり、私も見た目は黒くて美味しそうではないが、鮮度の良いごっこを見つけた時、何度か買って来て作るようになった。

昨夕もまた、2回は食べられる量が入ったごっこ汁を1鍋いただいた。
コラーゲンに富んだごっこと美味しいその卵、そして白菜、大根、人参、長ネギ、豆腐、わかめなどをしょうゆ味で炊き込んである。
温め直して食べたら、実に幸せな気分になった。

この奥さんは、かって東北地方に住んだこともあるらしく、秋には里芋で作った「芋汁」も届けてくれる。(北海道の芋汁は、じゃが芋を使う)
こんな近所付き合いは札幌のマンションでは考えられないことで、中~小都市に住む良さだと思う。
いつも本当にありがたく、感謝していただいているのだ。

      

調べたら、ごっこは布袋魚とも言われ、冬に関東以北の日本海側で捕獲される大きさ40cmにもなる魚だ。
ゼラチン質のぷるぷるした黒っぽい皮と雌が抱える卵の量が多いのが特徴だ。
料理は、卵を取り出したら、先ず1度、熱湯でさっと茹でて、表面のぬめりを取ると、臭みが無くなる。それから食べやすく切り、醤油味の鍋に仕立てると美味しい。


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雪にちなんで

2010年02月20日 | 日記
3日前に降った雪で、また家の周りの雪が多くなった。
写真①は除雪後の玄関前。1.8m位の高さはありそうだ。②は我が家との境界に植えてある隣家の高さ2mもある生垣に積った雪だ。

  ①  ②

ところで最高気温が氷点下のこの辺りでは、降った雪は融けずに結晶のまま積って凍るから、積っても隙間が多く、軽いパウダー状になるらしい。
それで写真③を撮って見た。結晶は判らないが、隙間だらけなのは確かだ。こんな雪は空気を含んでいて軽いから、除雪は比較的楽だ。
温かな地域に降る雪は、融けやすいので隙間がなく、重くなるのだろう。
この辺りも気温が緩む3月になると、次第に雪は水分を多く含んで重くなって来る。

  ③

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映画「インビクタス」を見て

2010年02月17日 | TV・映画・音楽・美術
昨日、従姉妹と札幌駅で待ち合わせをして、「インビクタス」を見に行った。
この映画は、長い間の沖合いの島ロベン島での幽閉を解かれ、選挙で大統領に推されたマンデラ氏が、就任直後取った政策の1つが、彼の手腕を象徴するものとして映画化されたものだった。
1年後に南アで開催が決まっていたフットボールのワールドカップ、そこに開催国として出る事に決まっていた南アの弱小ラグビーチームに、彼は民族の融和の願いを託したのだった。

スポーツは、肌の色も人種も宗教さえも乗り越えさせ、人々の心を1つにする力を持っている事を彼は知っていた。
1948~1991年まで43年間の長期に渡って続けられた人種隔離政策後の傷だらけな南アフリカ共和国を安定させ、国民を1つにまとめるため、彼の差別を受けた者こそができる人間的な考え方と粘り強い説得力が、チームも周りも少しずつ変えて行った。
そして、ワールドカップの決勝にまで勝ち進む力をつけたチームが、いよいよ最強のニュージーランドチームと決勝戦でぶつかる。

私は1年7ヶ月前の2008年6月に、ツアーで南アフリカ4カ国を訪れた事がある。
南アの首都ヨハネスブルグでは、ケープタウンへの飛行機の乗り換えをしただけだった。
しかし、人口350万人の南ア第2の都市ケープタウンで見たり聞いたりした事を、今回の映画を見て鮮明に思い出した。

当時、私は帰国後ブログに次のような記事を書いた。

「アパルトヘイトは、最初に南アに入植したオランダ人(自らをボーア(農民)と呼んだ)の黒人選民思想がもたらしたものだと言う。
当時の国民党政府は、国民を白人、カラード(混血)、インド人、黒人に分類し、少数の白人が政治経済を支配し、居住地、教育、就職、宗教、恋愛に至るまで、詳細に白人以外の人種に対して徹底した差別を制度化した。
やがて国内外でアパルトヘイト反対運動が激化。アフリカ民族会議議長だったネルソン・マンデラは捕らえられ、決して逃げ出せないケープタウンの12km沖にあるロベン島に、1990年に釈放されるまでの18年間、幽閉された。
1990年、政府は民族融和政策に転換し、1991年、アパルトヘイトを廃止した。
1994年に行われた初めての総選挙でマンデラが大統領に推された時から、長かった白人単独支配に変わって、多民族が共存する民主主義国家が目指された。」

「今回、私達のケープタウンでの現地ガイドは、白人の男性だった。
彼は、現在の国民の85%が黒人で、政治家の大半も黒人であると話した。
 (しかし、wikipediaで調べたら、少し古い2001年の国勢調査の結果が出ていた。それによると白人18.75%、黒人31%、カラード48%、アジア系1.4%となっていた。彼は、「白人以外は85%」と言うべきだったのだろう。) 
国の法律で、会社の75%の人員を黒人 (これも多分、正確には、白人以外の意味で彼は言ったのだと思う。) にすることになっていて、違反すると高い税金が課せられるそうだ。白人は55歳で定年となるが黒人はわからないという。

黒人はホームレスでも選挙権が与えられる現在、白人の政治力は低く、白人の子供は会社に入れないので外国に行かざるを得ない。自分の子供もヨーロッパで仕事をしているといっていた。金持ちの中高年も国外に出る人が多いそうである。
確かに私達が行ったレストラン、飛行場、ホテル、観光地で色々な仕事をしていた人たちの多くは黒人だった。
考えると、もともと白人は居ない国だったのだから、アパルトヘイトの反動で、厳しくワークシェアーをすることになったのは歴史的に仕方が無い面があると思った。

2001年、市街地に住む者の失業者は19.4%で、その58%が黒人、38%がカラード、3.1%が白人だったらしいが(wikipediaによる)、現在はこの数値がどう変わったのか興味がある。
しかし、将来的に公教育が行き届けば、やがて適材適所の雇用形態へと変わって行くのではと思った。
いずれにしてもアパルトヘイトが無くなってから二十数年経ち、白人は少数民族として生きて行かざるを得なくなっている事だけは事実らしかった。」

そして今年、サッカーのワールドカップが南アで開催される。
国は国際空港の拡張、道路の整備、環境整備、ホームレスの解消などを急いで来たし、そのための莫大な歳出をして来たが、経済的なひずみが国民生活に大きくのしかかっているのではと気になる。
 
「ガイドは、空港の近くに何時の間にかできたというホームレスの人達のスラム街を指しながら、「80%の人は仕事を持っていてもここで暮らしている。
水も電気も上手く盗み、地代も税金も払っていない。それを負担しているのは私達一般市民だ。
市は公共住宅を建てて入居を勧めるが、入ると安くても家賃がいるし、公共料金も払わなければならなくなるので、彼らは何時までもここに居たがる。」とこぼしていた。」

近年の南アは、金属資源が多い国として世界中から注目され、多額の投資が集まっていると聞く。
また、黒人の一部は、国と結びついて採掘権などの特権を得、富を得ているらしい。
映画を見て、今後の南アがどうなって行くのか、さらに気になる所である。

マンデラ氏は91歳を越えた。
世界的に有名な英雄の彼が、もしかの時のXデイのために、すでに密かに国はその時の準備を行なっていると聞いた。
なお、映画の大統領執務室に飾られていたオレンジのストレチアには、「マンデラ・ストレチア」という名が付いている事を付記したい。
 

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樺太シシャモ

2010年02月15日 | 医療・健康・食生活・衣生活
先日魚屋に行った時、シシャモの雄が1皿500円で売られていた。
どうしようか迷いながら他の所も見ていたら、冷凍庫に198円の「樺太シシャモ」を見つけた。
味は本物のシシャモとほとんど同じ筈なので、それを買った。
帰宅後、早速開けて見たら、細めだが20匹も入っていた。
焼いて食べた。塩味も適当で美味しい。  
                            

知っている人も多いと思うが、実はこの魚、ネーミングは「樺太シシャモ」だが、樺太で獲れたのではない。
原産地はノルウエーなどの北欧で、魚の本名は「カペリン」。大分前から日本に輸入されている魚だ。
最初の頃は、長い事「シシャモ」と嘘を言って売られていたが、近年は「樺太シシャモ」などというラベルが付けられるようになった。

本物のシシャモは、北海道の太平洋岸の限られた地域で、一時期しか獲れないから、価格が高く、特に卵を抱えている雌の良品は10匹1000円近くする高級魚になってしまっているのだ。
これでは庶民の口に入らないから、見かけは本物より色白でスリムな体形(特に頭が本物よりもずっと小さい)のカペリンだが、味は遜色ないので、大量に輸入される様になったのだと思う。
販売業者には、正しい名前をつけて堂々と売って欲しいと思うのは、私だけだろうか。

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トヨタ販売店兼修理工場の雰囲気

2010年02月11日 | 日記
パソコン研修会の帰り、その近くのトヨタの販売店兼修理工場に初めて寄った。
昨年辺りから外したシートベルトの巻取りが弱くなって来て、ドアを閉める度にたるんだベルトがドアに挟まれないか、気を遣う必要があったからだ。

対応してくれた中年男性は、新品のベルト価格を調べてくれた。
3万円強するそうだが、応急処置として巻取り口の清掃とベルトの毛羽立ちを押さえて見ると言ってくれた。
待ち時間15分程で驚くほど具合が良くなってうまく巻き取られるようになった。工賃はサービスだという。

対応してくれた人は、とても親切だった。しかし、平日の昼間のせいか私以外の客はいなく、ひっそりしていた。
長年トヨタのファンを自認して来た一人として、今回のプリウスのリコール問題についてもその人と少し話した。
私は「私が長年乗って来たトヨタの乗用車は、故障もなく、価格の値分は信頼できる車だった。今回の問題で、会社側から見た車より、客から見た安全で満足できる車が重要だという事にトヨタは気づく事ができたのだから、今後のために寧ろ良いチャンスだったと思う。頑張って欲しい。」と話した。

それにしても久し振りに行ったトヨタの販売店に展示されていた車は、どれもすごく大きくて、省エネ時代に逆行するのではと思った。

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大雪の翌日

2010年02月10日 | 日記
猛吹雪の翌日、雪も風も収まったので買い物に出た。
新しいパンを買ったので、冷蔵庫に残っていたパンを細かく千切ってバードテーブルに置いた。
電線に止ってしばらく様子を伺っていた十数羽のヒヨドリが、ピッピッと鳴きながら交代で餌を口にくわえ、電線に戻るのだ。
その際、テーブルのパンを外に撒き散らす鳥もいた。写真①

翌朝、空が白んで来た6時半過ぎに外で鳴き声がするので見たら、数羽の鳥が前日は見向きもしなかった雪の上のこぼれたパンを拾っていた。②
それも20分もしたらすっかり無くなった。
その後もまだ電線に並んで止っている。
次の餌を待っているようだが、「今日は、私が食べるパンしか無いんですよ。」

その内、いつの間にかいなくなっていた。

 ①  ②

  
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除雪に50分

2010年02月07日 | 日記
昨夜からの吹雪で、今朝起きたら、結構積っていた。
隣家の生垣が埋まりそうになっているので、庭の積雪量は1mを越えているかも。
しかし、今朝の気温は昨日よりも7℃も高い。
それでも-3℃の中を身支度して玄関前の通路と車庫前の除雪に出た。

早朝に通った除雪車が、道路を削って家の前に置いて行った雪山を崩して車庫前を空けるのだが、その雪は重い。
途中、嫌になって投げ出しそうになったが、ご近所さんも頑張っているので、高年女性の面子にかけて頑張る事50分。
やっと終わり家に入った。大汗をかき、腕がなまっている。
外を見ると、また、凄い吹雪だ。この調子なら、午後にはさらに除雪が必要だろう。

吹雪の中で、丸々としたヒヨドリが隣家の桜の枝にとまっている。電線にも身を寄せ合うように一杯いる。
最近どうした訳か、この鳥を沢山見かける。
最近は寒いので買い物が億劫となり、私の食べ物も底をついているから庭の餌台は空なのだが、近辺に良い餌場でもあるのだろうか。
(写真は室内から写した)

 



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寒さの思い出

2010年02月04日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
昨夜からの天気予報通りに今朝は今冬1番の寒さだった
北海道では、今朝-28℃に下がった町もあるらしい。

私も昔、道東の町に居た時、1度だけ、-28℃を経験している。
その時は北側のトイレの水道管内の水を落として(抜いて)いなかったので、夕方、水道管内の水が凍りつき、容積が膨張して管の継ぎ目が外れてしまった
ザーザーという音で気がついた時には、トイレ内に水が噴水状に吹き上がっていたのだ。
その水の後始末も実に大変だった。

それからは、外気温が-7~-8℃になって来たら、トイレを使うたびに1回1回水を出し、出る時は落とす(抜く)事に徹するようになった。
台所の水道も、ストーブを消して出勤し夕方帰宅すると、もう水道管が凍り付いていて、水が出ないこともあった。
それで朝は台所も水を抜いて出かけるのだ

またそんな日は、出勤する時に車のエンジンが掛からない。「バッテリー」にお湯をかけて温めたり、それでも駄目な時は近所の人に車を引っ張ってもらったりもした。
その内にバッテリーの「充電器」を買って来て、夜中温めておいたりしたこともあった。
やがてケーブルを他のバッテリーに繋いで、エンジンを始動させるための電気を貰う時代になった。
思い出せば、道東で暮らした20年以上の1~2月は、毎朝が戦いのような気分だった。

しかし何よりも恐ろしいのは、凍結路面での車のスリップ事故だ。
「急ブレーキ」で車が1回転した事もある。その時、対向車がいなかったのが幸いした。
交差点で信号が黄色になり、前車が止まったのでブレーキをかけたが凍結路面のために停車できず追突した事も1度ある
(相手からぶつけられたことも3度ほど‥)
それからは「車間距離」をすごくとって運転する癖がつき、つい夏でも車間距離を空けてしまいがちなのだ。

雪が多い地域も除雪が大変だが、こんな風に冷え込む地域に住むには生活を守る工夫が必要だ。
今は「バッテリー」の容量が大きくなったり、家の作り方も良くなっているので、昔私達がしたような苦労は少なくなったかも知れないが、今朝の様な寒い朝には、もっと冷える北の地域で暮らしている人たちの苦労が偲ばれるのだ。

今住んでいる地域は道央圏なので、今朝7時の外気温は-18℃。やはり暖房を入れてもなかなか部屋が暖まらなかった。
外は真っ白い雪景色で、歩く人は寒気を吸い込まないようにマスクをしている人が多い。
しかし、我が家の居間の窓辺では、晩秋に鉢上げした草花が蕾を沢山つけている。
秋までベランダに出していたゼラニュームは、今、次々と花を付けてくれている。
今日は立春とか。
陽射しは少しずつ強くなってきた様に感じられる。本当の春が待ち遠しい。

    
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友人の嘆き

2010年02月02日 | 医療・健康・食生活・衣生活
先日、遠くに住む旧知の友人から電話があった。
彼女は十数年前にある癌の手術を受けたのだが、その後、内臓のあちこちに転移し、数年前から予断を許さない症状を抱えている人だ。
何でも彼女が末期の緩和医療と看取りをしてもらおうと期待していた医師が、4月から他の町に行って開業することになり、凄くショックだと言う話を伝えて来たのだ。

実は彼女には、精神疾患のために自立できない40歳に近い1人っ子がいる。
自宅でずっと看て来たのだが、二親が死んでしまったら一体誰が子どもの面倒をみてくれるだろうかと、自分の事よりもそれが悩みの種なのだ。
それで私に向って、「子どもの心配がない人が羨ましい。」というのだ。
私も彼女の苦悩は理解している積りだが、やはり彼女から見れば、本当には分ってくれていないと思うのだろう。

心身障害の子どもを早くから施設に預けている別の友人(不思議と私には同様の友人が多くいるのだ)に言うと、「その子の将来を考えたら、親が元気な内になるべく早く施設に預けて、その生活に慣らした方が良いのに。」という。
生きている間、できるだけ自分の傍に置いて、親子の共通の時を刻みたいと思っている彼女の気持ちも分かる気がするし、また別の友人がしてきた事もわかるので、私は彼女にどう言って上げたらよいのか分らないのだ。

話は変わるが、昨夜、BSTVでイギリスの「ヤングケアラー」について報道していた。
番組では、家庭内で障害のある親や兄弟姉妹の世話をしているイギリスの子ども達の生活が取り上げられていた。
自分の時間が持てず、子どもらしい遊びや友達関係も持てず、ストレスがたまり、学校でも孤立しやすいのだという。
そんな子ども達が集える場所を作って、援助している女性が出て来た。
時々そこに来て、同じような生活を余儀なくされている仲間と過ごす内に、子ども達に笑顔と共感、精神的な安定が出て来ているという内容だった。
かって「ゆりかごから墓場まで」といわれる社会福祉政策がなされていたイギリスの現状を知って、私は愕然としたのだった。

認知症や寝たきりの高齢者、学齢期前の子ども、重い病気や障害を持っている家族の養護と介護を誰がどのようにするかは、小家族が一般的になった日本の社会の大きな課題なのだと強く思う。




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