花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

「エジプト」旅行(9)

2012年12月31日 | 海外旅行「中近東Ⅱ」エジプト

《ルクソール西岸観光》(2)
「王家の谷」を観光した後、谷を挟んだ東側にある「ハトシェプスト女王葬祭殿」に行った。
「ハトシェプスト女王」は「トトメス一世」の第一王女として生まれ、エジプト初で唯一の女王になり、22年間在席した女性だ。
「夫トトメス二世」と結婚したが、その死後、幼少の「トトメス三世」の摂政になり、その後自ら男装をして王となったという。

この葬祭殿は自ら設計して作らせたというが、自然の地形をうまく利用したテラス様式の美しい葬祭殿は唯一の物である。

(1997年11月17日朝、この神殿で火器と短剣を使ったイスラム原理主義者による「ルクソール事件」が起き、62人もの人が死亡した。日本人は新婚旅行者を含む10名が被害にあった。犯人6人は射殺された。テロの目的は、エジプトの観光収入を減らし、正教分離政策をとっていた当時の政府に打撃を与える事だったと言われている)

 

  

女王は建築、芸術、外国貿易(ソマリアの乳香を求めたりした)に熱心だったが、死後、「トトメス三世」に葬祭殿の一部が破壊された。
エジプトの小学生が先生と旅行に来ていた。先生に聞くと写真を写してもいいと了解してくれた。生徒達は嬉々として収まってくれた。

  

山の中腹に洞穴が幾つも開けてあった。ガイドに聞くと「かってキリスト教信者の隠れ家として使われていた穴倉だ。」と返答された。

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「エジプト」旅行(8)

2012年12月31日 | 海外旅行「中近東Ⅱ」エジプト

《ルクソール西岸観光》(1)
5日目、船が「ルクソール」に停泊すると9;30に下船し、バスに乗り換えて観光に出発した。

先ず向かったのが「メムノンの巨像」だ。
紀元前2040年頃、衰退した古王国時代の後にエジプトは再統一されて中王国時代を迎えた
紀元前1720~1680年頃、アジアからデルタ地帯にやって来た人々が王朝を成立させ、新王国時代が始まる。

この後、巨大建築物が首都「ルクソール」に沢山造られたが、「メムノンの巨像」は「アメンホテプ三世」が建てた物だという。
ネットで調べると、この二体の像はアメンホテプ三世が建てた葬祭殿の入り口に作られた高さ18mのものだが、後の第18王朝のメルエンプタハ王が自分の葬祭殿をたてる石材を得るために破壊したと言われ、今は巨像しかない。
右の写真は巨像の背景である。ここに葬祭殿があったのだろうか。遠くの山は王家の谷の方角に当たる。

  

次に向かったのが「王家の谷」だ。
そこはぐるりと山に囲まれ、北側だけが空いている谷状の地形だった。

  

墓の全てが、紀元前1365年以降の新王朝時代に岩山を掘って造られたものだという。
「ラムセス六世」の墓、「ツタンカーメン」の墓、「貴族」の墓などの中に入ったが、カメラ撮影ができなかったので写真は無い。
入り口から玄室までほとんど真っ直ぐに大きい通路が作られていて、その通路の両側の壁には王の生前の生活や来世の神の姿、王の死後の世界が沢山画かれていた。
死後、魂は蘇ると信じていたので、体をミイラにし、内臓を甕に分けて入れ、死後の世界で生きるために必要な生活用品を置いた。
彩色もそのまま残っている墓も多く、3000年前に描かれたものとは思えないような新鮮な感じを受けた。
紀元前1350年に即位した「ツタンカーメン王の墓」は特に保存状態が良く、玄室の絵は極彩色に彩られていて、当時の王族の宇宙観が画かれていた。

紀元前1150年にはここで労働者がストライキを起こしたらしいが、徐々に新王国は衰退して行った。

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「エジプト」旅行(7)

2012年12月30日 | 海外旅行「中近東Ⅱ」エジプト

《エドフの「ホルス神殿」》
「コム・オンボ神殿」の観光を終えて船に戻り、昼食後はゆっくり休んだ。その間も船は次の停泊地に向かって航行している。
バス移動なら一定の窮屈な姿勢で座り続けなければならないが、船なら好きなことをしていていいから気分的にも身体的にも楽なのだ。
それで私は、昼食後親しくなった人達とお喋りを楽しんだり、自室で買った絵葉書(売り子から10枚1ドル=85円、切手は日本まで35円)に手紙を書いたり、船内の売店を覗いたりして過ごした。
ずっと最上階の甲板で過ごした人は、動く景色を見続けたためか「酔って気分が悪いから夕食は食べられない。」と言っていた。

17時に船がグレコローマン時代に栄えたという「エドフ」の町の船着場に着くと、私達のグループは下船して二人ずつ「観光馬車」に分乗し、「ホルス神殿」の観光に向かった。
私と友人は少年が御者の馬車があったので乗ることにした。ところが、走り出して間も無く父親が御者席に飛び乗って来て、二人で馬に鞭打ち、夕暮れ迫る街中を走らせた。
馬車が7分走ったところで「ホルス神殿」に着いた。既に陽は落ちて真っ暗になっていたので、神殿の全体像を写真に写すことはできなかったが、壁画を見るのに持参した懐中電灯が役立った。

この神殿は、プトレマイオス朝時代の紀元前237年に着工し、紀元前57年に完成した神殿で、守り神「ホルス神」とは冥界の神「オシリス神」とその妻「イシス神」が生んだ子どもで、「ハヤブサ」の頭をした神だ。
神殿は大きく、今から2060年以上前に建てられたものとしては保存状態がとても良いそうで、高さが3mはあるかと思う大きいホルス神の彫像が第二門の入り口に置かれていたり、レリーフが至る所に彫刻されていた。
しかし、紀元391年にローマ帝国の「非キリスト教崇拝禁止」が打ち出された後、燃やされたらしく、天井部分が黒く焼けていた。
この近辺の地下にも「ナイロメーター」が作られているのを見に行った。

  

  

帰りも同じ馬車に乗って暗い街の通りを抜けて船着場に戻ったが、降りる時に添乗員から言われていた額のチップを父親に渡したら、彼から「息子にもくれ。」と請求された。私は「1ドルはあなた、もう1ドルは息子です。」と言って急いで友人と降りた。

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「エジプト」旅行(6)

2012年12月29日 | 海外旅行「中近東Ⅱ」エジプト

《ナセル湖を見つめるラムセス二世像》
現在、ナセル湖の畔にある「アブシンベル神殿」は、「アスワンハイダム」の建設によって湖底に沈む運命にあった。
しかしユネスコが国際キャンペーンを起こして救済された神殿で、1964年からの工事によって、元の場所から60m上にそっくり移設をすることに成功したのである。
岩山を利用して造った神殿の入り口に、高さ20mのラムセス二世像とその妻の像が湖を見つめていた。
像の横側にはレリーフが彫られていたが、その中にこの当たりで暮らしていた色が黒い「ヌビア人」と隣国「リビア人」達が首を紐で結わえられて奴隷となっているものがあった。王の権力を誇示したかったのだろう。
日没が迫る「ナセル湖」が美しかった。

    

         




《コム・オンボ神殿》
4日目、「アスワン」から46kmナイル川を下り、「コム・オンボ」(アラビヤ語で「オリンポスの丘」の意)の町で停泊したクルーズ船を降りると、すぐ傍の丘の頂に「コム・オンボ神殿」があった。
この神殿は紀元前2世紀に着工され、ローマ皇帝アウグストゥスの時代に完成したもので、「ホルス神」(ハヤブサの頭を持つ天空の神)と「ソベク神」(ワニの神)を祭るために建てられたという。
この神殿の石材は、後に持ち出されて他の建造物に使われたそうだ。
残っている部分のレリーフに女性の出産場面やミイラ作りの各種道具なども画かれていた。

庭に大きい井戸の様な「ナイロメーター」(ナイル川の水位を測る)が造られていた。底の方にナイル川の水が流れ込む穴が作ってあった。
井戸に向かって特別の祈りをしている男性がいた。


また少し離れた所に、この近くで発掘された「ワニのミイラ」の博物館があった。ズラリと並べて展示されていたミイラは、子ども以外はどれも大きかった。

  

  

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「エジプト」旅行(5)

2012年12月28日 | 海外旅行「中近東Ⅱ」エジプト

《アスワン観光》
9;30に「ナイルエクスプレス」は「アスワン駅」に着いた。
待っていたバスに乗り換えて「アスワン」観光に向かった。

最初行った場所は「切りかけのオベリスク」だった。
そこは古代の石切り場で、切り出す途中に石に亀裂が入ったために打ち捨てられたものがそのままの形で残っていて、古代の石切り方法を今に伝える貴重な場所だった。
その方法とは、石に切り込みを付け、そこに木のくさびを打ち込み、それを水で濡らして膨張させると石が割れるのだと言う。
捨てられたオベリスクは、長さ42m、重さ1168トンあり、完成していればエジプト最大のものになった筈だという。
(写真は、頭の方からと下の方から撮ったものである)

   

次に向かったのが「アスワンハイダム」「ナセル湖」だ。
ダムは「アスワン」の町の南方12kmにあり、そこまで行く途中には広大な砂漠の光景が広がっていた。
1970年にドイツとソビエトが協力してできた幅3.6km、鷹さ111mあるこの巨大なダムは、ダムの上流に面積が琵琶湖の7.5倍あるという長さ500kmもの人造湖「ナセル湖」が続いていた。
このダムからエジプトの電力は供給されている。
しかし「ナセル湖」ができたために「ナイル川」は氾濫しなくなり、流域に豊かな土壌がもたらされなくなって下流域の農業に大きなマイナスの影響を与えたという。
農業を諦めた人々は都市に移住したり、出稼ぎを余儀なくされた。

  

               

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「エジプト」旅行(4)

2012年12月27日 | 海外旅行「中近東Ⅱ」エジプト

《旅行の交通手段》
今回の「エジプト8日間」のツアーでは、2日目に「ギザ」から南部の「アスワン」まで夜行列車「ナイルエクスプレス」のコンパートメントが使われた。この列車はナイル川に沿っておよそ900kmを南下するが、1室2人(2段ベッド)で「ギザ」発20;30、「アスワン」着は翌朝9;30で、約13時間の旅だった。

   

その間夕食と朝食が出るが、夕食は簡単な弁当食で美味しいものではなく、朝食は飲み物とパン、果物だけだったし、ゴトンゴトンとレールを走る音と揺れで浅い眠りしかできなかった。多分航空機を使うのに比べたら格安なのだろうと思った。

朝になると窓からナイル川沿いの光景が見えて来た。
町のモスクや庶民の住む集合住宅、オアシスに植えられているバナナ、サトウキビ、ナツメヤシ、野菜、ロバや馬、荷車、自転車、三輪車、小型貨物車などに乗って荷物を運ぶ人や農作業をしている姿など、中世と現代が混ざり合ったような景色に見ていて飽きなかった。
(写真は走る特急列車の汚れた窓から撮ったもの。最後の写真はルクソール駅で撮った)

  

  

  

次に「アスワン」から「ルクソール」までの170kmは、ナイル川を大型のクルーズ船に乗って3泊4日の「ナイル川クルーズ」で、来た時とは逆に北上した。
港?では、クルーズ船は数隻がピッタリと横並びになって停泊し、乗客は他船のフロントのあるフロアを横切って自分の船に乗ったり降りたりするのだった。(写真はクルーズ船5隻が停泊している姿を背後から写した)
その間毎日、世界遺産がある町に停泊した船から降り、ボートや馬車に乗り換えて観光し、食事は船内で摂った。
食事は朝から夕までバイキング形式で変化がある食事だったし、バス、トイレ付きのゆったりした船室で、窓から見える川沿いのオアシスの風景や人々の生活光景、クルーズ船が行き交う様子も見られて楽しかった。

  

  

6日目はクルーズ船に別れを告げ、「ルクソール」から「カイロ」までの530kmを航空機で1時間10分掛けて飛んだ。さすが航空機は速い。

このように今回の旅ではバス以外の交通手段が色々組み込まれていて、それぞれの特徴を味わえたのだった。




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「エジプト」旅行(3)

2012年12月26日 | 海外旅行「中近東Ⅱ」エジプト

《カフラー王のピラミッドとスフィンクス》
「クフ王のピラミッド」から出た後、バスで「三大ピラミッド」が良く見える場所へ移動した。
真ん中のピラミッドがやはり紀元前2550年頃建造されたという「カフラー王のピラミッド」だ。こちらは傾斜が少し急に造られていて、「クフ王のピラミッド」よりも少し小さいが、それでも一辺は215m、元の高さは143mあり、上部に表層の白い石灰石が残っている。一番の特徴は、大きな「スフィンクス」(鷹さ20m、長さ57m)も斜面の下に造られている事だ。
 

バスで「スフィンクス」の見学場所に戻った。「スフィンクス」はその場に元々あった岩山を削って造ったという。大き過ぎるので近くからだとうまく写真を写せない。この写真は、高い所によじ登って写した。
傍に石材で複数の部屋に仕切られた天井の高い場所があった。現地ガイドの説明ではミイラを造る場所だったという。

  

左端のピラミッドは「メンカウラー王のピラミッド」で、3つの中では最も小さく、一辺が103m、元の高さは65mあるものだった。表面の化粧石は花崗岩が使われているので少し赤っぽい色をしていた。

 

この後もピラミッドは造られ続けたが、次第に石材ではなく、小さな日干し煉瓦を積み上げる方法に代わって行き、崩れやすくなったと言う。これは王の権力が弱まっていったからだそうだ。

「ギザの三大ピラミッド」の見学後、パピルスを売る店に行った。日本語が上手い店員がパピルスからどうやって紙を作るか説明した。
本物のパピルスでプリントされたものは大きさにより数千円から数万円という結構な価格だったし、我が家に飾る場所もないので私は手を出さなかった。
店の説明では、最近バナナの皮から作った紙のプリントが安く売られているが、直ぐに駄目になるそうだ。行く先々で露天や売人が「10枚1000円」などと言って売っているのはバナナ製なのだろう。こちらは遥かに安いので何人かが買っていた。

  

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「エジプト」旅行(2)

2012年12月23日 | 海外旅行「中近東Ⅱ」エジプト

《クフ王のピラミッド》
エジプトと言えば先ずピラミッドだ。
早朝、カイロ国際空港に着き、朝食を摂った後、バスで隣町の「ギザ」に行った。
バス1台毎に常に内務省管轄の警察官『ツーリストポリス』が、私服で最前列の席に座ってツアーに同行した。背広の下には長さ30cm位の銃を携帯していて一見物々しかったが、私達は全く気にすることなく旅行した。

「ギザ」には、世界遺産のピラミッドが3つある。最大のが「クフ王のピラミッド」だ。
これは紀元前2550年頃造られた物で、一辺の長さが230m、元の高さが146m(今は上が崩れて、元の高さを示す棒が立てられていた)の角錐の形をしていて、ピラミッドの王様と言われている。1837年に王の名と治世年が発見されたそうだ。
使われている石は平均2.5tもある巨大なもので、崩れないようにきっちりと重ねられていた。

私達は入り口から入って、このピラミッドの王の間につながる狭い回廊を登って行った。回廊は進むほど傾斜が上向きに急になり、広さも人1人が頭を下げてかがみ、やっと進める程だった。通気が悪いのでみんな汗びっしゃりになりながら頑張った。
王の間は20畳ほどの広さに見えた。御影石でできた蓋のない石棺がぽつんと置かれていた。(吉村教授は棺ではないという説を持つ)
カメラの持ち込みは禁じられた。
私は今から4500年も前の王の絶大な権力と遠くの山から切り出し、ナイル川を船で運び、ピラミッドに隙間無く積み上げた技術力に大いに感じ入った。
(右は三大ピラミッドの写真。クフ王のは右端のだ。遠いので小さく見える)

  

このピラミッドの付近には、観光客を狙った物売りやらくだ飼いが沢山居て、すごくしつこく押し売りの様に付きまとって来た。
10歳程の子どもの物売りもいた。義務教育の小学校に行っていない子どもだった。
中には隙を狙って金品の盗みを働く者もいて、全く気を抜けなかった。うっかりらくだの写真を写すとチップを請求された。

 



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「エジプト」旅行(1)

2012年12月22日 | 海外旅行「中近東Ⅱ」エジプト

《はじめに》
「チュニジア」旅行記の最後を残して暫く留守にしていたが、実は12月12日から20日まで「エジプト」旅行に行って来た。
出かける1週間前になってカイロの状況が不安定になったというニュースが飛び込んで来て、旅行社に安全状況を問い合わせるなど私も不安だった。
そんな訳で皆さんに心配を掛けたくないと考え、行き先を伏せて出発したのだった。

かって私がエジプト旅行を予定した年、丁度「ハトシェプスト葬祭殿」の銃撃テロが起きた。そのため、予定を中止して暫く様子を見ていたのだが、その内TVの旅行番組で頻繁に「エジプト」が登場するようになり、それを見ている内に次第に行って見たいという気持ちが萎えてしまったのだった。
ところが今回「チュニジア」に行く事になり、どうせなら直ぐ傍の「エジプト」にもやはり行って来ようと思い立ったのだ。
それで旅行社の締め切り間際に駆け込みで申し込んだ旅だったが、やはり今回も「行って来て良かった」の一言に尽きる。
「百聞は一見にしかず」と、先人は良く言ったものだと思う。

 
 ( 保存状態が最高の「カフラー王ピラミッド」と低地にある「スフインクス」を、入場口より撮影)

「チュニジア」でこの時期の気候が良く分かったので、衣類は洗濯して、またそのまま詰めて出かけた。
ただ、ガイドブックを見ると「エジプト」は埃っぽいとか、年中蚊がいるとか書いてあったので、マスク、蚊取り線香を用意した。
また遺跡の中が暗いので懐中電灯があると便利だとあったので、手回し充電式の「LEDライト」を新しく求めたりした。
実際、手回しライトは軽くて役立ったが、蚊取り線香は使わなくても良かった。
このライトは現地ガイドの目に留まり「欲しい。」と言われたので差し上げた。私ならまた買えば済むから。

  

「チュニジア」旅行で壊した胃腸は、病院に行って抗生物質と消化薬を処方して貰って出かける前に何とか治した。
エジプトでは、生野菜、ジュース、カットした果物、油っぽい料理には全く手を付けなかったので、胃腸は壊さなかった。

エジプトの気候は、最高気温が22℃程度と過ごしやすかった。
また、今回利用した航空機は、往復共成田~カイロ間のエジプト航空の直行便だったが、空席があったので行きも帰りもゆったりと体を伸ばして休むことができ幸せだった。
今回も成田には18時に着いたので、旅行社が手配したホテルに一泊して翌日午前中の飛行機で北海道に帰宅した。

出かけた12日の朝も雪が25cm積もり、30分掛けて除雪してから出かけたので、留守中の降雪が一番気になった。
帰宅して見ると、隣家の方が除雪をしてくれていた。いつもの通り、気持ちだけのお土産を差し上げた。いつも見守ってくれ、ちょっとした手を貸してくれる近所の方々には本当に感謝している。

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「チュニジア」旅行(13)

2012年12月21日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ

今日は5日目に行ったアルジェリアとの国境に近い南部のオアシス都市「トズール」の「ジャメル砂丘」での日の出鑑賞と「スターウォーズ」の映画セットについて書く。

朝5時の暗い中、ホテルの玄関前に数台の4WD(トヨタのラウンドクルーザー)が待っていた。砂漠の朝は気温が低いと聞いていたので私はセーターやカーデガンを重ね着し、砂塵の予防にマフラーですっぽりと頭を包み、マスクもして、カメラにも透明なナイロンを被せて待機した。
4WDに4人ずつ分乗して30分程走ると、サハラ砂漠の東端「ジャメル砂丘」に着いた。

待つ事10分程で次第に空が紫色に染まり出した。その日はたまたま雲があるので、光が映えて幻想的だ。
やがて地平線にオレンジ色の光が現れると間も無く太陽が昇って来た。美しい太陽だった。

どこからか砂漠の民「ベルベル人」らしき男性がかなたから歩いて現れて、手に持っているネックレスやブレスレットを要らないかと売り始めた。毎日彼は、朝日鑑賞に来る観光客相手に商売をしているのだろうか。
写真を時系列で並べる。

  

                        

  

               

                

その後、急傾斜の斜面を降りて砂漠を少し走ると、映画『スターウォーズ』のセットが残っている場所に着いた。私はその映画は見ていないが、見た人たちは興味深そうだった。セットの裏にあった小高い砂丘に登り、そこからも写真を撮った。砂が細かくて歩き難いが、風が無くて砂が飛ばず幸いだった。

                 

 

                 

 

朝食後訪れた「砂漠動物園」では、サソリや蛇、コーラーを一気飲みするらくだ、アフリカ狐などを見たりした。飼育係りのユーモア溢れる歓待振りと熱演に爆笑した一時だった。

以上で長くなったチュニジアの旅日記を終える。未知の国「チュニジア」は、変化に富む素晴らしい観光国だった。
読んでくれた皆さんには「チュニジア」を、今までよりも身近に感じて貰えただろうか。  《完》

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「チュニジア」旅行(12)

2012年12月12日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ

《タメルザ渓谷の山岳オアシスを訪ねる》
塩湖を後にした私達は「トズール」の町でランチを食べた後、6人ずつ4WDに分乗して西側の隣国「アルジェリア」との国境近くにある三箇所の山岳オアシスに向かった。
ガイドブックによるとオアシスに向かう一般の交通手段はなく、個人で高額だが4WDをチャーターするしかないと書かれているので、今回の旅行の観光コースに組み込まれている事が嬉しかった。

それぞれが違う光景のオアシスだが、約30年前に起きた大洪水によって住居の大半は離れた場所に移り、今は数軒の土産店と素晴らしい景観だけが残っていた。
不毛の山岳大地の所々に湧き水が出たり、川が流れて地面を潤し、そこだけがなつめやしや野菜、果樹(イチジク、ザクロ、オレンジ、レモン)が育つ光景を見せていた。それがオアシスなのだ。

最初の入り口にある渓谷が「シェビカ」渓谷だ。4WDを降りて暫く渓谷を下って行くと、滝や小川が流れる絵の様に美しい谷が開けていた。
  

次に4DWが向かった「ミデス」渓谷は、上から見下ろすと深い渓谷が見て取れた。
まるでアメリカのグランドキャニオンさながらに地層がはっきりと刻まれていて、幅が狭く深く、水が流れて大地を侵食してできたのだと分かる。
地層を見ると、太古の昔、この地方は海の底にあって海底の土砂が堆積した後の地殻変動で隆起してできた事がわかる。
また、この山は、隣国アルジェリアからモロッコまで続く「アトラス山脈」の東の端に当たる山なのだ。
(そう聞くと数年前モロッコで、バスから降りて20分ほどアトラス山脈越えをした思い出が懐かしく蘇った)
映画「イングリッシュ・ペイシェント」で、主人公が夢の中で砂漠を彷徨うシーンが撮影された所としても有名だそうだ。

  

最後に訪れたのは「タメルザ」渓谷だった。
大きく開けていて滝がある美しい渓谷だが、川はアルジェリアの山から流れて来る水なので、そこが晴れていても急に大水が来たりする危険な場所だそうだ。
高台に土産屋が2~3あって、色々な色の砂をびんに詰めながら画く砂絵を売っていた。

  

  

この日は午前中は「塩湖」を見、午後はなかなか行けない「山岳オアシス」を巡る行程に満足した一日だった。

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「チュニジア」旅行(11)

2012年12月12日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ

《チュニジアの中西部に広がる塩湖》
3日目、「マトマタ」から不毛の山を越えて西の「ドゥーズ」に向かった。
その途中で夕日が沈んだ。バスは日没直前に停車し、降りて沈む夕日を鑑賞した。どこで見る日没も同じ筈だが、チュニジアの大地の向こう(アルジェリア)に沈む陽を見て少し不思議な気持ちになった。

 




翌朝は宿泊した「ドゥーズ」のホテルを出、バスは57kmもの距離の直線道路を西北西の「トズール」目指して走り出した。
間もなく平らな白っぽい大平原が現れた。これが塩湖「ショット・エル・ジェリド」なのだった。
海抜0mの場所にあって、最大幅80km、最長200kmだというからその広さは想像ができない。
太古の昔、サハラ砂漠は海の底にあった。地球の大変動によって海底が隆起し、やがて太陽熱で海水が乾くと塩分濃度の濃い水ができ、やがてそこから塩が結晶するのだ。

バスが走っていると遠くに蜃気楼が現れた。また、小さなみやげ物店も点在していた。塩を採取している工場もあった。

 

途中でバスを下り、道路の両側に広がる「ショット・エル・ジェリド」に足を踏み入れた。表面は砂粒の様に塩が固まっているが、掘ると濃い塩水が出て来るのだった。
小さな山が幾つも作られていて、表面に塩の結晶が白花が咲くように噴き出していた。舐めると塩辛いが甘い。
私達が普段使っているエンカナトリウム99.1%の真っ白い精製塩と違って、無機質を沢山含む天然塩だからなのだ。私はとっさにビニール袋を取り出して、その結晶を爪で削って集めた。
見ていた他の人たちも同様にし出した。面白かった。
道路の反対側の店に行くと、採取したのと同じ塩がビニール袋に入って売られていた。可笑しかった。

    

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「チュニジア」旅行(10)

2012年12月11日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ

《ベルベル人が暮らす穴倉式住居》
バスが進むに連れて砂漠状の地形が広がりだした。所々に椰子の木が生え、羊を連れた遊牧民が現れる。ここ「マトマタ」の山岳地帯は先住民族「ベルベル人」が隠れて暮らす地域だった。
1700年前の戦いに敗れてからは、生きるにはとても厳しい環境の砂漠地帯に逃れ、密かに自給自足生活をして来たのかも知れない。

バスを降りた。砂漠の大地の下で「穴倉式住居」に住む家族を訪問するためだった。
地表から5~6m地下に穴を掘って中心部を吹き抜けにし、その周りに横穴式に幾つかの居室を造ってあった。
水は雨水を貯めて使っている様だが、雨がほとんど降らない乾期はどうしているのだろうと思った。

  

年を取った婦人と中年の女性、それに若い息子がいたが、寝室は別々の広さの穴倉だった。1つの広さは4.5~6畳程の広さで入り口は木の扉やカーテンだった。
中央の吹き抜け部分には、雨期に雨もそのまま下まで降るのだろう。
中年女性はにこやかに私達を歓迎してくれ、いつの間にかツアー客の2人がベルベル人の民族衣装を着せられて登場したのを見て、皆沸きかえった。
この「穴倉式住居」は夏涼しく冬は暖かいので住み易いそうだが、職業を尋ねると「町に通勤している。」との返事が帰って来た。

  

バスはその後、乾ききった赤土の山岳地域に入っていったが、少し形は違うが似た様な「穴倉式住居」が点在していた。
山の頂上近くにある小さな土産店前にトイレ休憩のためバスは止まった。
絵葉書が5枚1DH(51円)だったので買い、その夜ホテルで今日見た「穴倉式住居」と明日行く渓谷や塩湖について知らせる手紙を書いた。

 

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「チュニジア」旅行(9)

2012年12月11日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ

「ケロアン」の世界遺産を見た後、南に212km離れたチュニジア中東部にある町「ガベス」に向かった。
途中の「シテイ・ブジド」町は、昨年起きた一連の民主化運動「アラブの春」の先駆けとなった「ジャスミン革命」が起きた町である。バスから見る限り、静かな田舎町といった雰囲気しか感じられなかった。

《昨年のジャスミン革命を振り返る》
路上で果物・野菜を売る青年モハメド・ブアジジ(26歳)が、2010年12月17日無許可商売だとして警察に摘発され殴られたことをきっかけにして、イスラム教で禁じられている焼身自殺をしてしまったのである。
その映像がインターネットで流されると、若者の失業率が30%と高く貧困に喘いでいた市民に衝撃を与え、これに抗議したデモや暴動が起き、瞬く間に全国に広まって行った。

2011年1月になると、この市民の抗議運動はベンアリ大統領の23年間に及ぶ抑圧的な長期独裁政権に反対する運動になり、ついに大統領は1月14日サウジアラビアに亡命し、革命は成功したのだった。

やがてこれが引き金となって北アフリカのエジプト、リビアなどへ民主化革命が飛び火し、一連の「アラブの春」といわれる市民運動になったことは私達の記憶に新しい。

そしてこの影響は瞬時に情報が世界を駆け巡る様々なインターネットによって、北アフリカに留まらず世界的な規模に波及した。
ネットで「アラブの春」の影響を調べたら下の様になる。

政権を打倒した国は、エジプト(ムバーラク)、リビア(カダフィー)、イエメン(サーレハ)(イエメンの女性活動家ダワッフル・カルマン女史は2011年ノーベル平和賞を受賞した)
何らかの進展結実があった国は、アルジェリア、モロッコ、サウジアラビア、ヨルダン、レバノン、イラク、クエート、オマーン、バーレーン 
運動が継続中の国は、シリア 
政権側がデモを制圧した国は、ジブチ、モーリタニア、西サハラ、スーダン、ソマリア 
それ以外に影響が及んだ国は、中国、アメリカ、イスラエル、ロシア、アルバニア、イラン
これだけ世界中に影響を与えたジャスミン革命がチュニジアの田舎町から起きたことは、歴史に刻まれるだろう。モハメドさん、どこかで見ていてくれるかな。

移動中、バスから見た珍しい光景の一つは、道路のあちこちに18L入りのプラスチックタンクを積み上げて売っている人々の姿だった。ガイドに聞くと、隣国リビアから国境を越えて安いガソリンを売りに来た人々だという事だった。
二つ目は、道端の簡素な店に白い肉がぶら下げてあることだった。ガイドは、羊の肉を売っているのだと話した。(スピードがあるバスからの撮影なのでぼけている)

  

私達は地中海近くの「ガベス」のレストランでランチを採り、赤土だけの大地が広がるガベスの南西40kmにある中南部山岳地帯「マトマタ」に向かった。

 


コメント (5)
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「チュニジア」旅行(8)

2012年12月10日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ

《ローマ衰退後のカルタゴ》
ガイドブックを参考に、簡単にその後のカルタゴの歴史を見る。
カルタゴはローマ帝国第三の都市(第二はアレキサンドリア)として発展して行ったが、4世紀に入るとキリスト教徒が増え、キリスト教が公認されたという。
しかし、ローマ帝国は繁栄の陰で徐々に衰退しつつあった。

439年に北アフリカのバンダル族がカルタゴに侵入して王国を築いた
534年東ローマ(ビザンチン)帝国(395年東西に分かれたローマ帝国は、476年西ローマ帝国が滅亡する)がバンダル族を滅ぼした。
その後はしばらく誰にも支配されない時期が続くが、やがてサウジアラビアに起きたイスラム教が布教のために勢いを増し、30年程でアラビア半島、エジプトを支配する。
そして647年、東ローマ帝国の進駐軍は1万人のアラブ軍に破れたのだった。

669年にはアラブ軍は「ケロアン」に入りモスクを建てた後、西に進攻して行くが、
683年、北アフリカ原住民である「ベルベル人」と東ローマの連合軍に敗退し、「ケロアン」は「ベルベル人」の支配を受けた。

689年、アラブ軍が再びカルタゴを占領したが、「ベルベル人」との戦いは続いた。ついに701年「ベルベル人」達は「エルジェム」の「円形闘技場」に追い詰められ、自ら火を放って自滅したという。

その後、北アフリカの中心が「カルタゴ」から「ケロアン」に移されたため、「カルタゴ」は近郊に新たにできた町「チュニス」の建築資材供給庫となり、荒れ果てて行ったらしい。




では今回訪れた1700年前から首都として栄えた「ケロアン」の世界遺産を載せる。
(1)「グランドモスク」
640年に権力者ウクバによって建てられた最古のイスラム教モスク。再建、改修が何度か行われている。
右の写真は礼拝所だが、中央が男性の、そして左の仕切りの奥が女性用の礼拝所だ。

  

(2)「旧市街メデナ」
鷹さ8m、厚さ2mある4つの門で囲まれた東西1.3km、南北0.7kmの旧市街で、中心部は入り組んだ狭い路地が幾つもあった。
モロッコのメディナは規模が大きくごみごみしていたが、ここは電気、上下水道が通っていると言うことで遥かに清潔で気分が良かった。
朝行ったので、直径30cmもある丸く平たい形の「アラブパン」を売る屋台も出ていた。

  

       

  

(3)「シディ・サハブ・モスク」
ここは7世紀に建てられたモハメッドの同志で床屋だったという「アブ・ザマエル・ベラウィ」が眠る霊廟である。
17世紀になると、巡礼者の宿泊所やモスク、ミナレット、神学校が作られ聖地となった。
棺が置かれている霊廟には、信者以外は入れなかった。
(しかしである。霊廟の門番が身振りで私にカメラを渡せという。渡したら、棺や霊廟の内部を数枚写して返してくれた。最後に靴を脱いで入り口迄行けというのだ。私はつい入り口でVサインをして撮影して貰った。後で考えると聖地の棺前でVサインはやり過ぎたと思った。
カメラをくれた後、物欲しそうな素振りをするので、私は写真を確認後1DHのチップを渡した。彼は毎日そうしてチップを稼いでいるのだろう)

  

  



コメント (2)
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