花好き・旅好き女性のセカンドライフ  (ブログを始めて17年目)

幾つもの持病を持ちつつ伯母の介護をし、春~秋はガーデニ
ングと家庭菜園、その合間に旅行も楽しむ定年後の生活日記

今年の庭のバラ達(1)

2018年06月30日 | ガーデニング
この所、まるで本州の梅雨のような雨天や強風が続き、何時までも気温も低く、何時になったら薔薇が開花するのかと気を揉んでいた。
2~3日前からボツボツ開花し出していたが、今日は久し振りに太陽が照り、膨らんでいた蕾が一気に開花し出した。
こうなると、毎朝庭に出て、花を見回るのが楽しい。

まだ、蕾のままの木もあるが、今朝は開花した薔薇の写真を沢山撮ったので、何回かに分けて記事にする。
(1枚目は「ピエール・ド・ロンサール」の蕾)



 



                  

 


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伯母の脳梗塞、その後(7)

2018年06月27日 | 高齢期の生活
医師から伯母が「肺炎になって胸水が溜まっているので、当面は点滴栄養に切り替え、抗生物質と利尿剤を施す」と告げられたのは、6月15日だった。その後の伯母は、毎日ベッドに寝たきりで、点滴を受けていた。また、血液中の酸素濃度が低くなっているということで、常時、酸素も吸入されていた。
いつの間にかパンツ式のオムツを履かされているが、トイレは看護師に車椅子に乗せてもらって行き、自分でしているらしい。
一週間経った頃、肺炎が改善して来たらしく、リハビリの看護師の手で昼食を口から採り出した。しかし、食べる量が少ないので、栄養を点滴で取るのは続いている。

また、私と会話して分かったのだが、少し前のできごとを数日前から忘れ出した。例えば、シャワーをした事を3時間後には忘れているし、昼にご飯を食べたこともだ。
もう1ヶ月以上、入院生活が続いているので、脳の記憶力が衰えて来たのだろうか。

昨日行った時には、酸素吸入は外されていた。リハビリの看護師が、ベッドから起き上がったり、立ち上がったりする運動を少しさせていた。

医師から告げられたので、退院後、介護施設に入れないことを考えたら、今まで通院していた近所の個人病院へ転院できたら良いと考えた。
そこで直接行って事情を話すと、院長から転院の承諾を貰って嬉しかった。
でも、もう少しご飯が進むようになれば、老人病院に転院せずに、あるいは介護施設での生活もできるかも知れないのだ。
それにしても、脳梗塞と肺炎を併発したのに、肺炎の方は改善しつつあるのが喜ばしいし、伯母の生命力の強さを見せ付けられている

昨日から、医療系専門学校の実習生が来ているが、病院から伯母に実習生が担当する患者に成って欲しいと申し出があった。入院したばかりの時も頼まれて今回は2回目なので、その理由を看護師に聞いて見た。
すると「高齢なのに、会話ができるからだ。」と答えてくれた。成る程…

今日は朝から雨だ。また午後にでも見舞いに行って来たい。
                                     
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鼠の捕獲作戦 (二伸)

2018年06月25日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
先月17日に「粘着シート」でコンポストに侵入した鼠を一匹捕獲した事を記事に書いたが、実は他にもう一匹いたのだ。
その後、余っていた「粘着シート」2枚を使ったが鼠が濡らしてしまったようで捕獲に失敗した。
考えあぐねたまま日が経った。

6月15日、ホームセンターから「殺鼠剤入りの餌」を買って来て、その日の夕方、コンポストに3袋入れて置いた。
翌日恐る恐る蓋をあけて見ると、2袋が無くなっていた。
鼠は、餌を巣に持ち帰る習性があるらしいから、多分2袋を持ち帰ったのだろうと思った。

16日の夕方、また2袋入れて置くと、翌朝の17日には綺麗に無くなっていた。
翌日の18日も2個のコンポストに2袋ずつ置いた。翌朝はそのままあったが、20日の朝見たら、片方の2袋が無くなっていた。
また2袋置いたが、5日経っても全く取りに来ていない。
と言う事は、巣に合計6個持ち帰って食べて、薬が効いて死んだのではないかと想像できる。
だとしたらこれからはもう鼠の事を心配せずに、庭の雑草や花殻だけでなく台所の生ゴミもコンポストに入れる事ができる。

20個入りの殺鼠剤を買ったので、余った分は次回また鼠が出たら使おうと思う。
                             
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「オーストリア・ハンガリー・スロバキア3か国の旅」(11)

2018年06月23日 | 海外旅行「中央ヨーロッパ」
≪「センテンドレ」散策≫

首都「ブタペスト」から北に19kmと近い「センテンドレ」は、14世紀から商業で栄えたが、15世紀になると「オスマントルコ軍」の襲撃を逃れて来た「セルビア人」が移住地として移り住んだ町だ。
また、町は「ドナウ川」の川岸にあって、「セルビア」から真っ直ぐ北に向う「ドナウ川」が「スロヴァキア」と「ハンガリー」の国境沿いに西に折れ曲がる「ドナウベント」に近い。昔の「セルビア人」は、船で移住して来たのだろうか。
現在は人口が僅か2000人という小さな町だが、1920年代に芸術家達の集団が集まって来た事から、美術館が十数件もある。


                
町の通りには土産屋が並び、道の上まで飾り付けてあった。決して広くはない「中央広場」には、十字架が立っていた。



          

「中央広場」から奥に行くと階段があり「丘の上のカトリック教会」が建っていた。13世紀に建てられ1751年に改装された教会の祭壇は簡素だったが、静謐な雰囲気が溢れていた。子供達が遊んでいた。

 
                  

丘の下に降り、「中央広場」横の「セルビア正教会」にも行ったが、扉が閉まっていた。

          

仕方が無いので町の東側を流れる「ドナウ川」の河畔に行って見た。川と言うよりも小さな海の様な雰囲気だった。



「センテンドレ」の散策を終え、「ブタペスト」に向った。バスの中から「鎖橋」「王宮」「国会議事堂」などを見学してから、「漁夫の砦」に向った。
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雨続きの庭の花

2018年06月22日 | ガーデニング
6月9日から10日間以上も小雨や低温の日が続いた。
薔薇はさっぱり開花しないが、それでも開花している花がある。
今年最初に開花した薔薇は「ラジオタイムズ」。その翌日に赤白交じりの「センチメンタル」、そして名前が分からない、というか忘れてしまったピンク色の薔薇だ。
他の薔薇は、蕾が沢山膨らみ始めて来ているが、開花にはまだ数日かかるみたいだ。

 

            

他にはもう最後になって来た「ジャーマンアイリス」。今は、幾つかの気に入った色の球根だけを残して咲かせてある。

 

            

歩道横の「球リュウ??」が、茎も葉も硬いが花は小さくて可愛いし、北側に植えてある「タイツリソウ」は満開だ。

 

        

数種類ある「クレマチス」の中で、最初に開花したのがこれ。
「ジギタリス」も元気に立ち姿を誇っている。

  
  
            

「芍薬」は赤色が最初に開花した。今は薄ピンク色が咲き誇っている。 
今日は雨天でも強い花の写真を見て欲しい。

 

          
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「オーストリア・ハンガリー・スロバキア3か国の旅」(10)

2018年06月20日 | 海外旅行「中央ヨーロッパ」
≪「エステルゴム」散策≫

二つの町は共に「ブタペスト」の北側にある。5日目は朝から晴天で、最高気温は28~29度と予想されていた。
まず「ブタペスト」からバスで1時間半で「エステルゴム」に到着
この町にはカトリックの総本山の教会がある。
初代ハンガリー国王「イシュトバーン」が西暦1000年に「ドナウ川」を見渡すこの地で戴冠し、丘の上に「王宮」と「大聖堂」を築いた歴史を持つ。16世紀には、オスマントルコ軍の攻撃を受けている。

駐車場でバスを降り、添乗員について北側の「旧市街」方向に歩き出した。「バイチ・ジリンスキ通り」は緩い坂道で、その先には「王宮」と「大聖堂」があった。

①「大聖堂」
「大聖堂」は、高さ100m、直径53.5mのドームを持つ新古典様式の壮大な聖堂である。この国内最大の「大聖堂」は、カトリックの総本山でもある。
現在の建物は1822年から50年をかけて再建し、1856年の奉献儀式のミサでは、「リスト」が作曲した曲を演奏したという。



            

内部に入ると、窓から入った日の光が壁に反射して全体的に明るくなる様に造られている。祭壇の上部にある絵画「聖母マリアの昇天」は、イタリア人「グレゴレッティ」が描いた。最後の写真は、後部のパイプオルガン。



 

②「大聖堂」の庭から見た「ドナウ川」の眺め


(直ぐ下にあるのは「キリスト教博物館」

(「マーリア・ヴァレーリア橋」を渡ると、そこは「スロヴァキア」の国境の町「シュトロヴォ」だ。元の橋は第二次大戦で壊され、2001年に再建された)


新市街から運行しているのか、タイヤ式「観光列車」が走行していた。

      
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「オーストリア・ハンガリー・スロバキア3か国の旅」(9)

2018年06月18日 | 海外旅行「中央ヨーロッパ」
≪「ヘレンド」の町の磁器工房≫

「ティハニ」の町を出て、北に25km程の場所に小さな村がある。世界的な磁器ブランドの工場と博物館がある「ヘレンド」だ。
先ず工房のレストランで昼食を採った。テーブルによって図柄が異なる洋皿とナフキン入れがセットされていた。どの洋皿の図柄も繊細緻密画が描かれていて素晴らしかった。
その洋皿に食事が出たが、どれも美味しかった。(写真はテーブルのセッティングの一つと、私に出されたデザートのケーキ)



                 
 
その後、レストランの前にある「ヘレンド博物館」を見た。そこには1826年の創業以来の「ヘレンド」の歴史的な作品が展示されていた。
ガイドブックによると、1992年以来株式のほとんどは1000人程いる社員が持っていて、伝統的な製法やデザインを守っているそうだ。

 
 (博物館入り口)                   (前庭に置かれていた置物)

さらに「ヘレンド・ミニ工場」で、繊細な磁器の製作と絵付けを見学した。立派な売店もあり、高価な食器などを買い求めた人もいた。
私は既に食器棚が一杯だし、これからの生活にはもう高価な食器を必要としないなと考えて買わなかった。

≪「ヴェスヴレーム」散策≫

「ヘレンド」を出発後、30分で東隣にある「ヴェスヴレーム」の町に到着した。
この町は「イシュトヴァーン王」が「ギゼラ王妃」のために城を築き、王妃を住まわせた所だ。
先ず「火の見塔」が目に付いた。基礎部分は中世のものだが、上部はオスマン帝国の攻撃や1848年からの独立戦争で破壊されたのを、19世紀に再建したもの。



かって城があった旧市街は小高い丘の上にあり、入り口に造られた「英雄の門」をくぐって登って行った。この門は、民族紛争の戦いを終えた兵士達を迎えるために造られたという。

        

その先端は断崖絶壁の「展望台」になっていて、そこに「イシュトヴァーン王とギゼラ王妃の像」が旧市街を見守るように建てられていた。そこから見える町並みは絶景だった。遥か下の道を課外学習か何かで列をなして歩く小学生を見た。



 

また10世紀末に「ハンガリー」最初の司教区が置かれた町だが、18世紀にハプスブルグ家の攻撃によって破壊された歴史がある。
「大聖堂」は歴史的に王妃の戴冠式をする場所でもあるそうだ。前の広場に「三位一体の像」が聳えていた。



その他、1765年に建てられた①「大司教の館」②「ピアリスタ教会」の建物に目を引かれた。③「市庁舎」にも歴史を感じた。

              ① 



              ③

散策を終えてからその日のホテルがある首都「ブタペスト」まで、バスは北東に1時間半走った。
夕食はレストランだったが、ハンガリー料理の「グヤーシュ」(写真左)とデザートが供された。
書くのが遅くなったが「ハンガリー料理」の特徴は、「パプリカ」で味付けをする事だ。余り辛くない「パプリカ」の粉を使って、独特の風味を出した料理が多かった。

 

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「オーストリア・ハンガリー・スロバキア3か国の旅」(8)

2018年06月18日 | 海外旅行「中央ヨーロッパ」
≪「バラトン湖」湖畔の町「ティハニ」散策≫

前日は「ヘーヴィーズ」という温泉リゾートのヘルススパホテルに泊まった。
部屋が4階の角部屋だったので特に見晴らしが良かった。朝6時過ぎの日の出と共に徐々に明るくなって来たら、鬱蒼とした深い森、そこにたなびく白い霧の光景が実に幻想的だった。



           

ところで「ハンガリー」の西部中央に細長い大きな湖がある。ヨーロッパ最大の湖「バラトン湖」で、77km×170kmあり、面積300k㎡もあるので「ハンガリーの海」とも言われる。
その湖にイボの様に突き出た半島にある町が「ティハニ」だ。「ヘーヴィーズ」からバスで1時間45分で着いた。

駐車場でバスから降りると細めの上り坂の道があった。途中には「ラベンダー」の乾燥した花で作った土産物や、名産「パプリカ」の粉などを売っていた。下の方に日本で6年間生活した事があるという女性の店もあった。
私の庭にも「ラベンダー」が植えてある。今までは花が終ったら切って捨てていたが、これからはその花殻を摘んで布の袋に入れ、「ラベンダー」の香りを楽しもうかなと思った。

 
          
その「バッチャーニ通り」には独特な藁葺き屋根の家が数軒あったので、写真を写した。
今までもあちこちの国で同じ様なデザインの茅葺き屋根を見てきた。この窓は藁葺き屋根の内部の換気口として造られたものだ。換気口の窓が、まるで眼のようにも見える面白いデザインだ。



さらに坂を上って行くと、頂上に「修道院教会」があった。教会の前の広場から右手下方に瓦斯に霞む「バラトン湖」と船着場が見えた。

              



              


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伯母の脳梗塞、その後(6)

2018年06月17日 | 高齢期の生活
≪伯母は肺炎も起こしていた≫

一昨日、私から要請していた伯母の病状についての経過説明を、医師から受けた。
伯母の胸のX線撮影の結果を示しながら、『肺炎を起こしていて、左の肺に胸水が溜まっている事が分かったので、今、抗生剤と利尿剤を投与しているところだ』
また、『現在「点滴」で栄養を取って貰っているが、その内「経管栄養」に変える』という内容だった。

「経管栄養」について私から質問すると、鼻から胃まで管を入れて、栄養物を注入するのだそうだ。
今よりも体の負担が大きくなるのではないかと不安だが、『病院は肺炎を治す治療をし、栄養状態が安定したら「老人病院」へ移ることを進めたい』と話してくれた。
伯母は以前から、「胃ろう」など、特別な栄養の取り方はしたくないと言っていたので、医師にはそれを伝えた。

(看護師に「経管栄養」について聞くと、管は入れる時に少し苦しいし、約2週間ごとに取り替える必要があると教えてくれた)

医師の話が予想外の話だったので私は驚いたが、伯母にはその医師の話を伝えた。
伯母は「苦しいことになるなら嫌だ。」そして「もうそんなに長くはないと思う。長い間大変お世話になりました。」と私に言った。

医師と伯母の間に立つ私だが、あくまでも伯母の代理人として取りあえず伯母の気持ちを医師に伝え、「経管栄養」については「伯母ができるだけ苦しまなくても良いように、治療をして欲しい」とお願いして見ようと思っている。

今日の伯母は、右手首の関節炎の腫れが引き、痛みも軽くなった様だ。
また、長い時間ベッドに寝ているので、腰が痛いと言って起き上がったりしていた。
相変わらず私の姿は、ぼんやりとしか見えない様だった。
                                   
                          
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「オーストリア・ハンガリー・スロバキア3か国の旅」(7)

2018年06月17日 | 海外旅行「中央ヨーロッパ」
≪「クーゼフ」散策≫

「ショプロン」は「オーストリア」側にポコンと飛び出した町なので、散策後はまた「オーストリア」の領土を少しの間南に横切って「クーゼフ」に行った。こんなに簡単に何もせずに国境を出たり入ったりできるのは、EU共同体になったお陰なのだろうと思った。

「クーゼフ」は、人口15000人ほどの小さな町だが、「ハンガリーで最も美しく、最も小さい町」と言われているようだ。
この町の特徴は、堅固な城砦を築いたお陰で、1532年「オスマン帝国」の11回の攻撃から町を守った事だ。何でも数百人の軍が、10~28万人ものトルコ軍を退けたと言うのだ。そのために美しい中世の建物が今でも多く残っていることだろう。
この町に着く前から雨が降り出し、傘をさしての散策となった。



13世紀に小高い丘の上に築かれた「ユリシチ城」は、1777年の火災で被害を受けたという。私達は今回は立ち寄らなかった。

①「中央教会」
「中央広場」に聳える美しい教会は、ネオゴシック建築で、絵になる佇まいを見せていた。

 
                  


②「英雄の門」
この門は、1532年のオスマントルコ軍を撃退した記念に、1932年に建てられた。



③その他の建物

        
 (ユリシチ広場に建つ「聖イムレ教会」)
 
 (この町で最も古い後期ゴシック様式の「聖ヤコブ教会」)    (ここは何屋さん?)

 (14世紀の建造物、ゴシック建築の「市庁舎」)
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「オーストリア・ハンガリー・スロバキア3か国の旅」(6)

2018年06月16日 | 海外旅行「中央ヨーロッパ」
≪ハンガリーの西端の町「ショプロン」観光≫

「ショプロン」は、「オーストリア」国境から6kmの地点にあり、「オーストリア」側に張り出した人口5万人の西端の町だ。
オスマン帝国の襲撃を逃れたため、旧市街に中世の面影が残っている。
第一次世界大戦の敗北によって「オーストリア」領になる筈だったが、1921年の住民投票の結果、「ハンガリー」領として残ることを選んだ町だ。
ローマ時代から交通の要衝として発展し、ピアノ曲「ハンガリー狂詩曲」などを作曲した「フランツ・リスト」(1811~1886年)の生誕地でもある。「リスト」の曲は音を細かく並べてあって優美なので、私の好きな作曲家だ。
また現在は赤ワインの産地としても名高く、途中の景色には広大なブドウ畑がどこまでも広がっていた。



 
 (リストの像)              (新市街の道路脇に造られている噴水で遊ぶ少女)

①「火の見塔」
1409年にローマ時代の遺跡の上に造られたが、1676年の火災で焼失し、再建された。上部はバロック様式、時計は17世紀から動いている。
下の「忠誠の門」は、ハンガリーへの帰属を記念して造られたものだという。
(下の写真の左端の建物は「シュトルノの家」で、14世紀に建てられたもの。「マーチャーシュ王」も滞在した事があるらしい。右側の建物が「市庁舎」。いずれも中央広場に面している)



         

②「山羊教会」
「ハンガリー」でゴシック建築を代表する協会。13世紀後半、山羊飼いの男が山羊が掘り当てた埋蔵金を教会の建築費用にと寄付したためにこう呼ばれるようになったと言う。


 

教会の前の広場に「三位一体の像」があった。この像の多くは、どの町でもペスト流行の恐怖が収束したことを記念して建造されたものだ。

            
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「オーストリア・ハンガリー・スロバキア3か国の旅」(5)

2018年06月16日 | 海外旅行「中央ヨーロッパ」
≪「ハンガリー」という国≫

「ハンガリー」は、国土を「オーストリア」「スロベニア」「クロアチア」「セルビア」「ルーマニア」「ウクライナ」の6カ国に囲まれ、面積は日本の約1/4の国で、人口は994万人、首都は「ブタペスト」だ。
2004年にEUに加盟したが、通貨は当時の「オルバーン首相」の権限で今も「フォリント」を使っている。

ガイドブックによると、ハンガリー人は、ロシアのウラル山脈の麓に住んでいた「マジャル人」で、遊牧生活をしながら西に移動し、9世紀後半にハンガリーに住み着いたと言われている。アジア系の民族で、髪が黒く瞳も黒い。

歴史をみると、900年代に首長の「アールバード朝」がキリスト教を受け入れ、1000年には「イシュトヴァーン一世」がローマ教皇から王冠を戴き「ハンガリー国王」になった。
当時の「ハンガリー」は「スロバキア」「ルーマニア」「クロアチア」の一部を領土とする大国家だったが、1240年代になると「モンゴル軍」の攻撃を受ける。それ以降、多くの都市に城砦が築かれた。

しかし「ハンガリー」も他国に翻弄され、1526年、「ブダ」とその周辺部がオスマン帝国の直轄領になった。
1683年には「ハプスブルグ家」が「ブダ」を奪還、その後1699年になって「オスマン帝国」は「ハンガリー」から撤退して「ハプスブル家」の支配を受ける。1740年には「マリア・テレジア」がハンガリー女王になった。
1848年以来民族運動が活発化した。
1866年、プロイセン王国との戦争に負け、時の王「フランツ・ヨーゼフ一世」はハンガリー国会を承認し、オーストリアとハンガリーの二重帝国、「オーストリア=ハンガリー帝国」が誕生した。
「フランツ・ヨーゼフ一世」の妻「エリザベート」が1898年にスイスで暗殺され、1914年には甥の大公夫妻が暗殺されると、「セルビア」に宣戦布告をした。やがて、ドイツ、ロシアを巻き込んで第一次世界大戦へと進展していく。

1918年、戦争に敗北して二重帝国は崩壊し、1920年には「ハンガリー王国」が誕生するも、その後「トリアノン条約」で「チェコ」「スロヴァキア」「ルーマニア」などが割譲されて現在の国土になった。

1939年以降の第二次世界大戦では、「日独伊」の三国同盟に加盟したが、1944年ドイツに占領される。しかし翌年、ソ連により開放される。
1949年、ソ連のスターリン型社会主義国家「ハンガリー人民共和国」になる。
1953年スターリンが没すると、大規模な一党独裁政治への反発運動が起きた。この時、ソビエト軍がハンガリーに侵攻し、大勢の死者が出た。
1980年代のゴルバチョフ首相による「ペレストロイカ」で民主化運動が高まり、国名を「ハンガリー共和国」に変えた。

その後1999年、NATOに加盟、2004年にはEUに加盟した。
2012年12月、国名が「ハンガリー」に変った。
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伯母の脳梗塞、その後(5)

2018年06月13日 | 高齢期の生活
【伯母が口から食べられなくなって1週間】

伯母が今月6日の夕食で喉を詰まらせ、7日の朝食から栄養剤の点滴を受け続けて1週間になる。
私は1~2日で口からの普通の食事になるだろうと安易に思っていたのだが、違った。
口から食べられなくなったら、病院生活を続けなければならなくなるので心配だ。
さらに血中酸素の濃度が下がっているらしく、酸素も鼻に管をつけて補給されている。
このままだと「寝たきり」になりかねない。

一昨日行った時に、心配する私に伯母が「このまま終ってもいいよ。」と言ったので、私は「点滴でしっかりと栄養を取っているから、残念だけど終れないよ。」と言うと、伯母が笑った。
一番不安に思っているのは、伯母なのだと思った。

昨日は、右手首から上が赤黒く腫れて熱を持っていた。伯母が痛いというので、看護士詰め所に行って湿布をお願いした所、医師に連絡を取ってくれた。そして「関節炎」だと言い、湿布を貼ってくれた。
伯母には、「自分から言わないと、どこが痛いのか誰も分かってくれないから、何かあれば我慢しないで看護婦さんに言ってね。」と念を押した。

また、数日、パジャマを着替えていなかったので、昨日は点滴の最中だったが、看護師に頼んで着替えさせてもらった。看護師は、点滴の袋を上手に袖に通しながら脱がせ、また新たなシャツとパジャマを着せてくれた。さすがだと思った。

「介護保険の認定見直し」の申請は、入院後間も無くケアマネージャーが市役所に出してくれた。私も立ち会いたいと言ってあるが、いつその調査をするのかの連絡がまだ来ていない。先程、ケアマネージャーに電話した。
一応今月末迄は今の病院に置いてくれるが、その先がどうなるか、伯母の点滴が始ってから、不安な状況でいる。

                         
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「オーストリア・ハンガリー・スロバキア3か国の旅」(4)

2018年06月11日 | 海外旅行「中央ヨーロッパ」
≪「オーストリア」の世界遺産「グラーツ」観光≫

3日目はホテルを8時半に出て、1時間余り、人口25万人の町の世界遺産「グラーツ」旧市街の観光をした。
ガイドブックを見ると「グラーツ」の名は、スラブ語の「砦」を意味する「グラデク」から来ているらしい。
13世紀に「ハプスブルグ家」の「ルドルフ1世」が、それまでのスイスからオーストリアの「ウイーン」に首都を移したため、「グラーツ」は南部の中心都市として栄えた。
15世紀には「フリードリヒ3世」が居城を「グラーツ」と定め、王宮、大聖堂を造った。
その息子「マキシミリアン」は『戦争は他家に任せよ。幸多きオーストリア、汝結婚せよ』といい、欧州各地の名家との婚姻政策を進めて、やがてブルゴーニュ、スペイン、ポルトガル、ハンガリー、ボヘミアを手中に収めた。
大航海時代には、「太陽の沈まぬ国」と言われたが、19世紀、ナポレオンによって神聖ローマ帝国が滅び、更にプロイセンとの戦争に負けると、「ハプスブルグ家」には「オーストリア」だけが残された。
その後は文化活動を推し進め、ウイーン、グラーツなどの芸術都市を築き上げたという。

現在「グラーツ」は、中世から現代に至る「建築の町」「デザイン都市」としても世界遺産に指定されている。

①旧王宮の二重螺旋階段
15世紀に「フリードリヒ3世」が築いた王宮は現在は州議会場となっていて、この螺旋階段だけが残されているという。昇降時には左右のどちらも使えるが、階が変る所で1つに会う造りで「和解の階段」と言われている。



②「市庁舎」(ラートハウス)
16世紀にルネッサンス様式で建てられ、19世紀後半に新古典主義で改装された豪華な建物だ。前の「ハウプト広場」には「ヨハン大公像」がある。中庭には三層アーチ式の通路があった。「婚礼の間」は結婚式場になっているという。



     

③「大聖堂」
外観は質素だが、内部は15世紀のフレスコ画が描かれ、天井が高い。イナゴの大発生、戦争、黒死病などが続いたため、それらが無くなる様神に祈る絵もある。17~18世紀に内部がバロック様式に改修されたため、華やになった。
ミサが行われていて、写真は撮るのを遠慮した。



④歴史を残す数々の建物


         

⑤「ゲマルテスハウス」(兵器庫)
18世紀に「ヨハン・マイヤー」が、外壁にギリシャ神話、ローマ神話を題材としたフレスコ画を描いて飾ったという。傷みやすいフレスコ画が綺麗に残されていた。



「グラーツ」を出発後、「オーストリア」の国境を越えて隣国「ハンガリー」に入った。EU加盟国同士の国境には、EUと国名を表記した立て看板が立っているだけ。初めてこんな国境越えをした人は、チェックが何も無いのに驚いていた。
「ショプロン」の町には2時間半で着いた。
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伯母の脳梗塞、その後(4)

2018年06月10日 | 高齢期の生活
伯母が脳梗塞を発症してから2週間になる。
9日目までは2日に1回のリハビリにも前向きで取り組んでいて、家で生活していた時に近い歩くなどの運動能力を保持していた。
しかし、20日目になる今月6日、夕食時に喉が詰まりそうになったらしく、翌日の朝食から食べることを止めてベッドで栄養剤の点滴を受けていた。
それでもトイレは看護師に介助をして貰っているらしいが、それ以外はほぼ寝たきりだ。
この状態が何時まで続くのかは分からないが、これでは全身の筋肉が衰えて、伯母の活動力は無くなってしまうのではと私は気を揉んでいる。

また、私が伯母の前で「誰の顔か判る?」と聞くと「ぼんやりとしか見えない。」と答える。脳の障害がさらに進んでいるのだろうか。
6月8日にMRIの検査を受けたようなので、担当医師から状況を教えてもらいたいと思っている。

                   
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