花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

海外旅行「インド・ラジャスタン州」(11)

2020年03月15日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

旅の6日目の昼食後は、一旦ホテルに戻って3時間程休息を取った。暑い地域なので、昼間の高温になる時間帯は休むのだろう。

3時半にホテルからバスで「タール砂漠」に向った。途中は民家が何も無い砂漠地帯が続いた。

初めて村があった。休憩しているラクダと老人達がいた。トイレを借りてから今にも壊れそうな「ジープ」に分乗し、砂漠に向った。

      

町外れにコンクリートでできた「水汲み場」があって、女性が2人、水汲みをしていた。飛んで来る砂を防ぐためか、顔もスカーフで覆っていた。30mは離れていたと思うが、走る「ジープ」からシャッターを切った。インドでは水汲みの仕事は子供と女性と決まっていて、水汲みの為に学校へ行けない子供も多い。また、ここで野生の鹿や孔雀も見たが、走り去ったのでカメラでは撮れなかった。

「ジープ」は、砂丘が登りになっている場所ではギアを下げて一気に駆け上がった。ドアがないので、振り落とされるのではないかと心配だった。

    

ラクダのいる場所に着いた。希望者は1人確か3000円を払って30分ラクダで散策していたが、私はラクダに触れたくなくて乗らなかった。

      

このラクダ引きは子供だ。面と向かって写真を取っても良いか訪ねると、チップをくれるならと言われた。

静かに「タール砂漠」に夕日が沈んで行った。薄明かりの中を、また「ジープ」で村に戻り、ホテルに帰った。これで今回の「インド旅行」の全ては終わった。

     

翌朝は8時半にホテルを出て、バスは「ジョードプル」まで6時間走った。「デリー」行きの航空機は1時間遅れて16時に離陸。「デリー」からの「成田」行きも1時間15分遅れて出発したため、「成田国際空港」には1時間遅れて、3月1日の9時過ぎに到着した。北海道への乗り継ぎ便は、少し余裕を見た時刻で予約をしていたために無事に間に合った。

前夜から昼にかけて雪が降ったらしく、帰宅して見たら玄関前の雪を隣家の人が撥ねてくれていた。早速伺い、お礼をした。

私が旅に出られるのも、ご近所の協力があっての事なのだと改めて感謝した。それから2週間になるが、「コロナウイルス」対策で食料品の買い物以外では外出をしないようにしている。

また、日本人の入国を禁じた国が多数あり、「コロナ」が収束しないと次の旅行は考えられないと思う。

これで長かった「インド・ラジャスターン州」の旅行記が完成した。今回も記憶力の低下に愕然とさせられている。

今回は写真をできるだけ大きく掲載してみたが、どうだっただろうか。もしも中に、私の記憶違いがあれば、気づいた方は是非とも指摘して欲しい。

                                    (完 成)

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海外旅行「インド・ラジャスタン州」(10)

2020年03月15日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

「ジャイサルメール」は、隣国「パキスタン」との国境まで100kmほどしかなく、「タ-ル砂漠」の真ん中にある人口約8万人の町だ。

この町は、「ラージプート」の王「ジャイサル」が東西貿易の要所として12世紀に築いた都市国家だが、スエズ運河が開通し、「パキスタン」がインドから分離独立すると次第に貿易が衰退して、今では観光以外の収入が少ない貧しい町になってしまったという。

朝、バスで「カディサール湖」の船着場に行った。この湖も貯水池として造られたものだ。入り口に立派な門が立つが、上には「クリシュナ寺院」がある。

世界遺産「ジャイサルメール城」は黄色い砂岩で築かれていて、今でも旧市街には大勢の人達が暮らしている。

インド中で色々な動物が野生で暮らしているが、中でも牛が一番多い。資料によると、インドの牛乳・乳製品は品質が良く、生産量も世界第2位だというが、牛を飼う土地がない酪農家が多いので、放し飼いにされてしまうのだそうだ。雌牛は役立つが、牡牛は農耕以外は役立たないので捨てられることが多い。確かに見ると野良牛の大半は牡牛だった。(ヒンズー教では牛は神様なので殺したり食べたりはしない。多分、表向きだろうが)

路上で「ラクダの骨」を削って、人形の体を作っている人。布地の服を着せて売る。

      

「絨毯店」の入り口で、古い衣類や絨毯から使える部品を取り出してリサイクルしている年配の女性達。

女性の傍で、カーテンにタグを縫い付けている男性。

見晴らしが良いレストランで昼食に出された定食「ターリー」

          

 

 

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海外旅行「インド・ラジャスタン州」(9)

2020年03月14日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

前後するが、3日目の午後は、「ラクナプール」の壮大な「ジャイナ教寺院」を見学した。

私にとってこの宗教の寺院を見るのは初めてだった。寺院には靴を脱いで入る。中は写真撮影は禁止されていた。壁面にびっしりと宗教の教義をあらわす彫刻が掘られ、芸術的に見ても価値のある者だった。

次は「ウィキペディア」から、「ジャイナ教」をコピーしたものだ。

【ジャイナ教(ジャイナきょう、サンスクリット語: जैन、英: Jainism)は、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ、前6世紀-前5世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の禁戒を厳守するなど徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教。「ジナ教」とも呼ばれる。仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろして、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保っている。】

この宗教は、一切の殺生を禁じ、菜食主義を守る。小さな虫も殺さないし、卵も食べない。西洋の緩い菜食主義とは異なる。

5日目の午前中は、「ジャスサント・タダ」という霊廟を見学した。こちらは湖の傍の小高い丘に建っていて、規模は小さいが、マハラジャの「ジャスワント・スイン」を偲ぶために大理石で1899年に建造された。

どこで見ても、掃除をしたり水を汲んでいるのは女性だった。

しかも夏には50℃を越える気温になるというのに、女性だけは常に頭にスカーフを被っていなければならないし、民族服の巻き衣「サリー」は、体に巻くだけなので着崩れし易いだろうし、どう考えても日常着、労働着には相応しくないように私には思えた。しかも上流階級の女性は、汗を吸ってくれる涼しいコットンシルクの生地のサリーを着ていたが、貧しい階層の女性達は、汗を吸わないが価格が安いポリエステルなどの化学繊維を身に纏っていた。男性は下着やコットンの半ズボン、シャツ、また足はサンダル履きや裸足姿で活動的であり、涼しそうだった。

昨夜読んだ明石書店出版「現代インドを知るための60章」には、インドの伝統的な家族は「ヒンズー合同家族」だと書いてあった。息子達は親が決めた女性と結婚しても、財産を分ける事無く、親や兄弟姉妹、場合によっては親戚一族などと同居し、経済的にも合同の生活を続ける。

娘は相手家族に「持参金」を支払って結婚すれば、親の家を出て夫の親達と合同の家族の一員になるというものだ。だから家族人数は多く、いわゆる「嫁」は、夫とその親に服従し、夫の兄弟姉妹にも従わねばならないそうだ。その上、夫以外の男性がいる部屋や場所では、常にスカーフを被り、髪を隠さねばならない。

しかし近年、慣習的にカースト制はあっても中等学校を出たり、中にはカレッジやユニバースティなどに進む男女もいて、そうした高等教育を受けて経済力を持った若者の中には、恋愛をして親家族とは別に独立した家庭を持つ人達も増えて来ているそうだ。かっては無かったIT産業や医療関係などの職業につけば、「カースト制」があってもそれに縛られずに生きることができるので、IT教育、医学教育を受ける希望者が多いが、それには大変な高倍率を突破することが必要で、実際に進学できる人は限られている。今ではインドは、世界的にも有数の受験競争社会なのだ。

(この本は国別にシリーズで出版されていて、既に70冊を越えていると思う。どれも大学で専門に研究している教授たちが執筆しているので、内容は信頼できる。私は旅行先が決まったら図書館から借りて来て、事前に読むようにしている。)

          

「ジョードプル」見学後は、この州内では最西端の砂漠の町「ジャイサルメール」まで西方約287kmの距離を5時間半かけて走り、ホテルに着いた。

          

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海外旅行「インド・ラジャスタン州」(8)

2020年03月13日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

5日目は「タール砂漠」の入り口にある「ジョードプル」の旧市外にある「メヘラーンガル砦」と「ジャスサンド・タダ霊廟」に行った。

「メヘラーンガル砦」、1475年に「ラートール家」の王「ジョーダ」が、「マールワール王国」の首都として建造した町で、10kmの城砦が町を囲む。

高さ130mの岩山の上に、更に高さ36mの要塞が築かれている。今はマハラージャの所有だが、一部が博物館として公開されている。オーデオガイドを借りて見学した。

贅沢に飾り付けられた部屋。

屋上から町を見渡すと、「ジョードプル」が「青い町」と言われる訳となった青く塗られた壁の家が点在していた。

凝った装飾が施された吹き抜けの部屋。

その後、急な石畳の坂を下の「旧市街」まで下りた。斜面の道は狭く汚く、家々が斜面の両側に隣同士くっ付きあって建っていた。

そして、色々な商売を営む店が雑然と並んでいた。この狭い路地で風船を持った2人の7~8歳位の裸足の少女に「ピクチャー、ピクチャー」と声を掛けられ、ずっと付きまとわれた。写真を撮らせてチップを要求しているのだ。

ようやく平地に下りた。少し行くと広場になっていて、高い塔が立っていた。その場所から少し前に見学した「メヘラーンガル砦」が見えた。

 

広場の周りにまさにぎっしりと商店が軒を連ねていた。北インドは昔から織物産業が発達していた地域だったらしく、大小の絨毯やシルク製品の店が多く目に付いた。

広場を出て振り返ると、広場の入り口には立派な門が立っていた。

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海外旅行「インド・ラジャスタン州」(7)

2020年03月12日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

3日目は、「ウダイプール」のホテルを8時半に出てからバスで約100kmの距離を2時間半、、東北東の隣町「チットールガル」まで走った。この町を治めていた王が築いた「クンバルガー城」を見学するためだ。

出発後、町の人々の朝の風景に出会った。走るバスから見て写した一瞬の写真なので、何をしているところかは定かには分からなかった。

途中の山裾に豊かな小麦畑があり、4月の収穫を待っていた。小麦は年に2回収穫される。

8時近くに「クンバルガー」に到着した。そこでバスから降りて、オートリク車に乗り換えた。城まで7km乗るという。

細い道を暫く走ると、リク車から下ろされた。そこが「クンバルガー城」の撮影スポットだと教えられた。城は高さ150mの小高い山の上に建っていた。

この城砦は、「チットールガル城」が陥落した後、王「ラーナー・クンパ」は「ウダイプール」に逃げ落ち、そこを首都に決め、1443~1458年にこの城を建てて統治した。

オートリク車で登ったところに最初の分厚い「城門」があり、その前でオートリクシャーから降りて門内に入り、さらに私達は勾配が急な坂道を徒歩で暫く登った。

最初の門の「ラーム・ポール門」

少し登ると、水道が設置されてあり、右側に「シバ神の寺院」が建っていた。今も使われているようだった。

 

そこから上の城を見上げた。ブーゲンビレアが咲いていた。

更にツヅラ折に傾斜している道を登るとようやく山の頂上に出た。

  

廃墟の入口には、雨が少ないこの地方で、雨水を溜める装置があった。

  

     

小さい中庭に沿って、贅を凝らした居室があった。

      

更に城の屋上に上がると、遥か下に私達が通った道が見えた。

見学し終わり、城を出た時、中学生らしい一団が登って来た。見学に来たというより、体育の授業で軽登山をしているように思えた。

見学後、「ジョードプル」に戻り、ホテルに向った。

 

 

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海外旅行「インド・ラジャスタン州」(6)

2020年03月12日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

3日目、ボート遊覧を終えてから、世界遺産「チットールガル城」の見学に行った。

「チットールガル駅」周辺に小さな町があり、そこから「オートリク車」に乗って高さ150mの山に登った。そこに東西800m、南北2.5kmという広さに「チットールガル城」の遺跡とジャイナ教の寺院などが点在していた。

「チットールガル」は1567年までは「メーワール王国」の首都だった。しかし、14~16世紀に3度、イスラーム教徒軍に攻撃され、最後は女性達が名誉の自殺をし、兵士達も次々と倒れて行き、敗戦した。

女性達が下の町まで行くための近道だったという。

         

上から下を見下ろすと、数台のオートリク車が私達を待っていた。

「ストリンガー・チョーリ寺院」はジャイナ教の寺院だ。

「チットールガル城」から1kmほど離れた平地に1448年に建てられた9層、高さ37mの「勝利の塔」が立っていた。周りにはぐるりと繊細な彫刻が施されていた。

また、傍の崖下に貯水池も造られていた。この場所には野生の猿が沢山いた。

      

      

 

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海外旅行「インド・ラジャスタン州」(5)

2020年03月12日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

2日目は朝、「ビチョラー湖」に行き、ボートで遊覧した。

前にも書いたが、この湖は16世紀に直ぐ隣の町「チットーガル」を追われた王「ウダイ・スイン」が川を堰き止めて造った15k㎡ある人造湖だ。

私達は救命胴衣をつけて1艘の遊覧船に乗った。ほとんど波の無い穏やかさで、昨日見学した「シティパレス」を右に見ながらボートは北を目指した。

やがて湖の中に建つ「タージ・レイク・パレス」の周りを遠巻きに回った。ホテルの宿客者か、ホテルの端で水浴びをしていた。

  

            

やがて湖の南方にある小さな「島の宮殿」の桟橋に辿り着いた。そこで20分程休憩したが、この島でもお金持ちの結婚式の準備をしていた。

         

遊覧を終えて、私達は元の桟橋に戻った。

街中の昼食場所では、庭に大勢の外国人観光客が集っていて、ビュッフェスタイルのインド料理が提供された。日本人は私達だけだった。

     

昼食を終えてバスに乗ると、直前に沢山の人を乗せた軽トラックが走っていたので写真を撮った。インドでは、こんな乗り方は当たり前のようだった。バスもドアが開いたまま走っていた。

              

 

暫く行くと牛が走って来た。インドの牛はこういう体型をしているのが多かった。

 

 

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海外旅行「インド・ラジャスタン州」(4)

2020年03月10日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

前回書いたように、15k㎡の広さがある人造湖の「ビチャラート湖」の湖畔に、壮大な宮殿「シティパレス」が旧市街を見下ろして建っていた。大理石と御影石でできていた。数世紀に渡って「マハーラーニー」が住んでいたが、現在は一部が博物館に、また一部はホテルとして利用されているという。

博物館部分の数十箇所もの各部屋とベランダは、贅を凝らした作りになっていて、歴代マハラージャの権力と財力が伺えた。

この日は翌日この会場を借りて行われるという地元名士の結婚式があるという事で、飾りつけや電気の配線、舞台設置、楽団員達と大勢の労働者などが忙しく立ち働いていた。国内線の飛行機で近くに座っていた品の良い女性3人組も来ていた。インドの結婚式は数日間続き、富裕層は結婚式に大変なお金を掛けるのだそうだ。

(一方インドには、結婚する女性は一生分の「持参金」を相手の家族に渡さねばならず、そのために女性の親は家を売るなどしてお金を用意する習慣がある。ガイド氏の話では、それで悲しいかなインドの貧困層では、女児が産まれるとその場で殺してしまうことが多いと言う。妊娠中に女児だと分かると中絶もしていたが、数年前に法で禁止された。そのため、産まれた子供の男女比は、女児が極端に少ない。この時私は、「持参金」が少なかった花嫁の女性が再度「持参金」を期待する親族の人達によって殺された話が日本の本に出ていたと話した)

「ビチャラート湖」の傍の駐車場でバスを下りてから、傾斜する坂を上って「シティパレス」の入り口に行った。入り口の湖とは反対側には高い塀が築かれ、下に象の彫刻が配されていた。

入り口を入ると更に傾斜した道路が右に折れ、登るとそこは素敵な庭が作られていた。

      

大理石の建物に入るといくつもの部屋に分かれ、廊下のあちこちが飾られていた。

        

        

上層階には王の周りで暮らしていた大勢の女性が住んでいた部屋や広い庭、水浴びをする大きなプールがあった。

私は今までスペイン、トルコなどでも似た様な場所を見て来た。どこの国でも時の権力者によって多くの女性が自由を奪われ、辱められ、子供を産ませられて一定の場所から出る事ができなかった歴史の一場面を、また一つ眼の前に見た)

そして各部屋の窓からは、下にウダイプールの市街やビチョラー湖が眺められた。

国内外の王や高官を招いた時に使った広間の繊細な彫刻は、遠くヨーロッパやペルシャから職人を集めて造らせたそうだ。道理で私には、イスラーム建築の様式を思わせるようにも見えた。

 

                       

その日のホテルでスーツケースを部屋に届けてくれたポーター氏には笑わされた。50代前後と思われる男性のひげが、素晴らしくユニークだったからだ。ガイド氏に聞くと、このあたりの男性のお洒落の一つなのだそうだ。

            

 

 

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海外旅行「インド・ラジャスタン州」(3)

2020年03月10日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

2日目は、バスで再度空港に行く前に、ホテルの4階自室の裏側と玄関前で写真を撮った。

入り口には守衛が2人いて、写真を撮らせてくれた。前庭の花壇にはマリーゴールド、タチアオイなどが咲いていた。

ホテル前の道路は広い幹線道路らしく、乗用車バストラックの他にバイク、リキシャ、オート三輪などが客を乗せて走っていて、カメラを向けると手を上げてくれた。何回も見たいつもどおりのインドの光景だった。

              

2日目、「ニューデリー」の空港に戻って国内線のカウンターに行き、540km南西に位置し、ラジャスタン州の南端にある「ウダイプール」まで13時20分発のチケットを買った。搭乗時間は1時間15分。機内では、パックに入ったサンドイッチとオレンジジュースが出た。

「ウダイプール」到着後、新しく来た20人乗りの中型バスに乗り込んだ。インドのバスは、運転席と客席の間が仕切られていて、若い助手が1人乗っていた。私達の人数では十分な大きさだった。高速道路の中央分離帯には赤い「ブーゲンビレア」の並木が続いていた。たまに放し飼いの牛がいて、クラクションを鳴らされていた。

資料によると、この町は16世紀にムガル帝国の攻撃を受けて「チットーガール」からここへ郡を移したメーワールの王「ウダイ・スイン」が開いた山間の町で、彼は山間の多くの川を堰き止めて人造湖を作り、乾いた大地に灌漑をもたらした王だった。また彼はインド共和国成立まで独立を守り通した。

バスで「ウダイプール」の旧市街を通り、郊外にある「シティパレス」まで走った。バスから見た午後の旧市街は、以前に行った時とそれ程変らない市民の生活が見えた。

   

インドでは古来よりある厳格な身分制度「カースト」は法律上は廃止されたが、社会生活的にはまだまだ色濃くその影響が続いているという。そのためか貧富の差がとても激しい。

かっては日本の人口と同じ「1億人のホームレス」がいたというが、近年、最貧層には政府から助成金が出るようになったらしく、今回は前ほど多く見かけなかった。しかし、人が大勢行き交う路上の隅や郊外の水辺にそれらしい人達を見かけ、胸が痛んだ。今でも1日1ドル以下で暮らす人が1/3いるそうだ。

テント下で暮らす男性

この写真は、4日目「ジョードプル」に向う途中でバスから写したものだ。草原で敷物と囲いのビニールがあるだけで屋根はないところで大勢の家族が暮らしているらしかった。農村では多くの「季節労働者」を雇うというが、彼らもそうした家族なのだろうか。

 

 

 

 

 

 

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海外旅行「インド・ラジャスタン州」(2)

2020年03月09日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

「何もする事がない」、というよりは、新型コロナで外出もママならなず「何もできない」ので、まだ使っている手元のパソコンに「インド旅行」の続きを書くことにしたい。

1日目の夜6時(日本時間では9時半)に、10時間飛行した「エア・インデァ機」から降り、飛行場に向った。見たことが無いような大勢の人の群れに、改めて驚いた。人口13億人の国に降り立ったのだ。

先ず1人1人額に小型の体温計を向けて熱を測られた。無事に通過したので、入国管理場に向った。

今回のツアーは日本から添乗員が着かないツアーだった(その分、費用が少し安い)ので、どこに並んだら良いかが分からない。10箇所程ある場所には「インディア」の表示があり、そのどこもすでに数十人の人が並んでいる。「ジャパニーズ」の標示はどこかと探しながら数百人のインド人の後方をうろうろしていたら、「日本人はあっちだよ。」と誰かが言ってくれた。

周りを見渡すと、ガラス越しに「ビザ」と書かれたゲイトが見えたので行って、無事に入国を済ませた。(インドに入国するには6ヶ月有効な「ビザ」を取る必要があり、今回は参加者が自分の顔写真と個人情報の資料、パスポートを旅行会社に送ると、後は旅行社が取ってくれて、後日ビザが張られたパスポートが書留郵便で送られて来た。前回は自分で取ったが、これが結構大変だったのを思い出した)

その後、預けたスーツケースを受け取り、出口を出たら、インド人の現地ガイド氏が声を掛けてくれて合流できた。1番だったのだ。しかし、他の参加者がなかなか現れない。1番遅かった人は40分程も待ったが、聞くとごった返す「出入国管理場」にずっと並んでいたそうだ。

ガイド氏から、18人の予定だった参加者が最終的に10人を切った人数になったと聞かされた。多分「新型コロナ」の影響だろうと思った。今回は夫婦1組以外は、全て女性の1人参加だった。

暗くなったインドの首都「ニューデリー」をバスで20分程走り、「ウエルカムホテル ドワリカ」に到着。

このホテルは、円形の高層ホテルで、入り口は全て内側の廊下について居て、部屋は外側に配置されている造りだった。スーツケースはガイドに任せて、部屋に入った。部屋は4階で、広く清潔だった。

ホテルのレストランでインドで初めての夕食を食べた。「ナン」と「カレー料理」だった。

               

その夜は時差のために途中で目が覚めないように催眠薬を半分飲んでぐっすりと寝た。

 

 

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海外旅行「インド・ラジャスタン州」(1)

2020年03月07日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

事前にインド入国の「ビザ」を取得して、5回目で8日間のインド旅行をして来た。

行きは、2月22日に家を出発し、成田国際空港周辺のホテルで前泊。23日午前11時半に「エアーインデァ」航空機で成田空港を飛び立った。

機内はインド人でほぼ満員の乗客で、大半の人はマスクをしていたし、数人のアテンダントも全員厳重なマスク姿でサービスをしていたのには驚いた。機内は厳重に「コロナウイルス」対策が取られているように思えた。

今回の主な旅行地は、「ニューデリー」の西方「ラジャスターン州」だった。

この州はインドの中で面積が最大の州で、最西端は「西パキスタン」との長い国境線だ。人口は約6900万人。西へ行くほど砂漠地帯が広がっている。帰国は3月1日9時成田着だった。

インドは日本の8.7倍の国土面積がある広大な国だが、標準時は1つで、日本との時差は3時間半だ。

出発時の北海道の朝の気温は-3度、最高気温は2度程度だったが、10時間飛んでデリーの「インデラガンジー空港」に着くと、夜なのに気温は20度以上あり、街路樹として色とりどりの「ブーゲンビレア」や「夾竹桃」が咲いていた。

今は乾期なので、インドの旅行中は雨は1度も降らなかったが、最高気温は28~30度程度で快適だった。(3月になると急に暑くなり、真夏には50度を越す日もあるらしい)

帰国直前に現地ガイドから、「新型コロナウイルス」感染対策として、インド政府が日本人入国者に発給するヴィザを3月1日以降は出さないことが知らされた。インド滞在中は、13億人の人口の中に例え100人の感染者が居ても、まず接触する機会はないと安心していた。

(インドでは、本当のところ、感染者の情報は分からないといっても良いと思う。まだホームレスで路上の生活者は目に付くし、牛や犬、羊、ラクダなどの動物が、路上を我が物顔に行き交い、人や車はその隙間を縫って通行しているし、道路は動物や人間の排泄物で汚れている状況だ。大体、体調が悪くなってもどれだけの人がお金を払って病院に行くかが疑問だ)

しかし、帰国してから「新型コロナウイルス」の感染者が広範囲になっている日本の事情を知り、特に北海道が多いことに驚いた。

旅行中6回も混み合う飛行機に乗ったので、帰国後は、近所の人たちへの土産の持参も遠慮し、マスクをして珠に図書館や買い物に行っている。全国の学校が一斉に休校になったとか、公立図書館も休業している。私の市ではまだ感染者は出ていないが、今後どうなるか分からない不安はある。

1月に注文したパソコンもまだ届いていないので、インターネットに接続するのに気が引ける。

一昨日は北海道中大荒れで、道東など猛吹雪に見舞われた地域もあったが、今日は朝から晴天で、春のような日差しが降り注いでいるため、私は先ほど雪を早く溶かすために1時間弱、雪崩しをして広げた。気分が良かった。

どうか皆様にはお元気でこの大変な時期を無事に乗り越えて欲しい。

 ※写真「混沌とした北インドの街中の風景」

 

                                        

 

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「三回目のインド旅行」(14)

2014年03月05日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

《インドの課題を考える》

国境を接する国々との外交問題を抱える一方で、一旅行者の目から見ても、人口11.5億人の貧富の格差は拡大し、道路、電気、水道といったインフラ整備は遅れ、産業の発展の遅れ、教育機会の不平等などが目に付いた。

特に男性優位の社会体制は深刻な女性差別を生み、統計上の子どもの出生数すら女児はかなり少ない。
これは結婚時に女性は男性側から多額な持参金や品物(車、家、金銀、家財道具、バイク、家畜など)を要求される習慣があるが、持参金が少ないと暴力を振るわれたり、中には殺されたりもする(男性は次の結婚でまた持参金を得られるから)ので、女児を持ちたくないという親の考えに基づくらしい。
女性に比べ、良い教育を受けたり、公的な仕事に就いている将来性がある男性は、多額の持参金や高額な品を持参する女性と結婚できるそうだ。

大半の結婚は、同じカースト内で親同士が決める事が多い。
(不可触民や最低カーストに所属する男性は、結婚相手を見つけることが難しい。ヒンズー教の「結婚のきまり」によると、昔からそんな男性には「レイプ」を奨励している。「レイプ」の被害女性は、結果的に誰とも結婚できなくなってしまい、加害男性と結婚するしかなくなるからだという)

また中流階級以下の家庭の女性は、教育もされず、経済的な自立の道が閉ざされているので、結婚しないと生きて行けない。だから親は、娘がまだ思春期にならないうちに急いで結婚先を決めてしまいがちだという。かっては5~6歳の「幼児婚」も多かったが、現在では法律で禁じられたらしい。極端に年齢が異なる高齢男性に嫁がされる女性もまだ多いのだという。結婚時に親は結婚相手から娘の持参金を貰うが、そてはほとんどが親の借金返済や生活費で消えるらしい。

離婚した男性は再婚できるが、女性には再婚は認められない。

経済的には工学系大学の教育水準が高く、イギリスの植民地だった歴史から英語教育も進んでいるため、インドではIT産業が発展していると言われるが、インドに詳しい門倉貴史氏は著書で、「IT産業が発展しても、一部の富裕層が生まれるだけだ。経済的発展を裾野にまで広げて行くには、第2次産業を興す必要がある。」と書いている。

また、インドの歴史に詳しい山崎元一氏は著書で、「不可触民」は、ヒンズー教が維持して来た「カースト制」によって、ヒンズー教寺院内にも入れてもらえず、きれいな井戸水を汲むことも、貯水池を使う事もできない最下層に置かれて来た」と書いている。
そして、「アンベードカル」という人物の事を紹介している。

「アンベードカル」は、村の雑用をするカーストの「不可触民」に生まれたが、例外的に高等教育を受けた。
彼は独立後のネルー内閣で法務大臣に迎えられ、憲法起草委員会の委員長を務めた。1950年1月に施行された憲法17条では、「不可触民」を廃止し、「不可触民」差別は犯罪だと規定された。

また、彼はヒンズー教から仏教へ改宗する運動を起こしたという。
彼によると、仏教は「自由、平等、友愛に立つ宗教で、カースト差別を認めるヒンズー教に対抗して来た宗教だ」という。その時、改宗運動に賛同した「不可触民」が沢山出て、一時、急激に仏教徒が増えた。

ところが改宗した人たちは、ヒンズー教が行う地域の行事に参加しないため、様々な嫌がらせを受けたりして、改宗者はその後、増えなかった。
しかし、改宗した人たちは、「不可触民」の汚名がなくなったという意識を持ち、その後子どもの教育に力を入れているという。
現在インドの仏教徒は0.7%だが、教育を受けた低位カーストに生まれた若者の中で、現在仏教へ改宗する人が見られるらしい。

インドを3回旅行した一旅行者の私から見て、インドに生まれた全ての人々が安心して生きて行ける国になるための方策を、彼ら自身の手で一日も早く切り開いて行って欲しいと願うばかりだ。

(参考文献 「地球の歩き方 インド」、門倉貴史著 かんき出版「手にとるようにわかるインド」、辛島 昇著 朝日新聞社「南アジア」、中央公論社 世界の歴史3 山崎元一著「古代インドの文明と社会」)

  




今回は全部で12の世界遺産の観光を終えて、「アウランガバード」に戻った。
昼食を食べてから「デリー」行きの飛行機に乗り、「デリー」発21;15の「成田空港」行きに乗り継いで帰路に就いた。

出発は1時間半遅れたが、予定通り翌朝無事に「成田」に着き、そこからまた「新千歳空港」行きに乗り継いで無事に自宅に帰った。
帰宅したらインドの気温とは余りにも違う当地の気温だったが、数日で寒さにも慣れ、こうして何とか旅行記をまとめる事ができホッとしている。

多分、インドにはもう行くことはないと思うが、今回も宗教芸術の凄さ、信仰の力を感じた旅だった。
一方で垣間見たインドだが、伝えたい事が沢山あって、何をどの様に書くべきか悩んだ。
その結果としての今回のインド報告は、すっきりしないまとめ方になったが、如何だっただろうか。インドの世界遺産と現状を少し知って貰えただろうか。

長文の旅行記を読んでコメントをいただいた皆さんには、コメントが書く励みになり、とてもあり難かった。
勉強不足のため、記事に誤りがあるかも知れないが、気づいた方はどうか指摘して欲しい。 (完)

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「三回目のインド旅行」(13)

2014年03月04日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド
《イギリスの植民地から独立に至る経過》

最後にどうしてもインドの近代史を簡単にまとめて置きたくて、文が少し硬くなるが許して欲しい。

振り返ると、イギリスの支配が強まってからも、インド国内には何人もの王がいて、それぞれが支配する幾つもの国に分かれ、支持する宗教も異なり、互いに争いあっていた。
インド中が一つの力にまとまれない中で、イギリスの強権的で狡猾な植民地的支配が続いた。

1857年、イギリスの支配を不服とした「セポイ(イギリス東インド会社の傭兵)の反乱」が起きると、皇帝、僧侶、農民などを含む広範な大反乱に拡大して行った。
「セポイの反乱」のきっかけは、傭兵が渡された新しいライフル銃に使う火薬の包み紙を歯で切って使うようにイギリス人に指示されたが、その紙にはヒンズー教で禁じられている牛の脂やイスラム教で禁忌する「けがれた」豚の脂が沁み込んでいた。傭兵はそれに反対し、デリーを占拠し、「バハードゥル・シャー・ザファール」がインドの独立国君主だと宣言したのだった。しかし、この大反乱はイギリスに制圧された。

これを契機にイギリスは、1858年「インド統治改善法」を発布してインドの直接統治を決定したのだった。これにより「バハードゥル・シャー・ザファール」を廃位し、「ムガール帝国」は滅亡した。

19世紀末になると、インド人エリート達を中心に政治への参加、民族自決の意識が高まり、「国民会議派」が結成された。
やがて独立運動を目指して兵士の氾濫が起きたが、イギリスに弾圧された。
20世紀になると独立派が多いベンガル州の分割を意図したイギリスに反対して、イギリス製品のボイコット、国産品の愛用を決めた独立運動が広がった。
イギリスが運動を弾圧する中で、イスラム教の新しい会派が生まれたり、「国民会議派」が分裂したりした。

そんな中、「モハンダス・カラムチャンド・ガンジー」が1922年、『非暴力と不服従』をスローガンにして始めた運動は、やがてイギリスからの独立を目指す大衆運動になって行った。
中でも1930年にガンジーが始めた「塩の行進」は、イギリス植民地政府が製塩の専売権を持ち、一般人に海水から塩の製塩を禁じた法律に反対して「ガンジー」が先頭になり遠い海まで行進し、塩を作ろうとしたもので、多くの人々が示威行進に参加したのだった。
こうした大衆運動によって、ついに1947年8月15日、イギリスは「インドの独立を容認」した。初代首相には「ネルー」が選ばれた。

独立までの粘り強い運動の歴史を持つインドだが、宗教的な対立は根深く、独立時にイスラム教信仰者が多い北西部と北東部は「パキスタン」として分離独立してしまった。
さらにその後の1971年、東パキスタンは「バングラディシュ」としてパキスタンより独立した。

その後もインドとパキスタンの間には緊張関係が続き、中国との国境を巡る摩擦も終ってはいない。

        
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「三回目のインド旅行」(12)

2014年03月03日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド
今日はひな祭り。娘が生まれた時に求めた雛飾りの7段セットは、ここ数年飾っていない。転勤族の娘は、就職して以来、家を出て行ったので、私では飾ったとしても片付けるのが大変だからだ。
今日はお汁粉でも作って食べようかな。それとも滅多に造らない散らし寿司でも作ろうか。
明日は旧友と久し振りに会うことになっているので、手土産は何にしようか考えている。




《エローラ石窟寺院》

ついに旅行も8日目となって最終日を迎えた。
2泊した「アウランバード」のホテルに別れを告げ、スーツケースを積み込んだバスに乗った。
そこから西北西に60km程行くと、今回の旅のハイライト「エローラ石窟寺院」があるのだ。

途中バスが止まった。
降りると古い城跡が見えるという。写真撮影だけをしてバスに戻るよう言われた。
私がグループから少し離れた所で写真を写していた時、不意に絵葉書売りの男性に腕を捕まれ、1m程引っ張られたのでとても驚いた。
振り返って見たら、動物か何かの排泄物がどっさりあったのだ。その男性は、カメラを覗いていて排泄物に気づかない私を救ってくれたのだろう。
バスは直ぐに出発したが、もう少し時間があればその人の絵葉書を買ったのにと悔やんだ。

さらに数十キロ進むと小山が見えて来た。バスを降りて少し歩いた。
前日に「アジャンタ石窟寺院」で見たのと同様の石窟が見えて来た。ここには全部で34の石窟が1.5km程の岩山の壁面に掘られている。
その内の第1~12窟は「仏教石窟群」で、第13~29窟は「ヒンズー教石窟群」、第30~34窟は「ジャイナ教石窟群」なのだ。
「仏教石窟群」は7~8世紀に、「ヒンズー教石窟群」は6~9世紀に、「ジャイナ教石窟群」は9世紀頃に掘られたものらしい。

私達はその中のいくつかの代表的な石窟の内部を見た。
最初は「仏教石窟群」を見たが、内部に何も無い洞窟は、穀物などの食糧庫だったらしい。柱は岩山を支えるのではなく、単なる装飾として掘り出されて作られたものだ。





大勢のインド人観光客が来ていた。素敵なサリーを着ていた年配女性に、写真を撮らせてもらった。お礼に旅行中バッグに入れて持ち歩いている完成間近まで折った折り紙のツルを、手早く彼女の目の前で仕上げて差し出した。
その時、別の女性グループも寄って来て興味深そうに見ていたので、もう一つ仕上げて1人の人に渡したらとても喜んでくれた。
彼女達とはヒンズー教寺院でまた会ったので、写真を撮らせてもらった。



「ヒンズー教石窟群」は少し離れた所にあった。そこに行く途中に野生の猿がいた。



代表的な石窟寺院を見たが、やはり何と言っても驚いたのは第16窟「ヒンズー教石窟寺院」の「カイラーサナータ寺院」だった。
仏教が衰退する中、勢力を強めたヒンズー教だったが、僧達の修行の場ではなく、ヒンズーの神々を祀るために造られた寺院なのだ。
巨大な岩山を山の上と脇面から100年の歳月をかけて少しずつ内部に掘り進み、奥行き81m、幅47m、高さ(深さ)33mの空間内に、塔門、17mの柱頭、前殿、本殿などを掘り出して建造した寺院なのだった。

 

 

 

 

前殿の入り口から入り、明かりが無く暗い室を奥の本殿に進むと、狭い空間にヒンズー教が信仰する「リンガ」が置かれていた。
ガネーシャ神の乗り物の象も幾つもあった。スポンサーだった王達の財力と威信、そして百年間、巨大な岩山にノミ一つで挑戦し、数々の素晴らしい石造彫刻を作り出した人々の熱意、信仰心を想像し、圧倒された。

(山の上に行って、下の寺院全体を見たかったが予定に無く、叶わなかった。最後の写真は、入り口の裏側に作られていた「ベランダ」の上に行って撮ったものだ)

 




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「三回目のインド旅行」(11)

2014年03月01日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド
《アウランガバード市内観光》

「アジャンター石窟寺院」から町に戻って昼食を食べた後、市内観光に出かけた。
その中の1つが「ビービー・カ・マクバル」だった。(「マクバル」は、墓の意味)

「アウランガバード」の町の名を聞くだけで、「タージ・マハール」を建てた父を幽閉して王位を奪った第6代「アウラングゼーブ帝」を思い浮かべるだろう。
彼はデカンの太守だった関係でこの地名がついた。
そして彼の息子「アザム・シャー」は、1678年に母の「ラビア・ドゥラーン」を埋葬するための廟を建ててこの地に残した。

形は「タージ・マハール」をモデルにしたらしいが、財政的に厳しかったらしく、廟の規模はかなり小さい。大理石はドームと墓標の周りだけに使われている。
また背後には川がない代わりに庭園が造られていた。

もし、まだ「タージ・マハール」を見ていない人がこの「ビービー・カ・マクバラ」を見たら、その美しさに感動するだろうと思った。異教徒やその教会には残虐だった彼の息子が、祖父王に習って母を祀るこんな廟を建てた事が面白い。
2階の回廊から下を見ると、1階に墓があって、上から投げたお金が散乱していた。







女子小学生のグループが引率されて見学に来ていた。私達を見ると、競い合うように寄って来て英語で話しかけ、写真を撮ってほしいと言う。デジカメで撮った写真を見せてもらうのが嬉しいらしかった。

台座の後部から見た夕方のデカン高原の風景は特別だった。


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