花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

一日で100万円を使い切る方法

2016年03月10日 | 高齢期の生活全般

体が動く内なら、少し豪華な海外旅行のツアー参加を申し込み、支払ってしまうと1日でなくなる。

また、普段世話になっている子どもに、生前贈与する。
1年間に110万円以内なら贈与税がかからないそうなので、良い方法かも知れない。

しかし、渡してしまったら子どもは世話をしなくなってしまうかも知れないという心配は伴うが。これ位の金額ではそうはならないだろうとも思う。疑心暗鬼…
                

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私の大雪の対策

2016年03月10日 | 高齢期の生活全般

ここへ来て年齢的に体力が低下し出したので、1年ほど前から、あまり積もり過ぎない内に小まめに除雪をするようにしている。
1日で50cmも降り続くと、3回ほどに分けて除雪をする。また、雪が降り続くと、夜10時頃、最後の除雪をしてから寝る事もある。

除雪の道具も大切で、冬の間は軽いプラスチック製ショベル、ママさんダンプ、金属製角型スコップ、長靴を直ぐに取り出せる場所に常備している。
これから雪解けが始ると、氷割りのための重いツルハシも必要だ。

私は高校生まで豪雪地帯の実家で生活していた。家は平屋で大きかった。その家の屋根の雪下ろしが私の仕事だったので、当時は安全ロープもヘルメットもないまま滑りやすいトタン屋根に上がって雪下ろしをしていた。滑って下に落ちた私の傍に、遅れてスコップが落ちて来て、冷や汗をかいたことも数回ある。
屋根から雪を下ろしたら軒先まで雪が積もる。それでは室内が真っ暗なので、今度は窓のガラスを覆った雪を撥ねて窓を明るくする仕事に取り掛かるのだ。窓の数は10個程だったが、本当に大変だった事を思い出す。

最近は、大雪情報が出ると車で遠出するのは控える。
遠距離通勤していた時は、車内に毛布、剣先スコップ、バッテリー接続用ケーブル、牽引ロープ、長靴、厚手の手袋、携帯カイロなども常備していた。ガソリンは少し多めに入れて置く。それと携帯電話は今や必需品だね。

冬場、買い物に出られなくなる事を考え、家には最低3日間ほどの食糧は備蓄している。
パックのご飯、乾麺、缶詰類、保存が効く野菜、菓子類などが中心。
それと何より大切なのは、燃料を切らさないことだ。北国で暖房がないと生きて行かれないだろうから。
停電することも考え、ポット式の電気が要らない石油ストーブ、携帯ガスコンロも一応用意している。
それとソーラー充電の他、手回し発電もできる小型携帯ラジオも買ったが、毎日窓辺で使っている。
                

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ブログを始めて良かった事

2016年03月10日 | 高齢期の生活全般

私がブログに関心を持ったのは、思いがけなく分かった病気の治療中、ある同病のブログ投稿者の記事を読み、病気の進行、治療の仕方、治癒の経過などを知って自分に見通しが持てるようになった事が大きいと思う。
自分でも書きたいと思うようになったのは、治療中は体力が落ち脱毛もして、外出がままならなくなった事で、ほとんどの時間を家にいる様になり、気力の低下を防ぐために何かしたい、またできれば自分も何か生きた証を形に残したいと考える様になったからだ。

良かったと思うのは、まず、毎日の生活にメリハリがつき、気持の上で張り合いができて前向きになった事が上げられる。特に書いた記事にコメントが来ると、とても嬉しくなるし、くれた方との交流も記事の上だけだとしても人間関係が広がり楽しい。(以前にはわざわざ遠くから私を訪ねて来てくれたブログの友人もいた)

また、記事を書く様になってからは、ものの見方が変わった様に思う。
それまで見逃していた事も、記事になるかも知れないと考え、きちんと見るようになったのではないかと思う。

さらに表面的な事だけではなく、物事の奥に隠れているものも知りたくなった事、さらに、いい加減なことを書いてはいけないので、できるだけ正しく物を見ようとしたり調べたりするようになった事も上げられる。

私の主な記事は、今の所、ガーデニングと旅行位しかないが、幾つになっても好奇心を失わずに活動的な生活をしたいと願っている。
それには健康維持が基本なので、年々年を重ねて行くが、今後もしばらくは元気で生活したいと願っている。
                  

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海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(8)

2016年03月10日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

≪「シンガポール」の歴史概略≫

ガイドブック「地球の歩き方ーシンガポール」に略年譜が載っていた。それによると、
 14世紀  港町トゥマセクが史料に登場
 14世紀末 トゥマセク、シンガポールと改称
 1613年 シンガプーラ、ポルトガルに焼打ちされ壊滅
 1819年 ラッフルズ、シンガポールにイギリス東インド会社の中継港建設開始
 1832年 ペナン、マラッカと合わせたイギリスの海峡植民地の首都になる
 1858年 海峡植民地がイギリス政府の直轄となる
 1942年 日本軍、シンガポールを占領
 1945年 日本敗戦、シンガポール再度イギリス直轄領となる
 1955年 選挙でイギリスからの部分自治政府成立。
       将来の独立に向け、英語の他に中国語、マレー語、タミール語を公用語にし、それまで民族毎に経営していた学校を全て平等に扱う事にする
 1957年 シンガポール市民権法制定
 1959年 総選挙で完全自治に移行。人民行動党(PAP)のリー・クアンユーが首相に
 1963年 マラヤと合併し、マレーシアの一州となる
 1965年 マレーシアがら独立、シンガポール共和国成立 1967年 5カ国で「ASEAN」(東南アジア諸国連合)結成
 1990年 リー・クアンユー、31年間の首相職辞任

日本軍が占領していた3年半、シンガポールは「昭南島」と呼ばれ、貿易の停滞によって、職業、食糧、物資の不足、インフレが進行して住民は苦しんだという。また、民族を平等に扱わなかったため、民族対立もふかまったらしい。
1955年に部分自治政府ができると、国民統合の政策を進めた。

1965年、「バンコク宣言」で、シンガポール、マレーシア、タイ、インドネシア、フィリピンの5カ国が「ASEAN」を結成した。1984年、ブルネイが加盟した後、カンボジャ、ベトナム、ミャンマー、ラオスも加盟を果たして、現在は10カ国になった。

ガイドブックによると、独立当時、最大の課題だった失業率の高さは、外国企業の投資と誘致を進めて乗り切り、1972年頃には解消。その後、経済発展に伴って労働力不足が起きたが、外国人労働者で補い、驚異的な経済発展を実現した。この間、日本の企業進出も進んだ。
また政府は、それまで民族毎に居住区が異なる「カンボン」(集落)に住んでいた住民を、1970年頃からは高層の公団住宅を建て、そこで色々な民族出身の家族が混ざって住む政策を推進し、民族の融和を図った。
さらに英語教育が普及するに伴い、他の民族の言語を教える学校が少なくなって行ったという。近年は民族文化の伝統を守る意味で、他民族の言語教育も復活させているらしい。

            
                   

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