これからの夏に備えて、昭和レトロを含む2台の扇風機を綺麗に掃除しました。扇風機をしまう秋に綺麗にすべきでしたが、さぼってしまい今日になってしまいました。古く昭和レトロな扇風機は、家内の亡くなった母親にいただいたものです。本体に東京芝浦電気と記名されています。今の東芝のことです。おそらく昭和20年代に製造された扇風機だと思います。レトロながら今でも涼しい風を送ってくれる貴重な扇風機です。
左は20年位前に購入の扇風機、右は昭和レトロの扇風機
最初に昭和レトロな扇風機の掃除をしました。この扇風機は、プロペラだけプラスチック製で他はすべて鉄製です。スイッチもレトロで、ボタンスイッチではなくロータリースイッチです。止,1,2,3の4段階です。面白いのは、扇風機の背後に柱に掛けるための突起が付いていることです。柱に扇風機を掛けて上から風を送ることができるのです。壁掛け扇風機になるのです。
ロータリースイッチ 壁掛け用の突起 注油するための穴
さらに面白いのは油をさす穴があることです。今の扇風機は注油が必要ないモーターを使っていますが、当時のモーターは定期的に油をさす必要があったのです。油をささないでいるとモーターが発熱します。そのため、油をささず使い続けていると運が悪いと発火することがあるのです。私は定期的に油をさして、この愛すべき昭和レトロな扇風機を今でも使っています。
プロペラ以外はすべて鉄製 濡れたタオルで丁寧に掃除
ところで、20年位前に購入した扇風機も並行して使用しています。その新しい扇風機も掃除しました。この扇風機はもちろん注油の必要がありません。また、1/fと呼ばれる揺れるような涼風を送ることができます。涼風の時はとても静かです。そのため、仕事中は昭和レトロな扇風機を使い、寝る時は静かなこの扇風機を使っています。パソコンやテレビは10年もしないうちに使えなくなったり壊れてしまいます。新製品ほど壊れやすいなんて、電化製品は進歩ではなく退化していると思います。
プロペラを取り外し ガードを取り外し 掃除後組み立て
このところまったく雨が降りません。そのため、種をまいてもなかなか発芽せず気をもむ毎日です。数日後に雨が降るとの予報のため、洋綿(バルバゼンセ)と紅花の種まきをしました。まずは耕耘機で種まきをする畑を耕耘しました。10日ばかり前に耕耘しておいたので、今回は種まきする筋をつける意味で丁寧に耕耘しました。その耕耘跡を畝として種をまきました。なお、畝幅に沿って巻き尺を引いておきました。
紅花と洋綿の種をまく畝を、巻き尺に沿って丁寧に耕耘
種まきする筋を付け終わると、初めに紅花の種をまきました。去年収穫した紅花から取った種をまきました。なお、紅花のがくには棘があります。そのため、手で揉んで採種することができません。木槌で叩いて種を取りました。ヒマワリの種を小さくしたような形をしており白色です。手でつかんで筋まきしました。
木槌で叩いて採種 紅花の白い種 畝筋に沿って筋まき
紅花の種まきが終わると、洋綿(バルバゼンセ)の種まきをしました。色違いの綿は区別できるのですが、白い和綿と白い洋綿はとても間違えやすいため気を付けています。和綿か洋綿か分からなくなった場合は遠慮なく廃棄しています。今回種をまいた洋綿(バルバゼンセ)は木箱に入れています。和綿は紙袋に保管しています。さて、まだ種をまいていないのは緑綿です。明日か明後日に耕耘して種をまこうと思います。
洋綿(バルバゼンセ)保管用の木箱 除草しやすさを考え1m間隔で種まき
晩秋に種まきをして、2月につるが巻き付けるように支柱を立てた絹さやエンドウ豆とグリーピースが収獲のピークを迎えました。絹さやエンドウ豆はすでに先週から収穫し続けています。ところが、綿の種まきやその準備のために収穫が中断してしまいました。そのため、絹さやエンドウ豆は鞘が大きくなり過ぎてしまいました。さらに、鞘の豆がグリーンピースのように膨らんでいるものがありました。今回、急いで全数を収穫しました。
すべての絹さやエンドウ豆を急いで収穫
同じ支柱の北半分にはグリーンピースが茂っています。これまたたくさんの鞘ができていました。丸々と太った鞘を一つ割ってみました。すると、美味しそうなグリーンビスが綺麗に並んでいました。今すぐにでも食べることができそうです。これまたたくさん収穫しました。絹さやエンドウ豆は収穫がピークですが、グリーンピースは来週がピークのようです。
グリーンピースの鞘 ボールに収穫 綺麗に並んだ豆
絹さやエンドウ豆もグリーンピースも、婆様と二人だけでは食べきることができません。そのため、友達に差し上げることにしました。ところが、この季節になるとどこも同じようにたくさん収穫しているようです。差し上げる方を探すのに一苦労します。夕方近くなってようやくもらっていただける方を見つけました。私の欠点なのですが、我家の食べる量に合わせて作物を栽培することができません。食べきることができず廃棄する野菜が少なくないのです。
収獲中の絹さやエンドウ豆 あふれるばかりの絹さやエンドウ豆
和綿の種まき、藍苗の植え付け、茶綿の種まき、そしてサツマイモ苗の植え付けを終えると、みなさんと木陰で休憩しました。寒い冬や初春の休憩は室内でしたが、さすがに初夏近くなると、野外での休憩が快適です。あらかじめ、木陰に置いたテーブル,椅子,シートで休憩しました。全員の方がテーブルに座ることができれば良かったのですが、数人の方にはシートに座っていただきました。お手製の美味しいおやつを食べながら、楽しい休憩時間が過ぎていきました。
木陰に用意したテーブル,椅子,シートに座り、楽しい休憩時間
楽しいおやつタイムが終わると、近くの公会堂に移動しました。そして、いつものようにコットン作業をしました。私は、息子のお嫁さんにポケットティッシュ袋を試作してもらいました。手回しミシンの調子が悪かったので、今後の対策が必要なことが分かりました。みなさんは、各自好きな作業をしていました。
美味しかった手作りおやつ チャルカの糸紡ぎを見学 我家に戻り桃の袋掛け
息子夫婦に我家の桃の袋掛けを手伝ってもらうため、私はコットンクラブを早めに切り上げました。我家に戻ると、息子のお嫁さんの実家に送る葉付きタマネギ,絹さやエンドウ,ニンニクの花芽などを収穫しました。その後、コットンクラブの荷物を持って来ていただいた方と一緒に桃の袋掛けをしました。桃の傍に、この冬に枝をだいぶ落としたビワがあります。その残った枝に何粒もの実がなっていました。ついでに、そのビワの実にも袋掛けしておきました。夏になれば、熟した美味しい桃を収穫したり美味しいビワを収穫することができると思います。
桃の袋掛けをしていただいた方々 袋掛けしたビワの実
今日も忙しい一日でした。午前中は、とある小学校の工作室で少年少女発明クラブの活動がありました。自分が作りたい工作の図面や説明文を書き終わった子供達は、さっそく工作を開始していました。材料を探したり、ノコギリで木を切ったり、ハサミで紙を切ったり・・・・独楽鼠のように子供達は動き回っていました。正午は、久しぶりに東京からやってきた息子夫婦を迎えに行きました。注文していた昼食用のお寿司を受け取ってから我家に向かいました。家に着くと、婆様,私,息子夫婦の4人で和気あいあいに談笑しました。
田布施コットンクラブの仲間達と和綿の種まき(株間1m)
午後からは、いつもの田布施コットンクラブのメンバーが集まって、和綿と洋綿の種まきをしたり、藍やサツマイモの苗を植え付けたりしました。息子夫婦も参加しました。10人以上のメンバーが集まるため、畑の木陰にあらかじめ休憩コーナーを作っておきました。脚の悪いメンバーのため椅子とテーブルを用意しておきました。そして、地面に座れる方のためにブルーシートを敷いておきました。さらに、飲物やお菓子類を置くためのテーブルも用意しておきました。
少年少女発明クラブの工作 婆様と息子夫婦 晴天の中で綿の種まき
午後1時から綿の種まきを始めました。たくさんのメンバーが集まったため、種まき作業を分業にしました。最初の人は移植ごてで種をまく浅い穴を開けました。2人目はその浅い穴に6粒程の綿の種をまき、3人目は種をまいた穴に深さ2cm位に土を被せました。400粒近い綿の種をまきましたが、だいぶ種が余りました。余った種は予備として保存しましたが、欲しい方には何粒か差し上げました。
二人仲良く綿の種まき みんなで藍の苗を植え付け
和綿の種まきが終わると、藍の苗を植え付けました。カラカラに土が乾いていたため、植え付け後にジョロで水をまいておきました。藍の苗の植え付けが終わると、洋綿(茶)の種まきをしました。続いてサツマイモの苗を植え付けました。黒マルチをしましたが太陽の熱で苗が焼けるため、刈り取った雑草の草をかけておきました。これで種まきや苗の植え付けが終わりました。続いて、畑の木陰で休憩タイムとしました。種まきや苗の植え付けをしていただいた方々、お疲れ様でした。
綿の種まきと藍の苗の植え付けと並行して、サツマイモ苗の植え付け
今年もリネンの紫色の綺麗な花が咲き始めました。去年も花が咲いたのですが、種を取っただけで繊維は取れずじまいでした。麻のように茎をからからに乾かして繊維を取るのかと思っていました。しかし、カラカラに乾かすと茎がカチカチに硬くて繊維どころではありませんでした。茎と一緒に繊維ががバラバラになるのです。そこで、カラムシのように青茎を水に浸して柔らかくして繊維が取れないか試してみようと思います。なお、青い茎は曲がりますが折れません。青いままでも紐にならにできそうです。
今年も咲いたリネンの青く清楚な花
ところでリネンの栽培方法ですが、春に種をまくよりも秋に種をまいた方が生育が良いようです。冬の間、背がまったく伸びません。ところが、暖かくなる3月頃から急に背が伸びてきます。気が付いたのですが、リネンはほとんど分げつしないのですね。そのため、株間を気にしないで、どんどん密に種をまいて良さそうです。その方が収量が多そうです。
たくさん咲いた花 分げつしないリネンの茎 花びらが散り種に
さて、リネンの青い茎を何本か収穫してみました。そして、束ねて水に浸けてみました。浸ける期間がさっぱり分からないため、2週間ほど浸けてみようと思います。2週間ほど浸けていれば、少し腐って?繊維がバラバラになるのではないかと思います。濡れたまま叩いた方がよいのか、乾かして叩いた方がよいのか色々試してみようと思います。叩くのではなく剥ぐのかも知れません。さて、どんな繊維が取れるのでしょうか、それとも今年も失敗するでしょうか。
収穫した青くまっすぐな茎 水に浸けたリネンの青茎
植物由来の染料をいろいろと試しています。昔から使われている藍、紅花、タマネギの皮、そして山藍などを試してきました。今回、たまたま手にいれたインド藍と呼ばれる植物の種をまきました。普通の藍は、田んぼなどに雑草として生えているタデ科です。しかし、インド藍は文献で調べた限りではマメ科のようです。髪などを染めるヘナの材料に使われているとか。日本での栽培例は沖縄だけのようです。そのため、インドや沖縄のような熱帯でしか育たないのでしょう。ダメ元で種をまいてみました。
インド藍の種まきをする畝を耕耘
ところで、去年まで育てていた山藍は育てるのがとても難しいようです。去年うっかり、勢い余って草刈機で刈ってしまいました。以降、芽生えてくれません。どんな色に染まるのか、葉を使うのか、根を使うのか、茎を使うのか、はたまた皮を使うのか分からないまま枯れてしまいました。一度葉でやってみましたが染まりませんでした。葉ではないようです。いつかまた、山藍をいただきに行こうと思います。普通の畑では育たず、日陰で育てなければならないようです。
レーキで畝を均す 種まき幅を決める 種まき前に水やり
藍の種も小さいですが、マメ科にしてはインド藍の種も小さいです。50cm間隔で2粒づつ種まきをしてみました。どんな芽が出るのか、さっぱり分かりません。そのため、雑草の芽と間違えないように種まきした場所に竹杭を打っておきました。さて、ちゃんと芽生えるでしょうか。少なくとも葉が茂って種ができるまでに生育してくれれば、今年は御の字です。葉が少しでも収穫できれば、藍のように叩き染めできないか試してみようと思います。
とても小さなインド藍の種 種まきした場所に竹の杭
周南市小松原史跡巡りウォーキングも後半になりました。毛利元政墓所を出ると、いったん毛利元就公歯廟に戻ろうかと思いました。しかし、目の前に見える小さな道が島田川に続いているように見えました。思い切ってその道を進んでいると、民家があり野菜を収穫している地元の方がいました。通していただけるよう挨拶すると、気持ちよく通してくださいました。元々は誰でも通ることができる赤道とのことでした。
民家を貫通している赤道を通り島田川に向かう
島田川に架かる橋を渡ってすぐ、黒岩峡入口に着きました。今回は黒岩峡に行かないので、そのまま三丘方面に向かって歩道を進みました。しばらく歩くと、松原八幡宮の参道前に出ました。参道から長い石段を登って松原八幡宮に行きました。この頃になると、汗が出るほどに体が熱くなってきました。松原八幡宮拝殿に到着すると、少しの間ですが拝殿の陰に入って休憩を取りました。15分位の休憩が終わると、次の目的地である常妙寺に向かいました。
松原八幡宮参道入口 松原八幡宮に到着 少しの間休憩
常妙寺に着いて石段を上がると、本堂の見学をさせていただくためご挨拶をしました。すると、女性のご住職様がおられました。そのご住職様のご厚意で本堂に上がらせていただきました。ありがとうございました。和気あいあいにご住職様とお話をしていると、去年と同じように過去に洪水があったそうです。その時、常妙寺の石段の二段目近くに水面が来たそうです。小松原地区は昔から洪水のリスクがあるようです。
常妙寺に登る石段 常妙寺の本堂 出雲大社三丘教会
常妙寺のご住職様と20分位談笑したでしょうか。次に、出雲大社三丘教会に向かいました。下見時にはお祭りがあったため賑やかでしたが、今回はとても静かな出雲大社三丘教会でした。これで予定の史跡巡りが終わったため、スタートした徳修館に戻りました。島田川に沿う広い田んぼを横切るように歩き、島田川に架かる橋を渡って徳修館に戻ることにしました。
小高い丘の上にある学びの丘 「里の厨」でアイスクリームを食べる
徳修館が見え始めた頃、まだまだ歩き足りない方々と学びの丘に行って見ることにしました。学びの丘は徳修館の東側の小高い丘にあり、丘の上には巨大な背もたれ椅子が置いてあります。椅子とは言え、巨大なため実際には座ることができません。いわばモニュメントです。その丘の上に登り巨大な椅子に登ってみました。すると、眼下に徳修館と三丘地域が見下ろすことができました。学びの丘を降りると、徳修館にもどり車で田布施に帰りました。途中、里の厨の喫茶でお茶をしました。私はアイスを頼みました。疲れた体に甘いアイスはとても美味しかったです。小松原史跡巡りウォーキングに参加された方々、お疲れ様でした。
小松原周辺の島田川に沿うウォーキングコース
今週末いつものメンバーと、綿の種まきとサツマイモ苗と藍の苗を植え付ける予定です。今回メンバーが種まきしやすいように、そして植え付けしやすいように畑を耕して畝を作っておきました。まず綿ですが、今のところ和綿と洋綿(茶色)の2種類の種まきをします。和綿と洋綿は種類が違うため混ざることがないようです。そのため、同じ畑に少し離して種をまきます。和綿は30mの畝2本に種まきし、洋綿(茶色)は別の畝1本に種まきします。
小麦の隣に、平クワで綿の種まき用の畝作り
1ヶ月ほど前に耕耘機で荒く耕耘しておきました。そのため、すでに土が柔らかくなっていました。少しばかり雑草も生えていましたが、今回は、より土が細かくなるようにロータリーの回転を速くして耕しました。その結果、土の上を歩くとふわふわするほど柔らかくなりました。耕耘が終わると綿の種をまく筋を平クワで引きました。種まき当日は、この筋の上に株間が1mになるように綿の種をまきます。株間を1mににしたのは、その後の除草を考えてのことです。
小麦の傍を耕耘 何度も丁寧に耕耘 大きくなった藍の苗
3月末に種まきをして苗づくりを開始した藍、植え替えしやすい大きさに育っていました。当日は苗200本位を今回耕した畑に移植します。ところで、余った種ジャガイモをこの畑の隅に植え付けておきました。そのジャガイモの芽が出ていたため、芽欠きして土寄せしておきました。初夏には収穫できると思いますが、無肥料ですので収量は少ないと思います。収穫したジャガイモはいつものメンバーにお裾分けしようと思います。ジャガイモの品種はシンシアです。
芽欠きして土寄せしたジャガイモ(シンシア)
綿の種まきと藍の苗を移植する畑の準備が終わると、サツマイモの苗を植え付ける畑の準備をしました。このサツマイモは、秋の麻郷公民館祭り時に焼芋とするサツマイモです。除草などの管理がしやすいように黒マルチを張りました。この黒マルチにサツマイモの苗を植え付けます。一連の作業が終わると、年のせいか疲れがどっと押し寄せてきました。
サツマイモ用の黒マルチを張る 両サイドに土寄せして黒マルチを固定
今年はだいぶ遅れてジャガイモの種芋を植え付けました。そのため、発芽も遅れてしまいました。今回、ようやく芽を欠いて土寄せすることができました。ただし、秋ジャガイモと違って生育期間が長いため、そのうち葉が茂って毎年と同じような収量になるのではないかと思います。ジャガイモの品種はシンシアです。メークインに似て煮崩れしません。そのため、カレーや肉じゃがなどに向いています。シンシアは芽の窪みが小さいので、皮を剥きやすいのが特長です。
芽欠き後、ジャガイモに土寄せ
芽欠きして取り除いた芽は、別の畑に植えることができます。そして、その芽が育って少ないながらジャガイモを収穫することができます。今年は空いた畝が無かったので、もったいないのですが欠いた芽はすべて処分しました。肥料はほとんど施しません。そのため収量は少ないのですが、私と婆様二人が食べるには十分です。いつものことですが、余ったジャガイモがあれば友達にお裾分けしています。
余分な芽を欠いて芽を減らす ジャガイモの周りを耕耘除草
私が幼児の頃、平生町人島に住む祖母に連れられて田布施町の天神祭りに行ったことがあります。約60年位前の事です。当時の天神祭りは、今と比べることができないほどの賑やかさでした。また、天神祭りに合わせて市が立っていたように思います。田布施町役場も菅原天神社の隣にありました。特によく覚えているのは牛車です。牛車の大きな車輪には鉄の輪がはめられており、牛が引っ張るたびにギリギリと音をたてていました。飾り立てられた大きな黒牛、大きな鉄車輪の牛車、賑やかな市を今でもよく覚えています。
ふだんは静かで誰もいない菅原天神社、今日は溢れるような子供達
神事が8:30に始まるとのお話を聞いていました。そのため、8:00過ぎに菅原天神社に行きました。神事を待っている間、天神祭りについて近隣の方々にお聞きしました。すると、25年ごとに開催される式年祭の石碑についてお話を伺うことができました。そして、式年祭があるたびに建てられる石碑を教えていただきました。その石碑を探すと、私が幼児の頃に行った昭和31年の式年祭の石碑を見つけることができました。
8:00頃の菅原天神社 25年ごとの式年祭の石碑 氏子さんと子供達
菅原天神社の拝殿では、氏子の方々が神事の準備のため忙しく立ち回っておられました。そのうち、地域の子供達が集まってきました。ふだん、古い町並みにはほとんど子供の姿がありません。しかしどうしたことか、子供がたくさん来るではありませんか。ほとんどは新しい団地の子供達ではないかと思います。定刻になると神事が始まりました。宮司さんが祝詞を奏上されていました。そして、二つの神輿(大人神輿と子供神輿)にお祓いをされました。神事が終わると、いよいよお神輿の練り歩きが始まります。
お祓いを受けるたくさんの子供達 外で待つ保護者や祭り準備の方々
60年前の天神祭りではこの時、牛車が出ていました。かつて牛車に載せた神輿が天神社拝殿にあります。当時、お祭りが済むと牛車は解体されて拝殿の下に保管されていたそうです。しかし雨風が当たるためか、そのうち壊れてしまったとか。以前京都に牛車の見積もり依頼をしたそうですが、数百万円するとのことで諦めたそうです。さらに、牛車を引く牛を世話していた馬喰さんもいなくなりました。つまり、牛車を引く牛を手当てすることができなくなったそうです。一度軽トラックに載せたそうですが、その1度でやめたそうです。残念なことですが、仕方ありません。
太鼓橋を渡り終えて一般道に出る子供神輿
さて、拝殿から出た御神輿は参道を歩いて最後に太鼓橋を渡りました。太鼓橋を渡ると、一般道です。車に注意しながらお神輿は進みました。なお、子供神輿は歩みが遅いので、大人神輿が時々別ルートを通っては子供神輿に合流していました。
太鼓橋を渡り終えたお神輿 別れる子供神輿と大人神輿 大人神輿は別ルート
島田川左岸を歩いていると、去年の洪水時に壊れたと思われる堤防がありました。現在修復中のようでした。下見時よりも工事が進んでいるようで、川側にコンクリート製の板が張り付けられている最中でした。初夏までには修復が完了するのではないかと思います。しかし、堤防自体が砂でできているようで、先日の雨で流れたのか筋のような割れ目ができていました。早く修復工事を済ませないと、割れ目が広がってしまうのではないかと危惧します。修復中の堤防を見ながら歩いていると、黒岩狭入口に着きました。
山門に向けて続く貞昌寺の石階段
黒岩狭入口には周北霊場六十七番札所がありました。急な石段の上です。地元の方々が守っているでしょう、とても綺麗に手入れされていました。小松原周辺には周北霊場のお堂がいくつかあります。どのお堂も手入れされているようです。今でも巡礼が行われているのでしょうか。そもそも一番の札所は何処にあるのでしょうか。
黒岩峡入口の周北霊場 貞昌寺に向かう参道 貞昌寺本堂
黒岩狭入口で立ったまま休憩すると、島田川右岸に向かう橋を渡りました。下見では橋を渡ると、先に毛利元就公歯廟に行きました。しかし今回は昼食とトイレを考えて、先に貞昌寺に向かいました。下見とは逆に回りました。貞昌寺に着くと、さっそく昼食休憩を取りました。私は下見時と同じ場所に座って昼食を取りました。下見時には満開だった桜、すっかり若葉と生え代わっていました。
宍戸家20~25代の墓所 高速道路沿いの道を1kmばかり
桜の若葉の木漏れ日の下、皆さんと談笑しながら楽しく昼食を取りました。昼食休憩が済むと、貞昌寺の宍戸家墓所をお詣りしました。この貞昌寺、戦国時代以前はこの地域を治めていた大内家家臣のお城だったそうです。そのお城時代の石垣が当時の面影を残しています。宍戸家墓所を出ると、高速道路に沿う道を1kmばかり歩いて、次の史跡である毛利元就公歯廟に向かいました。
毛利元就公歯廟 宍戸家16~19代の墓所 毛利元政墓所
毛利元就公歯廟は、毛利元就公七男の毛利元政が肌身離さず持っていた歯を納めた廟です。毛利元就公歯廟の次は、毛利家家臣の宍戸家16~19代墓所を訪れました。宍戸家初代の墓所は宍戸家発祥の地、茨城県宍戸にあるのでないかと思います。続いて、毛利元政の墓所に向かいました。宍戸家も毛利元政の墓所も、元々は今は無い仙竜寺が管理していたようです。そのため荒れているのだと思います。
小松原周辺の島田川に沿うウォーキングコース
田布施町城南川西地区に「古墳などの史跡案内板」を立てる計画をほぼ1人で推進してきました。なるべく安価になるように、案内図の原図は私が制作しました。また、見やすい大きさにしたり、ちょうど良い高さにするなど検討しました。素案ができると、相見積もりして制作・建設する業者を決めました。そして、3月に発注して今回やっと完成しました。高さが210cm、横幅が200cm位あるため、見やすい大きさになっていると思います。
ようやく完成した「古墳などの史跡案内板」
かなり頑丈にできています。暴風雨に耐え、太陽の紫外線にも耐えます。また、少しくらい車が当たっても倒れないように思えます。自画自賛ですが、観光協会理事を満期退任する直前の完成でありとてもうれしいです。完成した案内板を見た方からさっそくご質問がありましたので、調べて丁寧に回答しました。
案内板の裏側 幅10cmの鉄柱 地下深く固定
この案内板が立っている場所は、城南川西地区の石走山古墳下の駐車場です。古墳を中心に案内しているため、山口県で最も古いと言われる国森古墳、同じく山口県で最も石室が広い後井古墳などの位置と解説が分かりやすく説明されています。また、蓮池寺や富永有燐頌徳碑などの史跡も説明されています。今後は、古墳巡りハイキングコースや関連するパンフレットをこの案内板に置くと良いかも知れません。この案内板を立てるにあたり、ご協力いただいた田布施町役場,観光協会,そして業者などの方々に感謝いたします。
手前は駐車場、右は道路 案内板に書かれた地図と史跡の説明
海に突き出た回天訓練基地跡にはたくさんの釣人がいました。魚がよく釣れるのでしょう。馬島港までの船賃を払うに値する良い魚が釣れるのだと思います。5月の連休時にはもっとたくさんの釣人が来るのではないかと思います。回天訓練基地跡から下を見ると藻の間にけっこう大きな魚が泳いでいました。回天訓練基地跡を出ると、元来たトンネルを通って馬島港方面に戻りました。
約20分の船旅後、連絡船は静かに徳山港に到着
馬島港から出航するまでには時間があったため、馬島の西側をしばらく散策してみました。近くに喫茶か宿泊施設「只只」があるとのことでしたので、その施設まで歩きました。湾を右手に見ながら歩ていると、さきほどまでいた回天訓練基地跡が湾の反対側に見えました。釣人が小さく見えました。30分位歩くと「只只」に着きました。オーナーの1人を見かけたので聞いてみました。すると、1日1組しか泊めないとのこと、また喫茶はやっていないとのことでした。
湾に見える回天訓練基地跡 宿泊施設「只只」 馬島港で乗船
船が出航する時間が迫ってきたため、宿泊施設「只只」から戻りました。宿泊施設「只只」の先には集落があって、神社などがあるようなのですが今回は諦めました。急いで、馬島港近くの大津島公園に戻りトイレ休憩を取りました。そして、停泊していた連絡船に乗りました。
連絡船と共に馬島港を出港 さきほどまでいた大津島馬島
馬島港を出ると連絡船の上部デッキに座りましたが、海風がとても寒かったです。本番ウォーキングの5月には暖かくさわやかな海風になっていると思います。船に揺られていると、数匹のイルカを見ることができました。白くなく尖った口が見えたのでイルカに違いありません。イルカを見た後、15分位すると徳山港周辺に停泊中の大型船がたくさん見えるようになりました。そして、徳山港に着きました。
停泊中の大型船 到着すると急いで下船 下船後の桟橋
徳山港に着くと、JR徳山駅前の喫茶店に入りました。そして、各自で飲物やサンドイッチなどを頼みました。私はアイスを頼んだように思います。疲れた体を癒しながら、みなさんと楽しくお話しました。しばらくして、Eさんからサンドウィッチのおすそ分けがありました。ありがとうございました。美味しくいただきました。30分位談笑したでしょうか、電車に乗る時間が来たため喫茶店を後にしました。今回の下見に参加された方々お疲れ様でした。
散策した大津島の馬島港周辺のコース
今年も田布施町少年少女発明クラブの活動が始まりました。活動の前半6ヶ月は、便利で役に立つ工作を作ります。プラモデルのように既製品を組み立てることではありません。自分で考案するのです。そして、何の役に立つのか,何故その工作を思いついたのか,どのようにして制作するのか.どうやって使うのかなどを紙に書きます。小学生はまだまだ文章を作ることが苦手です。今は、自分の構想を文書にする、言わば国語の時間でしょうか。
どんな工作を作るか子供達自身で考え、そして文書化
去年から引き続いてクラブ員になった子供達や、お兄さんかお姉さんがクラブ員だった子供達がいます。その子供達の多くは要領が分かっているようです。自宅であらかじめ自分で構想を考えて説明図を書いて来ていました。何個もの工作を考えている子供もいました。そのような子供達は、もう工作を始めることができます。制作に必要な材料を探していました。
どんな工作にしようか思案 考案した工作を文章化 工作の材料を収集