東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町 光市 石城山の古道,神籠石巡りウォーキングの下見(1/x)

2019年10月21日 | 歴史探訪他ウォーキング

 11月の史跡巡りウォーキングは、石城山の古道と神籠石などの史跡を巡ります。石城山は山頂は光市ですが、山麓の南半分は田布施町です。石城山に登るためには、大きくは三国志城側から登る道と宿井から登る道の二つがあります。今回の下見ウォーキングは、かつて使われていた石ノ口古道から登りました。ちなみに山に登る入口のことを、「~口」と言っていました。かつては五つほどの登り口があった石城山です。

           山頂近くに到着し、景色を堪能しながら休憩


 田布施町交流館に9:30に集合して、石ノ口に移動しました。車を駐車すると、石ノ口八幡宮脇を通り石城山に向かって歩きました。一ヶ月前はまだまだ猛暑続きでしたが、すっかり秋空になって快適な下見ウォーキングでした。道端には秋の花であるコスモスが咲き乱れていました。しばらく棚田跡や人家跡を抜ける道を進んでいると竹藪に入りました。

コスモスの向こうに石城山   古道脇にお地蔵様    倒木を乗り越えて
  

 そして、石城山登山口と書かれた木札に到着しました。ウォーキング仲間の一人であるO君が、登山口を間違えないようと立札を立ててくれたのです。ありがとうございました。立札から古道「石ノ口」に入りました。今は使われていない廃道ですので、あちこちに木々や竹が生い茂っていました。また、倒木が歩くのを邪魔をしました。日陰の道ですが、窪んだ一本道ですので迷う事はありませんでした。

   木漏れ日の古道   木の根でできたトンネル   遠く瀬戸内海を望む
  

 途中、小さなお地蔵様が道の脇に安置されていました。文字が刻んでありましたが読めません。本番ウォーキングでは拓本用具を持ってこようかと思います。石ノ口古道は小石交じりの砂利道が延々と上に続きます。しかし、楽しいお話をしながら歩くと疲れません。それに、涼しい風が通るのでとても快適に登ることができました。

   快晴で、遠く四国まで見通せる      石城山の石城大師堂に到着
 

 山頂近くにTさんの家がありました。近くで草刈りをしていたTさんに声を掛けて挨拶しました。周辺は綺麗に草刈りされるなど手入れされていました。その場所からは、瀬戸内海が良く見えました。快晴だったため、四国まで見通すことができました。ところで、3年ほど前、石城山にあった神護寺跡や僧坊跡を確認したことがありました。それらの跡には
墨書きした木柱が建っていました。神護寺があった江戸時代、東の高野山と言われたほどに栄えていた石城山でした。しかし、明治の廃仏棄釈で廃寺になってしまいました。惜しいことです。

        昇り降りした石城山古道と、訪ねた神籠石などの史跡ルート

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光市 楽しかった島田~岩田の史跡巡りウォーキング(4/4)

2019年10月20日 | 歴史探訪他ウォーキング

 ウォーキングも後半になりました。冠念寺を出ると、大日堂横を通って尾根伝いに岩戸八幡宮に行きました。下見の時は、冠念寺の入口から岩戸八幡宮入口に移動してから行きました。そのコースはとても大回りでした。今回冠念寺のご住職にお聞きすると、なんと大日堂から尾根伝いに5分程度で岩戸八幡宮に行けることが分かりました。皆さん一列になって、尾根伝いに歩いて岩戸八幡宮に楽々行きました。

        大日堂から尾根伝いに歩いて5分の岩戸八幡宮


 岩戸八幡宮の参道に到着すると、本殿まで歩いて詣りしました。とても古くからある由緒ある神社のようでした。それを物語るように、近くに岩戸遺跡の碑が立てられていました。遺跡は鎌倉時代から平安時代にかけての遺跡とのこと。祭祀用の土師器が多数出土してることからして、鎌倉時代にはすでにこの神社があり祭礼が行われていたようです。この一帯で、古来から信仰されていたのでしょう。

  大日堂の横を通過    岩戸神社参道に到着     岩戸遺跡周辺
  

 岩戸神社のお詣りが終わると、岩戸遺跡周辺を見ながら丘を降りました。とても長い下り坂の参道を下りました。参道を下り終わった場所の左右に大きな石柱がありました。石柱には三韓国征伐に関わる文字が彫られていたように思います。古事記や日本書紀に、神功皇后による三韓征伐の記録があるようです。高句麗,新羅,百済が朝鮮半島で覇を競っていた時代、当時倭と言われていた日本も半島に大きく関わっていたようです。

   曼殊沙華が咲き乱れる土手    しばらく田園を歩いて終点のJR岩田駅へ
 

 岩戸神社の参道入口の石柱を見終わると、JR岩田駅に向かって広がる田園をのんびり歩きました。下見では無駄にJR岩田駅に向かって歩きましたが、今回は北口に回り込むように歩きました。今回のウォーキング、下見も本番も荒天に泣かされ延期しました。来月は石城山に向かう今では使われていない古道を歩きます。来月は天気が良くなって欲しいと思います。ウォーキングに参加された方々、お疲れ様でした。

        JR島田駅からJR岩田駅まで巡った史跡コース

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光市 楽しかった島田~岩田の史跡巡りウォーキング(3/4)

2019年10月18日 | 歴史探訪他ウォーキング

 橿原神社を出ると、舗装道路を一直線に教西寺に向かいました。下見の時、お寺がどこにあるか分からず通り過ぎていました。下見後、再度訪れて場所を確認しました。その時、今回のウォーキング時に教西寺を訪れることをご住職にご了解していただきました。そのため今回快く本堂に上げていただきました。さらに本堂内のテーブルを使わさせていいただき、昼食休憩を取らせていただきました。心遣いありがとうございました。

    教西寺本堂内で昼食休憩後、たくさんの絵画を鑑賞させていただく


 談笑しながら楽しい昼食休憩が終わりました。その頃、このお寺に伝わる貴重な巻物をご住職に本堂内に展示していただきました。私が一番興味があったのは、難波覃庵の書いた絵があったことです。1883年難波覃庵は、立野の難波家自宅に向山文庫を開設しました。

  教西寺の山門       本堂で昼食休憩    貴重な絵画の説明を鑑賞
  

 向山文庫は山口県初の図書館とのことだそうです。ところが、難波覃庵の孫にあたる難波大助が虎ノ門事件を起こします。大助の父親である作之進(難波覃庵の子)は、その責任を取って代議士を辞退した末に自宅に蟄居しました。なお、その選挙地盤を松岡洋介(のちに外務大臣)が引き継いだとのこと。ちなみに、松岡洋介は佐藤栄作元宰相の義理の伯父にあたります。

   立派な大日堂      冠念寺の真禅窟      護摩を焚く真禅窟内
  

 教西寺を出ると大日堂に向かいました。これまた下見では場所が分からず、通り過ぎてしまったお堂です。今回大日堂に無事到着して仰ぎ見ました。次に、このお堂を管理している周防七福神の一つである冠念寺に向かいました。大日堂のすぐ下にあるお寺です。真禅窟と書かれた護摩を焚くお堂を見学させていただきました。ありがとうございました。

        JR島田駅からJR岩田駅まで巡った史跡コース

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光市 楽しかった島田~岩田の史跡巡りウォーキング(2/4)

2019年10月16日 | 歴史探訪他ウォーキング

 小高い丘と言うか山の上に、人丸神社はありました。地元の方のお話によると、その昔に子供が次々に亡くなる病が流行ったとのこと。この惨状を見かねて、石見国にある人丸神社にお参りしたとのこと。そして、人丸神社をこの地に勧請したとの言い伝えが残っています。おそらく天明か享保の飢饉時の事ではないかと思います。飢饉になると、栄養失調により子供が最も多く犠牲になります。各地にこの飢饉の史実が残っており、例えば田布施町では「飢民の供養塔」が残っています。また、各地に大師堂などか建てられています。ところで、何年か前にこの神社の御守をするのが二軒だけになったとのこと。その後、もう何年も世話をしていないようで屋根の一部が崩壊していました。地域でこの神社を維持できなくなったのでしょう。

            屋根が一部倒壊した人丸神社


 人丸神社の横には広場がありました。今は木々が茂って周りが見えませんが、かつては景色が良かったのではないかと思います。この広場ではかつて、盆踊りなどのお祭りが盛大に行われていたのではないでしょうか。そして、神社へと続く参道はたくさんの人が行き来していたのではないかと想像します。神社へと続く参道は大きく窪んでいます。数百年間たくさんの人々がお詣りした結果、道が削れて窪んだのではないでしょうか。

  かつての参道を下る    半ば壊れたお大師様    小休止した橿原神社
  

 人丸神社を出ると、次にお大師様を訪れました。このお大師様のお堂には、平和霊場第二十九番札所の木札が打ち付けられていました。今はうら寂しいお大師堂ですが、かつては人々が通る街道に面していました。お大師堂のある山の下に新たに道が作られてから、人々が通らなくなったようです。往時にはたくさんの巡礼者が通り、その巡礼者を歓待する地元の方々の賑やかさが想像されます。

  橿原神社の石鳥居を支える岩         橿原神社傍のお地蔵様 

 お大師堂を過ぎると、しばらく歩いて橿原神社に向かいました。その昔は参道前に鳥居が建っていたのでしょう。しかし、自動車道が参道に割にり込むように作られたようで、神社と鳥居の間に道路があるのです。鳥居を支える岩に足跡とも思える模様があります。その模様は、鬼彦兵衛の足跡として言い伝えられています。橿原神社で少し小休止すると、昼食休憩をする教西寺に向かいました。

       JR島田駅からJR岩田駅まで巡った史跡コース

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茨城県 ひたちなか市~御岩神社~日鉱記念館などを楽しく散策(3/3)

2019年10月15日 | 歴史探訪他ウォーキング

 御岩神社より山奥にある賀比礼神宮から、さらに上に上がる道がありました。おそらく御岩神社の御神体と思われる大岩があるようです。しかし、時間がなかったため、賀比礼神宮から御岩神社に降りる別の山道を下りました。途中、常陸の国を鎌倉時代から数百年も治めた佐竹氏代々の墓所がありました。佐竹氏は戦国時代末期に徳川家の反感を買って今の秋田県に移封されました。毛利家が周防・長門だけに減らされた待遇に似ています。そのためか、佐竹氏は幕末期に奥州列藩同盟から離脱して新政府側につきました。戦国時代の恨みは数百年を超えて蘇るのですね。

          賀比礼神宮から降りて再度参拝した御岩神社 


 私は茨城県の成り立ちにとても興味があります。明日香や奈良時代の頃、今の茨城県は常陸の国と呼ばれていました。「常陸」とは「日が立つ国」の意味とか。最初に朝日が昇るほど東の果ての国との意味もあるようです。大和王権が支配する最も東の端にある国だったのではないかと言われています。なお、当時の東北は蝦夷と言われて、朝廷の支配が及ばない別の国だったようです。

御岩神社上の賀比礼神宮   佐竹氏代々の墓所   佐竹氏墓所近くの薩都神社
  

 
御岩神社に戻ると、あらためて本殿などの建物を見ました。すると、最近修理したのか新しい木材が使われていました。一躍有名になったため参道を整備したり、本殿などを新しくしたのかも知れません。御岩神社から駐車場に戻ると、個人的に懐かしい日鉱記念館に向かいました。

  明治時代の鉱山工場   使われていた古い機械    新しい日鉱記念館
  

 40数年前、私が入社時にこの記念館を訪れたことがあります。入社した会社が、この鉱山から発祥したからです。記念館内には明治時代に使われた機械がぎっしりと陳列されていました。日鉱記念館を見学していると、会社人生をスタートした頃の懐かしい思い出が蘇ってきました。

   日鉱記念館内を移動          立ち寄った「道の駅 ひたちおおた」
 

 私が入社時、高鈴山に登山後にこの日鉱記念館は訪れました。もしかして、高鈴山から尾根続きの御岩神社に降りてから日鉱記念館に行ったのかもしれません。そうだとすれば、2度目の御岩神社です。日鉱記念館を去ると、東京に向かって一直線に帰りました。途中、道の駅ひたちおおたに寄りました。食い道楽に史跡道楽の楽しい茨城散策でした。連れて行ってくれた息子夫婦に、ありがとう。

           今回散策した茨城県内のルート

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茨城県 ひたちなか市~御岩神社~日鉱記念館などを楽しく散策(2/3)

2019年10月12日 | 歴史探訪他ウォーキング

 那珂湊漁港を出るとすぐに御岩神社に向かいました。途中、那珂湊漁港を出てすぐの所にある干芋(サツマイモ)を売るお店に寄りました。干芋だけを売るお店(立派なビル)です。干芋と言うと、スーパーの隅っこでよく売っていますが、その店は干芋だけを専門に売っているのです。駐車場に入ると、すでに一台の観光バスが止まっていました。

    御岩神社よりさらに30分山奥に鎮座する賀比礼神宮からの景色

 観光客が立ち寄るほど有名な明治操業の干芋専門店(大丸屋)でした。そのビルの入口に、巨大なサツマイモのオブジェが建っていました。近づいてみると、石を彫って作ってありました。ビル内に入ると、いろいろな種類のサツマイモで作られた干芋が所狭しと並べられていました。私は一袋の干芋を買うついでに、美味しそうな干芋ジェラートを舐めました。干芋もジェラートにすると意外に美味しいものです。

 サツマイモのオブジェ   様々な種類の干芋    美味しい干芋ジェラート
  

 干芋専門店を出ると、御岩神社に行きました。道すがら茨城国体のポスター「いきいき茨城ゆめ国体」が目につきました。たくさんのスポーツマンが全国から来て競技しているに違いありません。駐車場が狭いのではないかと思っていましたが、無料駐車場に楽々車を停めることができました。

 茨城国体のポスター     御岩神社に向かう   入口鳥居近くの祓戸神社
  

 入口の鳥居を過ぎると、うっそうとした杉の大木に囲まれた参道に入りました。幹が三つに割れた大杉が目を見張ります。この御岩山の三本杉は「森の巨人たち100選」に入っているとのこと。また推定樹齢は500年とのことです。杉の大木の下を歩いていると、熊野古道玉置神社の巨大杉群を思い出しました。

     御岩山の三本杉         大杉に囲まれた御岩神社の参道
 

 大杉の下をくねる参道を進んでいると、目的の御岩神社にやっと到着しました。しかしながら、何故この神社が宇宙から光って見えたのでしょうか?科学的に考えると、近くに反射する屋根らしき建物があるはずです。しかし、そのような屋根は見えませんでした。不思議なことです。地図を見ると、御岩神社よりさらに山奥に賀比礼神宮があります。30分位登り坂を歩いて、賀比礼神宮に行ってみました。その神社の展望台から、高鈴山らしき山並みが一望できました。汗をぬぐいながらしばし休んで、景色を楽しみました。


          今回散策した茨城県内のルート

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光市 楽しかった島田~岩田の史跡巡りウォーキング(1/4)

2019年10月02日 | 歴史探訪他ウォーキング



 今年の夏の史跡巡りウォーキングは天候不順に泣かされました。下見ウォーキングも本番ウォーキングも雨で延期になりました。今回は光市のJR島田駅からJR岩田駅までの史跡を訪ねて歩きました。特に下見時は猛烈な暑さで、グロッキー気味によたよた歩きました。また距離があり過ぎたので、本番ウォーキングは大幅に歩くコースを短縮しました。省いたのは難波家屋敷,立野神社,そして正義霊社です。3km位は短縮されたと思います。しかしながら残暑のためか、山の中を歩くと蚊に襲われて難儀しました。それでも楽しい史跡巡り本番ウォーキングとなりました。

        蚊に襲われるも、山の中を人丸神社に向かう

 さて、本番ウォーキング日の9:45にJR田布施駅に集合しました。そして、JR田布施駅9:54発の電車に乗り込みました。そして、10:03に着いたJR島田駅で降りました。この駅からJR岩田駅に向かって、のんびりと史跡巡りウォーキングをしました。下見ウォーキングで巡った難波家屋敷,立野神社,そして正義霊社はスキップしました。

  出発したJR島田駅     三つの祠の鳥居     和裁師匠の顕彰碑
  

 最初に行った史跡は永明寺です。まずは、そのお寺に隣接する祠に行きました。三つ祠が並んでいるのですが、何の祠かが分からないのは残念です。続いて、永明寺の裏にある和裁師匠の顕彰碑に行きました。明治から大正時代にかけて和裁を極めた女性が顕彰されていました。お弟子さんがたくさんいたのでしょう。面白いのは「初代妻」と刻んであることです。戦前は一夫多妻でしたので、最初に妻になった誇りがあったのでしょう。

   永明寺の立派な本堂           談笑しながら人丸神社に向かう
 

 続いて、永明寺に行きました。元々は、本堂に上がらさせていただいて拝仏する予定でした。ところが、天候不順で史跡巡りが今回に延期になりました。さらに今回は法事があるとの理由で、本堂に上がらず周りを見学させていただきました。ありがとうございました。なお、永明寺は防陽八十八箇所霊場六十九番札所です。江戸時代から明治時代頃にかけて、たくさんの方が巡礼したことでしょう。永明寺を出ると、山の中にある人丸神社に向かって歩きました。

         JR島田駅からJR岩田駅まで巡った史跡コース

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防府市 山頭火ふるさと館などを訪れる

2019年09月19日 | 歴史探訪他ウォーキング

 田布施町郷土館が所蔵している江良碧松の自由律俳句などの資料を、防府市山頭火ふるさと館の「山頭火・白船・碧松 周防三羽烏」展に貸し出しています。今回江良碧松関連の資料がどのように展示されているのか、また山頭火や久保白泉の勉強も兼ねて、いつもの仲間と一緒に山頭火ふるさと館に行ってきました。秋らしい真っ青な日差しの中を、防府市の史跡である防府天満宮や毛利博物館なども楽しみました。なお、「山頭火・白船・碧松 周防三羽烏」展は9/13~12/8です。

           防府天満宮近くの山頭火ふるさと館


 山頭火ふるさと館は防府天満宮の入口近くにあります。その場所は何年か前に火事になったそうで、その跡地に山頭火ふるさと館を建てたとのこと。なかなか立派な建物です。内装も山頭火を中心に展示されています。防府市と田布施町では財政規模が比較になりません。田布施町郷土館はふるさと創生資金で内装にはうん千万円かけたようですがが、全体的に安くするためか建物は借家です。山頭火ふるさと館は建物も内装も新しいので、土地の取得費を含めて億のお金がかかったのではないでしょうか。

  途中寄った富海PA   美味しそうなさしみ料理     防府天満宮
  

 山頭火ふるさと館には、防府市と関わりが深い有名人について展示されていました。伊集院静が防府市出身であることを初めて知りました。ところで、今回展示の目玉である「周防三羽烏」は、これまで開催されてきた各会場の「周防三羽烏」の中で一番見ごたえがありました。「山頭火」を自任している資料館なので当然ではありますが。

  さしみ亭和加栄で美味しい昼食       訪れた毛利資料館
 

 山頭火ふるさと館の「山頭火・白船・碧松 周防三羽烏」展を見終わると、地元の方の紹介で、さしみ亭和加栄に行きました。ひさしぶりに美味しいさしみ料理を楽しみました。また、いつものように楽しい話題で談笑しました。美味しい料理が終わると、数年前までは毎年正月に参拝していた防府天満宮に行きました。お正月の防府天満宮は地面が見えないほど混雑していますが、平日の防府天満宮はとても静かでした。

 毛利博物館前の舞衣     レトロ喫茶 舞衣      私は「あん蜜」
  

 防府天満宮を出ると、毛利博物館に行きました。ゴルフ場を回り込むように山の上に行くと、広い毛利博物館に着きました。ゴルフに来る方も多いようです。今回は毛利博物館ではなく、博物館前にあるレトロな喫茶店である舞衣に入りました。ほとんどの方はアイスコーヒーを頼みました。私はさしみ亭和加栄でアイスコーヒーを飲んだため、私はあん蜜を頼みました。とても楽しかった山頭火ふるさと館,防府天満宮,毛利博物館などでした。

         山頭火ふるさと館など、訪れた防府市内史跡他

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光市 JR島田駅~JR岩田駅史跡巡りウォーキングの再下見

2019年09月18日 | 歴史探訪他ウォーキング

 前回の下見ウォーキングは猛暑だったこともあり、全ての神社仏閣などの史跡を回ることができませんでした。また、全てを回っていると、とても時間がかかることも分かってきました。そのため今回、下見ウォーキングでは行けなかった史跡をバイクで全て巡ってみました。最初に行ったのは人丸神社でした。山の上の方にあることが分かっていましたが、道に迷ってしまいました。そのため、草刈りをしている方に聞いてみました。すると、いろいろなことが分かってきました。その人丸神社の場所、その云われ、そして人丸神社への途中にお大師様があることなどです。

         山の中腹にあった、屋根が壊れかけた人丸神社


 人丸神社の言われは、とても興味があるお話でした。江戸時代に子供達が次々に亡くなることがあり、困った村人が島根県の益田にある人丸神社に参拝したそうです。その時に、分神をいただいて来て、この地に人丸神社を建てたとか。人丸とは柿本人麻呂のことで、下級官僚だった彼は石見国(島根県)で亡くなりました。人麻呂が人丸になまったようです。人丸神社を建てたおかげか、子供達が亡くなることが無くなったそうです。当時は飢饉が頻発していた時代です。栄養が不足がちな小さな子供達が一番犠牲になっていたのでしょう。この周辺は今、人家が絶えて残った2軒が人丸神社を管理していたそうです。今後の管理はもう無理とのことでした。ちなみに、田布施町麻里府上組にある人丸社(人丸神社)は管理する家が絶えています。いつ崩れてもおかしくありません。

  お大師様のお堂      人丸神社への山道     冠念寺上の大日堂
  

 続いて、下見では場所が分からなかった教西寺の場所を確認しました。コースを短縮するとなると、この教西寺でお昼休憩をしたいところです。そのため、再度教西寺を訪問して、お昼休憩とトイレ休憩の了解をいただく必要があります。ただ、本番ウォーキングまで時間がないことと、今後は毎日仕事のため訪問する時間がないのが悩みです。続いて、大日堂に向かいました。

   大日堂と坂続きの冠念寺        森に囲まれた岩戸八幡宮
 

 大日堂は山深い場所にあり車では行けません。人が1人通れる斜面をバイクでかけ登りました。すると、目の前に大日堂が見えてきました。大日堂へは階段下の冠念寺からも行けるようです。大日堂は冠念寺が管理しているのではないでしょうか。冠念寺側から降りると、岩戸八幡宮側に出ることが分かりました。本番ウォーキングでは、大日堂~冠念寺~岩戸八幡宮の順に歩くと効率的に歩くことができそうです。
 一通り再下見をしましたが、本番ウォーキングの一番のポイントは教西寺です。教西寺でお昼休憩とトイレ休憩が取れれば、下図のAを通ることができコースを大幅に短縮することができます。その場合、難波家屋敷,立野神社,正義霊社を巡りません。

       再度下見をしたJR島田駅~JR岩田駅コース

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光市 JR島田駅~JR岩田駅史跡巡りウォーキングの下見(2/2)

2019年09月16日 | 歴史探訪他ウォーキング

 難波家屋敷は今は誰も入れません。あまりに古く手入れがされておらず、今にも崩れ落ちそうです。あの大事件以来、時が止まったようです。すでに屋根が落ちている小屋もあります。大正時代に難波作之進の息子である難波大助が、銃で皇族(皇太子時代の昭和天皇)を撃った大事件があったのです。その息子の不祥事を一心に背負って、難波作之進はこの難波家屋敷に蟄居して絶食したとのこと。戦国以来の名家であるにも関わらず、どうしてこんな事件を起こしてしまったのでしょうか。今にも崩れ落ちそうな難波屋敷を見ながらそう思いました。

             立野神社でのんびりと昼食休憩


 難波家屋敷を離れると、田んぼの向こう側に鎮座する立野神社に行きました。この神社は難波家が仕えていた清水家が、岡山から勧請して立野の神社と合祀して建てたとのことです。清水家も難波家も、戦国時代に治めていた備後の高松城を故郷と思っていたのでしょう。清水家も難波家も豊臣秀吉に高松城を明け渡した後、毛利家の陪臣となりました。そして、江戸時代初期に毛利家が今の山口県に移る時、一緒に移って立野の地を拝領したのではないかと思います。ちなみに、立野の隣の小松原や三丘は毛利家家臣の宍戸家が拝領しています。

 田んぼ道を立野神社へ     小高い立野神社     正義霊社への石段
  

 立野神社に着くとお昼休憩にしました。30分位のんびりしながら談笑すると、次の史跡である正義霊社に向かいました。途中、和光苑やゴルフ場を右手にしばらく進みました。正義霊社がある山のすそ野に着くと、石階段を登って正義霊社に行きました。正義霊社を見学し終わると、次に橿原神社に向かいました。途中の人丸神社は割愛しました。

     木立の中の橿原神社          岩戸八幡宮の入口
 

 続いて教西寺と冠念寺を訪問しようと思いましたが、時間もなく猛暑のこともあり割愛しました。さらに岩戸八幡宮はだいぶ山を登らなければならず、やはり割愛しました。岩戸八幡宮入口からJR岩田駅が見えました。ほぼ一直線に岩田駅に向かいました。ところが、JR岩田駅には南口がないことが到着して初めて分かりました。駅のホームは目の前に見えるのに、駅舎に入れないのです。気を取り直して、ぐるりは線路を迂回してJR岩田駅に到着しました。猛暑の中、下見ウォーキングに参加された方々、お疲れ様でした。今回の下見ウォーキングはだいぶ史跡を割愛したため、本番ウォーキングではコースを少し変更しようかと思っています。

      JR島田駅~JR岩田駅史跡巡りウォーキングの下見コース

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光市 JR島田駅~JR岩田駅史跡巡りウォーキングの下見(1/2)

2019年09月13日 | 歴史探訪他ウォーキング

 8月末に9月の史跡巡りウォーキングの下見をする予定でした。しかし、当日は天候不順で今回に延期しました。9月とは言え、とても秋とは言えないような猛暑の中での下見ウォーキングでした。JR田布施駅に9:45に集合し、JR田布施駅9:54発でJR島田駅着10:04着の電車に乗りました。JR島田駅に降りたのは、一昨年の光市島田川沿い史跡巡りウォーキングの時以来です。駅を降りると、最初に訪れる永明寺に向かいました。このお寺は防陽八十八箇所霊場六十九番札所です。

            難波覃庵が建てた向山(こうざん)文庫


 永明寺に着くと最初、裏山にある変わった墓地(兼和裁師匠碑)に行きました。その墓の上部には和裁の針を模した石造が載せられていました。最初、その石造を砲弾かと思いました。続いて、永明寺を訪問しました。本番ウォーキング時に、本堂で仏様を拝ませていただくことを快諾していただきました。当日は法事でご住職がご不在とのことですが、ありがとうございます。

 下車したJR島田駅     永明寺横の鳥居       和裁師匠の墓所
  

 永明寺を出ると、立野の向山(こうざん)文庫に向かいました。その途中でお地蔵様を拝みました。四国十九番の延命寺地蔵です。その昔、四国八十八箇所巡りをした折に、持ち帰ったのかも知れません。再び歩いていると、3年前に歩いた虎ヶ岳の尾根が北側に見えました。

  防陽八十八箇所霊場永明寺の本堂      北に広がる虎ヶ岳の尾根
 

 どんどん歩いて、いったん山陽本線を跨ぎました。そして、もう一度跨いで目的地の向山文庫近くに到着しました。すると、建物が新しいお地蔵様がありました。近くで草刈りしている方にそのお地蔵様について聞きました。すると、その方のお母様が生前に管理していたそうです。そのお母様を亡くなった時に建物を新築したそうです。親子で守っているお地蔵様でした。

 四国十九番の延命寺地蔵   親子で守るお地蔵様   平和三十二番札所 
  

 続いて、平和霊場三十二番札所の大師堂をお詣りしました。次に、その傍にある難波家の巨大な顕彰碑を見学しました。難波家は、備中高松城主清水宗治の家臣末裔一族とのこと。備中高松城主清水宗治は豊臣秀吉の水攻めで切腹し開城しました。清水家一族やその家臣はその後、毛利家の陪臣となりこの立野を治めました。戊申戦争時、一族の清水親春は第二奇兵隊で活躍しました。難波家の顕彰碑を見終わると、難波家屋敷内にある向山文庫に向かいました。

       JR島田駅~JR岩田駅史跡巡りウォーキングの下見コース

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西九州域 史跡&観光地巡りウォーキング(6/6)

2019年08月27日 | 歴史探訪他ウォーキング

   7月に西九州を史跡探訪した記録の続きです(最終)。遠藤周作文学館を出ると、外海(そとめ)地区の出津(しつ)集落にある外海歴史民俗資料館に向かいました。この資料館には、江戸時代から昭和30年代頃までに使われた古い道具や風俗が展示されていました。当時の家の中も再現されていて、私にとって一種懐かしい気持ちにさせる資料館でした。もっと展示を見たかったのですが、私以外はさっさと資料館の外に出てしまいました。後髪を引かれる思いで資料館の外に出ました。次に出津の教会堂を中心とした建物群を順次見学しました。

          外海の出津集落のほぼ中心にある出津教会堂


 憩いのパビリオンを見ると、ド・ロ神父記念館に行きました。記念館の中には、この地域の方々に技術を伝えるた品々が展示されていました。ド・ロ神父は明治時代に外海地区に来て、潜伏キリシタンだった方々を含めこの地域の方々の生活を豊かにするためにたくさんの技術を伝えました。展示品の中に、機械式編機がありました。明治時代にすでに機械式編機があったのですね。また、漁労に利用する網を作ったり補修する技術も伝えたようです。また小麦からバスタを作る技術も伝えたようです。現在お土産用として販売されているバスタの麺もその技法で作られているのでしょうか。

  外海歴史民俗資料館    資料館内の展示品   旧出津救助院でお土産
  

 ド・ロ神父記念館の見学が終わると、次に旧出津救助院に行きました。ここでバスタの麺などのお土産を売っていました。この時、バスタの麺を作っていたとされる建物も見たかっのですが、これまた時間が無く見ることができませんでした。続いて、出津教会堂に行きました。最初教会かと思ったのですが教会堂なのですね。教会と教会堂の違いは何でしょうか?それが分からないまま教会堂を見学しました。その後、外海歴史民俗資料館に戻りました。遠くの丘に遠藤周作文学館の建物が小さく見えました。

    外海大野集落の大野教会堂     川登SAで遅めの昼食休憩    
 

 外海歴史民俗資料館を出ると、大野集落に行きました。この集落を含めて、この地域は石積みに特徴があります。長崎に限らないのですが、海に面した斜面はほとんど平地がありません。そのため、石積みを工夫して田んぼや畑が作られています。主として漁労や交易など海に依存した生活で、従としてわずかばかりの田んぼや畑を耕していたようです。斜面で生活するには石積みや石垣が欠かせません。さて、大野集落に着くと、石積みをうまく利用して作られた大野教会堂を見学しました。個人的には
はゴシック建築の華麗な教会よりも、この大野教会堂の方が落ち着いた感じがします。

 坂本八幡宮を参拝   「敵国降伏」筥崎宮を参拝   古賀SAでお土産を
  

 大野教会堂を出ると長い家路につきました。途中、川登SAで遅めの昼食を取りました。確かここで、私はお土産として小城(おぎ)羊羹を買いました。そして、しばらく高速を走って「令和」に関わる坂本八幡宮を参拝しました。その後、三大八幡宮と言われる筥崎宮を参拝しました。蒙古襲来時の「敵国降伏」が本殿に掲げられています。日本史には必ず出てきますが、実物を見たのは初めてでした。筥崎宮を出ると、途中、古賀SAと美東SAに寄った後、一直線に田布施に向かって帰りました。今回の史跡巡りに参加された方々お疲れ様でした。特に、運転をされた2名の方、ありがとうございました。

     訪れた、武雄~長崎~キリシタン史跡などのルート

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天に刺さるように育つサトウキビ

2019年08月24日 | 歴史探訪他ウォーキング

 背がなかなか伸びなかったサトウキビが、8月に入ってからだいぶ大きくなりました。高さも3m近く伸びているため、私がいくら背伸びしても先端を見ることができません。また、根本から別の葉が伸びてきました。茎の太さも3cmはありそうです。ただ、サトウキビの株の数が6株位ですので、秋に茎を収穫して絞っても黒砂糖を作ることができるか微妙です。田布施産黒砂糖はまだまだ先の事になりそうです。田布施町でサトウキビ栽培が難しい一番の原因は寒さです。10本の茎を越冬させても、寒さで半分くらいは枯れてしまいます。また、越冬できても育つのはさらにその半分です。そのため、なかなか本数を増やすことができません。

            真夏の青空に向って背伸びするサトウキビ


 越冬の方法をいろいろ試していますが、今年は畑で越冬できたサトウキビが2株ありました。野外でも越冬できるのです。寒さが緩和されるように、株元に土を山のように盛るなどの工夫をしたからだと思います。一方で、茎を室内で越冬させるには温度と湿度を保つ必要があります。1月まではどの茎も青々としていますが、2月~3月の間に変色して枯れてしまいます。この期間、暖かい日に太陽光を当てると生存率が上がるようです。この冬も試行錯誤が続きます。

   太くなったサトウキビの茎       サトウキビの葉の上にバッタ
 

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西九州域 史跡&観光地巡りウォーキング(5/6)

2019年08月21日 | 歴史探訪他ウォーキング

 7月に西九州を史跡探訪した記録の続きです。早朝に武雄のホテルを出ると、午前中は隠れキリシタン関連の史跡を中心に巡りました。長崎市を避けて半島の海側をどんどん進みました。やがて、右手へ曲がる道を進むと高台に教会が見えてきました。最初に訪れたカトリック黒崎教会です。駐車場を降りて教会を見学することにしました。急な石階段を登ると、レンガ作りと思われる重厚な教会が目の前に現れました。

           ゴシック建築を思わせるカトリック黒崎教会


 この付近は平地が無いためか、集落の中心と思われる高台に目立つように教会が立っていました。この教会の一番の特長は、ゴシック建築を思わせるような天井構造です。そして、教会に多いステンドグラスが左右の窓に並べられていました。日が当たると、彩色がとても見事です。今では珍しくないステンドグラスですが、当時に暮らしていた人々は目を見張ったのではないでしょうか。続いて、隠れキリシタンの方々が祈っていたと言われる枯松神社に行きました。

  急な石階段を登る   現れたレンガ作りの教会  左右の窓にステンドグラス
  

 カトリック黒崎教会は江戸時代が終わってから建築されました。キリスト教が禁教であった250年近い江戸時代は当然教会はなく神父もいませんでした。当時の人々は、枯松神社と呼ばれる神社を信仰しているように装ったようです。枯松神社のすぐ近くに雨をしのげる巨大な岩があります。その岩の下に信者の方々が集い信仰を守ったとのことです。ちょっとした油断で信仰が見つかることがあります。そのため、信者たち同士で結婚してひっそりと秘密に信仰を守り伝えたのでしょう。

  枯松神社へ行く途中の長い猪垣     雨宿りできるほどの巨大な岩
 

 日本では在来の神道と外来の仏教が併存しています。家の中に、神棚と仏殿があることは珍しくありません。もしかして、禁教前は神道も仏教もキリスト教も仲良く併存していたのかも知れません。一神教は通常、一つの神しか認めていません。その点、日本人は神道からして複数の神を認めています。当時も今も、たくさんいる神の一つとしてキリスト教を受け入れているように思えます。考え方によっては、日本人はどの神も受け入れる懐が深い民族と思えます。

  静かな枯松神社     遠藤周作文学館     遠藤周作文学館からの海
  

 枯松神社を見た後、少し先にある遠藤周作文学館に行きました。遠藤周作はキリスト教の考えに基づいた文学をたくさん書いています。私も読んだことがあります。海に面した高台に文学館があります。素晴らしい夕日を見ることができる場所です。なお、文学館内を見学する時間的余裕がなかったのはとても残念でした。いつか再訪したいと思います。次に、文学館から遠くに見える、外海歴史民俗資料館や出津教会に向かいました。

         訪れた、武雄~長崎~キリシタン史跡などのルート

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西九州域 史跡&観光地巡りウォーキング(4/6)

2019年08月18日 | 歴史探訪他ウォーキング

 7月に皆さんと西九州の史跡巡りをしたお話の続きです。天草の殉教公園近くで昼食を取ると、天草下島の西南方面に向かいました。目的地は崎津です。去年ユネスコの世界文化遺産に登録された崎津教会を中心とした集落です。平日だったためそれほど混んでおらず、集落をのんびり散策することができました。島原の乱の地から遠く離れていたためそれほど迫害は無かったようです。しかし、ここの住民の中で隠れキリシタンの方々は、江戸時代を通じて小さな漁村であるこの崎津でひっそりと暮らしていたようです。お話を聞くと、今この崎津地区でも少子高齢化が進みキリシタン文化を守っていくのが大変とのことでした。

       崎津地域を代表するカトリック建築のキリスト教会


 最初に崎津教会を見学後、元々は旅館だったみなと屋に行きました。みなと屋の展示室で隠れキリシタンに関わる資料を見学しました。隠れキリシタンの方々は、表向き仏教か神道の信者となって幕府に見つからないようにしていたのでしょう。そのため、教会の近くには神社やお寺がセットになって建てられています。200年近くも子々孫々キリスト教が伝えられたことには驚きます。それはそれは過酷な生活だったのでしょう。

 崎津教会に向かう     みなと屋でお話を聞く   神社から見た崎津地区
   

 キリスト教より先に伝来した仏教は鎌倉時代には大変な弾圧をうけました。民衆に寄り添った浄土真宗などは特に迫害を受けました。ヨーロッパでは権力者側だったカトリックが宗教改革で立場が弱くなりました。その反動として世界に布教活動するようになったことは何か皮肉のように思えます。当時の仏教者は権力者に取り込まれてしまい、民衆の心から離れていったのでしょう。そんな時に現れたキリスト教は新鮮であり、民衆の心をとらえたのではないかと思います。

   崎津地区にある仏教寺院     島原口之津港に向かうフェリー乗場の鬼池港      
 

 みなと屋で隠れキリシタンの展示を見た後、山側にある神社に向かいました。神社からは崎津地区が見下ろせました。神社仏閣と教会の建立場所に宗教の違いが表れているように思います。神社仏閣はほとんどの場合、集落を見下ろすようなやや高い場所にあります。これは古代からほぼ同じです。権力者の住む場所は高い位置に、貧しい民衆は田んぼの近くや海辺にあります。しかし、教会は集落の中心にあることが多いです。これは宗教が、民衆の上にあるのかそれとも民衆と共にあるのかの違いの現れではないかと思います。

島原半島口之津港に向かう  諫早のホテルに到着   誕生日の方を中心に乾杯
  

 崎津を出ると、天草下島を時計周りにぐるりと回って島原半島の対岸の港である鬼池港に向かいました。40年前私が20代の頃に来た時は、ひなびた港でしたが今は立派な港になっていました。何十台もの車が乗れるフェリーが接岸します。40年前に乗った小型フェリーを思い出しながら島原半島に向けて海を渡りました。対岸の島原口之津港に着くと、宿泊するホテルがある諫早に向かいました。ホテルに到着すると、皆さんと夕食をとりつつ乾杯をして歓談しました。そして、楽しい夕べが過ぎていきました。

      キリシタン史跡を中心に巡った天草・雲仙コース

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