東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施川沿い史跡巡りウォーキング8回シリーズ(その7)の事前調査

2013年08月31日 | 歴史探訪他ウォーキング



 晴れている間に、田布施川沿い史跡巡りウォーキング8回シリーズの7回目ルートの調査に行きました。平坦な道ばかりですが、このシリーズで一番長い10km程度の距離になりそうです。また、田んぼ道を通ることが多いので、その道を今回バイクで走って調査しました。スタートしたのは、城南公民館です。

    スタートした城南公民館           光市に入ってすぐ、田んぼの道へ
 

 城南公民館からは、ひたすら岩田へ向かって道を進みました。道路を走る車は、けっこうスピードを出しています。歩くときは歩道を選んで歩く必要があります。しばらく進むと、田布施町と光市との境界線にきました。そして、田布施川と道路が交差する場所で、田布施川沿いの田んぼ道に入りました。この道は耕運機やトラクタしか通りません。

                 田布施川の右側の田んぼ道を、上流に向け進む


 広めの田んぼ道、この日はトラクタも誰も通っていませんでした。振り返ると田布施川西方面にある呉麓山が小さく見えました。進めば進むほど呉麓山は小さくなります。しばらく田んぼの稲穂を見ながら進むと、大和中学校の校舎が見えるようになります。その大和中学校に着くと、横を通る田布施川沿いに道を変えました。

    振り返ると田布施川西の呉麓山               大和中学校の校門
 

 このころになると田布施川はとても幅が狭くなります。そして、何か所も堰堤があり水をたたえていました。川底を見ると、小さな魚がたくさん泳いでいるのが見えます。その田布施川沿いの道をどんどん進むと、田布施と光を結ぶ交通量の多い県道に出ました。通行量が多くスピードも出ていますので、注意しながら道を渡って再び田んぼ道に入りました。この頃になると、南側に大きな石城山がそびえています。山頂にはっきりとテレビ塔が確認できます。

   交通量の多い田布施~光の県道           南にそびえる石城山
 

 右手の石城山を見ながらどんどん通っていると、田布施川の川幅がだいぶ狭くなってきました。周りの田んぼの景色がとても良いため、少しばかり休憩しました。どの田んぼも稲穂が重く垂れさがっていました。まだ稲刈りは先のようで、トラクタやコンバインは一台も見かけませんでした。空気が澄んだこんな広々とした農村風景は、もう田布施にはありません。1月にウォーキングする予定なのですが、こんな景色は秋しか楽しめません。11月に繰り上げようかと思います。

         曲がりくねって流れる田布施川,田んぼ,そして遠くの山が美しい


 石城山が見えなくなった頃、塩田に着きました。周りに大きな建物がないため、一番大きな塩田小学校が目立ちます。この付近は山に挟まれています。このため風が強くなるのか、あちこちの田んぼでは稲が倒れていました。この付近はあまり来たことがないので、何か所も道を間違えてしまいました。やはり、実際に歩いて下見をする必要があります。塩田をどんどん進むと、田布施川が二つに分かれている個所に来ました。岩国方面との境に向かう川と小行司に向かう川です。

   とても目立って見える塩田小学校          二つに分かれる田布施川
 

 塩田から1km位進んだ場所にある佐田上バス停留所。ここはバスの終着点のようです。このバス停留所下を流れる田布施川は広い池のようになっており、赤色,白色,そして金色などの錦鯉がたくさん群れて泳いでいました。ここからの田布施川は山に向かって消えていました。その上流は小行司です。
 佐田上バス停留所を過ぎて真っ直ぐな道をどんどん進むと、田布施大波野との峠に出ました。この峠の道をまっすぐ進むと田布施街に、左に進むと小行司に行き着きます。走った距離は10.8kmでした。あちこち道を間違えたり、迷ったりしたので実質10kmほどの距離です。距離は少しあるのですが、平らな田んぼ道ばかりですので歩きやすいと思います。海抜0mから海抜300m以上を登り、歩いた距離が11km位あった上関ウォーキングよりは、あるいは般若寺ウォーキングよりははるかに歩きやすいルートです。 

     小行司に向かって消える田布施川、ゆるやかな流れに錦鯉が群れている


 今回調査したルートは、田布施側から見ているのとは反対側の、石城山北側の山麓を見ながらのルートです。田布施ほど開発が進んでいないので、私的には40年前のひなびた田布施を見ているようでした。ほっとするような里山光景が連続するウォーキングルートでした。

         今回通ったルート、田布施川に沿うルートは里山風景の連続  

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サツマイモ畑の草取り,ソバ畑の草取り,粟(あわ)の収穫

2013年08月30日 | 野菜:根菜

 台風15号が来るとのことで、急いで4月に苗を植え付けたサツマイモ畑の草取りをしました。このサツマイモ畑、苗を植え付けてから一度も草取りをしませんでした。そのため、雑草が生い茂っていました。そのため、サツマイモはあまり成長しておらず、中には雑草に負けて消えてしまった苗もありました。今年は収穫があまり見込めないようです。

     雑草だらけのサツマイモ畑          苗の周りの雑草を取り除く
 

 雑草を取り除くと、徒長した茎を土に埋めました。この埋めた茎から根が出て、それが芋になると良いのですが。雑草を刈り取ったり苗を埋めたりしていると、蚊がどんどん飛んできました。油断すると、首筋や耳を刺されます。香取線香を持ってきたのですが、風かあるためあまり効果がありません。何か所か刺されてしまいました。

                徒長したサツマイモの苗を、土の中に埋める


 雑草を刈り取っていると、誤ってサツマイモの根を掘ってしまいました。すると、小さな芋が出てきました。葉はとても少ないのですが、それでもすでにちゃんと芋は育っているようです。11月初めサツマイモを収穫します。あと二ヶ月しかありません。ちゃんとした芋ができるでしょうか。

     出てきた小さなサツマイモ             雑草を取り除いたサツマイモ畝
 

 ところで、8月中旬に種をまいたソバが芽を出していました。種をまいてからずっと雨が降っていない時期が長かったため、芽が出ていないとばかり思っていましたが杞憂でした。しかし、痩せている畑ですので、葉や茎など全体的に元気ではありません。機会をみて、肥料をまこうかと思っています。収穫量は少なくなりそうですが、そばがき程度は食べることができそうです。

                   芽が出ていたソバ、元気が無く痩せている


 続いて、5月末に種をまいた粟(あわ)を確認しました。すると、だいぶ実が成熟していました。今回は、来年の種にする穂だけ収穫しました。来週、すべての穂を収穫しようと思います。幸い、スズメなどの被害に合っていませんでした。稲が熟す頃と重なったため、スズメ達は田んぼに行っているのでしょう。

                    来年の種用として収穫した粟(あわ)の穂

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白菜苗の間引きとビオラの種まき

2013年08月29日 | 野菜:葉菜

 先日、種をまいて苗作りを始めた白菜とキャベツ。発芽後少し混んできたため、間引きをしました。今回は、一つのポットに三つの苗を残すようにしました。今後、白菜,キャベツ共に、一つのポットに一つの苗を残すまで適時間引きしていきます。ところで、その苗をよく見ると、葉が微妙に切れたりかすれたりしていました。どうも、小さな虫に食べられているようです。

              芽生えたキャベツ(左)と間引きした白菜(右)の苗


 次に、冬に咲く花の種をまきました。まいたのはビオラです。夏は松葉ボタンが好きですが、同じように冬はビオラが好きです。パンジーを小さくした花ですが、たくさん群れて咲くので、遠くから見ても綺麗です。庭や畑を縁取るように植えます。

     培養土をポット内に充填               種まきした各種混合のビオラ
 

 4 x 4のポットに培養土を充填後、ビオラの種をそれぞれのポット内に4粒程度の種をまきました。種をまくと、ジョロで水をたっぷりかけました。一週間後には発芽すると思います。大きく育てて11月頃には、今松葉ボタンが咲いている所と同じ場所などに苗を移植しようと思っています。

                  種まき後、ジョロでたっぷりと水やり

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里芋畑と陸稲(もち)畑の草刈り

2013年08月28日 | 野菜:根菜

 昨日までは雨が降っていました。久しぶりの晴れでしたので、草刈りをしました。草刈りをしたのは、里芋畑と陸稲(もち)の畑です。乾いている時に比べて、雑草が水気をたっぷり吸っていたためか容易に刈り取ることができました。刈り取った草がばらばらになる回転ひも式で草刈りをしました。

  刈り取る前の里芋畑、里芋はどこ?       草刈り後の里芋畑、すっきり
 

 刈り取る時に一番注意することは、誤って作物と一緒に刈り取らないことです。里芋の葉は柔らかいため、注意しながら刈り取りしないと一瞬で葉がちぎれ飛んでしまいます。

    草が生い茂る陸稲(もち)畑             畝間がすっきりした陸稲畑
 

 ところで去年、里芋はやや日陰の畑で栽培しました。このため、葉があまり大きくならず、結果的に少ない収穫量でした。しかし、今年植え付けた里芋は、日当たりが良くしかも湿った畑で育っています。このたろめ、去年よりは収穫が増えるのではないかと期待しています。

             葉が良く茂った里芋の葉、去年より収穫量が多い見込み


 ところで、日照りで枯れる寸前だった陸稲(うるち)は、この大雨で息を吹き返しました。とにかく枯れなくてよかったです。約3割の穂がもう少しで熟し始めています。茶色になった穂を摘まむと実が充満しています。去年よりは収穫量は少ないと思われますが、食べるほどの量は確保できそうです。
 一方、陸稲(もち)は、出穂期になり穂が出そろいました。まだ、穂は緑色で籾はペッタンコですが、あと1,2週間すれば熟し始めると思います。もともと湿った畑ですので、陸稲(もち)は日照りの被害は皆無でした。

    茶色になり始めた陸稲(うるち)          出穂期になった陸稲(うるち)
 

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野菜などの大雨の被害

2013年08月27日 | 野菜:葉菜

 猛烈な暑さが、今度は猛烈な雨に見舞われました。畑を見回るとあちこちで花や野菜が倒れていました。倒れた理由は二つあると思います。一つ目は猛烈な風が吹いたために倒れたことです。二つ目に雨で地盤が緩んで立っていることが維持できなくなったためです。主に背が高い作物が倒れていました。特に、葉鶏頭が勢いよく倒れていました。

              せっかくの見頃なのに、左右に倒れていた葉鶏頭


 大雨の影響は思わぬ場所に影響を与えていました。これまで一度も食べられていなかったマクワウリが、この大雨で全滅していました。調べてみると、電気柵が雨のために漏電していたようです。あまり電気が流れず、タヌキが平気で入ったようです。
 よほど腹がすいていたのか、種さえも残っておらず破片はごくわずかでした。この猛暑の時期、食べるものが無かったのではないかと思います。どう言うわけか、4~5個あるスイカは無事でした。タヌキには美味しくないのか、大きくて皮が硬いからではないかと思います。

     倒れてしまった千日紅            すっかり食べつくされたマクワウリ
 

 一番心配だった陸稲畑に行きました。すると、風で半分程度が半倒状態でした。しかし、地面にべったり倒れていた訳ではないので、穂が熟せば稲刈機で刈り取りできそうです。ただ、スズメや鳩などの鳥が来ていたので、網などを張って守るしかないようです。今年も防鳥てぐす張ろうと思います。

                    半分程度が半倒状態だった陸稲


 ところで、大豆畑に行ってみました。すると案の定、被害はありませんでした。ちゃんと根元に土寄せをしたいたため、そしてまだ背が低かったためです。今後9月に来ると思われる台風で倒れないように、さらに土寄せなどの世話が欠かせません。肥料をまいていたせいか、心なしか緑が濃くなっていました。
 この大雨で、日照りの心配をしなくて良くなったのは嬉しいことです。約4週間ぶりの雨でした。来年は特に、日照りに弱い陸稲のような作物を考慮した農作業を考える必要があります。

                  緑が濃くなり、元気いっぱいの大豆

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父親の、苛酷な満州逃避行、そして日本への引揚げ

2013年08月26日 | 家族関連

 平和祈念展示資料館で今日(8月24日)から、終戦時の海外からの引揚者の方々などの労苦に関する展示があることを知りました。去年亡くなった父親も引揚げ者で、田布施農業高校を卒業後に養子先の家があった当時の満州に行きました。当地の開拓をしたり時々軍事教練も受けました。そして終戦。まさにその時、父親はソ連と満州の国境にいたのです。その国境から日本への必死の逃避行は苦難の連続でした。
 亡くなったたくさんの仲間達、飢えで苦しみながらも食べることができなった軍馬、銃で撃たれるも当たらず命拾いしたこと、歩けないお年寄りを殺める手伝いをせざるを得なかったこと、そんな中でやさしい中国人家族に出会ったこと、引揚げ船の中での悲惨な出来事など、今の時代なら100年かかっても体験できないような悲惨な体験をしつつ満州を逃避行し、日本へ引揚げしました。

        昭和17年12月に卒業した田布施農業高校、向こうに箕山が見える


 ところで私が子供の頃、軍服を着て最後に足にゲートルを巻いてから農作業を出かける父親しか知りませんでした。このため軍服が野良着とばかり思っていました。その頃、父親は満州の話をしたことがあまりありませんでした。ところが、亡くなる数年前によく満州での苛酷な逃避行の話をするようになりました。

 父親は、昭和17年に田布施農業高校を卒業後しばらくして、T家(今の私の姓)の養子になりました。そして、当時満州のハルピン北部の四平(しへい)近くにあった満州農産公社に就職(昭和18年3月)したそうです。四平には養子先T家のお店(東沢洋行 「東沢」はT家の屋号)があったため、その近くの満州農産公社を選んだようです。私の祖父(父親の父)の姉がT家に嫁いでいたのですが、子供ができなかったため父親が養子となりました。なお最初、T家には父親の姉が養女に行っていました。しかし、その姉が早世したため、代わりに父親が養子として迎えられました。

              田布施農業高校の卒業写真、左下〇は17歳の父親


 父親は終戦直前、召集でソ連との国境に送られていました。そのまさに終戦時、父親はソ満国境にいたのです。しかし、ソ連兵とのあまりの兵力の差に、機関銃を持ち軍馬を連れて仲間と立ち去ることにしたそうです。機関銃は重かったのですが、菊のご紋章があったため置いて行けなかったとのこと。機関銃は三分割して三人で担ぐか、軍馬に乗せたそうです。
 立ち去った理由は、父親がソ連との国境に来た時、大砲などほとんどの兵器は南方戦線に送られて無いに等しかったからのようです。父親は「戦うなど、話にならなかった」と言っていました。国境から次々に戦車が入ってくるのが見えたそうです。とても機関銃だけでは対抗できません。しかも、正規の軍隊である関東軍はすでに去った後でした。関東軍は事前に敗戦が分かったらしく早々と逃げたようです。つまり、国境に送られた父親達は捨て駒だったのです。父親は、自分達や民間人を置き去りにした関東軍に憤っていました。

    満州中央部の四平(しへい)にあった、
     父親の養子先T家の東沢洋行ビル        東沢洋行で使われていた封筒
 

 ソ連兵がいる正規の道を逃げると危険なため、道無き山から山を伝うようにして逃げたそうです。しかし途中で、あまりの重たさに機関銃を土の中に埋めたそうです。そのうち飢えはじめ、やむなく軍馬を中国人の飼っている駄馬と交換して、その駄馬を食べたそうです。連れ添った軍馬をどうしても食べことができなかったとのこと。なお、背が高くたくましい軍馬を見て、喜んで駄馬と交換してくれたそうです。
 またある時、飢えて仕方なくある建物に忍び込んだらいきなり銃で撃たれ、ほふく前進で命からがら山に逃げ帰ったとのこと。運よく弾が当たらなかったそうです。
 山伝いに逃げている時、ズボンを血で真っ赤に染めた仲間がいたそうです。重い痔だったとのこと。その仲間、「自分は休むから先に行ってくれ、後から行くから。」と言ったそうです。しばらく進んで、二日ばかり待ったそうです。でもいくら待っても、その仲間は来なかったそうです。父親の言うには、皆の足手まといになりたくなかったようで、一人でも生き延びて欲しいとの必死の心遣いだったのではないかとのことでした。

       今ではただの紙屑、当時父親がお金を預けた銀行の定期預金証書
                〇に「満州興業銀行 四平支店」と記載
        ※これらの資料は祖母(父親の母)が敗戦直前に日本に持ち帰ったもの



 さらに、逃げる途中でたまたま、同じ方向に逃げている福島県の開拓団家族と一緒になったそうです。ところがある時、足が遅く足手まといのお年寄りを、家族が相談の上で泣く泣く葬ったそうです。他人である父親だからこそ、そのお手伝いをせざるを得なかったそうです。お年寄りに栄養剤と偽って注射したのこと。父親はその時、そのお年寄りが動かないように、注射する腕を両手で強く掴んで押さえる役だったそうです。その時父親はどんな気持ちだったのでしょうか。注射直後、お年寄りはすぐに目をくるくるさせながら痙攣し始めたそうです。仕方がなかったとは言え、葬る手助けをしたためか、そのお年寄りの死にゆく様が頭からずっと離れなかったようです。

 満州から父親(私の祖父)宛の軍事郵便   満州農産公社に在籍していた証明書
 

 飢えや疲れで、もう逃げられないと悟り仲間数人で投降したそうです。すると、広場に連れて行かれました。その広場の立札に日本の敗戦が書かれていたそうで、それを見て初めて終戦を知ったそうです。一緒に投降した仲間は、一人ずつぱらぱらに中国人に連れて行かれたそうです。父親が連れて行かれた先は若夫婦と子供二人の四人家族だったそうです。その家族と一緒に生活し、父親は無給で働きました。子供二人(10歳位の姉と弟だったとか)と仲良しになったとのこと。その家族は棺おけを作る仕事をしていたそうです。ある時、できた棺おけを街に運んだそうです。大きな川が流れていた街だったとのこと。
 ある時、中国の軍隊に居場所を見つかって軍への入隊を勧められたそうです。当時は八路軍と国民党軍が内戦中で、軍人が足りなかったのでしょう。父親がそれを断わると殴られたそうです。それを見ていた中国人家族が父親を可愛そうに思ったのか、次に軍が勧誘に来る直前に山に逃がしてくれたとのこと。勧誘の軍が去って行った後、子供二人が「おにいちゃん、もう帰ったから出てきていいよ。」と迎えに来てくれたそうです。父親は、良い中国人家族に巡り合ったと言っていました。そのためか父親は、ずっと中国人の恩に感謝し続けていました。
 一緒に投降した仲間達の消息は、それ以来まったく分からないそうです。父親と一緒に山をさまよいながら逃避行した仲間達、そのうちの何人が日本に帰ることができたのでしょうか。

           どの引揚げ船でいつ日本に着いたかが分かる調査書


 ようやく日本に帰ることができると決まった時、中国のある港(葫芦島)で、船に乗る直前に力尽きて無くなった人を山に葬ったとのこと。なお父親の残した資料によると、乗船した船名は「はつうめ」で、1946年10月23日に博多港に着きました。
 その船の中に、お腹が大きい女性が何人かいたそうです。ソ連兵の慰安婦とならざるを得なかった女性ではないかと言っていました。航行中に生まれた赤ん坊がいたそうですが、明らかに白人(ハーフ?)だったそうです。その赤ん坊、船から捨てられたとのこと。そんなおぞましいことが本当にあったのでしょうか。お腹が大きかった女性達、生まれたであろう赤ん坊達はその後どうなったのでしょう。

    引揚げ後に父親の安住の地となった今の高塔、最初右下の燃料倉庫で暮らす
           軍の倉庫群があちこちにあるのが分かる 撮影1950年


 満州での怒涛の4年6ヶ月を生き抜いた父親。亡くなる直前に、中国での苦難の逃避行を、母親に何度も話して困らせたそうです。母親は今、ちゃんと聞いてあげれば良かったと後悔しています。

上の写真の右下〇で写した写真、左は当初一緒に暮らした父親の叔母 撮影1950年

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田布施川沿い史跡巡りウォーキング8回シリーズ(その5)の下見

2013年08月25日 | 歴史探訪他ウォーキング

 これまでの猛暑で、9月に行う予定の田布施川史跡巡りウォーキングの下見がなかなかできませんでした。昨日(23日)、曇り空との天気予報が出たのでようやく下見をすることができました。しかし、帰着直前に雨が降ってびしょ濡れになりました。実踏したのは先日調査したコースです。古墳の石室に入るなどして史跡を実際に確認しました。
 出発地点の田布施交流館をスタートすると、最初の訪問地は岸家です。その事務所に立ち寄って了承を得てから、元首相岸信介氏のお墓をお参りしました。

      出発地点の田布施交流館                  岸家の立派な白い土塀
 

 次に岸家前の道を200m位進んだ場所にある、長田聖観世音菩薩堂に行きました。そこを曲がって北に進みました。あとは田布施川の右岸堤防沿いの道を、正面に見える呉麓山に向かってのんびり歩きました。左側に見える田んぼの稲は、どれも重く稲穂が垂れていました。堤防沿いの道は、先日調査したときは草が生い茂っていました。しかし綺麗に刈り取られて歩きやすく、さらに見通しが良くなっていました。

                  雑草が綺麗に刈り取られた田布施川右岸の堤防


 この堤防の道は、人だけが通ることができます。車もバイクも通れないため、安心してのんびり歩くことができます。1km位歩くと観音橋に着きました。その橋を渡って古代米アートを見下ろしました。前回よりも模様が見えやすくなっていました。良く見ると、田布施町のマークがあることが分かります。

    古代米アート、田布施町のマークか         国森古墳へ行く道に入る
 

 古代米アートを見終わると、次に国森古墳に行きました。古墳前にある家にご挨拶すると、家前の石階段を登ると近いとのことでした。失敬してその石階段を登りました。しかし、確かに古墳に早く着くことはできたのですが、道のあちこちに倒木があったりクモの巣があるなど、ウォーキングコースとしてお勧めできない小道でした。古墳上部に、古墳名を書いた立札がありましたが倒れていました。国森古墳を見終わると、正規の小道を通って古墳前の家に戻りました。
 次に、石走山古墳に行きました。しかし、すごい倒木とクモの巣の連続でした。道が有るような無いような、歩きづらくお勧めできません。本番で行くかどうか迷う古墳です。去年7月に偶然入った御蔵戸の古墳とほぼ同じ大きさの石室がありました。

    倒れた、古墳名が書かれた立札             クモの巣と藪中の石走山古墳
 

 石走山古墳すぐそばの石走山頂上を確認後、下山して農道を歩いて橋を渡りました。橋の下には田布施川が流れています。また、山陽本線が通っています。その橋を渡って後井古墳がある道に進みました。軽い上り坂を200m位行くと古墳の案内板が立っていました。

         橋を渡ってすぐの十字路を、右に200m位行くと後井古墳


 後井古墳は去年10月の田布施町ウォーキング大会に参加した時に見学しました。今年の田布施町ウォーキング大会でも同じコースがあるようです。古墳のような古代遺跡が好きな人は、目が離せない古墳です。この付近では一番大きな石室があります。

      後井古墳への案内板              大人が立てるほど広い石室内部
 

 後井古墳を見学し終わると、いったん元の道に戻りました。そして次に、田布施苑に行きました。田布施苑に寄った目的は二つあります。一つは、ここでトイレ休憩できるかどうかの確認です。トイレの使用はOKでした。二つ目は、ケアマネNさんに会うことでした。Nさんに、母親用の外階段手すりが完成したことを伝えました。

   田布施苑に寄り、トイレ休憩可を確認       見上げるような富永有隣の石碑
 

 田布施苑を出ると、今度は富永有隣のお墓と石碑に立ち寄りました。順路しては、富永有隣のお墓に寄り、瓜迫農業公園に行き、その公園の向かいにある富永有隣の石碑を見学します。ここを見終わると、広い工事現場を迂回するように道を歩いて終点の城南公民館に向かいます。公民館そばには、城南小学校や警察支所もあります。

            まだ天気が良かった城南公民館、そばに警察支所や城南小学校がある


 出発地点の田布施交流館から終点の城南公民館まで、ずっとウォーキングメーターを押して歩き続けました。結果、歩いた距離は6.6kmでした。ほどほど歩きやすい距離です。本番では、3kmの道のりを交流館に戻るか、又は城南公民館を終点にするかです。後者の場合は、出発前に城南公民館に車を一台置きます。終点である城南公民館に到着すると、そこから出発地点の交流館まで車で戻ります。今のところ、前者にしようかと思っています。

    城南公民館到着時の         城南公民館から歩いて交流館に戻る途中、
  ウォーキングメーターの値           にわかに空が暗くなり、そのうち雨に
 

 ところで今回、終点の城南公民館から交流館まで歩いて戻る途中、にわかに雲行きが怪しくなりました。空が暗くなり、そのうち雨がパラパラと降ってきました。さらに風が吹くどしゃぶりになりました。カッパを持ってきていたのですが、着替える最中に濡れてしまいました。そして、靴はびしょ濡れになりました。帰りが散々な下見でした。やれやれ!

              今回下見の実踏をした、田布施交流館から城南公民館までのルート

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小豆畑の草取り,施肥,そして土寄せ

2013年08月24日 | 野菜:豆類ほか

午後から雨が降るかも知れないとのことで、急いで小豆畑の草取り、施肥、土寄せをしました。最初に、平クワで株間の草取りをしました。それが終わると、平クワで取れなかった小豆の根本の草を一本一本抜きました。腰を落としての作業は疲れます。

    腰を落として根元の草を抜く              畝間の草を耕運機で除草
 

 次に畝間の除草をしました。畝間は除草していたのですが、小さな草がポツポツ生えていました。このため、雨が降ると雑草が元気づきます。丁寧に、耕すようにして全ての草を取り除きました。

                 小豆だけ残し、きれいに雑草を取り除く


 草取りが終わると、小豆に肥料をやりました。ここの畑は砂質のため、雨が降ると肥料分がすぐに地中に吸い込まれてしまうようです。日照りのためもあるでしょうが、小豆の葉の緑色が濃くありません。このため発酵鶏糞肥料を、株間に手で一掴みずつ置きました。これで雨が降れば、葉の色が濃くなって小豆の成長が少しは早まると思います。

     株間に一掴みずつ施肥               小豆のすべての株元に施肥
 

 小豆の株元に肥料を置き終わると、すぐに土寄せをしました。三本クワで株傍の土をかき寄せるようにしながら土寄せをしました。同時に株間に置いた肥料にも土が被さるように寄せました。
 午後、ウォーキングの下見から帰ってくると、雨が降って小豆畑はすっかり湿っていました。日照りで枯れてしまった小豆は残念ですが、残った小豆はこの雨で元気を回復すると思います。完璧に除草もしておいたので、今後小豆が雑草で覆われることもないと思います。小豆が順調に育てば、11月初めころ収穫できると思います。収穫した小豆で、おしるこ,羊羹,あんこなどを作ってみたいと思います。

                   株傍の土をかき寄せるようにして土寄せ

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昼 外階段に手すりを設置、夕方 浮島神社の祭礼

2013年08月23日 | 家族関連

 母親が外に出るときに、これまで外階段をよろけるようにして降りていました。先日ケアマネのNさんから、介護保険で外階段に手すりをつけることを勧めてもらいました。その後、業者と手すりを取り付ける契約をしました。そして今回、業者の方が手すりを取り付けに来ました。

     外階段の上の方に手すりを取り付け      外階段の下の方には支柱を取り付け
 

 この暑い中、業者の方は手すりを取り付ける外壁に穴を開けたり、支柱を2本取り付けたりしていました。正午は一旦休憩して、午後から再び工事の再開です。そして、午後一時過ぎに手すりが完成しました。完成時、母親は手すりに掴まって上り下りを確認していました。明日、周東総合病院に通院します。その時に初めて、手すりを使って外に出てみます。この手すり、握りやすくなかなか良いと思いました。

              手すりに掴まって上り下りを確認する母親


 ところで、午後6時過ぎに浮島神社の夏の祭礼がありました。指定場所で待っていると、お神輿が軽トラックに乗ってやってきました。私は「御初穂料」と書いた封筒に金一封を入れて納めました。すると、「浮島神社御神米」と書かれた包みをいただきました。そして、神主さんのお払いを受けました。ただ、高松八幡宮のお神輿を乗せた軽トラックの方が、飾りつけが少し手が込んでいました。
 私が子供の頃、浮島神社のお祭りはとても盛大でした。花火がどんどん上がり、境内は人でごった返していました。ひねきり明神と言われていた時代は、もっと賑やかだったようです。その頃は、浜城の方からも歩いて来る人がいたそうです。しかし、40年ぶりに参加した私でも分かるほど明らかに参拝者が減っています。例えば、お神輿をかつぐ若い人がいないとのこと。高塔地区には400世帯以上の方が住んでおり若い方もたくさんいますが、ほとんどが外部から入ってきた方です。そのため、この浮島神社の祭礼を知らないか、関心がない方が多いようです。

                軽トラックに載ってやってきたお神輿、御初穂料を納める

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日照りの被害出始める。陸稲枯れる寸前,小豆一部枯死

2013年08月22日 | 野菜:豆類ほか

 八月の初めからまったく雨が降りません。このため、小豆の一部が枯れ始めました。同じ頃に種をまいた大豆は今のところ平気です。小豆より数日発芽が早かったため、それだけ根を深く張ることができたためと思われます。
 ところで、私は普段我家の2階にいるのですが、日射が強くてどうしても昼間もクーラーを使わざるを得ません。さらに、昼間日射で温まった天井が、夜放熱するので部屋がなかなか冷えません。いったいいつまで、この暑さと日照りが続くのでしょうか。

               昼間石城山方面を見ると、いくつもの入道雲が発生


 小豆が枯死しし始めましたが、私が一番恐れているのは陸稲です。葉を見ると、水分が足りず葉が内側に巻いています。あと一週間雨が降らないと枯死すると思われます。今は、穂ばらみ時期なのですが、穂を触っても膨らんでいません。水分が少ないため、穂が成熟できないようです。今年は不作になりそうです。最も心配しているのは、来年用の種籾が収穫できない事態です。

     水分が無いため、葉が内側に巻く           穂は実らずサラサラ状態
 

 畑で栽培する陸稲の一番の大敵は日照りです。穂は出ていても実らず、サラサラ状態です。根元を見ると、土がカチカチに固まっています。根元の雑草も、さすがに枯れそうです。雑草が枯れるほどの日照りですので、陸稲がどのくらい収穫できるかまったく分かりません。

          出穂しているものの、サラサラした穂で成熟する気配はなし


 来年用の種籾が収穫できないと、来年また種まきできません。うるち種の陸稲は、売っておらずもう手に入れることができません。このため、数株の陸稲を選んで種籾用としてこれから毎日水をまくことにしました。枯れてからでは手遅れですのです。

                種籾用にする数株の陸稲にだけ、これから毎日水まき      


 小豆はすでに枯死したものが数株あります。葉が縮んで黄色になり、カラカラに乾いていました。これ以上、枯れるようならば水をまくしかないかも知れません。来年も日照りが続くようでならば、スプリクラーを設置する必要があるかも知れません。
 ところで、箱で栽培している赤米は種子を更新するためだけに栽培しています。水を毎日箱の中に入れているため、日照りと関係なくとても元気です。来月出穂しそうです。

     日照りで枯死した小豆                  箱の中で元気な赤米
 

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自家製のスイカやマクワウリを堪能

2013年08月21日 | 野菜:果菜

 このところの日照りで、陸稲や野菜などが枯れそうです。しかし唯一、良いのは美味しいスイカやマクワウリが収穫できることです。タヌキが入らないように7月末に電気柵を設置しましたが大成功でした。まったく食い荒らされません。

               電気柵をはみ出るほどに成長した、スイカとマクワウリ


 今年作ったスイカですが、小玉を選んだのは正解でした。小さなスイカが5~6個成っていました。今年初めて一個収穫しました。熟れているかどうか、指で弾くように入念に叩きました。熟れていないと、コンコンと軽い音が響きます。しかし、熟れてくると、ボンボンと鈍い音になります。収穫後すぐに冷蔵庫にいれました。小玉スイカのため、冷蔵庫にすっと入りました。

     どんどん大きくなるスイカ                 次から次へと収穫中のマクワウリ
 

 マクワウリは、このところ毎日のようにポリポリ食べています。この暑い夏、水分の多いマクワウリは美味しく喉を潤してくれます。しつこくない甘さは、いくら食べても食べ飽きません。
 初めて収穫したスイカ、包丁で割るまでは熟れているかどうか心配でした。しかし、包丁を入れるとすぐ、パリッと音を立ててスイカ自身にひびが入り割れました。二つに割ると、美味しそうな赤い色でした。すぐに、食べてみました。水気がとても多く、甘みも市販のものに劣りません。割った半分を、美味しくいただきました。残りは明日食べようと思います。

              二つに割れた小玉スイカ、ジューシーで美味しそうな赤

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田布施町 麻郷 高塔地区名の由来と国木田独歩

2013年08月20日 | 歴史探訪他ウォーキング

 私が夕食時に、母親と話をしていました。私が、たまたま高塔にある国木田独歩吉見家仮寓後の話をしていると、思いがけない昔の話をし始めました。
 今の高塔は世帯が400以上もある大地区になっていますが、私が子供の頃は30世帯ほどのさびしい地区でした。さらにその昔、麻郷の僻地のような場所だったようです。田布施地方史研究会会長のHさんによると、僻地となった理由は、軍が今の高塔地区に燃料倉庫を設けるために土地を接収したためだそうです。その時に国木田独歩が住んでいた吉見家も移転させられたようです。さらに母親が嫁いだ後に聞いた話では、戦時中、警備のため今の高塔に通じる道は閉鎖されていたそうです。そして、麻郷護国神社前と今の旭と新川の境近くの二か所の道に軍の検問所があったとのことです。なお、その燃料倉庫は普通の納屋か農業倉庫のように偽装されていた、とのことを私は聞いたことがあります。

                畜舎に改造した燃料倉庫 撮影1951年
               手前の檻で鶏が飼われているのが写る



 終戦後昭和20年代始め、海外にいた人々がいっせいに引き上げてきました。父親も引き上げ者の一人でした。そして開拓団として国から軍の土地や家を与えられて、今の高塔などに入植し始めました。テント,倉庫,掘立小屋などを与えられて、一つ屋根の下に2~3世帯の家族が住んでいたとのこと。
 私の祖父(故中田幸槌)が終戦後、麻郷村役場に勤めていた祖父の友人に、父親が軍の燃料倉庫をもらえるようかけあったそうです。その結果、父親はその燃料倉庫を払い下げてもらって親戚の人と住み始めたそうです。その後、私の父親を含め開拓を始めた周りの人々が、農業団体を組織しました。そして、その副団長に父親が選ばれたとのこと。そして桃などの作物を共同で作り始めたそうで、その後酪農も始めました。

             高塔山中腹から見下ろした高塔地区 撮影1957年
                   手前の丘には桃が植えられている



 その頃、住んでいる人があまりに少ないため、藤尾などの地区を合わせて新しい地区を作ることになったそうです。その時、新しい地区名を何にするかもめたとのこと。桃をたくさん作っているので、一時「桃山」地区にしようとの話も出たとのこと。なかなか新名称が決まらず、たまたま父親がそのことを母親に漏らしたそうです。すると、母親は国木田独歩が書いた作品「帰去来」に出てくる高塔を取って「高塔」地区にしたらどうかと提案したそうです。その案を父親が持ち帰って、みんなに話したところ、みんなが賛成して「高塔」地区に決まったとのこと。それでも、当時の高塔地区は30世帯ほどの少なさでした。

              高塔山裾野の畑から見上げた高塔山 当時まだ禿山 撮影1956年
                   頂上は眺めが良く、幼稚園の遠足コースにもなっていた



 作品「帰去来」に何度も出てくる高塔山は、国木田独歩が吉見家に住んでいた頃によく独歩自身が散策した山です。私が子供の頃(昭和30年代)は禿山で、頂上から八海,平生,曽根,水場などが眼下に見えました。祖父(故中田幸槌)とまつたけを取りに行ったことがあるなど、この高塔山周辺を駆け回っていました。また、父親は私のために、高塔山の一角に、将来家を建てるための木材にする木を植林をしていたことを覚えています。
 それにしても、まさか母親が高塔地区の名付け親だったとは。昔の地図には藤尾と書いてあるのに、どうして高塔の名前が出ていないのか不思議に思っていました。その謎が一つ解けました。母親は今も、独歩の作品「帰去来」が載っている「独歩郷土文学抄」(昭和16年発行)を大切に持っています。柳女(柳井高校の前身)時代に購入したそうです。

      独歩の作品集「独歩郷土文学抄」                  「帰去来」に出てくる高塔
 

 今の高塔地区が戦前に軍に接収された話で、思い出しました。私の母親の妹は、平生町佐賀の魚見地区にあった金福家に嫁ぎました。その金福家は、元々平生町阿多田半島の田名に家がありました。漁港があり漁業が盛んだったとのことです。しかし戦前、地区が丸ごと軍に接収されて、佐賀の魚見に地区ごと移転させられました。軍はその阿多田半島に人間魚雷回天の基地を作ったのです。この回天基地と高塔地区にあった燃料倉庫は、何らかの関係があったのでしょうか。※その後、母親に聞いた話では、九州の大刀洗(たちあらい)飛行場の燃料だったそうです。
 戦後、魚見地区の人々は田名地区を再興しようと国に陳情したそうです。しかし、新光学院を作るためとのことなどで、願いはかないませんでした。時は流れて世代交代が進み、魚見地区の人々は魚見がふるさとになってしまいました。今、阿多田交流館そばに田名地区を再興しようとした人々の石碑が立っています。母親の妹の義理の父親名(故金福新一)も刻まれています。阿多田交流館内に、戦前の田名漁港の姿が再現された模型が展示されています。
 阿多田交流館前に立って、原寸大の人間魚雷回天レプリカ,旧田名地区の方々の石碑,そして目の前に広がる新光学院跡の広大な空き地を見ると、時の無情さを感じます。

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早朝と夕方、大豆畑の草取り,施肥,そして土寄せ

2013年08月19日 | 野菜:豆類ほか

 7月末に種を蒔き、耕耘機で最初の草取りをした大豆畑、今回は手で二回目の草取りをしました。畝間の草は耕運機手や草刈機で草を刈り取ることができますが、大豆間際の草はどうしても刈れません。そこで今回、手で草刈りをしました。最初に大豆の株と株の間を平クワで除草しました。

           大豆の株と株に生える雑草を、平クワで掻くようにして除草


 平クワで株間の除草を済ませると、大豆の生えぎわの雑草は手で抜きました。これが結構大変です。株の横に座って草を一本一本抜くのは、暑さもあって汗だくの作業になります。
 プロの農家の大豆畑を見ることがあります。全く雑草が生えていません。どのようにして除草しているのでしょうか。おそらく除草剤を使用しているか、専用の除草機を使っているのではないかと思います。

   大豆の根元の雑草を一本ずつ抜く          ようやく雑草が無くなった大豆
 

 雑草をすべて刈り取ると、株間に肥料をまきました。大豆はそれほど肥料を与える必要はないのですが、この畑は砂質で痩せています。実際、大豆の葉は薄い色をしています。ただし、肥料を与えすぎると、葉ばかり茂って実があまりできません。このため、少しの肥料です。

      株間に少し肥料をまく               土寄せ後の大豆の根本
 

 肥料をまき終ると、土寄せをしました。三本クワを使って、大豆の根元や肥料の上に4cm位でしょうか土を寄せました。これで、しばらくは除草の心配はありません。むしろ、大豆が成長すれば根元が日陰になるため雑草が大きくなれず、除草の心配は無くなります。それにしても、早く雨が降って欲しいところです。もう3週間近く雨が降っていませんので。

              三本クワを使って、大豆の根元に土をかき寄せる

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真夏の夜、久しぶりに天体望遠鏡で夜空を観測

2013年08月18日 | 田舎暮らし

 我家に20年位前に購入した天体望遠鏡があります。子供達に夜空を見せたり、ボーイスカウトなどの指導時の夜空観察に使いました。今回、虫干しのつもりで久しぶりに出して天体観測してみることにしました。組み立て方をだいぶ忘れていましたが、あれこれ試行錯誤で思い出しながら組み立てて見ました。最初、湿気などでレンズなどが傷んではいないか心配でした。しかし、それほど傷んではいませんでした。良かった!!

    望遠鏡を支える三脚を組み立て           主鏡筒を三脚に取り付け
 

 赤道儀付きの三脚に、反射鏡が付いた主鏡筒を取り付けました。続いて、望遠鏡のバランスをとるための錘をつけました。そして、ファインダーを取り付け、最後に接眼レンズを主鏡筒にはめ込みました。何年も組み立てなかったため、だいぶその手順を忘れていました。マニュアルを見ながら思い出して、なんとか組み立てることができました。

       A:倍率を決める接眼レンズ,B:ファインダー,C:バランスをとる錘


 天体望遠鏡には二種類あります。一つはレンズを使う屈折式です。もう一つは凹面鏡を使う反射式です。反射式は光の収差が無いのため、大型望遠鏡に向いています。屈折式は比較的小型の望遠鏡などに使われます。アマチュアが自作しやすいのは屈折式です。私が中学生の頃、ガラスを磨いて望遠鏡を作った生徒がいました。今、そのような中学生はいるでしょうか。
 望遠鏡の組み立てが終わると、次にとても大事な設定をします。夜空は北極星を中心に反時計回りに回転しています。このため、望遠鏡で星を見ていると、どんどん星が動いて望遠鏡の観察視野からすぐに見えなくなってしまいます。倍率を上げるとそれが顕著です。星を追いかけるように望遠鏡を左右上下に操作するのは大変な作業になります。
 星を追いかける操作を容易にするため、主鏡筒を取り付けた赤道儀を地球の自転軸に合わせる設定をします。

           まずは、望遠鏡を取り付けた赤道儀の軸を北に向ける


 赤道儀を地球の回転軸に合わせるには、次の二つのステップがあります。一つ目は赤道儀の軸を北に向けます。北斗七星かカシオペア座から北極星を探して、その方向に軸を向けます。簡易的には方向磁石を使っても良いです。しかし、正確を記するならば方向磁石は真の北から数度ずれていることを考慮する必要があります。
 次のステップは、緯度を合わせることです。今はGPSがあるため、容易に緯度を知ることが゛きます。ちなみに我家の緯度は33度56分42秒ですので、赤道儀の傾斜角を34度と設定しました。これで、この望遠鏡を地球の自転軸に合わせることができました。

      我家の緯度、33度56分42秒           傾きを34度に設定
 

 なお、もう一つ大切な準備があります。それは、主鏡筒に取り付けているファインダーと主鏡の方向を合わせておくことです。昼間、数km先の風景を主鏡とファインダーで見て合わせておきます。星を観測する時、最初にファインダーで星を探します。ファインダー窓の十字の中央に星を合わせると、主鏡でその星を見ることができます。

     懐中電灯に赤いセロファン              だんだん暗くなり月明かりに
 

 星空を観察するのは深夜です。目を深夜に慣らすため、懐中電灯に赤色のセロファンを取り付けておきます。このセロファンを取り付けると、眩しくありません。また、星座ガイドなどを暗闇の中で読むときの明かりとして使います。これで、あらかた天体観測の準備ができました。

              今回は、月が明るいため土星などの惑星は見にくい


 今回は、半月のため土星などの惑星を見るための条件はよくありません。もっぱら月を観察しました。20年ほど前に購入した望遠鏡ですが、月のクレーターが良く見えました。倍率を上げると月のクレーターがアップになり、さらに凸凹がはっきり分かりました。久しぶりの天体観測でした。来月の新月には土星や木星などの惑星を見ようと思います。

         接眼レンズをデジカメで覗き込む、クレーターが少し写る

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ようやく、秋ジャガイモを植え付け

2013年08月17日 | 野菜:芋類

 相変わらずの日照り続きでしばらくは雨を期待できませんが、秋ジャガイモの植え付けをしました。畑は事前に耕耘機で耕しておきました。日照りで畑の土はサラサラに乾いていますが、かまわずジャガイモを植えつけました。夕立などで雨が降ったら、畑が湿ってジャガイモが芽生えると思います。植えつけたジャガイモは、ニシユタカ2kgです。

      植えるための筋を引く                 株間幅を決めるための紐
 

 最初に、種ジャガイモを植えつける筋を平クワで引きました。深さは5cm位です。筋を引くと、筋に沿ってジャガイモの株間隔を決めるための紐を張りました。この紐は、田植え紐として使ったものです。30cm間隔ごとに赤い細紐が付いています。紐を張ると60cm間隔に種ジャガイモを置きました。春ジャガイモは芋を切断しましたが、夏は芋がとても腐りやすいため切断はしません。

             60cm間隔毎に種ジャガイモを置く


 種ジャガイモを全て置き終わると、今度は種ジャガイモと種ジャガイモの間に肥料をまきました。まいたのは鶏糞を発行させたものです。ジャガイモはそれほど肥料をやる必要は無いのですが、肥料をまくと葉の色や茂り方にあきらかに違いが出ます。

           種ジャガイモと種ジャガイモの間に肥料を置く


 去年の夏も秋ジャガイモを植えつけ をしました。そして10月末に収穫しましたが、日当たりが良くなかったことと、無肥料で育てたためか、それほど収穫量は多くありませんでした。同じ条件ではサツマイモの方が多く収穫できました。今年の秋ジャガイモの収穫量はどうでしょうか。少なくとも、土寄せや草取りは欠かせません。種ジャガイモを植え付けて肥料をまき終わると、その上に土を被せて作業は終わりました。

     種ジャガイモと肥料を交互に               最後に土を被せる
 

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