久留米市での一番の収獲は、個人的には史跡巡りではなく櫨蝋(ハゼロウ)でした。最初と最後に訪れた久留米つばき園には、櫨蝋が久留米の伝統工芸品として展示されていました。江戸時代に盛んに生産された櫨蝋の木(品種:松山櫨)を探し出して復活したそうです。驚いたことに、その松山櫨を接ぎ木して増やした200本を並木にした道まであるのです。さらに、櫨を使った染物も展示されていました。田布施町でも櫨蝋が復活再現されていますが、増やしたり染物(黄色や橙色)にしていません。なお、田布施町は江戸時代の抽出方法を復活させていますが、久留米市では近代的な方法で蝋を抽出しているようです。
久留米市の伝統工芸、櫨蝋や櫨染めなど
話は元に戻って、須佐能袁神社の拝殿でお賽銭を入れて拝みました。私は、月並みですが健康と家族の安寧です。須佐能袁神社拝殿などをぐるりと回って見学後、草野発心堂に向かいました。久留米市でその昔に使われた古い道具などが、ここに集められて所狭しと展示されていました。中には用途が分からないものがいくつかありました。
須佐能袁神社の拝殿 拝殿で健康・安寧のお祈り 古道具など草野発心堂
続いて、草野歴史資料館に向かいました。到着すると、田布施町から我々が来るとのことで館長さんが待っていました。その方は、田布施町にある石城山に来たことがあるそうです。8年ほど前に開催された第一回神籠石サミットに参加されたのではないでしょうか。その方は、神籠石神域説のようで、草野歴史資料館に展示されている絵図に神籠石が神域として描かれていました。もう少し時間があれば、興味深くお話を聞けたと思います。
草野歴史資料館に到着 館長の説明を受ける 食事処なかのに到着
草野歴史資料館には巨大な絵図が何枚も展示されていましたが、古墳から発掘された遺品なども展示されていました。残念ながら時間切れとなりました。名残惜しいのですが、観光ガイドボランティアの方々に先導されて食事処なかのに向かいました。観光ガイドボランティアの方々も、スケジュール内に史跡巡りを納めるのに苦労しているようでした。我々のためにご苦労様でした。
久留米の伝統料理を含む和食 みんなで和気あいあいに料理を堪能
食事処なかのでは、伝統的な久留米料理を含んだ美味しい和食を食べることができました。史跡巡りが主目的ではありましたが、やはり美味しい郷土料理を食べることも楽しみの一つです。美味しい料理を食べると、心が和み体の疲れも取れます。楽しい食事が終わると、久留米つばき園に戻りました。そこで思いがけなく、久留米の伝統工芸の一つである櫨蝋の展示を見ることができました。櫨蝋を見学後、次の史跡である大宰府天満宮に向かいました。
福岡県久留米耳納北麓周辺の史跡巡りコース
今年は暖冬なのでしょうか、気が付くと我家の庭の蝋梅がもう満開でした。一部の花びらは、傷み始めたり散り始めています。3年前に埼玉県の蝋梅園に行ったことがありますが、それは一年で一番寒い2月のことでした。今、一年を通じて暖かくなっているのではないかと思います。このまま暑くなれば日本の四季がなくなってしまう、とテレビで放送していました。
青い空に映える黄色の蝋梅の花
以前、蝋梅と黄梅を取り違えていました。蝋梅はその花びらが、薄透明で蝋に似ているので命名されたようです。よく見かける木の花である桜,梅,桃などと明らかに違う形の花びらです。この冬は暖かいのか、それとも寒くなるのでしょうか。一番寒い2月の気候が心配です。ここ数日バイクに乗っていると冷たい風で手が痛くなります。
どの枝にも花が咲き乱れる 蝋を薄く伸ばしたような花びら
熊本市を出ると、久留米市に向かいました。予定より少し遅れて久留米つばき園に到着しました。駐車場傍にオレンジの制服を着た観光ガイドボランティアの方々が待っていました。Eさんが、我々のために観光ガイドボランティアを頼んでいたのです。その方々と挨拶をした後、さっそく久留米市の史跡巡りに行きました。
建久8年1197年勧請の由緒ある須佐能袁神社(福岡県の指定文化財)
田布施町でも観光ガイドボランティアの話が出ることがありますが、いつの間にか消えてしまいました。久留米の場合、歩いて行ける範囲にたくさんの神社、寺院、歴史館、古民家、つばき館、古墳などが密集しています。観光ボランティアが活躍できるキーワードの一つとして、歩ける範囲に史跡が蜜集していることでしょうか。
観光ガイドボランティア 元病院の山辺道文化館 元病室のシャンデリア
最初に、久留米つばき園の中を歩きたくさんの椿を見学しました。久留米つばき園を出ると、元気な子供達の声が聞こえました。小学校が近くにあるようです。しばらく歩くと、元々は病院だった古い木造の建物を改装して作った山辺道文化館に行きました。中に入ると、元病室が市民に親しまれるように改装されていました。久留米の文化財である民具や獅子舞や、市民が作った作品などがたくさん陳列されていました。
旧久留米城を移築した山門 静かな寿本寺堂 道に沿って長い鹿毛家住宅
山辺道文化館を出ると、旧街道に出ました。この街道は直角の場所が多々あり軽自動車でないと曲がりにくいとのことでした。街道に面した寿本寺の山門を入り寿本寺本堂をお詣りしました。なお、山門は元々は旧久留米城にあったそうです。明治初期に寿本寺の前に移築したとのこと。次に、旧街道に沿うように細長く建っている鹿毛家住宅傍を歩きました。この建物には今も人が住んでいるそうです。
きらびやかな朱色の専念寺 須佐能袁神社の立派な入口門
旧街道をどんどん進むと、今度はきらびやかな朱色の専念寺が見えてきました。お寺にしては朱色がとても目立ちます。最初は神社かと思いましたが、屋根を見上げるとお寺です。続いて街道をはさんで専念寺の向かい側に建つ須佐能袁神社に行きました。この神社は何と言っても入口門が大きく立派です。見上げていると首が痛くなります。
福岡県久留米耳納北麓周辺の史跡巡りコース
秋に種を蒔いたり苗や球根を植えたりした春野菜が、今のところ順調に成育しています。早朝は霜がおりて畑は真っ白になりますが、頑張って耐えているようです。ニンニクですが、芽が出て今では葉が数枚出ています。葉ニンニクとして収穫できますが、葉を取り過ぎると球根が大きくなりません。今のところ、葉を収穫しないでおこうと思います。春になって花芽だけを収穫しようと思います。
葉が出揃ったニンニク、まだ葉は収穫せず
絹サヤエンドウ豆やグリーンピースも寒さに耐えています。冬を越すのに最適な大きさに育ちました。豆類は秋に大きく育ちすぎると、冬に耐えられず枯れてしまいます。11月下旬に種をまいた冬菜、名前のとおり抜群な耐寒性でだいぶ育ちました。もう少しすれば食べられそうです。
絹サヤエンドウ豆 グリーンピース あと少しで収穫する冬菜
秋に苗を植えたタマネギと赤タマネギも活着して冬に耐えています。種を蒔いて苗を育てたタマネギ、やや小さめなのが気になります。売れ残り品だった赤タマネギ、購入時しなびていましたが無事に活着しました。初夏の収穫が楽しみです。野菜は心配ないようですので、今後は柿,桃,グミ,ブラックベリー,ビワ,梅などを剪定しようと思います。何だかんだと言いながら忙しい毎日です。
種まきから育てたタマネギ 売れ残り品だった赤タマネギ
竹田市の岡城の次に阿蘇神社に向かいました。私は初めて行く神社でした。ところで、阿蘇は世界有数のカルデラです。その昔、阿蘇山が噴火してできた火口が阿蘇なのです。正確には、大噴火した時に阿蘇山が沈下して、周りの山麓だけが残りその窪みが阿蘇の地なのです。大噴火した時、火砕流が山口県まで到達したそうです。直径は約20kmでしょうか。カルデラ内に鉄道が走っているのは世界でも阿蘇ぐらいのものでしょう。
熊本地震で、桜門と拝殿が倒壊していた阿蘇神社
阿蘇神社に来て、熊本地震の被害の大きさに驚きました。去年行った熊本城の崩れた石垣にも驚きましたが、今回訪問した阿蘇神社も重要な建物が倒壊していました。倒壊していたのは桜門と本殿です。倒壊した建物はすでに撤去されて更地になっていました。当然参拝ルートが大幅に変更されていました。
更地になった桜門跡 参拝前に手を洗う 更地になった本殿跡(右)
変更されていた参拝ルートを歩きました。元々は桜門から本殿に向かうのですが、倒壊していたため更地になり、その跡地は通行止めになっていました。通ることができないため、阿蘇神社の脇から入るルートを通ってお詣りしました。
更地になっていた桜門と本殿 阿蘇神社ガイド案内所に立ち寄る
阿蘇神社が歴史的に面白いのは、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の重要な助言者が阿蘇神社と関わりがあったらしい国学者長野主膳だったことです。大老になる前の不遇時代に井伊直弼が懇意にしていた人物です。長野主膳の助言で、もしかして大老になれたのかも知れません。逆に言えば、長野主膳に出会わなければ暗殺されなかったかも知れません。井伊直弼同様、長野主膳も悲惨な最後を迎えています。
熊本市内のホテルに到着 歓楽街を散策 美味しい料理にお酒
阿蘇神社の参拝を終えると、熊本市内のホテルに向かいました。ちょうど帰宅ラッシュで混んでいましたが無事に着きました。少し休憩して歓楽街に繰り出しました。とある居酒屋に入り、美味しい料理に美味しいお酒を飲みました。そして、談笑しながら楽しい時を過ごしました。
今回巡った、北九州域 史跡巡りウォーキングのコース
小麦の種まき後、小麦畑に雑草が目立つようになりました。これらの雑草を取り除く必要があります。今回、小麦を傷つけないように耕耘機で耕耘除草しました。耕耘機の前進速度を落として、かつロータリーが地面の上部だけを耕耘するようにセットして、さらにロータリーの回転数を上げました。つまり、雑草が生える地上部を根ごとかき混ぜました。
小麦を傷つけないように、畝間を耕耘機で除草
私が小麦を作っている理由は、ほとんどは緑肥のためです。小麦粒として収穫するのはわずかです。4月頃に小麦を3列程度残して、残りの小麦は草刈機で青刈りします。その刈り取りした場所に、サツマイモ,綿,藍,そしてサトウキビなどを育てます。ちなみに、残した3列程度の小麦は夏に収穫します。そして、最終的に製粉して小麦粉にします。そしてパンや団子などにして食べます。
耕耘機で畝間除草 何度も畝間を往復 小麦の分げつ状況を確認
小麦畑の除草ついでに小麦の生育状況を確認しました。小麦は、1月頃までに有効茎数が決まります。有効茎数とは春になって穂を出す茎です。今回確認した結果は3本でした。さらにもう2本分げつして増えた欲しいと思います。分げつを促進するため、肥料をやろうかどうか迷っているところです。ところで、そろそろ麦踏みもしなければなりません。
もう少しで畝間除草が完了 やっと終わった小麦の除草
般若寺十王堂の見学を終えると、大畠が眼下に見える場所に行きました。そして、腰を下ろして眼下に見える絶景を見ながら昼食休憩しました。日が照っていたため、ポカポカ陽気の中で楽しく談笑しながら休みました。昼食休憩が終わると、平生町側を見下ろせる展望台に行きました。平生町は今ではすっかり陸地になっていますが、江戸時代以前は海でした。大畠側が海であるように、その昔は平生側も海が広がっていました。古代において両側に海を見下せたのが般若寺なのです。
呼び方が分からなかった栓見神社(ごんげんじんじゃ)を参拝
般若寺を降りると、平生萩原を通り、さらに大野萩原の道をどんどん下りました。すると、舗装道路が30m位パックリと無くなっていました。道全体が土砂崩れとなって川底に落ちていました。平野部の災害と言えば浸水が多いのですが、山間部の災害は土砂崩れが代表的です。日本はどこにいても災害が絶えません。だから忍耐強い国民性が養われたのではないでしょうか。
大畠側の海を見下ろす 古代は海だった平生町 崩れて無くなった道
崩れて道が無くなった箇所は二ヶ所でした。その二ヶ所のうち一ヵ所は修復工事をしていました。工事車両の脇を避けるように歩きました。そして、ようやく平生平野が見下ろせる場所に着きました。少し歩くと、稲荷大明神の本殿が見えました。本殿前の広場で少し休憩しました。
稲荷大明神の鳥居と本殿 大野北道脇のお地蔵様
稲荷大明神を過ぎると、呼び方が分からない栓見神社に向かいました。栓見をただ単に音読みすると「せんげん」ですが、本当にそう読むのか最初さっぱり分かりませんでした。栓見神社を参拝後、お地蔵様が並んでいるのが見えました。そのお地蔵様の所にいくと、お堂があるではありませんか。しかし、名前を示すようなものがありませんでした。
寂しげな観音堂 通りすがりのお地蔵様 般若寺方面を振り返って
お地蔵様を眺めていると、通りすがりの軽トラが止まりました。軽トラから降りてきた方が言うには、栓見神社は「ごんげんじんじゃ」で、お地蔵様は観音様とのことでした。初めて栓見神社の呼び方が分かりました。さらに、同級生のTさんが偶然に通りかかりました。やはり「ごんげんじんじゃ」とのこと。栓見神社から平生町街にどんどん歩いていると、Tさんが追いかけてくるではありませんか。そのTさんから、平生町の民話集をお借りしました。その民話集を読むと、権現神社となっていました。「権現」の漢字が、地図に書き写す時に何らかの理由で「栓見」に間違えたのかもしれません。不思議です。さて、無事に下見を終えることができました。下見ウォーキングに参加された方々、お疲れさまでした。
平生町大野北ウォーキングの下見コース
先日、霜が降りて枯れた綿から実を収穫しました。乾燥すれば綿が取れそうな実だけ選んで収穫しました。収穫後、数時間をかけて自家製乾燥機で強制的に乾かしました。乾燥後、9割は実がパックリ割れて綿が露出していました。残り1割は割れていないか、黒く変色して腐っているようでした。
強制乾燥した綿の実、割れて綿が露出
自家製乾燥機からブルーシートの上に、乾燥した綿の実をどっさりと広げました。そして、実が割れて綿が露出しているものだけを別の段ボールに移しました。ざっとみて9割を移したでしょうか。残り1割は捨てました。実を強制乾燥させたためか、実の皮がカチカチに硬くなっていました。特に、割れた実の先端は硬く尖っていました。手袋をしていなかったため、指先に刺さり血が出ました。
乾燥した綿の実を広げる 綿が出た実を移す 綿が出ない実は廃棄
綿の品質を確かめるため、数粒ほど綿を取り出しました。そして、綿繰り器で綿と種を分離しました。次に綿だけを手に取ってみました。すると、何の問題はありませんでした。つまり、通常の綿と同じように糸紡ぎできるようです。ただ、カビで変色したと思われる綿は綿質が落ちるようです。変色した綿は廃棄しようと思います。
取り出した綿から種を取る 綿の品質を確認
原尻の滝を出発すると、道を少し戻って竹田市の岡城に向かいました。このお城は、作曲家滝廉太郎が作曲した「荒城の月」で有名です。学校で必ず学ぶ曲です。一度行ってみたいと思っていたお城でした。この史跡に行くことができてハッピーでした。大阪城のような大規模なお城もいいですが、山岳地帯の堅固なお城もいいものです。
岡城で一番高低差がある石垣、下を覗くと足がすくむ
岡城に着いた頃から雨が激しく降るようになりました。岡城に行くためには、駐車場から長い距離を歩かなければなりません。1km位でしょうか。今回の史跡巡りウォーキングに参加したメンバーのうち、四人は傘を差して岡城に登りました。残りのメンバーはマイクロバスで登りました。雨の中、私は歩く方を選びましょう。
岡城の駐車場に到着 左:歩く人,右:マイクロ 急こう配の石段
岡城は鎌倉時代初期にはすでに作られていたようです。この城を巡る戦いで一番有名なのは、戦国時代の島津氏との戦いです。九州を治めていた大友宗麟が、島津氏に負け続けて九州を追い出される間際だった時のことです。岡城主が籠城して最後に勝っていることです。それだけ、守りに強い城だったのです。日本の名城100に選ばれているそうです。
強い雨の中、岡城内を散策 岡城見学後、立派な大手門を下る
雨が強かったため、今回は二の丸跡や本丸跡に建つ岡城天満神社など一部だけしか見学できませんでした。一番の見どころはやはり堅固な石垣でしょうか。目がすくむような高低差のある石垣は圧巻です。こんな山の中に、よくもまあこんなすごい城を作ったものです。雲海がこの城を取り囲んだ光景を想像すると、名城である由来がよく分かります。
大手門へ続く急石段 竹細工店で物色 阿蘇神社に到着
横殴りの強い雨が降っていたため、笠を傾けないと歩けません。そのため、岡城を早々に引き上げました。機会があれば、もう一度来てゆっくりと見学したいと思います。下山途中に竹細工のお店がありました。数人が竹細工のお土産を購入していました。駐車場に戻ると、次の史跡である阿蘇神社に向かいました。
雨の中、笠を指しながら見学した岡城内ルート
秋に種を蒔いたり苗を植え付けた冬野菜を次々に収穫しています。今回収穫したのは、苗を植え付けてからずっと寒冷紗を被覆していた白菜とキャベツです。白い寒冷紗を取り外すと、白菜とキャベツの眩しい緑が目に入りました。どれも順調に育っていました。白菜漬けにするため白菜を一つ、野菜炒めなどにするキャベツを一つ収穫しました。
寒冷紗を外すと現れた、美味しそうな白菜
その他の冬野菜も収穫しました。冬野菜の代表格の大根も10本位大きく育っていました。葉も食べる種類ですので、太い大根に加えて葉も収穫しました。さらに、チンゲンサイも小松菜も収穫しました。これだけの野菜だけでしばらくは十分です。長ネギや葉ニンニクなどは来年収穫することにしました。ところで、ジャガイモや里芋も収穫しなければならないのですが後にしました。いろいろ忙しい昨今、もう少し農作業できる時間が欲しい今日この頃です。
美味しそうなキャベツ 大根と茂った青葉 太く育ったチンゲンサイ
数日前、サトウキビの冬越し作業をしました。今回はサトウモロコシ(タカキビの一種)です。前者は茎を収穫して冬越ししますが、後者は種を収穫して冬越しします。ところで、両者は食べ方が全く異なります。サトウキビは茎を絞って汁を取り、黒砂糖にして食品として使います。世界で栽培されています。
収穫したサトウモロコシの穂
一方サトウモロコシは茎を絞って甘い汁を楽しみますが、商業的には今や価値はありません。種はかつて貴重や食物(製粉して団子などに)でしたが、今や食品としての価値はありません。今や商品価値がない作物ですが、私は歴史的に価値があると思っています。そのため、今でも栽培しています。時々その種を求める方がいるので送ることがあります。
天高く伸びたサトウモロコシ 穂を脱穀して得た種
道の駅「原尻の滝」に車を駐車しました。滝が見えなかったため、最初「どんな滝があるのかなあ?」と思っていました。目前に田布施川位の川幅の緒方川が流れているだけでした。そのため、最初は疑心暗鬼でした。ところが、しばらく川に向かって歩いていると、その滝の全容が見えてきました。川を横切るように崖があるのです。その崖上から一斉に水が落ちていました。水量が多いときは絶景だと思いました。小型版ナイヤガラの滝ではないでしょうか。
小型版ナイヤガラの滝、原尻の滝
その原尻の滝から100m位下流に、吊橋のようにたわんだ滝見橋が架かっていました。その橋を渡って川の対岸に渡りました。その橋は吊橋のように揺れました。たくさんの人が渡ると、もっと揺れるのではないかと思います。しかし、一時間ほど前に日本一の九重夢大吊橋を渡って慣れてしまったため、怖いとは思いませんでした。
吊橋のように揺れる滝見橋 二宮八幡社に向かう石段
滝見橋を渡り終えると、原尻の滝近くに行きました。歩いていると、左手におおきな石鳥居が見えました。観光マップには載っていない神社のようです。史跡巡りウォーキングでは神社によく行きます。誰が言い出したのか、その神社に行って見ることになりました。二宮八幡社です。ツルツルして登れないような太鼓橋を渡って石階段を登りました。
二宮八幡社の本殿 山上の一宮八幡社の門 一宮八幡社本殿
二宮八幡社本殿に着くと、さらに山の上に神社があることが分かりました。ここまで来て行かない訳にはいきません。イチョウの落葉が敷き詰められた道を上へ上へと登りました。すると、二宮八幡社と同じような作りの一宮八幡社本殿がありました。この二つの神社は、宇佐神宮と関わりがあるとのことが書かれていました。
道の駅「原尻の滝」で昼食 水しぶきを上げて回る二連水車
二宮八幡社から戻ると、原尻の滝のすぐ上流の歩道を歩きました。大雨の時は水が溢れて渡れないと思います。歩いていると、川底が硬い岩ででていることが分かります。それでも滝が侵食して年に数cmずつは後退しているのではないかと思います。その後、道の駅「原尻の滝」に戻り昼食休憩としました。その後、皆さんはお土産を物色しては購入していました。私は皆さんと離れて、九州でしか見られない大きな二連水車に行って間近で見学しました。ゴトゴトと大きな音を立てながら、水しぶきを上げて回っていました。
今回巡った、北九州域 史跡巡りウォーキングのコース
いただいた渋柿を干柿にしています。残っている渋柿はとろとろに溶けかかっているずくし柿です。舐めてみましたがまだ渋みがあります。皮を剥ぎにくいのですが、これも渋柿にしてみることにしました。しかし、ピラーを使っても上手に皮を剥ぐことができません。ペロッと皮が剥げてきます。手でむしるように皮を取るしかありません。
皮を剥いだずくし柿、うまく干柿になるでしょうか
ずくし柿の皮をむいていると、溶けているせいか手に柿の汁がたらたらと流れ落ちてきまか。強く持っていると指が柿の中にめり込みます。めり込まないような弱い力で持ちながらずくし柿の皮を剥ぎました。そして、紐に結びました。なお、紐で結んでもずるりと落ちる柿は諦めることにしました。ずくし柿、ちゃんとした干柿になるでしょうか。
ずるりと剥けた皮 なんとか皮をむいたずくし柿
来月の史跡巡りウォーキングは平生町の大野北です。実は、10ヶ月前の2月に大野全体のウォーキングを予定していました。ところが、思ったより大野は広かったため大野南だけをウォーキングしました。そのため、来月は大野北をウォーキングします。そのウォーキングの下見に行ってきました。
本番ウォーキングでは歩かない危険な崖上の山道
集合は、本番ウォーキングで予定しているJA南すおう平生です。10時にスタートすると、最初の史跡である長谷の虚空堂に向かいました。日当たりの良い虚空堂に到着すると、堂内のお地蔵様を拝ませていただきました。立ったまま休むと、次の目的地であるおうちえんに向かいました。清らかな水音がする小さな川に沿って上流に歩くと、懐かしい茅葺屋根の母屋があるおうちえんに着きました。
虚空堂菩薩 おうちえんの標識 茅葺屋根のおうちえん
おうちえんは何度か来ましたが、以前よりは広くなっているように思いました。小学校の部(フリースクール?)が増えたからではないかと思います。おうちえんの母屋に行くと、誰もいませんでした。宮島の弥山に遠足に行っているとのこと。いつものおうちえんは子供達で騒々しいのですが、今回はとても静かでした。昭和30年代の趣がある母屋、山羊小屋、鶏小屋などを見学して次の目的地に向かいました。
人知れずお地蔵様 平生萩原から遠望 般若寺に向かう竹藪
萩原に向かう途中、今では誰も通らない山道を試しに通ってみました。その道は、獣道のように草藪で覆われていました。崖脇を通るためとても危険なことが分かりました。そのた、本番ウォーキングでは歩かないことに決めました。その後、萩原大師堂を訪れた後、般若寺に向かいました。
般若寺直下の荒れた参道 ご住職に伴われお詣りした十王堂
般若寺に到着すると、嬉しいことにご住職がおられました。ご住職に伴われて新しい十王堂にお詣りしました。その時、十王堂建立時のエピソードについて、また本堂安置の鏡と茶臼山古墳との関係などのお話をいくつか伺いました。十王堂内には閻魔大王像が鎮座しておられました。十王堂前の石畳に立ち、これまでの懺悔をしました。そして、十王堂を三度回りました。本番ウォーキング時、法事か何かでご住職はおられないとのことでした。そのため本番ウォーキング時、私が十王堂について皆さんに説明しようと思います。
平生町大野北ウォーキングの下見コース
これまで、私の都合に合わせて綿の種まき,収穫,糸紡ぎ,織り,染めなどをしてきました。この9月から、場所を決めて定期的(2回/月)に活動することにしました。そして、2年前に決めた年間計画に沿って活動しようと思います。扱う繊維は主に、植物性である綿と動物性である羊毛などです。今回は皆さんと、この秋に収穫した綿の綿繰り(種取り)を主にしました。綿繰りが終わると、糸車を使って糸紡ぎなどをしました。
綿を漉いたり、糸繰り器のハンドルを回したり、糸繰り器に綿を入れたり
私が栽培している綿は、白,緑,茶の三種類です。今回は主に茶綿の綿繰り作業をしました。作業をしていると、三歳の女の子が興味を持ったようです。ほぐした綿を綿繰り器に入れたり、綿繰り器のハンドルを回してもらいました。とても面白かったようです。今後、種まきから織物作品を作るまでの手仕事に加えて、これまでのように、藍染め体験や織物体験などのような小学校ボランティアやフリーマーケットなどもしようと思います。そして、来年も牡蠣まつりや桜まつりで棉繰り,糸紡ぎ,そして織物などのコーナーを出そうと思っています。
栽培している三種類の色の綿 綿繰りに興味を持つ三歳児