今月と来月、小学校の放課後学習「成器塾」の「手芸と染物」コースでは草木染めをします。去年は藍染めだけでしたが、今年は藍染めに加えて紫根染めと紅花染めをします。今回は紫根染めをしました。この紫は古代において高貴な色とされていました。なお紫を育てたことがありますが栽培はとても難しいです。ゆえに貴重な色なのでしょう。
最初、子供達に白いガーゼハンカチを渡しました。そして、ビー玉,小石,ビーズ,そしておはじきなどを入れた小皿を渡しました。次に、小皿に入ったビー玉などを好きに選んでハンカチでくるんで糸で結びます。つまり紫根による絞り染めです。ハンカチを絞りながら指導員さんと子供達は楽しそうに談笑していました。
綺麗な紫色に染まったハンカチを取り出す
私は、子供達がハンカチを絞っている間に紫根の染め液を作りました。藍染めでは水を使いますが、紫根染めはアルコールを使います。前日無水アルコールに浸していた紫根に水を加えて染め液にしました。アルコール分が逃げないように蓋付きのガラス瓶に染め液を溜めました。
ビーズ等を次々に縛る 紫根染め液で染める 水で染め液を洗い流す
ハンカチの絞りが終わった後、そのハンカチを紫根の染め液に浸しました。染まるまでの間、来月染めるハンカチを同じようにビーズ玉などを入れて絞りました。40分位経つとハンカチは綺麗な紫に染まりました。※今回はできませんでしたが染め液を暖めるとより濃く染まります。
ハンカチを瓶から取り出して水で染め液を洗い流しました。そして、紙タオルやドライヤーで水けを取りました。最後、アイロンでしわを伸ばして紫根染めの完成です。ハンカチは綺麗な模様が付いた紫色に染まりました。来月初めは叩き染めです。藍、インド藍、ヘナの葉を使ってハンカチを染めます。
リッパーを使って糸を外す アイロンを押し当ててしわを伸ばす
小学校の放課後学習で小麦粒を手回し製粉したり練ったりしました。そして製粉した小麦粉でホットケーキを作ったり、お汁粉を作りました。しかし、去年食物アレルギーのお子さんがいるとのことで、小麦の栽培を止めていました。
しかし、今年は自身が団子を作ったりうどんを作りたいと思い。また小麦粉を友達に差し上げたりしたいと思い、小麦の栽培を再開しようと思います。小麦の種まきは10月末ですので、それに合わせて小麦畑を整備することにしました。今回、生い茂っている草を刈ることから始めました。
ハンマーナイフモアを使って草を粉砕するように刈り取り
肩掛けの草刈機では草刈りに時間がかかりすぎます。そして、またまだまだ暑さが残るためハンマーナイフモアを使って草を刈り取りました。この草刈機の良い所は草をバラバラに粉砕してくれることです。そのため後日容易にトラクターや耕運機で耕せます。粉砕してないとトラクターや耕運機のロータリーに絡みつき往生するのです。ところで、草刈りしているとカヤネズミの巣を見つけました。子育ては終わったようで巣の中はもぬけのカラでした。
草刈りスタート 畑の端を草刈り カラだったカヤネズミの巣
草を刈っている途中、樹の太枝が落ちている場所がありました。太枝を見つけるたびにエンジンを止めてはその太枝を回収しました。こうして数時間ハンマーナイフモアを使いました。途中水分補給をしたり休憩をしました。雑草の根は残っているため早々にトラクターで根を掘り起こすように耕すつもりです。来月中旬~11月初旬までに小麦の種を蒔こうと思います。
だいぶ刈り取った雑草 来月この場所に小麦の種まき予定
茶臼山古墳で昼食休憩を済ませると、大屋団地に行きました。10年以上前でしょうか、この団地では子供の声が聞こえたり、ベランダで洗濯物を干す姿が見えました。しかし、今回団地周辺を歩いて子供の声はしないし、どの団地も空き家ではないかと思うほど静かでした。
続いて、荒神山に行きました。大屋団地から直接荒神山に行けたのですが道がふさがっていました。今は古い住宅を経由して行くしかありません。その住宅は長屋で町営か県営ではないかと思います。まだ数家族が住んでいるようです。その住宅のすぐ上に荒神山があります。その荒神山入口には鳥居があるため、かつては神社があったのにちがいありません。今は小さな祠だけがあります。
荒神山の奥に鎮座する小さな祠
荒神山入口の石階段を登り鳥居をくぐると草地が広がっていました。平らで結構な広さです。かつては荒神様のお社がありその参道だったのではないでしょうか。その参道には草木が生えていて何年も手入れされていないようです。住宅に住む人が少なくなり管理できなくなったのではないでしょうか。鳥居には明治三十年代の年号が彫られていました。明治から大正にかけてとても賑やかだった神社のようです。手水石が残るなど当時の面影を残しています。
静かな大屋団地 県営か市営の長屋 草木が生える参道
荒神山から柳井市街を見下ろすことができます。明治時代には市街から離れた場所にあった住宅だと思われます。長屋住宅が手狭になり昭和の時代に大屋団地が作られたのではないでしょうか。ところで、大屋団地は茶臼山古墳に行く時にしか通りません。平生町で大屋団地終点のバスをたまに見かけることがあります。そのバスを見るたびに大屋団地や茶臼山古墳を思い出します。
石段を登り荒神山入口の鳥居をくぐる 荒神山から見下ろした柳井市街
ところで、県営か市営の長屋を見るととても懐かしくなりました。私が結婚した最初の住居が長屋だったからです。青梅市営の二階長屋でした。近くに地方裁判所があり、その裁判所の脇を通りながら出勤したものです。
当時は青梅駅始発の電車に乗って一時間半位かけて東京田町にある第五世代コンピュータ開発機構ICOTに勤務していました。今で言うAIの仕事をしていました。40年前にすでに日本はAIの研究に着手していたのです。まだマウスもなく、Windowもなく、パソコンも無い時代でした。しかし研究着手が早すぎました。ハードウェアが追いつかなかったのです。
そのICOTのWGメンバーの一人に国産OSのTRONを開発した坂村氏がいました。今TRONは産業OSの標準規格になっているそうですが、当時米国の圧力により流布が頓挫してしまいました。その結果Windowsが世界に普及してしまいました。TRONがオープンソースだったことが圧力原因だったのかもしれません。アメリカ企業であるMicrosoftのWindowsを伸ばすためアメリカは圧力をかけたのでしょう。今もそうですが、日本は米国の圧力に本当に弱いです。アメリカの属国と言われるゆえんですね。
柳井東方面の史跡巡りをしたウォーキングルート
久し振りに奈良の大岩を訪れました。その場所には駐車場がないため田川邸に置かせていただきました。ちょうど田川さんがおられました。ハゼの実ロウソクについてや、チクチクの会が田川邸に戻って楽しく活動していることなどについて談笑しました。少し前に広島のはぜろう女子会がろうそく作り体験に来たそうです。数年前に私も岩国の方がはぜろう体験をしたいとのことで紹介しました。ところが体験を主導する方が体調不良で中止したことがありました。
さて、田川邸から直接大岩に行こうとしましたが、今は草が茂って行けないとのこと。田川さんのご厚意で車に載せていただきで近くまで連れて行っていただきました。ありがとうございました。
久し振りに来た大岩、水色は古代の海岸予想位置
ところで、大岩にやって来た理由は小学校でこの大岩についてお話をするかも知れないからです。石の成分,大きさ,そして丸くなった理由について確認するために今回大岩に来ました。なお、9年前に大岩の大きさや形状などを計測したことがあります。その後再調査したこともあります。また神主さんをお呼びしてお祓いをしたこともあります。
近所の古老のお話から大岩の南部分の地下がえぐれていることが分かっています。南側は湿地になっており古代において海だったことが予想されます。そのことを考えると波によって南側がより侵食されて深くえぐれたと考えられます。大岩そのものは硬い花崗岩であるため風化に耐えて今に残っています。ところで、奈良地区には石城山の山姥とこの大岩に関わる面白い伝承が残っています。
大岩の調査が終わると、ブルーベリー農場やぴんころ地蔵尊を見ながら田川邸に戻りました。
なぜか丸い形状の大岩 ブルーベリー農場 ぴんころ地蔵尊
暗い茶臼山トンネルを出ると、50m位歩いた後にT字路を渡りました。そして、恵愛会運動公園に沿う道を下りました。暑いためか恵愛会運動公園には誰もいませんでした。200m位道を下ると、今度は十字路を左側に曲がりました。その道の終点はは茶臼山古墳です。
この古墳は前方後円墳です。その前方部に回ってその角から古墳に登りました。簡易な石階段を登りました。ところで、古代において前方部で儀式をしていたそうです。皆が並べるように前方部は平になっています。古代、どんな装束をして儀式をしていたのでしようか。埴輪を見ると今とは全く違う装束や髪型だったようです。
冷房の効いた茶臼山古墳資料館内で昼食休憩をとる
飛鳥時代に防府が周防国の国衙に指定されました。つまり、それ以前の周防国の中心は防府ではなかったことになります。私見ですが、防府以前の周防国の中心は田布施の城南付近ではなかったかと思います。その証拠の一つとして、山口県内で古墳の数が一二位を争うほど多い事です。二つ目の証拠として、石城山神籠石(朝鮮式山城)の存在があります。古代において周防国の中心であった場所を守るため又は逃げ込む城が石城山ではなかったかと思うのです。
恵愛会運動公園 茶臼山古墳前方部 茶臼山古墳後円部
古代において柳井,田布施,平生は海でつながっていました。つまり海峡でした。その証拠が遺跡などから分かっています。古代地中海などではこのような地形にポリスが築かれました。当時の物流は陸路よりも海路が主でしたので。主に海伝いに人々が行き来していました。平安時代、清少納言は海伝いに父親の任地である防府に赴きました。柳井,田布施,平生を通って船で赴いたに違いありません。
後円部に置かれた数々の埴輪 後円部から見下ろした前方部
茶臼山古墳に登って埴輪を見たり周りを遠望してから資料館に行きました。下見時は休館でしたが今回は開館していました。涼しい館内で銅鏡などの遺物を見学しました。そして、涼しい館内でお昼休憩をとりました。休憩しながら、古代はどんなだったのかタイムマシンがあれば千年の時を越えて訪れてみたいと思いました。願わくばこの時代に生まれ変わってみたいものです。
柳井東方面の史跡巡りをしたウォーキングルート
以前クルミの皮を使って籠を作る木枠を作りました。ところが重くて持ち運びが大変です。そのため、今はクラフト小屋の踏み台になっています。籠を作る友達も木枠がかさばり持ち運びしにくいとのこと。
そこで、軽い上に組み立て式の木枠を試作してみることにしました。サイズはミニカバン位の大きさの木枠です。組み立て方法を、蝶番方式にするのか、折りたたみ方式にするのか、ねじ止めにするのかはまだ決めていません。まずは薄い板を切って木枠の形にしようと思います。
ノコギリで板を切った後、木枠にする組み合わせを確認中
DIYのお店に行って木材を買ってきました。厚さ14㎜幅9.5cm長さ90cmの板を2枚、そしてもう一枚は厚さ14㎜幅20cm長さ90cmの板を一枚購入しました。板と板を繋ぐダボを一組購入しました。クラフト小屋に戻ると差金や竹尺を使ってノコギリで切る線を引きました。
以前作った重い木枠 ノコギリで切る線を引く 縦方向にも線を引く
板に線を引くと、その板をテーブルの上に置いてノコギリで切りました。クラフト小屋に置いているテーブルはキャンプ用です。そのためノコギリを引くたびグラグラします。あまりにグラグラ動くので板の角が少しひび割れてしまいました。今後キャンプ用ではなく頑丈なテーブルを置こうと思います。できれば室外にも持ち出せるテーブルを。
引いた線に沿ってノコギリで切る ひび割れた箇所は接着剤で補修
先日、柳井東方面の史跡巡りウォーキングに行ってきました。まだまだ暑かったのですが、のんびり楽しく歩くことができました。集合はスーパートライアルです。出発時間になると旧国道188号線を跨いで最初のお地蔵様に行きました。線路端に建っているため昔何かの事故があったのでしょうか。立派な立像のお地蔵さまでした。ただ、砂岩かコンクリート製のためか背中にかけてひび割れていました。花崗岩のような硬い石を使うと良かったのですが。立派な顔立ちのお地蔵様だけに残念です。
茶臼山古墳に行く直前、茶臼山トンネル内を歩く
線路を跨いで次に中国電力の社宅前に出ました。そして、社宅所有の思われる小さな公園に行きました。手入れがあまりされておらず除草剤がまかれているようでした。寂しげなシーソーと祠が印象的でした。次にその公園傍を流れる川を上流に向かって歩きました。
スーパートライアル 線路端のお地蔵様 小さな公園内の祠
幅10m位の小さな川でしたが、意外に水は綺麗で小さな魚がたくさん泳いでいました。私が子供の頃の昭和30年代であれば、このような川は子供達の遊び場だったはずです。しかし、今は川から子供達の姿が消えてしまいました。川での遊びは楽しかったものでした。泳いだり、堰き止めたり、貝や魚を取ったり、石を投げたりなど、いろんな遊びを川でしたものでした。
草が生い茂る小さな川 棚田が広がる琴石山の麓
しばらく歩いて川から外れ琴石山の麓をめざして歩きました。古い団地を過ぎると棚田が見えてきました。もう少しすれば稲刈りできそうなほど穂が垂れていました。棚田の間をのんびり歩いた後、日陰で給水休憩をとりました。その後、柳井~大畠の山側ルートの舗装道路に出ました。時々車がすれ違
っては走り去りました。その後、暗い茶臼山トンネル内を通り茶臼山古墳に向かいました。
柳井東方面の史跡巡りをしたウォーキングルート
二泊した城崎温泉から我家に帰る日がやってきました。予定では新神戸から新幹線に乗って帰る予定でしたが、息子の予定変更により私は大阪空港から帰ることになりました。初めての大阪空港にモノレール,千里,そして50年ぶりの新大阪でした。そのことで、とんでもないドタバタ劇となりました。
さて、城崎温泉を出ると大阪空港に行く前に出石に寄りました。出石では桂小五郎が潜んでいた家を訪れた後に皿ソバと呼ばれるソバを食べました。初めてのソバでした。椀子ソバのようなたくさんの小さなお皿にそばが盛ってありました。次々に食べて、もう一人前追加注文しました。まだまだ食べられそうでしたが、時間がないため30分位した後に席をたちました。
椀子ソバのような出石の皿ソバを美味しく食べる
出石は京都から城崎温泉に向かう街道の途中にある街です。江戸時代5万石の領地で街から見上げるような山上に城がありました。ちなみに出石名物の皿ソバは、信州から領地替えでやってきた殿さまがソバを持ち込んだことが由来とのことです。信州ソバを出石向きにしたのが皿ソバなんですね。
城崎温泉の朝食 二泊した旅館 夜に入った温泉
出石を出て2時間後頃に大阪空港に到着しました。息子達は飛行機で東京に戻りましたが、私は一人で田布施の我家に戻ることにしました。ところが、初めての大阪空港モノレールで慌てました。モノレール大阪空港駅は終点兼始発であることを知らずに数台モノレールを見逃してしました。また、モノレールに乗ったものの降りた千里中央駅から北大阪急行の駅への移動が分からず時間を潰しました。さらに、知らない駅名ばかりで上り下りのどちらに乗れば良いのかすぐに分かりませんでした。
出石で皿ソバを食べたお店 大阪空港までの途中に寄った出石街
やっとのことで新大阪駅に着いたのですが、約50年ぶりの新大阪駅の変わりように驚きました。10分後に出る新幹線の指定席券を購入したのですが、構内のあまりの広さに新幹線改札口が分からず走り回りました。おまけに新神戸までの乗車券が無いため改札で止められました。やっと改札に入ると今度はホームの番号が分からず困りました。切符にそれが書いてあるのでしょうが、あいにくメガネが無くて読めません。発車時間のその時、ドアが閉まりかけた新幹線に慌てて飛び乗りました。ところが、その新幹線はなんと上りでした。
がっくりして、しばらくうなだれてしまいました。でもなんとか気を取り直して京都から折り返して帰りました。プレゼントされた敬老旅行でしたが、最後はとんでもないドタバタ劇で終わりました。ですが、今思い出すと楽しい敬老旅行でした。
城崎温泉から大阪空港までのルート 大阪空港でモノレールに乗り換え
我家は建てて50年以上になります。そのため、あちこちが悲鳴を上げています。今回は水道管の水漏れです。おまけに浄化槽を攪拌するモーターが故障して回らなくなりました。
水道管ですが温水器下にある止水弁が働かなくなりました。そのため、井戸から組み上げた水が漏れるようになりました。漏れるというよりも放水に近い状態です。そのため、井戸ポンプが回りっぱなしです。このままでは井戸の水が無くなりモーターが焼け付いてしまいます。やれやれです。
回りっぱなしの井戸ポンプ、焼き付きが心配
そこで、地元の井戸ポンプ関連業者さんに修理をお願いしました。浄化槽のモーターは回転軸が固着していたそうで、潤滑油などを塗布して一件落着となりました。もしモーターを交換する事態になれば高価な費用がかかったと思います。
次に水道管の水漏れです。止水弁と呼ばれる水の圧力を弱める器具の故障とのこと。さっそく交換してもらいました。数ヵ月分のお給料が消えてしまいました。がっくりです。また洗面台の混合栓が婆様の力では止められないため、新しい混合栓に交換することにしました。
漏水した水が流れる桝 故障した止水弁 浄化槽の故障したモーター
城崎温泉街を離れて10km位でしょうか、丸山川傍の玄武洞ミュージアムに到着しました。駐車場に車を置いてから、ガイドさんに先導されて玄武洞に行きました。玄武洞に着くと、地学などの教科書に出てくる柱状節理の岩肌が目の前に迫りました。教科書に小さく載っている写真と違って、本物の岩肌は迫るものがあります。六角形のチューブのように岩が筋状に伸びています。面白いことにその岩自身がレンガのように20cm位ごとにひびが入っているのです。昔は、その岩を運んでレンガを積むようにして石垣にしていたそうです。柱状節理の岩で作られた石垣も展示されていました。
筋のように伸びている柱状節理、玄武洞公園の青龍堂
城崎温泉近くの柱状節理を、江戸時代の儒学者が玄武洞と名付けたそうです。玄武,青龍,朱雀,そして白虎にちなんだ柱状節理が玄武公園にあります。よく耳にする「玄武岩」はこの玄武洞の岩から来ているとのこと。玄武洞と名付けた儒学者に感謝すべきでしょうね。ガイドさんが岩に磁石を近づけるとくっつきます。つまり玄武岩には鉄の成分が含まれているのです。
玄武岩の磁極の向きを調べることによって、溶岩が固まる何万年も前の地球の磁極の位置が分かるそうです。今の地球は北極と南極が磁極ですが、何万年も前は南北に磁極がない時期があったとか。例えば日本がN極でブラジルがS極の時代があったかも知れません。
玄武洞ミュージアム玄関 玄武洞の岩肌 朱雀堂の岩肌
ガイドさんから丸山川と平野の成り立ちなどにも教えていただきました。その後、玄武洞ミュージアムに戻って小さな石を二つほど購入しました。その一つは蛍石で紫外線を当てると青く光ります。11月になると思いますが、麻郷小学校で奈良地区にある大岩の由来や伝説についてお話をします。その時に玄武洞や蛍石などの石や岩についても話そうと思っています。
城崎温泉に戻るとしばらく休憩しました。そして、夕食をとってから温泉に繰り出しました。そして、城崎温泉の中心を流れる川沿いに歩きました。夜遅くまで店が開いており、たくさんの家族連れ,子供,若者,カップル,そして外国人が歩いていました。この温泉街は繁盛しているようです。
城崎温泉の中心を流れる川 玄武洞と城崎温泉のルート
9月も中旬になりましたが、一向に涼しくなりません。毎秋の今頃には秋冬野菜の種まきをするのですが、熱中症を考えると畑に出ることができません。
ですが、いつまでも待っていられずワケギを植え付けました。そのため、この春に掘り起こした後に天日乾燥しているワケギを納屋から出しました。そして、最初に植え替え準備をしました。準備と言っても、球根に張り付いている茶色の薄皮をはがすだけです。
薄皮を剥がしたワケギを黒マルチの穴に次々と植え付ける
ワケギの薄皮を剥がしていると、たくさんの蚊がやってきました。そして、体中のあちこちを刺すので痒くてたまりません。仕方なく蚊取り線香を持ってきて焚きました。そのおかげか少し蚊が減ったような気がしました。
春に掘り上げたワケギを手に取ると1/3位が傷んでいました。そんな球根を捨てながら、硬くて充実した球根を選びました。そして、その薄皮を剥がしました。
去年掘り上げたワケギ 薄皮を剥がす前 薄皮を剥がしたワケギ
必要分量のワケギを確保すると、日差しが強い畑に行きました。そして、黒マルチの穴に次々にワケギを植えました。明日から台風の影響で雨が降るとの予想です。その雨でワケギが根付いてくれると嬉しいです。ましてや台風後に本来の涼しい秋になってくれるとより嬉しいです。
涼しくなれば、小松菜、大根、京菜、白菜などの秋冬野菜の種まきができそうです。早く涼しくなって欲しい今日この頃です。
春収穫のワケギの薄皮を剥ぐ 黒マルチの穴に次々とワケギを植え付け
城崎温泉街を見下ろせるロープウェイから降りると、今度は新鮮な魚介類を食べるため海鮮丼で有名と言われるお店にいきました。温泉街の外れにあることと、その後に玄武洞に行くため車で行くことにしました。ロープウェイ駅のすぐ近くにある旅館指定の駐車場に向かいました。その駐車場は一台一台に屋根が付いている小屋風な駐車場です。その駐車場前には極楽禅寺があり、蓮の池がありました。本堂と楼門を見学してから車に乗りました。
川の傍に建っている玄武洞ミュージアム
城崎温泉街の中心道路を通ってJR城崎温泉駅に行き、すぐ傍にある市営駐車場に車を置きました。そして、海鮮料理で有名な海中苑まで歩いて行きました。海中苑は二階にあり一階は魚屋さんになっています。つまり、魚屋さんと海鮮料理がセットになっているお店のようです。一階にはひっきりなしに魚介類を積んだトラックが行き来していました。
極楽禅寺の本堂 極楽禅寺の楼門 城崎温泉の中心道路
二階への階段を登って海中苑に行きました。土日祝日は予約しないとすぐには席に座ることができないとのこと。しかし、平日でしたので空いた席がありました。でもすぐに席が埋まってしまいました。後に来たお客さんは待たされることになりました。早く来て良かったです。
注文したのは看板メニューの海鮮丼御前です。日本海の漁港が近い城崎温泉ならではの料理です。とても美味しかったです。
一階は魚屋、二階は海鮮料理の海中苑 新鮮な魚介類を使った海鮮丼御前
海中苑で美味しい海鮮丼御前を食べると、城崎温泉から少し離れた場所にある玄武洞に向かいました。玄武洞は社会の教科書に乗っていたので知っていました。溶岩が固まる時に柱状節理となった岩です。確か萩市の海岸近くにもこれに似た柱状節理となった岩があったように記憶しています。
玄武岩ミュージアムに到着すると、お願いしていたガイドさんに案内されて玄武洞に向かいました。
ロープウェイなど、城崎温泉街を行き来したルート
息子からプレゼントされた敬老旅行が終わると、今度はまさに敬老の日、地区の生き生きサロン(敬老イベント)で敬老する側にまわりました。今回は歌の講師(AYAKO先生)をお招きしての敬老会でした。私は歌を一人で聞くのが好きで、一緒に歌うのは全くダメです。そのため、車を駐車場に案内したり、お年寄りを公会堂に案内したり、お弁当を受け取って配るなどのお手伝いを主にしました。
私は室内の敬老よりも室外での敬老の方が合っています。ちなみに、10月/末にお年寄りを史跡案内しながらウォーキングします(保健センター主催)。
歌の先生に指導されながら、昔の懐かしい歌を合唱
歌が終わり先生をお見送りすると、お年寄り間で昔を懐かしくお話しし合いました。それが終わると、今回の敬老会を主催したお世話係の紹介です。私を含めて一人一人自己紹介しました。次に、お弁当を各人に配りました。そして楽しいお昼の時間となりました。最後にお楽しみ抽選会がありました。次回11月の生き生きサロンはミカン狩りの予定です。
お年寄り達が帰った後、公会堂内を掃除してから解散となりました。お世話された方々、お疲れ様でした。
早朝の敬老会準備 配る前のお弁当 楽しいお昼の時間
兵庫県の日本海側にある城崎温泉周辺の史跡巡りに行ってきました。主催は息子で、数日後が敬老の日だからとのこと。やれやれ、私も敬老される年になったようです。関西に住んでいた息子によると、大阪・京都では温泉と言えば城崎温泉だそうです。関東の箱根温泉、山口の湯本温泉のようなものでしょうか。
城崎温泉は幕末に桂小五郎が潜んでいたので名前だけは知っていました。その桂小五郎が潜んでいたその宿に泊まりました。桂小五郎自筆の書や幕末の写真がたくさん展示されていました。幕末の歴史が好きな人の密かな宿のようです。まさか敬老で行くことになろうとは思いませんでした。歴史、温泉、神社仏閣、海鮮料理などを楽しみました。
ロープウエイの頂上から見下ろした城崎温泉街、向こうに日本海が見える
前日、新神戸駅で落ち合いました。息子と家内は羽田空港から大阪空港経由で新神戸に来ました。新神戸に着いた私と合流して城崎温泉に向かいました。瀬戸内海が見える新神戸を後にして、中国地方を横断して日本海側に向かいました。今は高速道路が縦横無尽に走っているため、容易に日本海に出ることができます。
宿の朝食メニュー 温泉寺前のお地蔵様 太田垣士郎翁資料館
桂小五郎が潜伏していた宿に着いた次の日、城崎温泉郷を中心に史跡を回りました。最初に黒部ダムを作った元関西電力社長太田石垣士郎資料館を訪れました。次に城崎温泉郷を見下ろせるロープウェイに乗りました。このロープウェイは中間地点に温泉寺駅がありました。頂上に到着すると温泉郷を見下ろしました。遠くに日本海が見えました。頂上にある喫茶で、下界を見ながらしばらくくつろぎました。
ロープウェイ中間地点の温泉寺駅 新神戸から城崎温泉への移動ルート
我家でマオランを栽培しているのですが、成長が遅いためまだ葉を収穫することができません。そのため、マオランの葉を頂きに周防大島外入へ先日行ってきました。友達と合流して行きましたが、電車の間引き運転のため出発が遅くなってしまいました。
昼直前の出発となってしまったため最初に昼食をとりました。伊保庄が海の向こう側に見える海岸脇でパスタを頂きました。海岸を遠望しながら腹ごしらえをしてから外入に出かけました。到着するといつものように灰色の猫ちゃんが留守番をしていました。そして、数匹の山羊達が出迎えてくれました。快くマオランの葉を頂きました。
猫ちゃんや山羊達が番をする地元の作業小屋を訪問
巨大なマオランの大株です。この大きさになるまでに数十年はかかったのではないかと思います。去年この大株から小さな株を取り出して我家に移植しました。ですが、成長がとても遅いので葉が収穫できるようになるまで数年かかりそうです。それまでの間、これからも時々葉を頂きに来ることになりそうです。とても親切な方々が多い外入です。ありがとうございました。
店名を忘れたバスタ店 灰色の留守番猫 外入のマオラン大株
帰りにJams Gardenに寄ってみました。以前から名前だけはよく聞いていましたが、初めて行ったお店です。ところがナビにとんでもない所に連れて行かされました。冷や汗!その後気を取り直して、道をさまよいながらたどり着きました。すると、バイクで来た人や車で来た人で賑わっていました。庭に恋人が写真を撮るハート形のフラワーリングがありました。そのリングに顔を入れながら親子連れが楽しげに写真を撮っていました。
私は庭に出て海を見ながらアイスを堪能しました。その後、ジャムのお店を見学しました。周防大島で飼っているミツバチの蜂蜜がシール小瓶で売られていました。私も蜂蜜が取れたら同じようなシール小瓶に入れてみたいと思います。
Jams Garden入口の看板 左はジャムのお店、右は喫茶