7月初めに陸稲畑の草刈りをしましたが、それから1ヶ月半以上経ちました。雑草は再びひざ位まで伸びてきました。東京に行っている間に、さらに伸びました。このため、1ヶ月半ぶりに草刈りをしました。雨が降っていて地面が湿っていれば、草も柔らかくて草は簡単に刈ることができます。しかし、このところの乾燥で茎は固くなりさらに根はしっかり地下に張っています。このため、時間をかけないと綺麗に草刈りできませんでした。
ひざ位まで伸びた雑草、乾燥のため茎も固い
最初、陸稲畝に沿って草刈りをしました。道路に面しているため最優先で草刈しました。2回に分けて刈り取りしましたが、道路に面しているため刈り取った草の破片がだいぶ道路に飛び散りました。このため、あらかじめ持ってきた庭箒で飛び散った破片を片づけました。
1回目の草刈後、残った雑草 道路の草破片は庭箒で片づけ
まだまだ暑い日が続いています。1時間ばかり草刈りしていると喉が渇きます。そんな時は木陰で休んで休憩しつつ水を飲みました。毎回のことですが、きれいに草刈りを終えると気分が良くなります。田舎では特に、道路面した個所は一種公共の場所です。雑草を生やさないことがマナーです。
きれいに草刈りを終えると、とても気分が良い
道路に面した個所の除草を終えると、畑の南面を草刈しました。ここも雑草が生い茂っていました。特に、7月8月はあっと言う間に草が回復して元のように生い茂ります。最低、1回/月は草刈りする必要があります。とにかく夏は、草刈りに始まって草刈りに終わります。
草刈り前の陸稲畑南面 草刈りを終えた陸稲畑南面
我家の解体が始まりました。昨日の早朝、家内が忘れ物を取りに我家に寄ったところ、すでに屋内が土足で汚れていたそうです。それを見て辛い気持ちになったそうで、すぐに我家から立ち去ったとのこと。そういえば、解体屋さんが「長年住んだ家が解体されるのを見て、泣き出す方があります。」と言っていたことを思い出しました。
ついに解体が始まった我家、解体,分別が整然と進行
私は家内と違って辛くなるようなことはありませんでしたが、家族の思い出の城がこうして壊されていくのを見ると、自然とさびしい気持ちが湧きあがります。10年位前までこの我家から横浜戸塚まで通勤していた頃を思い出しました。朝暗い6時頃に我家を出て2時間ほどかけて通勤していました。帰りは、午後10時に会社を出て家に着くのが夜0時だったことも少なくありませんでした。
壊され小さくなる我家 あらわになった吹き抜けの照明
解体の様子をひととおり見終わると、家の東南角地に回ってみました。庭木が傷まないように、また小さなゴミやほこりが飛ばないために幕が立ててありました。解体車両のエンジンだけが周りに響き渡っていました。昨日今日と快晴です。空の青さが目に染みるような良い天気でした。
庭木が傷まないように幕で覆われた我家
朝の解体工事を見終わると、仮住まいに戻りました。いろいろ用事を済ませ、午後もう一度解体現場に来てみました。すると、思いのほか解体が進んでいました。庭に面したサンルールは半分壊され、家の西端の壁があらわになっていました。この壁を壊せば家の形は無くなります。家の解体がこんなに簡単に進むとは思ってもみませんでした。
半分壊れたサンルーム、西端の壁 玄関ドアが廃材トラックに
この様子だと、この日のうちに解体は済んでしまうようです。解体の様子を見ていると、解体と言うよりも工事車両の牙で家がむしり取られているような気がします。むしり取られたり、はがされたり、つぶされたりと整然と解体が進んでいました。あーあ、ついに我家は木片に変わってしまいました。
最後に残された西端の壁、次々に木片に変わる
我家の解体が始まっている間、秋葉原に行ってきました。ラジオなどの修理に使う部品などを調達するためです。通信販売でも良いのですが、実際手に取ってみないと分からない物や通信販売で購入できない部品があるからです。猛暑の中、秋葉原を歩いてみました。4月初旬の秋葉原散策以来です。
秋葉原ガード下を歩く 昔から利用しているラジオデパート
最初、ラジオデパートに行きました。このデパート内はラジオなどの部品店が集まっている所です。トランジスタ,IC,抵抗,コンデンサ,測定器,ケースなど電子関連の制作をするためのものを一通りそろえることができます。今回、ここで測定器に取り付けるプローブ類を買いました。また、アンテナを張るために必要な碍子を買いました。
測定器に取り付けるプローブ類を購入したお店、ラジオデパート内
ラジオデパートを出ると、私のお決まりのコースですが秋月電子に行きました。ここは、最新のICをバラで買うことができます。夏休みもあって子供や家族連れの姿がありました。このお店では、温度ロガーなどを買いました。温度ロガーは、山口県の我家付近の一年を通じての気温変化をパソコンで測定するために使います。1日の気温変化もグラフなどで記録測定できます。
温度ロガー等を購入した秋月電子 メイドカフェ街を通り過ぎる
今回秋葉原で購入したものは、測定器のプローブ類,ラジオ修理用部品,アンテナを張るための碍子,温度ロガー,電池ソケットなどです。1年に2度程度は東京に来るつもりですので、今後も秋葉原に寄っては必要なものを買いそろえようと思います。
山口県にいる私の知り合いに聞いたところ、山口県ではもう電子部品を買えるお店は無いそうです。高校生の頃は真空管などを柳井市のカツラ無線や青木商店で買っていましたが、もう昔のようには買えません。残念ですが仕方ありません。代わりにインターネットによる通信販売が主流になっているそうです。時代の流れを感じます。
今回購入した部品類、右上の箱は温度ロガー
買い物をほぼ済ませると万世橋に行ってみました。この4月、川岸のビルが工事中でした。行ってみると、ビルはもう完成していました。いつもこの橋に来て思うのは、昭和初期の建物(橋や欄干など)と現代ビルのコラボです。秋葉原自体、ラジオテレビ部品販売,パソコン販売,AKB,萌え系ファッション,フィギュアなどで街がどんどん変化して来ました。今後も変わることでしょう。行くたびに、戸惑うばかりの変貌ぶりです。
昭和初期の欄干と、対象的な青いビルディング
秋葉原での買い物を済ませると仮の我家に帰りました。8月下旬とはいえ、猛暑の日々です。家の中は蒸し暑く、すぐにエアコンをかけました。私は数日しかこの仮宿にいませんが、家内は3ヶ月程度この仮宿生活が続きます。部屋の中には、新しい家に待っていく段ボール箱が山積みにされています。早く新しい家ができて欲しいものです。
新しい家ができるまでの仮宿 段ボールが置かれた部屋
8月20日、都庁に行ってきました。家を建て替えるための資金の最終契約のためです。山口県田布施町で発行した住民票,印鑑登録証などを持って行きました。資金は普通の銀行で借りても良かったのでしょうが、都職員である家内はより低い利率で都庁から借りることができます。都庁16階に上がっていろいろ本契約しました。署名したり印鑑を押したりと、そして同時に土地を担保とする契約などもしました。
都庁前駅から都庁を見上げて 契約資料を手に都庁入口前で
20年位前に我家を購入した時は、私が当時勤めていた日立製作所の信用で確か日本興業銀行で※千万円の小切手を発行しました。その小切手を数日間家で保管していた時は、不安で仕方がありませんでした。小切手発行から数日後、相手方銀行にその小切手を納めました。今回のように小切手を使わない契約の方が精神的に安心です。なお小切手発行の代わりに、土地などの登記簿は会社の預かりの形になりました。その後完済して登記簿は我家に戻り、土地屋敷は私と家内の共有名義となりました。当時はバブルの余韻が覚めない頃でしたので、購入するまでにいろいろトラブルがありとても苦労しました。
無事都庁での契約を済ませ、外の高層ビルを見上げる
都庁での契約手続きは2時間程度かかりました。契約が終わって都庁の外に出ると、もうお昼でした。このため、都庁近くにあった京王プラザホテルの食堂で昼食をとりました。この昼食の様子をシンガポールにいる娘に写メールすると、「牛ヒレを食べる主人とメイド飯のようだ。」と返信してきました(笑)。
家内の食事はメイド飯? 御徒町の徳大寺を参拝
昼食が終わると、大江戸線の都庁前駅から地下鉄に乗って上野御徒町駅に行きました。御徒町に来た理由は、父親の葬儀に来ていただいた叔父(父親の弟)に逢うためです。上野御徒町駅に降りてしばらく歩くと、偶然徳大寺の前を通りました。上野に来ることはそう多くないため参拝しておきました。
賑やかなアメ横通り、大晦日は交通規制があるほど
私の叔父と従弟達が経営するアメ横の中田商店に行きました。この中田商店は、全国的なミリタリーショップとして有名で一流ブランドになっています。ミリタリー関連映画によく衣装を貸すそうです。先日、俳優の織田裕二が、映画で着る衣装を選びに来たそうです。
叔父はまだ来ていなかったので、店員さんに案内された一室で待ちました。しばらくすると、叔父がやってきました。お土産を渡して葬儀などのお礼を言いました。そして、亡き父親の話題やミリタリーショップの話題で盛り上がりました。戦時に使われた戦車数台を納めている倉庫の写真なども見せてもらいました。
叔父の経営する中田商店 中田商店の店先で
叔父と、日本人は戦争とちゃんと向き合わないで蓋をしているのではないかなどの話をしました。亡き父親は、戦時中死ぬ瀬戸際をぎりぎり生き抜いて帰国しました。よほど辛かったのか、私には戦争の話をあまりしないで亡くなりました。日本が戦争に負けたのは仕方ないとして、戦後卑屈な良い子のふりばかりしているから竹島や尖閣諸島のような問題が次から次へと出てくるのではないかと思っています。なんとなく、ナチスのヨーロッパ侵攻を許してしまったイギリス首相チェンバレンの融和政策を思い出さざるをえません。
叔父と談笑していると、従弟のMちゃんがやって来ました。Mちゃんも加わり楽しく談笑しました。叔父は高齢のため、実質的にはMちゃんが中田商店を経営しているようです。中田商店は、叔父,従弟たち5人の大家族が経営しています。いつまでも繁盛して欲しいと思います。
久しぶりに逢った従弟のMちゃん、中田商店内にて
私が東京に行っている間に、畑で栽培していたマクワウリをすっかり食い荒らされてしまいました。おそらくタヌキだと思いますが、がっかりです。そろそろ収穫して食べようかなと思っている頃に食べられてしまいました。タヌキも食べごろを知っているようです。
食い荒らされたマクワウリ、楽しみにしていたのにガッカリ
罠をかけたり網をかける時間的ゆとりがないので、細かい目の網袋に入れて保護することにしました。細かい目のため食べられてしまうことはないと思いますが、タヌキが噛んだりすれば傷むのは仕方ありません。根本的には、電柵を使うか,金属の網で覆うか,犬を飼うなどの対策が必要です。
細かい目の網袋で覆う はたしてこれで大丈夫?
以前、父親はタヌキ対策で柵で囲ったことがあるそうです。しかし、柵下の地中に穴を掘られてマクワウリが全滅したとのこと。今回、網袋でマクワウリを包んだことに加えて、夜だけリンちゃく(猫)をマクワウリ畑傍に住まわせてみようと思います。リンちゃんには迷惑でしょうが家族の一員?として、立派にマクワウリを守って欲しいと思います。なお、母親はリンちゃんの方がタヌキに食べられてしまうのではないかと心配しています。しかし、タヌキが猫を食べたとの話を聞いたことがありません。リンちゃん、番猫として立派に役に立ってくれると思います。さて、どうなるでしょうか?
マクワウリ畑、赤い網袋に覆われたマクワウリの実が所々に
八王子に戻った次の日、我家の解体について最終打ち合わせを業者としました。最近は、壊した後の残渣の分類が厳しいそうで、家人が捨てるもの、業者が処分するものが細かく法律で決められているそうです。それらを含めて、最終確認をしました。
約20年以上住んだ我家、壊す日が近づくと少し寂しいものが
朝9時頃に解体業者関連の方が来たので、いろいろ確認をしました。特に、解体,撤去,そして移動しては困る物を一つ一つ確認しました。確認後、その旨の書付を張り付けました。解体しない物のほとんどは樹木,庭石,灯篭などです。駐車場や門も解体しないでそのまま使います。
撤去しないものに書付を貼る 解体しないものなど一つ一つ確認
解体,移動,撤去しないものなどを最終確認すると、家の中に入って解体工程や建築工程などを確認しました。明日から解体業者が入って我家は解体されますが、まだまだ使えそうな我家がなんとなく可哀そうな気持ちになります。そして、思い出がたくさん詰まっている我家、少しばかり残念な気持ちもします。
解体業者,建築業者と、今後のスケジュールについて最終確認
解体業者と建築業者が帰ると、家内と一緒に最後の我家を懐かしみながら歩き回りました。家内にとっては台所が惜しかったようです。特に、お気に入りのガスレンジ・電子レンジを手放さなければならないのは残念だったようです。とても狭いと思っていた台所、冷蔵庫,茶箪笥,米櫃などを撤去すると、なんとまあ広い台所だったこと。
明日には壊されてしまう台所に立つ家内
我家の外も見て回りました。今年は柿の生り年のため、柿の木には小さな青い実がたくさん生っていました。新しい家が建つ頃、美味しい柿の実が収穫できそうです。雨の日に大活躍したサンルーム。我家に引っ越してきた当時あったた縁側を撤去して、新たにこのサンルームを取り付けました。とても役に立ちました。
青々とした柿の木、晩秋に収穫 雨の日などに活躍したサンルーム
冬は私の昼寝場所
玄関や門は、この家が建てられた当時に流行したデザインです。今となっては古めかしく少しばかり時代を感じさせる石板を張り付けたり積んだりしたデザインです。このデザインがこの団地の標準だったようです。しかし、今となっては我家がこの付近で一番古い家となってしまいました。
石板を張った古い形式の玄関 石板を積み上げたデザインの門構え
明日には取り壊される、我家の家屋,駐車場,玄関
家の外に行って我家を振り返ってみました。我家を取り囲むように大谷石の石垣が並んでいます。残念ながら、八王子市の条例でこの大谷石の上部二段を取り壊さなければなりません。我家は東南角地にあるのですが、その角地の大谷石は大きく傷んでいます。その理由は、息子が長年にわたってこの石垣に向かって野球のボールを投げつけたからです。この野球の投球練習のせいで、大谷石の表面が一部はがれ落ちています。
長年息子の投げつけたボールで、一部はがれ落ちた大谷石の石垣
我家を見終わるとユギの畑に行ってみました。四か月ぶりの田畑です。この田んぼ、10年以上にわたって大学生に田植えや稲刈りを、そして小学生達にも田植えや稲刈りを教えました。また私の職場の同僚を呼んだこともありました。またこの田んぼで収穫したお米が、高校生と共に全国大会で優勝したこともありました。思い出深いこの田んぼを懐かしく見渡しました。
その後、畑から一旦我家に戻ってユギの仲間から小麦粉を受けとりました。ありがたいことです。去年の秋に種まきし,麦踏みし,草取りして栽培した貴重な小麦で作った小麦粉です。明日には壊されるガランとした我家で、その仲間と一時間ばかり談笑しました。
思い出がいっぱいの田畑 受け取った貴重な小麦粉
8月18日、八王子の家の建て替えや父親の葬儀のお礼などで、数日間八王子に滞在することにしました。4月初めに山口県に来て以来の八王子です。朝7時頃に自宅を出ました。駅まで行く車が無いので、一時間程度歩いて田布施駅に行きました。今の時期、田んぼは穂ばらみ期です。重く垂れる稲穂を見ながら歩きました。さすが夏のため、駅に着いたときは背中が汗で濡れていました。
重く垂れる稲穂を見ながら駅に歩く 徳山駅で新幹線に乗車
八王子に着いて京王南大沢駅を降りると、家内と落ち合い一緒に我家に家に向かいました。明後日から取り壊しされる我家です。残った物がないかどうか、写真に取っておくものがないか探しました。狭い我家だと思っていたのに、ガランとした我家は意外と広く感じました。
がらんとした一階の広間、机やソファーが無いとけっこう広い
二階に上がって、残した物がないかどうか確認ししました。柱の傷や子供たちが張り付けたシールや絵は持っていけません。それらは写真に撮りました。二階から外を見下ろすと、なじみの家々が並んでいました。見慣れた外ですが、新しい家は窓の配置が違うので同じようには見えないはずです。霞のせいか、今日は富士山が見えませんでした。柿は新しい家ができても伐採しないで残すことにしました。柿だけは我家で自給できる貴重な果物ですので。
二階から見慣れたはずの外を見る、霞のため富士山は見えず
再び一階に下りると、犬穴を久しぶりに見ました。ここ10年間タンスの陰に隠れて見えなかった犬穴です。この穴は、可愛がっていたロミ(ビーグル犬)が家の外と中を行き来していた穴です。ロミは、私と娘が連れ帰ってから我家の家族になりました。床にはロミがひっかいた跡がたくさんありました。ロミは子供たちの良き遊び友達だったのですが、10年ほど前に病気で死んでしまいました。その後、ロミを丁重に火葬した後、お骨は柿の根元に埋めてあります。今は亡きロミ、子供たちの心の中に生きていることでしょう。
ロミが家の内と外を行き来していた犬穴 火葬直前、涙目でロミを見つめる家内
(2001/2/26)
次に、家の玄関ガラスのヒビ割れをしみじみと見ました。このヒビ割れは7年位前、息子が高校生時に入っていた野球部で面白くない事があったらしく、怒りにまかせて足蹴りしてできたヒビ割れです。そのヒビ割れを直さないで、思い出として今日までそのまま残していました。このヒビ割れしたガラス、家の建て替えで無くなります。写真に撮っておきました。
家の中をざっと見回ると、新しい家が完成するまで住む仮住所に、家内の運転する車で移動しました。仮住所生活は3ヶ月間位になりそうとのことです。
息子が蹴りをいれてできたヒビ 家内運転の車で仮住所に移動
銭壷山から下りると懐かしい由宇の町並みを散策しました。国道188号線脇にあるJR由宇駅の正面から伸びる道を由宇街に入りました。私が子供の頃の由宇は、とても賑やかでした。50年位前のことですが、バスに乗ってこの狭い由宇街を通過していると、町中をいきな恰好をしたボーイスカウトが行進している姿を目撃したことがあります。子供ながらかっこいいなあと思いました。
JR由宇駅の正面から伸びる道を通り由宇街に入る
由宇街に入ると、私が覚えていた由宇街はもうありませんでした。昔もあったであろう古い瀬戸物店はありましたが、その他の店は跡形もありませんでした。道はカラー煉瓦で舗装され綺麗になっていましたが、何せ人がほとんど通っていませんでした。昼間これだけ人通りが少ないことは、この由宇もシャッター街になっているのだと痛感しました。
カラー煉瓦が敷かれた通路 ハス田の道を通る
由宇街を抜けしばらく行くと、ハス田をありました。そのハス田を通る道を散策してみました。私の家には昔池があり、ハスを栽培していました。懐かしい光景でした。次に、昔行ったことがある由宇温泉に行ってみました。私が行ったことがある温泉は川岸にありましたが、建物はありませんでした。しかし、由宇温泉に関わる旅館はまだたくさんあるようです。旅館の近くにカラオケバーもありました。きっと夕方は賑やかなのでしょう。
由宇温泉の看板、温泉やカラオケバーが並ぶ
由宇温泉からしばらくした所に特養老人ホームがあります。10年ほど前、私が福祉の道に進もうかと考えていた時に訪問したことがあります。当時建物が新しかったことを覚えています。この老人ホームの特徴は、地元の温泉を利用できることです。そして、建物を取り囲むように綺麗な川が流れていることです。今回この老人ホームの入居者か職員の家族と思われるグルーブが川辺でバーベキューを楽しんでいました。温泉があり自然に恵まれている一級の老人ホームだと思いました。由宇の特養老人ホームを過ぎると日積に出て、ひたすら柳井に向かって走り家に向かいました。
温泉と自然に恵まれた老人ホーム のんびりした日積の田園
由宇歴史民俗博物館を出ると、近くある「みなとオアシス由宇」海水浴場に行きました。この海水浴場は、4月に広島でバイクを受取りに行った帰りに寄った海水浴場です。その時は4月でまだ寒かったため誰もいませんでした。しかし、今回は人がたくさんいました。砂浜にテントを張って寝ころぶ人、海で泳ぐ人などです。
たくさんの人がいた「みなとオアシス由宇」海水浴場
日に照らされた砂浜はとても暑いので、休憩するために海の家に入りました。そこで、ソフトクリームを注文して舐めていると、同じ建物の中に海水浴場には似つかわしくない会場がありました。ミクロ生物館です。中に入ると、顕微鏡が数十台ならんでいました。ビデオでは、ミドリムシ,アメーバなどの微生物を映していました。場違いのような会場でしたが、しばらくここで休みました。海水浴場を去ると、銭壷山に向かいました。この山からは、瀬戸内海を一望できます。
場違い?なミクロ生物館 山道から見下ろした海水浴場
海水浴場から銭壷山まで6Km程度の山道を登ります。途中、瀬戸内海を見下ろす切り立った崖や耕されず放棄された段々畑を見ながら登りました。しばらく登ると、青少年のためのふれあいパークの施設がありました。この施設を付近を登っていると、大勢の若い男女が道を歩いて下っていました。キャンプか何かの研修があったようです。
切り立った崖や放棄された畑 立派なふれあいパークの施設
ふれあいパークを過ぎて数分で銭壷山の頂上に着きました。頂上とは行っても駐車場になっており、ただの広場のようでした。しかしながら、周りの景色はなかなかのものです。ただ今回は、霞がかかっていたので、瀬戸内海はそれほど良く見通せませんでした。良く晴れていれば四国も見えたのではないかと思います。
普通の公園と見まがう、駐車場のある頂上広場
霞がかかって良くは見えませんでしたが、南を見ると大島がはっきりと見えます。端の方には大島大橋が小さく見え、島の中央付近には久賀町が見えました。東方面は、地平線の境が霞でよく見えず、眼下の前島だけははっきり見えました。冬の晴れた日に来れば、絶景ではないかと思います。
眼下に小さな町並みと前島 大島の右手に大島大橋
瀬戸内海側とは反対の西側に行くと、柳井市の琴石山がそびえていました。琴石山特有の尖った頂がはっきり分かります。先日琴石山を登山した時、東方向に銭壷山が見えたことを思い出しました。下を見下ろすと日積地域の田んぼや家が小さく見えました。天気が怪しくなってきたので、頂上には20分位いただけですぐに同じ山道を通って由宇方面に下山しました。
銭壷山から西を見ると、琴石山特有の尖った頂が見える
天気が良くなったので、由宇方面に出かけてみました。由宇は岩国や広島に行く時に通過しますが、ゆっくりと散策したことはあまりありません。子供の頃に父親に連れられて進水式を見に行ったり、温泉好きの祖母と一緒に由宇温泉に行ったことくらいしかありません。今回は、久しぶりの由宇です。最初に由宇歴史民俗博物館に行ってみました。
海岸沿いにある、船の形をした由宇歴史民俗博物館
由宇は昔、造船が盛んだったようです。父親に連れられて進水式に行ったことをよく覚えています。それほど大きな船ではなく、見守る人も多くなかったように記憶しています。木造船でした。この由宇歴史民俗博物館は、船の形を模しているだけあって船に関わる資料が多くありました。また、農業に関わる資料もありました。
船に関する資料 祖母が愛用していた猫車
農業関わる資料の中に、私が高校生頃までよく使った用具がありました。私が高校だった頃の農業機材はもう歴史の一部なんだと思うと、そして昔の農業資材は使われない廃物なんだと思うとなんだか寂しい気持ちになります。下の写真のA(大八車)は父親がよく使っていました。C(かます)は祖母が夜なべ仕事で作っていました。B,D,Eは、使う見込みはありませんが私の家にまだ残っています。
昭和30年代までよく使われて民具の数々
一番思い出深いのは、猫車です。私の祖母がよく使っていました。私が保育園から歩いて帰る途中など、この猫車の上に乗って一緒に家に帰ったことを覚えています。猫車に乗っていると、ごとごと揺れながら視界が後ろにゆっくりと流れていきます。猫車は私のお気に入りの車でした。私が子供の頃、かまどで煮炊きしていました。そのかまども展示されていました。そして、私が見た進水式の写真も飾られていました。
煮炊きに使われていたかまど 懐かしい進水式の写真
駅前通りを柳井駅に向かって散策しました。ほとんどのお店が無くなっていました。本屋さんも例外ではなく、駅通りの津野ブックショップだけが残っているくらいです。本橋以北の本屋さんは全く残っていませんでいた。津野ブックショップ内に入ってみると、置いてある本の種類が昔と比べ激減していました。参考書などはあまり無く、回転が良く再販がきく週刊誌中心になっていました。ハードブックなどはもう売れないのでしょうね。この本屋さんに入って柳井田布施域の白地図を買いました。
地図を買った都野ブックショップ 丸久跡地のイベント会場
本屋さんを過ぎて、旧丸久があった付近に行くとイベント会場がありました。この会場で、金魚ちょうちん祭り関係のイベントがあるようです。もっと昔、金魚ちょうちん祭りが始まる前の柳井のお祭りもこの近くで蛇おどりのようなイベントがありました。会場は、最終日のためか音声装置やイスを片づけや整理していました。
今も残る駅前通りの広島銀行(丸) 広島銀行(丸)横にあった旧丸久
デパートだった丸久はもともとは柳井津の土手町近くにありましたが、柳井警察署が今の場所に移転した頃に、広島銀行付近に移転してきました。そして、駅前の大丸が亡くなった頃に丸久も無くなりました。20年以上前から商圏がだんだん柳井駅の西に移っていきデパートも消滅しました。
金魚ちょうちんで飾られた、昔と比べて静かな柳井駅
柳井駅に着くと、JAや柳井園芸側に向かって歩いてみました。駅前の喫茶店千草に入ってみようかと思いましてが時間がないので止めました。そう言えば地下通路になった場所に小さなビルがあり、確か地下に喫茶店がありました。時間待ちにその地下喫茶店を利用したことがよくありました。喫茶店千草を過ぎると、目立つのはJAの立派な建物だけです。
建物が古くなった喫茶店千草 昔と比べて立派な建物の志熊眼科
JA付近を歩いていると、志熊眼科への案内図がありました。私が高校の頃、この眼科に通ったことがあるため、ちょっと寄ってみました。昔と比べて建物が立派になっていました。私がかかった眼科の先生はお年寄りでした。今は、その二代目か三代目が後を継いでいるのでしょう。
次に、柳井文化服装学院/クッキングスクールに行ってみました。知ってはいましたが、建物は廃墟になっていました。私の母親が定年後にここに通って勉強していたようです。しかし、今は洋裁などを習う人がいなくなり、料理を習う人もいなくなったのでしょう。このような民間の学校が無くなるのはさびしいものです。洋裁や料理の他に、趣味講座などを増やすなどして生き残れなかったのでしょうか。柳井園芸を通り線路を横切り、バイクを駐車している柳井駅西側に戻りました。そして家に帰りました。
廃墟になった柳井文化服装学院 今も比較的お客が来る柳井園芸
白壁の街並みを抜けて柳井川に出ました。この付近も昔とはずいぶん様子が変わっていました。やはり、立ち退きのためか川にせり出した家はありませんでした。私にとっては川にせり出した風情がとても好きだったので少し残念です。昔はこの川に厠ががあったようで、自然の水洗トイレだったようです。川に突き出た家の風情が、宮本常一の写真集に乗っていたように思います。
柳井川に沿う公園で、風に舞うたくさんの金魚ちょうちん
柳井川を本橋に向かって歩いていると、懐かしいお店が二つありました。建物はまったく変わっていましたが、中華料理店の台湾とうどん店の松本食堂です。特に、台湾は私が子供の頃によく行きました。本橋付近で買い物を済ませると、この中華料理店に寄って食べていました。お店に方にいろいろ話を聞くと、今は二代目の方が継いでいるとのことでした。私が好きだったビーフンはちゃんとメニューに残っていました。
町並みふれあい館がある今の通り 町並みふれあい館が写る昔の通り
40年位ぶりに中華料理の台湾で食べた後、松本食堂前に行ってみました。うどん店の松本食堂も建物が変わっていました。このお店は私の父方祖母のお気に入りでした。祖母と柳井に行くと必ずこのお店に寄りました。このお店、昔は北に入口がありましたが、今は柳井川に向かってありました。今度来たときにこのお店でうどんを食べてみようと思います。
中華料理の台湾 うどんの松本食堂
本橋のたもとで柳井川を見下ろしました。馬皿方面を見ていると、「たなか」と書いてあるビルに気がつきました。子供の後、この場所にあった「たなか食堂」の肉うどんが好きでした。その後20年位前に私の子供が小さい頃、柳井を訪れた時にこのお店に入ったことがあります。その頃、この付近があまり変わっていた記憶がありません。このため、この本橋付近の風情が大きく変わったのは20年位前からのことではないかと思われます。
柳井川から馬皿方面を見て、左のビルが旧田中食堂
柳井川を見終わると、柳井駅に向かって散策しました。この駅に向かう通りも昔は賑やかでした。子供の頃の私は、小動物が好きでした。このため、この通りにあったペットショップがお気に入りのお店でした。買うことはできませんでしたが、犬,猫,金魚,小鳥など必ず立ち寄ってみました。このペットショップの向かい側に写真店がありました。中学生の頃、このお店で写真の現像に使う現像液や定着液などを買っていました。買ったものを自宅に持ち帰り、暗室に改造した押し入れで写した写真を現像していました。
ペットショップがあった個所 私が小学5年頃の駅通りの写真
柳井津の寂れたシャッター街を過ぎると、急に賑やかになりました。柳井市が宣伝している白壁の町に出ました。白壁の街並みに行く前に、街並みふれあい館に寄ってみました。この洋風な建物は、柳井でも一番古い洋館だとのことです。私もこの銀行だった建物を覚えています。当時は、その前に立つのさえためらうほどの立派な洋館だったことを覚えています。
元銀行で今は「街並みふれあい館」、柳井で一番古い洋館
街並みふれあい館では金魚ちょうちん祭りにちなんだ催しが行われていました。この館は同時に柳井市出身の松島詩子記念館にもなっています。松島詩子については知りませんが、松島詩子が作詞した歌をピアノで生演奏していました。また、子供達が書いた金魚ちょうちん祭りの絵を陳列していました。
祭りの絵,そしてピアノ生演奏 幼児の頃に行った元住宅街
街並みふれあい館を出ると、すぐ横の道を北に登りました。このころには雨が上がりました。この道の西側に昔は平屋の住宅街が広がっていました。55年位前、この住宅を作るための砂を田布施川で採取していました。私が幼児の頃、この砂を採取していたお兄さんの運転する三輪車(当時、ミゼットなどの三輪車がたくさん走っていた)に乗ってこの住宅に来たことがあります。5歳位の頃でしたが、知らないお兄さんに誘われてたった一人でその車に乗りました。当時幼児だった私は警戒心が無かったのでしょう。車に乗れる嬉しさが警戒心をなくしたのでしょう。今でも、その時の運転中の振動やエンジンの音,ハンドルの形,車の青色を鮮明に覚えています。よほどうれしかったのでしょうね。そして、私を乗せたお兄さんが得意そうに私に話しかけていたことを覚えています。
柳井市が宣伝している白壁の街並み
金魚ちょうちん祭りも最終日のためか、途中雨が降ったためか全体的に人が少なかったように思いました。しかし、白壁の街並みのある店に入ってみると、女性がたくさん入っているお店がありました。アクセサリーのお店です。この白壁の街並みは昔、見向きもされませんでした。私が子供の頃、このような白壁の街並みがあるなどとは知りませんでした。そもそも、この街並みまで足を運ぶことなど昔は皆無でした。
雨のため、人通りが絶えた店先 大勢の女性がいたアクセサリー店
雨が上がって、白壁の街並みの上を見上げると青空が見えました。軒下にならぶ金魚ちょうちんが風にゆられてさわさわ動いていました。金魚ちょうちんは誰か考えたのでしょうか。私が子供の頃にすでに金魚ちょうちんがありましたが、これほど広がっていませんでした。当時、この金魚ちょうちんよりも下関のフグちようちんの方が有名だったように思います。このフグちょうちんをまねて作ったのでしょうか?白壁の街並みを散策し終わると、小さな道をぬけて柳井川に出ました。
軒下にぶら下がる金魚ちょうちん 街並みを柳井川にぬける小道
八王子で稲作をしていた時、一番困ったのは防鳥です。猛暑の中、防鳥網を張るのは大変な作業でした。また防鳥網の回収と片づけも大変です。山口県に引っ越して陸稲を作っていますが、やはり鳥には悩まされそうです。穂が出た稲をよく見ると、穂が食べられて白くなった個所があちこちあります。そして、食べた犯人の鳥の糞が葉にたくさん付いています。今年も防網網を張らなくてはいけないようです。
防鳥網を張ろうとしたが !! 防鳥用のてぐす
そこで、防鳥網を購入して張ることにしました。しかし、購入した網がカタログどおりの大きさではありませんでした。カタログより大きくてとても張れません。せっかく広げた防鳥網をたたんで牛舎にしまいました。そこで、防鳥網ではなく防鳥用のてぐすを使ってみることにしました。防鳥網より簡単に張ることができます。
防鳥用てぐすを張るための支柱を埋め込む
防鳥用てぐすは、釣り糸に似ている細いビニール製の超長い糸です。糸は透明でしかも極細のため鳥が引っかかりやすいようです。一度引っかかった鳥は、怖がって飛んでこない仕組みのようです。ただし、鶏のように歩いて来る鳥には効果はありません。八王子ではこの防鳥用てぐすを使ったことがないので、今のところ効果は未知数です。もし効果があれば、防鳥用網より簡単に張れるので他の陸稲畑にも使ってみようと思います。
防鳥用てぐすを張っている途中、透明で極細のため見にくい
八王子で防鳥網を田んぼに張っていた時、いろいろな小動物がひっかかりました。鳥がかかったりや昆虫がかかることが多く、カエルが引っかかったことがあります。防鳥網は動物には優しくないので、てぐすの方がいいかも知れません。一番良いのは網を張らないことがしょうが、そうすると収穫がゼロになるので使うのはやむをえません。10月頃の稲刈りの時まで、この防鳥用てぐすの効果を確かめようと思います。
支柱に巻きつけた防鳥用てぐす 陸稲畑の上を通る防鳥用てぐす
本橋を過ぎて、柳井津方面の道を歩きました。この付近も昔とすっかり変わってしまい。道を迷いそうになります。この付近は50年前、とても賑やかだったことを思い出します。今では柳井駅の西側が賑やかになっていますが、50年ほど前の柳井駅西側は田んぼが広がり柳井高校がポツンと1つあるだけのさびしい所でした。もっと昔は田んぼではなく塩田だったようです。隔世の感があります。
本橋から数百メートル柳井津方面へ行った道
道を歩いていると、賑やかな声が聞こえてきました。道は往時の賑やかさがありませんが、声だけ賑やかなのでちょっと不思議な光景です。その賑やかな声の方に行ってみると、子供たちが金魚すくいのようなもの(カラーボール)をやって楽しんでいました。金魚ちょうちん祭りに合わせた地域のお祭りのようです。この頃に雨が降ってきたので傘をさしました。
金魚すくいのように小ボールをすくう 地域のお祭り、大人や子供がたくさん
地元のお祭りを過ぎると、旧「丸久」があった場所に来てみました。50年ほど前、丸久はこの場所にありとても賑やかだったことを思い出します。食料品はここにあった丸久で買い、日用品やお土産は本橋近くの店で買うのが常でした。そして、両手に買物袋を持って柳井駅から防長バスに乗って家に帰ったものでした。
旧「丸久」があった場所 シャッター街だった新天地
旧「丸久」があった場所からさらに東に向かうと法務局があります。その途中は、まさにシャツター街となっていました。私が子供の頃の新天地には映画館もありました。柳井には3か所位の映画館があったのに、いつから映画館が無くなったのでしょう。年に何度か映画と見るためだけでも柳井に来ていました。私の記憶にある柳井が次々に無くなっています。寂しいことです。
ここもすっかりシャッター街になっていた柳井津街の通り
柳井津はとても古い街です。古代においては、大畠-柳井-田布施-平生に至る海の中継地ではなかったかと想像します。そもそも当時は今の柳井川が海岸だったようです。古代は、田布施の方が中心で朝廷の支配が高まるにつれて柳井が中心となっていったようです。古墳の位置,形,製造年から推測されます。
ところで、私が高校生になる時、初めて腕時計を買ってもらいました。その腕時計を買った福田時計店、まだ店はありましたがシャッターが降りていました。市役所方面に移転したとの書付が貼ってありました。また、そのから数十メートル先の青木商店は残っていました。しかし、私が当時このお店で買っていた、模型,モーター,模型,エンジン,電子部品などは置いてありませんでした。普通の文房具店になっていました。
シャッターの降りた福田時計店 昔よく行った青木商店