午後13時過ぎに郷土館から帰りました。途中、図書館とスーパーマーケットに寄りました。家に帰り着くと、すぐに農作業用の服に着替えて畑に向かいました。すでに、空からパラパラと小雨が降っていました。畑に着くと、巻尺の計測ひもを畝の両端に引っ張り、50cmごとに平クワで軽く穴を掘り、トウモロコシの種をまきました。1ヶ所に3粒の種です。
巻尺の計測ひもを張る 50cmごとに浅い穴 1ヶ所に3粒の種
種を蒔いていると、2ヶ所だけアリの巣と重なりました。アリの巣があると、アリが種や根をかじるのか、発芽後の成長が思わしくありません。このため、巣から少しずらした場所に種をまいておきました。
農作業は基本的に、雨や晴れの日を予測しながら作業します。例えば、雨が降る前日は種まきに最適です。雨が上がった次の日は土が柔らかくなっているため耕耘に最適です。晴れ続きの3日後頃は、稲刈りやお麦刈りに最適です。などなど、常に天候を予測しながら農作業すると良いです。しかし、なかなかそうは行かないのが現実です。
50cmごとに軽く穴を掘り、トウモロコシの種を3粒まく
今回、種をまいたトウモロコシ畑の一番奥の畝にヒマワリの種を蒔きました。去年、ヒマワリを育ててとても大きな綺麗な花が咲いたので、今年も花を咲かせて見たいと思いました。このヒマワリの種は、ハムスターの餌としてよく売られています。このため、比較的容易に種が手に入ります。とても大きくなるため、1m離して種をまきました。
2m以上背が伸びるヒマワリの種 1mごと離して種をまく
トウモロコシとヒマワリの種をまき終った頃、本格的に雨が降り始めました。雨が降る前に種まきが終わってほっとしました。雨が降る中、家に入る前にグミの木に行きました。すると、グミの実が2粒ありました。少し酸っぱみと渋味がわずかにありましたが、甘く美味しかったです。野生に近い果物なのか、食味期限がとても短い実です。市販していない自家用の小さな果物です。
今年最後の2粒のグミ、甘く,わずかに酸っぱみ,そして軽く残る渋味
梅雨に備えて、種を次々にまいたり、育苗した苗を移植しています。今回植えた苗は約1ヶ月前に種を蒔いて育苗したナスとトマトです。育苗期間が1ヶ月のため、市販の苗よりは小さいのですが、ちゃんと根付けば大きく育つと思います。
ボットで育苗した長ナス ボットから取り出し移植 移植後たっぷり水やり
育苗で気が付いたのは、トマトとナスは比較的よく育ちました。しかし、ピーマンはダンゴムシかナメクジに食べられたようです。農薬で防除しなかったためか、だいぶ葉が欠けていました。昼間目を凝らして害虫を探したのですがいませんでした。昼間は土などに隠れて、夜出てはピーマンの葉を食べているようです。葉が大きくなるまで待って、移植することにしました。
ボットで育てたトマトの苗 ボットから取り出し移植 たっぷりと水をやる
ナスとトマトの移植が終わると、トウモロコシの種をまく畑を耕耘しました。私が種をまくトウモロコシは実が甘い品種ではなく、デントコーンのような硬い実ができるトウモロコシです。焼いてそのまま食べるか、実を粉にしてコーンスープにします。トウモロコシは害虫(アワノメイガ)の被害が甚大です。トウモロコシは、農薬をを使わないでは収穫できない作物の一つです。一昨年は散々な目に合いました。今年も農薬を使わない方針なのですが、どの程度収穫できるか不安です。
トウモロコシの種をまく畑を丁寧に耕耘
畑に残していたタマネギをすべて収穫しました。タマネギのしおれた葉を持っては、次々に引っこ抜きました。肥料をそれほど施さなかったため、市販のものよりやや小さ目のタマネギばかりでした。しかし、我家は二人だけですので、多すぎるほど収穫できました。親戚に配って丁度良いほどのタマネギを収穫できました。来年もこの程度の量を作ろうと思います。
しおれた葉を持って抜く 半日程度乾燥 乾燥後、日陰に山積み
半日程度乾燥したタマネギを、日陰に積みました。そして、7,8個ごとに束ねる作業をしました。麻紐を使って巻き結びで束ねました。タマネギの乾燥が進むと、縛った葉が縮みます。すると、紐が緩んでタマネギがばらける場合があります。そのような時に、巻き結びにしておくと、再度縛るのが楽なのです。
麻紐でタマネギを束ねる 左下〇は、小さすぎたタマネギ
ほとんどのタマネギを束ねることができました。小さなタマネギは、先に食べることにして束ねませんでした。束ねたタマネギは、農作業小屋の軒下にぶら下げました。このようにしておけば、必要な時に外しては食べることができます。葉物野菜は貯蔵できませんが、タマネギは貯蔵できるためとても重宝します。これから夏,秋,冬にかけて、毎日美味しいタマネギを食べることができます。ぶら下げたタマネギを見上げていると、収穫の喜びを感じることができます。
農作業小屋の軒下にぶら下げたタマネギ
続いて、グリーンピースの収穫をしました。タマネギにしてもグリーンピースにしても種まきは秋です。半年近く雑草を刈り取ったり、竹の支柱を立てるなどの世話をした成果が今なのです。丸々と太った鞘を収穫すると嬉しくなります。
支柱にからまるグリーンピース 丸々と太った鞘 ハサミで切って収穫
グリーンピースは大量に食べる野菜ではありません。私が一番好きな調理は、グリーンピース御飯です。白い御飯に入っている緑のグリーンピースは色も鮮やかで、少し塩味をきかせたものが大好きです。ソラマメ御飯も良いのですが、どちらかと言うとグリーンピースの方が私は好みです。初夏前の食卓を飾るにふさわしい豆料理です。
収穫したグリーンピースの鞘、この鞘を外して豆を収穫
小麦畑は、9m x 13mの防鳥網を2張り被覆しましたが、もう1張り網を張る必要があります。今回、もう1張りの網を購入して張りました。前回は3人で張ったので、スムーズに張ることができました。今回は一人で張ってみました。予想した通り、一人で均等に張るのは難しいことが分かりました。片方を軽く張った後、もう片方へ行って引っ張ると片側が偏ってしまうのです。孤軍奮闘して、なんとか張ることができましたが、網に偏りが出てしまいました。
最初、網の片側を固定 網の片側を引っ張る 網をなんとか張り終わる
水田でお米を作っていた頃を思い出しました。お米を作っている人が周りにいないと、スズメや鳩が大群で押し寄せます。網を張っていても、スルリと通り抜けるのです。今回使った網の網目は4cm x 4cmです。鳩は入れませんが、スズメは難なく入れます。スズメの胴体は細いので、羽をすぼめると4cm位の網目を軽く通り抜けるのです。3cm x 3cmの網目の防鳥網も売っていますが、とても高価で重くしかも張るのがなかなか難しいのです。今回張った防鳥網は効果があるでしょうか。はたして何割の減収となるでしょうか。
麦畑の上を覆った防鳥網、どの程度の効果があるか
防鳥網を張り終わると、別の畑の作業をしました。来月は梅雨となり、作業が停滞することが多くなります。今のうちに、種まき,移植,草刈りなどを済ませておかなければなりません。
今回は、桃園などの下草刈りを済ませておきました。耕耘機のロータリーを回して、桃の下に生える雑草をかき回して除草しておきました。しばらくは雑草の勢いがないでしょう。除草の一番のこつは、雑草が大きくなってから刈るのではなく、小さなうちに刈っておくことです。大きくなると、草刈機や耕運機では一度に刈り取りできず、しかも根が残ってしまいます。小さなうちは根ごと耕せるので効果があります。雑草の上を見て刈るのではなく、雑草の根を見ながら刈るのです。
桃園の下草を、耕運機のロータリを回して耕耘除草
先日、小麦畑に防鳥用糸を張りました。しかし、結果は思わしくありません。スズメや鳩の麦の食べ方を観察していると、一度麦の穂に留まります。すると、鳥の重みで穂がポキンと折れて地上に倒れます。すると、スズメや鳩は、地上に落ちた穂をむしるように食べるのです。そこかしこに折れた穂が散乱しているのです。やれやれ、がっかりです。
無残にもスズメや鳩に折られた麦穂
東京に住んでいた頃、麦畑を防鳥網で被覆していました。この網を麦畑に張ることにしました。これならば、防鳥糸よりは食害を防ぐことができます。ただし、私一人で網を張るのは大変です。そこで、EtさんとEmさんに網張りをお手伝いしていただくことになりました。最初、私が網を張るためのガイド糸を張っている間、麦畑の雑草を取っていただきました。ありがとうございました。
麦畑の雑草を取っているEtさん 網の両端を持って麦畑を覆う
張った網の大きさは9m x 13mを2張りです。防鳥網を張るのは比較的容易なのですが、来月の麦刈り時が大変です。来年また網として使えるように、上手に網を外して回収しなければなりません。なお、2張りでは麦すべて覆うことができないことが分かりました。もう1張りの網が必要でした。
ところで、この周辺で麦を栽培しているのは私だけのようです。このため、私の麦を狙ってスズメや鳩の大群がやってきます。大勢が麦を作れば、鳥の大群が分散されて被害を低く抑えることができます。私以外に麦を栽培する人が現れないでしょうか。
張った2張りの防鳥網、鳥の食害をなんとか防ぐことができそう
小麦畑に網を張り終えると、我家に帰りました。そして、夕方、Yさんのお父さんの一周忌に関わるおもてなしに、Y夫妻よりご招待を受けました。田布施駅前の友末旅館の一角でささやかな宴です。お誘いいただき、ありがとうございました。ビールやお酒を飲み、見てよし食べてよしの美味しい料理に舌鼓しました。そして、いろいろな話題で大いに盛り上がりました。
私が高校生の頃、こうして40年後に仲間が集まるようになるなど思いもしませんでした。中学高校時代、女性とじっくりお話しするのは苦手でした。今回、当時の女子高生2人に挟まれて、両手に花でした(笑)。これからも、こうしたお付き合いを大切にしたいと思います。今後ともよろしくお願いします。
中学高校時代に戻って、楽しい話題に花が咲いた宴
大きな岩にはよく注連縄が張られて、祠などが立っていることが少なくありません。しかし、ひっかり観音の屏風岩は何故か観音様と呼ばれています。観音様と思しき石柱が立ってはいますが、どう見ても仏像のようには見えません。かつて、ここに観音様の像が安置されていたのかも知れません。山の上ではお詣りに不便なため、民家近くに仏様を降ろした話はよくあります。もしかして、ひっかり観音を見上げることができる位置にある西山院庵と関係があるのかも知れません。今となっては謎ですが。
全員が順番にお祈り 田布施方面を背景にお祈り お勤め中のご住職様
ところで、ひっかり観音前の狭い広場は野積みの石垣で支えられています。いつ頃この石垣が作られたのか知っている方はもういません。一人や二人がお詣りする程度では、わざわざ石垣を組んで広場を作る必要性がありません。その昔、地元の大勢の方が集まって何らかの催しをしていた名残ではないでしょうか。なお、戦時中にこの付近をマンガンか何かの鉱物を探していた事があったとの話もあります。それと石垣が関係あるのでしょうか。想像をたくましくして、石に彫られた仏様を廃仏毀釈時に石垣で隠したのかも知れません。今となっては謎ばかりです。
田布施町の城南地区を見下ろして 田布施街方面を見下ろして
お勤めが終わると、ひっかり観音の垢を落とす作業に入りました。最初、岩全体を覆っているシダ,苔,そして根などを落としました。私は、岩肌を磨くために持ってきた、電動ドリルを動かして研磨しました。しかしながら、数百年もの時間がかけて風化した岩は簡単には綺麗になりません。やはり、粗,細,極細の順に辛抱強く磨かなければならないようです。このため、ほんの一部しか磨くことができませんでした。もう一度に来て、磨き直そうと思います。
岩全体を覆っているシダ,苔,そして根などを除去
ほんの一部分ですが磨いたので、斜めに太陽光線を当ててみました。すると、けっこう光線を反射します。この程度であれば、朝日の反射光を、肉眼では見えなくても双眼鏡などで観測できると思います。暇があれば観測してみようと思います。
さて、ひっかり観音の垢を落とした後、ひっかり観音をテーマにした紙芝居を披露していただきました。Hさんによる軽快な紙芝居話術は素晴らしく、みなさん聞き惚れていました。なお、ひっかり観音をテーマにしたものに、田布施少年少女合唱団の歌があります。紙芝居も歌も、田布施の伝承や童歌を後世に残そうと創作したものだそうです。今、ひっかり観音の伝承を伝え聞いている古老は亡くなりつつあります。これらの伝承を、次の世代にしっかりと伝えていきたいものです。
紙芝居「ひっかり観音」の披露 ひっかり観音前広場をささえる石垣
紙芝居の披露が終わると、ひっかり観音を後にしました。今度は急こう配の下りです。転げ落ちないように注意深く降りました。足場が悪いので、林道に降り着くまでは気が抜けません。林道に降り着くと、車に乗って西山妙見社側の林道を通って田布施郷土館に戻りました。そして、解散しました。今回参加された方々、お疲れ様でした。
足場に気をつけて下山 ようやく林道に到着 山深い林道を抜けて帰る
田布施町の呉麓山の山深い山麓に、ひっかり観音と呼ばれる屏風岩があります。去年6月、ひっかり観音が朝日を反射して光る可能性があることの科学的証明をしました。ただし、岩の表面に鏡を立てかけての証明です。今年は、鏡ではなくひっかり観音の岩自体が光ることの証明をしたいと思います。このため、何百年もの汚れが積もった岩の表面を磨くことにしました。しかし、何百年もの眠りにあった観音様を無理やり起こすことにもなります。そのため、龍泉寺のご住職にひっかり観音までお越しいただいてお勤めをしていただくことになりました。お勤めとはいえ、険しい山道を登っていただきありがとうございました。
ひっかり観音の麓に到着 がれた獣道を登る 深い草木をかき分け登る
約10ヶ月ぶりにひっかり観音の岩にやって来ました。ここに来ると、田布施町が一望のもとに見渡せます。また、遠く平生町や柳井市も見渡すことができます。赤子山,大星山,琴石山,そして銭壷山などを見ることができます。さらに、平生湾の海を見ることができます。
はるか古代、今より海がずっと田布施側に迫っており、平生町,田布施町,そして柳井市にかけて海が広がっていました。つまり、この地域は海峡でした。古代、この海峡を通って奈良の都と朝鮮半島は船で結ばれていたのです。その海を、このひっかり観音は照らしていたのではないでしょうか。
ひっかり観音の屏風岩から見下ろした、平生,田布施,そして柳井
ひっかり観音の屏風岩には、去年取り付けた鏡がまだ残っていました。私は、この鏡を固定している紐をほどいたり、重りの石を外したりして鏡を撤去しました。他の方々は、屏風岩前の小さな広場に生える草を抜くなどしてお勤めの準備をしました。
去年取り付けた鏡 草などを取り除いて綺麗に シキビなどを設置
ひっかり観音の屏風岩は、古代から地元の人々に信仰されていたようです。わらべ歌で歌われ、伝承が代々言い継がれ、岩そのものも大切にされてきました。伝承によると、田布施がまだ海原だっ頃に船から光が見えたそうです。その伝承が本当だとすると、それは今から500年以上前のことではないかと思います。そんな大昔の自然現象が、代々言い継がれていたのです。
お勤めの前に、線香などの準備を整える方々
今回、ひっかり観音の屏風岩を綺麗に磨きます。そして、この磨かれた岩肌が朝日を反射する現象を確認したいと思います。もし、去年鏡で確認したような光を確認できれば、500年以上前からの伝承が事実だったことの証明になります。はてさて、光ってくれるでしょうか。
ひっかり観音の屏風岩前でお勤め
去年の9月に種をまいて、11月に移植をして育てたタマネギが収穫時期を迎えました。葉の色がだんだん薄くなり、茎が倒れるようになりました。今回育てたタマネギは貯蔵期間が長い品種ですので、来年の2月頃まで吊るして保存できます。300個以上のタマネギを1日ですべて収穫できないので、今回は第1回目のタマネギ収穫です。夜、初タマネギを食べてみました。さすがに、採りたてのタマネギは美味しいです。
1個1個丁寧に掘り上げ 今回は20個程度収穫 食べないものは吊るし保存
ところで今回、発明クラブの指導が終わるとすぐに家に帰りました。山口市に住んでいる妹夫婦と、萩市に住んでいる姪が来訪しているからです。私が家に着くと、さっそく歓談の輪に入りました。萩市の県庁舎で仕事をしている姪とは久しぶりに逢いました。庁舎は明倫館傍の大通りに面しているそうです。話しぶりから、頑張って仕事をしているようでした。
久しぶりに逢って歓談中の、妹夫婦,姪,そして私の母親
なお、妹の夫はこの春に県庁を退職して、今は別部門で働いています。現役時代より楽な仕事になり、穏やかな生活をしているようです。私もそうですが、今後は余暇を有効に使いながら生活を楽しみたいものです。
歓談の合間に外に出ました。そして、タマネギやエンドウ豆を収穫してもらいました。タマネギは吊るしておけば、半年は保存できます。そのため、たくさん収穫してもらいました。また、ソラマメ,まだ早いですがジャガイモとニンニクも獲ってもらいました。グミが赤く実っており、その場で姪に食べてもらいました。猫のりんちゃん、寝ころんでその収穫を見守っていました。
タマネギを引いている妹と姪 絹さやエンドウを収穫中
この古いSONY製トランジスタラジオ TR-63の修理履歴です。それぞれをクリックしてください。
修理(1/6) 修理(2/6) 修理(3/6) 修理(4/6)
修理(5/6) 修理(6/6)
ようやく、このラジオの修理が終わります。ラジオの修理と言うと、回路的な故障個所を発見して電子部品を交換するなどして正常に放送を受信ように直すことを言うと思います。しかし、私はただ動作すれば良いのではなく外観も直す必要があると思います。つまり、限りなく販売当時の姿に戻すことだと思います。積年の汚れが溜まっていれば綺麗に取り除きます。
穴が開いた革 裏地を当てて接着 穴をふさいで目立たなく
このため、電子的な修理が終わると、必ずラジオのすみずみを水やアルコールなどで汚れをふき取ります。しかし、一番厄介なのはラジオを納めていた革の修理です。革は時間と共に必ず傷んできます。カバンの革のように、メンテナンスすることが無いため傷みが顕著です。傷んでいる革ではありますが、私は素人ながら革を直すように心がけています。今回のSONY製ラジオTR-63の革も何とか修理してみました。
破れてしまった、SONY製ラジオTR-63を納める革
一番良い方法は新たに革を購入して加工することです。しかし、私は革の加工や修理の技術を持っていません。このため、同じ色の布を革の裏地に当てる方法で修理しています。これならば、表から布が見えません。長持ちはしませんが、時々動作させたり、展示する程度ならがこれで十分だと思います。
接着剤を付けた裏地布 片方に裏地布を接着 裏地布が見えないよう接着完
このラジオは、戦後日本の高度成長のスタートラインにあった製品だと思います。これらのトランジスタラジオ製造は、その後テレビ製造へと引継ぎれました。私が就職した昭和50年、100m近いベルトコンベアでテレビが製造されていました。今でも、ベルトコンベアを流れる製造中のテレビを思い出します。また、当時同じベルトコンベアで働いていた第一製造ラインの仲間達を思い出します。ほとんどが17歳位の若い人達で、中学校を卒業してすぐに働き始め夜間高校に通っていました。午後5時になると、一斉にセーラー服に着替えて高校に通っていたのです。かつての仲間達も、私のようにこの工場を思い出すことはあるのでしょうか。
日立製作所岐阜工場テレビ製造部の昼休み 第1製造ラインの仲間達 1975.6.28
さて、革を二日がかりで修理しました。そして、革を納めてラジオを鳴らしてみました。今から60年近く前の昭和32年当時、購入した人達はこのようにラジオを聴いていたのではないかと思います。真空管ラジオからトランジスタラジオへ転換した最初のラジオではないかと思います。また、日本が輸出で外貨を稼ぐように成った製品の走りではないでしょうか。また、SONYの名前を世界の名ブランドにしたラジオです。これで、このラジオの修理を終わります。
修理した革に納めた、SONY製トランジスタラジオTR-63
日光寺内でお地蔵様などを見ていると、改築した時の記録などが書かれた木札が天井に掲げられていることに気が付きました。一番大きく書かれていたのは、今から100年位前の大正元年(1912年)の改築でした。当時は、日光坊と呼ばれていたようです。
さらに、古い木札が掲げられていました。その木札は代々住職をしていた尼僧の戒名のようです。一番古いのは、今から約300年前の享保9年(1724年)に亡くなった「釈〇〇信女」と書かれている方です。戒名に釈が付いていることから浄土真宗と思われます。また、尼僧名が多いことから、言い伝えどおり尼僧が住んでいたことが分かります。
〇内に書かれているのは「釈〇〇信女 享保九年〇〇」
さらに安永年代(1772~1781)ですが、亡くなった方が多かったのか、又は住職の入れ変わりが多かったことが分かります。江戸時代からずっと大正時代までの長い間、日光坊と呼ばれていたようです。庵と坊の違いはなんでしょうか。ところで、江戸時代は日光坊のあった場所は石城山の山麓にあたります。当時、石城山には神護寺があり、たくさんの僧坊がありました。もしかして、神護寺に関わる尼僧の僧坊が日光坊だったのではないかと、思いを巡らせてみました。果たして事実はどうだったのでしょうか。
上段の荒神様 ため池傍の賽様 ため池脇の石碑
今回、日光寺を訪れて史実が一つ明らかになりました。それは、この日光寺が平和第四十五番霊場だったことです。それを示す木札があったのですが、これまで私一人ではどうしても読めませんでした。しかし、私が太陽光線を木札に斜めに当てると、かすかに文字が浮き上がったのです。木札を手にしている私には読めないのです。この木札は、二人いないと読めないのです。今回の下見での大収穫でした。とても嬉しかったです。
上のため池に繁殖したアゾラ 急階段上のゆうが様 岩永地区のお地蔵様
日光寺は今、上段地区の集会所になっています。かつては、ここで尼僧が住んでいて上段地区のおつとめをしていたのでしょう。麻郷は昭和50年頃まで尼僧(尼さんとも、おびいさんとも)がいました。上段地区では、昭和10年以前に尼僧がいなくなったようです。その理由はなんでしょうか。日光寺を出ると、Y氏の家を訪ねました。そして、いろいろ上段の歴史について教えていただきました。ありがとうございました。続いて、荒神様や賽様などに行きました。そして、帰りに岩永の荒れた山の中を通りました。
M君の経営する花卉栽培ビニールハウスを見学
下見を終わって岩永から朝市に戻る途中、同級生のM君に会いました。彼はフラワーパークに卸す花卉栽培をしているそうです。その温室を見せていただきました。さらに、明日捨てる予定との花を、各人一つずつ鉢をいただきました。ありがとうございました。
これで2度にわたる下見が終わりました。すべてのコースをウォーキングすると、相当な距離になります。このため、本番ウォーキングでは誓立寺周辺の史跡を省略しようか思います。さて、あとは良い天気を願うだけです。
2回目の下見で歩いた上段地区のコース
前回の大波野ウォーキングのための下見は、時間が足りませんでした。このため、今回2回目の下見をしました。灸川ほとりにある朝市にバイクを置いて再調査を始めました。最初、前回妙見社から上段に降りた場所まで急行しました。その場所に行くと偶然、タクシー待ちの方に出会いました。その方から、日光寺にかつて巡礼が来ていたことをお聞きしました。その方のお話では、日光寺から余田方面へ巡礼していたとのこと。また、その方が余田の坂本から嫁に来たとのお話をお聞きしました。私の祖父は、その余田の坂本のS家出身です。そのS家を知っていることのことでした。
朝市から上段に向かう 上段の立派な石垣 女体社へ向かう山道
上段は山の中腹にあるためか、立派な石垣が目立ちます。野積みではなく、ちゃんと削って積まれた石垣です。先祖代々大切に使われ続けたに違いありません。その上段の古道を歩いて最初の訪問地女体社(女躰社とも)に向かいました。女体社とは奇妙な名前の社です。すぐ下の日光寺が尼寺であったことと関係しているのでしょうか。謎です。
最近歩かれていない山道を登りきると女体社
女体社は昭和51に建て替えられました。山積みにされた瓦が置かれていますので、改築前は瓦葺の立派な建物であったようです。女体社を出ると、近くにある石階段を登って天神社に行きました。石階段は近くの岩永から切り出した石を使っているそうです。天神社は昭和43年に改築されました。やはり、改築前の建物は立派だったのではないか思います。
天神社にお詣り 天神社傍の鉄塔 日光寺に到着
昼食休憩は、天神社の傍に立っている鉄塔下で取りました。ここからは柳井方面が良く見えます。休憩を始めた頃は、鉄塔の陰で涼しかったのですが、だんだん影が移動して、日光が当たるようになり暑くなりました。休憩が終わると、鉄塔下の道を下って、次の訪問地である日光寺に行きました。これまた不思議なお寺です。かつて尼寺だったとの言い伝えがありますが、いつまで尼寺だったのか知っている人はもういません。おそらく昭和10年代頃には無住になったのではないでしょうか。
日光寺内には、いろいろな仏像や仏画が安置
五十谷海岸から三島への取りつき部で、楽しいお昼休憩にしました。さわやかな海風が吹いていたため、日差しの中でも暑く感じませんでした。私はいつものように買弁を食べました。これまでのウォーキングなどの話で盛り上がりながら、楽しい時間が過ぎてゆきました。山の新緑もいいですが、青い大海原もいいものです。
大海原を目の前にして、楽しいお弁当タイム
楽しいお昼休憩が済むと、すぐ近くにある祠に行きました。三島の先端近くの祠は、満潮時は海に阻まれて行くことができません。しかし、この祠は満潮時でもなんとか渚を避けてお詣りすることができます。しかし、祠にいたる階段が、急登で,段が前のめりで,かつ手すりがありません。注意しながら、一歩一歩階段を登らなければなりません。天気が良い日は、この祠から南の方角に四国が見えます。今回はうっすらとしか見えませんでした。
堤防に座って昼食休憩 注意要の祠の階段 祠から三島を見て
祠をお詣りすると、五十谷の砂浜を通って平郡東港に向けて帰ることにしました。出港がいつもより30分遅い2:30です。このため、五十谷海岸を13:00に出発しました。帰り道をのんびりと帰ることにしました。出発する前、岩場で見つけた牡蠣2個をジャンケンで最後に買った2人で分けることにしました。残念ながら、私は1回目で負けました。
案内していただいたMさんと、十谷海岸の砂浜にて
帰り道、牛が何頭か道に寄ってきました。そこで、道端の草を抜いて牧場の敷地内に放り込みました。すると、牛がもぐもぐとその草を食べました。今の子供達は牛に接する機会があまりないのでしょうか。牛が珍しいようです。子供達も牛に食べさせるための草を投げ込んでいました。。
私が子供の頃、家で牛を30頭位飼っていました。30頭もの牛の食事量は半端ではありません。毎日のように草を刈っては牛に与えていました。一番嫌だったのは、牛の糞の後始末でした。山のように溜まった糞を一輪車で運び出すのです。傍から見ていると牧場はのどかですが、経営はけっして楽ではないのです。
牧場の牛に分かれを告げる 子供の牛(べこ)を見学 ビワをいただいて分ける
牛達に分かれを告げて道をどんどん進むと、子牛小屋がありました。中に小さな子牛(べこ)がたくさんいました。牧場を過ぎて上り坂を進んでいると、南斜面にビワの木がたくさん生えていました。実がなっていて、中には黄色く熟している小粒の実がありました、その実を少し分けていただきました。まだ少し早いような気がしましたが、甘酸っぱい甘さは、とても新鮮で美味しかったです。ありがとうございました。
緑のアーチをくぐって道を急ぐ 楽しかったね、仲良し三人姉妹
早田八幡宮の石鳥居に来ました。ここから道を逸れも鳥居をくぐってから早田八幡宮をお詣りしました。早田八幡宮の拝殿を見学すると、立派な天井絵がありました。おそらく万葉集の作者とその歌詞をテーマにした天井絵だと思います。続いて、柳井名木の一つであるけやきを見ました。そして、平郡東港に早足で向かいました。
早田八幡宮の拝殿 柳井名木の一つ、けやき 柳井港に到着
平郡東港に30分近く早く着きました。まだ時間が早いので、地元のお土産でも買おうと農協のお店に行きました。すると、日曜日で農協のお店はお休みでした。下見の時は平日だったのでお店が開いていたのです。気を取り直して、再び平郡東港に引き返しました。切符を購入後しばらく休んでいると、出港の2:30が近づいてきました。船の中ではぐっすりと寝てしまいました。気が付くと、柳井港が目の前に見えました。船が着岸すると、すぐに下船しました。そして、下船した場所で解散しました。今回参加された方々、お疲れ様でした。
今回ウォーキングした、平郡東地区のルート
============健康ウォーキングクラブ==============
牧場の牛を見ながら道を下ると、砂浜が続く海岸に出ました。海岸に着くと、平郡島在住のMさんが待っていました。Mさんは平郡島の観光などの振興したり、海士や保護司などの仕事をされている方です。砂浜に生えている貴重な植物などを教えていただきました。ありがとうございました。
五十谷の海岸に到着 砂浜に生える植物を観察 動植物を説明中のMさん
次に、下見時に潮が満ちていたため行けなかった三島の海岸線を歩きました。海岸線は岩場だらけですので、どこをどう歩いてよいかルートが分かりません。Mさんに、三島の先端へと続くルートを案内していただきました。さらに、この海の危険性や海岸の岩場に住む動物や海藻などについて教えていただきました。
五十谷の砂浜から、一転して三島の岩場ルートを散策
三島の海岸線は潮が引くと、広い面積が地上に顔を出します。流れ遅れたクラゲがあちらこちらにありました。また潮だまりには、巻貝やカニなどの生き物がいました。岩の隙間には、亀の手,瀬戸貝,そしてイソギンチャクなどがいました。子供達も海の生き物や海藻などに興味を示しているようでした。海の勉強にはもってこいの日でした。私も童心に戻って、石をはがしてみたり、隙間を覗いたりしました。
岩場の動植物を探索 三島先端の祠前の石鳥居 二つの祠をお詣り
三島先端近くに石の鳥居がありました。そして、その鳥居から上に向かって階段がありました。その階段を登ると、二つの祠が安置されていました。Mさんのお話では、農業に関わるらしいとのこと。それぞれの祠の由来は何なのでしょうか。また、いつ頃に安置されたのでしょうか。両方の祠は比較的綺麗です。ご神体を最近、古い祠から新しく祠に移し替えたのかも知れません。玉石やその周辺も綺麗でした。
三島先端近くにある二つの祠前
三島先端近くの祠から平郡島を振り返りました。五十谷の砂浜から三島まで通じる堤防が真っ直ぐ見えました。そして、砂浜と三島に内海のように囲まれた海がとても綺麗でした。海の所々に海藻が漂っているのが分かります。この海藻の中には、いろいろな魚がいるのでしょう。潜って観察してみたいものです。夏にでも再びこの海に来て、水中メガネを付けて潜ってみたくなりました。
三島先端近くの祠から、五十谷海岸の砂浜方面を振り返って
祠をお詣りすると、海岸の岩場に降りました。そして、遊びがてら貝がいないか掘ってみたり、食べることができる海藻がないか探しました。白くなったテングサが少しありました。テングサそっくりの別の海藻もありました。良く見ると、少しばかりテングサより太いので違うことが分かります。アサリの貝殻あったので掘ってみましたが、アサリはいませんでした。Mさんによると、ここは岩場が多いため、エイによる貝の被害は無いとのこと。大嶽を下見ウォーキングした時に私はアワビを購入しました。アワビがどんな岩場に住んでいるのか見てみたいものです。
青海苔で緑色に染まった岩場 採取物を手に五十谷海岸に戻る
岩場は主に青海苔で覆われているため、緑色をしています。注意深く歩かないと滑って転んでしまいます。ビニール袋でも持って来ていれば、この青海苔を採取してみたいと思いました。私が子供の頃は、自由に海岸に出て自家用に青海苔を採取していたものでした。今は、漁業権の関係で採取できない場所が所々あるようです。
今回ウォーキングした、平郡東地区のルート
柳井市の平郡島をウォーキングしました。先月、平郡東地区の大嶽を下見ウォーキングしました。しかし、前日雨が降ったせいもあって急坂がつるつる滑り、お年寄りや児童には歩行困難と思われました。このため、ウォーキングする場所を五十谷に変更しました。そのため後日、五十谷を再度下見ウォーキングしました。
ところで、この両方の下見の時は、柳井港と平群島を結んでいるフェリーに乗りました。しかし、今回はそのフェリーが点検のため運行していませんでした。代替の小さな40人乗り位の小型船に乗って平群島に行きました。
平郡島行きの船に乗船 いつもより高速の船 船が初めての子供も
今回乗船した小型船は、車を積むことができませんが高速です。平郡東にいつもより30分早く着きました。さらに、いつもより30分遅く出港です。このため、いつもより1時間の余裕を持ってウォーキングすることができたので、とてもラッキーでした。
道端にたくさんあった野イチゴを摘んで味を楽しむ
さて、平郡東に着いて下船すると、トイレ休憩後すぐに歩きました。下見と同じルートです。地元の農協付近から上り坂を登りました。しばらく歩いていると、誰かが野イチゴを見つけました。道端のあちこちに赤い実がなっていました。みんなで摘んで、味を楽しみました。甘酸っぱい味がとても美味しかったです。今の時期は、野イチゴのように野生の味を楽しむことができる季節です。
平郡東を振り返って 五十谷海岸への道すがら 牧場で牛のお出迎え
早田八幡宮の鳥居を少し過ぎた頃、平郡島の西側が見えてきました。しかし、今回は霧がかかっているのか、八島や九州方面は見えませんでした。しかし、昼が近づくにつれて空が青くなってきました。五十谷の海岸に降りる頃には、清々しい風が吹くと共に太陽の光が差し込むようになりました。海岸近くの牧場では、のんぴり牛が草を食んでいました。
波音だけが聞こえる、静かな五十谷の広い砂浜
五十谷の海岸に着いた頃にはすっかり霧が晴れていました。波音だけが聞こえる静かな砂浜に到着です。平郡島では、このような砂浜はここだけとのこと。また、柳井市の海水浴場三つのうちの一つとのこと。夏には海水浴を楽しむ方々が多く訪れるそうです。しばし砂浜に立って、潮騒を感じることにしました。シーズンオフの今、とても静かな五十谷の広い砂浜でした。
柳井港から平郡島への航路
今年も、去年に続いて桃の袋掛けをしました。今年は強めの剪定をしたためか、例年より実の数が多くありませんでした。その代わり、虫に食われたり病気になった実があまりありませんでした。剪定の影響はいろいろと後で出るようです。弱い剪定が良いのではないかと思います。このため、来年は弱い剪定をしてみようと思います。
脚立を使って、上の方にある桃の実に袋をかける
実の数が少ない代わりに、どの実も比較的大きく育っていました。実がぐらぐらしないか確認後、袋を掛けました。桃は熟すと甘い香りを出します。そして、その香りに誘われていろいろな虫を呼びます。一番困るのはカブトムシです。ぐいぐい桃に食い込んで、甘い汁を吸い出します。子供の頃、コールタールを入れたバケツの中に、捕まえたカブトムシを入れて殺虫したものでした。今年は美味しい桃を収穫することができるでしょうか。
今年は実が大きめ 白い袋を掛ける 隙間が無いように縛る