まだまだ先だと思っていた私の退職日となりました。これまで、会社都合による退職などを経験しましたが、今回の退職で私の仕事は最後になりそうです。来月から、両親の介護が生活の中心となります。介護の合間をみて農業するつもりですので、介護があまり負担にならないようであれば農業で生計を立ててみようかと思います。野菜作り、稲作、果樹、竹林、林業と幅広いので大変になりそうですが、無理しない範囲でやってみようと思います。
今回退職した病院の正面玄関 最後に勤めた病棟(2号館)
退職日の仕事は、認知症患者さんの入浴担当でした。朝の引継ぎが終わると、入浴に必要な用具を持って浴室に行きました。そして、浴槽にお湯をはることから仕事を始めました。洗濯物をいれる袋、使用済みオムツを入れる袋、体をふくバスタオル、着替えのセット、シャワーの水温確認などを次々と終わらせて、患者さんが来るのを待ちました。患者さんが来ると、背中を洗ったり、お湯を流したりなどの支援をしました。11時過ぎに入浴支援作業が終わりました。
入浴支援作業中の私、次の認知症患者さんを待つ間にちょっと休憩
入浴が終わると、入浴室を片づけました。そして、次の入浴に備えての用具や衣服をそろえました。自分で衣服をそろえることができない患者さんは、その衣服をそろえてあげました。次回の入浴準備が終わると、職場の仲間達と昼食準備をしました。昼食準備が完了した11時半頃、私は数人と早昼休憩をとりました。
一緒に入浴支援や昼食準備をした職場の仲間達
病院の食堂で昼食をとった後、売店でコーヒーを購入して広場で出て休憩をとりました。広場を歩いていると、偶然に半年位前まで勤めていた別病棟の仲間達に出会いました。この病棟は7年位ずっと働いたので教育・指導した人もいます。一緒にツーリングを楽しんだ女の子もいました。近況について和気あいあいに楽しく談笑しました。
私の両側二人は、私がプリセプター(教育・指導)をした女性
午後4時頃に各病棟に挨拶周りをしました。挨拶周りをしていると、10年ほど前に退職した大手電機メーカーのことを思い出しました。この時は会社都合の退職でしたが、やはりお世話になった方々に挨拶周りをしました。その会社は30年位勤めたでしょうか、テレビやコンピュータの設計を担当したり、製造現場に行ったり、販売店を回ったりしていました。今回退職する病院の仕事とは異次元の仕事でした。
時々寄ったデイケア施設 7年間通勤に使った中型バイク
挨拶周りをしていると、思いがけず花束をいただいた職場がありました。ホームヘルパーを患者さんの家に派遣している職場です。病院内の仕事とは別に、ずっとホームヘルプの仕事も兼任していました。ホームヘルプ中に孤独死の発見をするなどいろいろ大変な思いをしましたが、思い起こせば貴重な経験をさせてもらったと思います。
挨拶周りを終わって病棟職場に戻ると、みなさん全員が待っていてくれました。私がお別れの挨拶をすると、綺麗な花束をいただきました。うれしいことです。帰宅後に、いただいた花束を玄関に飾っていると、帰宅してきた家内が「よかったじゃない!」と言ってくれました。
いただいた花束二つ、さっそく玄関に飾りました
先日訪れた荻窪の親戚を再度訪問することになりました。先日の訪問時、帽子を置き忘れたために、その帽子を受け取るためです。前回と同様に、多摩センター駅からモノレールでJR立川駅に向かい、そこで乗り換えて荻窪に行きました。立川駅では北口方面を少し散策しました。青梅に生んでいた頃、映画を見るためにこの北口からやや歩いたところにある映画館によく行ったものです。
すっかり変わっていたJR立川駅北口
20数年前はモノレールが開通していませんでした。北口を降りると左手に高島屋があったのですが、今はありませんでした。しかし、第一デパートは昔のままありましたが、閉店セールをしていました。やや古めかしいこのデパートは5月に無くなります。いとことは、荻窪西口駅で待ち合わせました。そして、いとこのご主人が運転する車でおばがショートステイしている老健(老人保健施設)に行きました。
閉店セール中の第一デパート おばがショートステイ中の老健
おばには、私が持って行った写真を見てもらいました。その写真は昭和39年の写真でした。私がまだ小学生で、いとこがまだ20歳位の娘だった頃の写真です。おばは、とても懐かしそうに見ていました。機会があったら、他の古い写真を見てもらおうと思います。
老健を出た後、いとこ夫婦にイタリアンレストランで昼食をごちそうになりました。その後、車で練馬にある私の家内の実家に行きました。そして、家内の母親に私が東京を離れる挨拶をしました。私,いとこ夫婦,家内の母親の4人で楽しく話をしました。その後、練馬駅でいとこ夫婦の別れました。私は新宿駅構内で明日最後になる職場へのお土産を買い、京王線で自宅に戻りました。
おばがショートステイしている老健で、おば,いとこ,私
職場である病院の患者さんと観梅レクリエーションに行ってきました。三月も下旬ですので、もう梅は花が散り始めているのではないかと思っていました。しかし、今年は寒いのかちょうど梅は見頃でした。風がやや強かったのですが、バカポカ陽気で患者さんも付き添いスタッフも思い切り観梅を楽しむことができました。
介護タクシーに乗り込む 梅の花を間近に鑑賞
介護タクシーを事前に予約していたのですが、てっきり普通車に車イスを乗せるタイプの福祉車両が数台来るの想像していました。しかし、来た介護タクシーは車イス4台と付き添いスタッフ4名を乗せることができるマイクロバスほどの大きさのタクシー1台でした。その1台に8人が乗って、観梅を楽しむ府中市郷土の森に向かいました。
入園してから100m程度歩いた所で休憩、甘酒を堪能
入園料は200円ですが、障害者手帳を持っていると本人と付き添いスタッフも含めて2名が無料です。このため、8人全員が無料で入場することができました。入園して100m位歩いて休憩しました。そこで、甘酒を堪能しました。
満開の梅を間近に見て触る 大きな水車小屋前で少し休憩
府中市郷土の森は、見渡す限り梅の花が咲いていました。白い梅に混じって紅梅も咲いていました。空が澄み切るように青々としていましたので、さらに梅の花が美しく映えて見えました。平日のため人もそぞろで、のんびりと散策することができました。
空も青く澄み切って、梅の花がより映えて美しく鑑賞
梅を鑑賞しながらあちこちを散策しました。水車小屋に行き、小さな子供たちが楽しく餌をまいている池にも行きました。ひな人形が飾られた古民家にも行きました。県民木が植えられた庭園も散策しました。
子供たちが餌をまいていた池 ひな人形が飾られた古民家
この郷土の森はけっこう広いので、2時間程度ではすべてを見ることはできません。車イスが通ることができるルートを選んで散策しました。いつもは病院内で生活している患者さん達ですが、久しぶりの外出でとても嬉しかったのではないかと思います。
観梅に参加した患者さん達、「郷土の森」出口にて
今日、職場である病院から退職願いの承認辞令を受け取りました。これで、正式に今の職場を退職することが決まりました。並行して退職金や保険証の延長手続きなどをしました。これで山口県に帰る準備は整いました。4月5日の引っ越し準備も着々と進めています。
職場から発令された退職承認辞令
一方で、山口県に帰る切符を買いました。今回の切符は、40年前18歳で山口県から東京への片道切符を購入して以来の片道切符です。この40年間、帰省しても旅行に行っても、必ず東京に戻るために往復切符でした。ちなみに最後の往復切符は今月上旬に山口へ帰省した時のものです。今回は、東京を去って故郷に戻る片道切符です。40年の時の流れを感じずにはいられません。
40年ぶりの片道切符
去年の春に長沼公園東側を散策しました。雨跡の湿った山道を散策しました。その後、今年の正月に公園中央の山道を散策しました。。そこで、今回はこの公園の西側を歩いてみることにしました。ただ、この西側は20年以上前に子供会活動で何度も歩き、数年前にも晩秋に散策したことがあります。
右丸は去年春、中央丸はこの正月、左丸は今回散策
この都立公園は、先日散策した平山城址公園西園から西側に連なる尾根の一角です。尾根から北側向かってなだらかに落ち込むよう地形です。ほとんどが山で構成されている自然公園です。このため、公園内は山道で結ばれています。ほとんどが山のためリスやタヌキが住んでいます。今はまだ寒いので、これらの小動物を見ることはできません。
公園のもっとも高い場所にある展望台
最初、この公園の最も高い場所にある展望台に行きました。その展望台で八王子市街や日野市街を見下ろした後、この公園の西側に向かって歩きました。尾根道の途中にはひなびた昔の建物を利用した焼肉店があります。その店を通り過ぎて100mほど歩くと、下に向かって伸びる尾根道に入りました。
展望台から見下ろした八王子市街と日野市街
その尾根道は石ころばかりのとても痩せた道で、しかも道には木々の根が張っているために油断するとつまずいてしまうようなとても歩きにくい道です。ただ、晩秋のように落ち葉が積もっていなかったので、落ち葉で滑ってしまう危険性はありません。不思議なことにこの山道に転がる石はどれも丸い形をしています。
昔の建物を利用した焼肉店 狭い山道の入口
本か何かで知ったのですが、この山は数万年前には川底にあったそうです。川底には川の流れで磨かれた丸い石がたくさんあります。数万年の間に隆起して今の山になったとか。川だった証拠に、この公園には貝殻が析出する崖があります。
一人しか通れない痩せた尾根道、最新の注意をはらって歩く
尾根道を下りきると、この正月に登った山道と合流します。今回は、さら西側を通る沢筋の道を歩いて今度は山を登ってみることにしました。最初、崖崩で閉鎖された道を迂回するための木道を通りました。
閉鎖された道を迂回する木道 向こう側に見える下った尾根道
木道を渡ってしばらく歩くと、急に開けた沢筋の草原が見えてきます。夏は緑のじゅうたんのような草原ですが、今は季節がまだ寒いため、低い枯草が目立つ草原です。この草原を迂回するように整備された歩道を歩いて尾根に向かいました。
草原を迂回するように整備されたハイキング道
なだらかなこの草原は、南から沢に向かった緩やかに下っています。冬に雪が積もると、かっこうなスキー場に早変わりします。数年に一度スキーができます。子供が小さい頃、一度だけ雪が積もったこの草原に来たことがあります。大勢の子供がソリに乗って下っていました。
雪が積もると、かっこうなスキー場に早変わりする草原
数日前小麦に肥料をまきました。その後雨が降って麦がどうなったか気になったので、深夜勤務が終わった昼頃に畑に寄ってみました。すると、雨が降って肥料分が畑に染み込んだためもあるのでしょうが、小麦が一段と緑が濃くなり成長していました。背も数センチ高くなったように思われます。
青空の下、緑がより濃くなり成長が進む小麦
この時期は、気温が確実に暖かくなります。そろそろ梅が散って、桜のつぼみが膨らんでいるのが分かります。所々雑草も芽が出ています。タンポポも数はまだわずかですが咲くようになりました。まぶしいほどの麦の緑です。
背が20cmほどに伸びた小麦 まぶしいほどの小麦の緑
普通の化成肥料には必ず窒素分が含まれています。窒素は、リン酸、カリと並んで植物の緑を増やす働きがある必須肥料です。肥料を蒔く効果が目に分かります。数年前、肥料を蒔いてその効果を確認したことがあります。穂が出るころに、もう一度肥料をまくと万全かと思います。
今は、麦が一斉に成長を開始するスタートの季節
7年ほど前に購入したデジカメですが、今では撮影を開始してすぐに電池が消耗するようになりました。毎日のように使うデジカメです。毎朝充電しておかないと、電池が無くなる不安に常に襲われながらの撮影です。以前所有していたデジカメは単三電池でしたので、こんな不安になることはありませんでした。今回、新しい充電池を購入することにしました。取り寄せになるのではないかと思っていたら、お店の隅っこに一つだけありました。値段は値引き後の値段で¥3,990でした。とても高価でしたが、今後の不便を考えると高価でも買わざるを得ませんでした。
手で持っているのが今回購入した充電池、右は買い換えた古い充電池
去年末にパソコンを制作した時、初めてSSDを使いました。しかし、先週から調子が悪くなりました。時々画面がパタリと止まったり、ひどいときはOSが立ちあがらなくなりました。せっかく性能が良いパソコンが制作できたのにがっかりでした。一度は治ったのですが、すぐに同じ症状になりました。いろいろ調べるとは、つまるところマザーボードに認識されなくなってしまいました。こうなると、OSが入るCドライブであるSSDを取り替えなければ解決できません。
取り替える前のSSD SSDと取り替えたハードディスク
SSDがこうも簡単に壊れるとは思ってもみませんでした。でも、いろいろな書物を調べると初期のSSDにはこのような故障が発生したとのこと。そして、いろいろな改善版SSDが今は出回っているようです。しかし、このパソコンを制作した当時、一番安かったSSDでしたので「やっぱりな」と言う感じです。
マザーボードに認識されなくなった故障SSD
再度SSDを購入してパソコンを修理しようと思いましたが止めました。1年間保証付きのハードディスクに交換しました。性能的には落ちますが、また同じような故障を経験するのはまっぴらです。再度SSDにするのは2,3年先にしようと思います。
Cドライブにハードディスクを設定し、リカバリ作業中
Windows XPパソコンの時はCドライブの復元がとても面倒でした。しかし、Windows 7は、Cドライブが故障しても復元が簡単なのには驚きました。OSのCDを入れて「復元」を指定すると、いとも簡単に故障直前の状態にCドライブが復元されます。
修理中のパソコン内部 Cドライブの復元中画面
復元が簡単なのには驚きましたが、一つだけ不満なのは故障前そのままに復元されることです。今回交換したハードディスクは1Tバイトもあるのに、故障前のSSD容量と同じ120GBとして復元されてしまったことです。せっかく1Tバイトもあるのに、120Gバイト以外の残り約880Gバイトは使えないのですから残念です。それから、当然のことですがSSDからハードディスクへ切り替えたので動作が遅くなりました。何かまったりしている使用感です。ですが、故障してあたふたするのは二度とごめんです。
せっかくの1Tバイトが、128Gバイトのディスクと認識(がっかり)
引っ越しの準備を少しずつしていますが、今日は晴れ間が見えたので麦畑に行って肥料をまいておきました。手でまいてもいいのですが、どうしてもむらができてしまいます。このため、前回と同様に手押し式播種機をつかって肥料を散布しました。このところ、風がゆるんできたのでコートを着なくてもよいほどです。手で押しながら肥料を散布していると体が熱くなってきます。
手押し式播種機を使って肥料を小麦畑に散布
小麦が育つ畝は24本あります。このため、一つ一つの小麦の畝をなんども往復しながら均等に肥料をまきました。途中で肥料が無くなるため、その都度手押し式播種機に肥料を充てんしました。小麦は高さ15cm程度に成長しています。このため、小麦を痛めないようにかつ畝に沿って肥料をまきました。
手押し式播種機に肥料を充てん 小麦を痛めないように肥料をまく
この播種機を使うと、筋まきではなく点まきで肥料が散布されます。念のため、肥料がちゃんとまかれているか小麦の根本を調べました。すると、小麦の根本に肥料がちゃんと均等に点まきされていました。手で肥料をまくとどうしても偏りが出ます。すると、麦の成長に偏りが出てしまいます。
丸は小麦の根本に点まきされた肥料
約1時間、何度も小麦畑を往復しているとさすがに疲れました。時々立って休みました。日々気温が上がっているので、今後さらに小麦は成長します。すると地面が見えなくなり、畑は緑のじゅうたんのようになります。風が吹くのに合わせて麦はたわみます。そんな小麦畑に体を入れると、波打つ緑の海に入っているようです。
手で押しながら肥料を散布 何往復もしていると疲れます
昨日20日に東京荻窪にある親戚の家を訪問しました。多摩センターからモノレールに乗って、立川駅でのりかえて中央線の荻窪駅から徒歩20分程度の距離にあります。父親の姉やいとこが住んでいます。初めてこの親戚の家に行ったのは、私が高校3年生の大学受験の時です。かれこれ、40年ほど前になります。さらにもっと昔、この親戚は秋田県に住んでいました。このため、我家では通称「秋田のおじさん、秋田のおばさん」と呼んでいます。この親戚が秋田県にあった頃、遠く山口県から旅行して訪れたことがありました。小学校4年の夏休みの時でした。
二本のモノレール橋脚下をくぐって、JR立川駅に向かう
立川に立ち寄ってお土産を買い、JR立川駅からは中央線に乗りました。この中央線、私が青梅に住んでいた頃は毎日のように乗車していました。青梅始発電車に乗って東京まで行き、山手線に乗り換えて品川駅の会社ビルに通っていました。とても大変な通勤だったことを覚えています。
荻窪駅で駅を降りて親戚に向かいました。私が大学生時代に西口改札を降りるとすぐ映画館があったことを覚えています。今、映画館はありません。西友の駅ビルができてから、すっかり荻窪は変わりました。それでも、親戚までのコースは覚えているので難なく行くことができます。
中央線に乗ったJR立川駅 下車したJR荻窪駅
荻窪駅から歩いていると、昔とほとんど変わらない目印となるお寺があります。「荻窪」の名前の由来になった慈雲山 荻寺 光明院です。昔はこの境内を通行することができましたが、今は境内の脇道を通行するようになっています。また、もう一つの目印はで旧電電公社の建物です。今は新しい建物になっています。
慈雲山 荻寺 光明院の境内 旧電電公社の新しい建物
荻窪から20分程度歩くと親戚に付きました。通称「秋田のおじさん」が元気な頃は、この家の前で手を振って待っていてくれたものでした。しかし、何年か前に亡くなりました。40年ほど前、このおじさんに大学受験のために東京内を案内してもらったことを今でも思い出します。当時の学生街だったお茶の水付近は特に丁寧に案内してもらいました。
やや右手前と奥にある二軒が親戚の家
親戚の家に着くと最初に、亡くなったおじさんに線香をあげてお祈りしました。通称「秋田のおばさん」は思ったより元気で安心しました。笑い声は昔のままでした。父母の過酷な戦争体験から始まり、秋田の話、親戚の近況、介護の話など話が尽きませんでした。午前11時頃に着いてから、午後5時頃までずっと話し続けました。
右から「秋田のおばさん」、いとこ(典ちゃん)、いとこのご主人
親戚の家を出ると、ややあたりは暗くなりかけていました。来た道を急ぐように歩きました。西口で降りたので、こんどは北口の改札口に向かって歩いてみました。西友ができる前、おばさんに連れられて通路にあった賑やかな商店街を歩いたことを思い出しました。今は、その商店街はありません。
荻窪西口前、駅ビルSEIYUが見える 荻窪北口前のバス停
再び立川からモノレールで多摩センターに向かいました。この頃になると、あたりはすっかり暗くなっていました。しかし、休日のためか大勢が行き交っていました。立川はモノレールができてから、すっかり変わりました。南口は昔は裏さみしい歓楽街しかなかったように思いましたが、今は商店街ビルが増えて賑やかになっていました。多摩センターまでのモノレール、運よく座ることができ終点まで眠ってしまいました。
あたりが薄暗くなった立川南口方面
この日立製トランジスタラジオ TH-660の修理履歴です。それぞれをクリックしてください。
修理( 1/10) 修理( 2/10) 修理( 3/10) 修理( 4/10)
修理( 5/10) 修理( 6/10) 修理( 7/10) 修理( 8/10)
修理( 9/10) 修理(10/10)
私の見立てではOSC周りが怪しいようですので、局部発信周波数を測定するとある程度故障個所を絞ることができます。しかし、トランジスタラジオの局部発信電圧は0.1~0.2Vのため、私の持っているカウンタでは発信周波数を測定できません。カウンタを改造するか、発信電圧を増幅するアンプを作ろうかと思っています。
チューニングつまみを外す バリコンにつながるぶーりー
カウンタの改造とは別に、回路図を再現するためと調整個所を特定するために基板を取り出してみようと思いました。このラジオを分解して基板を取り出すためには、いったんチューニングつまみなどを外す必要があります。しかしながら、とても細かな作業ですので分解は大変です。
ラジオの分解第一段として、チューニングつまみ類を取り外す
バリコンに取り付けるプーリーを外しましたが、それでも基板を取り外せません。バリコンをアルミシャーシに固定しているネジ2個所を外し、かつ基板をアルミシャーシに固定しているネジ2個所も外さなければなりません。
バリコンを固定しているネジ2個 基板を固定しているネジ2個
さらに、アルミシャーシとバリコンやバーアンテナはほぼ一体化しています。このため、基板を取り外すためには基板に半田付けされている電線をすべて取り外す必要があります。回路を特定するための分解がなかなか厄介なラジオです。ある意味メンテナンスがしにくいラジオではないかと思います。電気屋さん泣かせのラジオではないかと思いました。
丸の五個所は、電線が基板に半田付けされている個所
山口県への短期間帰省後、再び東京に戻りました。1月に帰省した時と同じ早朝時間帯に家を出ました。1月の早朝はとても暗かったのですが、今回は3月のためだいぶ明るくなっていました。朝日を浴びながらのんびりと駅に向かって歩きました。40分ほど歩くとJR田布施駅に着きました。
明るい田んぼ脇を歩く 中学高校の頃、毎日歩いた農道
1月と比べて明るくなったとは言え、田んぼには白い霜が降っていました。しかし、日が昇るのが早いので霜はすぐに溶けるものと思います。道を進んでいると、犬を連れてのんびり散歩している方、朝練でしょうか中学生がはーはー言いながら自転車通学していました。駅近くにある中学校傍を通ると、野球部の朝練の声が勇ましく聞こえていました。
朝日を浴びて白く光る霜がきれいな田んぼ
JR田布施駅からローカル線電車に乗って徳山駅に向かいました。徳山駅では、40分位でしょうか待ち合わせて、新幹線のぞみ号に乗りました。乗った後に睡魔に襲われ、気が付くと京都付近をのぞみ号は走っていました。新横浜駅に着くまで、名古屋、浜松、静岡などを窓越しに眺めて過ごしました。
JR田布施駅でローカル線に乗車 徳山駅でのぞみ号に乗車
新横浜駅に着くと、横浜線に乗り換えて橋本駅に向かいました。運良く座ることができました。橋本駅からは京王線に乗り換えて堀之内駅で降りました。堀之内駅にはバイクを置いていたので、バイクに乗って家に向かいました。少し疲れたので、帰省時の生活を思い出しながら仮眠しました。明日からは仕事です。
橋本駅、この駅で京王線に乗り換え堀之内駅で下車
山口県に帰省した夜はもっぱら、本を読むかラジオを聞いています。これは私が高校生からの習慣になっています。私が高校生だった頃に一番よく聞いていたのは、大学受験ラジオ講座でした。毎月出る大学受験講座本を読みながらその解説をラジオで聞いていました。今この放送は無くなってしまいました。その頃は日立製のトランジスタラジオを使っており、東京からの電波をかろうじて受信していました。
今回ラジオ放送を楽しんだトランジスタラジオ
大学受験ラジオ講座だけを聞いていては疲れてしまうので、合間にオールナイトニッポンなどを聞いていました。一番耳に残っているラジオ放送は「白石冬実の『lost Love』」でした。毎週アナウンサーのパーソナリティーが変わるので飽きませんでした。大学卒業後しばらくたって手に入れたSONYスカイセンサーを久しぶりに聞いてみました。今でも通用する高感度ラジオです。今回、電離層の関係もあると思いますが、東北ラジオを受信できたのにはおどろきました。※受信の様子をデジカメに録画しようとしましたが、デジカメが発する雑音を拾ってしまうほどの高感度で録画できませんでした。
今でも動作可SONY製トランジスタラジオ スカイセンサーICF-5800
田舎の果樹園の状況を調べてみました。一昨年頃から放置して剪定をしていなかったため、また雑草が生い茂っているため、復活するのは大変な状況です。まずは、桃園ですが、袋をかけた状態で放置してあり枝も伸び放題です。春先にしなければならないのは、雑草を刈り取りと剪定です。剪定をちゃんとしないと大きく美味しい桃ができません。
袋をかけた状態で放置された桃、剪定が必要
次にビワ園を調べてみました。ビワは種が大きいので市場的にはあまり魅力がありません。ビワは主に自家消費のために栽培しています。なお、ビワのとなりに茶豆の木が育ちすぎていました。せいぜい手が届く範囲に豆が収穫できるよう剪定する必要があります。
茶豆の木、剪定の必要 ビワの葉(ビワは常緑樹)
次に梅園に行ってみました。梅は桃のように平地に植えておらず、崖に沿って何本か植えています。3月上旬で、そろそろ花が咲きそうです。花が咲いた後に実る梅を収穫して、梅酒などに使います。梅干しを作ってもいいかもしれません。この梅も剪定が必要なほど枝が茂っています。なお、この梅の根本に東京から持ってきた福寿草を植え付けました。うまく根付くといいのですが。
剪定が必要なほど茂りすぎた梅、大きく膨らんだつぼみ
珍しい果樹では、ザクロを栽培しています。ザクロは種が多いので果物屋さんではめったに見かけません。種を多く含むため食べにくいのが欠点の果樹です。果樹ではありませんが、シイタケを作っている圃場も整備する必要があります。だれもしいたけを収穫しないので、大きくなりすぎ椎茸が地面にたくさん落ちて腐っていました。
だいぶ茂ったザクロの木 整備が必要な椎茸の圃場
キャベツや白菜などの野菜は、パレットで育苗します。その育苗などの作業をするビニールハウスが一棟放置されています。ビニールを外して鉄骨だけが露出していますので、ビニールを購入して被せて直そうと思います。ビニールハウスがあると育苗などの前作業に便利です。果樹は選定や防虫などの管理がとても厄介です。管理が容易なブルーベリーなどを新たに栽培してみようかと思っています。
ビニールが外され、鉄骨部分だけが残ったビニールハウス跡
帰省中病院に行ったりしてそれなりに忙しく、種まきや植え付けのことをすっかり忘れていました。枯草ばかりの畑を耕運している最中に、今の季節がジャガイモ植え付け時期であることに気が付きました。そこで急遽種ジャガイモを購入して、耕運したばかりの畑に植え付けることにしました。購入したのは切らなくてもよい小粒の種ジャガイモ(キタアカリ)です。
種ジャガイモのキタアカリ 植え付けるための畝を作る
耕運機で種ジャガイモを植え付ける畝を作りました。畝を作ると同時に、植えるための溝を掘るように耕運しました。ここの畑は粘土質ではなく、砂地に近いので耕運機のロータリーの土離れがよくすいすいと耕運できました。畝を作ると溝に沿ってひもを引っ張り、種ジャガイモを植え付ける間隔を決めました。
植え付ける溝にひもを引っ張り、ひもに沿って種ジャガイモを植え付け
植え付ける間隔は、ひもに付けてある等間隔に結ばれた赤いリボンを目印にしました。赤いリボンが結ばれている間隔は25cmですので、リボン一つおきに種ジャガイモを植え付けました。つまり、広めの50cm間隔で植え付けました。
種ジャガイモをリボンに沿って置く 50cm間隔で植え付け
すべての畝の溝に種ジャガイモを置くと、平クワで土を深さ5cm程度に被せました。約一カ月後にジャガイモの芽が出るのではないかと思います。通常種ジャガイモは切って植え付けますが、切らなくてよい種ジャガイモを購入したのでやや高価でした。でも切らないために腐ってしまう頻度が少ないので確実に芽生えます。4月が楽しみです。
土を被せた後のジャガイモ畑、芽生えが楽しみです