東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

葉柄を折って葉を巻く、不思議な昆虫チョッキリ

2014年04月30日 | 生き物

 去年の5月、不思議な昆虫オトシブミを我家の裏山で発見しました。今回は、それと同じように不思議な昆虫であるチョッキリを発見しました。それも、裏山ではなく去年苗を植えた砂糖カエデです。春になって新芽が出ているので、その新しい葉をよく見ました。すると、何ヶ所も葉が折れているではありませんか。

            葉が根元できれいに折れている砂糖カエデの葉


 そして、根元が折れた葉をよく観察すると、くるくると巻いてあります。枯れたのであれば、黄色く変色して縮れているはずです。この悪戯の犯人は、チョッキリと呼ばれる昆虫です。葉が枯れないように、枝に微妙につながるように折るそうです。幼虫が新鮮な葉を食べる事ができるようにとの配慮のようです。
 チョッキリは主にポプラなどの葉を折って巻きます。砂糖カエデはポプラの仲間ですので、幼虫の美味しいご馳走なのでしょう。

       くるくると巻かれた葉                葉裏に潜んでいるチョッキリ
 

 チョッキリは葉を切り落としませんが、オトシブミは「落とし文」に例えられるように切り落とします。しかも、くるくる巻いた葉の両側に丁寧に蓋をして落とすのです。まるで、蓋をした筒(賞状を入れる筒)のようです。筒状に巻いた葉の中心に卵を産んでから、地面に落とすそうです。その点、チョッキリは葉を落としません。チョッキリは巻き方が雑ですが、オトシブミは綺麗に巻いた上に蓋までします。このように、チョッキリが進化してオトシブミになったそうです。
 我家の裏山は、いろいろな昆虫が住んでいます。探せばもっと不思議な昆虫が住んでいるのではないかと思います。

               大きさが5mm程度の極小昆虫チョッキリ

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平生町 ひらお邦楽朋の会発表会を観賞

2014年04月29日 | ふるさと



 昨日27日、田布施町の呉麓山とひかり観音ウォーキングが終わった後、すぐに平生町の武道館に行きました。それは、ひらお邦楽朋の会の発表会を観賞するためです。武道館に午後3時頃に着きました。すぐに館の中に入って観賞しました。

    平生町武道館に午後3時頃到着          十周年の駄菓子をいただく
 

 武道館の入口で十周年の駄菓子をいただきました。ひらお邦楽朋の会発足十周年を祝っての発表会とのことです。ところで、武道館に着いたのが遅かったようです。私のウォーキング仲間のTFさんの舞踊は見ることができましたが、中学高校の同級生のTKさんの舞踊を見ることができませんでした。残念!

     舞踊(長唄) 越後獅子                    一調 屋島
 

 武道館に着いて最初に観賞したのは、越後獅子でした。続いて、一調 屋島です。謡の人と鼓の人が調子を合わせて演じておられました。屋島と言うからには、屋島の戦いのことでしょうか。続いて舞踊(歌謡曲) 能登の火祭りです。この舞踊にTFさんが出ているので、よく観賞させていただきました。いつものTFさんと違う一面を見させていただきました。ありがとうございました。

                舞踊(歌謡曲) 能登の火祭りを踊る3人


 能登の火祭りに続いて、「井筒」や「祝賀の舞」などが続きました。ところで、私が子供の頃、平生に住んでいた祖母に連れられてよく平生座に行きました。平生座では、映画,芝居,そして今回のような舞踊などがありました。当時の平生町はとても賑やかでした。平生座はもうありませんが、あの賑やかさを今でも思い出します。

    舞踊(舞踊歌謡) 祝賀の舞         「一休さん」を踊る私 平生座 昭和34年
  

 当時、習成中学校の隣りにあった平生保育園に通っていた私は、年長さんの時に「一休さん」を主演で踊ったことを覚えています。「一休さん」以外にもいろいろな演目を踊りました。TFさんのご主人は、平生保育園時代の同級生です。平生座で一緒に踊ったかも知れません。

    最後、みんなで長州音頭を踊る        観賞者と朋の会の方が一緒になって
 

 フィナーレは、一般の観賞者と一緒に全員で長州音頭です。振りは炭坑節に似ているので、誰でも踊りやすいと思います。私は気恥ずかしいので見ているだけでした。踊りを見ていると、TKさんとTFさんに加え、TFさんのお孫さん達も列に加わって踊っていました。また、Eさんもウォーキングの疲れも見せず一緒になって踊っていました。
 TKさんとTFさん、お招きいただきありがとうございました。

        ひらお邦楽朋の会の方々と一般鑑賞者の方々が一緒になって長州音頭

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田布施町 楽しかった呉麓山,ひかり観音ウォーキング

2014年04月28日 | 歴史探訪他ウォーキング



 先週20日の予定だった呉麓山,ひかり観音ウォーキング、雨が降って延期になり今日27日になりました。数日前の天気予報では雨の予想でした。このため、てっきり今週も中止せざるを得ないかと思っていました。しかし、晴れが1日伸びたようです。事前に調査して、下見した苦労のかいがあり、ウォーキングが実施できて良かったです。

 西山妙見神社からウォーキング開始      妙見神社の石鳥居を通る
 

 午前10時に交流館に集合し、車3台で川西西山の妙見神社に向かいました。バイクでは何度もこの神社に来ましたが、車で来たのは初めです。狭い道から逸れないように注意しながら妙見神社の駐車場まで行きました。到着すると、西山林道を歩いて最初の目的地である呉麓山に向かいました。

          呉麓山登山口前の鉄塔下で最初の休憩


 呉麓山は、西山林道途中にある登山口から、歩いて20分程度の距離にあります。光市と田布施町の境界に沿って登り坂が続いています。田布施町側は綺麗に下草が刈ってありますが、光市側は原生林のようです。登山道をもくもくと登っていきました。山頂直下は急登です。時々休まないと息が切れてしまいます。

    人工の杉林間の道を進む       呉麓山山頂直下の苦しい登り坂
 

 山頂直下の上り坂を堪えるようにしながら登っていくと、急に視界が晴れてきます。そこは呉麓山の山頂です。展望が最も良いのは田布施側方面です。直下を見ると、特別支援学校が見え、その向こうに田布施の町並みが、その向こうには平生の町並みが小さく見えます。そして、1月にウォーキングした赤子山が、その右向こうには大星山の山脈が南に続いています。大星山の山頂には回っている風車が見えました。

      田布施や平生の町並み、その向こうには大星山が見える


 田布施と逆の方向を見ると、光市の町並みや周防灘の海がよく見えました。そして、南には千坊山の山脈が長く続いていました。

                                  呉麓山山頂から、光市方面を見下ろして


 眼下の景色を堪能し終わると、昼食休憩です。ウォーキングをして1番の楽しみはお昼御飯です。私はいつも買弁ですが、景色を見ながら食べると、いつもより美味しく感じます。

 みんなで光市方面を見下ろしながら       楽しい昼食休憩タイム
 

 この呉麓山は20年位前に山麓全体が伐採されたようです。どの木々もそう高くありません。高くても2m程度です。このため、数年先には樹木の背がさらに伸びて視界が遮られると思います。そうなると、頂上の展望は今後はどんどん無くなります。今回来てよかったと思います。

             呉麓山山頂の三角点傍にて


 1時間ばかり山頂で過ごした後、登ってきた山道を下りました。急坂でしたので、下りは滑りやすく、登りよりも注意が必要です。急坂に加えて、目に見えない切株が隠れています。また、蔓が道を横切っていることもあります。それらに注意しながら慎重に下りました。下りは10分位歩いただけで登山口に着きました。

     杉林の急な下り坂            再び西山林道に出る
 

 登山口に降りると、再び西山林道を歩きました。そして、次の目的地であるひっかり観音(ひかり観音)に向かいました。なお、呉麓山から直接ひっかり観音に降りる道があるのですが、今は山道が不明瞭になっています。このため、いったん西山林道に戻ってからひっかり観音に行きました。
 西山林道を15分程度歩くと、ひっかり観音の石碑前に着きました。なお、石碑には「ひかり観音」と刻んでありますが、正式には「ひっかり観音」のようです。この石碑の場所から、岩だらけの道やがれた急坂を登りました。

                                 ひっかり観音の石碑から上に向かって登る


 今回のウォーキングは、距離がとても短い4.3kmです。しかし、急な坂ばかりでしたので大変です。滑りやすい登り坂をどんどん登っていくと、大岩が見えてきます。その大岩の最奥に行くと、屏風のような平らな大岩が出向かえてくれます。この鏡のような屏風岩がひっかり観音です。

    滑りやすいダートの急登     ひっかり観音の屏風岩が見えてくる
 

 ひっかり観音の屏風岩に到着すると、眼前に広がる下界を見ながら休憩しました。北東側は樹木に遮れて景色が良くないのですが、南東側の田布施,平生,そして大星山方面はよく見えます。
 しかしながら、いつ来てもこの鏡のような屏風岩には興味を持たされます。数万年か数千年前に、この岩が綺麗に割れて屏風のようになったようです。今は、苔が付いて鏡のようには光りませんが、古代には鏡のような断面ではなかったかと思います。

        ひっかり観音の屏風岩を背にして、下界の景色を堪能


 ひっかり観音から再び山道を降りました。がれた山道ですので、登る時よりもさらに注意が必要です。特に落ち葉が積もっている下り坂は、ずるずると足を取られてしまいます。ひっかり観音の石碑に着くと、あとは西山林道を妙見神社に向かって歩きました。

   ひっかり観音の石碑前に到着      裏白を手に楽しそうなAちゃん
 

 車が通ることができる西山林道は、楽しく歩くことができます。雑談しながら歩くと、あっと言うまに妙見神社に着きました。今回は登り降りが急な山道ばかりでしたが、短い距離でしたので先月ウォーキングした琴石山よりは楽ではなかったでしょうか。
 みなさんお疲れ様でした。特に小学2年生のAちゃん、ずるずる滑りやすい山道は大変だったけどよく頑張りました。

 ※このあと、ひらお邦楽朋の会発表会を見るため、平生町の平生武道館に向かいました。

    今回ウォーキングした4.3kmほどの、呉麓山,ひっかり観音コース

==========健康ウォーキングクラブ==========

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我家の庭では、花みずき,なでしこ,ひなげしなどが満開

2014年04月27日 | 花,野草

 裏山の桜ハナズオウなどがすっかり散った一方、庭がにぎやかになっています。樹木では花みずきが満開です。四つのピンク色の花びらを目いっぱい開いています。私は花びらを直接見るのではなく、下から見上げ透かしてみる花びら好きです。青空に映える、花びらの薄桃色や葉裏の薄緑色が綺麗です。

                 下から見上げ、透かして見た花みずきの花びら


 次に八重のヤマブキの花がたくさん咲いています。この花は、八重の花びらがポンポンのように丸く見えます。これまた、緑葉と黄色が対称的に映えます。
 地面を見るといろいろな色のナデシコが咲いています。特に淵が白く中が赤いものが私は綺麗に思えます。どんな色が咲くのが楽しみで購入したナデシコでした。6鉢100円の特価品ナデシコでしたが、なかなかどうして花色が綺麗なナデシコばかりでした。なお、元々うちにある川原ナデシコはまだ花が咲いていません。

        八重のヤマブキ                白淵赤色のナデシコ
 

 次にクロッカスが咲いていた花壇を見ると、キンセンカとヒナゲシ(ポピー)が咲き乱れていました。その地面に小さくクロッカスの葉がありました。キンセンカは4月始めにポツポツと単独で開花していましたが、今は花壇全体に花が咲き乱れています。切り花にしていますが、切っても取りきれず枯れる花が出ています。ヒナゲシは去年咲いた花のこぼれ種が芽を出したものです。薄い紙のような花びらが、風にゆられてヒラヒラして綺麗です。

                 花壇で花盛りのキンセンカとヒナゲシ(ポピー)


 花壇以外でも花が咲いています。今咲いているのは、絹さやエンドウやソラマメです。去年も同じ頃に開花しました。花壇の花に比べて地味ですが、よく見れば綺麗です。絹さやエンドウの花はスイトピーに負けず劣らずな薄い赤色が綺麗です。なお、今年はスイトビーを作りませんでした。ソラマメは白い大きな花が咲いています。そのうち、ソラマメご飯にする豆が収穫できるはずです。
 ところで、ソラマメ,絹さやエンドウと同じ畝に冬菜の種を蒔きました。このため晩秋には冬菜を収穫して、早春には冬菜の花を楽しみました。冬菜の花を楽しむと、ソラマメ,絹さやエンドウが上に出るように冬菜を短く剪定しました。面白いことに、ソラマメ単独で作ると、必ずアブラムシに見舞われますが、冬菜に守られているのか全くアブラムシが来ません。一種のコンパニオンプランツなのでしょう。

   スイトピーに似た絹さやえんどうの花        アブラムシが全く来ないソラマメ       
 

 ところで、我家の裏山はすっかり桜が散りました。、平静を取り戻したのように静かな緑が息づいています。栗やけやきなどの新芽が次々に出ています。5月までにすっかり葉が出そろって、裏山は次の季節を迎えます。

                新緑が出始めた、桜,けやき,こなら,栗などの木々

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竹林でタケノコを収穫し、東京へ送る

2014年04月26日 | 野菜:根菜

 今はタケノコが生えるシーズンです。毎年タケノコを収穫していますが、我家で食べるのは1本程度です。残りのほとんどは食べることなく、捨てるか倒しています。今回は、タケノコを5本程度収穫して、東京八王子市にいる家内へ送りました。
 タケノコを掘る専用のクワがあるようですが、私は普通の平クワでタケノコを収穫しています。根本にクワを打ち込んで柄を動かすと、スポンと抜けるように地下から抜け出ます。

   タケノコの根元に平クワを打ち込む              掘り出したタケノコ
 

 人間以外では猪もタケノコを食べるようです。竹林に行くと、あちこちに掘り返した穴が開いており周りにバラバラになったタケノコを見かけることがあります。器用に皮を避けて食べています。あまり栄養が詰まっているように見えないタケノコですが、食物が無い山では猪にとっては貴重な食料なのでしょう。
 ところで、収穫したタケノコを1本ずつ新聞紙で包んで段ボール箱に詰めました。そして、しっかりとガムテープで塞いで、紐でくくっておきました。そして夕方近く、コンビニで宅急便で東京に送りました。明後日の夕方に到着するよう指定しておきました。家内はたくさんのタケノコをどうやって料理するのでしょうか。ほとんどは職場の知人に贈るのでしょう。

               東京八王子市にいる家内に贈った5本位のタケノコ


 竹は地下茎を張り巡らして、とんでもない場所にタケノコを出します。このようなタケノコは柔らかいうちに処分する必要があります。今回も、数本のタケノコを足で蹴って倒しました。伸びて固くなると、ノコギリを使わなければ倒すことができなくなりますので。

     まだ食べられそうなタケノコ          もったいないですが、足で蹴倒す
 

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四季咲きのネムノキの苗を植える

2014年04月25日 | 花,野草

 サツマイモの苗で出ているかなあと思って園芸店に行ってみました。すると、まだサツマイモの苗は一種類しか出ていませんでした。ついでに、いろいろな樹木の苗を見ていると、四季咲きネムノキの苗を見つけました。四季咲きのネムノキがあるとはこれまで知りませんでした。今まで聞いたことがないネムノキのため一本購入して植えてみることにしました。

       購入した四季咲きネムノキ             正式名はトキワネム
 

 この四季咲きネムノキは、正式名がトキワネムと言うようです。野生のネムノキより小型であまり大きく木が育たないネムノキの一種とのこと。見た感じでは、葉は普通のネムノキより小さいようです。花は、6月頃から10月頃まで咲き続けるそうです。さあて、今年花は咲くでしょうか。

                   西斜面の一角に植えた四季咲きネムノキ


 我家の裏山には、普通のネムノキがたくさん生えています。そのネムノキ、暖かくなってきたため葉が出始めました。このネムノキは、横に広がりあまり背が高くなりません。上に伸びるように支柱で上向きにひもで縛っておきました。

      葉が出始めた普通のネムノキ        上を向くよう、ひもで縛ったネムノキ
 

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田布施川沿い史跡巡り往復ウォーキング(7/7) 川添橋~八海公会堂

2014年04月24日 | 歴史探訪他ウォーキング

 田布施川往復ウォーキングも最後になりました。旧関戸橋跡から新関戸橋を越えて、さらに庄山橋を越えました。

                           川添橋~八海公会堂のコースと史跡


 庄山橋の次の橋は、川添橋です。この橋のすぐ近くに、田布施川工事の石碑が二本立っています。一つは明治時代、二つ目は昭和になってのものです。田布施川は江戸時代に掘られた人工の川です。洪水などが減った代わりに、常に浚渫工事が欠かせません。去年も庄山橋から旧人島橋跡近くまで浚渫工事が行われていました。

                川添橋東側近くに立つ田布施川工事の石碑二本


 この石碑近くに浮島神社があります。この神社の境内には江良碧松の句碑があります。江良碧松が生前、この浮島神社で俳句の集まりを催していたそうで、江良碧松が読んだ句が石に彫られています。
 なお、この浮島神社は昔、ひねきり明神と呼ばれていました。お祭りで娘さんがお尻をひねきられる奇習(お尻をつねる)があったそうです。ひねきられると縁付きが良かったとか。この少子化の時代、結婚しない若者が多いようです。ぜひこの浮島神社で、娘さんはひねきられて欲しいものです。意外と功能があり縁付くかも知れません。結婚前の若者を呼ぶ、地域の町おこしに使えると思います。

               川添橋を後にして、どんどん田布施川右岸の堤防を下る


 旧人島橋跡に着きました。この橋は、最初文化9年1812年に架橋されました。そして昭和2年に再架橋されました。そして、それぞれ石碑が立っています。この人島橋、私が幼児の頃にはまだ欄干が残っていました。私が小学生3年生の頃になると欄干が無くなり手すりも落ちて無くなりました。そして、あちこちに大きな穴が開いてきました。その穴を避けながら恐る恐る通っていたことを覚えています。私が小学生6年生の頃、ついに渡ることができなくなりました。

   この場所に人島橋が架かっていた        架橋記念の石碑の間にあるお地蔵様        
 

 人島橋架橋記念の二つの石碑の間に無記名のお地蔵様が立っています。八海地区の方に聞いたことがありますが、処刑された第二奇兵隊反乱兵を弔うためのお地蔵様とのことです。このお地蔵様から百メートル上流(反対側川辺が灸川河口)に、第二奇兵隊の反乱兵十数人が処刑された川原があります。この近くに住んでいる八海地区の方々はつい最近まで、この処刑場に近い土手を通るときは「息を止めて足早に通るように!」と昔から言われてきたそうです。何か霊気があったのでしょう。

  2代目と3代目八海橋が見えてくる               2代目八海橋の残骸
 

 旧人島橋跡を過ぎると、八海地区に入ります。田布施川右岸の堤防脇の道を進んでいるとどんどん日が沈んで暗くなってくるのが分かります。2代目八海橋を横切ると、今は跡形も無い初代八海橋跡近くに行きました。江戸時代、初代八海橋がまだ無い時代はここから対岸まで渡し船がありました。
 当時の麻郷の人が平生に行く時は、ここで渡し船に乗るか、500m位上流にあった人島橋を渡ってから竪ヶ浜方面に行ってから平生に行っていたのではないでしょうか。この付近、当時は干拓されたばかりの土地が広がっていたに違いありません。

              渡し船があった場所、その後初代八海橋が架橋


 初代八海橋跡から右に折れて数十メートルの場所に八海公会堂があります。この公会堂の中に、初代八海橋の写真が額に入って飾られています。この公会堂の前に、お地蔵様が置かれています。江戸時代の天保8年1827年に安置されたと、八海地区の方々に言い伝えられています。この年に初代八海橋が架橋されたのでしょうか。このお地蔵様、毎年秋に千坊山光福寺のご住職が祀りにやってきます。

     八海公会堂と隣りのお地蔵様        天保8年1827年に安置のお地蔵様  
 

 これで、八海をスタートして新開橋で折り返す田布施川往復ウォーキングの終わりです。住んでいる場所によっては、例えば田布施町庁舎近くのあいさつ橋をスタートして八海で折り返す往復ウォーキングも良いでしょう。歩くだけでなく田布施川沿いにたくさんある神社仏閣や史跡を訪れてみると、意外な田布施の歴史に触れることができます。

 
 八海をスタートして田布施川左岸の堤防を上流に向かって歩き、新開橋から引き返して右岸の堤防を歩いて八海へ戻りました。途中、田布施川沿いの史跡や神社仏閣を訪ねました。歩いたコースを7ヶ所に分けました。それぞれをクリックしてください。

 (1/7)八海天神社~こくぼ橋   (2/7)平生湾~灸川河口
 (3/7)川添橋~旧関戸橋          (4/7)あいさつ橋~新定位堰
 (5/7)水戸橋~詩情公園        (6/7)田布施町庁舎~旧関戸橋
 (7/7)川添橋~八海公会堂 

            田布施川沿い史跡巡り往復ウォーキングコースの概略

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春ジャガイモがの芽欠きと土寄せ

2014年04月23日 | 野菜:芋類

 3月に種芋を植えたジャガイモの芽がだいぶ大きくなってきました。今回は、多く出た芽を欠いた上で施肥して土寄せをしました。3月下旬は暖かい日が続いたのに、このところ天気が悪く肌寒い日ばかり続きます。
 芽欠きの時期が少し遅れたようで、芽がだいぶ大きく育っていました。余分な芽を摘まんで根元から抜くようにしました。1株に2~3本の茎が残るようにしました。こうしないと、小さなジャガイモばかり増えて収穫するときに困ります。また、調理するときに小さなジャガイモは芽を取る作業に手間取ります。

                   ジャガイモ畑に腰をおろしてジャガイモの芽欠き


 ところで、芽を欠くと大きめのジャガイモが収穫できる代わりにやや収穫量が少なくなります。一方、芽を欠かないと全体的に収量は増えます。収穫量がやや少なくても大きめのジャガイモが良いのか、小さなジャガイモばかりでも収穫量が多い方が良いか、好みの判断になります。ちなみに、市場に出ているのは大きめのジャガイモばかりです。

       〇:欠いて取り除いた余分な芽           株の間に肥料を施す
 

 20年位前のことですが、山梨県上野原町の旧棡原村最奥の西原に住む古老の家によく子供を連れて行きました。その家では小さなジャガイモも無駄にしないで料理にしていました。確か「せいだのたまじ」とか言う料理でした。皮を剥かないで蒸すか煮た1口サイズのジャガイモに、味噌を塗ったジャガイモ料理でした。とても美味しかったです。
 その古老はジャガイモに加えて粟や稗などたくさんの種類の雑穀を作っていました。私も何度か子供を連れて、収穫などをお手伝いしました。いつ行っても穏やかに迎えてくれた古老でした。囲炉裏を囲みながら、昔の話や雑穀などについて夜遅くまでよく話をしました。残念ながら、10年位前にご夫婦ともに亡くなりました。古老夫婦が住んでいた茅葺きの家,囲炉裏,木のお風呂などがとても懐かしく思い出されます。この古老や茅葺き家のことを、子供達は覚えているでしょうか。

                 芽を欠いたジャガイモの株に土を寄せる


 さて、芽欠きが終わると、株と株の間に肥料を施しました。そして、三本クワを使って土寄せをしました。ジャガイモはサツマイモと違って茎から分かれた部分に芋ができます。このため、土寄せしないと芋が地表に出てくることがあります。地表に出ると、日光で芋が緑色になって食べられなくなるのです。今年は、4種類のジャガイモ(インカのめざめ,キタアカリ,メークイン,シンシア)を育てています。それぞれのジャガイモを食べ比べてみようと思います。

                 土寄せしたジャガイモ畑、5月にもう一度土寄せ

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田布施川沿い史跡巡り往復ウォーキング(6/7) 田布施町庁舎~旧関戸橋

2014年04月22日 | 歴史探訪他ウォーキング

 田布施川沿い史跡巡り往復ウォーキングも後半です。このころになると、日差しが少しずつ傾いていることが分かります。

                 田布施町庁舎~旧関戸橋のコースと史跡


 さて、ふるさと詩情公園を降りると、田布施町庁舎前に出ました。そして、庁舎入口近くにある江良碧松の歌碑の前に立ちました。江良碧松の歌碑は確か、田布施に三か所あります。1つ目はこの田布施町庁舎前、2つ目は麻郷井神近く、そして3つ目は麻郷新川の浮島神社だったと思います。

      田布施町庁舎横を通る                庁舎前近くの江良碧松の歌碑
 

 江良碧松の歌碑をしばらく見てから、あいさつ橋の道を横断しました。そして、田布施交流館へ向かって田布施川土手沿いに歩きました。夏は緑で秋は黄色から赤色へと、葉色が綺麗に変わるアメリカフウの街路樹の下を通りました。ハミングロードの所々に、スイッチを押すと童謡が聞こえてくるBOXがあります。

     アメリカフウの街路樹の下を通過         童謡碑とその歌が流れるBOX
 

 田布施川沿いを歩いて下流に向かって歩いていると、右手に田布施町図書館が、対岸に田布施町商工会館サリジェが見えてきました。そして、巨大なモニュメントが建つさくら橋が見えてきました。今から18年前の平成6年にこのさくら橋が完成しました。この頃に交流館前の広大な広場もできたのでしょう。

                  スズメが見上げるさくら橋のモニュメント


 さくら橋を過ぎると、田布施川の右岸をもくもくと歩きました。私が中学高校の頃、確かこの堤防には道が無かったように思います。堤防から右側は広々とした田んぼが広がっていました。神和工業の建物だけが田んぼの中にポツンとありました。私が東京に行っていた40年の間に、この付近は景色がガラリと変わり商業地や住宅に変わりました。

                田布施川の右岸をもくもくと下流に向かって歩く


 しばらく歩くと、旧関戸橋袂に着きました。ここから対岸まで旧関戸橋が架橋されていました。旧関戸橋は今は無くなり、100m位下流に新しい関戸橋が架橋されています。思い出の旧関戸橋や川をせき止めていた堰堤は跡形もありません。中学生時代、私は毎日のように旧関戸橋を通学で渡りました。旧関戸橋は、記憶の中だけに残っています。

  旧関戸橋の位置、対岸左横に精米所         旧関戸橋横に流れ込む奈良台川
 

 
 八海をスタートして田布施川左岸の堤防を上流に向かって歩き、新開橋から引き返して右岸の堤防を歩いて八海へ戻りました。途中、田布施川沿いの史跡や神社仏閣を訪ねました。歩いたコースを7ヶ所に分けました。それぞれをクリックしてください。

 (1/7)八海天神社~こくぼ橋   (2/7)平生湾~灸川河口
 (3/7)川添橋~旧関戸橋          (4/7)あいさつ橋~新定位堰
 (5/7)水戸橋~詩情公園        (6/7)田布施町庁舎~旧関戸橋
 (7/7)川添橋~八海公会堂 

            田布施川沿い史跡巡り往復ウォーキングコースの概略

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柳井市 天神春祭り2日目、大名行列を見学

2014年04月21日 | ふるさと



 田布施町城南の呉麓山をウォーキングする予定でしたが、朝からの雨で来週に延期しました。このため、午前中は10時頃までラジオを修理したりして過ごしていました。午後、昨日行った柳井市の天神春祭りに行ってみることにしました。特に大名行列を見ることができるとのことですので、期待して行きました。

      白壁町で、槍持ちの列                  白馬に乗る子供
 

 最初、大名行列がどこで行われているのか分かりませんでした。まずは、この祭りのために特別に開放された柳井小学校の運動場に車を置きました。そして最初、白壁の町に行ってみました。白壁の町に近づくと、何やら大きな声や歓声が聞こえてきました。白壁の町の通りを、大名行列が通っているようです。走って見に行きました。

                 牛車を引く、小さな可愛い稚児さん達


 白壁の町の通りに着くと、ちょうど大名行列の先頭が来ていました。Good Timingでした。柳井市のお祭りのうち金魚ちょうちん祭りは見に来たことがありますが、天神春祭り自体が初めてで、当然柳井市の大名行列も初めてです。

        小行司と大行司関連の行列            馬も3頭ばかり行列に参加
 

 この山口県は今から150年前に戊申戦争を戦って明治政府を作りました。田布施周辺には、戊申戦争で活躍した第2奇兵隊に関わる遺跡がたくさんあります。私見ですが、この栄えある奇兵隊の行列があってもよいのではないかと思います。
 東京世田谷区の松陰神社付近のお祭りでは奇兵隊の行列があるそうです。例えば田布施町のお祭りである「たぶせさくら祭り」などで、第2奇兵隊を模擬した奇兵隊行列をしてみると良いのではないかと思います。戊辰戦争時、進軍中の奇兵隊の銃列や砲列などの先頭を鼓笛隊が歩いたとか。さぞかし、賑やかな進軍だったことでしょう。

                   柳井駅前大通りを練り歩く大名行列


 私は大名行列をいくつか見たことがあります。名古屋だったでしょうか?どこのお祭りか忘れましたが、古代から現代までの装束を時代に別に並べたお祭りを覚えています。古代の髪型であるみずらや貫頭衣(かんとうい)の装束から始まっていたように記憶しています。火縄銃の列や実演など、各地の時代祭りや大名行列など見てみたいと思います。

                 槍持ちの、槍先の鳥毛を振るような踊りの披露


 今回一番に嬉しかったことは、牛車(ぎっしゃ)を何十年ぶりに見たことです。最後に見た牛車は、田布施町の天神祭りです。その時は、実際に黒い牛が引いていました。しかし、田布施町天神の牛車は30年位前に途絶えてしまいました。今は子供神輿に変わっているようです。
 去年10月に調査に行った柳井市の伊陸氷室亀山神社のお祭りでは、今でも牛が牛車を引いているそうです。全国的に、牛が牛車を引いているのはごくわずかのようです。ほとんどは、この柳井天神春祭りのように子供が引くか、別の地域ではトラクターか耕運機で引いているようです。

                    何十年ぶりに見た、とても懐かしい牛車


 今回、白壁の町と柳井駅前大通りの二ヶ所で大名行列を見ました。一日中肌寒い一日でしたので、人通りはそれほど多くありませんでした。私は、昨日入った瀬戸物展示室で萩焼の椀を買いました。私用と家内用の二つです。その後、喫茶店に入ってくつろいだ後、我家に帰りました。

      鳴いていた、行列最後近くの馬         私用と家内用に買った萩焼き
 

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柳井市 天神春祭り1日目、白壁の町ミニウォーキング

2014年04月20日 | 歴史探訪他ウォーキング

 柳井天神春祭りを見るため、久しぶりに柳井市の白壁の町を散策してきました。白壁の町に立ち寄ったのは、茶臼山などをウォーキングした時娘と散策した時以来です。柳井に来てみると、祭りは明日の日曜日が一番の見ものだそうです。このため、今回は柳井天神春祭りの見学ではなく、白壁の町を見るためのミニウォーキングとなりました。

       観光協会の方の説明           観光案内所前にあった写真撮影所
 

 さて、サンビーム柳井前の駐車場に車を置いて、観光バスが何台も入れる観光案内所に行きました。そこに行くと、観光協会の方から少しばかり説明を受けました。説明をしてくれた方は、今年から観光協会で働き始めたそうです。柳井市は観光協会と案内所は別にあり、案内所には専属の案内員が常駐しているようです。

                  人が少なくのんびり散策できた白壁の町通り


 のんびり白壁の町通りを歩いていると、しらかべ学遊館がありました。私は歴史や古いものに興味があるため、ちょっと寄ってみました。入ってすぐの部屋には商家で使われた古い道具が陳列されていました。奥に入ると柳井市を学ぶためと思われる部屋がありました。その部屋で冊子を見ていると、柳井周辺の古墳関連のものがあることに気が付きました。

      古墳の資料をN君と閲覧           納蔵原2号古墳の発掘調査報告書
 

 それら古墳の資料の中に納蔵原2号古墳の発掘調査報告書2003年がありました。おーこれは面白そうと、机に座ってじっくりと読みました。これは田布施町郷土館が発行したものです。読んでいて、大波野の古墳や遺跡名が書いてある地図に目をとめました。これを読むと面白いことが分かりました。

         大波野の遺跡地図 納蔵原2号古墳発掘調査報告書2003年より抜粋


 この地図には、惣津遺跡,坪曽遺跡,納蔵原古墳群,天王原古墳などの名前が記載されています。納蔵原古墳の名前はまだありません。山口県遺跡地図1991年版に記載されている坪曽古墳が、この地図では天王原古墳と誤記?訂正?されています。坪曽古墳はどこに消えたのでしょうか?また、一昨日、天王原古墳を探すためミニウォーキングして見付けた石積み近くには惣津遺跡があるようです。また、坪曽の奥には坪曽遺跡があるようです。
 はっきりは分からないのですが、1991年~2003年の10年間に坪曽古墳が天王原古墳に改名?されたように見え、さらに天王原遺跡が消えています。元々あった天王原古墳と天王原遺跡が、2003年の段階で忘れ去られているように思えます。1991年~2003年の間が断絶しているようで、謎が深まるばかりです。
 ちなみに、坪曽古墳は次のように登録されています。奈良文化財研究所の遺跡データベース(クリック) クリック後に「坪曽古墳」と入力してください。詳細ページが出ます。

 白壁の町で田布施町の古墳情報を仕入れることになるとは思いもよりませんでした。なお、石城山神護石や石走山古墳などの調査報告書もありました。これらの資料は、田布施町郷土館にもあるはずですので探してみようと思います。

                   白壁の町通りで萩焼を展示している家屋


 しらかべ学遊館を出ると、再び白壁の町通りを歩きました。今日は天神春祭りの1日目なのですが、思っていたよりも人が少ないようです。おそらく、明日の日曜日にはどっと人が繰り出すのでしょう。来年はぜひ、この天神春祭りの2日目に行ってみたいと思います。

               再び白壁の町通りを散策、人が少なく静かな石畳通り


 この頃になると、お昼を過ぎていました。昼食休憩をしよう「蔵や」に行きました。ところが満席でしたので、予約を入れて古い柳井の町並みをさらに散策しました。旧福田時計店付近を歩きながら、この福田家に嫁いだ同級生の話をしていると、たまたますれ違った近所の方がこの付近の説明をしてくれました。旧福田時計店前にあった本屋さんは、隣りの火事の延焼で焼けたそうです。その本屋さん、私が高校生の頃よく通ったのですが今は空き地です。

      「蔵や」でお昼休憩           御飯がいまいちだった和定食,丼定食など
 

 旧福田時計店近くで近所の方と楽しく立ち話をしていると、「蔵や」から「席が空きました」との電話が入りました。近所の方にお礼を言って、「蔵や」に向かいました。席に着くと、3人それぞれ和定食,丼定食などを頼みました。天ぷらなどはとても美味しかったのですが、ご飯がべっとりしていて少しばかり残念。食事が終わると、盆栽が展示してある場所に移動することにしました。

                甘露醤油資料館、ここで音楽が演奏されることも


 盆栽を見るために道を探していると、間違ってやない西蔵や甘露醤油資料館に着きました。せっかく来たので、最初やない西蔵内で展示されていた生け花を見ました。そして、甘露醤油資料館に行きました。資料館内に入ると、甘露醤油の良い匂いが漂ってきました。

       寒露醤油資料館の販売コーナー            生け花を鑑賞
 

 盆栽は中央公民館だとのことで、甘露醤油資料館から移動しました。私は盆栽のことはあまり良く分かりまんせんが、枝ぶりの見事さなどはなんとなく分かるような気がします。一つ一つの盆栽をじっくり鑑賞しました。杯ほどの極小鉢に生えられた山野草がありました。これぐらいだったら私にもできそうでしょうか?

                ミニウォーキングして、あちこち訪ねた白壁の町

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やっと我家も、光ファイバー導入(1/2)

2014年04月19日 | 建設,工事,修繕

 いままで散々待たされた、光ファイバーの開通工事が始まりました。待たされた一番の理由は、我家が木々に囲まれているため光ファイバーを通すことができないからでした。これまでは、私が木を伐採しなければ光ファイバーを通せないとのことでした。しかし、今回はNTT関連会社が伐採してくれることになりました。

      伐採する前の林の木々              伐採する木々を確認する方々
 

 朝9時頃に伐採工事をする方々がみえました。どの樹木を伐採するか確認後、作業が始まりました。伐採する木は10本位です。けやきが6本位、コナラが4本位でしょうか。今回伐採する林には、NTTの電話線と中国電力の電力線が同時に通っています。本来ならば中国電力が伐採しなければならないそうです。

                 工事車両による伐採作業、次々に枝が落とされる


 今回伐採した木のうち、コナラは椎茸のほだ木に使えます。伐採ついでに90cmごとに切断してもらいました。30本近いほだ木が手に入りました。5月までの空いた時間に椎茸菌を植菌をしようと思います。ところで、光ファイバーそのものの開通工事は、5月中旬になる予定です。

   伐採後、光ファイバーを通す空間            椎茸用の30本ほどのほだ木
 

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田布施町 天王原古墳は坪曽古墳の誤り?本来の天王原古墳を探しながらミニウォーキング

2014年04月18日 | 歴史探訪他ウォーキング

 田布施町大波野の古墳のうち、坪曽古墳の場所がこれまで分からなくて困っていました。ところが、「田布施町地方史研究会会誌第102号 平成4年11月1日発行」や「山口県遺跡地図1991年版」を見て分かりました。それによると、下地図で175が坪曽古墳、176が納蔵原古墳、そして40が天王原古墳と記載されていました。つまり、従来から天王原古墳と呼ばれてきた古墳は、実は坪曽古墳のようです。
 175を含む地域は天王原と呼ばれているようですので、転記を誤りさらに誤記に気が付かなかったのかも知れません。あるいは、「天王原の坪曽古墳」とすべきところを、「天王原の古墳」と、さらに「天王原古墳」と呼ぶようになったのではないでしょうか。175の遺跡調査時に古墳名を付けるときに、例えば天王原2号古墳とでもすればその後の誤解が無かったかも知れません。あるいは40を例えば惣津古墳かまたは上段古墳と最初に記名しておけば、175を天王原古墳と記名できたかも知れません。
 なお、39は天王原遺跡域ですので、その隣に付随する古墳を天王原古墳と名付けたのでしょう。なお、番号の順番からすると、天王原遺跡と天王古墳を同時期に調査し、この後しばらくして納蔵原古墳と坪曽古墳を調査したようです。

   天王原古墳,納蔵原古墳,坪曽古墳の位置 山口県遺跡地図1991年版より抜粋


 「山口県遺跡地図1991年版」に記載されている天王原古墳はどこにあるのでしょうか。今回、その天王原古墳を、私,N君,そしてEさんの3人で探すミニウォーキングをしました。遺跡地図上では、上段から木地に抜ける道脇にこの古墳があるようです。これまで何度かこの道を通ったことがありますが、古墳があることに気が付きませんでした。

   最初、N君のため納蔵原古墳を見学       子守りをしていた方に道を尋ねる
 

 この地域に詳しい誓立寺ご住職のTさんにお聞きしようと、昼前にお電話しました。しかしながら、留守のようでした。そこで、午後2時過ぎに誓立寺に直接行きましたが、やはり留守とのことでした。そこで、車を停めさせていただくことを奥様にご了解いただき、3人で天王原古墳を探しに行くことにしました。天王原古墳を探すためのミニウォーキングの開始です。

           惣津地区から上段地区へ抜ける、普段使われていない荒れた山道


 納蔵原古墳は一昨日行ったばかりですが、N君のために納蔵原古墳に寄りました。納蔵原古墳を見学後、惣津地区に足を進めました。途中上段方面への道が分からなくなったため、子守りをしていた方に道を教えていただきました。ありがとうございました。

              惣津川を渡ったすぐの場所に石積みを発見、古墳跡?


 教えていただいた通りに、惣津から上段に抜ける道を進みました。最近誰も通らないような道を分け入ると、惣津川に出ました。コンクリート製の橋を渡りました。渡ってすぐ右の畑に石積みを発見しました。場所的にはこの石積みが古墳の石室跡のようにも見えます。
 しかし石積みはだいぶ崩れているため石室かどうかは即断できません。ただ、石積みの上には天井石のように長い石が置かれていました。私は古墳の素人ですので、これが古墳跡かどうかは分かりません。地主さんに聞いた上に、さらに天王原古墳の調査資料と照らし合わせて確認するしかないようです。

              石積みの上に、天井石のような石が置かれているが?


 結局、天王原古墳とはっきり確認できるものはありませんでした。わずかにそれらしき石積みが確認できただけです。その石積みを除いて、古墳らしき痕跡はまったくありませんでした。あるいは、惣津と上段にまたがる丘の上にあるのでしょうか?
これ以上探しても徒労に終わるだけのようですので、気分を取り直して上段地区をミニウォーキングすることにしました。

      石積み付近の道を上段へ         整然として綺麗な上段地区の石垣
 

 上段地区に入ると、整然とした石垣が並ぶ民家の道を上へと登って行きました。上段公会堂近くで、たまたま草刈りをしていたYさんにいろいろとお聞きしました。ありがとうございました。お聞きしたお話の中で、公民館前の家型石碑はとても古いとの事でした。
 そこで、その家型石碑前面に彫られている和暦を調べると、慶長20年(1586年)でした。大阪夏の陣で豊臣家が滅んだ年です。その隣りの小さな墓碑は明和2年(1765年)です。これらの石碑から、戦国時代にはすでに上段地区に大勢の人が住んでいたことが分かります。

    Yさんに上段地区について教わる       とても古い家型石碑、矢印方向に登る
 

 上段公会堂から、脇道を登りました。最初は上段地区の墓地がいくつか続いていました。この道筋から、上段はもちろん余田,新庄,さらに柳井方面を見渡すことができます。どんどん坂を上っていくと小さな神社広場に出ました。その一つ目の神社からさらに上に続く道がありました。その道をどんどん登ると、立派な石鳥居がありその向かうに100段近い石段がありました。その石段を登ぼると二つ目の神社がありました。

                  立派な石鳥居と100段近くある石階段


 本来ならば、この二つ目の神社から柳井方面や平生湾方面が見えるそうです。しかし、木が茂っているため見渡すことができませんでした。わずかに木々の間から、柳井や平生方面が見えました。昔は景色が良かったのでしょう。

      頂上の神社前広場                二つ目の神社の20m北に鉄塔
 

 二つ目の神社の周りを歩いていると、塔のようなものが見えました。そこに行ってみると、とても高い鉄塔が建っていました。柳井市の火力発電所からの電力を送電している鉄塔ではないかと思います。その鉄塔が建っている場所は開けており、柳井方面,赤子山,平生湾などが良く見えました。遠望していると、長い貨物列車がゴトゴトと線路を走っているのが見えました。

           赤子山方面手前の線路を、長い貨物列車がゴトゴトを走っている

 再び、100段近い石段を歩いて上段地区の民家に降りました。この付近、猪がよく出るようです。どの田んぼも周りが鉄網で頑丈に囲まれていました。鉄網がない時代、猪の被害に困っていたことでしょう。耳を澄ますとカエルの鳴き声が聞こえてきました。

                上段地区の綺麗な田んぼ、中央の坂道に桜が等間隔に並ぶ


 圃場整備された田んぼをいくつか見渡しながら、誓立寺に戻りました。途中、東田布施小学校から下校している子供達とすれ違いました。付近を流れる川(惣津川?)の名前や橋の名前(惣津橋?)を聞きましたが知らないようでした。

  上段地区から余田,赤子山方面を見て           道沿いで咲く綺麗な八重桜
 

 誓立寺に着くと奥様にお礼を言った後、車に乗って帰りました。のんびり楽しいミニウォーキングでしたが、天王原古墳の実態がどうなのか気にかかります。

     天王原古墳を探しつつ、ミニウォーキングした大波野の惣津地区と上段地区
                  黄色の線は、実際にウォーキングしたコース

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田布施川沿い史跡巡り往復ウォーキング(5/7) 水戸橋~詩情公園

2014年04月17日 | 歴史探訪他ウォーキング

 お地蔵様を過ぎると、田布施川と御蔵戸川の合流地点に行きました。御蔵戸川は名前のとおり、田布施町波野の御蔵戸方面から流れてくる川です。

                   水戸橋~詩情公園のコースと史跡


 御蔵戸川と田布施川の合流地点に水戸橋が架かっていますが、不思議なことに橋の長さに対して御蔵戸川の川幅がとても狭いことです。御蔵戸川の川幅は、昔はもっと広かったのでしょうか。

      川幅がとても狭い御蔵戸川            御蔵川に架けられた水戸橋
 

 水戸橋を過ぎて田布施川上流に向けて歩きました。数百メートル歩くと、新開橋が見えてきました。この付近は瀬戸地区です。地区名のとおり、古代は海だったようです。この海を見下ろす場所に稲荷山古墳があります。古墳があるほどに、古代の瀬戸地区は栄えたのではないでしょうか。

       江戸時代以前、田布施川のこの付近から薬師川が分流し灸川に合流


 八海から田布施川を上流に向かって歩いてきましたが、瀬戸地区の新開橋から折り返しました。そして、今度は田布施川を下流に向かって歩きました。
 ところで江戸時代初期以前、御蔵戸川と田布施川合流地点近くにある新定位堰付近から薬師川が分流していました。この薬師川は天神付近を流れ、灸川に合流していました。航空写真を見ると、法寺坊付近にその痕跡が残っています。しかし、洪水が幾度も起きたようです。このため江戸時代初期、今の田布施川のような直線コースに流れを人為的に変えました。

     ふるさと詩情公園で休憩            詩情公園頂上の椙山稲荷神社         
 

 新開橋を渡って右岸をどんどん下流に向かって歩くと、ふるさと詩情公園の丘が見えてきました。せっかくここまで来たので、ふるさと詩情公園をあちこち歩いてみました。坂道を登って行くと、田布施の街並みが見下ろせる場所に来ました。ここで、少しばかり休憩しました。田布施川に沿ってウォーキングしている方やマラソンをしている方を数人見かけました。

           ふるさと詩情公園で、休みながら見下ろした中学校や郷土館


 ふるさと詩情公園の丘の上には椙山稲荷神社がありました。この神社は、この公園ができる前からずっと鎮座していたのでないでしょうか。そして、田布施川をずっと見守ってきたに違いありません。休みながら、遠くの琴石山,赤子山,大星山などの山々を遠望しました。そして、手前の田布施町役場や真光寺などを見渡しました。しばらく休んだ後、ふるさと詩情公園の丘を降りました。

        遠くの琴石山,赤子山,大星山を遠望し、見下ろした田布施町庁舎



 八海をスタートして田布施川左岸の堤防を上流に向かって歩き、新開橋から引き返して右岸の堤防を歩いて八海へ戻りました。途中、田布施川沿いの史跡や神社仏閣を訪ねました。歩いたコースを7ヶ所に分けました。それぞれをクリックしてください。

 (1/7)八海天神社~こくぼ橋   (2/7)平生湾~灸川河口
 (3/7)川添橋~旧関戸橋          (4/7)あいさつ橋~新定位堰
 (5/7)水戸橋~詩情公園        (6/7)田布施町庁舎~旧関戸橋
 (7/7)川添橋~八海公会堂 

            田布施川沿い史跡巡り往復ウォーキングコースの概略

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田布施町 観光協会の方々と古墳などの観光資源を調査

2014年04月16日 | ふるさと

 午後13時に田布施町郷土館に観光協会などの方々が集まって、田布施町の観光資源である古墳などを調査しました。最初、城南川西西山の呉麓山の8合目付近にあるひかり観音をに行く予定でした。しかし、先日すでに何人かの方々がひかり観音を調査したため外しました。今回は、最初に城南川西にある木ノ井山古墳に行きました。

      郷土館で資料類を渡すN君              妙見社前に車を駐車
 

 郷土館を出ると、田布施川にかかる観音橋を渡り川西地区に入りました。そして、車一台が通ることができる山道に入りました。しばらくして妙見社に着きました。そこで、車を降りて、妙見社の石鳥居(安永4年1775年建立)の下をくぐった後、山ツツジが咲いている山道をのんびり歩きました。山道は、地元の方が清掃したようでした。落ち葉が踏み固められ、ふかふかした歩きやすい道でした。

      妙見社の石鳥居をくぐる             木ノ井山古墳を一周する道
 

 しばらく歩くと、木ノ井山古墳を一周する道に着きました。今回は、右に回ることにしました。歩いてすぐ、木ノ井山古墳の説明板が立っていました。この古墳は直径約27m高さ5mの円墳で、古墳時代中期(5世紀中)に作られたようです。この時代は、日本で古墳が一番多く作られた時代です。日本で一番大きい大仙古墳(仁徳天皇陵)が作られたのもこの頃です。

                 木ノ井山古墳を巡る道に建てられた説明板


 私は木ノ井山古墳に初めて行きました。この古墳を巡る林の道は、歩きやすくとても気に入りました。来年、ウォーキング仲間を連れて歩きたいと思います。
 次に、石走山古墳に行きました。この古墳はあまり整備されていません。去年9月の田布施川沿い史跡巡りウォーキング(5回目)時、やっとの思いで藪漕ぎをしながら石走山古墳にたどり着きました。

    舗装された坂道を石走山古墳へ       明るい杉林の中、石走山古墳は目の前
 

 石走山古墳へに行くコースは三つあります。今回は舗装された坂道を上がりました。正規コースは国森古墳側から登り、民家の間を通り抜けて行くコースです。しかし、民家を通り抜ける道はとても分かりにくく迷いそうです。初めて来る人は、不安になりそう。

                 石走山古墳の案内板前でコースを確認


 ところで、石走山古墳のさらなる問題は道が整備されていないことです。藪漕ぎしないと古墳に着きません。よほど、根性がないと行きつきません。今のままでは、女性の方や子供にはお勧めできないように思います。

     大きな石が使われた石室             石走山古墳を後に、国森古墳へ
 

 石走山古墳を見終わると、次に国森古墳に行きました。この古墳は、山口県で最古級の古墳時代前(4世紀頃)で横穴式ではなく竪穴式です。また珍しい方型古墳で、大和朝廷が誕生する前後の時代のようです。いわゆる魏史倭人伝の時代に近いと思われます。この古墳が田布施にあると言うことは、当時(4世紀頃)の田布施は山口県の先進地域ではなかったかと思われます。

      国森古墳へのなだらかな坂道            国森古墳直下の説明板
 

 国森古墳に着くと、方型墳墓の頂上に登ってみました。頂上の真ん中に建つと、方型の形をなんとなく連想することができます。ただ、石走山古墳ほどではないにしても管理が行き届いていないように思いました。柳井市の茶臼山古墳ほどでなくとも、もう少し整備されていれば良いのにと思いました。

                   杉林の中にある、国森古墳の頂上


 ところで、国森古墳が作られた4世紀初頭、ヨーロッパではコンスタンティヌス1世がローマ帝国を再統一した時代です。キリスト教徒ならば絶対知っておくべきミラノ勅令(キリスト教の公認)が発布された年代です。またヨーロッパの民族大移動が始まった頃です。中国は、魏史倭人伝で有名な魏(3世紀)の時代が終わり、混乱した五胡十六国時代(4~5世紀)です。古墳を見ながら世界史に思いをはせると、歴史をより面白く感じることができます。

       後井古墳の秋葉社石鳥居           後井古墳の石室入口
 

 国森古墳の次に、山口県下で規模が一番大きいとされる後井古墳の石室に行ってみました。この古墳は、江戸時代にはすでに開口されていたようで、地元の方から秋葉社と呼ばれて大切にされてきたようです。後井古墳は古墳後期(6世紀頃)に作られたようで、これ以降は古墳は作られなくなります。
 ちなみに、石城山の朝鮮式石積遺跡(神護石)は、古墳時代が終わった直後の7世紀に作られたようです。中国の隋,唐時代にあたり、朝鮮半島が新羅に統一される戦乱の時代にあたります。この石城山の古代遺跡は、中国や朝鮮半島の戦乱と関わりがあると思われます。その一つの証拠として、石積みが古代朝鮮式であり、さらに土塁跡が万里の長城と同じ坂築工法で作られているからです。

        稲荷山古墳の石鳥居            破損が進んだ稲荷山古墳の石室
 

 後井古墳の次に、後井古墳から数百メートル離れた場所にある稲荷山古墳に行ってみました。この古墳は人家近くにあったためか、石室がだいぶ破損を受けていました。石室が壊れないように、支えとしての石が後代に石室内に置かれたようです。人家近くに作られた古墳は、大波野の天王原古墳と同様に傷みは避けられないようです。
 ところで、この古墳の位置から西田布施方面の広大な田んぼが見下ろせます。この古墳が作られた時代、この辺りは海だったはずです。この海を見下ろせる眺めが良い位置に作られたのではないかと思います。

                巨大な木々に囲まれた、富永有隣の石碑


 稲荷山古墳を見終わると、今回の古墳巡りは終わりです。少しばかり時間があったため、富永有隣の碑がある瓜迫農業公園傍まで行きました。ちなみに、富永有隣のお墓は、石碑から田布施苑の方への小道を50m位行った場所にあります。
 ところで、巨大な木の枝や葉にさえぎられている富永有隣の石碑は少し残念です。手前の大木を伐採するか、枝打ちすると良いと思います。

  木々に囲まれた有隣の石碑に向かう          有隣の庵がかつてあった場所
 

 午後3時過ぎに、古墳巡りや富永有隣の石碑調査を終えました。これらの古墳や石碑,それらに至る道,案内板などの状況が分かりました。田布施町の貴重な観光資源ととらえるならば、これらの整備はまったなしだと思いました。

             ピンクの線は、今回歩いたり車で通ったりした道,古墳,そして石碑
               ※森や林を通ったためGPSが少し乱れている

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