30日、亡くなった父親の初七日でした。朝九時にお寺にお坊さんを迎えに行きました。私が運転する中、ここ40年の月日や町の変遷について懐かしみながらお話しをしました。初七日は十時半頃に終わり、お坊さんをお寺まで送りました。次は6月5日としました。
ところで、近所の方に葬儀のお礼の挨拶に行くと、思わぬものをいただきました。それは、私の父親が生前よく栽培していた千日紅の苗でした。その近所の方は、以前父親から千日紅の苗をもらって以降ずっと育て続けていたそうです。いただいた苗は、我が家に里帰りした千日紅です。
里帰りした千日紅の苗 苗を植える畝に肥料をまく
そう言えば、私が四月初旬に東京から帰って牛舎を整理していた時に千日紅の枯れた花がたくさん入った袋があったことを思い出しました。その時はあまり関心が無かったため、その袋の中身をすべて捨ててしまいました。もしかして、父親が採種するために保存していた千日紅だったのかも知れません。今思えば残念なことをしてしまいました。
畝にひもを引いて、等間隔に千日紅の苗を移植
去年山口県に帰省した時、庭に咲いていたたくさんの花のうち数株だけ千日紅の花が咲いていたことを思い出しました。その時は、花好きの父親が植えていたたくさんの花の一つぐらいにしか思わず、あまり関心を持ちませんでした。しかし、父親が亡くなって近所の方から里帰りした千日紅の苗を見ると不思議な気持ちがしました。
もしかして、去年咲いていた千日紅のこぼれ種から芽生えた苗が畑にあったかも知れませんが、それを知らずに耕運機ですっかり耕してしまいました。里帰りした千日紅、ちゃんと育って花を咲かせて欲しいと思います。
水をまいた千日紅の苗 去年('11/8/16)庭で咲く千日紅
父親の葬儀を終わり、各種清算も滞りなく済みました。そこで、元々予定を立てていた農作業をしました。今回は、ニラの株分けと植え付けです。父親が数年にわたって株分けしていなかったので、株がギュウギュウに混んでいました。このため、肥料分が少なくなっていたのか、葉がとても細くなっていました。こんな細い葉では食べられません。
平クワで溝を掘り、発酵鶏糞を肥料として入れる
まずは、平クワで筋になるように縦に溝を掘りました。その溝に発酵鶏糞を肥料として入れました。入れた後軽く土を被せました。なお、発酵鶏糞が入った袋が牛舎に大量にありました。おそらく父親が生前、肥料にしようと購入していたのでしょう。何の野菜、果樹、または花の肥料にしようとしたのでしょうか。
混んだニラの株を掘る 株をほぐすように細かく分ける
肥料を溝に入れ終わると、混んだニラの株を掘り上げました。そして、その株をほぐすようにしながら細かく分けました。分けた小さな株を、肥料をまいた溝の上に並べました。本当は新しくニラの種をまいてから、新芽を植え付けた方が良質のニラになると思います。しかし、時間がないので今回は、株分けの手法を取り入れました。
分けた小さなニラの株を、肥料をまいた溝の上に並べる
ニラの株は二列に並べて置きました。明日雨が降る予想のため、今日中に仕上げなけれればなりません。ところで、ニラの株を手で分けたため、手にニラ特有の臭いが付きました。このため、農作業が終わると何度も石鹸で手を洗いました。しかし、なかなか匂いは取れませんでした。
二列に並べたニラの株 株を並べ終わるとクワで押さえる
ニラの株を並べ終わると、平クワで土を被せ軽く押さえます。明日雨が降ればいいのですが、確実とは言えないのでジョロで水をかけておきました。株分けしたニラは数日間はへたっているでしょうが、一週間程度すればシャキッと立ってくると思います。発酵鶏糞肥料を入れたので二か月程度後には新しく太い葉が出るのではないかと思いますがどうでしょうか。楽しみなようで少し心配です。
ジョロで水をまいた、株分け植え付けしたニラ
今年最後の陸稲の種まきをしました。これまではうるち種の陸稲(農林24号)でしたが、今回はもち種の陸稲(農林1号)です。もち種の陸稲はこの3月に購入したものです。うるち種は購入が難しくなってきましたが、もち種は今でも容易に購入できます。
もち種の陸稲(農林1号) 陸稲を手押し式種まき機に充填
ここの畑はトラクターで耕したのですが、ロータリーの回転数を落としていたので土粒がとても荒く団子状になってしまい失敗でした。陸稲の種をまいた後に土をかぶせましたが、団子状の土だと芽生えがうまくいくか心配です。乾いた団子状の土は、乾くと石のようになります。芽の上にのっかる形となり、芽生えの邪魔になります。
手押し式の種まき機で陸稲の種まき
陸稲の種まきを済ませると、先日伐採て切りそろえた木を縄で縛りました。そして、一輪車で少し運びました。小枝を優先して束ねて運びました。まだ、木の幹などの重いものは、トラクタで後日運ぶ予定です。雑草を刈り取ったり、倒木を整理したり、余分な木を伐採したり、耕したり、種まきしたりとたくさんの作業がありますが、のんびりこなそうと思います。
小枝を縄で縛る 一輪車に乗せて運搬
これまで山や畑に生えている木々をチェーンソーで何本も伐採してきました。しかし、だんだん切れ味が悪くなってきました。特に湿った木を切るときになかなか切れなくなりました。そろそチェーンソーの刃を研ぐ必要があります。ノコギリはこれまで何度も研いだことがありますが、チェーンソーの刃を研いだことはありません。今回初めてチェーンソーの刃を研いでみました。
切れ味が悪くなってきたチェーンソー
ノコギリは切れ味が悪くなると、本来尖った刃が丸くなってきます。チェーンソーはどうかと観察してみました。すると、木をノミのように削り取る刃先が、少しボロボロになっていました。これでは切れるはずがありません。
ボロボロになったチェーンソーの刃先
チェーンソーを研ぐのは初めてのため、お店で刃を研ぐ道具を二つ買いました。一つは、刃を研ぐ丸ヤスリです。もう一つは研ぐ角度を決めるガイドです。ガイドを刃にはめて、そのガイドの角度に合わせて丸ヤスリを動かして刃を研ぎました。
刃にはめたガイド ガイドの角度に沿って丸ヤスリで研ぐ
チェーンソーの刃の数は、20~30個あるようです。その刃を一つずつ丁寧に丸ヤスリを使って研ぎました。初めてチェーンソーの刃を研ぎましたが、思っていたよりうまくと研げたようです。すぐに山に行って木を伐採してみました。すると、以前のように調子よく木を切ることができました。
丸ヤスリで研いだチェーンソーの刃、素人なりに砥げる
通夜を済ませた次の朝、朝九時に自宅を出棺しました。東京では立派な霊柩車にお棺を載せますが、この地域は霊柩車を使いません。そう言えば、私がこの地域に住んでいた頃、一度も見たことがありませんでした。東京に来てから霊柩車を見ました。私が勤めていた病院では、ただのワゴンのようなものから豪華なものまで霊柩車にいろいろなランクがありました。この地域のようにどのお棺も同じ車種を使うのであれば、周囲に気を使う必要がないのでいいかも知れません。ところで、以前行われていた野辺送りの風習がわずかに残っていました。地域の方々のいろいろなお手伝いは、東京暮らしが長かった私はとても助かりました。いつか何かの形でお返ししなければなりません。
故人の遺影を持つ私,そして母親が同乗、自宅前で
斎場は、田布施・平生合同斎苑です。この斎場は、父親が生前に建設に力を尽くしていたそうです。建設に反対する人や、土地を買い占めた人などを説得するのにとても苦労していたとの話を伝え聞いたことがあります。今でも、反対していた人とのいさかいが残っているとのことでしたが、ほとんどの方はこの斎場ができて良かったとのことのようです。東京では、斎場と焼き場が離れているようですが、ここは斎場も焼き場も同じ場所にあります。駐車場も広くとても使いやすく、使用料も町民には良心的です。
静かな音楽に囲まれた立派な祭壇
昔この地域では、野辺送りが一般的でした。葬儀はそれぞれの家で行い、故人は丸い樽に納められ、先頭に旗を立てて行列を組んで焼き場まで行きました。それぞれの地域に焼き場があり、それぞれの風習での葬儀でした。もっと昔は土葬だったそうです。このような古い形式の葬儀は、私が高校生時代に経験したのが最後でした。それは、高校の同級生が亡くなった時の野辺送りでした。その同級生が父親の手で丸い樽のなかに納められていく光景や同級生が泣いていた姿を今でも忘れられません。そして、その樽と一緒に山奥にある焼き場まで行きました。
読経している住職二人 葬儀にみえた親族や地域の方々
私が思うに、野辺送りは当時の地域や親戚の絆を確かめるとてもいい機会だったのではないかと思います。焼き場が一緒になった斎場は合理的でいいのですが、失ったものも少なくないのではないかと思います。現代社会は野辺送りをするような精神的なゆとりや絆が少しずつ無くなっているのではないかと感じます。とは言え、野辺送りに郷愁を感じている私自身が時代に付いて行けず老いてしまったのかも知れませんが。
お祈りをする妹夫婦 お祈りをする地域の方々
斎場にお寺の住職の方が二人みえて合唱でお経をとなえておられました。お寺は以前、幼稚園や保育園を経営していました。その保育園に、私は幼児の頃に通っていました。このため、当時何度かこのお寺に来た覚えがあります。檀家でもあり、古くから付き合いのあるお寺です。葬儀は粛々と進んで最後に、私が喪主として故人を回想しつつ挨拶をしました。
火葬中、親族縁者は昼食をとりつつ歓談
火葬が終わり骨拾いも無事終わると、いったん自宅に戻りました。戻ると少し休憩をとりました。そして、今度は遺影、戒名、お骨などを持ってお寺に向かいました。母親は足が悪いため自宅で留守番です。私が保育園に通って以来ですので、55年ぶりのお寺訪問です。本尊を前にして、本日最後の読経をしていただきました。お布施を渡した後、別室で住職さん達と歓談しつつ初七日や四十九日の日程を相談しました。初七日はいいとして、四十九日の頃に姪の婚約日があるため重ならないように日付を決めました。
斎場を離れる前に親族と お寺の本尊前で遺影と共に
ところで、私が子供の頃に親戚の葬儀に出たことがあります。その時は、叔父さん、叔母さん達ばかりすべて年長者でした。今回の葬儀で、私より年長は母親や従妹だけの数人でした。多くは私や妹の子たちの若い人ばかりでした。考えるに、故人への一番の供養は子供や孫たちが故人の命を立派に継いでいることではないかと思います。将来自分が亡くなる時どんな人が来てくれるのでしょう。そして、子や孫たちがいなかったらどんなさびしいことだろうと。息子にそんな話をしたり「わしが亡くなったら、喪主はお前がするんだぞ。」と言うと、息子は私の肩をもみながら笑っていました。
お寺を後にして、ようやく長い一日が終わりました。家内と息子は仕事があります。明日早朝に東京や大阪に戻らなくてはならないので早めに就寝しました。
葬儀が終わりほっとする親戚一同、お寺の前で
父親が亡くなって忙しい一日が始まりました。午前中、通夜のための葬儀屋さんが次々に到着して、いろいろと準備が始まりました。また、花屋さんも次々に来て生花を準備して行きました。私と母親は、葬儀案内の電話を親戚や関係部署にかけるなど大忙しです。その間にも次々にこの地域の方がみえるのでその対応もありました。
門前に置いた案内や生花 玄関に垂れ幕や提灯を設置
ほっと一息ついたのは、午後二時頃だったように思います。家内も東京から駆け付けてきました。息子は仕事が忙しいため、当初明日の出棺頃になるとのことでしたが、なんと通夜を過ぎた深夜の最終列車で来ました。娘はシンガポールにいるため、電話で連絡はしましたが残念ながら帰国はできません。
生花に飾られ通夜の準備が整う
通夜は午後六時半でしたが、その前に六時から地域の方が次々に来られました。私の知っている方や知らない方などたくさんの方が次々に来ました。私はただ挨拶をするだけでしたが、私の家内や妹たちが来客を次々にこなしていました。六時半頃にお寺の住職さんがみえました。そして、故人のゆかりの深い人や親戚が座る中で通夜が始まりました。
家前の道路につけられた案内 通夜後暗くなるも玄関照明
通夜は午後八時半頃に終わったでしょうか。弔問客がいなくなって静かになると、親戚同士で通夜ぶるまいです。故人を前に親戚同士が故人を思い出しながら食事をしました。この中には今年結婚する人が二人います。亡くなる人、結婚する人、世代は粛々と次に継がれていくんだなと思いました。
故人をしのびながら親戚で通夜ぶるまい
びっくりしました。24日早朝7時半に突然病院から電話がありました。父親が朝食直後に脈拍が30ほどに落ちてきたとのこと。すぐに車で病院に向かいました。しかし、佐賀地区の病院直下の坂近くを走っている時、再度病院から電話がありました。脈が無くなり臨終を迎えたとのこと。もう10分ほど早く着いていれば臨終に立ち会えたのにと、残念でなりませんでした。
まだ暖かった父親 お棺に入って家に向かう
病院に到着すると父親が静かに眠っていました。まだ体に暖かさが残っていました。それから約一時間後看護婦さん達のお見送りの中で、父親を家に連れて帰りました。数日前、「リンゴを食べたい。」と言っていたことを思い出しました。リンゴを食べさせれば良かったと悔やみました。しかし、田布施交流館のパンを食べたいとの望みはかなえたので良かったのかなと思いました。家に着くとすぐに親戚や地域の方々に連絡をとり、葬儀屋さんに来てもらいました。夕方、枕勤めのためお寺から住職さんがみえました。忙しい葬儀の日々の始まりでした。
我家内の広間で静かに眠る父親
一日置いて、パンクした右前輪(ハブだけ)と、左前輪を山口クボタ田布施営業所に持っていきました。すると一日でタイヤを交換してもらえました。両輪のタイヤに右チューブを交換して4万円ちょっとかかりました。タイヤとチューブをインターネットで探して購入し、自分で組み替えればたぶん半額程度ですんでのではないかと思いました。しかし、タイヤの組み込みはとても疲れるので、今回はやってもらいました。
交換されたタイヤ トラクタに前輪を取り付け
交換されたタイヤを見ると、溝が深くてグリップが良さそうです。これまで自分でパンク修理した時にハブをハンマーで叩くなど痛めてきましたが、それによる歪みなどがすっかり綺麗になっていました。さらに、錆などの処理がされていました。クボタさんありがとうこざいました。
蓋が無いヒューズボックス 注文した蓋を取り付けたヒューズボックス
タイヤ交換時と同じころ、トラクタのヒューズボックスの蓋を注文しておきました。ヒューズの故障は今のところありませんが、左足元にあるので足先で蹴りそうで心配でした。その蓋も取り付けておきました。
タイヤ交換した前輪を取り付け後、トラクタを外に出し点検
前輪をトラクタに取り付け終わると、畑に行って軽く耕耘をしてみました。左前輪のボールベアリング交換修理の確認テストも終わっていないので、回ってみたり、耕して見たりといろいろ確認してみました。エンジンのトルク低い状態でゆっくりと動かしてみました。
畑でテスト中のトラクタ 畑を数回往復して耕耘テスト
テストの結果は上々でした。修理した左前輪も問題ないですし、畑に入るときの小さな斜面も問題なく上がったり下りたりできます。トラクタのローダーに先日伐採して切り揃えた木を乗せて家路に着きました。この畑、陸稲の種でも蒔こうかと思います。
トラクタのローダーに切りそろえた木を乗せて家路に着く
前回に続いて陸稲の種まきをしました。今回は、陸稲以外の雑穀などの種まきも並行して行いました。雑穀は、東京にいたときによく種まきしたのですが、結局採種用程度にしか栽培できませんでした。それに、雑穀の芽や葉を雑草と勘違いした方々に抜かれることが多く失敗の連続でした。今年からは私だけが畑を管理するため、なんとか正常に栽培してみようと思います。
手押し式種まき機で陸稲の種をまく
しかしながら、雑穀は発芽率が心配です。例えば、粟の種がいくつかあります。うるち種のサカー、もち種の黒粟や猫足などです。これらの粟は、秋にスズメなどの食害にあってほとんど収穫できませんでした。10年近く種を保存したままにしていたので、ちゃんと発芽しないのではないかと思っています。
種まき後、土を被覆 やや湿り気のある陸稲畑
ほかの雑穀として、アマランサス、モロコシ、黍、稗、シコクビエなどがあります。どの雑穀もどの程度発芽するのか不明です。このため、もし発芽したとしても今年は採種用として栽培するつもりです。そのほか、三種類の里芋を植え付けました。一つは近所からいただいたもの、一つは京都産の京イモ、そして石川早生と呼ばれるものです。後者二つは購入したものです。里芋は湿地で育ちやすいので、湿り気の多い畑に植え付けました。
少し芽が出たサトイモ 雑穀の種をまいた畑
トラクタの左前輪を分解して破損したボールベアリングを交換したと思ったら、今度は右前輪のタイヤがパンクしてしまいました。せっかく気持ちよく耕耘作業していたら、突然バーンと言う音がしました。すぐにトラクタを降りてタイヤを見ると、右タイヤがべったんこ。空気が無くなっているではありませんか。パンクです。またまたトラクタを修理しなければなりません。がっかりです。
パンク右タイヤ、ハブ外側外れる ハブ内側はは外れず
畑ではパンクを直せないので、いったんトラクタを畑から出して牛舎に帰りました。帰る走行途中に、パンクした右タイヤがだんだんハブから浮きはじめました。やっとの思いで牛舎に着くと、以前トラクタのパンクを直したことを思い出して、まずはタイヤをハブら完全に浮かせた後、タイヤとハブの隙間からチューブを取り出すことにしました。
ハブから浮いたタイヤ チューブを取り出す途中
自家用車などのタイヤはほとんどがチューブレスタイヤです。このため、ハブからタイヤを外すことなくネジのような器具を使って比較的簡単にパンクを直すことができます。しかし、トラクタは自転車と同じでチューブが入っています。このチューブを取り出して空気が漏れる穴をふさがなければなりません。しかし、チューブを取り出す前にタイヤをハブから完全に浮かさなければなりません。タイヤをハブから浮かせるには、少々力とコツと時間が必要です。
タイヤをハブから浮かせ、隙間からチューブを取り出す
取り出したチューブを見ると、とても大きな穴が開いていました。一方、パンクした原因を探すと釘などをふんだためではなく、タイヤ側面に大きな裂け目ができていたためでした。これほどの大きな裂け目があるとチューブを直しても、すぐにパンクしてしまいます。これはもう、タイヤを交換するしかありません。
チューブ、とても大きな穴があく タイヤ側面に大きな裂け目
そこで、トラクタの部品をいつも注文している山口クボタ田布施営業所でタイヤを交換してもらうことにしました。右タイヤと穴があいたチューブは別途使うため、自分でハブからタイヤを取り外しました。そして、ハブだけを山口クボタ田布施営業所に持っていきました。左タイヤは自分で外すのは疲れるので、チューブはそのままでタイヤだけを交換してもらうことにしました。溝もだいぶ減ったこの左右のタイヤ、そろそろ交換時期だったようです。
ハブから取り外したタイヤ、タイヤとチューブは別途使用
田布施町麻郷高塔区にある通称「天王さんのお祭り」に約50年ぶりに参加しました。これまで、大学や会社勤めでずっと東京に住んでいたため、このお祭りに参加することはありませんでした。今年定年で山口県に帰ってきたので、今回久しぶりに参加することができました。
小学新一年生を後ろに、世話役を横に、お祈りをする神主さん
私が、子供の頃にこのお祭りに何度か参加したことがありますが、当時はとても質素なお祭りでした。当時は、神主さんのお祈り後に人形劇一座の演目を楽しんだり、お菓子などをもらったしていました。そして、すぐに解散していました。とても簡単で質素なお祭りでした。しかし7年ほど前から、小学新一年生の記念植樹や地域のレク活動のお披露目、ポン菓子などのお楽しみを増やしたようです。
新一年生による記念植樹 今年新一年生の7人(1人欠席)
今回参加して驚いたのは、昔に比べて子供の数が増えたこと、そしてその親である若い世代が増えたことでした。昔から住んでいる方の参加はわずかで、私が知っている方は10人程度でした。50年位の間にすっかり浦島太郎になった気持ちでした。
田布施町内のたぶせ竹楽坊楽団、平均年齢73歳とか
私が田布施を離れていた間に、この地区の様子もずいぶんと変わりました。昔は狭い峠道があるような一種辺境の地区でした。しかし、30年ほど前でしょうか、峠道を削って平らにして国道に直結したり、下水道を整備しました。このためか、だんだん住む人が増えてきました。
ポン菓子機の準備 できたポン菓子に飴をからめる
お祭りですが、最初に神主さんのお祈りがあり、それが済むと小学新一年生7人(1名欠席)の植樹がありました。そして、地域の楽団であるたぶせ竹楽坊の演奏がありました。全ての楽器が竹製です。平均年齢73歳とのことですが、なかなかどうして見事な演奏でした。子供たちも手拍子しながら聞いていました。たぶせ竹楽坊の演奏が澄むと、ポン菓子や綿菓子の出番です。綿菓子機は2台あったのですが、山に50m程度電線を引いたため電圧降下で一台しか使えませでした。
長い行列ができた綿菓子、作るのも食べるのも子供
このお祭りが終わって自宅に帰り古い写真を整理していると、昔のこのお祭りの写真が出てきました。祠の隣りに生えている木から換算すると、今から30年位前の写真ではないかと思います。その頃は竹林に覆われておらず、祠のある場所はとても見通しの良い場所でした。
祠の隣りの細い木、30年前の写真? 祠の隣りの、左写真と同じ木
山や畑の草刈り、陸稲などの種まきに気をとられていて、桃の袋かけをすっかり忘れていました。花が咲いた頃に早く袋かけしようと考えていたのに、今では小さな桃の実がだいぶ虫に食われていました。後悔先に立たずでした。それでも10個程度の実は無事でしたので、桃専用の袋をかけました。
袋をかけた桃の実、美味しい桃ができるでしょうか
桃の木をよく観察すると、いろいろな虫が来ています。桃の害虫についてはよく知らないのですが、黒い毛がたくさん生えている毛虫が一番の害虫のようです。その害虫をよく見ると、桃の葉よりも桃の実を食べているのをよく見かけます。葉よりも実の方が栄養があるのでしょう。虫の食べ跡がある実がたくさんありました。
満開だった桃の花(4月中旬) すっかり食べられてしまった桃の実
ここ数年剪定がされていなかったので、桃の枝は上に向いて茂っています。このため、上の方にある桃の実には手が届きませんでした。脚立で手が届く範囲の正常な実だけ袋をかけました。この夏にでも樹形が横になるように剪定しようと思います。
ところで私が幼児の頃、我家では大々的に桃園を経営していました。山裾に何十もの桃の木が植えてあったため、袋かけは親戚も集めての一大イベントでした。袋そのものも今のような専用の袋などありませんでした。桃用にと貯めておいた新聞紙を使って、何百もの袋を作りました。糊はご飯粒を溶かして作り、障子用の刷毛で塗りました。桃の袋かけは親戚同士の交流の場でもありました。桃園での楽しい昼食はピクニックのようでした。今では懐かしい思い出の一つです。
少ないながら袋をかけた桃、何個食べることができるでしょうか
前回は狭い畑だったので手で筋まきをしました。今回は広い畑のため古い手押し式の種まき機を使って陸稲の種まきをしました。陸稲は日照りに弱いです。このため種をまき過ぎると雨が少ない季節は陸稲同志で水を奪い合うのか、結果として全体として成長が阻害されます。その点この種まき機は種を10cmごとの株まきにしてくれます。筋まきよりだいぶ薄まきになるので、日照りに適しているのではないかと思います。今回も、まいたのはうるちの農林24号です。最新の種まき機は、エンジンなどの動力付きで、肥料もまいて、土寄せもしてくれます。しかし、私のように自給自足規模であれば、この手動の手押し式で十分です。
種まき後、蒔き筋に沿って土寄せをしている私
今回は2回目の陸稲の種まきです。今回は、修理したトラクタで耕運した畑に種まきをしました。まき幅は80cmにしました。80cmのうち60cmは耕運機で除草したり土寄せする幅で20cmは陸稲を生える幅です。種まき機に陸稲を充てんして種まきのスタートです。まき幅ごとにひもを引き、そのひもに沿って種をまきました。
まき幅に合わせてひもを引っ張る 種まきが終わった畑
種をまくと平クワで土をかけます。そして、次の畝にひもを張ります。そして、再びそのひもに沿って種まきをします。この繰り返しで、畑全体に陸稲の種まきをしました。その畑の種まきを済ませると、今度は次に種まきする畑の耕運をしました。少し狭い畑のため、トラクタではなく耕運機で耕しました。
次に種まきする陸稲の畑、耕運機で耕す
クボタ製トラクタGL-23の前輪分解修理の履歴です。それぞれをクリックしてください。
修理(1/9) 修理(2/9) 修理(3/9) 修理(4/9)
修理(5/9) 修理(6/9) 修理(7/9) 修理(8/9)
修理(9/9)
やれやれ、ようやくトラクタが治りました。左前輪の破損した部品を全て交換して、あとは潤滑油のギヤオイルを入れるだけとなりました。液体シールが硬化するのに6時間程度かかるので、オイルを入れるのは次の朝でした。
オイルが入ったことを確認する穴 じょろを使ってギヤオイルを挿入
オイルは事前にDIYのお店で買いました。東京都心のDIYのお店では農業用資材は全く売っていませんでしたが、この田舎では農業用の資材がけっこう売っています。東京都心で売っているのは園芸用程度でした。例えば、以前東京都心で籾を入れる米袋を購入しようと思いましたが、どこを探しても売っていませんでした。このため、田舎に帰省したときにDIYの店で購入して東京送っていました。
トラクタ用のギヤオイル ギヤオイルが入って油が漏れる
どの程度ギヤオイルを入れてよいのか分からないので目分量としました。1L程度は入れたと思います。ギヤオイルを入れ終わると、挿入口をナットで絞めてふさぎました。オイルを入れた後、ギヤケースの下を見ましたが、オイルが漏れているような兆候はありませんでした。
ギヤオイルを入れる口を六角ナットで締める
次に、タイヤをホイールハブに取り付けました。このタイヤは前輪とはいえ、自家用車のタイヤより重いようなので、取り付ける時の位置合わせが大変です。位置を合わせて、固定用のナットを強く回して締めるとタイヤの取り付け完了です。このあと、トラクタの前輪部を持ち上げている支えを取り払って前輪をじかに地面に接地しました。
タイヤをホイールハブに取り付け 支えを取り払いタイヤを接地
前輪の修理が終わったので、テストの意味で陸稲の種をまく畑に行って耕運してみました。故障時の前輪のひっかかり現象はなくなり、スムーズにトラクタを動かすことができました。やれやれ自分で直したとは言え、とても時間がかかりました。適切な工具がないので代用工具を使って時間と知恵をかけて直しました。とても苦労しましたが充実感でいっぱいです。
陸稲の種をまく畑に行ってテストの意味で耕運
クボタ製トラクタGL-23の前輪分解修理の履歴です。それぞれをクリックしてください。
修理(1/9) 修理(2/9) 修理(3/9) 修理(4/9)
修理(5/9) 修理(6/9) 修理(7/9) 修理(8/9)
修理(9/9)
4日ぶり位に父親の見舞いに、母親を連れて行きました。まだ酸素マスクはしていましたが、点滴はしなくてもよくなっていました。前回よりも容体が良いようです。まだミキサー食でしたが、私がカステラを待ってくると「食べたい」と言ったので看護師の了解を得て、お茶を含ませて柔らかくしてから食べさせました。美味しかったのか何度も「食べたい」と言ったので、休み休み食べさせました。ヨーグルトも食べました。話はかなりクリヤでした。病院から帰ると、庭木の雑草を取りました。
自分でヨーグルトを食べる 庭木に巻きつく雑草を取る
トラクタ左前輪の部品交換が終わりました。結局交換したのは、ベールベアリング3個、ホイールハブのオイルシール、U字型リング2個、ピニオンギヤのオイルシールです。金額的には1万円もしなかったのですが、交換にとても手間がかかりました。
液体シールを塗る前に掃除 液体シールを隙間なく塗る
時間がかかったのは、破損したベールベアリングを引き抜くこと、スナップリングを引き抜くことなどです。これらは、適切な工具を持っていないことからですが、素人なので仕方ないでしょう。意外に役に立ったのは重い鉄製のハンマーでした。そして、鉄工の知識が多少なりとも役に立ちました。次に修理する時は、もっと短時間で修理できると思います。とても勉強になりました。
ギヤケース側にも液体ールを漏らさず塗る
部品交換が終って仮組みすると、ちゃんと収まります。そこで、本組みすることにしました。ギヤケース内にはギヤオイルが入ります。そのオイルが漏れないように、液体シールを塗ってから本組みしました。オイルシールは、最初粘性が低いのでだらだら流れ落ちます。薄く引くように塗るのがこつだそうですが、素人ですのでうまく塗れませんでした。多少の滴落ちは仕方ありません。完全に密封することが大切です。
塗った5分位後に本組みを開始 ネジを締めると余分な液体シール溢れる
液体シールは、硬化に6時間程度かかるようです。今日は、本組みだけで終わりにしました。ホイールハブを手で回してみる軽く回りますし、ピニオンギヤも調子良いようで反対の右前輪も左前輪につられて回ります。明日タイヤを装着して、修理後初の畑耕運をしてみようと思います。今回自分で前輪を分解修理しましたが、やはり適切な工具と経験は必要だと思いました。
左前輪本組みを終わり液体シールの硬化を待つ