先日、大根の間引きをして2本立ちにしました。今回は最後の間引きです。だいぶ大きく育った大根を1本にします。大根を引き抜くと、細くて長い直根がずるずると出てきました。この長い根がさらに地下に伸びて太い大根になります。
前回、2本に間引いた大根 片一方の大根を引き抜く
間引いて1本になった大根、今後はその1本が育って立派な大根に育つはずです。去年は大根を作り過ぎてだいぶ捨てました。去年の教訓を元に、大幅に大根の数を減らしました。12月頃に、育った大根を使って今年もたくあん漬けに挑戦してみようと思います。去年は食塩が効きすぎたので、少し減塩にしてみようと思っています。
1本立ちにした大根、12月にたくあん漬けにする予定
ナイロンのひもを高速回転させて草を刈るナイロンカッターの回転部が壊れてしまいました。草を刈っている時、切株に高速回転部を強くを当ててしまったためです。当たった瞬間に部品がバラバラに飛んでいってしまいました。あわてて草刈機のエンジンを止めて、飛び去った部品を探しました。バネなどの部品は見つかりましたが、二つある側金のうち一つだけがどうしても見つかりません。
回転部の側金を一つ紛失 DIYのお店にあった側金
DIYのお店にこの側金がないかどうか行ってみました。平生町と田布施町のお店にはありませんでした。仕方なく、柳井市のお店に行ってみました。すると、嬉しいことに紛失したその部品が売っているではありませんか。さっそくその部品を購入しました。2個入りで398円でした。
購入した側金を、ナイロンカッター回転部に取り付け
購入した側金は2個組みでした。このため、もう1つの側金は今後再び紛失した時のための予備とすることにしました。規定通り側金を回転部に取り付けると、ナイロンひもを取り付けました。そして、新品の側金を通してナイロンひもを外側に取り出しました。
ナイロンひも取り付け 新品の側金に通したナイロンひも
私は、このナイロンひもを使ってよく草刈りします。太い笹や木は仕方なくチップソーを使いますが、ほとんどの草はナイロンカッターで草刈りできます。このため、1年で1巻きのナイロンカッターをほぼ使い切ります。1日に2度はひもを交換します。交換する時間はバカになりませんので、もう少し丈夫なナイロンひもがあればいいなと思います。
ナイロンひもを、回転部に取付け完了 草刈機にガソリンを補充
ナイロンカッターの修繕が終わると、草刈機にガソリンを補充しました。今は10月終わりですので、草を綺麗に刈り取っておくと3月頃までは寒さで草が生えません。
しばらくは普通の草を刈り取りますが、笹が生えている山はその後チップソーを取り付けて刈り取りするつもりです。ちゃんと刈り取りしておくと、来年の草刈りがより楽になります。今が一年で一番の草刈りの勝負どころです。
ガソリンを補充し終わると、草刈りを再開
先日収穫した小豆のさや、収穫直後に台風が来て干せませんでした。今回天気が良くなって晴れたため、朝から小豆をシートの上に広げて干しました。午後乾燥が終わった小豆のさやは、カラカラに乾いていました。ちょっとした刺激で、さやが割れるほどです。小豆はもう一度収穫して干します。その干した小豆と今回干した小豆を混ぜて、さやから豆を取り出す予定です。くるり棒を打ち当てて、さやから小豆を取り出します。
ところで昨日のウォーキング中、東京に住む家内から「母が亡くなった。」とのメールが入りました。このため、明日29日から2日まで東京に行こうと思います。知っている人がだんだん少なくなるのはさびしい物です。
天日で乾燥中の小豆のさや、カラカラに干しあがる
先週の日曜日(20日)、雨でウォーキングが一週間延期になり今日(27日)になりました。台風27号の影響で天候が心配でしたが、とても良い天気になりました。早朝はとても寒かったのですが、ウォーキングしているとほのかに体がポカポカしてきました。下見で歩いたコースに沿って、のんびりと歩き始めました。
ポカポカ陽気の中、田布施川沿いをのんびりとウォーキング
最初、田布施庁舎前から田布施川を上流に向けて歩きました。そして、山陽本線の踏切りを渡って田布施農業高校前に出ました。そして、この近くにある小川沿いに鎮座した丸い岩を見学しました。お札があるため、水の神か何かで祀られているのではないかと思います。次に、田布施駅方面にどんどん歩いて、円満時に行きました。円満寺を見学後、近くにある国木田独歩の波野英語塾跡を見学しました。
一番ヶ所がある円満寺にお参り 八十八ヶ所を巡る途中の栗林
八十八ヶ所はのんびりした里山風景が広がる場所にあります。人が一人通ることができる林の小道を歩いていると、栗がたくさん落ちていました。拾う人が少ないのでしょう。食べることができる栗がたくさん落ちていました。しばらく林の小道を歩いていると、道のそばにアケビがたくさん落ちていました。美味しい中身はさすがに無くなっていました。野ねずみなどの小動物が食べたのでしょう。上の方を見上げると、今にも落ちそうなアケビを見つけました。
明るい林の小道、上を見上げるとアケビがぶら下がる
県道をまたぐ陸橋の大師橋を渡ると、歩きやすい山の小道が続いていました。少し歩くと、最後の八十八番ヶ所がありました。八十八番ヶ所のお参りが済むと、今度は北に見える行者山に向けて歩きました。長合から大波野に抜ける農道に沿う歩道を歩いていると、牧場が見えてきました。この牧場に行者山への登山道があります。
もうすぐ八十八番ヶ所に到着 牧場の牛を見た後、行者山へ
行者山に登る道は最初、ゆるやかな竹林の小道を歩きます。しかし、だんだん滑りやすい急斜面の道に変わります。ちゃんとした道ではないため、油断すると斜面に落ちてしまいそうです。15分位ガレた急斜面の道を登りきると、急に視界が明るくなり広がります。そこは行者山の頂上です。頂上に着くと、眼下の景色を堪能しながらの楽しい昼食です。
ガレて歩きにくい急斜面 視界が広がる行者山頂上に到着
行者山頂上からは眼下に田布施町の街並み、そして平生町方面を見下ろすことができます。古代に思いをはせると、この眼下はみな海だったようです。そして明治大正時代、菅原神社近くの船回しと呼ばれる水路を通じて瀬戸内海に出入りする船が行き来していました。
行者山頂上からの眺め:田布施の町並み,田布施川,そして遠くに平生湾
江戸時代後半から、田布施川に堤防が作られたり防潮堤が作られるなどして干拓地が広がりました。もし、田布施川に堤防がなければ、今でも眼下に広がる平野はかなり海ではないかと思います。
田布施町には、瀬戸,砂田,波野など海にまつわる地名が数多くあります。古代においてこの地域は、豊かな海産物が取れた地域だったのではないでしょうか。
ポカポカ陽気の行者山頂上、今回参加した9名の方々
行者山頂上からの下りは登りより大変です。油断すると、前のめりに転びそうです。小学1年生のAちゃんは、この下りが大変だったようです。でも、一人でよく頑張りました。しばらく急な下り坂を下っていると、元来た牧場に出ました。
注意深くゆっくりと急斜面を下る 元来た牧場に出て、牛に再会
行者山から下りて牧場の横を通り過ぎると、さらに道を下りました。そして、第二奇兵隊の碑がある専福寺に着きました。お参りついでに、おトイレをお借りしました。そして、寺門下にある岸信介書の第二奇兵隊の碑を見学しました。
専福寺に到着後トイレ休憩 踏切を渡ると、大内公園が間近に
専福寺を過ぎると、昔とそう変わっていない里山風景を見ながら歩きました。そして、山陽本線の踏切りを渡りました。今回は大内公園に立ち寄らないで、そのまま大恩寺に行って飢民の碑を見学しました。今年は全国的に、田んぼがサークル状に枯れるうんかの被害がニュースになっていました。飢民の碑の説明に、江戸時代うんかの被害が甚大でお米が収穫できず多数の餓死者が出たことが書かれていました。昔は今のように農薬などがなかったため、うんかなどの害虫防除がまったくできなかったのでしょう。
日が当たってポカポカの菅原神社を散策
飢民の碑を見学後、田布施街の古い建物を左右に見学しながらウォーキングを続けました。そして、菅原神社をお参り後、最終目的地の田布施町郷土館に行きました。そして、今展示中の佐藤栄作元首相の写真などを見ました。写真に写った同級生を何人か見つけて喜んでいた参加者が数人いました。とても懐かしそうでした。ところで、ウォーキングに参加した小学生一年生のAちゃんが、観光協会の方から古代米の穂をプレゼントされました。ありがとうございました。
郷土館で佐藤栄作元首相展を見学 古代米の穂をいただいているAちゃん
写真に写る旧友を発見 よかったね
10月と11月は、ウォーキングに適した季節です。今月は、田布施街を中心とした史跡を回りました。11月は城南公民館から田布施川沿いに光市に入り、そのまま田布施川に沿って上流にウォーキングします。高低差がほとんどない広大な田園風景の中を歩きます。
今回ウォーキングしたおよそのルート
※第1回から最終回の第8回までのウォーキングは、次のとおりです。クリックしてみてください。
第1回 麻里府~八海 第2回 田名~平生 第3回 八海~交流館
第4回 平生~交流館 第5回 交流館~城南 第6回 交流館~行者山~田布施街
第7回 城南~光市塩田 第8回 小行司~余田畑
==========健康ウォーキングクラブ==========
たまたまDIYのお店に行った時、ビオラとナデシコなどの苗を売っていました。普段は一鉢いくらで売っていますが、売れ残ったのでしょうか数鉢/100円で売っていました。
ナデシコは100円払うと、六つの鉢を選ぶことができました。いろいろな花色や花柄のものを選びました。家に帰ると、台風の合間を見ながら我家の庭に植えてみました。
ナデシコの苗を並べて移植
ビオラは種まきして育苗していますが、まだ植え付けるほど大きくなっていません。そこで、5鉢/100円のビオラの鉢を購入しました。ビオラも、好きな花色や花柄を選ぶことができました。家に帰ると、ナデシコと同じように我家の庭に植え付けました。
リスクはあるのですが、今回のナデシコやビオラのように売れ残った苗を安く買うことがよくあります。なお、売れ残った野菜の苗は安くても買わない方がよいです。買うのはもっぱら、売れ残った花の苗だけです。
5鉢/100円のビオラ 植え付けた後、ビオラに水をかける
続いて、別に購入したチューリップとクロッカスの球根をも庭に植えました。クロッカスは白色,黄色,紫色などがありますが、私は紫色が好きです。このため、紫色のクロッカスを植えました。チューリップは各種色のものを植えました。
なお、去年咲いていたチューリップとクロッカスは球根を掘り上げて干しました。その干した球根も混ぜて植えました。
右から、去年掘り上げて干した球根,チューリップの球根,そしてクロッカスの球根
チューリップなどの球根は、私が子供の頃に小学校でも家でもよく植えました。そして、夏には掘り上げて干しました。そして、秋になると再び植えていました。ただ、花ばかり咲かせていると、球根がだんだん小さくなり葉だけが茂って花が咲かなくなります。そうなると、球根植えにだんだん興味が無くなってしまいました。今回、これだけの数の球根を植えたのは、小学生以来のことです。
次の年も花が咲くような球根を残すには、花が咲いたらすぐに花を切り取って養生するとよいようです。来春のことですが、花が咲きそうなつぼみを見つけたらなるべく早く切り花にしようと思います。そして、花に栄養を取られないようにしようと思います。
クロッカスの球根の植え付け チューリップの球根も植え付け
晩秋に向けて、少しずつ我家の裏山の下刈りをしています。夏場は暑い上に大量にヤブ蚊が襲ってきて、とても作業する気持ちになれません。10月になってからようやく涼しくなったため、主に笹刈りをしながら綺麗にしています。
枯れ枝がまばらに落ちた、下刈りが済んだ裏山斜面
去年は、春先に一度下刈りをしました。何年も放置していたため、太く伸びた笹や木がたくさん生えていていました。そのため、自分の背くらいある笹や木などを時間をかけて刈り取りしました。しかも、初夏に二度目の下刈りもしました。
笹などで覆われた斜面通路 下刈り後の斜面通路
去年、二度の下草刈りをしたため今年は笹などの勢いがなくなっていました。しかし、この秋までにはだいぶ茂ってきていました。台風などの合間をぬいながら、裏山の斜面などを草刈機で刈り取りを続けています。去年は長く太い笹でしたが、去年の下刈りの効果があったのか、背が低いうえに細いため楽に刈り取りができています。
笹が生える裏山斜面の頂上 刈り取り後の裏山斜面頂上
裏山の斜面は、あと二回ほどの下草刈りで終わりそうです。残ったのは、去年一度しか刈り取りできなかった別の山です。例えばセコイアなどの苗を植えた山です。一度しか下草刈りをしていなかったため、いつの間にか笹が伸びていました。
残りの山は谷あり崖ありのため、作業が少々大変ですがのんびりやろうと思います。また、12月以降はしいたけ用の木を伐採しつつ、並行して下刈りもしようと思います。
これから刈り取る笹が、まばらに残る裏山斜面
10月も中旬を過ぎて、我家の裏山ではいろんな野生の木の実が成り始めています。去年まで住んでいた八王子の浅川沿い生えていたクルミ。昨年の1月に種まき して、去年の6月に育てた苗を植え付けしました。1.5mの高さまで成長しましたが、まだクルミは成りません。来年、実ができるでしょうか。
成長が早いクルミ、去年苗を植えて今年は1.5mまで成長
裏山を歩いていて、私が子供の頃に山で食べていた二種類の木を見つけました。しゃしゃんぼとナツハゼです。「しゃしゃんぼ」の実をこの地方で何と言ったか忘れましたが、小さな甘酸っぱい実です。しかし、日照不足でしょうか、実が数粒しか成っていませんでした。
まだ口が開かないアケビの実 実が数粒成っていたしゃしゃんぼ
しかし、私が子供の頃「ざらめ」と言っていたナツハゼは、たくさん実が成っていました。日本の野生のブルーベリーと言ったところでしょうか。赤黒く熟していた実を、一粒食べてみました。とても酸っぱい懐かしい味が口内に広がりました。このナツハゼ、来年は数株増やしてみようかと思います。ところで、アケビも見つけました。今年も実をぶら下げていますが、まだ口は開いていません。
50年ぶりのナツハゼ、赤黒い成熟果は懐かしい酸っぱい味
一方、食べられるどんぐりであるマテバシイとスダジイの苗を育てています。周防大島で採取したマテバシイと上関で採取したスダジイの実を、植木鉢にまいて発芽させて苗作りをしています。両方共、高さが10cmくらいに育ちました。晩秋に植えつけようと思います。
だいぶ大きくなったマテバシイの苗 まだ小さいスダジイの苗
7月末に種を蒔いた小豆が、もう収穫の時期になりました。緑のさやと茶色のさやが半々位に混ざっていました。茶色のさやはいつでも収穫できます。
小豆に限らず豆類は早く収穫しないと、さやが割れて中の豆がバラバラと落ちてしまいます。小豆は特にさやが割れやすく、乾くとちょっとした刺激でさやが割れることがあります。このため、さやが閉じている早朝に小豆畑に行って小豆を収穫しました。
熟した茶色のさやと、熟さない緑色のさやが混じった小豆
お米は、同時期に一斉に成熟します。しかし、小豆は一斉ではありません。このため、私はだいたい2回に分けて収穫します。全ての実が成熟するのを待っていると、最初に成熟した実はポロポロと割れて豆が落ちしまうことがよくあります。そのままにしておくと、さやが黒くなって自然に割れて実が地上に落ちてしまいます。落ちた豆は収穫できません。
収穫期の茶色のさや まだ成熟していない緑のさや
八王子で小豆を作っていた時は、葉茎ごと収穫して乾燥させていました。そして、干しあがっ頃にクルリ棒を使ってさやから豆を外して収穫していました。ただ、この方法だと全ての豆が成熟するまで待たなければなりません。また、この頃は麦の種まきと時期が重なります。このため、今回は小豆畑でさやを手まぎしてさやを収穫することにしました。11月初めにもう一度同じ小豆畑で手もぎして収穫するつもりです。収穫後に畑に残った茎殻は抜いて乾燥して、燃やすつもりです。
小豆畑に座り、手もぎで小豆のさやを収穫中
なお、収穫したさやはシートに広げて乾燥します。十分乾燥した後にさやをたたいて、中の豆をたたき出します。そして、網や唐箕を使って小豆だけを収穫します。1つだけさやを割ってみました。すると、綺麗な小豆色をした豆が並んでいました。なお、八王子に住んでいた時は、黒色の小豆も作っていました。
冬には小豆を使ってあんこか羊羹を作ってみたいと思います。しかしながら、台風27号の影響で天気が良くありません。今回収穫した小豆を天日乾燥させるのは2,3日後になりそうです。
箕いっぱいに収穫した小豆のさや さやを割ってみると、小豆が並ぶ
先日種をまいた大根,壬生菜,広島菜などが、だいぶ育ってきました。これからの10月後半以降、種まきできる野菜は種類が限られてきます。私は10月後半から11月にかけて、主に小松菜とホウレンソウの種をまきます。
大豆と小豆の畝の北側に、小松菜とホウレンソウの畝を作る
小松菜、ホウレンソウ共に寒さに強く、冬でも少し育つからです。今回、その小松菜とホウレンソウの種まきをしました。早春までの間、絶え間なく収穫できるように、今後11月末にかけて時期を分けながら種まきします。ちなみに、11月末に種まきしたホウレンソウは3月初めに収穫できます。
耕耘後、種まき用の畝を作る 種をまいた小松菜の種袋
種を指で挟んで揉むようにして畝にばらまきました。一週間位すると、次々に芽が出てくるはずです。発芽後は、雑草を取りながら間引きしようと思います。野菜が少なくなる真冬、我家はこの小松菜,ホウレンソウ,他にキャベツなどに頼ります。
種まき後、畝を平クワでとんとんと平らにする
先日種をまいた秋冬野菜は、今のところ順調に成長しています。ただ、白菜を育てている寒冷紗内にどうしてか害虫が入ったようで、葉に少し食われた穴が空いています。それほど大きな穴ではないため、予定通り12月か1月には収穫できそうです。大根は、一度間引いた後だいぶ大きくなりました。来週頃に最後の間引きをして12月に収穫する予定です。タマネギは、少し肥料を与えすぎたのかピンと立たないで垂れています。しかし、これも予定通り苗を収穫して移植できそうです。
最後の間引きを待つ大根 少し垂れたタマネギの苗
福島県会津から帰った次の日、多摩市にある旧多摩聖蹟記念館に行ってみました。この記念館には、幕末期の各藩の資料、例えば西郷隆盛や武市半平太などの書があります。幕末好きの息子のため、今回連れて行きました。家内も一緒に行きたいとのことでしたので、3人で旧多摩聖蹟記念館に行きました。
この後、3人で都立桜ヶ丘公園内の旧多摩聖蹟記念館を散策
都立桜ヶ丘公園内の駐車場、ラッキーなことに一台分空いていました。その駐車場から歩いてすぐの所に旧多摩聖蹟記念館があります。この建物は、土佐藩出身の田中光顕によって立てられました。彼は最初武市半平太のいる土佐勤王党にいましたが、弾圧後に長州藩に逃れて高杉晋作の弟子になった稀有な経歴の持ち主です。明治後、幕末の資料を集めてこの旧多摩聖蹟記念館に収めたとのことです。
旧多摩聖蹟記念館の正面入口 入口から外側の建物を見て
西郷隆盛などの書が展示されていましたが、武市半平太の資料は展示されていませんでした。旧多摩聖蹟記念館の方に聞くと、定期的に資料を交代しているそうです。残念ながら今回は、武市半平太の書を見ることはできませんでした。
旧多摩聖蹟記念館を見学し終わると、私が去年まで勤めていた病院のそばを通って聖蹟桜ヶ丘駅に行きました。息子は明日から仕事です。会社がある大阪に帰るため、聖蹟桜ヶ丘駅前で息子を降ろしました。
その後、家内と二人で八王子堀之内に向かい、昼食(つけ麺)をとりました。そして、水道ホースなどの備品を購入して八王子の我家に帰りました。私はその次の日、新幹線で山口県の我家に帰りました。同じ日、E君はシンガポール帰りました。娘はその数日後にシンガポールに帰ります。
不思議な威厳が木々の間に溶け込む、旧多摩聖蹟記念館
旅館での朝食はバイキング方式でした。朝7時からの朝食でしたが、混むことを予想して5分位前にホールに行きました。我が家族は2番目でした。このため、ほとんど人が来ていなくて、料理を選び放題でした。それでも次第に、お客が増えて混み始めました。私と家内は早々と旅館の浴衣から着替えましたが、若者3人はもう一度朝風呂に入るようで、浴衣のままの朝食でした。
私が選んだ朝食の数々 だんだん混み始めたホールにて
9時過ぎに旅館を出ました。昨日とうって変って、とても寒い朝でした。旅館の前で勢ぞろいして写真を取り、バスターミナルまで歩きました。バスターミナルに到着すると、しばらくして観光用のボンネットバスが来ました。バスに乗り、すぐ近くの会津武家屋敷に行きました。
旅館「新滝」前の橋で写真を撮影、少し肌寒い
武家屋敷に着くころに空が晴れ上がってきました。この武家屋敷は会津建築を主体にした建物や博物館を集めた場所です。武家屋敷そのものは、会津武士西郷頼母宅を移築したか再現したものです。戊申戦争時の悲劇の様子が、蝋人形で再現されていました。会津若松市内全体も、やはり戊辰戦争時の悲劇の地です。白虎隊に代表されるような悲劇の地がたくさんありました。150年以上前の出来事ではありますが、なんとなく重苦しく感じます。
何度も乗車した観光用ボンネットバス 会津らしい茅葺き屋根の民家
幕末、長州藩と会津藩は対局の位置にありました。最初に朝敵の汚名を着た長州藩、そしていつの間にか、今度は会津藩が朝敵になってしまいました。悪いことは何もしていなはずなのに、会津藩は最後には賊軍になってしまいました。さぞかし無念だったことだろうと思います。
一方の長州藩もひとつ間違えば、第二次長州征伐で藩をつぶされるところでした。両藩共に、信じる道は違えども必死につき進みました。筋を通し続けた両藩共に、私は何故かとても共感を覚えます。
私は山口県に住んでいますが、かつてこの東北の地まで歩いてきて戦ったのかと思いました。山口県の我家近くに麻郷護国神社がありますが、そこには鳥羽伏見,奥羽,そして東北を転戦して亡くなった方々の碑があります。
武家屋敷出口近くの天満宮 会津鶴ヶ城の見事な掘と城壁
武家屋敷を出る頃には、観光客が増えて行列になるほどでした。秋晴れの3連休でしたので、混んだのでしょう。座る場所を確保するにも苦労しました。
次に、メインの会津鶴ヶ城に行きました。観光バスが何台も駐車しており、人で混み合っていました。堀に囲まれた城壁を見ましたが、久しぶりに見事な石垣を見ました。この堀や石垣を作るのは、大変な大工事だったと思います。
秋空に映える、石垣,松,そして赤瓦の白い天守閣の会津鶴ヶ城
お城に着くと、たくさんの観光客で押し合いへし合いでした。それでも城内を見学する行列になんとか並ぶことができました。今年は会津を中心にしたテレビドラマの影響で、会津若松市への旅行客は多いようです。混雑のため途中、城内で家内と息子にはぐれてしまいました。
盆地にあるためか、天守閣から外を見ると会津を取り囲む山々が見えました。この山々を見てからテレビドラマを見ると良かったかもと思いました。どの峠で敵から会津を守るかなどの話が理解できるからです。
会津鶴ヶ城から南方面を見て 会津鶴ヶ城から東方面を眺めて
天守閣の一番上は眺めが最高でしたが、人が次々に押し寄せるのでゆっくりと景色を堪能できませんでした。さらに、風が強くて寒かったことです。数年後、落ち着いた頃にもう一度このお城を訪れてみたいと思います。久しぶりに良いお城を見ました。
風が強い、天守閣最上階 人が少ない、堀の西側を散策
鶴ヶ城を見学し終わると、お城の北口に出ました。そして、西側の人通りが少ない道に出ました。私と家内は大回りして半時計回りに、息子,娘,そしてE君は時計周りに散策しました。そして、お城をぐるりと回って合流しました。
歩き疲れたので、昼食にしようと思いました。ところが、どのレストランも観光会社に予約されていて入ることすらできません。仕方がないので、お城の北口付近のお土産売り兼任の小さな食堂に入りました。混雑していたためか、あまり美味しく感じませんでしたが仕方ありません。
続いて、バスに乗って白虎隊で有名な飯盛山に向かいました。
飯盛山中腹から会津若松市内を展望
飯盛山へは階段を歩いて登らなければなりません。私は長い石階段を山の中腹まで登りました。私を除く4人は、山の麓にある白虎隊記念館を見学しました。私は石段の最上段で息が切れたので、その以上登るのは諦めました。もと来た石段を下り、白虎隊記念館に入りました。その記念館には、白虎隊だけでなく、長州藩、薩摩藩などの資料も展示されていました。
ところで、山口県の萩市にも戊辰戦争に関わる資料がありますが、会津戦争や白虎隊など奥羽列藩同盟に関わる資料が少ないことです。いかにして明治維新を成し遂げたかの、一方的な資料しかないように思います。このため今回、会津に来て東北側の歴史をより知ることができて良かったと思います。
会津土産として菓子「八重の夢」を購入 会津若松駅外の赤べこ
白虎隊記念会を出ると、観光用ボンネットパスにのりました。そして、会津若松駅少し前で降りて、会津土産のお菓子を購入しました。私は生チョコクッキー「八重の夢」を3箱購入しました。お土産を購入し終わると、周りを散策しながら会津若松駅に行きました。
会津若松駅から郡山駅まで特急に乗り、郡山駅から東京まで新幹線の乗りました。東京駅で夕食をとろうと思いましたが、どこも満員でした。そのため、中央特快で一路八王子駅に行きました。そして、駅ビルで夕食を済ませた後にタクシーで我家に向かいました。
私は、ふだん山口県で母親を単身介護しています。そのため、久しぶりに家族が集まったとても楽しい会津旅行でした。
会津若松駅から郡山駅に向かう途中で
12日、家族で福島県の会津を一泊旅行しました。2年ぶりの家族旅行です。2年前は、軽井沢を4人で旅行しましたが、今回は娘の彼氏E君が加わって5人で旅行しました。2年前息子のポカで新幹線に乗り遅れてしまい慌てましたが、今回はちゃんと新幹線や乗り継ぎ電車に乗れました。なお、息子は幕末史に凝っており、今回和服を着ての参加です。
私は去年から山口県で母親を単身介護をしてるため、久しぶりに家族に逢っての旅行でした。私が東北を旅行したのは、12年前にバイクでツーリングして以来のことです。
東北新幹線で、左より娘,E君,家内,息子
ところで、東北新幹線内で息子たちが買ってきた駅弁を食べました。私が食べたのは、牛の顔をした駅弁でした。私が子供の頃に牛の世話をしていた事を息子が知っていて、面白がって購入したようです。見かけは「なんだかなあ?」の駅弁でしたが、とても美味しかったです。この駅弁の蓋は、牛のお面として使えそうです。そうこうしているうちに郡山に着いて、会津若松行きの電車に乗り換えました。
牛の形をした駅弁、とても美味 ようやく会津若松駅に到着
会津若松駅に着くと、ハイカラさん・あかべえと呼ばれる観光用ボンネットバスに乗りました。そして七日駅で降り、日光街道沿いを散策しました。昼食はカレーソバを食べました。なかなか美味しかったです。
食後は会津新撰組記念館を訪れました。以前私が住んでいた八王子の近くは新撰組を創設した近藤勇や土方歳三などの故郷です。日野周辺の彼らの足取りを散策したことがあります。そのため、じっくりと新撰組記念館を見学しました。私は山口県の出身ですが、八王子に永らく住んでいた関係で新撰組にも興味があります。対極の位置にあった長州藩と新撰組、感慨深く資料を見学しました。
昼食はカレーソバ 会津新撰組記念館の資料
会津新撰組資料館を出ると、宿泊する旅館がある東山温泉街にバスで行きました。終点が温泉街なのですが、手前のバス停で降りました。そして、温泉街までの道を散策しながら目的の旅館に向かいました。温泉街はやや寂れているようで、壊れたホテルや旅館がいくつかありました。屋根が壊れたまま放置されている家もありました。雪で屋根が押しつぶされたそうです。
乗ったボンネットバスが折り返している道を、旅館まで散策
この温泉街は、幕末に新撰組の土方歳三が湯治した場所でもあるそうです。また、明治時代に画家の竹下夢二が何度も湯治しにきたそうです。30分位緩い坂道を川沿いに進むと、宿泊する旅館「新滝」に着きました。
宿泊する旅館「新滝」に到着 母親に和服のたたみ方を教わる息子
玄関に入って手続きが終わると、部屋に通されました。夕食は7時とのことですので、少し時間がありました。全員旅館の浴衣に着替えました。そして、お茶を飲みながらゆったりとした時間を過ごしました。なお、低床ベッド二つがある部屋、広い和室、テーブルとイスがあり眺めが良い部屋が一つ、化粧室やお風呂がありました。外を見ると、下を川が流れており、その対岸に山が迫っていました。
夕食までの間、広い和室でくつろぐ私の家族
あれこれ、一時間ほど部屋でくつろいでいると夕食の時間です。一階の和室ホールに行くと夕食が用意されたテーブルに招かれました。焼肉をベースにした、美味しそうな和食です。どれから食べようか迷いましたが、私はまず味噌汁からいただきました。
ご馳走を前に、娘とE君 美味しそうな夕食、私と家内
一つ一つの料理を見ると量が少ないのですが、料理の数が多いためすぐにお腹がいっぱいになりました。見て楽しんで,味わって楽しんで,そして食感を楽しんだ夕食でした。部屋に戻ると男3人でお風呂に行きました。そして、体を洗った後に体を温めて部屋に戻りました。その後、卓球を楽しんだり家族みんなで談笑したりしました。
見て,味わって,そして食感を楽しんだ夕食
11日、4人で秋葉原や御徒町を散策しました。散策したのは、私,息子,娘,そして娘の彼氏のE君です。私は秋葉原歴40年ですので、いろいろな場所を案内しました。最初、普通の喫茶店に行って休憩しました。喫茶店を出ると、近くにあったヘッドホンだけを扱う専門店に行きました。息子がヘッドホンを視聴したいとのことでしたので。
秋晴れの秋葉原、秋空と秋葉原街が映える
次に、メイド喫茶に行きました。入ったのはメイド喫茶の老舗@home-cafeです。このメイド喫茶のサービスが、全国のあるいは世界のメイド喫茶サービスの原点だと思います。秋葉原の街角にはたくさんのメイドさんがお客を招いています。今回入った店は老舗で有名なためか、メイドさんが街を走り回らなくてもお客は入ってくるようです。英語や中国語がOKなメイドさんもいるとのことで、メイド喫茶も国際的になったものです。
左から、私,メイドさん,そして娘 昼食をとった、「肉の万世」ビル
私はメイド喫茶の愛込めやチェキ撮影などの萌えサービスは照れくさくてたまりません。しかし、若い3人は盛り上がっていました。私はとても一人ではこの類の喫茶店には入れません。ただし、話のネタとしてや若い人の動向を知る上で、一度は入っておく意味はあると思います。
メイド喫茶を出ると、今度は私の時間です。電子部品を買うために3人を連れて歩きました。ある電子部品店に着くと、電界効果トランジスタ(FET)やICなどの電子部品を購入しました。購入が終わると、昼食をとるため万世橋脇にある「肉の万世」ビルに向かいました。なお、時間が迫っていたためフィギュアのお店に行きませんでした。
「肉の万世」ビルで、秋葉原ビル街を正面に見ながら肉料理
2月に万世ビルで娘と昼食をとりました。その時、秋葉原を一望できるなど印象が良かったため、今回も同じビルで昼食をとることにしました。私はひれ肉料理を食べました。今回も、秋晴れで秋葉原街が一望できました。
昼食を食べ終わると、秋葉原から御徒町に向かって歩きました。去年の夏にも家内と同じコースを歩いて御徒町に向かいました。御徒町にある叔父と従兄弟のお店「中田商店」に行くためです。なお、途中でAKB48劇場を眺めたり、電気店に寄りハードディスクを購入しました。3TBで1.078万円でした。安くなったものです。
肉料理を食べながら秋葉原街を一望 AKB劇場横を散策
前回娘と中田商店に行った時は、入れ違いで叔父に逢えませんでした。今回は、事前に叔父に電話を入れておいたので逢えました。叔父の座っている席のそばに古い広島駅の写真が貼ってありました。この中田商店を始める前の昭和20年代前半、苦労した頃の写真とのことでした。私の父親も苦労しましたが、叔父も苦労したそうです。
叔父から、モデルガンを日本で初めて作った事,軍隊や軍服の歴史を記した分厚い書を作った事,戦争資料館を作ったことなどの話をいろいろ聞きました。さらに、叔父たちが子供の頃、兄弟が並んで食事をしたことなどの話を聞きました。当時のことを、もっと聞いてみたいと思いました。
今や、兄弟では唯一の生き残りです。健康はすぐれないようですが、私の唯一の叔父ですのでいつまでも長生きして欲しいと思います。
私の叔父からいろいろ教わっている息子,娘,E君
叔父から、中田商店が集英社の男性ファッション誌Men's NON-NO 11月号に紹介されているとの話を聞きました。さっそくその雑誌を購入しました。すると、「中田商店の歩き方」との題目で掲載されていました。軍事関連の映画作りには中田商店が扱う各国の軍服などが欠かせないとのこと。叔父は、「中田商店」をミリタリーショップブランドとして確立しました。そして、従弟達が立派に継いでいます。
御徒町のミリタリーショップ「中田商店」 Men's NON-NO 11月号内
中田商店を出ると従兄弟に挨拶して八王子の我家に帰りました。秋葉原や御徒町など、歩き疲れたためお寿司を夕食としてとりました。メイド喫茶の話などで盛り上がり、明日から出かける福島県会津若松についても談笑しました。
そして、息子が彼女を振った話なども聞きました。私もかつて女性を泣かせて悲しい思いをさせたことがあるため、その彼女の気持ちがとても良く分かります。他人事とは言え、その女性がとても気の毒になりました。年齢を重ねるにつれ、人の気持ちが痛いほど分かるようになるのは何故でしょう。
お寿司を食べている、右から、私,家内,息子,娘,E君
里山ボランティアについて、東京大学大学院社会文化環境学の方からインタビューを受けました。この八王子堀之内地区で活動していたユギファーマーズクラブについて、発展と衰退の歴史について少しばかりお話をしました。
このクラブは発足して30年以上経つ「農家と都市住民を結びつけるボランティア」の老舗のような団体でした。今のグリーンツーリズムのはしりでしょうか。春はフェスティバルに出店したり,田植え正月(早苗饗:さなぶり)をしたり,秋は収穫祭を開催したり,活動成果や目標を本として出版したりするなど、一時期はテレビや新聞の取材を受けるほど盛んでした。会員も200人以上いました。傘下に、染色,織物,養蚕,炭焼き,バードウォッチング,田畑作り,酪農応援などの部会がありました。私は主に、田畑の部会で学生の米作り体験などを企画しました。
八王子に住んでいた頃に耕していた畑の脇を、綺麗に草刈り
しかしながら、一軒の農家しか活動に参加しなかったことや、会員の考え方の違いがだんだん表面化して烏合の衆化してきました。また、せっかく収穫した作物を腐らせてしまう会員がいたり、連れてきた子供が畑を踏み荒らしたりするケースがあるなど、農家と市民の考え方の違いなどが顕著になりました。
私の考えでは、会則が無いことによる自由な雰囲気は良かったのですが、農家の方に挨拶しなかったり、知らずに畑を踏み荒らすなど常識的ルールが守れない会員がいました。そして、農家がだんだん公園化してしまいました。少なくとも新会員には農家と付き合うための最低限の教育は必要と思いました。そして、それらの問題を上層部が知らないことでした。現場を知らない社長のようなものでしょうか。あまりに性善説に頼り過ぎていたように思いました。そして10年位前にリーダーが亡くなったことで、活動低下に拍車がかかりました。そして、脱会者が出たり傘下の部会が離れていくなど、だんだん衰退していきました。
しかし、学んだり,脱退,独立していった方々はそれぞれが目指す里山ボランティアなどの団体やNPOを作るなど、ある意味ユギファーマーズクラブの精神は各地に継承されていると思います。そして、いくつかの農地が緑地保全対象地となったことも成果の一つだと思います。
田んぼ脇を草刈り 愛用していた耕運機で耕耘
最近グリーンツーリズムが流行っており、一見成功しているように見えます。しかし、10年20年の永い期間を見ないと本当に成功したかどうかは判定できません。30年後も根付いていて、初めてその活動が成功していると言えます。ユギファーマーズクラブの発展と衰退はそれを暗示しています。
ユギファーマーズクラブ本体は今、実質的に解散の状態です。その活動の光と影について自分なりの考えをインタビューで説明しました。インタビューが終わったのは夕方5時前だったでしょうか、あたりが暗くなり始めた頃でした。少々、話し疲れました。
次の日は、畑や田んぼの草刈りなどを少ししました。山口県に引っ越しするまで耕していた田畑です。今この畑は、ユギファーマーズクラブから独立したユギ里山保全チームが管理しています。草刈りを少しして耕運機で耕していると、にわかに雨が降ってきました。このため作業が中途半端になってしまいましたが、作業を中断して我家に帰りました。
途中まで耕した畑、雨が降ってきたため作業を中断
7日から15日まで、久しぶりに東京に行ってきました。その間、友達に合ったり,ウォーキングしたり,大学のインタビューを受けたり,買い物をしたり,草刈りしたり,家族と福島の会津を旅行したりしました。9日間毎日動き回ったため、山口県に帰った時は少々疲れました。
ところで、東京に行く日(7日)の朝のことです。我家から田布施駅に歩いて行く途中、霧のような雨が降っていました。歩きながらふと田布施川上流を見ると、綺麗な虹が出ていました。赤から紫までの7色すべてが見えました。この虹を見ながら田布施駅まで歩きました。
田布施川上流に出現した、とてもきれいな虹
次の日、町田市に行きました。町田市には、私が日立などで仕事をしつつ3年間夜間に通った介護福祉士の資格を取得した専門学校があります。同級生と、その専門学校のミニ同窓会を来年3月頃にしようと決めました。来年のミニ同窓会が楽しみです。女の子達は結婚しているようなので、子連れOKの同窓会にしようかとも考えています。
4ヶ月ぶりの東京八王子の我家 コスモスの咲く道を歩いて町田市に
その後一人で、思い出の町田市内を散策しました。繁華街を歩いた後、卒業した町田福祉専門学校を何年ぶりかで訪れました。続いて、町田市から八王子の我家までウォーキングしました。町田から北に向かう鎌倉街道をひたすら歩き続けました。
懐かしの町田福祉専門学校 鎌倉街道沿いの菅原神社
町田福祉専門学校を過ぎて、町田高校の前を通り、鎌倉街道沿いにある菅原神社に寄ってみました。石階段を登りきると、神社の新しい拝殿がありました。15分位菅原神社を見学すると、再び鎌倉街道に戻ってどんどん歩きました。
1時間位歩くと、町田リス園やその向かいにある薬師池公園に着きました。薬師池公園の中をぐるりと回って散策し、5分位ベンチに座って休みました。
静かな薬師池公園、池を見ながらベンチで少し休憩
薬師池公園北側にハス池があります。秋なので、花は咲いておらずハスの葉は枯れかかっていました。葉が完全に枯れた冬に、レンコンを収穫するようです。ハス池から鎌倉街道に戻ると、再びもくもくと歩きました。
しばらく歩くと、綾部原トンネルを抜けました。このトンネルは、私が専門学校に通っている時に完成しました。このトンネルが完成してからは、職場から専門学校への通学がずいぶんと楽になりました。
薬師池公園北隣りのハス池 通学中に通った綾部原トンネル
町田市から4時間位歩いたでしょうか、午後4時頃にようやく京王線の多摩センター駅にたどり着きました。せっかく多摩センターに来たので、駅近くにある埋蔵物文化センターを見学しました。古代の遺跡を見たり、野外に復元された古代の住居を見学しました。私がボーイスカウト指導者だった頃に、子供達をこの文化センターによく連れてきました。
歩き疲れたので、多摩センターから隣りの堀之内までは電車に乗りました。そして、堀之内駅から再び歩いて八王子の我家まで行きました。トータル5時間位歩いたので、15km位は歩いたと思います。我家に着くと少し寝ました。
乞田川沿いに多摩センター駅へ 復元された古代の住居