The Last ward from Southen Cross to my future

目の前にある林檎は本当に林檎なんだろうか。その林檎は腐っているから林檎だって気づかないだけかもしれない。

ナショナリズムとパトリオットリズムの違いがわからないメディアは扇動する

2014-02-25 21:26:26 | Weblog
愛国心と言えば、ナショナリズムしかないと考えているのがメディア。しかし、実際には自国を守るという愛国心を表すパトリオットリズムがある。ミサイルでもパトリオットという名前がある。

現代の日本人が意識しているのはナショナリズムではなく、自国を国民自らが守ろうとするパトリオットリズムのはずが、メディアや怪しい有識者による扇動でナショナリズムに変換されている。政治も同じでナショナリズムというよりも視野を世界としたうえでの平和維持を意識した上でのパトリオットリズム色のように自分は感じる。もちろん、武力衝突はない方がいい。しかし、相手が武器を持って、自国民への攻撃となれば、話は別。強盗が武器を持ってあなたの家族へ危害を加えようとしたら、それを黙って「襲ってください。」と言うのだろうか。少なくてもど強盗に侵入されないようなセキュリテイーを施し、かつ事件発生jいには速やかに警察に連絡できるような仕組を要求するのが一般的な感覚だと自分は考える。

レイシストというのも同じだ。ある国が団体組織を作り、組織的に彼らが有利になるような法的改正や待遇をデモという名前を借りた恫喝がまかり通った事実がある。一度だけではなく、度重なる彼らの行動を黙認してきたのも、反論すればストーカーや暴力団並の嫌がらせを組織的にやる恐怖があるから、沈黙してきた。しかし、彼らはこの成功率の高さから、戦後、日本国内で多くの恫喝を実施して、利を手にしてきた。どちらが人種差別なのか、考えて欲しい。

日本の歴史からすれば、異人が来日してもすべての異人を抹消したのではなく、退去させた。つまり殺すという選択ではなく、追い出すという平和的解決を好んだ。時の政府の利益として、異文化を取り入れるために異人を特別待遇で迎えた事実もある。人種差別というのなら、異文化を取り入れ、かつ開国という手段の選択はなかったはず。古来から多種多様な文化が海を越えてやってくきて、それを独自発展させたのが現代の日本がある姿だ。言語も同じで近隣諸国以外に遠い外国の言葉まで日本語化している。音楽、芸能をはじめ、技術や科学とほぼすべての分野が他国からの価値観を取り入れ、日本的に加工してきている。もし、自らの異なる価値観を拒否するのなら、こういった発展を長期に渡って継続するのは難しい。近隣諸国で長期間、竹や鉄のカーテンで他国との交流を遮断してきた国もある。しかし、カーテンを隙間ほど開けただけで、異文化価値観が流れ込み、独裁的な社会は崩壊した。

1969年日本沈没で小松左京氏が記している例がある。一国に大量の移民が来れば、ひとつの独立した地域ができて、国が壊れる。まさに現代世界が抱える移民問題がこれだ。言語や習慣、価値観が違う移民は、大きなストレスを抱えて、移民先の国民との共存共栄ができずに、彼らだけの言語や習慣、価値観のコロニーを形成する。これが既存の国民との摩擦の原因とひとつとなる。また、経済活動も十分にできないため、彼らの生活を支えるための税金投入が増加し、既存の国民が社会保障を受けにくくなり、不満も増加する。税金を上げれば、双方の不満はますます増加し、経済活動にも支障をきたす。これが革命の引き金にもなりえる。

現在、既存の価値観による政治的、社会的システムも変化を求め、内乱まで発展する国がいくつかある。彼らはナショナリストなんだろうか。否、彼らは自らの価値観による自己防衛であるパトリオットリズムだと自分は思う。これは人間が社会を作る上で、当たり前の行動だと思う。なにせ、進む方向が違うのだから、簡単に妥協はでいない。しかし、武力で解決しても、また、反対派が武力で政府を倒すというループがいつまでも続くことになる。話し合いとは、以下に双方の妥協点を探し、双方の利益を最大にできるのか、という点だろう。しかし、貿易交渉のように、それぞれが立ち場として、国益を背負うとなれば、話し合いも簡単ではない。それこそ、長期に渡る改正を視野に入れて交渉せざる得ない。
ここで勝つためには、長期ビジョンを実施でいるだけの綿密な計画を持っているかどうか、が分かれ目になる。日本国の問題は、行動も決断も遅い。反対派も妥協点に対して、日本国国益を基準にして話しができるのかと言えば、そうでもない。だから、移民政策も貿易政策も方向性が決まらず、かつ失敗という兆しが出てきたら、即刻変更もできない。憲法改正も同じで、議論すらしないで法治した結果、自国領土まで近隣諸国に侵略される始末。一国独立というのなら、国民すべてが自国のためにどういった憲法がいいのか、有識者とか特定の人以外も含めて議論するべきだろう。しかし、時間をかけず、暫定的に実施し、不具合があれば即改正できる法が好ましい。

他国への侵略を禁止する。これが平和維持とどう矛盾するのか。同盟国とは一心同体なのか、特定部分のみ共存するのか。しかし、法律が中立的な立場を持たない国との間では、こういった説明は理解してもらえないだろう。何故なら、自分たちへの利益こそが、勝利であり、利益が減るのは勝利ではないからだ。これでは妥協点の模索などできるはずもない。ゆえに、未だに日本国政府とのトップ会談すら拒否せざる得ない。もし、妥協点の模索が可能なら、とっくに双方で話し合いは進んでいるはず。

水を飲まない馬にどう水を飲ませるのか、塩を与えて水を欲するように仕向けるしかない。説得というが、動物に人間の言葉や思考は通じない。コミュニケーション障害が社会において、大きな障害と言われるんはまさにここだ。言葉による意思の表明、相手の意思の理解ができない。これでは話し合いによる妥協点の模索などできるはずもない。もっと日本国政府はイメージ戦略を学び、実施するべきだと自分は思う。世界は広い。経済成長継続の国や長期視野を持って外交、貿易をしていくことも必要だろう。70年たっても過去に拘るような国がすくなくても二国存在する。しかし、これらの国は100年後、つまり後の30年後も同じような価値観を持っていくのだろうか、と考えて欲しい。
民主主義のように政権交代ができない体制、根底にある価値観が変化しにくい体制だからこそ、従来の価値観からの方向を変えることは難しいのだろう。ならば、日本はどうするのか。

人は水。だから簡単に低い場所に流れていく。流れを変えるには、人の心を変えていくしかない。
誰もが不満を持ったとしても、安全な安心した社会を望まないとは考えにくい。むしろ、日本のように長期間の平和を維持するような社会の方が少ない。まさに、いけすの外を知らない状態が長期に継続した弊害も大きい。打たれ弱い、という原因がまさにこれだ。競争原理は地上から亡くならない。
生きること自体が競争なのだから、これを否定していては別な集団に殲滅される。重要なのは、集団としての社会をどう安定して維持できるのか。社会という集団を維持するためには、共通の価値観がないメンバーの存在が重要になる。方向性が違う場合、こういった反対論者が増加すれば、他国のように別れた独立的論理で別な反対集団ができあがる。そうなれば、方向の違いよる戦いが始まる。
これを主流が力による圧制をすれば、ますます反対論者の集団は活気を得て、活動を始めるため、話合いは遠のく。どこもかしこも、負のループに落ち込みつつある。

本当に共通の価値観は存在しないのだろうか。





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