反省とは何のために行うのか。結果が思わしくないから、手順を含む行動を見直し、よい結果を得るためだ。さて、歴史において反省とは何だろうか。例えば、戦争における反省となると相手国への被害を与えたというのは、成果となるのか。否。そもそも争うという判断をした場合、その原因が必ずある。まさか集団や国家レベルが快楽殺人の集団という訳ではない。どんなに残虐な手順で殺そうが、優しく殺そうが、殺人は殺人。そこまでして手に入れる利益とは何なのか。こういった質問を戦争は悪、平和は善としか判断できない人に問いたい。
人間という動物は思考をし、この思考によって行動原理が決まってくる。感情のみで行動する人もいるが、こういった人は、社会というルールによって統制された集団の中では生きていけない。だから孤独か、志を同じにする人が集まって生きるか。イデオロギーとはある意味、行動を正当化するために作られた思考でしかない。だからそこには行動による結果を得るためには、手段すら選ばない。つまり、即効性を望むか、遅効性を望むのか。権力を最大に使って武力により民を制圧すれば、結果を早く得られる。だが、民を説得し、納得させるとなると時間もかかるし、従わない民も出てくる。どちらが一般民が安心して生活していくためにはいいのだろうか。
歴史は人を惹きつける。どうしてなんだろうか。たぶん、未来を見通すとなれば、実現性の確率が高いとなれば魅力もある。現代のように混沌としていると、来年、3年先ですら不透明だ。これが不安として心の澱として人々の中に残されている。味方によっては人類の歴史なんて殺し合いでしかない。戦争を反対と訴える人たちこそ、世界の歴史を客観的に見てみるといい。そして、その戦争の原因もだ。大半が復讐とか、恨みとかであって、自国が生き残るため、というのは案外少ない。もっとも長く対立して戦争を継続してた中東でさえ、結局は宗教の対立ではなく、宗教のおける内部争いだ。宗教によって人は生きるというが、ならば宗教の内部争いで人が死ぬのはどんな意味があるのか。これはキリスト教、イスラム教、仏教と3代宗教であってもほぼ同じ。自国の神道ですらいろいろな団体があり、争う。歴史を直視すればするほど、権力者と同じように力を持つ宗教による戦争が多いことに気づく。だから宗教からみな人は離れていく。これは政治も同じ。
日本人は、首相が発表する70周年記念談話がどういった内容かをとても気にしている。何故なら過去のような自虐的内容なら日本の未来はまだまだ周辺国から叩かれるからだ。日本人として生まれたことは囚人と同じと嘆いた人もいた。本当にそうだろうか。こういった思考が日本人を差別的とすると感じる。そもそも過去は過去と日本人すべてが認識するなら周辺国からあれこれ言われても気にならない。せいぜい、目と耳を塞ぎ、そちら方向と関わらなければいい。ビジネスなら、仮面をかぶって表面では揉みてして頭を下げても利益を得られればいい。誇りだとかでは飯は食えない。謝罪とか反省とかも、そこに何らかの利益を得るためにするものであり、どうでもいいのなら何もしない。人間性だとか、品格というのなら、相手が人間性もあり、品格もある場合のみに通用する理屈だと知って頂きたい。動物に謝罪しようが、通用しないのと同じ。心から謝罪という表現が間違いで、そんなものは一時的なもので、謝罪という行動によって得られる利益がなければ、誰もやらない。ならばどうして日本人は謝罪が好きなんだろうか。日本人社会は謝罪することでお互いの関係を円満に維持する。外国に対しても、謝罪することで相手からの苦情や文句への対応をしていると公に示している。文句をいう側が嘘だろうが、事実だろうが、そんなものは関係者以外にとってはどうでもよい。ならば、何が興味を引くのか。日本という国の行動によって、日本国の行動原理が何かを見極めたいだけだ。日本も正義という名の下で誰かに責任をすべて負わせ、その人だけを叩くことで、みな自らが正義と思えるのかもしれないからだ。自分はこういった行動こそ、姑息で醜いと感じる。誰かに責任を負わせたところで、また日本を導くリーダが謝れば戦争は勃発する。軍があるとか、軍が戦争に対応できるとかをどんなに法律で拘束したところで、そんなものは拘束とならない。誰かの依存したり、誰かを犠牲にして、それぞれはいったいどこに立っているのだろうか。
自虐することで日本国と日本国民が得られる利益と何だろうか。周辺国と円満に国交できると日本国および日本国民に利益があるのか。誇りと名誉を失っても、自虐した方が何かを得られるのか。敗戦の日になると毎回自問する。未だに答えはない。だが、一つ言えるのは、過去の謝罪とは反省は、相手が喜ぶのではなく、謝罪や反省する本人にとっての快楽でしかない、と自分は思ってる。過去は戻らないし、過去に失ったものは戻らない。
謝罪ぐらいでは人の心も救われないし、変わらない。だから「赦し」の宗教が支持される。復讐すれば何か偉得るのか。たぶん、達成感は得られるのだろうが、復讐という行動はポジティブではないため、こころのどこかに何か残る。これが赦しだと、赦した自分のこころはなんて広く大きいのかと、ある意味自己満足を得られる。
こうなると恨み、憎しみなどの感情がふっとぶ効果は確かにある。謝罪も同じで。いった本人の後ろめたい気持ちがふっとぶ。このループを日本政府は続けることをやめよう、と判断しただけだ。だが、天皇という憲法による国民の象徴は違う。世界の要人と会うたびに謝罪とも思える言葉を使う。原稿の執筆者かもしれないが、本人だって意思もあるのだから否定しないのなら同じ立場だと思える。
天皇が世界の王族と違うのは、自国の責任を負わないの天皇というだけだろうが、責任を取れないのだから立場を自覚してもらいたいものだ。天皇という存在は何のために維持しているのか。たぶん、こういった議論も今後は出てくると思う。皇族という身分が存在していること自体に違和感もある。ここにかかる税金はどれぐらいかと考えると、存続させるのは直系のみでいい。少なくても神官としての職すら果たしてないような子供や親族は存在している価値も意味もないと思うのだが。英国のように王位継承権があっても働いているのに、日本は働かせることもしない。海外から言われるのは、日本にニートが多いのは、皇位継承者が働かないでいるから真似しているとまで揶揄される。それこそ公務によってのインシデント制で生活予算をもらえる、という方法もあっていいだろう。国体うんぬんと支持する人たちに問いたいのは、他国の王族のように経済自立する努力を皇族がしない点をどう感じるのか。まあ、そろそろ身分制度に依存するシステムをやめて、直系以外は一般民として労働してもらう。女性や老人も働く時代なのだから、皇族というだけで働かないのは如何なものか。
過去に戦争で亡くなった外国人も自国民もすべての人へお詫びというのなら、それは日本人も世界も受け入れるだろう。戦争を起こした責任はトップだけではなく、支持した国民すべてが負う責任だからだ。戦前の日本だって選挙で政治家を選択している。唯一、選択してなかったのは天皇だ。だが、当時者はすでに亡くなっているのだから、詫びなどできるはずもない。その子孫が謝罪するというのは、これまた現代の価値観だと違和感がある。同じく首相もだ。詫びるのなら、戦争による被害者すべてに、戦争という解決先を選択した点とそれを止められなかった国民の代表してだろう。これをもって、これからも戦争を問題解決の手段として選ばないように努めると、言えばいい。攻撃されたら反撃するのた当然で、相手に「攻撃を停止して話し合え」は通じない。同盟国の攻撃は、自国への攻撃と同じと認識するかどうか。本来は国連軍なりが攻撃する前に武力圧力をかけて、攻撃しような国を抑える役目があるはずだが。これが機能しないから、同盟国で連帯を強める。天皇は自国と国民を外国からの武力攻撃より守る気があるかどうか。今年の敗戦日は、日本の未来へ進む道の分岐点になるかもしれない。
人間という動物は思考をし、この思考によって行動原理が決まってくる。感情のみで行動する人もいるが、こういった人は、社会というルールによって統制された集団の中では生きていけない。だから孤独か、志を同じにする人が集まって生きるか。イデオロギーとはある意味、行動を正当化するために作られた思考でしかない。だからそこには行動による結果を得るためには、手段すら選ばない。つまり、即効性を望むか、遅効性を望むのか。権力を最大に使って武力により民を制圧すれば、結果を早く得られる。だが、民を説得し、納得させるとなると時間もかかるし、従わない民も出てくる。どちらが一般民が安心して生活していくためにはいいのだろうか。
歴史は人を惹きつける。どうしてなんだろうか。たぶん、未来を見通すとなれば、実現性の確率が高いとなれば魅力もある。現代のように混沌としていると、来年、3年先ですら不透明だ。これが不安として心の澱として人々の中に残されている。味方によっては人類の歴史なんて殺し合いでしかない。戦争を反対と訴える人たちこそ、世界の歴史を客観的に見てみるといい。そして、その戦争の原因もだ。大半が復讐とか、恨みとかであって、自国が生き残るため、というのは案外少ない。もっとも長く対立して戦争を継続してた中東でさえ、結局は宗教の対立ではなく、宗教のおける内部争いだ。宗教によって人は生きるというが、ならば宗教の内部争いで人が死ぬのはどんな意味があるのか。これはキリスト教、イスラム教、仏教と3代宗教であってもほぼ同じ。自国の神道ですらいろいろな団体があり、争う。歴史を直視すればするほど、権力者と同じように力を持つ宗教による戦争が多いことに気づく。だから宗教からみな人は離れていく。これは政治も同じ。
日本人は、首相が発表する70周年記念談話がどういった内容かをとても気にしている。何故なら過去のような自虐的内容なら日本の未来はまだまだ周辺国から叩かれるからだ。日本人として生まれたことは囚人と同じと嘆いた人もいた。本当にそうだろうか。こういった思考が日本人を差別的とすると感じる。そもそも過去は過去と日本人すべてが認識するなら周辺国からあれこれ言われても気にならない。せいぜい、目と耳を塞ぎ、そちら方向と関わらなければいい。ビジネスなら、仮面をかぶって表面では揉みてして頭を下げても利益を得られればいい。誇りだとかでは飯は食えない。謝罪とか反省とかも、そこに何らかの利益を得るためにするものであり、どうでもいいのなら何もしない。人間性だとか、品格というのなら、相手が人間性もあり、品格もある場合のみに通用する理屈だと知って頂きたい。動物に謝罪しようが、通用しないのと同じ。心から謝罪という表現が間違いで、そんなものは一時的なもので、謝罪という行動によって得られる利益がなければ、誰もやらない。ならばどうして日本人は謝罪が好きなんだろうか。日本人社会は謝罪することでお互いの関係を円満に維持する。外国に対しても、謝罪することで相手からの苦情や文句への対応をしていると公に示している。文句をいう側が嘘だろうが、事実だろうが、そんなものは関係者以外にとってはどうでもよい。ならば、何が興味を引くのか。日本という国の行動によって、日本国の行動原理が何かを見極めたいだけだ。日本も正義という名の下で誰かに責任をすべて負わせ、その人だけを叩くことで、みな自らが正義と思えるのかもしれないからだ。自分はこういった行動こそ、姑息で醜いと感じる。誰かに責任を負わせたところで、また日本を導くリーダが謝れば戦争は勃発する。軍があるとか、軍が戦争に対応できるとかをどんなに法律で拘束したところで、そんなものは拘束とならない。誰かの依存したり、誰かを犠牲にして、それぞれはいったいどこに立っているのだろうか。
自虐することで日本国と日本国民が得られる利益と何だろうか。周辺国と円満に国交できると日本国および日本国民に利益があるのか。誇りと名誉を失っても、自虐した方が何かを得られるのか。敗戦の日になると毎回自問する。未だに答えはない。だが、一つ言えるのは、過去の謝罪とは反省は、相手が喜ぶのではなく、謝罪や反省する本人にとっての快楽でしかない、と自分は思ってる。過去は戻らないし、過去に失ったものは戻らない。
謝罪ぐらいでは人の心も救われないし、変わらない。だから「赦し」の宗教が支持される。復讐すれば何か偉得るのか。たぶん、達成感は得られるのだろうが、復讐という行動はポジティブではないため、こころのどこかに何か残る。これが赦しだと、赦した自分のこころはなんて広く大きいのかと、ある意味自己満足を得られる。
こうなると恨み、憎しみなどの感情がふっとぶ効果は確かにある。謝罪も同じで。いった本人の後ろめたい気持ちがふっとぶ。このループを日本政府は続けることをやめよう、と判断しただけだ。だが、天皇という憲法による国民の象徴は違う。世界の要人と会うたびに謝罪とも思える言葉を使う。原稿の執筆者かもしれないが、本人だって意思もあるのだから否定しないのなら同じ立場だと思える。
天皇が世界の王族と違うのは、自国の責任を負わないの天皇というだけだろうが、責任を取れないのだから立場を自覚してもらいたいものだ。天皇という存在は何のために維持しているのか。たぶん、こういった議論も今後は出てくると思う。皇族という身分が存在していること自体に違和感もある。ここにかかる税金はどれぐらいかと考えると、存続させるのは直系のみでいい。少なくても神官としての職すら果たしてないような子供や親族は存在している価値も意味もないと思うのだが。英国のように王位継承権があっても働いているのに、日本は働かせることもしない。海外から言われるのは、日本にニートが多いのは、皇位継承者が働かないでいるから真似しているとまで揶揄される。それこそ公務によってのインシデント制で生活予算をもらえる、という方法もあっていいだろう。国体うんぬんと支持する人たちに問いたいのは、他国の王族のように経済自立する努力を皇族がしない点をどう感じるのか。まあ、そろそろ身分制度に依存するシステムをやめて、直系以外は一般民として労働してもらう。女性や老人も働く時代なのだから、皇族というだけで働かないのは如何なものか。
過去に戦争で亡くなった外国人も自国民もすべての人へお詫びというのなら、それは日本人も世界も受け入れるだろう。戦争を起こした責任はトップだけではなく、支持した国民すべてが負う責任だからだ。戦前の日本だって選挙で政治家を選択している。唯一、選択してなかったのは天皇だ。だが、当時者はすでに亡くなっているのだから、詫びなどできるはずもない。その子孫が謝罪するというのは、これまた現代の価値観だと違和感がある。同じく首相もだ。詫びるのなら、戦争による被害者すべてに、戦争という解決先を選択した点とそれを止められなかった国民の代表してだろう。これをもって、これからも戦争を問題解決の手段として選ばないように努めると、言えばいい。攻撃されたら反撃するのた当然で、相手に「攻撃を停止して話し合え」は通じない。同盟国の攻撃は、自国への攻撃と同じと認識するかどうか。本来は国連軍なりが攻撃する前に武力圧力をかけて、攻撃しような国を抑える役目があるはずだが。これが機能しないから、同盟国で連帯を強める。天皇は自国と国民を外国からの武力攻撃より守る気があるかどうか。今年の敗戦日は、日本の未来へ進む道の分岐点になるかもしれない。