アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「桜を見る会」の源流は天皇主催

2019年11月16日 | 天皇制と政権

    
 

 安倍晋三首相が政府(首相)主催の公的行事である「桜を見る会」を自分の後援会活動に利用してきた問題は言語道断で、徹底追及しなければなりません。
 同時に、そもそも「桜を見る会」とはどういうものか、その歴史・本質にも目を向ける必要があります。

 「桜を見る会」は1952年に吉田茂首相(当時)によって始められたと言われていますが、それは正確ではありません。確かに今日のような政府主催になったのは1952年からですが、「桜を見る会」自体の歴史はさらにさかのぼります。第1回の「桜を見る会」(当時は「観桜会」)が行われたのは1881年(明治14年)4月です。

 「明治12年9月に外務卿に就任した井上馨は、日本が欧化して列強に安心感を与えることで条約改正を達成することを課題とした。…井上は、天皇皇后が出御し立食パーティーを行う観菊会・観桜会と、新年宴会・紀元節宴会・天長節宴会の三大節宴会に、外交官を招待することも企図した。明治13年11月18日に第1回の観菊会が赤坂離宮で、翌年4月26日に第1回の観桜会が吹上御苑で開催される」(西川誠著『天皇の歴史7 明治天皇の大日本帝国』講談社学術文庫)

 「菊」は皇室の紋章、「桜」は古来「大和心(魂)」を表すものとして天皇への忠臣と関連付けられてきました。「観桜会」は「観菊会」とともに、欧米列強に対抗するため天皇の権威を高める手段の1つとして始められたものです。

 それが戦争・敗戦によって中断し、1952年に吉田内閣の下で復活しました。1952年といえば日米安保条約が発効(4月28日)した年です。日米安保条約を強行した吉田は、同時に天皇制の復活に着手しました。
 天皇(裕仁)が国民体育大会(51年10月)、全国植樹祭(52年4月)に出席し始めるなど、天皇の権威を誇示する動きが相次ぎました。天皇が「各界の功労者」を招いて言葉をかける「園遊会」も53年11月に始まり、今日に続いています。

 「吉田の天皇制復活構想のねらいは、明治憲法下で天皇が持っていた民衆に対する絶大な権威のみを、天皇が持っていた政治権力と切り離して、戦後の政治制度の中に移し保持したい、ということであったと思われる。だからこそ、吉田は、民衆に対する権威の維持に役立つような、伝統的諸制度の復活に心がけたのである」(渡辺治著『戦後政治史の中の天皇制』青木書店)

 その一環として復活したのが「観桜会」でした。それを「桜を見る会」の名前にし、天皇主催から政府(首相)主催へ変えた詳しいいきさつは分かりませんが(私の勉強不足)、翌年から天皇主催の「園遊会」が春と秋の年2回開かれるようになったことと関係があるのかもしれません。

 それはともかく、「桜を見る会」(観桜会)がもともと、天皇の権威を高めるために始められたものであり、それを政府が引き取って、日米安保体制下で政府(国家)の権威をたかめるために再開されたという歴史を銘記する必要があります。
 それを政権幹部や自民党議員はこれまでも自分の支持基盤の維持・拡大に利用してきました。その点で、「桜を見る会」は同じく戦後復活した「叙勲」制度と同類・同根と言えるでしょう。

 安倍氏は来年の「見る会」は中止すると言明しましたが、廃止するとはいいません。それは上記のような天皇とかかわる歴史・経緯をもつからでもあるのではないでしょうか。逆に、だからこそ、「桜を見る会」は中止ではなく廃止すべきです。

 


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大嘗祭・5つの重大問題点

2019年11月14日 | 天皇・天皇制

    
 

 14日夜~15日未明にかけて大嘗祭の中心儀式である「大嘗宮の儀」が行われます。
 大嘗祭は、「新天皇が即位後はじめて行う新嘗祭であり、その年の新穀を天照大神、天神地祇に備え、天皇自らも食す、という儀式」(『岩波 天皇・皇室辞典』)です。その意味は、「(天皇が)神と交流し、その霊力を更新」(村上重良著『天皇制国家と宗教』講談社学術文庫)することで、「大嘗祭は、新天皇が在位中、年ごとに執行する新嘗祭の起点であり、天皇を完全な天皇にするために不可欠な最も重い祭祀」(同)です。

 現行憲法下で初となった前回の大嘗祭(1990年11月)を、自民党政府は「公的な皇室行事」として国家予算を支出しました。今回もそれを完全に踏襲して行われます。そこにはいくつもの重大な問題があります。

 ①   宗教儀式に公金を支出する憲法違反

 大嘗祭は上記の内容や意味からも、明々白々な宗教(神道)儀式です。それは政府がこれを「国事行為」にできないことにも示されています。にもかかわらず「公的な皇室行事」などと称して公金(宮廷費)を支出するのは露骨な脱法行為であり(儀式後すぐに取り壊す建物の建設費だけで約16億円、総額24億4000万円の公費支出)、憲法の政教分離原則(第20条)および宗教活動への公費支出禁止(第89条)違反は明白です。

 ②   宗教儀式に首相ら国家公務員が参列する憲法違反

 公金支出だけではありません。大嘗祭には安倍首相ら「三権の長」はじめ国家公務員が参列します。これも「国及びその機関」の宗教活動を禁じた憲法(第20条)に違反することは明らかです。

 ③   公金使いながら内容はベールに包まれた秘儀

 大嘗祭が行われる悠紀殿、主基殿にカメラが入ることはなく、具体的な内容はベールに包まれています。たとえば、天皇と采女だけが入る部屋には布団が敷かれ(寝座しんざ)、「(天皇が)他者と共寝する場所とする論もあるが、これには誰と寝るかについて異説があ(る)」(横田耕一著『憲法と天皇制』岩波新書)といわれるほどの秘儀です。

 こうした儀式が天皇の完全な「私的行為」として行われるならともかく、「公的行事」として公金を支出する以上、「不明」「秘儀」は通用しません。それは憲法(第83条)の財政民主主義違反です。どうしても公金を支出するというなら、「大嘗宮の儀」の全貌を公開すべきです。

 ④   日本全国を神道儀式・天皇制に巻き込む皇民化

 大嘗祭(新嘗祭)の特徴は、皇居内の「秘儀」にとどまらないことです。天照らに備え天皇も食する新米を収穫する田(斎田)は、カメの甲羅を焼く占いによって全国から選びます(今回は栃木県と京都府)。さらに全国各地から特産物が供出されます。
 こうして大嘗祭は、日本の津々浦々を神道・天皇制の儀式に巻き込み、現代の皇民化政策の重要な役割を果たします。
 また、こうした各地の大嘗祭に関する経費は公金(地方自治体財政)から支出され、公務員が動員されます。ここでも重大な憲法違反が生じます。

 ⑤   天皇制ファシズムと呼応した歴史への回帰

 大嘗祭はたんなる宗教儀式ではありません。明治以降、それには重大な政治的意味が付与されました。
 安丸良夫著『近代天皇像の形成』(岩波現代文庫)によれば、1466年~1687年まで中断していた大嘗祭が復活したとき、それに意味付けを行ったのが本居宣長です。宣長は天皇が天照と共食することに注目し、「天照大神から直接に神性を賦与されて、統治権者としての神性を獲得することを意味する」と解釈しました。それを明治政府は1871年の「大嘗祭告諭」で国家の公認解釈としたのです。
 さらに「昭和」になり、折口信夫の「大嘗祭の本義」(1928年)が大きな影響力をもちます。それは「(大嘗祭を)天皇の現人神としての性格を根拠づける教説となったのであり、それはまさにファシズム体制への転換と呼応しあう見解であった」(安丸氏)のです。
  大嘗祭は、「王権神授説」「天皇=現人神」を根拠づけ、「天皇制ファシズム」と呼応する儀式だったのであり、だからこそ皇室祭祀の中でも最も重要なものとされてきたのです。

 こうした重大な政治的意味をもつ大嘗祭が、明治の方式をほぼそのまま踏襲し、いま憲法違反の「公的行事」として強行される。この一事をもっても天皇制の危険性は明白であり、国家の制度としての天皇制を廃止することの必要性・重要性は明らかです。


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「天皇即位パレード」と自衛隊

2019年11月12日 | 天皇制と日米安保・自衛隊

    

 徳仁天皇の「即位礼正殿の儀」(10月22日)における天皇と自衛隊の関係については先に書きましたが(10月29日のブログ参照)、10日行われた「即位パレード」(「祝賀御列の儀」)で、あらためてその密接な関係が印象付けられました。

 皇居から赤坂御所まで全長4・6㌔の「パレード」では、何カ所かで音楽隊が行進曲などを演奏しましたが、コースの最終地点、赤坂御所附近で天皇・皇后を迎えたのは、陸上自衛隊の音楽隊と儀仗隊でした。「パレード」を締めくくったのが自衛隊だったわけです。

 儀仗には「儀式を行う」という意味とともに「警護する」という意味があります。赤坂御所の前に整列した儀仗隊は、天皇を警護する自衛隊でもあります。儀仗にはそういう意味があるため、自衛隊が天皇を儀仗することはしばらくタブーでした。それが自衛隊の不満のタネでした。

 その禁を取り払って、自衛隊が初めて公然と天皇に対して「捧げ銃」(ささげつつ)で儀仗したのは、裕仁天皇の葬儀(「大喪の礼」1989年2月24日)でした。

 「天皇の代替わりは、自衛隊と天皇の結合を公然化する場となった。すなわち、昭和天皇の大喪の礼にあたっては、1900名の自衛官が参加し、天皇の柩を乗せた車は自衛官の堵列(とれつ=横に並んだ列―引用者)によって迎えられ、三カ所で着剣捧げ銃の儀仗が行われ、自衛隊は『哀しみの極』の演奏と弔砲で天皇の死を悼んだのであった。同様に、90年秋の即位の礼においても、自衛隊は祝賀御列の儀などで前面に登場することになっている」(横田耕一著『憲法と天皇制』岩波新書1990年)

 事実その通りになりました。1990年11月12日に行われた前回の「即位の礼」でも自衛隊が前面に出ました。

 「自衛隊は、即位の礼の式典のために1670人を動員した。正殿の儀の万歳三唱に合わせた礼砲、御列の儀での儀仗、奏楽、列を見送るための整列。陸自の儀仗隊、計5つの音楽隊など陸海空3自衛隊の部隊のほか、防大生…防衛医大生…。昨年2月の大喪の礼とほぼ同じ形だ」(1990年11月13日付朝日新聞)

 前回、裕仁天皇から明仁天皇への代替わりを機に公然化した天皇と自衛隊の結びつきが、今回の徳仁天皇への代替わりで継承・定着されたのです。

 自衛隊法(第7条)では、自衛隊の最高指揮・監督者は内閣総理大臣です。しかし、「自衛隊のなかには、内閣総理大臣のために死ぬというのでは隊員の士気があがらないのでふたたび(皇軍のように―引用者)天皇を忠誠の対象としようとする動きがあり、天皇と自衛隊との結びつきは、特に1960年代以降、深まっている」(横田耕一氏、前掲書)。

 1960年といえば、日米安保条約が改訂され、米軍との一体化(従属)がいっそう強化された年です。そのころから強まった自衛隊の「天皇を忠誠の対象としようとする動き」。それが、1990年の裕仁から明仁への代替わりで公然化。そしていま、戦争法(安保法制)によって米軍と一体化した自衛隊が戦争を行う軍隊になろうとしている中で行われた徳仁への代替わりで、自衛隊と天皇の結びつきはいっそう顕著になっている―。この自衛隊と日米安保条約と天皇の関係性・危険性を凝視する必要があります。
 自衛隊解散、日米安保条約廃棄、天皇制廃止はまさに一体の課題です。


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天皇即位「パレード」の超法規

2019年11月11日 | 天皇・天皇制

    

 10日の徳仁天皇・雅子皇后の「即位パレード」(「祝賀御列の儀」)は、「即位礼正殿の儀」(10月22日)と同じく「国の行事」(国事行為)として行われました。「正殿の儀」が明白な宗教儀式で憲法の政教分離や主権在民の原則に反することが比較的分かりやすかったのに対し、「パレード」には問題がない(そもそも「即位の礼」が国事行為とされていること自体の問題を除き)ようにみえますが、はたしてそうでしょうか。
 実際は、「即位パレード」も憲法原則や法律を無視した超法規的行事として強行されました。

 第1に、言論・集会、表現の自由など市民の基本的人権が著しく侵害されたことです。

 パレード観覧者には「持ち込み禁止」と「禁止行為」が義務付けられました。
 「持ち込み禁止」となったのは、①ドローン②大型荷物③脚立④カメラ三脚⑤自撮り棒⑥酒類⑦横断幕⑧チラシなどです。「禁止行為」は、⑨音を出す行為⑩子どもの肩車⑪プラカードでのアピールなどです。

  百歩譲って①~④は「セキュリティ対策」だとしても、「自撮り棒」まで禁止する必要があるでしょうか。「子どもの肩車」を禁止したのはなぜでしょうか。「安全対策」だとしたらいかにも過剰ではないでしょうか。

 決定的に問題なのは、⑦⑧⑪です。これらに「セキュリティ対策」は通用しません。「パレード」「天皇制」に対する反対・抗議を封じたものにほかなりません。天下の公道でこれらの行為を禁止するのは、明白な言論・集会、表現の自由の侵害です。

 観覧希望者への限定的な処置だといって合理化することはできません。「パレード」は閉じられた建物の中ではなく、天下の公道で行われたものであり、表現の自由を規制することは許されません。
 しかも、これらの規制が観覧希望者に対してだけ行われるわけではないことは明らかです。仮に観覧ブースから50m離れた路上で、「天皇制反対」「徳仁天皇はやめよ」というプラカード持って立っていたらどうでしょう。警備の警察が飛んできて追い払われ、場合によっては逮捕される可能性すらあります。

 「即位パレード」は、「国民」から言論・集会・表現の自由、基本的人権を奪った異常空間の中で強行されたことを銘記する必要があります。

 第2に、天皇・皇后が乗ったオープンカーです。これにはナンバープレートがありません。ナンバーの代わりについているのは皇室の菊の紋章です(写真右)。

 道路運送車両法第73条は、車にナンバープレートを装着することを義務付け、「表示しなければ、これを運行の用に供してはならない」と明記しています。違反すると50万円以下の罰金です。
 天皇・皇后が乗って公道を走る車にはナンバープレートはつけなくてもよいという例外措置は、いったいいつの国会でどういう議論で決まったのでしょうか。議論されていません。天皇・皇族といえどもなし崩し的脱法行為が許されないことは言うまでもありません。

 こうした憲法原則蹂躙、法律無視は、(象徴)天皇制に賛成か反対かの問題ではありません。それ以前の原則問題です。かりにも「憲法にのっとり」と言うのであれば。

 ところが、こうした問題をメディアが取り上げることはなく、市民も疑問を抱かず、堂々とまかり通っています。しかも「国の行事」として。
 そこにあるのは、天皇・皇室に関するものは何でも、何をしても許される、問題にされない、しない、という思考停止であり、「菊(天皇)タブー」です。

 これこそ天皇制の本質であり、国家権力(政権)が天皇(制)を政治利用する根拠です。だからこそ天皇制は廃止しなければならないのです。


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日曜日記74・映画「太陽がほしい」の力・大学駅伝と天皇制

2019年11月10日 | 日記・エッセイ・コラム

☆映画「太陽がほしい」の力

  5日、シネマ尾道で「太陽がほしい」(班忠義監督、2018年制作)を観た。日本帝国軍の性暴力・性奴隷の中国人被害者たちの記録だ。「750人の支援者と共に作り上げた」ことにも大きな意味がある。
 戦時性奴隷のドキュメントは何度も観たが、観るたびに衝撃を新たにする。今回、特に再認識したことを書く。

 1つは、被害者の万愛花さんが亡くなる直前に語った言葉。それは、「(日本に)謝ってほしい」「真理がほしい」だった。「謝罪」―上っ面でなく心から謝ること。被害者が一番求めているのは、やはりこれなんだ。日本に対する最大の要求は、心からの謝罪だ。それを日本は一貫して行っていない。それを頑として拒否しているのが安倍晋三だ。 

 2つ目は、日本軍による性暴力はいろんな形で強行されたことだ。決して「慰安所」だけではない。「監禁部屋」であったり、「トーチカ」や宿舎への連れ込み・通わせであったり、民家への侵入だったり。日本軍の性暴力は手段を選ばなかった。いたるところで、あらゆる形で強行された。

 3つ目は、女性国際戦犯法廷(2000年12月、東京)が天皇裕仁に有罪判決を下した意味の大きさだ。その意義は強調してもしきれない。東京裁判は真っ先に裁くべき裕仁を免罪した。裕仁を断罪したのは、歴史上、この法廷が最初でおそらく最後だろう。その判決によって、かろうじて正義の跡が残された。天皇(制)に対するタブー・賛美が新たな形で再生・強化されているいまの日本で、この法廷・判決の意味は改めて見直される必要がある。

 そして4つ目に、事実のもつ力、とりわけ被害者自身の言葉、人生の軌跡が持つ圧倒的な力だ。日本人はとにかく事実を知らない。歴史を知らない。知らされていない。知ろうとしない。これがすべての出発点だ。戦時性奴隷に対する「賛否両論」を提示するドキュメンタリーに全く意味がないとは言わないが、必要なのは、やはり事実だ。被害者自身の言葉を聴くことだ。知らせることだ。そこにこそ報道・ドキュメンタリー映画の使命がある。

 ☆大学駅伝と天皇制

 3日、全日本大学駅伝が行われた(東海大優勝)。駅伝ファンとしては楽しみな季節の到来だ。ところが、いまさらながら気になったことがある。なぜスタートが熱田神宮でゴールが伊勢神宮なのか。
 両神宮はいうまでもなく神道(皇室神道)の中心施設だ。熱田神宮には「三種の神器」の「草薙剣」、伊勢神宮には「八咫鏡」が安置されている。大学駅伝がなぜ「三種の神器」を行き来しなければならないのか。

 それだけではない。「大学3大駅伝」といわれるが、あとの2つは箱根駅伝と出雲駅伝だ。出雲駅伝も皇室神道の主要施設である出雲神社(祭神は大国主神)が拠点だ。大学主要駅伝の3つのうち2つが神道神社詣でだ。

  大学駅伝がなぜこれほど天皇制と結び付いているのか、その経緯は知らない。全日本大学駅伝は今年が51回目だから1回目は1968年ということになる。その前年の1967年には2月11日が初めて「建国記念日」とされた。そんな動きとも関係があるのだろうか。

 いずれにしても、天皇制がいかにスポーツを侵食しているか、無意識のうちに日本人の中に入り込んでいるかを再認識した。大学駅伝への興味に汚水を差された。


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74年の時空を超えて響く「天皇陛下バンザイ」

2019年11月09日 | 天皇・天皇制

  

 きょう9日、皇居前で「即位を祝う国民祭典」なるものが行われます。あす10日には「パレード」(「祝賀御列の儀」)があります。そこでは出演者や観客らによって大合唱が行われることでしょう。「天皇陛下バンザイ」

 8日未明のラジオ深夜便(NHK)で「ひとり、孤児として生き」と題し、旧満州開拓団・集団自決生存者の山下幸雄さん(86)のインタビューが放送されました(アンコール。初回は今年8月13日)。

 山下さん家族と親せきは1944年3月、兵庫県豊岡市から旧満州開拓団の一員として大陸へ。苦労の末、帝国日本の敗戦と同時に、日本軍に苦しめられてきた現地の人々に追われる身となりました。
 命がけの逃避行。自力で歩けない年寄りたちは置き去りにし、泣き声をあげる赤ん坊は手にかけながら…。
 それでも逃げ疲れ、逃げ切れず、1945年8月17日、山下さんら一団は崖から増水した川へ身を投じることに。飛び込んだ人約500人、死亡者298人。

 当時12歳の山下さんは崖の上で、兄と背中合わせにくくられました。そして父親に言いました。「『天皇陛下バンザイ』と言うから、言ったら押して」。気づけば、兄は息絶え、山下さんは柳の枝にかかって一命をとりとめていました。

 生き残った山下さんはそれから1年2カ月、他の生存者とともに現地の監獄に入れられました。栄養失調とチフスで次々倒れていきました。シラミを食べて飢えをしのぎました。日本に帰ることができたのは1946年10月でした。父母、兄、親戚を失い、独り残された山下さんは、「開拓団のことは忘れるよう努めた。ただ前だけ向いて生きてきました」。

 崖の上で「天皇陛下バンザイ」と叫んだのは山下さん兄弟だけではありませんでした。ほうぼうから聞こえてきたといいます。「天皇陛下バンザイ」の声が。
 もちろん、満蒙開拓団だけではありません。何万、何十万の兵士、民間人が「天皇陛下バンザイ」と言いながら命を絶ったことでしょう。
 死ぬ時だけではありません。帝国陸軍がアジアを侵略し、村々を略奪した時も、「戦果」を誇って叫ばれたことでしょう。「バンザイ、天皇陛下バンザイ」

 「天皇陛下バンザイ」はたんなる普通名詞ではありません。天皇の絶対的権力・権威、その下での侵略戦争と植民地支配を象徴する血塗られた固有名詞です。

 その「天皇陛下バンザイ」を、2019年10月22日、安倍晋三首相は「高御座」の天皇徳仁に向かって叫びました。衆参議長、最高裁長官、国会議員、地方の首長らもそれにつづいて三唱しました。

 「即位を祝う国民祭典」で「天皇陛下バンザイ」を唱えた人の中の何人が、その意味・歴史を知っているでしょうか。嵐のメンバーは知っているのでしょうか。文化・芸能人には社会的責任があります。知らねばならない歴史があります。

 74年の時空を超えて響く「天皇陛下バンザイ」。この光景が何を示しているのか。その歴史をいまこそ凝視する必要があります。


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「ボランティア不足」は政府の責任転嫁

2019年11月07日 | 災害・事件・事故と政治

    

 相次ぐ災害で「ボランティアが足りない」と言われています。NHKなどメディアは被災地で活動するボランティアの姿を報じる一方、「ボランティア不足」を強調しています(写真左)。被災した自治体の中には、「とくにボランティアを必要としている地域」を発表しているところもあります。被害実態とその活動状況を見るにつけ、ボランティアの重要な役割・善意が痛感されます。

  しかし、メディアや行政が「ボランティア不足」を強調することには違和感と危険性を感じざるを得ません。

 第1に、そもそもボランティアは自主的・自発的意思によるものであり、ノルマがあるものではありません。ところが「不足」というのは、必要な量を想定しそれに達していないということです。これはボランティアの性格・本質と相いれません。「不足」という発想になるのは、被災地の復旧・復興をボランティアに依存しているからです。

 災害復旧・復興の責任はいうまでもなく政治・行政にあります。今回のような大規模災害の場合は、国(政府)にその責任があることは明らかです。

 災害被害に対し安倍政権はいったい何をしてきたでしょうか。安倍首相がやったことは、自衛隊のヘリに乗って被災地へ行き(写真中)、現地で自衛隊を激励したこと(10月20日、長野。写真右)、すなわち災害を利用した自衛隊のPRです。

 激甚災害や大規模災害に指定して予算を支出するのは最低限のことです。被災者が人手・労働力を必要としている時は、それを手当てするのが政府の責任です。全国から公務員(自衛隊員以外)を任務として被災地に派遣するとか、日当を出して人を募集するとか、いくらでも方法はあるはずです。
 それをしないで、無償(食費・交通費さえ自前が原則)のボランティアに負担させ依存するのは、国・政府の責任放棄・責任転嫁であり、被災地・被災者切り捨てにほかなりません。 

 第2に、「ボランティア不足」を声高に叫んでも、参加するボランティアの数には当然限度があります。参加者が次第に減少するのも無理のないところです。それでは復旧・復興はすすまず、困るのは被災者です。
 1日も速く復旧・復興するためには、ボランティア頼みではなく、政府・安倍政権に対し、「必要な人手を被災地に送れ」と要求すべきです。

 第3に、国家と「国民」の関係で見れば、ボランティア活動は「国民」の相互扶助・、自助努力の一環になり、「国民の自己責任」論に通じます。
 ボランティアがあくまでも自主的・自発的に行われる限りその善意は称賛されるべきですが、政府・メディアの「ボランティア不足」キャンペーンによって事実上ボランティア活動が強制されるなら、それは国家・政府による「国民」への責任転嫁、「国民」支配に通じます。

 被災地の一刻も速い復旧・復興、被災者救援のためにも、ボランティアの善意を生かすためにも、政府の責任放棄・責任転嫁を許さず、責任を果たさせることこそが必要です。


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メディアが無視した在日コリアン5500人集会・デモ

2019年11月05日 | 朝鮮半島・在日コリアン差別と日本

    

 安倍政権が「幼児教育無償化」から朝鮮学校幼児教育(幼稚園)を排除していることに抗議する集会・デモが2日、東京・日比谷公園と銀座で行われました。参加者は在日コリアンを中心に5500人(主催者発表)。
 韓国のハンギョレ新聞は、「日本では大規模な街頭行進自体が珍しいが、在日コリアンが大規模街頭デモを行うことは一層異例のこと」(3日付電子版)と報じました。以下、同紙から抜粋します(写真もすべて同紙より)。

 街頭行進には子供の手を握った母親や父親、ベビーカーの子供を連れた家族の姿も目についた。銀座を経て東京駅まで、東京都心を横切る行進に、通りすがりの日本の市民も何事かと驚いていた。
 在日本朝鮮人総連合会(総連)のチョ・ソンオ国際統一局副局長は「在日コリアンによるこの程度の大規模な街頭行進は、以前の朝鮮学校高校無償化除外措置抗議集会以来、7年ぶり」としながら「今後は無償化から除外された他の外国人学校とも連帯し問題提起を拡大していく」と話した。

 外国人学校の付設幼児教育機関は、日本全国に約90カ所あるが、その半分近い40カ所余りが朝鮮学校の付属施設。朝鮮学校幼児教育無償化除外措置に対して、日本各地の朝鮮学校の父母と日本の市民が「生まれる時から差別することだ」と一貫して批判してきたが、日本政府は耳を傾けようとしない。しかも、日本政府は幼児教育無償化の財源として年間7千億円以上を策定したが、財源は在日コリアンも日本人と区別なく徴収される消費税引き上げ分を充当している。

 抱っこ紐を着けて壇上に上がった母親は「子供たちが自身に対して自信と誇りを持って生活できるよう声を上げる」と誓った。在日コリアンのある保護者は「子供たちの胸を刃物で刺すようなことがどうしてできるのか」と訴えた。

 集会後、参加者たちは「子供たちの教育を受ける権利を奪うな」と叫んで行進した。一部の参加者は、朝鮮学校の幼稚園の子供たちが小さな手で描いた絵の横断幕を掲げた。「友達を仲間はずれにしてはならない」と書かれた横断幕を持った人もいた。(以上、3日付ハンギョレ新聞より)

 「幼保無償化」からの朝鮮幼稚園排除は、「高校無償化」からの朝鮮学校排除に続き、在日コリアンを狙い撃ちした言語道断の差別政策。朝鮮植民地支配になんの反省もない安倍晋三首相の実態を象徴的に示すものです。

 2日の集会・デモは、その規模といい内容といい、こうした安倍政権の朝鮮差別・敵視に対する激しい怒りを示した画期的なもので、政権の“目玉政策”の本質を突いているという点でも、きわめてニュース価値の高いものです。

 ところが、日本のメディア(新聞・テレビ)はすべて(新聞は私が見た、朝日、毎日、東京、琉球新報、沖縄タイムス、中国)、このニュースをただの1行も報道しませんでした。代わりに3日の各紙は、「秋の叙勲」で持ち切りでした。日本の新聞を読んでいる日本人は、2日の集会・デモの存在自体知らなかった人が多いでしょう。私もハンギョレ新聞で初めて知ることができました。

 天皇制帝国日本が強行した植民地支配に端を発する在日朝鮮人差別。それに抗議する人々の行動は無視する一方、天皇制維持・強化のツールである「叙勲」には大きなスペースを割く。なんという醜悪な対照でしょうか。日本のメディアの実態がここに端的に表れています。
 メディアは朝鮮学校・幼稚園の無償化排除差別に対する報道姿勢を根本的にあらためなければなりません。


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「文化の日」と天皇制

2019年11月04日 | 天皇・天皇制

    

 きょうは「文化の日」の振替休日。なぜ11月3日が「文化の日」という祝日になったのでしょうか。「祝日法」では「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日とされており、それは日本国憲法が公布されたことによる、というのが一般的な説明です。ではなぜ憲法は11月3日に発布されたのでしょうか。

 この日が天皇睦仁(明治天皇)の誕生日だったからです(他説もあります)。11月3日は1873年から「天長節」、昭和のはじめから敗戦までは「明治節」という名前の「祝日」でした。「文化の日」はそれを継承したもの、つまりルーツは明治天皇です。

 天皇制との深い関係は由来だけではありません。「文化の日」には「秋の叙勲」が行われます。新聞は全国紙・地方紙の例外なく受章者を大きく報じ讃えますが、この叙勲こそ天皇制を支える有力な制度です。
  叙勲は春と秋の2回行われます。春は4月29日の「昭和の日」、すなわち天皇裕仁の誕生日です。そして秋が11月3日の睦仁天皇の誕生日。いずれも「天皇誕生日」です。

 もともと叙勲制度は、明治政府によって天皇制中央集権国家づくりのために作られた制度です。

 「明治維新を受けて伊藤博文が近代国家の中央集権体制を確立するために『華族制度』とともに『栄典(叙勲)制度』を創設する。1875年(明治8年)に制度化され、翌年に大勲位菊花大綬章が生まれ、1890年までに…体制ができた」(大薗友和著『勲章の内幕』現代教養文庫)

 こうした意味を持つ「叙勲制度」は、敗戦によって停止されました。それを復活させたのは、岸信介の後をうけ、日米安保体制下で天皇制の復活・強化、天皇の政治利用を図った池田勇人でした。

 「池田はまた、占領中に停止された叙勲を復活させた。…1963年以降、自民党の首脳は年に2回叙勲者の名簿を作成して天皇に提出するようになった。…国民の自民党支持をうながす役割を持ち…天皇制の新しい利用法であった」(ハーバート・ビックス著『昭和天皇 下』講談社学術文庫)

  叙勲制度の中でも特別なのが文化勲章です。文化勲章が創設されたのは1937年。帝国日本が中国侵略戦争を起こした年で、裕仁天皇時代につくられた唯一の勲章です。それだけに裕仁の思い入れは強く、勲章のデザインも裕仁の意向で決められました。それは天皇家ゆかりの橘に「三種の神器」の1つ、勾玉(まがたま)を三つ巴にした図柄です。

  ノーベル賞受賞者は文化勲章も受賞するのが通例です。しかし、大江健三郎(1994年文学賞受賞)は辞退しました。敬愛する「大岡昇平さんなら…」と。

 そのことを知った作家の城山三郎はこう言って大江を支持しました。
 「文化勲章は、政府、文部省といった国家権力による『査定機関』となっている。言論・表現の仕事に携わるものは、いつも権力に対して距離を置くべきだ」(1994年10月15日付朝日新聞夕刊)

  作家の辻井喬(本名・堤清二)も褒章を断りました。「それが昭和天皇の国事行為として行われることが大きな理由」(栗原俊雄著『勲章』岩波新書)でした。
 辻井はこう言っています。「戦争でいったいどれほど多くの人が亡くなったか。昭和は、敗戦とともに終わるべきだった。昭和天皇は退位すべきだった? そうです」(同)
 天皇が代替わりしても褒章は受けないのかと聞かれた辻井は、「『うーん』とうなり、数秒考えて答えた。『自分の国でも、時には批判しなければならないこともあります。でも勲章をもらったらできない。批判する自由は持っていたいですから』」(同)。

 こうした気骨ある、真の文化・知識人が、はたして今、どれほどいるでしょうか。
 年中行事化し、メディアがこぞって賛美する叙勲・文化勲章が、”天皇の権威”を高め、それを政治利用するツールであることを銘記する必要があります。


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日曜日記73・「恩赦」と金子文子・大臣ドミノと野党

2019年11月03日 | 日記・エッセイ・コラム

☆「恩赦」と金子文子

  徳仁天皇の「即位の礼」を理由に「恩赦」が行われた。「恩赦」で思い出されるのは、金子文子だ。
 文子は1904年1月山梨県生まれ。「性的被差別体験を基底に置いてもろもろの差別を考え、かつ無籍者体験を踏まえて、その差別が終局的には国家が作為した法律や道徳によって維持されていることを看破し…民族的被差別体験から出発した朴烈と共に天皇制国家に対して共闘することになった」(山田昭次氏)女性だ。

 1923年9月、関東大震災に乗じた政府の弾圧で、文子は朴烈とともに逮捕され、26年3月、死刑判決を受けた。翌27年4月、政治的思惑による「恩赦」で無期懲役に減刑。しかし、文子は減刑状を受け取ると、「いきなりビリビリと破いてすててしまった」(山田氏)という。そして、同年7月、宇都宮刑務所内で自ら命を絶った。自分と朴烈の行動が、“天皇の慈悲”の話題づくり、天皇制強化に利用されることを悔い、抗議したものといわれている。

 天皇主権の帝国憲法は「恩赦」を「合法」としていた。その下でも、文子はその本質を見抜いて拒否し、自らの思想・信念を貫いた。現行憲法は天皇の「恩赦」は認めていない。にもかかわらず公然と横行している。文子の生涯から学ぶべきことは多い。金子文子、享年23。

☆大臣ドミノと野党

 菅原一秀経産相につづいて河井克行法相の辞任、そして萩生田光一文科相の「身の丈」発言。まともに論評する気にもならないほどのお粗末さ。「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」という言葉を絵に描いたような安倍政権の醜態だ。

 対する野党は、安倍政権の窮地がまるで自らの成果であるかのように気勢を上げている。ある国対委員長は、「これは野党共闘の成果だ」と言い放った。おかしいだろう。今の事態は安倍政権・自民党の自滅、オウンゴールだ。「成果」というなら暴露記事を書いた「週刊文春」になる。野党は何もしていない。

 週刊誌や新聞で自民党議員・閣僚の暴言・不祥事が発覚し、野党はそれを材料に追及。大臣が辞任、あるいは政権が交代する。何度同じことを繰り返してきたことか。その結果、政治は良くなったか。なってはいない。馬鹿な政治屋の暴言・不祥事を追及したところでそれで政治が良くなる訳がない。政治不信を増幅させるだけだ。

 政治を変えるには、政策論議を活性化させる以外にない。軍事増強・対米追随の日米安保体制、朝鮮半島・東アジアと日本、格差を広げる大企業の規制、そして天皇制の是非。国民的に議論しなければならない課題は山積している。そうした政策論争・政策選択をしないで政治・社会が変わるわけがない。政策協議・政策協定のない「野党共闘」になんの意味があるのか。

 


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