アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「勤労感謝の日」と“無意識の天皇制”

2020年11月23日 | 天皇制と政治・社会

    
 11月23日がなぜ「勤労感謝の日」で「祝日」なのか。それを意識している人は多くないでしょう。しかし、ここには重大な問題があります。

 「勤労感謝の日」の前身は「新嘗祭(にいなめさい)」です。11月23日を「新嘗祭」という「祝日」にすることは、1873年9月14日の明治政府布告によって、他の「祝祭日」とともに決められました。それが敗戦後、「国民の祝日に関する法律(祝日法)」(1948年)によって名称を変更しました。では「新嘗祭」とは何でしょうか。

 「もともとニイナメは、収穫を神に感謝し、新米を神とともに食べ、翌年のイネのみのりを確実なものにする農耕儀礼である。古代統一国家のオオキミ(大王、天皇)は、全国土のニイナメを、みずから国の最高祭司として執行する祭司王であった。
 天皇は、年ごとの新嘗祭を行うことによって、神と交流し、その霊力を更新した。新嘗祭は…祭司王としての天皇を宗教的権威と世俗的権力の原基をなす儀式であった」(村上重良著『天皇制国家と宗教』講談社学術文庫2007年)

 「新嘗祭」は天皇が行う中心的宗教(神道)儀式です。そのため「政教分離」を原則とする新憲法の下では名前を変えざるを得ませんでした。では名前の変更とともに、「新嘗祭」は過去のものとなったのでしょうか。

 そうではありません。「新嘗祭」は現在も宮中祭祀の重要な儀式、天皇が1人で行う秘儀として執行されています。通常それは天皇家の私事として内廷費によって行われています(内廷費ももちろん税金で問題です)。

 ところが、天皇が代替わりした年の「新嘗祭」は「大嘗祭(だいじょうさい)」と称され、新憲法の下で過去2回(1990年、2019年)行われましたが、自民党政権はこれをいずれも「国事行為」として公費を支出しました。これは国家の宗教活動を禁じた憲法20条に反する明白な憲法違反です。

 公金の支出だけではありません。「大嘗祭」の中心儀式である「大嘗宮の儀」には、首相はじめ「三権の長」や国会議員らが参列し、天皇の秘儀が終わるのを宮殿外で待ちます(写真右は昨年11月15日の安倍首相ら)。これは「政教分離」とともに「主権在民」の憲法原則に反します。

 たしかに新憲法によって天皇には「世俗的権力」はなくなりました。しかし、宗教的・社会的「権威」は憲法違反を伴いながら維持され、国家権力の支配機構に位置づけられています。それを象徴するのが「大嘗祭」であり、その基盤は毎年の「新嘗祭」です。国はそれを法律によって「祝日」にしているのです。

 「勤労感謝の日」で天皇制を意識する人は多くないでしょう。しかし、「祝日法」が定めている16の日本の「祝日」のほとんどは天皇と深く関わっています。そして同法はその「祝日」の意義を、「美しい風習を育て(る)」(第1条)ためだと規定しています。この「美しい風習」が天皇制を含意していることは明らかです。
 「国民」が意識するかどうかは別に、「勤労感謝の日」をはじめ日本の「祝日」は、天皇制の温存・普及を図る国家が法律で制定しているものなのです。

 その法律(「祝日法」)が新憲法施行の翌年に制定されたことは、天皇の戦争責任を棚上げし、「戦前」と「戦後」を連続させる日本国家の皇国史観を象徴的に示しています。

 「祝日」の意味、国家の意図は知らなくても、「国民」は休日を喜び、その日に「日の丸」を掲げる家や会社も少なくありません。それは“無意識の天皇制”であり、日本の身分社会・差別構造の底流になっていることを銘記する必要があります。


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