アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日本学術会議攻撃と叙勲と天皇制

2020年11月10日 | 天皇制と政治・社会

    
 菅義偉政権の日本学術会議攻撃について、志田陽子武蔵野美大教授(憲法)はこう論評しています。
 「今回、トップレベルの学者、目立つ者が狙い撃ちにされるのを人びとは目の当たりにしました。言論そのものではなく、人事という言論の足元を攻撃したことも象徴的です。自分の考えを表明したら社会の主流派から承認されないかもしれない。そうした不利益の予感は萎縮をもたらしかねません。社会全体の思考力が麻痺し、機能不全を起こすことを憂慮します」(4日付中国新聞=共同配信)

 中島岳志東京工業大教授(近代日本思想史)もこう指摘します。
 「首相は(任命拒否の)判断基準について明確な説明をしていません。…これからの自主規制の基準となり、忖度自粛につながります。…安倍政権下で育まれた忖度のメカニズムは、これまで官僚メディアに向けられていましたが、今回は学問の世界に向けられました。こうしたメカニズムを政権中枢の人たちは意識してやっています。今後、一般の人たちに向けられる可能性があり、物が言えない社会にならないよう細心の注意が必要です」(同)

 学術会議攻撃が、「秋の叙勲・褒章」(写真中)と時期を同じくして表面化したのは、けっして偶然ではないでしょう。なぜなら、両者は表裏一体の関係にあるからです。

 任命を拒否された6人は、戦争法(安保法)はじめ政権の反民主的政策に異議を唱えた学者たちです。その人たちをみせしめに学術会議の変質を目論むのは、国家権力に歯向かう者への制裁、ムチです。
 それに対し、「叙勲・褒章」は、「国家」に奉仕・貢献した者へのほうび、アメです。
 両者はアメとムチの関係で、いずれも国家権力の支配の手段です。アメとムチによって、国家権力に対する「萎縮・思考停止・忖度・自粛」がはびこります。

 それは中島氏が言うような今後の「可能性」の問題ではなく、すでに日本中に蔓延している事態です。この「忖度のメカニズム」の頂点にあるのが天皇制にほかなりません(写真左は8日の「立皇嗣の礼」で天皇に頭を下げる菅首相ら)。

 そもそも「叙勲」は、大日本帝国憲法の「天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ栄典ヲ授与ス」(第15条)という「天皇大権」を敗戦後復活させたものです。「勲章はその創成期から、国家にとって功績のあった人物を国家が選び、天皇が与えるもの」(栗原俊雄著『勲章 知られざる素顔』岩波新書2011年)なのです。

 一見「自由」にみえて、実は「萎縮・思考停止・忖度・自粛」が浸透している日本社会。その天皇制との関係を、安丸良夫一橋大名誉教授(日本思想史)はこう指摘しました。

 「現代の日本では、企業や各種の団体や個人は、一見自由に、むしろ欲望のおもむくままに行動しているのだが、しかしじつは、その自由は国家に帰属してその秩序のなかに住むことを交換条件とした自由であり、国家の側はまたこの自由を介して国民意識の深部に錨をおろし、そこから活力を調達して統合を実現しているのである。

 こうして、企業やさまざまの集団と国家とは、相互に求めあい保障しあうことで存立しており、どんな日本人もこうした枠組みから大して自由ではないのだが、天皇制は、この基本的な枠組全体のなかでもっとも権威的・タブー的な次元を集約し代表するものとして、今も秩序の要として機能している」(『近代天皇像の形成』岩波現代文庫2007年)

 すなわち天皇制は私たち市民にとってどういう存在なのか。

 「だからそれは、個々の現象面への批判によっては乗りこえ難い存在であり、いつの間にか心身にからみつくようにして私たちを縛っている。それは、私たち個々人が自由な人間であるという外観と幻想の基底で、どんなに深く民族国家に帰属しているかを照らしだす鏡であり、自由な人間であろうと希求する私たちの生につきつけられた、屈辱の記念碑である」(安丸良夫、前掲書)

 学術会議に対する攻撃は、こうした天皇制を頂点とする国家権力の支配メカニズムの一環であることを銘記する必要があるのではないでしょうか。


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