アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記125・人に「触れる」ということ―藤原新也・伊藤亜紗

2020年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム

 藤原新也(写真家)はコロナ禍で人が人に「接触」しなくなり、「孤立化」することによって、免疫力が低下することに警鐘を鳴らしている。

 「チンパンジーは互いの接触が活発になることで腸内のマイクロバイオーム(細菌叢<そう>)が多様化し豊かになる。腸内の常在微生物は免疫システムの鍛錬を促し、これによって感染症や病気から保護される。抵抗力が生じる。

 コロナ禍によって人は人との接触を極力避けざるを得ない状況に陥っている。つまり生き物としての個体の孤立化が進んでいるということである。既に生活文化となりつつある非接触行動が仮に長期化するなら、私たちの腸内や皮膚上の細菌叢が多様性を失い、脆弱化する可能性が生じるとの仮説に行き当たる。

 新型コロナウイルスはタイムラグをおいた2段階で、人類をさらなる疲弊へ追い込む可能性を秘めているのではないか。第1ステージは現在進行中の経済と身体へのダメージであり、第2ステージとは、前のステージで恒常化した非接触と消毒文化が腸内や皮膚に常在する細菌叢を脆弱化させてしまう状態である。
 遠くない将来、人類は新たな感染症のまん延に見舞われないだろうかという危惧を、私はひそかに抱くのである」(11月22日付中国新聞「特別評論」)

 伊藤亜紗(東京工業大)は、人が人に「ふれる」ことと「さわる」ことの違いを指摘しながら、さまざまな「接触的動作」によって「人間関係」はつくられるのだと言う。

 「接触面の人間関係は、ケアの場面はもちろんのこと、子育て、教育、性愛、スポーツ、看取りなど、人生の重要な局面で、私たちが出会うことになる人間関係です。そこで経験する人間関係、つまりさわり方/ふれ方は、その人の幸福感にダイレクトに影響を与えるでしょう。

 ウィズコロナの世界において、人類の接触の絶対量が減ったとしても、触覚がもつ価値は別の形で受け継がれていく必要がある。特に感染したことさえ「本人の行いが悪い」と批判されてしまう自己責任論の風潮が強いこの国において、人に身をあずけることの豊かさは、あまりに軽んじられているように思います」(『手の倫理』講談社選書メチエ、2020年10月)

 人に触れることによって、人と人の大切な関係がつくられる。触れることによって免疫力が高まり、病気から守られている。
 しかし、人は人に触れることを遠ざけ、ますます触れないようにしている。それは今に始まったことではない。人の手による手紙はメールに置き換わり、コンビニのレジもやがてスマホが店員に代わり、介護もロボットが行うようになるだろう。「近代文明」とは人に「触れる」ことを回避する「文明」なのか。

 人が人に触れなくなる社会が、人間の身体、精神、脳にとっていかに否定的影響を及ぼすか、真剣に検討されねばならない。コロナ禍はそれを警告している。

 藤原新也は、「コロナ危機の第2ステージ」への対策の1つとして、「膨大な量の微生物を擁した自然へのアクセスをシステム化する」ことを提唱している(前掲)。

 人と自然の接触。その前提としての自然・環境保護。自然(動植物)との共存。そして、人と人の「ふれあい」。人と人の関係の再構築。人類は大きな岐路に立っている。


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