アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

国体と五輪と沖縄・・・「国民的記憶喪失」への抗い

2013年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2 第68回国民体育大会(東京国体)が8日閉幕しました。東京での開催は54年ぶり。天皇・皇后は開会式はもちろん、いつも以上に競技観戦の回数が多かったといいます(写真右。テレビニュースから)。開催費用は約1100億円、動員人数のべ5万人とか。そんな巨費を投じて、「天皇杯」を競う必要があるのかと、東京では「東京国体9・28開会式反対集会」が行われました。
 今回の東京国体は期せずして7年後の東京五輪の予行演習となりました。私はオリンピックの東京招致は沖縄にも深くかかわってくると、以前の「日記」(9月11日)で5つの懸念を挙げました(①消費税引き上げ②放射能汚染隠ぺい③皇室の政治利用④カジノ⑤国家主義の台頭)。残念ながらいくつかの点ですでにその懸念が現実のものになろうとしています。
 しかし、これでもまだ甘かった。「東京五輪招致」は沖縄からの視点ではそんな問題があるのか、と教えられた新聞論評がありました。桃原一彦沖縄国際大学准教授の「思潮2013・オリンピックと『オセンスイ』」(沖縄タイムス9月29日付)です。
 安倍首相の「汚染水は完全にブロックされ、コントロールされている」「東京にダメージを与えない」発言。桃原氏はこれを、「津波にさらわれたわが子を捜索することすらブロックされ、コントロールされている」被災地に人々と、「オリンピック好景気を勘定する者たち」との「断絶」ととらえ、こう言います。「この国をめぐる時間と空間の断層は、2020年へのカウントダウンを重ねるごとに、国民を<喪>に服させることになるかもしれない。・・・<喪>とは、さんぜんたる国家イベントの閃光で視界を暗転させられ、『そこにある』と既に知っているはずの物事を直視することができなくなる状態だ」。これを桃原氏はノーマ・フィールド氏の言葉を借りて「国民的記憶喪失症」だと指摘します。
 その「記憶喪失」は自らを規制・抑圧するだけでなく、自覚的に異議を唱える他者の声すら圧してしまおうとする。こうしたことは、「軍隊によって土地をブロックされ、日米両政府によってさまざまな権利をコントロールされてきた沖縄の人々にとって身に覚えのあることばかりではないだろうか。沖縄にいると、時間と空間をめぐる断層や断絶とともに、それに基づく抑圧者と被抑圧者の姿を随所に確認することができる」。そして桃原氏はこう結びます。「沖縄社会は<喪>にあらがうための独自の思想を編み出さねばならない」。
 オリンピックという「国家イベント」が「国民的記憶喪失症」を増幅し、自らの沈黙だけでなく、「国家」に異議を唱える者への敵視・抑圧へと向かう。それを沖縄はいやというほど知っている。だから沖縄はこれに独自の思想で対抗しなければならない、というのです。なんと身体に突き刺さる指摘でしょうか。「国民的記憶喪失症」をもたらすのはオリンピックだけではありません。そして、「<喪>にあらがうための思想」が必要なのは、もちろん沖縄だけではありません。

 <今日の注目記事>(8日付沖縄タイムス1面)

 ☆<ヘイトスピーチ禁止命令 朝鮮学校妨害に賠償 京都地裁>
 「朝鮮学校の周辺で街宣活動し、ヘイトスピーチ(憎悪表現)と呼ばれる差別的な発言を繰り返して授業を妨害したとして、学校法人京都朝鮮学園が『在日特権を許さない市民の会』(在特会)などを訴えた訴訟の判決で、京都地裁は7日、学校の半径200㍍以内での街宣禁止と約1200万円の賠償を命じた。/橋詰均裁判長は、街宣などを『在日朝鮮人への差別意識を世間に訴える意図があり(日本も批准する)人種差別撤廃条約で禁止した人種差別に当たり、違法だ』と指摘。『示威活動によって児童らを怖がらせ、通常の授業を困難にし、平穏な教育事業をする環境を損ない、名誉を棄損した』として、不法行為に当たると判断した。
 ※ヘイトスピーチを違法と断じた判決は初めて。当然とはいえ、画期的な判決です。


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