是枝裕和監督の「そして父になる」(福山雅治主演)が沖縄でもロングランを続けています。私は公開初日に観ました。子どもが小さかったころを思い出し、複雑な感動を覚えました。が、その時はこの映画が沖縄と深い関係があることは知りませんでした。
映画は出産直後の「赤ちゃん取り違え」を7年後に告げられた2組の夫婦と子どもたちの苦悩と再生の物語です。参考文献はノンフィクションライター・奥野修司さんの『ねじれた絆』ですが、その取り違え事件は、沖縄のコザ(現沖縄市)で起こったものだったのです。取り違えられた一方のかたは、昨年まで沖縄県内で自営業を営まれており、今は夫の転勤で宮城県におられるそうです。奥野さんはこの事件を振り返り、「親子の絆はもちろん『血』が大切だが、一番かわいい盛りを育てたという『情』を断ち切れるものではないと実感した」と述べています(10月11日付琉球新報)。
一方、5年前に自身父親になった是枝監督は、「血がつながっているだけではだめ。(子どもと)時間を共有しないとだめだ」と述べ、「『血』か『時間』かで揺れる自分の原体験」がこの映画のベースになっていると語っていました(10月14日、NHKホリデーインタビュー)。
実は私が映画で一番気になったのもその場面でした。取り違えられた双方の父親である福山雅治とリリーフランキーの会話で、エリート社員で子どもと過ごす時間が少ない福山が「時間は少なくても心を込めて接している」と言うのに対し、自営業のリリーフランキーは、「時間ですよ、時間。子どもには(共に過ごす)時間がすべてですよ」と言うのです。その言葉は私自身に突き刺さりました。やはりこれが映画のテーマだったのだと、是枝監督のインタビューで確認しました。
すると、その是枝監督のインタビューを聞いた同じ日に、まったく映画とは関係のないところでこの問題を考えさせられる場面がありました。「沖縄の自己決定権を考える勉強会」でのことです。沖縄が今後「独立」を含め自立権、自己決定権を発揮しようとするとき、その権利を持つのはウチナーンチュに限られるのだろうか。ヤマトンチュウは、その1人である私は、どうかかわっていけるのだろうか、かかわるべきなのだろうか。そう考えたとき、あの言葉が浮かんできたのです。「血」か「時間」か。沖縄の進路を決める自己決定権を持つ必要条件は、琉球民族であるという「血」なのか、それとも一定期間沖縄に居住したという「時間」なのか。
映画の結末は必ずしも明確ではありませんでした(それが是枝監督の意図だったようです)が、私には親と子を結びつけるのは「血」でもあり「時間」もである、というメッセージだったように思えました。沖縄に生きる人間を結びつけるのも、「血」でもあり「時間」でもあってほしいのですが…。
<今日の注目記事>(28日付沖縄タイムス社会面)
☆<秘密保護法-沖縄の視点 際限ない機密 「防衛秘」施設、実は普通
那覇市、国に勝訴し図面公開 法案「市民が犠牲」>
「政府が25日、衆院に提出した特定秘密保護法は、際限なく秘密を膨張させる危険性をはらむ。1989年、国が『防衛秘』を守るため那覇市を訴えた『那覇市情報公開訴訟』。国が敗訴し、自衛隊施設の図面が公開されると建物はごく普通の造りだった。市側の関係者は『軍事情報が何でもかんでも秘密になれば、犠牲になるのは市民だ』と法案反対を訴えている。…市情報公開センターの責任者として図面公開決定に関わり、証人として出廷した真栄里泰山さん(69)は語る。『同じ行政マンとして、何でも秘密にすれば仕事がしやすいのは分かる。だが、沖縄は戦中から戦後まで、軍事や秘密外交の一番の犠牲者にされてきた』」