沖縄タイムスに注目すべき連載があります。「やんばるの少年兵 護郷隊」(毎週水曜、全4回)です。筆者は川満彰さん(名護市教育委員会文化課市史編さん係)。綿密な調査に基づく事実は私にとっては初めて知ることで、衝撃的です。
沖縄戦で師範学校や県立中学の生徒たちが1945年3月に鉄血勤皇隊として戦場に駆り出されたことは知られています。しかしそれより半年も前から、沖縄本島北部(やんばる)で、16歳~18歳の少年が根こそぎ、3次にわたって総勢約1000人召集(もちろん法令違反)され、162人が戦死した事実はあまり知られていません。生き残った人たちは今も戦争トラウマに苦しんでいます。少年たちは2つの部隊(第1護郷隊、第2護郷隊)に編成され、昼夜を問わず、きびしい軍隊式訓練を強いられました。「靴を脱ぎ、足の親指を引き金にあて、銃口を口にくわえる自決訓練もあった」といいます。
驚くべきことは、この「少年護郷隊」を召集・組織したのが、大本営直轄の「スパイ養成機関」として知られる陸軍中野学校の出身者(村上治夫中尉)だったことです。川満さんによれば、沖縄県には陸軍中野学校出身者が全県で42人配属され、そのうち11人が護郷隊幹部となりました。中野学校出身者は全国に配置されましたが、1県に42人は破格です(たとえば関東・甲信越全体で約100人)。彼らの任務は4つに分類できるといいます。①遊撃隊の編成・実戦②大本営陸軍部直轄の特殊勤務部隊③離島残置諜者④沖縄第32軍参謀情報班への配置。つまり大本営は沖縄でスパイ・ゲリラ戦を行うため、その部隊を組織・指揮する幹部として中野学校出身者を多数配置したのです。そして、やんばるの少年たちがその手先として教育・訓練され、犠牲になったのです。秘密部隊であることを隠すためにあえて郷里を護る部隊であるかのように「護郷隊」と名づけたといいます。
大宜味村出身の平和活動家・福地曠昭さんは、「一年早く生まれておれば同じ目に遭わされていた」とし、「中野学校出身者の彼等のために住民が死に追いやられた事実はかくせない」と告発します(『少年護郷隊』)。中野学校出身者は1945年2月以降、本州各地に本格配置されます。「大本営は沖縄戦で多くの県民が犠牲になった後も、本土国民が巻き込まれることを躊躇せず、『国体護持』を目的に、本土決戦の準備を行っていた」(川満さん『語りつぐ戦争』)わけですが、「本土決戦」は沖縄の多大な犠牲で免れました。
沖縄は、沖縄の少年たちは、この点でも、「本土防衛」の「捨て石」になったのです。
<今日の注目記事>(17日付琉球新報2~3面)
☆<オスプレイ陸自と合同 国内で初訓練 日米、安全を強調
住民ら反対 遠い沖縄の負担減>
「陸上自衛隊と米海兵隊が国内での日米共同訓練で初めて垂直離着陸輸送機MV22オスプレイを使用した。日本側は『安全性を理解してもらう上で非常にいい実績を上げた』と手放しで評価。自衛隊員が搭乗することで安全性への懸念を払しょくし、県外での訓練拡大につなげたいとの思惑がにじむ。普天間飛行場の移設問題で厳しい姿勢を崩さない沖縄側に負担軽減をアピールする狙いもあるが、安全への懸念は沖縄に限ったことではない。・・・防衛省関係者は『通常では取りやめてもおかしくない悪天候だったが、今回は米軍も含めて絶対にやり遂げないといけないという強い意志があった』と説明。『政治ショー』の色彩が濃い訓練だったことを隠さなかった」