銀座通りでの説明~ここは大正10年の大火後に整備された通り
「函館ぶら探訪」は、過去何度も参加したことのある函館歴史散歩の会の日曜版である。講師は同じ函館歴史散歩の会主催の中尾仁彦氏。
「函館ぶら探訪」になってからは参加する機会が少なくなったが、36回を数える今回は、「昭和9年大火の復興シンボル・グリーンベルト(防火緑樹帯)巡り」だった。予定もなかったし、興味があったので久しぶりに参加してみた。
10時に集合場所の函館市地域交流まちづくりセンターをスタートし、銀座通り~高田屋通り~東川広路~1キロ通~二十間坂通り(開港通り)~東雲広路~旭広路~広小路を回った。
昭和9年の大火後、火に強いまちづくりを進めるため、道路幅55m(30間)の豊川広路、東川広路、東雲広路、旭広路、若松広路など9広路、幅36m(20間)の栄通、高田屋通、二十間坂通など6広路が造られた。
なお、55m(30間)幅の道路は「広路」と名付け、36m(20間)幅の道路は「通」と名付けられた。
これらの多くに、大きな道路中央分離帯が設けられ、樹木が植栽され、防火緑樹帯(グリーンベルト)となった。さらに、広路と広路(通り)が交差する地点には、延焼を防ぐ耐火建築の公共建物をおき、大森浜側には風避けと避難場所の役割を持つ鉄筋3階建ての小学校も設置された。
それぞれの「広路」や「通」は通ってはいるが、その名前と場所がようやくはっきりした。
スタート前に、函館市地域交流まちづくりセンターでのレクチャーを受けて出発。
歩いたコース
まず最初は、銀座通り。ここは昭和9年の大火以前の大正10年の大火後に整備された。
耐火建築として、鉄筋コンクリート造り3階建ての建物が並んだ。民間主導で復活した歓楽街。
昭和9年の大火で焼けた建物もあり、現在当時の姿で残っているのは10軒ほど。
大正11年当時から残っている建物
高田屋嘉兵衛の屋敷跡と昭和9年の大火後に整備された「高田屋通り」
銀座通りとの交差点の高田屋通りから護国神社の坂道を眺める。護国神社の坂も同時期に整備。
高田屋通りを東へ向かって歩く。西別院までが「高田屋通り」で、西別院から市役所までが「栄通り」
西別院から大森浜までの「東川広路」。突き当たりに昔の東川小学校があった。
この反対側の西別院から港側の豊川稲荷までが「豊川広路」である。
「1キロ通り」~この通りは大火とは関係なく、大森浜から港までで一番短い道路。
現在は1キロだが、両側の海岸線が埋め立てられているので、昔は500mしかなかった。
西別院から市役所までの「栄通り」
「二十間坂通り」へ続く現在の「開港通り」~昔は埋め立て地の間を流れる運河だった。
開港通りから市役所までの「東雲広路」
市役所から連なる「大門広小路」(現在のグリンプラザ)
電車通りを越えた突き当たりには昔の新川小学校があった。昭和9年の大火で内部は焼けたが再建。
その手前にロータリーがあり、共愛会館があった。現在は中央郵便局になっている。
このグリンベルト巡りの途中で説明を受けた歴史的建造物や史跡等については、後日掲載予定。