癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

五稜郭の外郭探訪

2018年10月10日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

内郭の五稜郭のほかに、外郭の土塁があったことを示す「箱館亀田 一円切絵図」
※元の絵図は南が上なので、現在の地図と照合するために逆さにした。

 去る10/4の北海道新聞に、奈良女子大学の戸祭由美夫名誉教授が、箱館奉行所の外郭に着目した著書を出版した。戸祭名誉教授は、外郭内部の面積が約1平方キロに及ぶ規模の大きさの特異さも強調。現在は樹林地や草地になっている外郭跡地も含めた保護や保全の必要性を訴えている。という記事が載っていた。
 

 上の絵図の五稜郭の内郭と現在の地図の内郭を同じ大きさにしてトレースしたのが、上の地図である。ほぼ現在の道路と重なるかそれに面していることが分かった。
 その外郭跡地としてはっきり残っているのが、市立函館高校敷地南側の柏が丘通りに面した樹林地と垂直に繋がる大妻高校敷地の西側の樹林地である。現在はどちらも国有林となっている。(※緑色で囲んだ部分~この幅で続いていたものと思われる。果たして土塁だったのか?)

 この地図を基に、ウォーキングがてら、その外郭に沿った道路を歩いてみた。丸数字は下載の写真の番号である。


① 外郭の亀田川手前の北端の地点。松が植えられた土塁のような地形が残る。ここから現在の行啓通りへ続く。


② 行啓通り~この道路か道路沿いに外郭の土塁があった?


③ 五稜郭病院前の道路。柏が丘通りの樹林帯へ続くとすれば、右側にあったと思われる。


④ 市立函館高校敷地南側の柏が丘通りに面した樹林帯(国有林)


⑤ 大妻高校校門から敷地の西側に続く樹林帯を写す。


⑥ 大妻高校の裏から続く「五稜郭風致・保健保安林」。

この説明板には、「安政5年、五稜郭城が築城されたころ、城郭を隠す目的で五稜郭の裏一帯に、七飯町で育てた赤松を植栽したと言われる。」と記されている。 ※土塁があったようなことは記されていない。


⑦ ⑥と同じ位置から北側を眺める。樹林帯はスーパー魚長の奥に延びていたものと思われる。


⑧ 大谷短大東側の交差点


⑨ 外郭の北端付近の道路。この先の交差点は江戸時代からあった道路へ繋がる。


 歩いてみて思ったことは、外郭は土塁となっているが、道路や宅地にするときに削られてしまったのか?果たして土塁だったのか?今となっては分かりようがない。
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日本一が2つもある美利河ダム

2018年09月13日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

道南で最大の大きさを誇る美利可ダム

 1991年(平成3年)に完成し、重力式コンクリートダムとロックフィルダムを合わせた複合ダムで、堤頂長(ダムの長さ)は1,480mあり、河川を横断して建設されたダムとしては“日本一”の長さである。ダムの高さは40.0m。ダム湖は「ピリカ湖」と呼ばれるが、カタカナ表記のダム湖も全国的に珍しい。 さらに、魚道も2005年(平成17年)に整備され、この長さは2,400mでこの魚道も ”日本一”の長さとなっている。


この工事で発見されたピリカカイギュウ像が設置されたピリカ湖


管理事務所


発電所


魚道


魚道の観察窓。カメラには写らなかったが、この時期はサクラマスがたくさん遡上していた


堰堤の上に登ることができる


登ったところから東側を眺める


同じく西側を眺める。


工事の際に発見された今金美利河海牛発掘場所の碑


国道から眺める美利河ダム


クワプラザピリカで提供されている美利可ダムカレー

 日本一の今金男爵と幻の今金和牛のコロッケを贅沢に添えて、地元名産の軟白ネギや野菜も添えられてボリュームも満点!!
 冬期間は、冬バーションで、白いカレーになるらしい。
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ハーベスタ八雲

2018年09月01日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 久しぶりに青空が広がった。八雲に野暮用があったので、妻を誘ってドライブがてら、十数年ぶりにハーベスタ八雲へ行った。
 
 ハーベスタ八雲は、昭和63年に“新しい食の創造”を目的に創られた、丘の上のレストラン。噴火湾を見下ろすように建つアメリカンハウス調の大きな建物は、八雲町のシンボルとしても有名である。
 名物国産ハーブ鶏のフライドチキンをはじめ、石窯で焼き上げる本格ピッツァなど、周辺の契約農家からの自然野菜や噴火湾で獲れる魚介などを使ったさまざまな料理が評判である。
 また、ロケーションの良さでも有名で、テラス席が開放されるので、澄んだ空気と北海道らしい大自然のパノラマを堪能しながら食事ができるのが魅力である。

 なお、開設当時は、ケンタッキーフライドチキンの試作農場としてオープンした。今はもうケンタッキーフライドチキンの試作農場ではなくなったが、ケンタッキーの創業関係者により「ハーベスター八雲」として営業が続けられている。


入口ゲート


レストラン入口


テラス席から牧場と噴火湾を望む


テラス席


(左)野菜サラダ(400円)(右)二海カレー(900円)
 
 妻は初めての二海カレーだが、2013年に八雲を代表する味を創作しようと、町内の飲食店経営者3人が新しいご当地グルメ「二海カレー3 件」を考案したらしい。
 北海道酪農発祥の地・八雲にふさわしい牛乳を使ったホワイトカレーで、具には合併して二海郡になった八雲のホタテと、熊石のタコを使っている。現在は、このハーベスタも含めて4店で提供されている。


(右)旬菜パスタ(900円) (右奥)フライドチキン(270円×2)


シラカバと子どもたち


隣のパノラマパークより


シラカバ並木の道路


下からハーベスタ八雲の建物を見上げる
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三稜郭?ほか箱館戦争ゆかりの地巡りサイクリング

2018年08月28日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 五稜郭と四稜郭は、明らかな遺構が残っているが、三稜郭や七稜郭もあったらしい。七稜郭は峠下台場山のことで、これも遺構がしっかりと残っている。

 しかし、「三稜郭」については、資料は少ないものの、とある古文書の絵図には三稜郭らしき陣屋が記載されているという。五稜郭も四稜郭も後に付けられた名称であるのと同じく三稜郭もまた然りである。諸説ある中、この三稜郭は桔梗野台場であるという研究結果もある。
 それは、2004年の函館北高等学校郷土研究部の研究で、桔梗の国道5号線沿いの比遅里神社を有力な候補地として発表し、その研究により高文連支部大会で優秀賞をとっている。

 箱館戦争当時、旧幕府軍は新政府軍の進攻に備えて、函館及び近隣の村々山々に多くの台場を築いている。桔梗野台場がこの比遅里神社だとすれば、旧国道の出口にあることから、ここに台場がある意味は大きい。また、その少し北寄りの宝皇寺を桔梗野台場とする説もある。

 そこで、実際にこの目で見たくて、MTBに跨り、まずは比遅里里神社と寶皇寺へ行ってみた。その後、箱館戦争ゆかりの地巡りで、神山の大円寺~神山権現台場跡(旧東照宮)~四稜郭~北海道東照宮と回った。

◎比遅里(ひじり)神社

比遅里神社。裏側も崖状の地形になっている。


確かに上空から見ると、この神社の敷地は三角形になっている。
三角形に土塁を築いたのではなく、三角形の高台を利用した?


境内に四角い土塁状の地形があり、その中央に土俵がある。


南端の角地。周りより高い地形で、左側は土塁状になっている。
函館山も見えていて、台場の場所としては納得できる。

◎宝皇寺

桔梗野台場とする説もある国道沿いの宝皇寺。土塁のような地形はよく分からなかった。


桔梗開拓百年之碑

◎大円寺

神山の大円寺。五稜郭と四稜郭の中間点にある1722(享保7)年創建の浄土宗の古刹。
旧幕府箱館奉行所の菩提寺でもあり、箱館戦争の両軍兵士の墓や五稜郭築造時の死亡者の供養塔などがある。


門前に設置されている「無縁塚」。五稜郭築造工事の際、けがや病気で死んだ人たちの供養塔。
裏には「棟梁喜三郎一同」と刻まれている。喜三郎とは、備前(岡山県)の石工井上喜三郎。
五稜郭や弁天台場の石垣造りを担当するなど、秀でた技術を持つ石工として知られた。


箱館戦没者(21名)の供養碑とその説明板。この2本の松の間に、土方歳三の遺体埋葬説がある。


箱館戦没者供養碑には、土方歳三の戒名と俗名が彫られている。


箱館奉行役宅墓所。


「官修墓地」~箱館戦争で亡くなった新政府軍3名の墓。名前も藩名も彫られている。
しかし、旧幕府軍戦死者の過去帳はあるが墓はない。明治政府が墓は許可しなかった。


◎権現台場跡(旧函館東照宮跡)


箱館戦争時の1869(明治2)年、旧幕府軍が本拠地の五稜郭と背後の備えに急造した四稜郭との間の、函館東照宮に砲台を設けた場所。当時の大鳥居や土塁が現存する。
 この砲台は新政府軍の攻撃を受け、東照宮の社殿も焼失。そんな中でも、五稜郭や弁天台場の石垣造りを手掛けた井上喜三郎作の大鳥居は崩壊することなく、現存している。
 東照宮はその後市内を転々とした後、現在は陣川町に所在。この場所は、現在神山稲荷神社になっている。


大鳥居に残る箱館戦争時の弾痕(セメントで埋めて修復されている)。


今も残る土塁の跡

◎四稜郭

1868(明治元)年10月、五稜郭の鎮守である東照宮を守るために急造した洋式の台場。
四稜郭は,蝶が羽を広げたような形の堡塁で,東西約100m南北約70mの範囲に、
幅5.4m高さ約3mの土塁が巡り,その周囲には幅2.7m深さ0.9mの空濠が掘られている。
郭内(面積約2,300平方メートル)の四隅には砲座が配置されてるが、建物は造られなかった。


虎口(郭内入口)


三角点もある四稜郭内部


土塁


北海道東照宮

 ここは、箱館戦争ゆかりの地ではない。しかし、1864(元治元)年、五稜郭完成後、東北の鬼門に当たる現在の神山3丁目(権現台場)に蝦夷地の鎮護として建立された東照宮が元祖である。
 箱館戦争の兵火で焼失、御神体を辛うじて残し、その後は市内を転々とした。1992年、元の鎮座地に近い現在の場所に移転。同時に社名を北海道東照宮に改称。境内に置かれている手水鉢には、箱館戦争時の弾痕が残っている。


陣川団地に立つ「北海道東照宮参道入口」の門


手水石~裏側には「明治十九年、十一月五日神山村より運搬したと刻まれている。
明治19年は、青柳町の天祐寺から蓬莱町に移転した年である。
横には「元治二年四月十七日奉納 箱館奉行 小山大和寺 藤原実」と彫られている。


正面には箱館戦争時の弾痕が残る。


純忠碧血神社~函館山の麓にある碧血碑を建てた柳川熊吉は、当初東照宮を東軍将兵慰霊所として考えていた。だが時節柄それも叶わず月日な流れた。平成19年東照宮陣川鎮座15周年記念事業として、「ここに純忠碧血神社を奉斎し、義を掲げ戦い利あらずして賊の汚名を受けざるを得なかった東軍将兵達の無念を悼しで、その魂魄をこの社に奉安し護国の神として将兵の御霊を慰めんとす」とある。
 御祭神として土方歳三など戊辰戦争時の東軍(旧幕府軍)のメンバーが列挙されている。
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函館公園 歴史的建造物巡り

2018年08月27日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

函館公園開園の1879年(明治12年)5月に開館した「開拓使仮博物場」(旧函館博物館1号)

 函館公園内にある市立博物館で開催されている「北の昆布展」を観に行ったら、休館日だった。仕方ないので、公園内をぶらぶらした。いつもは花見や紅葉などのときにしか来ていないので、歴史的なものをじっくり見て歩いたことがなかったので、新鮮な感じだった。中には、初めて目にしたものもあった。

 この函館公園は、1879(明治12)年、市民によって造成された日本で3番目の市民公園である。(明治8年横浜公園、明治9年の神戸公園に次ぐ)「病人に病院が必要なように、健康な人間には休養する場所が必要」と、当時の函館駐在英国領事リチャード・ユースデンが提言したのを受けて、市内の実業家4人が中心となって寄付金を集め、市民も全面的に協力。着工から1年7カ月を経て開園した。日本で最も早い時期に設置された都市公園のひとつで、国登録文化財の登録記念物(名勝地)に指定されている。

 築山(すりばち山)を造成する際には函館支庁の官吏が休日に土運びの勤労奉仕したのをはじめ、各町内からも競って奉仕活動に繰り出し、各寺院は檀家を動員、消防組や芸娼妓達も参加したという。このような活発な住民参加によって造成されたことが函館公園の特色であり、日本国内でも類まれなことである


1884年(明治17年)に開館した「函館県博物館」(旧函館博物館2号)。手前の赤松も見事。


「上水道開設記念噴水塔」

 1889年(明治22年)に市の上水道が完成した記念として、総工費の半分に相当する水道鉄管を納めた英国のイリス商会がお祝いに贈ってくれたもの。現在のものはレプリカで、本物は水道局で保管しているとのこと。2基贈られ、もう1基は北海池に据えられたが壊れてしまった。


明治末期ごろの「鶴亀の水飲み場」。石は七飯町大川産のものが使用されている。


「国内最古の観覧車」

 1950年(昭和25年)に七飯村(現在の七飯町)の大沼湖畔に設置され、1965年(昭和40年)に現在地へ移設。


「こどものくに」

 1956(昭和31)年5月開園のレトロな遊園地。函館公園全体が国指定文化財、登録記念物として登録され、唯一の「文化財である遊園地」という歴史を持つ。


「白川橋」~北海道で最初の洋式石橋と言われている。

 浅田清次郎が実費でつくり寄付したもので、明治14年、明治天皇が函館に2度目の巡幸された際の侍従、北白川宮能久親王が馬車でこの橋を渡られ、自ら「白川橋」と名付けたといわれている。


博物館の横にある初めて目にした「虫塚」

 五稜郭にあった博物館分館から移設されたもので、昆虫クラブの標本作りで処分された虫を供養するお墓だったそうだ。蓋はダイコクコガネのオブジェとのこと。


これも初めて目にした博物館裏の「レンガ積みマンホール」

 明治43年から昭和57年まで72年間にわたり利用された、電話の地下ケーブルを収容する設備。明治43年に船場町に郵便局を新築する際に、電話線の地下ケーブルが必要となり、豊川町から弁天町にかけて設置された14個の内の1個。
 窓から内部を覗いてみると、レンガ積みということが判る。外側は倒壊防止のため、固めたらしい。


「ハーバー遭難記念碑」

 明治7年、ドイツの函館駐在代理領事ハーバーが、この向かい側でわざわざ外国人のいる函館へやってきた排外思想の旧秋田藩士に斬殺された。大きな外交問題に発展しそうになったが、国の対応が素早く適切だったので、ことなきを得たとのこと。


「石造り滑り台の跡」~これは、子どもの頃滑った記憶がある。


「箱館通寶銭座跡」の碑

 安政3年(1856年)幕府はえぞ地(北海道)に限り通用として銭の鋳造を認め、当地尻澤辺村字谷地頭といわれた、この地に北海道唯一の銭座を建てた。銭文は箱館通寶、円孔の鉄の銭であった。 安政4年(1857年)4月より同5年11月までの鋳造高は、10万650貫文という。


「北海池」~北海道の形をした池。中央には青銅の龍が設置されている。
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つかの間の晴天の郊外ドライブ

2018年07月14日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ
 昨日も朝方まで雨、明日も雨予報・・・今日は昼ごろから少しずつ青空が広がったので、休みの妻を誘って、郊外ドライブへ。


まずは、昼食に新函館北斗駅前の「畑のレストランHuis(ゆい)」へ。




二人とも、農園プレート“畑の恵み”(ジンギスカン)(1400円)


きじひき高原展望台へ。大沼方面は微かに見えていたが、函館方面はガスで良く見えず。


駒ケ岳登山口へ

狙いは、登山口から10分ほど登った地点のオオウメガサソウ





まだ蕾の方が多かったが、花が開いているものを探して撮影


大沼の山川牧場ミルクプラントへ


目当ては、果肉のたくさん入ったフルブレンドソフト「いちごワッフル」(380円)


大沼側から城岱牧場展望台へ。函館方向の霞んだ展望。


展望ハウスと七飯岳。ハウスの中にあった売店がなくなっていた。

 残念ながら、スカッとした青空ではなかったが、気温が28℃まで上がり、夏を体感できた。
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大三坂ビル一般公開

2017年11月26日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

外観もきれいに補修された洋風建築と和の蔵と右奥の民家建築の複合的な建物(斜め下から撮影)


(正面から撮影)

 大三坂の下の方に建つ、1921年(大正10年)建築の伝統的建造物「旧仁壽生命ビル」を改修した複合商業施設「大三坂ビルディング」が12月1日に全面オープンする。その前の本日、一般公開されたので見に行ってきた。

 実は、今年の1月30日に、改修前の内部の一般開放も見に行っていたので、それがどのように改修されたのか興味があったからである。


先行オープンしていた玄関右側の1番大きな部屋のレストラン「She told me」


蔵を利用したキャンドル製作・販売の「710candle」


洋館2階手前のレンタルオフィス「函館大三坂オフィス」


2階奥の「箱バル不動産」


左奥の通路からかつての居住スペースを改修したゲストハウス「SMALL TOWN HOSTEL」への玄関へ。



ゲストハウスの共有リビング。
内部はもとは和室だったが、床も道南杉を張り替えてほとんどを洋風に改修したようだ。


ゲストハウスの道南杉を使った2段ベッドの部屋。


洋室の寝室

このほかに和室の寝室が1部屋とロフトの寝室もあった
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青柳町建物探訪

2017年10月17日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ
 天気予報は悪天候だったので、午前中に昨日の岩部岳のHPへのアップ作業をして、その後はのんびり過ごすつもりだった。ところが、予報が外れて青空が広がっていた。たまたま他人のブログを見ていたら、一昨日?に「函館たてもの探訪」という街歩き企画で「青柳町編」があったらしい。

 普段何気なく見ている記憶の中に、印象的な建物が多くあることを思い出して、午後から自分も出掛けて見た。車を青柳小学校のそばに置いて、カメラ片手に1時間以上あちこち歩き回った。

 青柳町は、確か昭和9年の大火でほぼ全焼したはずだから、現在残っている建物はそれ以降のもののはずである。当時は比較的裕福な地域だったので、いち早く復興建築物が建ったはずである。 

民家以外の建物

函館公民館と事務所~昭和8年建築ということだから、これは大火から逃れたらしい

 昭和8年「篤志家 石館友作」が当時で10万円の浄財および土地等を寄付し、函館市青年會館として建設された。その後の函館大火により焼け出された函館地方裁判所の庁舎として一時使用された他、戦後は占領軍に一時接収されるなどいくつかの変遷を経て、昭和22年5月「函館市公民館」として開館


函館公園正面口近くのレストラン唐草館(昭和9年)

 医院併用住宅として建てられた瀟洒な洋館は、青柳町を代表する建物になっている。洋風のバルコニーを取り付けるなど、徹底的に建物を洋風に見せるような工夫が施されている。しかし地元の人から〔ギロチン窓〕と呼ばれる上げ下げ式の窓や、建物全体のシルエットなど、函館の棟梁作ならではの味が出ているのもこの建物の特徴と言えるらしい。


昭和10年竣工の青柳小学校(当時は住吉小学校)

 函館市は昭和9年の函館大火後、内務省の指導により、この時の大火で焼失した区域に火災発生時の避難場所となる鉄筋コンクリート製の校舎5校の建設を決定した。その中でいちばん最初に竣工したのが、高盛小学校と青柳小学校だった。


青柳小学校の斜め向かい側に建つ天祐寺

 昭和9年の函館大火の時に寺は全焼したが、2年後、東京にあった紀州徳川家の由緒ある建物・庫裡(くり)を移し、建てられた。


青柳小学校の向かい側の青柳町会館
いつ建てられたかは不明だが、町並みに合わせてデザインされた最近の建物のようだ。


民家の建物


2軒並んで建つ蔵付きの邸宅~当時の青柳町住民の富を象徴する建築と言われている。


上掲の2軒の坂上に建つ、煉瓦塀を回した蔵付きの邸宅。
津軽海峡方面に塀が設けられているのも、これまでの大火を教訓にしたものらしい。


函館公園向かい側の和洋折衷のモダンな邸宅と後ろの住宅に改造された蔵が棟続きで繋がっている(昭和12年建築)


函館伝統の洋風下見板張りの蔵付き邸宅。昭和20年代半ばの竣工らしい。
明治以来育まれてきた函館の下見板建築の最終型とのこと(現在は売りに」出されいるようだ)


子供のころから印象のある青柳町電停前の海側に建つ、堂々とした瓦屋根と奥の蔵等、風格ある和風住宅。


青柳小学校向かいの二軒長屋~右側の棟は和食居酒屋の「桜路」


屋根と外壁の曲面がモダンな洋風住宅~いつの時代の建物かは不明だが、意外と新しいのかも知れない


青柳町に残る年代物の石垣や大火後間もない建築と思われる民家が残る小路もこの町の魅力の一つ。


 昨日の岩部岳の縦走記録と、今日の夕刊に掲載された「どうなん・とうほく山楽紀行」の23回目「雄鉾岳」は下記でどうぞ!
 http://sakag.web.fc2.com
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「開拓使三角測量函館助基線」絡みウォーキング

2017年08月28日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 「開拓使三角測量函館助基線」・・・数日前に「山歩人・吉克の山楽日記」で初めて目にした言葉である。

 調べてみたら、北海道開拓使は正確な北海道地図を作成するため、明治6年(1873)3月、米人ワッソンを測量長に三角測量事業を開始、勇払と鵡川間の約14,860mの基線を画し、その両端の基点に標石を建て勇払基線を設定した。
 翌7年、米人デイがワッソンに代わって測量を行ったが、勇払基線を検証するため、明治8年、函館に助基線を設定することとなった。同年5月デイは荒井郁之助とともに函館付近の地勢を調査した結果、亀田郡亀田村(現函館市田家町)と亀田郡一本木村(現北斗市一本木)の間に基線を画すことに決定。10月下旬に勇払基線の測量を終えた村田千万太郎の一行が函館に戻り、11月中に亀田村と一本木村の基点に標台と標塔を建て、基線の予備測量を終えた。精密な測量は翌9年6月になされたが、その測定値は2里1町15間2尺3寸4分(約7,990.819m)といわれている。
・・・とのこと。このような史実は全く知らなかった。
 
 しかも、この勇払基線と函館助基線は、平成28年度(昨年度)土木学会選奨土木遺産に認定されたそうだ。

 我が家のすぐ近くにある大称寺(田家町)の境内に亀田基点の標石が、北斗市の一本木稲荷神社の境内に一本木基点の標石があるという。それらをこの目で確かめて、カメラに収めたいと思った。しかし、ただ車で往復するのでは面白くない。地形図上に函館助基線を入れて、なるべくその近くの道をウォーキングを兼ねて往復することにした。

 我が家からまず大称寺へ行き、その後、助基線になるべく近い道を選んで、一本木稲荷神社まで歩いた。帰りは、幹線を歩いてきたが、往復で約20kmだった。時間は4時間25分。 

◎亀田基点の「亀田村基標跡」の石碑(田家町・大称寺境内)

 昭和45年に発掘調査され、標石は北海道開拓記念館(現北海道博物館)に保管されているそうだ。


 もともとはこの場所でなく、道路を挟んだ向かい側の墓地にあったという説もある。


◎一本木基点の標石<北海道指定有形文化財>(一本木稲荷神社境内)

 この残存する標石1基は、上辺30.1㎝四方、底辺45.0㎝四方、高さ96.5㎝の安山岩製で、昭和45年(1970)北海道開拓記念館の調査で、標石の土台石の下に函館測候所の創設者である福士成豊(続豊治の5男)の名の刻まれた石柱が確認された。


 一本木稲荷神社の裏手の広い敷地の一角に、説明碑とともに設置されている。


 一本木稲荷神社

◎その他関連資料
 
苫小牧と函館間を結ぶ三角網   北斗市分庁舎の大野郷土資料館にある三角測量の櫓の1/6の模型。
(共に、他サイトから借用)
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五稜郭跡兵糧庫

2017年08月26日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 五稜郭の築造当時の建物としては唯一現存している建物。
 大正期には「懐旧館」という箱館戦争の展示資料館として利用されてた。平成13・14年度(2001・2002)の修理工事の際には,文献資料や発掘調査成果から,庇屋があったことが判明し,現在に姿に復元された。
 もともとは「土蔵」として造られたが、箱館戦争の記憶から,いつしか「兵糧庫」と呼ばれるようになったようだ。


 8月中だけ無料公開されているので、観に行ってきた。


2つの部屋からなっていて、これは右側の部屋の内部


建築当時の五稜郭の目論見図(赤丸は兵糧庫に自分が付けたもの)


昭和47年の解体修理工事写真


五稜郭出土の生活用品


五稜郭出土の輸入品


左側の部屋の内部


五稜郭出土の建築用材


新政府軍艦 朝陽の竜骨の一部(旧幕軍艦 蟠龍に七重浜沖で撃沈された)


亀田川から五稜郭内に引きこんでいた上水道管


旧橋(一の橋、二の橋)の橋脚や敷板の一部
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松前半島一周ドライブ(メインは中山ケンタッキー)

2017年05月04日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

松前道の駅付近から眺める松前城のズーム

 連日の好天に、妻に「どこかドライブに行こうか?」と誘ったら、「松前の中山ケンタッキー」と言う。そんなところは聞いたことがない。「最近話題になっている、40年も続いている手羽先ととり足の店」だそうだ。
 検索してみたら、出てくる出てくる・・・最近、かなり話題になっているようだ。きっかけは、2013年のHBCTVでの放送らしい。しかも、松前の市街地ではなく、字江良というのも興味が引かれた。

 江良なら、江差回りでも松前回りでもほぼ同じ距離(115km強)である。そこで、道路が空いていると思われる江差回りで、松前半島を1周ドライブすることにした。 


まずは、一昨年たまたま見つけたタラの木がたくさん生えている厚沢部町木間内の林道へ入ってみた。
まだ、ちょっと時期的に早く、芽は小さかったが、1回食べる分くらいをゲット。


厚沢部町道の駅で買った小さな黒豆の入ったおにぎりともちもちコロッケときのこじゃんコロッケ


厚沢部川河口から眺める遊楽部山塊

江差の道の駅も上ノ国の道の駅も激混みで、駐車する空きも場所もなかった。
ひたすら、「中山ケンタッキー」を目指す。


大島小学校の入口を過ぎた辺りの海側のおよそ店には見えない感じの建物がそれだった。
しかも、看板もなく、営業中の旗が1本立っているだけ。
ここが地元で「中山ケンタッキー」と呼ばれている名物店。中へ入ると、香ばしい匂いが漂う。
塗りつぶした文字は「中山商店」となっていたようだ。昔は肉屋と民宿を営業していたらしい。


メニューは「手羽先」1本60円、「とり足」(実際はとりもも)1本250円のみ。
手羽先を10本、とり足を2本ゲット。どちらも揚げ立てだが、とり足は注文してから揚げてくれた。


妻と一緒に写真に収まってくれた81歳の中山チヨノさん。40年間、この場所で鶏を揚げ続けてきたという。
営業は、ざっくりと「昼ごろから夕方まで」とのことだが、休みは元日くらいで、年末になると帰省した人たちの注文で、1日に1000本も揚げることがあるとのこと。特製のタレにじっくり漬け込むのが美味さの秘訣か?
「今の江良は人が少なくなって、年寄りばかりで、こういうものは食べなくなった。ここから出て行った人たちからの注文で、今は送る方が多い。あとは遠くから買いに来てくれる人も多い」とのこと。

 
 熱いうちに食べたいので江良漁港へ下りて、松前小島と松前大島(右奥に微かに見える)を眺めながら、厚沢部町の道の駅で買ったおにぎりと一緒に昼食とした。
 確かにとても美味しい。妻に言わせると、五稜郭駅そばの有名店大林商店と同じ味とのこと。


松前市街地手前の「立石三十三観音」
 
 松前のサクラは何度も見ているし、道の駅の駐車場は空き待ちの車が200m以上も並んでいるので、そばの橋の上から松前城の写真だけ撮って通過。


福島峠付近の新緑と春紅葉


木古内の新名所「札苅村上芝桜園」(昨年までは通称「村上さんちの芝桜」だった)


「札苅村上芝桜園」で見た黄色のカタクリ


木古内サラキ岬のチューリップ

 最後は、当別トラピストのソフトクリームで打ち上げようとしたが、待ち人の列が20人以上もいて、諦めて帰路に就いた。


夕食は、今年初のタラの芽とシイタケの天ざるセット
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「旧仁壽生命函館支店」内部公開

2017年01月30日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 大三坂途中(下の方)に建つ、大正10年に仁壽生命函館支店として建てられた建物。全国で活躍し、函館にも多くの名建築を残している関根要太郎の設計ではないかと言われている。
 コーティング・シュティール様式のスタコッタ塗りが目を引く。
 数日前の新聞に出るまで、大三坂にこんな建物があったことさえ知らなかった。
 旧仁壽生命が退去した後は海運会社の社屋としても使われ、その後、昨年10月まで一般住宅として利用されていたらしい。ただし、住宅は後ろの部分で、前の洋風の部分は物置として利用されていたようだ。
 「近現代様式と和の蔵が近接し、歴史の生き証人のような建物」として、伝統的建築物に指定されていた。

 この建物を箱バル不動産が買い取って、再生して、「大三坂ビルヂィング」として来冬にオープンする計画らしい。そのテナント募集も兼ねて、昨日と今日、内部の一般開放をしていた。




左奥の10月まで利用されていた住宅部分は、箱バル不動産が4部屋のゲストハウスとして運営するらしい。
テナント募集は、蔵と洋風の建物部分のみ。

<公開されていた内部の様子>

玄関の正面の階段


蔵の1階部分


旧仁壽生命時代からのものと思われる大きな金庫


洒落た縦長の洋風窓


2階の前方のキッチンのある部屋(このキッチンは撤去するらしい)


2階の前方の部屋のきれいな天井

 建物はかなり老朽化しているが、天井の装飾などに建設当初の面影を色濃く残している。旧仁壽生命時代から使われていた大きな金庫や建具が印象的。ただし、再生プロジェクトにはかなりの手間と費用が掛りそうだ。みごとに再生し、テナントが入って運営されるようになったら、ぜひ再訪してみたいものだ。
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レトロ建築・「大手町ハウス」 & 「ひし伊」

2016年04月16日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ
「大手町ハウス」がゴーフレット専門店として開店


 ニチロビルの裏手ある「函館大手町ハウス」(旧浅野セメント函館営業所)が、新幹線開業日の3月26日に、バターゴーフレット専門店として開店したということを知った。中を覗けるチャンスなので、訪ねてみた。

 歴史を調べてみると、この大手町ハウスは、1918(大正7)年に浅野セメント函館営業所として建造。この建物は、旧函館区公会堂など多くの建築に携わった名大工村木甚三郎に手による『擬洋風建築』である。

 正面両脇の搭状の構造やアーチが連なる玄関など、函館でもあまり他に例を見ない独特の意匠が印象的で、ずっと気になって建物だった。

 当時、セメントがまだとても高価な時代に、多量のモルタル、ブロックを巧妙に駆使した石造り風に作られ、重厚感と階高があり、とてもスタイルが良く、屋根の形や塔屋、窓の上下の飾りに現代では見られない意匠が施されている。

 しかし、1954年(昭和29年)「(株)北海道漁業公社」へと移譲され、第二の人生を歩むが、1988年(昭和63年)に同社が破たん、その後、10年以上もの間、閉鎖されたままだった。
 朽ち果てる寸前だったこの建物を、2003年に写真などを元に、北斗市の澤田建設が、約6ヶ月の工期を経て、見事に甦えらせたとのこと。

 建築当時の姿に復元されたあとは、一時期はカフェとして営業していたらしいが、再び長い間閉鎖されたままだった。歴史的に価値ある建物が再び日の目を見ることとなるのはうれしいことだ。2階部分は、物置状態で開放の予定はないとのこと。


玄関


1階部分の店と工房


玄関の左横にあるサロン

 
1階部分の西側の壁     「登録有形文化財指定」と「函館市都市景観賞」の章

 新しい店舗名は「BEURRE(ブール)函館本店」。七飯町大沼で観光牧場を運営する企業「どさんこミュゼ」が運営者らしい。

 
店の前の看板     一個ずつ手づくりが特徴


1個200円だが、8個では1200円でお得。
買ってきた3種類(メープル、カフェショコラ、ハスカップ)のゴーフレット。もちもちして美味しかった。


茶房「ひし伊」(ランパス13軒目)


 レトロな建築物ついでに、外からはいつも眺めているが、中には入ったことがなかった「ランパス」参加店である宝来町の「茶房ひし伊」へ。 

 この純和風の建物は、明治40年、大正10年、昭和9年の3つの大火をかいくぐってきた函館唯一の建築物として有名である。中に火が入らないように用心土で全ての隙間を塞ぐ工夫がされたことによるらしい。
 左から、茶房「ひし伊」(石造り・大正10年)、中は、玄関とアンティークショップ(土蔵造り・明治38年)、右が、母屋(全国でもかなり早い鉄筋コンクリート・明治38年)
 

玄関を入ったところ


左は質蔵を利用した茶房の入口。右はアンティークショップ


1階は洋風


2階は和風


太い梁には「大正十年九月十七日上棟 入村富吉建立」と記されている



提供メニューはトーストセット。
ボリューム的には物足りないが、建物や店内の雰囲気を味わえるだけでも大満足
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今年最後の「箱館ハイカラ號」

2015年10月31日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

十字街交差点のカーブ

 この「箱館ハイカラ號」の運行期間は、4月15日~10月31日で、今日が今年最後の運行日だった。
 ふと思いついて、運行時刻を調べて、最後の運行を追いかけて、写真に収めてみた。

 この箱館ハイカラ號は、1910(明治43)年に千葉県成田市の「成宗電気軌道」という会社が購入した車両を、1918(大正7)年に「函館水電」が譲り受け、旅客車として運行。その後、1937(昭和12)年に除雪用の「ササラ電車」排2号へと改造され、半世紀にわたって活躍。1992年の函館市市制施行70周年記念事業の一環として、旅客車時代の図面を基にして現在のように復元された。

 車体は往時の木製ではなく鋼製となったが、台車はササラ電車時代から使用されているものを再使用しているほか、車体側面には不燃処理された木目の美しいナラ材が張りつけられ、内装にも木が使われるなど、オープンデッキの運転台とも相まって、明治時代の路面電車の姿が再現されている。

 他の電車とは異なり、専用のレトロ調制服を着用した運転士と車掌が乗務する「ツーマン運転」で運行されている。発車の際に「チンチン」と鐘が連打されるが、これは車掌から運転士へ「出発してOK」という合図。この音が、路面電車の通称「チンチン電車」の語源のひとつと言われている。


大手町付近


青柳町電停付近


専用のレトロ調制服を着た運転士と車掌


折り返しとなる谷地頭電停


函館駅前交差点のカーブ


谷地頭電停での一番新しい「らっくる号」との珍しいツーショット。
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函館山七福神巡り

2015年06月12日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 七福神とは、弁財天・毘沙門天・大黒天・福寿禄・恵比須・布袋尊・寿老神という、七神のことをいう。日本古来の神様は恵比須のみで、弁財天・毘沙門天・大黒天はインドの神様、福禄寿・布袋尊・寿老神は中国の神様とのこと。

 七福神巡りは、元旦から7日までの間(もしくは15日まで)にお参りして歩くもので、室町時代に京都で始まったといわれている。やがて全国各地に広がり、江戸時代には庶民の風習として大流行した。

◆函館山七福神とは?

 函館山七福神の歴史は、江戸時代末期にさかのぼる。町民文化が盛んであったころに「七福神祭」が行われていたという記録が残っており、古くから信仰されていたようだ。また、函館山のふもとにある町の名前に、弁天町、旧大黒町、旧恵比須町と、七福神の名前が用いられていたことからも、身近なところに七福神の存在があったことがうかがえる。

 実は、6/7にガイド付きのこの七福神巡りの催しがあったが、大千軒岳登山の予定が入っていたので参加できなかった。そこで、今日、MTB(マウンテンバイク)に跨ってぐるっと回ってきた。

○弁財天 <厳島神社>
創建は江戸時代前期。古くから海の守護神として、漁業者や商人から信を得てきた。境内には、寄進された貴重な遺物が多く、手水石鉢をはじめ、加賀の廻船主たちが寄進した鳥居や、海上安全のため奉納された方位石などがある。
 
弁財天・・・もとはインドの水辺の女神。琵琶を奏でる姿から芸妓上達の神、また水は浄める力を持っているということから金運、財運をつかさどる女神とされる。
※公開(弁財天・恵比須堂のガラス窓越し) 

○毘沙門天 <称名寺>
 1644年創建。1881(明治14)年に現在地に移転。市内では高龍寺に次ぐ歴史があり、開港当初はイギリスやフランスの領事館、箱館戦争時には新撰組屯所が置かれていた。境内には、新撰組副長・土方歳三の供養碑や著名人の墓も多数ある。
 
毘沙門天・・・インドの神様。四天王のひとつ、多聞天の別名。右手に矛、左手に多宝塔をかかげる、武装分怒の守護神。
※公開(寺務所・宝物館内。寺務所に申し出が必要)

○大黒天 <実行寺>
 江戸時代に創建された日蓮宗の寺院。開港後はロシア領事館としても利用されていた。現在の建物は1918(大正7)年に完成したもので、本堂はケヤキが使われた美しいたたずまいの土蔵造り。境内には「日仏親善函館発祥記念碑」などの碑もある。
 
大黒天・・・インドの神。大黒神とも呼ばれ、元来は武神。右手に小槌を持ち、米俵を踏まえている姿になり、恵比須神と並んで厨房の神とされる。
※公開(北辰殿内。寺務所に申し出が必要)

○福禄寿 <船魂神社>
 函館山のふもとの日和坂上にある神社。北海道最古の神社といわれ、源義経にまつわる伝説もある。海に関連する神が祀られていて、漁業や船舶の関係者のみならず、受験生、就職活動中の学生など、進路守護を願うかたも参拝に訪れる。
 
福禄寿・・・中国の神様。南極星の化身といわれる。長頭で不老長寿の薬が入ったひょうたんを携え、延命長寿の神、また財の神、方除け神とされる。
※公開(境内本殿近く。自由に拝観可)

○恵比寿 <恵比寿神社>
 現在の函館繁栄の基礎を築いた江戸時代の豪商・高田屋嘉兵衛に関連する資料を展示していた北方歴史資料館(現在閉館)横にある神社。神仏の信仰厚かった高田屋嘉兵衛が守護神として屋敷に恵比須神を祀ったことから由来。

恵比須・・・右手に釣竿、左手に鯛を抱える姿から、元来は海を守る神、大漁の神、商業が栄えた室町時代のころからは商売繁盛の神とされる。
※非公開

○布袋尊 <天祐寺>
 1850(嘉永3)年、福島県相馬から来た僧が大聖歓喜天を祀ったのが始まり。現在は別堂に祀られているが、寺の前の青柳坂は「聖天坂」とも呼ばれていた。本堂に向かって右前には、かつて函館山にあった薬師如来石像も祀られている。
 
布袋尊・・・七福神の中で唯一実在した中国の禅僧。福々しい姿に大きな袋を背負い、喜びを施した。無邪気で無欲な心の豊かさを諭す神。
※公開(境内に入って左手。自由に拝観可)

○寿老神 <住三吉神社>
 神社の創立年代は未詳。言い伝えによれば、鎌倉時代に創建されたとのこと。1934(昭和9)年の大火により社殿が類焼。三吉神社と合併合祀の上、翌年、現在の社名に改称された。社殿に向かう参道は、桜観賞スポットとしても有名。

寿老神・・・中国の延命長寿の神。巻物を結んだ杖を携え、三千年の長寿の象徴の鹿をつれている。うちわで難を払うことから、諸病平癒などにも功徳があるといわれる。
※非公開(他の寺社にはあった七福神の立て看板もなかった)
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