癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

あっという間の60万件突破

2006年06月27日 | PC・HP・ブログ
 昨夕、気づいたときにあと50件ほどでアクセス60万件であった。キリ番ゲットを試みようと思ったが、夕食を食べて気づいたら、すでに27件ほど越えていた。

 50万件を越えたのが昨年の10/14だから7ヶ月半で10万件を越えたことになる。これも記録更新である。この数字もここまで多くなるとマンネリ化してしまってだんだん感激が薄れてくる感は否めない。しかし、自分の山の励みや更新意欲の原動力になっていることも事実であるし、豊かな人間関係の構築にも繋がり、私の豊かな人生を演出してくれているのも確かである。

 改めて、この場を借りてお礼申し上げます。
ありがとうございます。いつまでも元気で山に向かい、更新し続けてまいりますので、今後ともよろしくお願いいたします。

 それにしても、最近の天候はどうなっているのだろう? 今日も明日も雨予報・・・今月は天候に恵まれず、思うように山へ向かえず、家でPCの前に座っていることが多かったような気がする。今日もそうであるが・・・。 

ハコダテイズム コンシェルジュ

2006年06月23日 | イベント鑑賞・参加
 このたび、説明を受けるまで意味の分からなかった、舌をかみそうな名前の活動を依頼された・・・。

 旅の雑誌「じゃらん北海道発」と日本初のコミュニティFM局「函館FMいるか」との共同企画のWEBマガジン「ハコダテイズム」のコンシェルジュ(案内人)ということである。
http://www.fmiruka.co.jp/h-ism/index.html
 
 これは、函館で生活をする人々や、これから函館で生活を送りたいと考える人々のために、それぞれ、自分の得意ジャンルの情報やアドバイスをブログを通して発信するのが仕事だそうである。

 昨秋、山のことで、FMいるかへの出演をきっかけに、今年の「FMいるか通信」1~3月号に「人ネットワーク」で1ページ掲載されて・・・・さらに、このたびの委嘱となった。

 依頼内容は、函館市や近郊(道南エリア)の登山情報を中心としたブログの開設である。依頼を受けた5月下旬に「函館近郊 山だより 花だより」というブログを試作して公開してきた。内容的には、本サイト「一人歩きの北海道山紀行」の道南エリアに限ったダイジェスト版のようなものである。

「函館近郊 山だより 花だより」は、下記からどうぞ!
http://hako-yamahana.seesaa.net/

感激の手作り結婚式

2006年06月21日 | オフミ・飲み会
昨日、壮瞥町蟠渓温泉で行われたHYML(北海道の山メーリングリスト)仲間の結婚式に参加してきた。

              

 心身の湯治治療のための逗留が縁でそこの支配人と結ばれ、看護師から湯治専門宿の女将に転身したというめでたい話である。数人の仲間とともに喜んで参加させていただいた。

              
 
 小さな温泉場での滅多にないおめでたということで、馴染みの湯治客と地域の住民が開催してくれたという心温まる手作りの結婚式と祝賀会は、感動ものであった。裏山にある蟠渓神社始まって以来という神前結婚式、蟠渓ふれあいセンターでの手作り感溢れる祝賀会・・・子供の頃の田舎の結婚式を懐かしく思い出した。自宅から祝賀会場まで花婿花婿衣装で歩いて移動する珍しい姿に通る車がみんなクラクションを鳴らして通り過ぎて行った。

              

 年齢を感じさせない初々しさと幸せ一杯のお二人の姿、そして、心から祝ってくれる地域や馴染みの湯治客たちの姿に、こちらまで幸せをたくさんいただいてきた。

 女将さんを迎えて、より心温まるおもてなしが期待できる温泉宿は、日帰り入浴がうれしい250円という「蟠渓温泉健康センター」である。 

胸が痛む庭木の伐採

2006年06月18日 | 日常生活・つぶやき
                    

 今日まで我が家の前に生えていた背丈4mほどのオンコ(イチイ)の木を思い切って切り倒した。母方の祖母がここに家を建てた40年ほど前からの庭木で、今の家を建て替えたときに家のまん前に植え替えたものである。

 ときどき挟みを入れては紡錘形に保って来たが、最近になって葉がどんどん枯れるようになってきた。本来であれば、この時期、新芽をどんどん膨らませて1年中でもっとも美しくなるときである。しかし、枝の間がどんどん隙間だらけになり、家の前が枯葉でいつも散らかるようになった。2年半前に家の前の道路が舗装されたときに、その木の根周りを直径2mほどしか残さないで家の前も舗装してしまったことが原因かも知れない。

 40年間にわたるわが家の変遷を見ながら生きてきた木である。いざ切り倒すとなると胸が痛む。下の枝から順番に切り落としては周りから眺めて、上だけでも残そうかとも思ったが、上の方も枯れているのには変わりない。だんだん不格好になっていくのを見て、思い切って根元に鋸を入れた。

 年輪を数えたらおよそ50年であった。延命の手立ても講じないで自分より若い命を絶ってしまったことに一抹の心苦しさを禁じえなかったが、今度から車の乗り降りや階段の昇り降りがスムーズになる・・・とプラス思考で納得することにした。
 
 それにしても、小さな折り畳み式の鋸での堅い木の切り倒しと粗大ごみとして持っていってもらうための整理作業はきつかった。わずか3時間であったが、久しぶりの汗だくの重労働で、10時間山を歩いたときよりも疲れた感じで、しばし、ソファーで横になった・・・・。

未知の国・ウズベキスタン

2006年06月15日 | イベント鑑賞・参加
 今、北海道立函館美術館開館20周年記念イベント第2弾として「魅惑のシルクロード展」7/5まで)が、さらに、それと連動した形で、函館駅のイカスホールで「写真展 素顔のウズベキスタン~中央アジアの風~」(6/23まで)が開催中である。

 本日、現職時代の仕事の退職者互助会の「美術鑑賞講座」が、美術館で開催され、それに参加した。講堂で学芸課長さんの「魅惑のシルクロード展」についての45分にわたるオリエンティーション後、展示を鑑賞した。受講者が100人以上もいるのに、会場に入る前に広報誌に掲載予定の参加感想文の原稿を依頼され、否が応でも真剣に鑑賞しなくてはならなくなった。


             

 この展示では、古代から東西文明が交差するシルクロード交易路の重要なポイントとして栄え、文化の繁栄を担ってきたウズベキスタンやタジキスタンなど中央アジアで生産されていた美術工芸品を中心としたイスラム美術の真髄が紹介されていた。展示品は、金属工芸品、銀製品、陶器、タイル、木工芸品、テキスタイル、衣装、ジュエリー、家具、馬具、遊具など約300点であった。

 アジアとヨーロッパのいろいろな文化の影響を受けながらも発達した独自の文化や工芸技術が現在まで脈々と受け継がれていることに感動した。印象的なことは、砂漠ゆえに木材は貴重品で、それを使っての建築は富の象徴であったということや、日本と同じ絣模様の織物である経絣(たてがすり)に親近感を覚えたことである。

              

 それを見た後、函館駅へ出掛け、北海道新聞社函館支社の中川明紀カメラマンが現地へ出掛けて撮影してきた「写真展 素顔のウズベキスタン~中央アジアの風~」も鑑賞してきた。
              
 実は、この中川カメラマンは、一昨年12月の北海道新聞全道版に見開き2ページで掲載された四国遍路の取材で私の写真を撮ってくださり、その後も、私のことを覚えていてくれているうれしい方である。偶然、本人が会場にいらして、親しくも懇切丁寧な説明をしていただきながら鑑賞することができた。

 美術館で鑑賞した美術品の背景となったウズベキスタンの現在の人々の生活ぶりや文化、歴史的な建築物などが温かく映し出されていた。3500枚も撮った中から展示する30点ほどを選ぶのに頭がパニクッて大変だったそうである。

 彼の「これまで10年のカメラマン生活で、もっともやりがいのある充実した仕事でした。」という言葉がうれしかった。美術館の「魅惑のシルクロード展」は、この後、北海道立帯広美術館へ移動するが、彼の写真展も連動して帯広で開催されるとのことである。

『山と渓谷8月号』の原稿送付

2006年06月13日 | 日常生活・つぶやき
 昨年から引き受けることになった月刊誌『山と渓谷』の「全国名低山」シリーズの北海道の山担当であるが、今年から「今月の山」シリーズに変わった。昨年の最初の掲載は北見の「仁頃山」であったが、2回目となる依頼原稿は、今年の候補として提出していた4山の中から8月号対応の「チセヌプリ~シャクナゲ岳」が選ばれたようで、一昨日、その依頼が届いた。

 昨年中の取材を兼ねて登った山の中から候補を提出してあるので、掲載決定が届いても直ぐに書くことができる。今回の「チセヌプリ~シャクナゲ岳」は、チセ頂上の火口底にある2つの沼、シャクナゲ沼、長沼、神仙沼などの湖沼巡りをテーマにした循環縦走である。

 今日の悪天候をいいことに、午前中に一気に書き上げて、写真や地図とともにメールに添付して送ることができた。これから何度か検討のためのやりとりが繰り返されるのだが、発刊予定の7月中旬が楽しみである。5月号対応の候補はボツになったが、まだ9月号対応と11月号対応の候補も提出してあるので、もう1回ぐらい掲載されればうれしい限りである。

2ヶ月ぶりのジョギング

2006年06月13日 | 日常生活・つぶやき
 悪天候が続いたのと法事等で10日ほど山から遠のき、悶々とした日が続く。汗をかきたくて、夕方、わずか5kmほどであるが、五稜郭公園の堀周りをジョギングした。調べてみたら、なんと2ヶ月ぶりである。すっかり走る筋肉はなくなり、体の動きもぎこちない。しかし、ゴール後の風呂は気持ちがよく夕食のビールが旨い。明日は、いや、明後日かな?腿や脹ら脛は筋肉痛であろう。

 勤めていた頃は、月~金までの週2~3回は早朝や夕方にジョギングをすることができた。その延長上で57歳からの3年間は、函館ハーフを初め、伊達ハーフ、長万部カニハーフ、大沼1周などの大会にも出場した。退職後は、時間がふんだんにあるのでもっと走れると思っていたのに、天候がいいと山に向かったり、数日間の山旅に出掛けたりで、すっかりその日数が減ってしまった。昨年は肩の故障をいいことにほとんど走ることがなかった。

 山や冬のクロカンスキーのトレーニングを兼ねて走らなくては・・・と思うのだが、山とクロカンスキーは毎日でも、何時間でも楽しんで続けることができるのに、どうも走ることは好きになれない。単調なこともあるのか、ただ辛さとの闘いだけで、楽しんで続けることができないのである。「走るのが楽しい」という人が羨ましい。

 明日は、久しぶりに青空が覗きそうである。例年より遅いという情報の3種類のツツジ(ヤマ、イソ、サラサドウダン)と高山植物の花を楽しみに恵山に出掛けるつもりである。 

実感!歳月経過の速さと重さ

2006年06月12日 | 日常生活・つぶやき
 昨日、母の7回忌に合わせて父の50回忌も2年繰り上げて行った。3人の弟妹は大学卒業後、全て本州(関西2名、関東1名)に落ち着き、4人が顔を合わせる機会は慶弔時しかなかった。15歳の自分を頭に4人の子供を抱えて苦労した母親の老後の楽しみのひとつは、父の法事(函館近郊の温泉か湯の川温泉一泊が恒例)に集まる我々家族との出会いであった。

 父の法事やそれぞれの結婚式のたびに全員顔を揃え、一人二人と家族が増えていく。それぞれの家庭に子供が2人ずつでき、母からすると8人の孫が勢揃いしたのが父の27回忌であった。その後、33回忌と37回忌を経て、次は孫の結婚式が全員集合のはずであったが、それを見ることなく83歳で逝った母の葬儀が先となった。

 今度は母を欠いた全員集合が母の法事になった。母の一周忌、その秋の予定にはなかった妻の葬儀、さらに翌年母の3回忌と息子の結婚式、さらに翌年の娘の結婚式・・・と立て続けに顔を合わせる機会が続き、今回が2年ぶりの再会であった。

 「親の50回忌をできる子供は稀である」と言われるが、それだけ早く親を亡くしたという証拠でもある。いつも法事で顔を合わせての一番古い話題は、当然父の死である。その後、母の苦労と日本育英会のお陰で、全員が合い言葉であった「進学したかったら国立大学、浪人なし」を経て自立することができた。子供心にも母子家庭の苦労を乗り越えてきた自負心がそれぞれの今日の基盤になっていることは紛れもない事実である。

 そんな我々も、父の逝った年齢を遙かに超え全員50代以上になり、退職した自分を含めて人生の着陸態勢に入ってきた。8人の孫も32歳を頭に22歳までとなった。今度顔を合わせるのは母の13回忌の前の甥と姪の結婚式であることを願って、それぞれ本州へ帰って行った。

北海道の「海」はアイヌ語に由来!

2006年06月08日 | 日常生活・つぶやき
 本日、本サイトの「北海道の山名の由来」のページに、これまで調べ貯めていた31座を追加し、240座ほどのアップとなった。そのことをHYMLに流したら、興味深いレスがあった。
 
 それは、北海道という地名もアイヌ語に由来するらしいということである。初耳(目?)である。北海道の命名者はアイヌの人たちを非常に大切にした松浦武四郎である。ひょっとしたらそれもありかな?と、半信半疑で、北海道の原形となった「北加伊道」(これは知っていた)で検索を入れてみた・・・・。

ヒット!!!
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結果的に北海道に納まるのだが、これはかれが提案した「北加伊道」の変形である。原住民のアイヌには文字がなく、「夷人(アイヌのこと)が自らの地をカイと呼んでいた」ことを重んじ、北のアイヌの国を意味する『北・加伊・道』を提言した。最終的に「加伊」は「海」に変化し決着した。
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上記と同じような内容の記述がいくつかのサイトで見つかった。
http://www.k3.dion.ne.jp/~kamishin/HokkaidoName.htm
http://members.jcom.home.ne.jp/skipio5268/01hokkaido/hok00-name.html

 恥ずかしながら初めて知ったことであるが、どうやら間違いのない事実のようである。先住民族であるアイヌの文化や習わしを重んじた松浦武四郎らではの快挙である。彼の偉大さと、次元はまったく違うが、調べたいことが直ぐ分かるネットの凄さを再認識した・・・

榎本武揚が箱館へ来たわけ

2006年06月04日 | イベント鑑賞・参加
 本日、以前から楽しみにしていた箱館戦争関連の講演会が中央図書館で開催された。講師と演題は、ノンフィクション作家・合田一道氏の「箱館戦争の意味するもの」、榎本武揚の直系の曾孫で東京農業大学客員教授・榎本隆充氏の「榎本武揚の戊辰戦争~最後の戊辰戦争は何故は箱館で」である。

 合田氏は、地元に残るいろいろな資料や史跡等の調査研究に基づいた戊辰戦争の経過や榎本武揚を中心とした脱走軍の願いや動きを、榎本氏は、自宅に残る本人から家族に宛てた手紙や彼を取り巻く人々の関係資料などの調査研究を基にした箱館戦争終結までの彼の半生が中心の話であった。

 これまで断片的な知識として頭に入っていたことやその背景が体系的に把握でき、認識を新たにすることができた。とくに、その中で、自分的には新鮮で興味があったのは榎本氏の講演の中での「榎本武揚が箱館を選らんだわけ」であった。すなわち、蝦夷共和国を考えた根拠である。

 3点ほどの理由があるらしい。その一つは、以前に蝦夷地に来ていて、地図等を入手していて土地勘があった。これは、結果的に戦いのときの兵の動かし方にも有利であったとのこと。二つめは、開陽丸建造に伴う5年近くのオランダ留学で、蝦夷地は農業立国のほか、豊かな地下資源や海産物をもとにした貿易立国としても十分やっていけると考えていたこと、三つ目は、当時海外に開かれて外国から重要視されていた箱館の立地条件である。津軽海峡を制圧すれば、外国の調停が入って、本州と分断されたひとつの国として認められるのではないかと考えたこと・・・などであった。

 また、諸説がある土方歳三と榎本武揚がいつどこで出会ったのかという点も、これについては最近になって新たな資料が見つかったということも目新しい情報であった。 

私はまだまだ若輩者・・・

2006年06月01日 | 日常生活・つぶやき
 本日、畏れ多くも、函館市公民館で開催されている函館市高齢者大学の300名近い学生?を相手に講演をしてきた。演題は「四国遍路 40日間心の旅」・・・あちこちから依頼されてこれで8回目である。

 今回が一番人数が多く、会場も広く2階席まである。これまで使ってきたパワーポイントでのプレゼンテーションの画像は、テーマごとに1ページに4枚構成で作成してあったが、それでは小さくて、1ページに1~2枚構成で全部作り替えた。

 大きな会場をびっしりと埋め尽くした平均年齢70歳を越えているとはとても思えない若々しい大先輩の学ぶ意欲に圧倒されながら、1時間半話させていただいた。頷きながらときには笑いながらこちらの話を真剣に聞いてくれる姿に引き込まれて気持ちよく話させていただいたが、最後まで「自分はまだまだ若輩者だな~」という想いは消えなかった。