今日は、岩国市の錦帯橋も見たかったので、錦帯橋の近くに宿を取った。錦帯橋にいちばん近い関戸宿の先のバス停をゴールとした。
競売、5ヵ所の峠があり、しかも、4ヵ所は昔のままの、今では街道歩きの人しか通らないような自然道である。そのせいか、歩行距離の割には時間が掛かった。
廿日市宿~玖波宿
宮島口から廿日市駅まで移動して、6:20、まだ薄暗い廿日市宿の昨日のゴールをスタート
朝の交通ラッシュの車がうるさい県道をしばらく歩き、狭い旧道へ入って、ほっとする。しかし、1時間以上歩いても、興味をそそられるものはない。
そのうちに、登り坂となる。一里塚跡も現れる。
ずっと県道だが、長い登り坂が続く。ここは「四郎峠」である。峠まで2kmほどもあった。さらに、峠から2kmほどでようやく集落が見えてきた。
峠が、合併前の大野町との境界だった。昔の大野村を太郎、次郎、三郎、四郎、十郎という五人の兄弟が開墾し、それぞれが開墾したり住んだりした所に地名などを残した。四郎峠の名は、中山に住んだ四郎に由来していると伝わる。
宮内集落に入り、更に下って行くと、右手に「観音堂」と「今川貞世歌碑」がある。今川貞世(了俊)は足利義満から九州探題に任ぜられ、その任地に下がるときの紀行文「道ゆきぶり」を残した。この歌碑は、ここ中山を通過したとき景色を詠んだもの。
ここを右折すると山間の、のんびりした旧道になった。車も来ないので良い感じだ。左手の茂みの前に「史跡一里塚跡」の碑がある。
その先「十郎原」と書いた案内板が置いてあり、「伝説「大野五郎」の五兄弟のうち末弟十郎が開墾したところとして十郎原の名が残っています。」と書いてある。
やがて、狭い旧道は民家の裏側の山裾に続く。それが、昔のままの自然道となり、「四国街道ウォークロード」の看板が続く。
途中に、手作りの可愛い水車が列なっている。
快適な昔にままのタイムスリップしたような細い道がずっと続いている。
高畑に入ると、左手に「古代山陽道の高庭駅家跡・濃唹(のう)駅家跡」がある。古代山陽道には約16km毎に役人の宿泊や、乗継ぎ用の馬を備えておく「駅屋(うまや)」が置かれた。平安時代以後濃唹駅に変ったという。山上憶良の歌碑も建つ 。
ようやく、大野浦の集落の中に入っていく。銀色の瓦の屋根も増えてくる。
大野小学校のそばに、明治9年の道標があり、「右 宮島 廣島道 左 宮内 妹背瀧道」と彫られている。
大野浦の集落を抜けると、再び、山道となる。「石畳」の道も現れる。今回の旅では初めて目にする。
昔のままの道が「残念社」への道となる。昔、建物があったと思われる石垣の横を通っていく。案内標識がたくさんあるので、それにしたがって登っていく。やがて、「ざんねん砦」の碑が建つ。
また、石畳の道となり、「残念社」が現れる。
気になる名前だが、慶応2年四十八坂を単騎で西に向かっている幕府軍の武士がいた。これ見た長州軍の兵士が勘違いで狙撃して;しまった。その武士は、「残念」と言って倒れた。後にこの武士は丹後宮津藩士の依田伴蔵で、軍使として長州軍営に赴く途中であったことが分かり、長州軍は遺憾の意を表した。村人が伴蔵の戦死を哀れんで祀ったのがこの社である。
やがて、「八坂峠」に到着。ここには「三県一望」の展望台があり、瀬戸内海が一望できる。昨日訪れた宮島も真向かいに言えた。
そこに、依田神社の鳥居が立ち、下に大きな石がある。これは、「吉田松陰腰かけの石」て、海を眺めたという。松陰はここから見える周防大島の出身だという。
やがて、峠をくだっていくと、正面に工場群が見える。石垣の間を抜ける道もある。
やがて、鳴川をわたって、廿日市市から大竹市に入る。また、登り坂となる。
「鳴川の石畳」が現れ、旧西国街道の説明板もある。
この峠は、「鉾の峠」である。下りていくと唐船浜へ出る。その先が、玖波宿である。
30玖波宿~関戸宿
「玖波宿」にほ、本陣跡付近の旧家や高札場跡の標識もあった。
宿を抜けると、また、山の方へ向かう。しかし、まもなく、「間の宿 小方」に出る。ここの写真は、玖波宿とごっちゃになり、間違って消してしまった。すぐに抜けるような集落だった。
今度は、「苦の坂」へ向かって登っていくが、舗装道路の先は通行止めになっている。そこの先に入ってみたが、道らしい痕跡はない。迂回するには莫大に遠回りとなる。
参考にしているサイトの方はどうしたのだろうと思って見たら、「仮設階段を登った」と書いてある。先にそれを見たときは、何かの工事用のものだと思ったのて、登ってみる気もしなかった。
それを登り、竹林の中の自然道を歩いていくと、すぐに「苦の坂」峠に出た。説明板には、苦の坂の名前のとおり、難所に数えられていたと係れている。
下り坂は、落ち葉が積もり、下の浮き石が見えないので怖い。こんなところで捻挫などしたくない。慎重に下る。
出口には、「長州の役戦跡苦の坂入口」の碑と説明板がある。下っていくと、木瀬集落に出る。
苦の坂を下って、県道に出る。そこ先の小瀬川を渡る。渡り切る土古路に「山口県 岩国市」の標識がある。
京都~大阪~兵庫~岡山~広島と歩いてきて、いよいよラストステージである。ちょっと灌漑深いものがある。
その先の川原に、昔の渡船場跡があったらしいが、通り過ぎてしまった。小瀬地区を進むと、曲がり角に「吉田松蔭の歌碑」がある。安政の大獄で、江戸へ護送された安政6年、30才の時の歌である。このあと、江戸で若い命を終わらせることとなる。
小瀬集落を抜けると、またまた、山の方へ向かっていく。小瀬峠越えである。
入口に標識があり、またまた、昔のままの道となる。本日最後のタイムスリップを楽しんでいくが、すぐに舗装道路に出た。そのあとも部分的に旧道があったらしいが入口が分からず、そのまま、舗装道路の峠を越えて、山口県最初の「関戸宿」へ入っていく。
31関戸宿~関戸バス停
「旧山陽道と関戸本陣跡」の説明板もある。そこまでは旧家もあったが、そこから振り返って撮った写真には写っていなかった。
国道に出て、バス停をさがしてうろうろしたが、ようやく見つけら5分前にバスが出だところだった。
ブログの写真の整理をしていたら、すぐに50分が経って継のbusにのることができた。
錦帯橋は10分もしないうちに到着。明日の朝のバスの時刻を確かめて、初めて目にする錦帯橋へ。
錦帯橋
これまで、写真で何度も見ていたが、予想していたより、ずっと大きかった。5連で両側の2つと真ん中の3つの造りが違うことが初めて分かった。
渡るのに、往復310円取られるとは思わなかった。前を学校帰りの子たちが歩いていた。この子たちはもちろんただだろう。
夜のライトアップもされるらしいが、たいぎなので行かず、他サイトからパクり。
錦帯橋から10分も歩かないうちに、今日の宿の「三原屋」に到着。大正年代の建物で、築100年弱とのこと。
GoTo割り引きで、2734円だったか、こちらの手違いで、地域クーポン券は付かなかった。
早速、岩風呂へ入って、ブログアップ作業に取り組んだ。途中で、コンビニに買い出しに行って、夕食を食べたら眠くなって、途中でキブアッフ。残りは夜中に起きて書いた。さあ、また寝れるかな?
今日の歩数計 50000歩。