癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

6日目 16由比宿~17興津宿~18江尻宿~19府中〈23.7km 〉

2017年05月31日 | 登山・旅行
 昨夜は、8時頃に眠りに就いた。スタートが遅いこともあり、安心して10時間近くも爆睡。疲れがすっかり抜けたようで足も軽い。

    
 朝食も摂り、予備日もあるので、予定を1宿手前の府中までとした。府中とは、今の静岡である。初めて知った。恥ずかしい。宿も見つけやすかった。8時にスタート。

    
 県道から離れ、薩捶(さった)峠の登り口へ。

    
 その上にも集落があり、峠越えを控えた倉沢は間の宿だったようだ。本陣跡や旅館などが立派な古民家が残っている。

    
 その上は、狭い街道の両側にはビワと甘夏みかんが栽培されていて、丁度収穫作業をしていた。

    
薩捶峠のピーク

    
 下っていくと、眼下に高速、国道1号、東海道本線、県道の4本が所狭しと通っていた。天気か良いと奥に富士山が見えるらしいが、今日は曇って見えなかった。

    
 由比側は舗装道路だったが、興津側は自然道でバイキングコースにもなっていた。写真のように、こんな所を大名行列か通ったのかと思うような所もあった。

 興津川を渡ると、旧国道1号と合流し、興津宿へと入っていく。現在は、国道1号の開発で、宿場としての面影はほとんど残っていないという。

    
 それでも、立派な水戸脇本陣が残っていた。ここは、右の建物が、終戦後まで旅館として営業していたらしい。

    
 興津駅を過ぎて進んでいくと、線路を挟んだ高台に建つ清見寺(せいげんじ)に寄ってみた。とても立派な庭園もそなえた大きな寺だった。豊臣秀吉が陣鐘として用いたという梵鐘、家康が愛したとされる庭園、朝鮮の使節がよく利用した寺だったり、琉球王子の墓もあったりと見所の多い寺だった。

     
 さらに、境内の奥には、五百羅漢もあった。

    
  さらに国道を進むと、西園寺公望の別邸「興津坐漁荘」があった。新しいので聞いてみたら、建て替えしたらしい。

    
 さらに進むと、道の分岐に「ほそいの松原跡」がある。昔は、この辺りは立派な松林だったが、太平洋戦争の終盤に飛行機の燃料として、松根油を採るために伐採されてしまった。

    
 やがて、江尻宿へと入っていく。ここは、清水港で栄えた宿場だが、商店街になってしまって、なにも残ってない。ただ、寺尾本陣跡の碑があった。

 街道からはなれれば、清水次郎長の生家や墓が見られるらしいが、往復2kmが億劫でパス。
   
    
 ほとんどシャッター街の商店街を抜けると、可愛いかっぱが乗った「稚児橋」がある。家康の命で架けた橋で、渡り初めの際に、川からかっぱの稚児が出て来て渡ったのが名前の由来だそうだ。

    
 だんだんビルが立て込み増えてくると静岡市街地にある府中宿へと入っていく。この写真は、宿東の入口の「東見附跡」。

 府中宿は、家安が晩年を過ごした駿府城の城下町として栄えた。駿府では最大の宿場だったが、やはり、商店街に吸収されて、その面影はない。

    
 商店街のど真ん中に立っていた「西郷 山岡会見の地」碑。この両者のこの会見で、江戸城の無血受け渡しが決まったという。

 15:00、ここを今日のゴールとして、駿府城跡公園へ。ここまでで、今回の最短7時間。

    
 東御門と巽櫓。ここが公園の入口

    
 徳川家康の銅像も立っていた。

 16:00、今日の宿となる、静岡駅近くのオレンジホテル到着。素泊まり4,750円。

     
 ホテルの近くに、静岡名物を食べさせてくれる居酒屋があった。「しずおかおでん」(黒い醤油を使う)と「しずおかめし」(まぐろ、漬けかつお、かつおぶし、しらす、山椒漬けなど)


5日目 12原宿~13吉原宿~14蒲原宿~15由比宿〈26.7km〉

2017年05月30日 | 登山・旅行
 いつもなら、脚が楽になる頃だが、箱根越えのせいか、今回は、今日が一番疲れを感じている。しかし、距離が短くて助かった。

 宿からバスと電車を乗り継いで、原駅を6:40にスタート。すぐに旧東海道へ出る。

    
 この辺りが、富士山が一番近くに見えるところである。
 優美な富士の容姿とは対照的な武骨な愛鷹山(二百名山なので登っている)も右に姿を見せている。しかし、先へ進むにつれて、その2つは離れていき、富士の右の裾野ラインも見えてくる。昔は、次の吉原宿までは、右に富士を、左に遠く田子の浦や伊豆半島を眺めながらの快適な歩きだったようだ。

    
 原駅からすぐの高嶋酒造は、江戸末期の創業。銘酒で名高い「白隠正宗」は山岡鉄舟の命名とか。

 次の吉原宿までは、ひたすらまっすぐな県道歩きが続く。昔は、田子の浦を眺めながらの歩きだったようだか、今は、建物が邪魔で全然見えないのが残念。

 吉原宿は、高潮の被害で、2回も北へ移動したらしい。大きく北へ迂回するのは、そのためである。

    
 そのお陰で?北側に富士が見える名勝左富士神社もあり、広重はその富士を題材にして、吉原宿を描いている。

 やがて、吉原宿へと入っていくが、宿場の中心地は、近代的な商店街になっていて、当時を偲ばせるものはほとんど残ってないという。確かにそうだった。

    
 繁華街から振り向くと、真後ろに富士山が見えた。

 やがて、富士川へ差し掛かる。この川は、フォッサマグマを構成する大地溝帯を流れる川である。 

    
 富士川橋の手前の渡船場跡などの碑

    
 橋を渡って対岸の渡船場跡にも行ってみた。常夜灯が設置されていて、史跡説明板もあった。今日の富士山は、ここが見納めだった。

    
 そこから、車道を挟んですぐ向かいの急な坂道を登る。非常に狭く江戸時代のままの道幅のようだ。

    
 住宅は連なっているが、峠越えのような坂道が続く。排水溝の蓋が面白い。この岩淵は、間の宿だったところだそうだ。

    
 蒲原宿へ下っていく途中の、対になって残っている「岩淵の一里塚」

      
 坂を下って行くと、路面の舗装の色が変わっている所がある。ここからが、蒲原宿ということらしい。

 このことからも分かるが、蒲原宿は、昔の風情を色濃く残す町である。ここまでの東海道では、見られなかった古い建物が多く残っていて、中山道を思い出す。

    
 しっかりした塗りの佐藤家

    
 昔の姿を見せている本陣跡の建物。中山道では本陣の建物が多く残っていたが、東海道では初めてだった。
 これらはほんの一部だが、土蔵造りの家や、黒塗りの塀など、古い建物があちこちに残っている。

    
 大正時代のモダンな洋館風の「旧東五十嵐歯科医院」
 
 宿場を抜けて県道に出ても、そのような古い家並みが、由比宿までずっと続く。

 東の木戸跡の先が、由比宿である。

    
 いきなり大きな古い建物が目に入る。昔の飛脚の引き継ぎ場所の役所跡だったらしい。

    
 豪華な由比宿本陣跡公園。ここも、蒲原宿と同様に、昔の風情を残して、観光客が多かった。この公園の中には、交流センターや安藤広重美術館などもある。

    
 安藤広重美術館

    
 その道路を挟んだ向かい側には、江戸時代の軍学者由比正雪の生家「正雪紺屋」。今でも紺屋を営業している。

 ここに着いたのが、14:00。スタートして、7時間40分だった。今晩の
宿は、その街道の先1kmのところである。まだ、チェックインには早すぎる。

    
 少し先にあった「由比宿おもしろ交流館」のレストランへ。

    
 暑かったので、つい、桜えびの唐揚げと生ビールで乾杯。
 由比は、日本一の桜えび産地で、町のあちこちに桜えびとしらすの幟が立っている。

    
 レストランの窓から眺める海岸線と明日越える薩捶峠。
 ブログの下書きをしながら、1時間ほど休憩して、宿へ向かった。

    
 今日の宿は、初めて、ゴールした宿場の中の「割烹旅館西山」。レストランも経営していて、評判も良さそうだし、桜えびを中心とした海鮮料理も楽しめそうだ。3段階あったが、一番安いコースで、2食付き8,800円。

 15:30には、チェックイン。早かったが、すぐに風呂に入ることができた。
 
    
    
 今が最盛期という桜えび尽くしの料理。鍋は、卵とじで食べるという。

⭕GPSに助けられて
    
 3日目からは、道をほとんど間違っていない。それは、何かのときに使おうた思って持参したGPSのお陰である。

 箱根越えのときに、高度を見ようとスイッチを入れたら、旧東海道か色付きで載っていることに気付いた。自分の位置も分かるので、ガイド本よりずっと分かりやすい。特に、市街地や宿場の中をくねくね曲がるときは最高だ。それでも、分岐を間違って進むこともある。しかし、すぐに間違いや戻り方が分かる。

⭕Ko玉さんの訃報

     
 昨日の午前中、歩いているときにCCメールが入った。数十回は同行しているKo玉さんが亡くなったとのこと。
 前人未到の北海道の名前のある山全山を踏破するという登山史に残る業績に輝く岳友(61歳)である。

 最後に会ったのは、昨年の祝賀会たったと思う。こちらの本に帯する祝意と感想のメールをいただいたのが、先月末だった。すでに緩和医療の病院に転院していたときで、今月一杯は持たないだろうと聞いていた。

 札幌出張のときに、お見舞いにいくつもりだったが、熱がが出て不調とのことで、遠慮してほしいとのことだった。実は、死を覚悟している本人に会うのは辛かったので、ほっとしていた。だから、自分の中では、元気な頃のKo玉さんの記憶だけだ。

 実は、今、西條さんを中心に彼の業績を讃える記念誌を作成中である。その発刊にもまにあわなかっのが残念である。

 上掲の写真は、彼が函館勤務の最後の09年の雨の中の松前の「大滝山~初神山」のときのものである。その後も何度もご一緒しているが、彼の希望で、このときの山行の原稿を、この写真も一緒に記念誌に寄せてある。

 帰ったら、お宅へ弔問に伺うつもりだ。合掌。


4日目 10箱根宿~11三島宿~12沼津宿~13原宿〈26.4km 〉

2017年05月29日 | 登山・旅行
 今日は、距離が短いので、焼きたてパンとコーヒーやジュースだけの朝食を摂り、バスで移動して、箱根関所跡を8:00にスタート。

 箱根関所は、「出女に入り鉄砲」と江戸を護るための厳しい取り締まりが行われていた関所で有名だ。今は復元されて観光名所になっていて、昨日のゴール後に観た。

 関所を越すと、箱根宿である。登り下りが厳しいので、ここで泊まる大名が多かったので、本陣も道中で最多の6軒もあったそうだ。しかし、今はその面影やその史跡すらない。

    
 5分ほどで、TVで見慣れた箱根駅伝の折り返し地点の広い駐車場に到着。そこには、富士山をバックに、箱根駅伝のいろいろな碑が立っていた。

 やがて、山の中の西坂と呼ばれる旧道へと入っていく。箱根街道の最高地点である箱根峠(854m)までは、上りが続く。

    
 昨日の東坂よりは、地形も穏やかで、それほど厳しい道でない。しかも、石畳の道も広く、とてもよく整備・復元されている。

    
 道端の徳利雲助の墓。元武士で剣術指南も勤めた大酒のみの男が、雲助に成り下がったが、学があるので、雲助仲間から頼りにされ、とても慕われたらしい。亡くなったときに、雲助仲間が酒好きの供養のため金を出しあって徳利の形の墓を建てたそうだ。

    
 北条氏が建てた山城・山中城址の北の丸があったところ。豊臣秀吉に滅ぼされたらしい。

    
 旧道の下に三島市街地と駿河湾を見下ろす。

    
 深く掘れた下に石畳が敷かれている、旧道の雰囲気を残す臼転坂。

    
 三島宿へ下る途中からの富士山

    
 旧道から国道1号へ交流する地点の箱根路と掘られた大岩

    
 三島宿への車道に保存されている松並木と石畳の歩道

    
 三島宿の入口に位置する三島大社。三島宿は、三島大社の門前町として栄えた所である。

    
 三島大社名物福太郎とお茶のセット

    
 箱根越えが終わったところで、ちょうど昼になったので、大社向かいの中華料理店で、冷やし辛口担々麺と三島B級グルメの三島餃子を食べた。三島産の野菜と豚肉を使っているらしい。ここの店は皮に人参の粉を混ぜているとのこと。

    
 三島の商店街

    
街道の面影はないが、商店街に向かい合って本陣跡の碑が2本立っていた。

    
 沼津宿へ向かう途中の寺の境内に残っている一里塚。対になっている片方は向かいの神社の敷地の中。

    
 長沢八幡宮境内に残る源頼朝と源義経が初対面したときに腰かけた対面岩

    
 やがて、沼津宿へ入っていくが、城下町として栄えたので、桝形があり、旧道はジグザグに曲がっている。宿場町としての面影は唯一見つけた川廓通りの説明板。

    
 昔の宿場の中心地だった町並み

    
 あとは、ひたすら県道163号を歩き、原宿を目指す。

    
 原宿は道中もっとも規模の小さかった宿場で、当時の面影を残すものはないとのことだった。商店街もないか、本陣跡の碑を見つてうれしかった。

    
 15:35、8時間で、今日のゴールの原駅に到着。駅前の旅館は、昨夜電話したら、休業中のようだった。仕方ないので、沼津に戻ることにして、昨夜の内に沼津KKRはまゆうに予約を入れておいた。
 
 すぐに来た電車に飛び乗って沼津駅に降りたら、16:00に予約もしていなかったのに迎えのバスが来た。予約なくとも毎日この時刻に迎えに来るとのこと。助かった。

     
 16:15、今日の温泉宿、KKR沼津はまゆう到着。素泊まり4,650円。早速温泉で疲れを抜いた。
 
 ただし、夕食できる所が15分も歩く中華料理店のみ。昼も中華だったが仕方なく、野菜のたくさん食べれる中華飯にした。

 昨日の山登りが効いたのか、今日の見所の少ない午後の県道歩きが辛かった。天気は良かったが、汗が出るほどではなかった。しかし、一昨日と今日の日焼けが痛い。


3日目 8大磯宿~9小田原宿~10~箱根宿 〈32.2km〉

2017年05月28日 | 登山・旅行
 歩き旅はいつも熟睡できず、5時間も寝れば目が覚めるので、その日の予習がてら、ブログの下書きもする。
 いつもは辛い1~3日目なのに、身体は実に快調だ。筋肉痛もなく、脛は少し痛みはあるが、脹ら脛にはまったく張りがない。足のマメの兆候もない。今日は、今回の道中で一番楽しみにしてきた箱根の山登りだった。

    
〈大磯駅前の大磯洋館〉

 後半の山登りに備え、小田原を始発の4:30の電車に乗り、4:50に大磯駅からスタートし、国道1号に出る。大磯の地名は子供の頃から知っている。吉田茂首相の別荘があったことで有名だった。

 大磯は、明治以降は別荘地・避暑地として有名だが、江戸時代は宿場として栄えただけに、見所の多い宿場である。

    
 小島本陣跡、尾上本陣跡の石碑を見て進むと、鴫立庵(しぎたつあん)かある。西行法師の歌を偲んで江戸初期に創建された「俳諧三大道場」の1つで、庭園には、有名人の多くの句碑や歌碑が立つらしいが、時間が早くて中は見れなかった。

 島崎藤村が死ぬまでの3年間を過ごした「島崎藤村旧宅」や「伊藤博文旧公邸」を見て進む。

    
松並木を歩道橋の上から眺める

    
 広大な吉田茂邸跡の敷地は、城山公園になっていた。中に銅像が建っているらしいが、ここも時間が早くて入れなかった。

 そのあとは、一部旧道はあったが、小田原宿までは、単調国道歩きだった。国道の距離標示からすると、ほぼ12分/kmペースで歩いていた。

    
道端の家の庭のビワの実

    
 やがて、相模湾が広がる。

    
 3時間ほどで、東海道有数の賑わいを誇った小田原宿へと入っていく。ここは、「天下の嶮」箱根越えの拠点としての宿場町と北条氏の城下町として栄えた。城下町なので、大名行列もここで泊まらざるを得ず、本陣と脇本陣がそれぞれ4軒ずつあったという。そのうち、2軒の本陣跡の碑があった。

 国道ぞいには、小田原名物の蒲鉾の商家が多い。今回初のお城となる小田原城を期待したが、国道からは見えなかった。

    
 古い造りの薬屋の建物

    
 約16kmを4時間で歩き、9時になったので、ガストで朝食を摂り、箱根の山登りに備えて30分休憩。
   
 9:30、いよいよ「天下の嶮」箱根八里の峠越えが始まる。箱根駅伝で見ている国道1号ではない。二子山(1065m)の南斜里を回る旧道ルートとなる。いろいろ見所が多い。

 緩やかな上りの国道1号を進み、三枚橋から旧東海道の上りが始まる。狭い車道を上って行く。湯本温泉郷を抜ける。

    
 北条早雲が晩年好んで訪れたという早雲寺。趣のある茅葺きの鐘楼と本堂。

 やがて、一部車道から離れる旧道歩きもあるが、鎖雲寺の先の女転びの坂から、くねくねとヘアピンカーブが続く車道を横切りながら、本格的な旧街道歩きが、芦ノ湖に出るまで続く。

    
 急な石畳の道や自然道。

    
 途中の畑宿は、間の宿場で本陣もあったが、寄せ木細工の伝統工芸で有名な地区である。

    
 車道を横切る度に「旧東海道」の碑が建っている

    
 日曜日なので、多くの人が歩いていた。

    
 いろいろな名前の付いた急な坂が次々現れる。一番きつかった急な階段の続く「橿木の坂」

 
 13:00、小田原宿から3時間半で、「甘酒の茶屋」に到着。

    
 力餅の磯辺餅とお茶で腹ごしらえし、15分ほど休憩。

    
 杉木立の中の石畳の道を登っていくと、最高地点の805mを通過したが、そこにはそれを示す標識すらなかった。あとは、芦ノ湖を目指して下るだけ。

    
 芦ノ湖畔で国道1号に合流。

    
 湖畔の国道1号の山側に続く杉並木の旧道を進む。

    
 足元に咲くヒメシャガの花

    
 14:00、予定より1時間以上も早く、今日のゴール箱根関所跡に到着。小田原宿から6時間の予定だったが、4時間半で着いてしまった。結局山登りだったのにも関わらず、昨日と同じ9時間しか掛からなかったことになる。最高気温が20℃までしか上がらなかったことも幸いした。

    
 ここからバスに乗り、藤田観光の小涌園のパンシオン箱根へ。パンシオンはペンションと同じ意味。ここは、格安4150円で朝食も付き、もちろん温泉もある。部屋もツインに予備ベッドのついた広い部屋が、4棟に別れて200室以上もある。1時代前の洒落たリゾートホテルをペンション風に名前を変えた?
 安い代わり、トイレも洗面所も部屋にはない。部屋着もタオルもなし。レストランも売店もなし。いろいろな自動販売機のみで、「好きなように使って下さい」といった感じ。

 早速、この旅初の温泉にゆったり浸かる。夕食は広大な敷地の中の同じ系列の別のホテルのレストランへシャトルバスに乗るか歩くかして出掛けなくてはならないのだが、歩いても7~8分だった。

 スマホの電池がなくなり、画像は撮れなかった。イタリアンレストランで、鶏肉のスパゲティゆず胡椒風味に、ライスコロッケ、ガーリックトースト、ミニサラダ、デザート、ソフトドリンクのセット(1,632円)。ビールは温泉から上がってすぐに缶ビールを飲んだ。


2日目 4保土ヶ谷~5戸塚~6藤沢~7平塚~8大磯 〈33.2km〉

2017年05月27日 | 登山・旅行
 朝からポカをして、30分以上無駄な時間を使ってしまった。宿を5:00に出て、横浜からJRに乗り換えたが、それが保土ヶ谷で停まらない快速電車だった。戸塚まで行って戻る羽目に。
 保土ヶ谷駅から旧東海道に戻り、6:00スタート。まだ18℃で涼しかった。昼は28℃まで上がる予報だったので、最初から半袖Tシャツにハーフパンツ。しかし、気温の上がった後半は海からの風が涼しく心地よかった。

    
 駅前の旧街道からすぐに、国道1号と合流する。保土ヶ谷宿は、武蔵野国西端の宿場で、本陣跡も脇本陣跡も残っていて、マンション街の中に数軒の旧家らしい建物も残っている。

 東海道最初の難所とされた権太坂に差し掛かる。ここから国道1号と別れるが、国道の反対側を歩いていて、その分岐が分からず1kmほど国道を進んでしまった。戻って交番に聞いたら、すぐ裏が権太坂への登り口だった。

    
 昔より緩くなったとはいえ、約1.5kmにわたるだらだらした上りは、結構きつい。周りはマンションと住宅が立ち並んでいる。ちなみに、国道1号にも権太坂はある。

    
 武蔵・相模の国境の境木地蔵を越えると、焼き餅坂の下りとなる。

    
 下りの続きの品濃坂の途中に「品濃一里塚」があるが、ここは中仙道でよく目にした土盛りの塚の上に木を植えたものが道を挟んで、対になって完全な形で残っていた。

    
 国道1号と合流すると間もなく戸塚宿の入口となる。戸塚宿の歩道のマンホールの蓋は、箱根駅伝の絵が絵が描かれていた。ここは、戸塚中継所があるところだ。今日は、国道1号の歩きが多かったので、箱根駅伝で聞いたことのある地名が多かった。  

    
 戸塚宿は、大山や鎌倉への道があり、それらの参詣客でも賑わった宿場らしい。当時の面影はほとんど残されていないが、本陣跡の碑はあった。

    
 国道から旧道に入ってすぐにある「仮名手本忠臣蔵」に因む「お軽勘平 戸塚山中道行の場」。ここを過ぎると再び国道1号の歩きとなる。

    
 藤沢宿は、時宗の総本山遊行寺の門前町で鎌倉時代から栄えたところである。その境内へ寄ってみた。広大な境内のイチョウの大木と本堂を写す。

    
 藤沢宿の中心部は、国道から離れて旧道を進む。藤沢宿本陣跡の説明板。
 
    
 再び、国道1号と合流し、平塚宿までの長い国道歩きとなる。茅ヶ崎までは、入口からずっと東海道のシンボルともいえる松並木が保存されていて、市街地の中にも松並木が多い。

    
 茅ヶ崎を過ぎて、平塚宿への途中の橋の上から左手に白い富士山が見えた。左手に見えるのが意外だったが、その橋を渡り終えたところに「南湘左見の富士」の説明板があり、東海道では、吉原とここだけとのこと。
 その先の相模川の橋の上からは正面に見えた。

    
 平塚宿は、東海道有数の規模を誇った宿場だったが、現在でも湘南の中心地で、駅も立派だった。

    
 どこの宿場にも、江戸側の入口には江戸見附、京都側の入口には上方見附があった。宿場の出入口の見張り所のようなものだったようだ。

    
 平塚宿にも本陣跡も脇本陣跡も碑や説明板だけだが2ヶ所あった。

    
 街道から少し入ったところに、平塚の地名の由来となった平塚があるというので寄ってみた。
 857年、桓武天皇の孫高見王の娘政子が旅の途中この地で亡くなった。塚を造って葬ったが、長年の風化でその塚が平になったとのこと。

    
 平塚宿を抜けて、大磯宿を目指すと、右手にこんもりとした高麗山が見える。高麗人が住み着いたとか?

    
 国道沿いに建つ珍しい茅葺きの家

    
 大磯宿へは、国道から離れて旧道となる。これまでにない珍しく自然度の高い道だった。

    
この坂が広重の大磯宿の絵になっている。

    
 15:15、今日のゴールの大磯駅。スタートして、ちょうど9時間だった。昨日より2km長いのに、1時間速かった。昨日はカッパを着て傘を指しての歩きだったし、今日の方が単調な国道歩きが長かったのでペースを上げることができたからであろう。
 いつもは、2日目が一番辛いのだが、今回は、筋肉痛も疲れもなく、快調に歩けた。明日はどうか?

 今日は、土曜日なので、東海道歩き旅の人が非常に多かった。

 今夜の宿だが、大磯にはなかったので、小田原で探して、駅に近い格安のプラムホステル(3300円)を予約しておいた。大磯から電車に乗って小田原へ移動。

    
 前もって調べていたので分かっていたが、しっかりした造りの2段ベッドが5組だけだった。部屋の造りや名前から覚悟はしていたが、案の定ほとんどの客が欧米系だった。周りは英語しか聞こえない。

 当然浴場はなく、シャワールームだけ。ブログを途中まで打ち、近くのコインランドリーで洗濯をしながら続きを打った。これが終わったら夕食。

    
 夕食は、「宿場そば」(1700円)~小田原は9つ目の宿場なので、9種類のそばだそうだ。これに、生ビール1杯


1日目 日本橋~1品川宿~2川崎宿~3神奈川宿~4保土ヶ谷宿〈31.2km〉

2017年05月26日 | 登山・旅行
 1時間半掛けて書き上げ寸前のブログを間違って消してしまったので、写真の説明だけでご勘弁を!

     
 東海道や中仙道の起点となる雨の日本橋を、5:15にスタート。

     
 日本橋のたもとにある「日本国道路元標」

    
銀座2丁目にある「銀座発祥の地」碑

    
 「西郷隆盛と勝海舟会見の地」碑

    
赤穂浪士47士の墓がある泉岳寺の山門と大石内蔵助の銅像


 品川宿の中心地だった北品川商店街

    
品川宿本陣跡

    
良く江戸時代の歴史物に登場する「鈴ヶ森刑場」

    
多摩川の新六郷橋を渡ると神奈川県に入り、川崎宿となる

    
 川崎宿は六郷の渡しで栄えた宿場で、明治天皇が渡った記念碑

    
 川崎宿本陣跡の説明板

    
川崎宿ふれあいセンター

     
 市場一里塚の碑。12時には雨が止んだ。

     
生麦事件の現場の説明板

     
神奈川宿で有名な、坂本龍馬の妻おりょうが働いていた料亭田中家

     
 横浜開港後に設けられた神奈川関門跡

    
 保土ヶ谷の手前の旧東海道の松原商店街は歩行者天国になっていた。

    
 15:35、今日のゴール保土ヶ谷駅。
 途中2ヵ所で道を間違え、1時間近いアルバイトも含めて、10時間20分。

 宿場と宿場の間は、国道15号(第1京浜国道)の歩きが多かったが、宿場とその前後は、旧東海道が残っていて、それを楽しむことができと。

 保土ヶ谷駅から電車に2区間乗り、今日の宿、リゾートカプセル桜木町(4300円)へ。風呂に入り、17時からブログを書きはじめたが、完成手前の1時間半経った時点で、間違って消してしまい、手抜きで書き直し、19:15で終了。

 さて、これから外に出て、夕食。ホテルの近くに待ち人数人がいる博多ラーメン屋があったので入ってみた。

     
     
 トッピングを別注文で自分で載せた、数十年ぶりの博多ラーメン。人気店らしく、とてもおいしかった。


東京到着

2017年05月25日 | 登山・旅行
     
 今回初めて、今年就航した函館~成田間のLCCバニラエアを利用した。料金パターンが条件の違いで3種類あり、いずれも早く申し込むほど安い。

 今回は、5/2に申し込んだが、一番安いのはすでに売り切れていた。それでも、6,360円(運賃5,380円+諸税380円+サービス料・手数料600円)で格段に安い。

 15:20発で17:00着。成田空港は広いので、連絡シャトルバスと歩きで、出口までの移動が30分近く掛かった。

 成田から東京駅までは、急ぐ必要もないので、一番安い高速バス(1,000円)にした。飛行機もバスも満席だった。

     

 東京駅から歩いて15分で、日本橋にあるカプセルホテル「室町ベイホテル」到着。3,200円也。明日のスタート地点の日本橋は、歩いて5分くらいと所。
     
 カプセルホテルにしては、洒落た玄関ホール。昨年オープンしたばかりで新しくてきれい。ルームも外国人仕様なのか、非常に広々している。ただ残念ながら、期待した大浴場はなく、シャワールームだけ。

     
 すぐ近くの洋食屋さんで夕食。おすすめ定食1,000円に生ビール1杯。

東海道歩き旅(第1弾)へ

2017年05月25日 | 登山・旅行

○プロローグ
 これまでに、道外の歩き旅は、04年に37日間で歩いた「四国遍路」、14年に10日間で歩いた「熊野古道(小辺路・中辺路)」、15年に6日間で歩いた「富士山ぐるりトレイル」、昨年2回に分けて19日で歩いた「中山道」である。このほかに、修験の道「大峯奥駈道」も歩いているが、これは、歩き旅と言うよりは、縦走登山の範疇であった。

 昨年の中山道は、五街道すべてを歩いた箱館歴史散歩の会主宰中尾仁彦氏のお薦めの通り、確かに昔の街道の面影が多く残り、平野から山間部を歩くので、自然の豊かな街道で、大満足の歩き旅だった。
 しかし、同じ江戸から京都を目指す東海道(53次)は、江戸時代の五街道の中でも、もっとも栄えた重要な街道で、歴史上や時代劇にもよく登場する。利用した参勤交代の大名の数が最も多いので、宿場としては、こちらの方が規模が大きかったに違いない・・・中山道とは、また趣を異にする・・・そんな違いを、この目と足で確かめてみたいと思った。

 道外の旅行の一番の魅力は、いつものことだが、北海道では触れることのできない中世や近世を含めた重層的な歴史に触れることができることである。しかも、それらにじっくり触れることができるのが歩き旅である。

○東海道とは 
 江戸時代に整備された五街道の一つ、江戸・日本橋から小田原、駿府、浜松、宮、桑名、草津を経て、京都・三条大橋までの五十三次(約492km)。延長部にあたる京街道 (大坂街道)の4宿も加えて、五十七次ともいった。
 
○計画と準備
 この東海道歩き旅を考えたときは、「江戸時代の人は普通12泊13日で歩いた」ということが頭から離れなかった。1日平均40kmである。今までの経験からただ歩くだけなら、40kmは歩ける自信がある。それに挑戦してみたいと言う気持ちもあった。

 しかし、せっかくだから、五感をフルに働かしてじっくりと楽しい旅を味わいたい、当然ブログ更新に必要な2時間も確保したい・・・となると、1日30km前後が妥当である。その方が疲れも少ない。今回も無理しないで、歩けるところまで歩き、第2弾は京都か大阪までの京街道(大坂街道)も含めて、秋に計画することにした。


 東海道歩き旅の本はたくさん出ているが、中山道や熊野古道と同じ山と渓谷社の『東海道を歩く』を持参して歩くことにした。旧街道のコース地図や細かな見どころなどが詳しく載っている。また、ネット上にも多くの記録が見られるので、それらを参考にしたい。

 新しくこのために買った装備はない。昨年、中山道用に買ったサロモンのウォーキングシューズ、妻の中山道用に買った軽いリュック、チェストバック、服装は速乾性の登山とランニング用で間に合わせ、まめに洗濯することにして、洗い替え1~2組で間に合わせるつもりだ。これまでの経験から極力軽量化に努めた結果、水や非常食を除いて、リュックとチェストバックを合わせても4.3kgに収まった。いつも、6kg以下が理想だと思っている。

 費用は、宿泊代も入れて1日1万円以内で収めたい。したがって、宿泊はできるだけ安いカプセルホテルや格安の宿の予定だ。できれば、疲れを取るためにも大浴場のある宿にしたい。これまで同様に、歩く距離と相談しながら、スマホで探しながら、前日か当日にでも予約を入れて歩くつもりだ。できれば、旧宿場町での泊まりにこだわりたいと考えている。

○行程計画案(※歩く時間や宿の関係で変更あり)
5/25  函館15:20~成田17:00(バニラエア) 成田~東京(日本橋)     
①5/26 日本橋~(7.8km)~1品川~(9.8km)~2川崎(9.7km)~3神奈川(4.9km)~4保土ヶ谷<31.2km>
②5/27 保土ヶ谷~(8.8km)~5戸塚~(7.8km)~6藤沢~(13.7km)~7平塚~(2.9km)~8大磯<33.2km>
③5/28 大磯~(15.6km)~9小田原~(16.5km)~10箱根<32.2km>
④5/29 箱根~(14.7km)~11三島~(5.8km)~12沼津~(5.9m)~13原<26.4km>
⑤5/30 原~(11.7km)~14吉原~(11.1km)~15蒲原~(3.9km)~16由比<26.7km>
⑥5/31 由比~(9.1km)~17興津~(4.1km)~18江尻~(10.5km)19府中~(5.6km)20丸子<29.3km>
⑦6/1 丸子~(7.8km)~21岡部~(6.7km)~22藤枝~(8.6km)~23島田~(3.9km)~24谷~(6.5km)~25日坂<33.5km>
⑧6/2 日坂~(7.0km)~26掛川~(9.5km)~27袋井~(15.3km)~28見附<31.8km>
⑨6/3 見附~(16.4km)~29浜松~(10.8km)~30舞阪~(5.9km)~31新居<33.1km>
⑩6/4 新居~(6.5km)~32白須賀~(5.7km)~33二川~(6.1km)~34吉田~(10.2km)~35御油<28.5km>
⑪6/5 御油(1.7km)~36赤坂~(8.8km)~37藤川~(6.6km)~38岡崎~(14.9km)~39池鯉鮒<32.0km>
⑫6/6 池鯉鮒~(11.0km)~40鳴海~(6.5km)~41宮~<※佐屋街道(6.8km地点)><24.3km> 
⑬6/7 <※佐屋街道(残り30.0km)>~42桑名
6/8 予備日  名古屋~東京(夜行バス)
6/9 成田12:55~14:35函館(バニラエア)

 今回は53次の内の42次までの計画となった。秋には、残りの11次と京街道(大坂街道)4次と、熊野古道伊勢路あたりと組合わせて計画したい。

「旬花」での会合

2017年05月24日 | 食べ物

 自分が29歳のとき(当時は最年少)に結成された教育懇話会「さいかい」だが、44年も経過し、今やほとんどが70歳以上の会となった。全員管理職になってからは、年1回の懇親会だけが続いてきた。しかし、17名いた会員だったが、亡くなった方が7名のほか、体調のすぐれない方が多くなり、今日の参加は、これまでで最少の4名だった。

美味しい料理を楽しみながら、昔話や近況を交流し合った。


 このコースは飲み放題付きで5000円。

 

 

 


「昭和の洋画を切り拓いた若き情熱」展

2017年05月24日 | イベント鑑賞・参加

チラシの表

 現在、道立函館美術館の特別展が開催されている。招待券をいただいていたので、五稜郭タワー内の「旬花」での会合ついでに立ち寄ってきた。

 チラシには、本展は、日本近代洋画史を語る上で欠かすことのできない二つの美術団体「1930年協会」の結成から「独立美術協会」の草創へと至る軌跡に焦点を当てるものです。

 1920年代、多くの若手画家が本場で西洋の芸術を学ぶために欧州へと旅立ちました。「1930年協会」は、同時期にパリに留学していた前田寛治、里見勝蔵、木下孝則、佐伯祐三、小島善太郎により、滞欧以後の作品発表の場として1926年に結成されました。その後、パリから戻った仲間が次々と会員に加わり、一般の作品も公募するようになると、組織は急速に拡大します。そして、画壇の中心的な存在であった帝展や二科展に対する当代の新勢力として注目を集め、洋画界に大きな影響を与えました。~中略~

本展では、昭和の洋画界に旋風を起こしたこれら二つの美術団体の活動に改めて注目し、一時代を築いた寵児たちの作品を一堂に集めて、これらに属した佐伯祐三、里見勝蔵、前田寛治、三岸好太郎ら29名の画家の秀作を紹介します。
とあった。


チラシの裏の作品だけ切り取りした画像

 絵のことは、全く分からないが、知っている画家は札幌出身の三岸好太郎だけだった。しかし、彼の作品の「雲の上を飛ぶ蝶」に描かれている蝶は、ほとんどが蛾のように見えた。

 自分的には、チラシの表紙の絵に採用された佐伯祐三の作品が5~6点ほどあったが、一番好きだった。

拙著の売れ行き状況

2017年05月23日 | 日常生活・つぶやき

今日の文教堂昭和タウン店~1週間前は3冊だったが、追加注文したようで11冊に増えていた。
今後、これが減って行くように願いたい!

 書店に並んでひと月以上が経つ拙著『ほっかいどう山楽紀行』だが、大変好評で、売れ行きも非常に良いらしい。出版社では、書店からの追加注文が相次ぎ、増刷を検討中のとのことで、その相談メールも入って来た。
 
 2000部作製したのだが、最初、自分で捌く分を600冊いただいた。しかし、足りなくなって40冊ずつ2回追加した。それも、すでに23冊しか残っていない。贈本も含めて自分のところからだけでも650冊以上は出て行ったことになる。手元の残部がなくなった時点で、直接注文の対応を打ち切り、書店でお買い上げいただくか、注文をしていただくようにするつもりだ。 

 昨日の登山会でも、新たに8冊の注文をいただいたし、共同文化社からのメールでは、「昨日、函館の加藤栄好堂美原店(渡島総合振興局庁舎向かい)さんから、地元の書店なので拡販したいと30冊追加のご注文をいただいた」そうだ。ありがたいことである。

 これもひとえに、多くのみなさんが、いろいろな手段で宣伝や紹介に努めてくださっているお陰である。感謝!感謝! 

 さて、本日、出版社からメールでいただいた増刷の相談だが、自費出版でも増刷の費用は、すべて出版社の方で持つことになり、印税もいただけることになっている。しかし、今回は、自費出版のわがままで、買う側に立って、定価を非常に安く設定した。自費出版でなければ、2300円以上の定価だったらしい。そのために、増刷するとしても、製作費の比率が高くなるので苦慮してるそうだ。

 当初から、必要経費の回収は考えていない出版であり、価格設定だった。ましてや増刷や印税(普通は1割)などは考えていなかった。自分としては、予想以上の素晴らしい本を作製していただき、購入していただいた方々からも非常に喜んでいただいている。心温まる出版祝いもしていただき、多くのお祝いの言葉もいただいた・・・もう、それだけで大満足である。

 そのことを出版社にお知らせして、もし、増刷することになっても、部数も印税率も、出版社の判断にお任せすることにした。

 なお、明後日のブログに詳しく書くが、直接注文もひと段落したので、5/25の午後から6/9までの予定で、「旧東海道歩き旅~第1弾~」に出る予定だ。その間は、スマホでメールの送受信はできるのだが、直接注文への対応(本の送付)はできないので、帰るまで待ってもらうか、書店でお買い求めていただくかの返信をしようと思っている。

○本日付けの北海道新聞夕刊((南版・みなみかぜ)掲載の「どうなん・とうほく山楽紀行」の14回目「知内丸山」は下記でどうぞ!
http://sakag.web.fc2.com/14-sirimaru.htm
 ただ、先日この山に登って来た友人によると、頂上手前のネマガリダケ帯は刈払いがされてなくて、戻って来たとのこと・・・。なんとか地元で1日も早く刈払いをしてほしいものだ。

ライフスポーツ春の登山会「貧乏山」

2017年05月22日 | 登山・旅行

貧乏山山頂にて

 函館ライフスポーツの春の登山会は、40名もの参加で、珍名山で全国的に有名な貧乏山へ。
 七飯スノーパークの駐車場に9時に集合。8台の車に分乗して、カリマ林道ゲート前まで行って、そこからスタート。残念ながら、黄砂の影響なのか、展望は霞んだまま。


スタート前の打ち合わせ(後ろ姿は自分)


標高差も距離もそれほどないので、広い林道をお喋りしながらののんびり歩く
 

多く目に就いたオオタチツボスミレ


途中の休憩風景


頂上は狭いので、少し戻って、少し開けた植林地で昼食タイム。
この場所が最高だった。周りにウドがたくさんあり、みなさん、貧乏山ならではのリッチなお土産がたっぷり


袋一杯ウド

 歩きはもの足りなかったが、帰りにフキを採る人もいて、大満足だった。スキー場の駐車場で解散し、半数くらいの人は駒ヶ峯温泉ちゃっぷ林館で、汗を流して、のんびり過ごした。

貧乏山下見

2017年05月20日 | 日常生活・つぶやき

貧乏山山頂の三角点と今年の冬に設置した頂上標識

 面白珍名山として全国的に有名な貧乏山(501m)だが、明後日22日に「函館ライフスポーツ」の春の登山会で訪れることになっている。参加者が40名である。大沼駅集合で、車8台に乗り合わせでカリマ林道ゲート前まで来て、そこから歩く予定だ。 

 今年は冬にも訪れているが、夏とは違うので、車の停め場所や林道から頂上までの作業道の状況等の下見に行ってきた。


 軍川小学校へ向かう道から正面に眺める貧乏山


 カリマ林道ゲート前まで行って、車の多いのにビックリ。

 全部山菜採りの車かと思った。しかし、こちらが貧乏山への作業道へ入る地点まで行くと、その林道のさらに前の方を10数人が歩いているのが見えた。どうやら貧乏山でもなく、山菜採りでもなさそうな感じだった。もっと奥の植林地の観察にでも行ったのだろうか?


林道の途中から大沼と駒ヶ岳の剣ヶ峰を眺める


沢沿いの林道に多く見られたタチカメバソウ。葉が亀の甲羅の形に似ていることが名の由来。

<下見の結果>
 集合場所を大沼駅駐車場としたが、置いておく車の台数からすると、狭そうなので、会長や事務局長と相談して、七飯スノーパークの駐車場に変更を検討する必要がありそうだ。(七飯スノーパークに変更決定。連絡はしないで、大沼駅前で移動の指示)

 心配したカリマ林道ゲート前の車の停め場所は、集合場所から8台に乗り合わせる予定なので、林道際の駐車スペースと牧草地でなんとかなりそうだ。

 さらに、もうひとつ心配した林道から頂上までの200~300mほどの作業道だが、すでに、結構多くの人によって頂上まで歩き込まれていて、なんの心配もなかった。ただし、木の葉が繁り、頂上からは、冬のように駒ヶ岳がきれいに見えなかった。

 冬には三角点は見えなかったので、心配した山頂標識の位置だが、見当を付けて設置した場所もバッチリだった。ただし、胸の高さに取り付けたのに、雪が解けて、頭より高くなっていた。当日集合写真を撮るときには、一時的に取り外して、三角点の横のカラマツに取り付けるつもりだ。

○退職組織の函館支部総会・懇親会


 昨年の設立20周年記念式典・祝賀会を花道に支部長を降任した函館支部の総会・懇親会


米寿を迎えた会員の挨拶


60歳で新進気鋭の新会員14名中4名の参加

チ○コ島(珍小島)探訪

2017年05月19日 | 登山・旅行

羊蹄山をバックにした洞爺湖珍小島(右後ろ)

 今日は、妻の豊浦町への用事のついでに、洞爺湖まで足を延ばした。目的は、最近知った珍小島探訪。
 この島は、陸繋島で、湖岸と砂州で繋がっている。場所は、国道37号から洞爺湖へ抜ける国道230号の湖岸交差点から温泉街へ向かう手前にある。思わずニヤッとしてしまう珍地名である。


この一帯は珍小島公園となっている。しかし、その説明板のChinko-jimaの表記は明らかな確信犯? 


珍小島を正面から眺める。砂州で繋がっているのがよく分かる。


島の中へ入って行く小道を進んでみる。


中央部に2つの石碑が建っている。左側は「南無善女竜王」、右側は「天照大神」と彫られている。
調べてみたら、善女龍王(ぜんにょりゅうおう)は、雨乞いの対象である竜王のうちの一尊とのこと。


四等三角点(84.1m)まで設置されている。帰宅後、点名を調べたら「チンコ島」となっていた。国土地理院もやるもんだ。


島の中を反対側へ抜けたら、大きな木が、昨年の台風で倒れていた。


その湖岸から中島を望む。それにしても水がきれい!


少し東側の湖岸から温泉街と有珠山を望む



洞爺湖へ抜ける交差点から少し温泉街寄りにある「珍小島歩道橋」



帰りに豊浦の道の駅で食べたイチゴソフトクリーム


静狩峠の春紅葉