癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

ありがとうございました

2021年02月17日 | 登山・旅行

        

先日はお忙しい中、誠にありがとうございました。

また、過分なお心遣いをいただき、恐縮いたしております。

お陰をもちまして無事、初七日忌を済ませることができました。

葬儀当日や自宅では、何分にも取り込んでおりまして、不行き届きも多々ございましたこと、お詫び申し上げます。

 

自宅にもたくさんのお花をいただき、お花が大好きな夫はお花畑にいるようで、本人もたいへん喜んでいることと思います。

 

 

そして、ブログにはたくさんのコメントをいただき、ありがとうございました。

また、私のことまでお気遣いいただいてありがとうございます。

お一人づつにコメントのお返事ができなくて申し訳ございません。

すべて、じっくり読ませていただいてます。

私は大丈夫です。

意外と落ち着いております。

いなくなった事、頭では理解できても、心が受け付けないので、全く実感がないのです。

 

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ブログのコメント数を見て、夫は「見ろ!こんなにコメント入ってるどー」と嬉しそうな顔をして私に報告してくる姿が目に浮かびます。

写真は「もっと明るくしろ!とか、後ろのカーテン外して撮りなおしてくれ!」と夫から注文が入りそうですが・・・・(笑)

 

まずは、初七日忌を無事に終えられたことのご報告でした。

ありがとうございました。

香奈子

 

 

 

 


雪山登山の魅力とは?

2021年02月02日 | 登山・旅行

これまでの雪山登山で最も好きな画像(冷水岳山頂直下)

 このブログでも、これまでに雪山登山の記録は残してきたが、その魅力について考えたり、記したりしたことはない。そこで、これまでの経験から、自分にとっての「雪山登山の魅力」はどんなことなんだろうと考えてみた。

 自分が雪山に登るようになってからは、まだ20年ちょっとしか経っていない。スキー歴は60年ほどになるので、雪山に接する年数は非常に長かったが、「冬山は怖い!」というトラウマがずっとあったからである。それは、大学1年ときに、同じ大学の山岳部員10名が亡くなるという旭岳遭難事故が原因である。

◎雪山に登るようになったきっかけ

 雪山に登るようになったきっかけは、1999年12月に自分が創設にかかわったHYML(北海道の山メーリングリスト)のお陰である。「坂口さんはスキーが上手なのだから、雪山で生かさないのはもったいない」と言われたことに始まる。そのシーズンに、山スキー用の板や靴を購入し、ベテランの仲間に誘われて、あちこちの山へ登るようになり、雪山の魅力に少しずつハマっていった。それに伴い、アルミかんじきや、アイゼン、ピッケルなども揃えて、対象の山が広がって行った。

 しかし、一人歩きの山が多い自分は「雪山は、天気の良いときの日帰り」「アイゼン・ピッケルで登る、滑落しそうな氷雪の山は登らない」と決めてきた。そういう意味では、天候が安定して、ラッセルの楽な3月以降の春山が、一人でも安心して登れる山である。

◎自分にとっての雪山登山の魅力とは?

1、どこを歩くのも自由

  夏山は、藪漕ぎや沢登りなどもあるが、ほとんどは登山道を登ることが多い。しかし、雪山の一番のメリットは、雪崩や雪庇などの危険なところを回避すれば、どこでも自由に歩けることである。

 登山道のない山を登るときは、雪山が圧倒的に多いし、登山道のある山でも、夏には登ることのできないルートからの登頂も楽しむことができる。また、下りは膝にも優しいし、スキーはもちろんだが、かんじきでも、速く下ることができる。 

2、雪山ならではの美しい風景

一面の銀世界、青空の下に連なる雪嶺・・・空気が澄んでいて、眺望がよいということもあるが、どこまでも青い空と、眩しいほど真っ白い雪のコントラストは雪山ならではの絶景である。

 夏に見慣れた山々も、雪化粧をまとうと、まるで別人。気高く美しい姿に惚れぼれする。また、木々の葉が落ちるので、夏に見えなかった展望を楽しむことも可能である。

3、雪と風が織りなす造形美

 霧氷、樹氷、エビの尻尾、スカブラなど、思いけない自然が創り出した芸術作品に惚れ惚れすることが多い。

4、BC(バックカントリー)スキーを楽しむことができる

 登山は、登頂を目指すことは多いが、山スキーは登る道具だけでなく、滑りを楽しむ道具でもある。いわゆるBC(バックカントリー)スキーである。得意のスキーを生かして、自然の大斜面の深雪の豪快な滑降を楽しむことができる。

 一人でも行くこともあるが、圧倒的にHYML仲間との三段山や羊蹄山などのグループ山行が多い。その方が安心感もあるし楽しい。ただし、道南にはこのフィールドとなる山もないし、仲間もいないのが残念。

以上の魅力とは、十分な装備、ある程度の技術、危険を回避する留意点等を身に付けた上でのことである。

雪山登山の装備・技術・留意点は、自分も執筆している、HYML編集の上掲の両書(ともに北海道新聞社発行)が詳しい。


当別丸山(南尾根)かんじき登山

2021年01月21日 | 登山・旅行

 最高気温6℃まで上がる好天予報につられて、北斗市の一等三角点の当別丸山(482m)にアルミかんじきでトライ。(赤矢印が登った南尾根)

 どこでも歩ける雪山ならではの初ルートとして、北斗市と木古内町の境界尾根にもなっている南尾根を選んだ。東尾根には登山道があり、北東尾根にも昔の登山道があり、いずれも夏も冬も数回登っている。

 気温が高くなり雪が融けて、重い単独ラッセルだったが、ちょうど良い運動になった。

 今回の発着地点の北側に位置する標高点82までも除雪が入っていた。ここから昨秋に函館山楽クラブが藪漕ぎ登山で登っている。冬山とはいえ、全く同じコースは避けたいのと、距離的に物足りなさもあって、予め予定していた地点からスタートすることにした。

 下の方は除雪されていない農道を歩き、下の杉林沿いの牧場跡を進むと北斗市と木古内町の境界線に合流。その先で上の杉林の中を抜けて、c250で顕著な尾根に取り付く。c300~c350の間が一番急だった。かんじきを蹴り込んで登った。

 <登り> 9:40スタート~11:00杉林上の尾根(c250)~11:50頂上(2時間10分) <下り> 12:10頂上~13:15ゴール(1時間05分)

 雪山のメリットは下りが速く膝にやさしいことである。ちょうど半分の時間で下山することができた。雪が融けてないで粉雪ならもっと速く下りれたはず。

牧柵が設置された牧場跡を進む。

上の杉林の中を抜ける。北斗市と木古内町の境界線に沿って広くなっている。

 c250で杉林を抜け、雑木林の尾根が現れる。下のピンクテープは、昨秋の函館山楽クラブの痕跡であろう。上の幹に巻かれているピンクテープは北斗市と木古内町の境界の印か?

斜度の緩んだc350付近

左手に西尾根を眺めながら登る。

c400付近

c400付近から下界の牧草地や牧場を見下ろす

c400付近から函館山を望む

濃い青空の下の頂上稜線

頂上標識と天測点の石柱に迎えられて頂上到着。最近登ったと思われるトレースはなかった。

函館山も函館平野の向こうに見える横津連峰も霞んで見えなかった。

昼食のおにぎりを食べて、20分ほど休んで下山開始。

下山後、帰路途中の七重浜の湯に入って、15時に帰宅。

当別丸山 過去の山行記録(クリック!)


今年の初ピーク「庄司山」(桔梗尾根コース)

2021年01月05日 | 登山・旅行

今年の登り初めに庄司山(570m)へ。左奥は函館市最高峰の袴腰岳。(下山後撮影)

 例年、登り初めは函館山が多い。今年は丑年なので、臥牛山(函館山の別称)も良いかと思ったが、庄司山の雪山はしばらく登っていないので、そちらへ向かった。

 山名の由来は不明だが、昔は「障子山」とも記されたり、地元では「おにぎり山」とも呼ばれたりしたこの山は、横津連峰山麓・函館市桔梗町の海岸段丘面に広がる畑地の後ろにコブのように聳える目立つ山であるその昔、松前藩がこの山麓に築城を考えたこともあったという史実もある。

 上の方は急ではあるが、比較的簡単に登れる山でもあり、函館市街地や津軽海峡一帯の展望を楽しむには手頃な山である。

 『北海道スノーハイキング』(北海道新聞社)にも、拙筆によるコースガイドが掲載されている。

 夏道は、蒜沢川沿いの林道から南尾根を登る「蒜沢川コース」が一般的であったが、登山口までの道が荒れてしまい、登山口手前の橋も落ちてしまったこともあり、最近は、今日登った桔梗尾根から南尾根を登る「桔梗尾根コース」が定着し、道も整備されている。(※『北海道スノーハイキング』には、「蒜沢川コース」のみの紹介なので、改訂版のときには「桔梗尾根コース」も書き加える必要がある)

 02年頃には、周回できる北面ルートも開かれたが、05年の笹刈り整備が最後で、その後は廃道となって藪に帰している。今でも、国土地理院の地図には記載されている。

 桔梗開拓道路を進み、桔梗尾根に繋がる交差点に車をデポし、そこからスタートした。下りは、前峰から登山道ではなく、尾根をまっすぐ下った。

 <登り> 8:55車デポ地点~9:15夏の登山口~9:45蒜沢川コース分岐~10:10前峰~10:20頂上(1時間25分)

 <下り> 10:40頂上~11:40車デポ地点(1時間) <総所要時間>2時間45分 歩数計12000歩。

 夏の登山口までの農道に最近のものと思われる強引に進んだ車の轍があった。自分も進んでみたが、ハンドルが取られるので、無理せずにそこから歩くことにした。せいぜい1kmほどの距離である。

 かんじきをリュックに括り付けて、タイヤ痕をツボ足でスタート。

 20分で夏の登山口となる林道跡の入口に到着。正月中に多くの登山者が入ったようで、スノーシューでしっかり踏み固められていた。結局、頂上までツボ足で登ることができた。

 正面に山頂を眺めなら、林道跡に付けられたトレースを辿る。

 蒜沢川コースとの分岐右側にあった「亀田村」と「農林省」の標石。今まで何度も登っているが、気付かなかった。

 亀田村は、函館市と合併する前の亀田市の昔の村名である。農林省の標石があるということは国有林なのであろう。

 登山道に付けられたトレースを登っていく。前峰のように見えるポコから頂上までの間の尾根が最も急である。

 枝の股にぼんぼりのようについている雪

新しい山頂標識が設置され、鳥居の前に三角点が頭を出している山頂にて。

函館市街地と函館山を一望する

眼下の新中野ダムと左上の雁皮山~蝦夷松山の稜線

 頂上に鎮座する三吉神社。ここには秋田市内に鎮座する山岳信仰の総本宮(郊外の太平山頂上[1,170.4m]に奥宮)の守護神である三吉大権現が祀られている。

 奉納されている大きな鉄の煙管と鉄の草鞋の由来は、最近知ったが、「昔、戦争に行った息子さんの安息を祈念した母親が、息災であるようにと煙管を、怪我なく歩けるようにと鉄の草鞋を祀った」とのこと。

 頂上の先の稜線上には大岩があり、そこにも小さな祠があるが、トレースがなかったので、無理しなかった。20分ほど休んで、下りは滑るので、かんじきを履いて下山開始。

 せっかくの雪山であるし、かんじきも持参したので、下山は、前峰から尾根を直接下るつもりだった。同じことを考えた人がいたようで、前峰からは一人のかんじきのトレースが続いていた。

 途中でかんじきのトレースは尾根から登山道の方へ別れて行ったが、自分は笹を漕いで下まで尾根を下った。

 所要時間3時間弱の手頃な軽登山だったが、天候とトレースに恵まれて、十分満足な今年の初ピークだった。

今年初めて、ベランダの窓に飛び込んできた朝日。

 

過去の庄司山登山一覧

⑩ 19,5,14 桔梗尾根コース(ライフスポーツ登山会)

⑨ 19,5,9 桔梗尾根コース(下見登山)

⑧ 14,2,8 蒜沢川コース(スノーハイキング取材登山)

⑦ 12、1,28 タタラ林道~北尾根~南尾根(周回ルート)
⑥ 08,4,15の蒜沢川コースへ
⑤ 07,2,06の桔梗尾根ルート~北尾根の積雪期登山へ
④ 05,06,05の蒜沢川コース~北面コースへ
③ 02,09,01の北面コース~蒜沢川コースへ
② 00,07,20の蒜沢川コースへ
① 00,04,02の桔梗尾根ルート残雪登山へ


今季初の雪山登山~七飯岳

2020年12月23日 | 登山・旅行

 年末までの天気予報を見たら、晴れ間が広がりそうな日は、今日で最後のようだ。昨年は一度も登らなかった七飯岳(779m)で今季初の冬山登山を楽しむことにした。気温も高く、風もあまりなく、まあまあの好天に恵まれた足慣らしだった。

 雪はそれほど多くなさそうなので、スパイク長靴でかんじきをリュックに括り付けてスタート。しかし、日曜日にかなり多くのスノーシュー集団が入ったようで、トレースがしっかり付いていて、最後までツボ足で通すことができた。

 登山口にほかの車はなかったが、新しい複数の足跡がある。それは昨日のものだろうと思っていたが、それぞれ単独行の地元七飯町の2名の男性が下山してくるのと出会った。

 <登り>9:20登山口~10:20砕石場上南西尾根~10:40牧柵(629)~11:05頂上 (1時間45分)

 <下り>11:20頂上~12:25登山口 (1時間05分)

函館新道側道(大川IC手前)から見上げる七飯岳

登山口上の林道

鳴川採石場縁の尾根~しっかりとトレースが付いていて、夏道状態。

旧採石場の端から鳴川採石場とその奥の函館山と津軽海峡を眺める

旧採石場から眺める右の南西尾根とその上に頭を見せる七飯岳頂上

階段状に整地された左端を登っていく。

旧採石場の上の南西尾根の林の中を登る

今年は落葉しないで、枯れ葉が付いたままのブナが多い、

晩秋の気温が高かったときに、このような現象が起きるらしい。

標高点629地点で牧場に出て、頂上を見上げる~風で飛ばされて雪は少ない。

最後の急斜面を登る

駒ヶ岳がかろうじて姿を見せてくれていたが、このあとすぐに見えなくなった。

頂上から函館山と津軽海峡、函館平野を見下ろす。

函館平野の中を弧を描いて走る北海道新幹線の高架。手前は七飯町市街地。

「七飯岳」~過去の山行記録一覧ページへ

 


「日本3百名山ひと筆書き 最終盤に挑む田中陽希さん」

2020年12月18日 | 登山・旅行

 今日の道新朝刊に、岳友でもある黒川伸一編集委員の取材記事として、「日本3百名山ひと筆書き」に挑戦中で、現在、富良野市の実家で停滞中の田中陽希さんのことが掲載されていた。

 すでに、「日本百名山ひと筆書き」と「日本2百名山ひと筆書き」を終えている陽希さんは、その集大成として2018年1月から、自分も完登した「日本3百名山」(301座)のひと筆書き踏破に挑んでいる。

 スタート時から、彼のほぼ毎日発信するインスタグラムとNHKBSプレミアムで、ずっと追いかけて来たので、今日の記事の内容はほぼ把握していた。

 百名山と二百名山のときは、最短距離を歩き、1年以内でゴールしている。しかし、今回は、これまで登った200座を含めた301座すべての人力踏破に挑んでいる。これまでとは違ったスタンスで、山へ登るときは、条件の良いときを選び、遠回りの移動や停滞を厭わずに、山と山の間の歩きや海のカヌー移動も含めて、実に楽しい山旅を繰り広げている。

 本来であれば、今年中に利尻山でゴールするはずだった。しかし、新型コロナの影響で、酒田市で3ヶ月の停滞を余儀なくされ、最終盤の北海道の26座は、18座を残して、厳しい真冬に突入してしまった。この厳冬期の大雪や日高の山をどのように登るのだろうと気にはしていたが、急がないで、富良野の実家で3月くらいまでは停滞するという。

 インスタグラムでも話していたが、実家停滞中も旅の途中なので、週6日はトレーニングに励み、16km離れた富良野市街地の歯医者に通うときも歩いて往復しているという。一切車は使わないとのこと。近くの母校でもある麓郷小中学校のクロスカントリーコースが開設されれば、クロスカントリースキーでのトレーニングもするという。

 「2百名山」のときは、樽前山へ移動中と、駒ケ岳へ向かっているときと山頂でもお会いして話もしていて、一緒に写真も撮っている。

 今回も駒ケ岳へ向かうだろうと思った日に、登山口へ向かう道路で待っていたが現れずに諦めて帰るときに、大沼トンネルの中を歩いている姿を目にした。その時は予定があったので会うことを諦めた。

 その後も天候が安定せずに、駒ケ岳への登頂日が読めなかったことに加えて、今回の公式サイトの「応援いただく皆様へお願い」というページでは、2百名山までにはなかった「田中陽希を追跡したり、所在地を調べるのはお控えください」「皆様が撮影した画像・映像などをSNSなど公共の場で転載しないでください」などと書かれていたので、今回の追っかけは止めにした。

 残りの北海道の山は、多分残雪期になるだろう。実家で停滞後の利尻山までの行程を楽しみにしている。

 なお、津軽海峡をカヌーで渡る様子や、道内の8座の記録は「第31集」(タイトル未定)として、1月2日のNHK BSプレミアムで、 20:00~21:30 に放映される。

 また、12月27日には、13:30~15:00に「第30集」「千変万化の大パノラマ!岩手・秋田の7座」が再放送される


続・健八流の月待信仰塔ほか

2020年12月11日 | 登山・旅行

 2018年6月に、松前町大鴨津川上流の健八流(けんぱちながれ)という山に登った時に、手前の516ピークで、「月待信仰塔」を見つけたことを、ブログにアップしておいた。

 それを目にし、松前町に月待信仰塔が存在したことを初めて知ったという、松前町の佐藤学芸員に依頼されて、去る10月19日に、現地まで案内をした。

 そのことが、12月7日に、佐藤学芸員が函館新聞に連載している「松前歴史モノ語り」に『三夜山の月待信仰』という記事となって掲載された。

 氏から連絡を受けていたが、12月7日は、山陽道の歩き旅から帰宅した日で、すっかり忘れていた。たまたま、今朝になって思い出して、中央図書館に行って、カメラに収めて来たという次第。

 内容のほとんどは、案内した時までに、すでに調査研究を進めていて、そのときに聞いていて、当日のブログにも記載していることだが、新しい情報として、道内では余市町に明治18年のものと、洞爺湖町に大正元年のものは存在するが、江戸時代のものは、この慶應元年の紀年銘を持つ、当地のものしかないとのこと。

 最後の段落に、10月19日に、私が案内したことと現地の様子が記載されていた。

 たまたま偶然発見し、松前町の歴史発掘のお役に立てた、この貴重な月待信仰塔だが、実は、本州の旧街道歩きで似たようなものを何度も目にしていた経験が生きたということである。

 ところが、五街道では良く目にした、この月待信仰塔だが、今回の京街道・山陽道では一度も目にすることがなかった。

 

◎札幌へ

 明日は、札幌国際スキー場で開催される「HYMLスキーキャンプ」の講師を依頼されている。

 日帰りは辛いので、今日の14:00に函館を出た。豊浦から先は、雪景色が広がっていたが、路面は乾いていた。

 しかし、留寿都まで来たら、路肩の雪が多くなってきた。これから中山峠を越えて、定山渓の先で車中泊予定である。

 峠の路面に雪があれば、今季初の雪道運転である。タイヤは新しいが、慎重にゆっくり走っていくつもり。

 無事目的地に着いたが、峠も路面は雪がなく、走りやすかった。


「2日間の京街道・21日間の山陽道の歩き旅」を振り返る

2020年12月08日 | 登山・旅行

    一前夜の夜行バスではあまり眠られなかったこともあり、昨夜は13時間以上も爆睡した。緊張感がなくなったせいか、全身に疲労感が残っている。

 そんな中、改めて、この23日間のブログを読み返してみた。

 <まずは、お詫びを>

 読み返してみて、一番先に感じたのは、スマホでの変換間違いの多さである。実は、今のスマホは2ヶ月前に新調(中古)したものだが、打っている最中にどんどん予測変換候補が出てくる・・・しかも、拡大することのできない非常に小さな文字で・・・それを選択する際に、押し間違いをしていることが多くの原因である。

 毎日、お付き合いいただいていた方に、この場を借りてお詫びを申し上げたい・・・「広い心で看過いただき、ありがとうございました」

 

◎総括的なこと

 さて、今回の歩き旅の一番の目的は、「五街道を踏破した足で旧山陽道も歩き、旧街道歩きで本州縦断(三厩~下関)を成し遂げたい」ことであった。距離は長いが、函館からの移動距離が長くなるので、四国遍路同様に分割せずに、一気歩きの計画を組んだ。

 結果、これまでの経験をもとにして計画を組んだが、計画段階での距離計算の間違いや、日が短く、スタート時刻が遅いこともあり、計画より2日遅れのゴールとなった。

 しかし、今回の旅は実に天候に恵まれた旅だった・・・23日間で雨に降られたのはわずか1日・・・それも、時々折り畳み傘を差したり、畳んだりで済むような弱い雨だった。雨具を一度も着ることはなかった。雨が降ればメモを取るのが大変なので、本当に助かった。

 23日間の歩き旅は、四国遍路以来の長期間の歩き旅である。しかし、非日常的な毎日の中で、発見と感動の連続の繰り返しは、あっという間に、1日が過ぎ、23日間が長いと思うことはなかった。

 なお、今回の旅はガイドブックがないので、ルートマップと内容は、『街道歩き旅・com』「京街道歩き旅」「山陽(中国)街道を歩いてみました」に全面的にお世話になり、非常に助けられた。あとで、お礼のメールを出しておこうと思っている。

 

 以下、項目ごとに記述してみたい

◎新型コロナ感染急増中の旅だったことについて

 スタートするころから、第三波が急カーブを描き始めていた。しかし、GoToトラベルキャンペーンも行われていたし、特に歩き旅は1ヶ所に長くとどまることもなく常に外を移動している。3密を避けて、自己防衛に努めれば、それほど感染リスクが高くないだろうと決断した。

 実際、立ち寄るコンビニや飲食店、泊まるホテルなどは、非常に感染予防対策が徹底されていたし、宿までの移動手段の電車や列車でも、3密になるような状態はなかった。繁華街や通学・通勤時間やコンビニ・飲食店などでは、常にマスクをしたが、そうでないところでは外して歩くことが多かった。手洗いや除菌シートでの手拭きなども徹底した。

 神経をすり減らして現場対応をされている医療関係者や感染患者には申し訳ないが、何よりうれしかったのは、宿のGoToキャンペーン割引だった。じゃらんを通して予約すれば、35%割引の上に、地域クーポン券(1000円)が付いてくることだった。常に安い宿ばかり選んだ上でのそのキャンペーンは非常に助かった。お陰で、これまでの歩き旅で最も安上がりだったし、食事代も助かった。

 

◎京街道(京都~大阪)の印象について

「山陽道」は通常、西宮~下関間の51次をいう。これまでの東海道と繋ぐためには、京都追分~大坂の「京街道」か、京都~西宮の大坂を通らない「西国街道」のどちらかを歩かなければならなかった。

 結局、東海道の延長として道中奉行の管轄下に置かれ、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場が設けられ、「東海道57次」と呼ばれることもある「京街道」を歩くことにして、大阪から山陽道を繋いだ。

 京街道は、長い間都が置かれた京都と天下の台所と呼ばれた大阪を結ぶ街道であり、現在でも大都市と大都市を結ぶ街中ウォークである。あまり期待していなかったが、それでも、「東海道57次」と呼ばれる、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿は、元宿場町の面影を色濃く残していたし、それを売りにした観光にも力を入れていた。

 

◎山陽道の印象について

 旧山陽道は、古代七道の中では、最古の街道である。江戸時代は、江戸幕府直轄の道中としての管轄にはなかったが、九州から都のある京都までの人だけの往来ではなく、大陸文化流入の道でもあった。

 それだけに、五街道に比べて、古代からの古い歴史が色濃く残っている感じがした。すでに、旧宿場の面影を残しているところは少なかったが、板倉宿・矢掛宿・呼坂宿・宮内宿などは、古い街並みを残し、観光にも力を入れていた。

 さらに、意外だったのは、五街道より、国道や県道に吸収されない旧道が非常に多く残っていたことである。それだけ歴史の古い街道ということもあろうが、昔の道幅のままの集落や街並みが多く残っていた。また、昔のままの峠越え道が、地元の人の努力により、多く残っていたこともうれしかった。それだけに、出発する前にはあまり期待していなかった、旧街道歩き旅を十分満喫できる旅でもあった。

 

◎歩く距離と時間

 自分の歩き旅は夏山と冬山の端境期の11月と4月が多い。特に今回は11月中旬~12月上旬になったこともあり、夜明けが遅く、スタート時刻が春よりは2時間ほども遅くなる。ブログアップ作業時間の確保もあり、遅くとも15時30分までにはゴールできるように計画を組んで歩いた。

 なお、計画の距離と実際に歩いた距離(毎日GPSで計測)は、いろいろ立ち寄ったり、間違って戻ったり、遠回りをしたりで、常に1~2割は多くなる。

 初めの内は、6:30前にスタートできたが、後半は7:00ごろになった。今回は宿を都市部の駅前に取ったこともあり、15:00か30kmをめどにゴールとして、列車で移動するようにして、臨機応変に対応した。しかし、街道と鉄道が離れているところも多く、上手く行かないところもあった。

 春の日の長いときは、40kmも歩くことは可能なのだが、それだけに、疲れが少なく済んだこともある・・・しかし、加齢とともに知らず知らずに進んでいる体力低下にはちょうど良かったのかもしれない。

 

◎費用と宿の確保について

 これまでも宿代と食事代で1日6000円をめどにしてきた。しかし、今回はじゃらんで予約すると、GoTo割引で宿代が35%割引の上に1000円の地域クーポン券が付いた。そのお陰で、かなり安上がりの旅となった。周南市のホテルでは、宿代が3445円になり、地域クーポン券1000円のほかに周南市クーポン券2000円が付いて、実質445円で泊まったなどというところもあった。

 ほかに、GoToではないが、2食付き(それも十分な内容)で3500円という宿や、市独自の宿泊事業者支援プランで1泊1000円という宿もあった。

 宿は、GoTo割引の関係でじゃらんを通して、ネットで探して、前日か前々日に申し込むことが多かった。それでも、今回の場合は、混んでいて確保に困ることはなかった。ただ、じゃらんが対応している宿は都市部に多いので、電車で移動することは多かった。

 

◎食事について

 いつものことだが、夕食はブログアップを終えてから摂ることが多い。したがって、朝は腹が減っていないので、朝食は食べたり、食べなかったりで、コンビニがあれば、サンドイッチ、おにぎり、カップ麺などで済ますことが多かった。最近のホテルは無料の朝食サービスが付いているところが多い。最後の2日間以外は、スタート時間の関係で食べることはなかった。

 昼食は、できれば、午後からの行程やゴールを確認するためにも、腰を下ろして休みたかった。しかし、旧街道沿いには店はほとんどない。タイミング良く、国道に近いところや国道歩きの時に店が見つかれば食べるようにした。タイミング良く店がないときは、遅い時間でもコンビニで何かを買って食べるようにした。

 夕食は、いつもなら安い缶ビールも含めて1000円程度で済ませたが、今回は地域クーポン券のお陰で、いつもの旅より贅沢ができ、生ビールも多く飲んだ。しかし、地域クーポン券が利用できる店は限られている。探すのが面倒なので、コンビニ(どの店も利用可能)で、多少贅沢な買い出しをして済ますことも多かった。

 外食は野菜不足になりがちなので、努めて野菜の多い献立を選ぶようにした。スーパーがあれば1個売りしているリンゴかカキを買って食べることもあった。みかんも食べたいいがバラ売りしていないので買いづらかった。コンビニで夕食の買い出しをするときには、いつも「ごろっと果物ミックスゼリー」を買った。

 

◎ブログアップについて

 これがなければ、どんなにか楽な旅になるだろう・・・と思いながら、疲れた体に鞭打って頑張っている。しかし、登山も歩き旅もその日のうちに「登っては書く、歩いては書く」は、これまで貫いてきたポリシーである。ブログを書いて、その日の旅が終わる・・・このような連日の旅は、その日のうちに記録しなければ、忘れてしまう・・・当日でさえ、写真を見て、「あれ、これはどこを写した写真だろう?」と思い出せないこともある。今回は、写す度にメモをするようにした。

 興味の湧いたものはどうしてもカメラに収めてしまう。それが多いと、取捨選択とキャプション書きが大変である。特に取捨選択に時間を要するのがもったいないので、今回はコラージュというアプリで、2~4枚の組み合わせを多く使った。

 それでも、19時半を過ぎると、目が疲れてしょぼしょぼしてくる。途中のダイソーで眼鏡タイプの拡大鏡を買ったが、それでも同じである。20時までが限界だった。2日間だけだが、途中でギブアップして、寝て夜中や早朝に完成させたこともある。

 それから、夕食を食べながら寝酒のビールを飲む・・・そして寝る・・・の繰り返しである。だから、TVを視ることもなく、世間から疎い生活を繰り返す。それでも歩き旅は楽しい。

 なお、今までのスマホは画像の質が悪かったので、コンデジで撮ったものをFiashAirでスマホに取り込んでいた。しかし、今度のスマホは画質が良くなったので、撮影はすべてスマホにした。昨日帰宅してPCの大きな画面で見ても、十分満足できる画質だった。

 

◎今後の歩き旅について

 毎日の新しい発見と感動との出会いが続く非日常的な歩き旅は、本当に楽しい。資金が無限にあるのなら、年から年中歩いていたいと思う。これまでに歩いて来た五街道や今回の山陽道の旧街道、四国遍路や熊野古道のような歴史の道以外にも、それらと地方を結ぶ旧街道はたくさんある。

 今後は、宿代の不要な車中泊を利用した歩き旅の工夫をしてみたい。とりあえず来年は、今年新型コロナの影響で止めた「みちのく潮風トレイル」を歩いてみて、それが、車中泊利用でうまくできたら、他の旧街道歩きにも応用してみたいものである。

 

◎その他

 実は、ずっと触れることはなかったが、最後の10日間は、左足の小指と薬指と中指の間に、今までの歩き旅では経験したことのない痛みと靴擦れ状態の軽い出血の症状が続いた。いつもの5本指の靴下を履いていたのにである・・・毎日風呂から上がっては、化膿止めにマキロンで消毒して、Ⅼ版のカットバンを巻いて対応し、普通の靴下を買って履いた。我慢できないほどの痛みではなかったので、付き合いながら歩き続けた。

 昨日はほとんど歩かなかったので、痛みや軽い出血や汁は止まって乾いたが、指股の上が赤くなり痛痒さが残っている・・・症状や見た目の感じから、原因として考えられるのは水虫でないかと思われる。明日、皮膚科で診てもらおうと思っている。

 明日は、親サイト「一人歩きの北海道山紀行」の方からも、まとめて見られるようにページを作る予定である。 


25日ぶりに無事帰宅

2020年12月07日 | 登山・旅行

 昨夜、下関から23:30発の夜行バスに乗り、7:20に大阪難波に到着。早朝で時間を潰せるところもないし、大阪も新型コロナ感染者が多くて、非常事態宣言が出ているので怖い。

 幸い、同じバスターミナルから伊丹空港行きのリムジンバスが出ているので、そのまますぐに乗り換えて、11:50発の飛行機まで、空港で過ごした。

 なお、ANAのシニアスマート割引は、行くときは16000円代だったが、帰りは19000円代に値上がりしていた。12月に入って高くなったようだ。

 

 お土産だが、伊丹空港では、いつも定番の蓬莱551の豚饅と焼売。りくろうおじさんのチーズケーキである。それに、下関で買った、ふぐめしまぜご飯の素とカステラ饅頭ふく笑い。

 25日ぶりの帰宅だったが、これほど長い歩き旅は、2回の四国遍路以来である。客観的に考えると、長いとは思うが。毎日が、非日常的で、発見と感動の連続なので、それほど長いとは思わなかった。

 昨夜の夜行バスは、あまり眠れなかったので、今日は早めに寝ることにする。

 明日は、ゆっくりPCで読み返し、今回の「京街道・山陽道歩き旅」をじっくり振り返ってみたい。

 今週は休養に徹し、札幌国際スキー場での講師を依頼されている、12日(土)の「HYMLスキーキャンプ」に備えたい。

 スキーと言えば、毎年連続参加している来シーズンのクロカンスキー大会は、新型コロナの影響で、すべてが中止になった。昨年は雪不足で中止になっているので、2シーズン連続である。せっかく今回の歩き旅で鍛えた足が生かせると思っていただけに、残念である。

前日へ   翌日へ「2日間の京街道・21日間の山陽道の歩き旅を振り返る」


山陽道21日目・小月宿~50長府宿~51下関宿~永福寺〈22km〉(5時間15分)

2020年12月06日 | 登山・旅行

 いよいよラストウォークである。今日も天気は最高。ここ数日で最も暖かかった。距離も短いのでのんびりと歩き、長府宿を含めた長府市街地ではあちこち寄り道した。 

 無事に、京都から23日で、山陽道起終点碑のある永福寺前でゴールできた。

 ゴール後のミッションだった、渡船で門司へ渡り、関門トンネルの人道をあるいて、下関へ戻ることもできた。

小月宿~長府宿

 スタートを遅くしたので、無料の朝食も食べることができた。昨日もカレーを食べることはできたが、それ以外のほとんどは、食べなかったり、食べても、コンビニで簡単なもので済ませていた。

 下関駅から小月駅まで戻り、7:45に、昨日のゴールド地点をスタート。

 これまでの五街道歩きでは、飽きるほど目にしてきた道祖神を、今回のの旅で初めて目にした。しかも、これまでに見たことのない、ミニ社(やしろ)スタイルである。庚申塚もこの道祖神も、目にしたのは長州だけである。

 このあと、しばらく人家も途切れ、田畑の中の歩きが続く。

 清末地区へ入ると、神田橋と橋本家長屋門の案内標識が出てくる。5分ほどで、「橋本家長屋門」が現れる。この門は、清末藩邸の第一裏門で、明治6年の藩邸処分の際に買い取られ移築されたものだという。

 やがて、神田川をわたる「神田橋」へ。ここが清末藩と長府藩の境界である。アーチ型の珍しい橋である。「文化八年」と彫られた石橋時代の高覧と石柱もある。

 久しぶりに一里塚が登場。「宇部一里塚」となっているが、宇部市の宇部でなく、この辺りの古い地名なのであろう。

 国道2号と並行して、旧道は続く。やがて、長府駅が近づいてくる。

50長府宿~下関宿

 長府駅前には「維新の里 城下町 長府へようこそ」の看板が立っている。しかし、長府宿はかなりまだ先だった。

 やがて、急に道が広くなり、新しいながらも、古さを生かそうとする明るい感じの町並みとなる。

 そこを過ぎると、また狭い道幅の商店街となる。

 ちなみに、長府とは、周防国の国府が置かれた防府に対し、長門国の国府が置かれたので長府と呼ばれるようになった。中世には長門守護所や長門探題が置かれ、西国防衛の要衝であった。

 お寺や神社が非常に多い。その中の「天然記念物 正円寺の大イチョウ」に引かれて、寄ってみた。樹齢は不明だが、「乳の下垂」といわれる突起が発達して垂れ下がっている。

 街道から少し外れるが、「維新発祥の地」碑を見に行く。長府が高杉晋作の回天義挙があった明治維新発祥の地であることを記念するもの。

 街道へ戻ると、正面に忌宮神社がある。長府は古代からこの神社を中心に阪田ところで、14代仲哀天皇が九州平定のために西下、穴門(長門)豊浦宮を興して7年間政務をとった地といわれる。

 さらに進むと、「乃木さん通」商店街となる。ここは、乃木希典の生地でもある。 

 やがて、右折すると、「長府古江小路」へと入っていく。なんとも趣のある小路である。

 古江小路の長い塀が「長府毛利邸」である。長府毛利家第14代当主である毛利元敏によって建造された武家屋敷造りの邸宅。

 さらに、その奥の「功山寺」へ。ここは、紅葉の名所でもあるが、鎌倉時代創建、唐様(からよう)建築の美しさを保つ仏殿は、わが国最古の禅寺(ぜんでら)様式を残しており、国宝に指定されている。

 境内には「高杉晋作回天義挙像」がある。回天義挙とは、元治元年12月15日に高杉晋作ら正義派の長州藩諸隊が、俗論派打倒のために功山寺で起こしたクーデター。 これに端を発する長州藩内の一連の紛争を元治の内乱という。 

 日曜日で観光客で賑わう長府宿を抜け、緩やかな峠へと登っていく。

 下り始めてまもなく、車が止まり、声を掛けられる。拙サイトの古くからの愛読者で、時々コメントを下さる、下関在住のTS山口さんである。わざわざ逆から捜しながら走って来て下さった。うれしい初対面が叶った・・・感謝・感激・感動である。

 さらには下っていくと関門橋と手前の町並みが見えてくる。さらに、下っていくと、海峡を挟んだ九州の門司が見える。

 海岸に出る手前で、街道から外れるが、「前田砲台跡」を見に行く。

 せっかく海岸が近くなったのに、再び、急な坂道を登っていく。この辺りは旧道が消えているところらしい。それにしては、やたらと曲がり角の多い複雑な登りだった。久し振りに汗をかいた。

 やがて。下り始めて、旧道に戻ったようだ。海峡を行き来する船が見える。1日に6~700隻は通過するらしい。

 国道に出ると、「壇之浦古戦場址」を中心とした歴史公園になっている。

51下関宿~永福寺

 関門橋の下を通るが、潮の流れがものすごく速い。時速18kmとか。これが1日に4回流れの向きを変えるという。

 やがて、赤間神宮が現れる。赤間関ほ下関の旧名とのこと。

 旧道へ入ると、角に「本陣伊藤邸跡」の碑がある。この伊藤邸には、坂本龍馬とおりょうがお世話になって、新婚生活を過ごしたとか。右の石鉢は西郷隆盛が手を洗ったとか。

 その地点から、先の街道の町並みを写したが、道幅以外は、当時の面影はない。

 さらに進むと、金子みすずの写真と詩が掲げられた碑がある。この辺りの書店で過ごしていたようだ。

 その先に「馬関越荷方役所址」の碑もある。

 赤間本通り商店街は、当時の宿場の中心部で、とても賑わっていたという。

 その交差点の向かいに下関市役所がある。その前を通り、ゴールの永福寺を目指す。

 13:00、京都をスタートして23日目で、永福寺前の「山陽道起終点一里塚跡」に無事到着。なお、赤間関街道とほ、ここから萩までの街道である。

 そばを通り掛かった方にお願いしてシャッターを押してもらった。

 国道を挟んだ向かいにそば屋があったので、祝杯の生ビールと鴨つけそばを注文した。

関門海峡を往復

 当初から、ゴールしたら、関門海峡を行きは渡船で、帰りは関門トンネルの人道を歩いて往復する計画だった。

 ゴール地点から10分ほど戻って、唐戸桟橋から渡船に乗る。目指すは、向かいの門司である。わずか、10分で到着。

 シックな門司駅と、駅前の「バナナの叩き売り発祥の地」を見る。

 門司駅の裏から、門司港レトロ観光列車に乗り、関門トンネルの人道入口へ。終点で降りて、関門橋を眺めて、人道入口へ。

 エレベーターで下へ降りて、780mの人道を歩いて、下関へ戻った。

 このあと、バスで下関駅まで戻り、カフェでブログアップをした。

 これからは、駅から1kmほどのところに1軒だけある天然温泉に入って、夕飯を摂り、23:30発の大阪までの夜行バスに乗る予定。

 下関から函館まで帰るには、大阪まで夜行バス(4000円)に乗り、伊丹空港からシニア割引を使うのが一番安上がりだ。

 

 温泉から駅へ戻って、近くの居酒屋で、串焼きで打ち上げ。北海道では定番の豚串がない。

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山陽道20日目・厚東駅~46船木宿~47厚狭宿~48吉田宿~49小月宿〈33km〉(8時間05分)

2020年12月05日 | 登山・旅行

 今朝は、今回の旅で初めてホテルの無料の朝食を食べることができた。6時には用意されていて、スタート時刻も遅くなったからである。 

 ホテルにリュックを預けて、厚狭駅から厚東駅へ移動。今日は、国道の低い峠越え2ヶ所と、舗装されていない旧道の峠越えが1ヶ所あった。集落の切れているところが多かったせいか、これまでの中で、国道や県道歩きが多かった。

厚東駅~船木宿

 6:55、昨日のゴール地点をスタート。国道を進んでいく。

 国道の右側の高いところに旧道が続く。やがて、その道は家並みの裏側を通る細い道となる。

 吉見集落を抜けると、「史跡 吉見市跡」の標柱が立っている、さらに、国道を跨いだ先にも「吉見勘場跡」がある。要するに、ここにも宿場や代官所があったということ。

 そのあとはしばらく農道として利用されている旧道を進む。やがて、国道の横に続く草道となるが、途中で行き止まりになり、国道へ出た。

 国道やはそのまま吉見峠を越える。その手前に、昔の峠の絵を描いた看板が設置されていた。

46船木宿~厚狭宿

 旧道へ入ると、船木宿となる。さらに、中心部への入口に、船木宿の高札場跡の標柱が立っている。

 この「旅人荷付場跡」の標柱と船木宿の説明板がある。この辺りが、船木宿の中心部だったとのこと。

 その場所から町並みを写す。狭い道に旧街道の宿場の面影を感じる。

 その先にも旧家や古い商家が並んでいて、宿場の面影がある。

 右手に、「大木森住吉宮」がある。船木の地名の由来は、神功皇后が軍船48艘を作るために切った楠木の大樹はここの境内の楠木だったことによる。石造りの神橋が印象的だった。

 船木宿を抜けて、国道を30分以上も歩く。

 国道から旧道へ入ると、「千林尼の石畳」「山陽街道」の標識が立っている。そこを進むと、確かに、石畳や昔のままの街道が残っていた。

 今度は県道に出る。

 やがて、西見峠となる。ここで宇部市から山陽小野田市へと入る。

 下って行くと、旧道の入口に「左 旧山陽道」の新しい標柱がある。非常に助かる。さらに、下って行くと厚狭宿へと入っていく。

47厚狭宿~吉田宿

 厚狭宿の中心部であるが、道が狭いこと以外には、特に宿場の面影ほない。なお、厚狭の地名の由来は、古代に麻の栽培が盛んだったことによるそうだ。

 さらに、進んでいくと、お茶の店舗や昨日も目にした男山酒造の古い建物もあった。ここで、なるほど旧宿場だと実感できた。

 宿場の先の鴨橋を渡る。その左先に小公園があり、昔の「鴨橋」「加茂橋」の碑が立てられていた。

 その手前角に、「右あつ 左はぶ」と彫られた道標があった。

 ここで、街道は左折するが、直進してホテルへ向かい、リュックを取ってきた。

 そのついでに、厚狭駅前の「寝太郎之像」をカメラに収めてきた。

 「厚狭の寝太郎伝説」の寝太郎である。伝説では、寝太郎は寝ながら考えた知恵で、新しいわらじを佐渡の金山に持って行き、古いわらじと交換して、古いわらじについた砂金を持ち帰り、この地域の開発資金にしたという。寝太郎を祭った「寝太郎神社」や「寝太郎橋」もある。

 鴨橋まで戻り、川縁の道を進む。

 七日町分岐には、「右吉田 左はぶ」と彫られている。

 その後、家並みがしばらく途切れ、田畑や山の中の道が長く続く。

 やがて、山陽本線沿いの道となる。トンネルの上の道を進む。その先から道が狭くなり、ちょっとした峠を越える。福田の集落へと入っていく。

 集落を抜けると、蓮台寺峠への入口に到着。標識がある。その先には轍があり、農道として利用されている。その先に、わずか200mくらいだが、轍のない昔のままの道があった。しかし、その先で再び轍の残る道となる。

 峠手前には、庚申塚がある。その先の切り通しと石垣が組まれた峠を通過。下って行くと、出口にも標識があった。入口からこの出口まで50分ほどを要した。さらに下って行くと吉田宿となる。

 大きな町へ入っていくのは、厚狭宿以来3時間ぶりだった。吉田宿は下関市のなっていた土古路をみると、蓮台寺が山陽小野田市との境界だったのかも知れない。

48吉田宿~小月宿

 吉田宿の入口には、宿の標識が立ち、「右上方道 左萩道」と彫られた道標があった。ここは、交通の要所で栄えたようだ。これから進む方に「赤間関街道」という名前も登場した。赤間関街道とは、萩と下関の間の19里の距離である。

宿の中心部を抜けると、出口にも吉田宿の標識や一里塚があった。

 吉田宿を抜けて、木原川の橋を渡ると、川沿いの県道歩きが続く。

 ごく一部だが、「切り通しの旧道」があった。すごいところに道が続いている。

 県道から旧道に入ると、小月宿へと入っていく。「旧国道」という標柱があった。昭和初期に国道2号ができたことにより、昔からのこの街道をそのように呼んだらしい。小月神社の前を通過。

 その先に、日本一の庚申塚がある。高さ2.6m。

 宿場の中へ入っていくと、少し入ったところに、高崎晋作が率いた「奇兵隊宿営地跡」があった。

 小月宿は、道路が広くなっていて、宿場の面影はない。唯一それを残すものはこの「右かみがたへ 左とよたへ」と彫られた道標のみとのこと。

 そこから、町並みを振り返ってみた。

 道標が立っている交差点を右折して、細い道へ入って行く。案内表示石が立っていて、ここからは「見廻り通り」と呼ばれ、「下市から茶屋入口までの山陽道の一部で、下市は宿場街、茶屋町は歓楽街で栄えたために武士が庶民の暮らしや治安を見て廻った」という説明が書かれている。この先同じような道が続き、ずっと南下して行く。 

 今日のゴールの小月(おづき)駅への地点を写したら、すぐ左手に見飽きた方というか、今となっては懐かしい方のポスターが貼られていた。下関市が地盤のようだ。

 小月駅から、ホテルを取ってある下関駅まで移動。

 明日の夜は、夜行バスの予定なので、今回の旅最後の宿となる下関ステーションホテル。

 GoTo割引で3275円。最後の地域クーポン付き。ここにも、大浴場がある。歩き旅はこれがうれしい。疲れの抜け方が違う感じである。天然温泉なら、最高なのだが・・・。

 今日の歩数計 48000歩。

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山陽道19日目・四辻駅~44小郡宿~45山中宿~厚東駅〈7時間〉(27km)

2020年12月04日 | 登山・旅行

 ゴールまであと2日の予定だが、今日も明日も距離が長いのが気になっていた。日の長いときなら、5時にはスタートできるが、今は明るくなるのが7時である。計画に甘さがあった。

 しかも、残りの距離を精査したら、今日と明日の距離が合計で70kmほどあることが分かった。実際に歩けば、1~2割増しになる。日の長いときならなんとかなるが、別に急いで帰る必要はない。

 宿は厚狭駅前に取ったが残りの行程を、3日に分けて、ラストウォークをゆったりとした日程表で楽しむことにした。そこで、今日のゴールを厚東駅にした。

 今日も、1ヶ所だけだが、昔のままの自然道の峠越えを楽しむことができた。

 午前中は日も照らなかったので、朝だけ着ていたインナーダウンは、昼まで着ていたので、日中は一番寒かったかも知れない。

四辻駅~小郡宿

 7:00、四辻駅前をスタート。国道の上の横断幕に、「ここは鋳銭司、銭のふるさと」。裏側には「維新の10傑 大村益次郎」と書かれていたが、その史跡や生家等はなかった。大村益次郎の生家は駅前付近らしい。

 国道から旧道に入ると、陶(すえ)地区となる。家並みや通りの様子に旧街道の趣が感じられる。

 地区の名前にもなっている「陶陶窯跡」の表示がある。国の指定文化財だという。往復2kmはあるが、日程にも余裕があるし、朝の源基な内なので、行ってみることに。

 入口からほ竹林の急な坂道を登っていく。

 説明板によると、陶陶窯跡は、須恵器を焼いた窯で、平安時代初期に使われたものらしい。この地方の地名を陶ということからわかるように、この地では古くから窯業が盛んに行われていた。
 現在陶地区の北側の山裾一帯には広く須恵器の破片が散布しており、各所に窯跡と見られる。
 平成5年度に窯跡の南側を発掘調査した結果、全長約6mの窯であることがわかった。

 陶地区をしばらく行くと、一里塚がある。ここから、右と左のそれぞれの所までの距離が刻まれている。

 その先に、ホテイアオイですっかり覆われている溜め池がある。

 橋を亘ると、小郡宿へと入っていく。

44小郡宿~山中宿

 狭い旧道沿いにびっしり家並みが続いている。

 左折する交差点に、江戸時代の道標が立っている。「右 京 江戸」「左 萩 山口 石見」、さらに、一面には「牛馬繋事無用」と読みやすい字で掘られている。

 左折すると、小郡宿の中心部となる。下のお宅は、本陣跡に建っている。新しい造りだが、昔はかなりの名家のような感じを受ける。

 小郡宿を抜けて、しばらく進む。次の集落は、狭い昔のままの道幅に、瓦葺きの家が並び、いかにも旧街道と家並みといった趣を感じる。

 そこを抜けると、これまた、農道のような旧道が残っている。

 嘉川地区の家並みも、なかなか趣がある。下の虫籠窓と連格子の旧家はしばらくぶりだ。

 民家の庭先に続く幅1mほどの道もある。日本最古の天下の公道も、このような形でも残っていることがうれしい。

 旧家から国道に抜けると、峠道となる。峠の手前に「おいはぎ峠」とい食事処がある。正式な峠の名前は不明だが、昔はおいはぎが出ても不思議でない、寂しい峠道だったのだろう。

 峠のは「国境石」があり、「東 周防国 西 長門国」と刻まれている。この両国ともに、江戸地代は、外様大名の毛利藩で、幕末から明治維新にかけて多くの有名人を生んだ長州藩である。

 その先で、旧道へ入っていくと「旧山陽往還道」の標柱がある。街道歩きをしている者にとっては、限りなくうれしいものである。

 京都からここまでで一度も目にしなかった庚申塚が、長門国に入った途端に目に付くようになった。このほかも含めて4ヶ所目にした。

 国道に出た所のコンビニで、昼食にカップ麺を食べて体を暖めた。

43山中宿~厚東駅

 再び、旧道へ入っていくと山中上宿へと入っていく。山中宿は1km離れた上と下の2ヶ所からなっている。上は専念寺が本陣を務めたという。

あっという間に抜けるが、人家が切れたその先に「旧山陽道MAP」が設置されていた。

 やがて、山中下宿へと入っていくが、人家が非常に少ない。しかも、中心部だったところは、国道が通っている。

 これまでの旧街道歩きで、初めての経験である。それだけ小さな宿場だったということなのだろうか? 

 しかし、ここには、本陣跡の標識が立っていた。

 やがて、厚東(ことう)川沿いの道となる。そこには、「船渡し場跡」と「駒の頭」の標柱がある。駒の頭とは、江戸時代にサイホン方式で両側の水田に水を引いた所のことらしい。

 その先に、なんと、旭川にある男山酒造と同じ銘柄の「男山永山本家酒造場」があってびっくり。

 やかて、山の方へ向かう。案の定、「殿様道」と呼ばれる玉木坂に掛かる。芸人のIKKOさんが喜びそうな「どんだけ道」とも呼ばれるが、これは「殿様だけ道」がなまったらしい。一般の旅人は厚東川沿いの道を通ったらしい。

 今では、自分のような旧街道歩きの人しか通らない道のぬかるみに枕木で木道を整備してくれていた。感謝である。やかて、一度切れて、田んぼの菜かを通り、再び、林の中の道となる。

「旧山陽道」の標識や一里塚跡もあり、一里塚とオカツ茶屋跡の説明文板もある。

 14:00、その「どんだけ道」を抜けて国道に出たところを今日のゴールとした。そこから5分の厚東駅へ向かった。

 厚東駅から厚狭(あさ)駅へ移動して、15:00前には、予約しておいたホテルへ。

  「エクストールインホテル山陽小野田厚狭駅前」とやたらと長い名前のホテルである。GoTo割引で3575円。地域クーポン券付き。

 このホテルは新しい上に、うれしいことに、温泉並みの大浴場がある。ゆったり浸かったのは言うまでもない。 

 今日の歩数計 40000歩。

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山陽道18日目・戸田駅~42富海宿~43宮内宿~四辻駅〈8時間10分〉(32km)

2020年12月03日 | 登山・旅行

 ゴールを、ホテルを取った新山口駅の1駅手前の四辻駅をゴールに設定してた。

 今日も、峠は4つ越えたが、昔のままの道が残っている峠は2つ。どちらも、地元の「歴史の道」として、標識等も整備されていた。また、宮内宿を含む防府市内は見所が多かった。

 徳山駅から戸田駅まで3駅移動して、6:50、スタート。昨日ほど寒くはなかった。

 戸田駅~富海宿

 スタートしたら、5分もしない内に、赤坂峠への登りとなる。峠の上には西徳山総合グランドや水道施設、電波塔などがある。

 下って行くと、桜田地区となる。ずっとまっすぐな道で、先が見通せる旧道はめずらしい。

 「戊辰戦争凱旋記念碑」とその向かいに「宮島様」がある。

 函館人としては、旧幕府軍の負け戦ばかりがクローズアップされるが、ここは長州である。新政府軍として奥州まで戦いに参加した、この付近の兵が、無事に凱旋したことの記念碑である。

 なお、「宮島様」と呼ばれているのは、水の中に柱を立てて祀られているからとか。

 やがて。国道沿いの旧道が続く。椿峠だけは、国道と合流していた。ここから、延べ3日間歩いた周南市から防府市となる。

 椿峠から旧道に入るところから、瀬戸内の海と、これから下りていく富海宿の市街地が見えた。

42富海宿~宮内宿

 富海宿へ向かう途中にポツンと、風格のある旧家があり、庭には「秩父宮殿下御仮泊之地」碑が立っていた。

 やがて、富海宿へと入っていくが、そこにも立派な旧家があった。

 

 ここにほ、「富海本陣跡の門」が残されていた。

 富海宿の町並みだが、瓦葺きの家が多くならんで、宿場の風情が残されている。

 富海宿を抜けると、今度は「橘坂」への登りとなる。ここは、標識が充実していて、地元の熱意を感じる。すぐに、昔のままの自然道となる。

 少し登って振り返ると、通過してきた富海宿やその前の海が見えた。

 峠の案内板と設置されていた。

 登っていくと「茶臼山古戦場」の説明板と、その上に「大内霊神」が祀られている。

 大内家再興を願って大内輝弘は豊後から山口に攻め込んだが、志ならず、毛利軍の追撃にあって自刃した場所である。その大内氏を祀ったのが「大内霊神」である。

 この辺りから、平坦な路となり、浮野峠へと続く。

 「浮野峠改修記念碑」が立っている。明治4年に、道幅を広く改修したらしい。

 その先に、「旧山陽道」の標識があり、そこから下に下りる道があるような感じである。ルートマップにはそんなところはない。入ってみたが、すぐに踏み跡もなくなっている。戻って、浮野峠へ向かう。

 やがて、浮野峠となり、下って行くと、これから下って行く防府の市街地が見える。自然道部分だけで30分ほど要した。

 峠の出口から下っていくと、「又兵衛屋敷(茶屋跡)」の遺構がある。

 さらに、下には、「徳地屋跡 大名休憩所」があり、そこに、2本道標が立っている。「こんぴらみち」「あじがみち」と読める。

 完全に下って終うと、防府市の市街地へと入っていく。途中から右に入る旧道がある。石垣の間にまっすぐ続いている。この両側が「周防国衛跡」である。

 旧道を挟んで残る広大な周防国衙跡の中心を通り抜けるわけだ。
 国衙の案内板や、左手には「周防国庁碑」があるが、広すぎて写真に納収めることは難しい。周防の国府は鎌倉時代に東大寺造営料国となったことから、国庁舎は国庁寺という寺として明治まで存続が存続したという。明治になって解体されてしまったというのは残念なことではある。

 その間をまっすぐ進み、左折すると、宮内宿へと肺って行き、見所が多くなる。

43宮内宿~四辻駅

 「周防国分寺」

「毛利示庭園」への道。寄ってみるだけの元気はなかった。

 「防府天満宮」と「萩往還」~山陽道と萩往還の分岐で、この辺りが交通の要所で、宮内宿の中心地だった。

 天満宮の前から、その先の街並みを写す。下の左の建物は、「山頭火ふるさと館」。「放浪の歌人」種田山頭火はここの出身である。

 「宮内本陣兄部家」も残っている。

 中心部を抜けても?味わいのある街並みが続いている。

 そこから少し入ったところに、「種田山頭火の生家跡」がある。

 宮内宿を抜けると、佐波川の堤防の上の道となる。

 北側に連なる、花崗岩が剥き出しの山が気になる。

 橋を渡って進むと、周防一宮の「玉祖神社」がある。2kmほど進んだところに、玉祖神社の常夜灯があった。

 今度は、佐野峠に掛かる。ここにも、案内標識がたくさん設置されている。

 峠のピークにはすぐ着いた。「籠場建跡」がある。峠から海が見えた。

 ここは、自然道部分だけで25分ほど要した。登りはすぐだが、下りが緩くて長かった。

 やがて、大淵地区の家並みを抜けると、農道の雰囲気となる。剣道や国道を横切って入って行った集落は、瓦葺きの家並みが続き、旧街道の雰囲気を残している。

 ゴール30分ほど前から国道歩きとなる。長沢池というが、溜め池にしては大きい。調べてみたら、やはり江戸時代に造られた溜め池らしい。

 防府市から山口市に入った。

 15:00、国道の歩道橋を今日のゴールとして、左にある四辻(よつつじ)駅へ。歩道橋に下関の標識がある。あと、2日待ってろ!

 四辻駅の隣の駅が新山口駅である。その駅前のホテルが今日の宿。GoTo割引で3250円。地域クーポン付き。

 コインランドリーがあったので、まず最初に洗濯をしてから、風呂に入った。

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山陽道17日目・高水駅~36呼坂宿~37久保市宿~38花岡宿~39徳山宿~40富田宿~41福川宿~戸田駅〈33km〉(8時間10分)

2020年12月02日 | 登山・旅行

 国道の標識にも下関の文字が目につくようになってきた。いよいよ、ゴールが近くなってきた。今日を入れてあと4日は掛かりそうな感じになってきた。予定通り歩けると、下関ゴールは12月5日になりそうである。

 今日は、宿場間の距離が短く、6つの宿場を通過した。今夜のホテルは昨日と同じ徳山駅前に取った。同じホテルに連泊したかったが、取れなくて、別のホテルにした。結果的に、最後に詳しく書くが、幸いした。

 リュックを駅のコインロッカーに預けて、ショルダーバックとサブザックで出掛けた。徳山駅から昨日のゴールの高水駅へ移動。

高水駅~呼坂宿

 6:30、まだ暗いうちにスタート。

 東の空が赤く燃え、西の空には満月。

 今朝も1℃くらいまで下がったが、昨日同様、快晴に恵まれて、昼にはポカポカして汗ばむほどだった。

スタートしてすぐのコンビニでホットコーヒーとカップ麺で暖まった。まもなく、県道から旧道へと進むと、呼坂宿となる。

36呼坂宿~久保市宿

 ここには、本陣跡の碑がたっていた。本陣の河内家は、江戸時代、代々庄屋や大庄屋を勤め、天明年間より)七左衛門が本陣を引き受けたという。

 この呼坂宿には、多くの重厚な造りの旧家が残っていて、今日の6つの宿では、一番その面影を残していた。

 宿の中に寺嶋忠三郎松蔭訣別地の碑がある。安政6年(1859)江戸送りとなった吉田松陰が5月、ここを通過したとき、郷里に帰っていた忠三郎は、久坂玄瑞からの知らせにより松陰の駕籠を見送ることができた。物々しい警戒のな中、師と弟子はただ歌を託すばかりであったという。

 吉田松陰は、この山陽道では最大の偉人扱いで、あちこちに碑が残っている。

 宿を抜けると、旧道は山の方へ向かう。国道を挟んだ山の方に、これまでも何度か目にした、端正な形をした紅葉のきれいな木が見える。北海道では目にしたことのない木で、見るたびに気になっている。

 旧道は、昔のままの自然道になり、竹林の中の細い道となる。わずか200mほどだが、竹の倒木とクモの巣が煩くて、途中で国道に逃げた。

 国道と旧道を繰り返しながら進み、久保市宿へと入って行く。

37久保市宿~花岡宿

 この宿は、特にこれといった昔の面影もなく、他の宿のような旧家も少ない。宿の中心部を過ぎると、緩やかな登りとなり、塩売峠へと続く。しかし、どこが峠なのか良く分からなかった。

 塩売峠から下ると、右下に国道を眺めながら、山の方へ向かっていく。

 竹林の中の旧道の下りもなかなか趣がある。さらに、1時間ほど旧道を進むと、次の花岡宿となる、

38花岡宿~徳山宿

 宿へ入っていくと、右手に「花岡ふるさと花だん」という公園があって、奥に花岡勘場跡」という案内がある。花岡本陣があった場所であった。江戸時代、ここは萩本藩と徳山支藩領とに分割支配され、花岡は萩本藩領に属し、統治の為の役所を勘場と呼ばれた。また本陣、番所、高札場などが置かれていたという。当時の絵図が掲示されている。中央の槇柏の木は樹齢480年というから、その当時からここに生えていたのでおろう。  

 宿の中心部の街並みの中を進み、しばらくすると、「銘酒金分銅醸造元」がある。

 しばらく旧道歩きが続く。やがて、久米地区に入る。

 旧家が少ない中に、突然大きな「防長鶴 山縣本店」の建物が目を引く。「瀬戸内の小さな酒蔵」というキャッチフレーズが憎い。

 やがて、遠石宿という間の宿がある。ここは、遠石八幡宮の門前町で栄えた宿らしい。

 その遠石八幡宮は、推古天皇時代の623年創建とのこと。

 上は醤油醸造元で、下は宿の中心部の町並みである。間の宿なのに、他の宿より、宿の雰囲気を残している。

 しばらくの間、県道歩きが続く。そのまま、徳山市街地へと入っていく。

39徳山宿~富田宿

 徳山宿の入口というわけだが、道も広いし、その面影は微塵も感じられない。

 やがて、銀座通り商店街へと入っていく。ここから駅前までが、宿の中心地だったらしい。

 ここは、毛利徳山藩の城下町である。藩庁の移転などの後、藩士の屋敷割、町屋敷割などが行われた。山陽道の宿場は現在の銀座通り沿いに置かれた。徳山駅周辺に御茶屋や目代所、高札場が置かれていたとのこと。

 徳山駅前(下の画像)を過ぎると、閑静な感じになる。

 昼になったので、目についた台湾料理店へ。台湾風棒棒鶏と小ライスを注文。これもとても美味しかった。この時点で、今日は戸田駅まで行けるメドがたった。

 徳山市街地から旧道沿いの住宅地へと入っていく。

 道ががまっすぐでなく、狭くて微妙にくねくねしている道に、旧道の面影が残る。

 たまに旧家も現れる、驚いたのは、富田川の錦鯉である。普通に生息しているのが凄い。

 やがて、富田(とんだ)宿へと入っていく

40富田宿~福川宿

 富田宿は、山崎八幡宮の門前町として賑わったらしい。その曲がり角に、「旧山陽道」の道標がある。八幡宮の前を左に曲がると、宿場を中心部のはすだが、全くその面影はない。

 宿の中心部だった地点から、前後の街並みを眺める。旧家も古市橋商家もない。

 しばらく県道歩きが続く。

42福川宿~戸田駅

 県道から右の旧道へ入っていくと、福川宿である。

41福川宿~戸田駅

 ここには、本陣跡と本陣門が残されていて、その説明もある。本陣門は天保9年(1838年)のもので、昭和48年に改修されている。

 福川宿を抜けると、夜市(やじ)川にぶつかる。橋を渡らないで、その堤防の上の道を30分以上も進む。昔も堤防の道を歩いたのだろう。

 その道が国道を横切る地点を、今日のゴールどして、5分ほど先にある、戸田(へた)駅へ向かう。

 駅に、14:45に着いたら、5分後に電車がやって来た。

 今日も宿は、徳山第一ホテル。GoTo割引で3445円なのに、地域クーポン1000円の他に、周南お楽しみクーポンが2000円分も付いてきた。結果的に、445円で泊まったことになる。昨日も同じ徳山駅前のホテルだったのにこれはなかった。

 さて、これが使える店で、2000円の夕食を食べてこよう。

 ホテルのお勧めで、宇佐川水産という大きな居酒屋へ、

 徳山の名物はふぐとのこと。そこで、「徳山ふぐカツスペシャル」(1500円)とビールの豪華な夕食にありつくことができた。ふぐの刺身も付いてきた。個室なのも良い。これがほぼタダなのだから、大満足!明日も元気に歩けそう。

 今日の歩数計 49000歩

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山陽道16日目・御庄宿~33玖河宿~34高森宿~35今市宿~高水駅〈35km〉(8時間25分)

2020年12月01日 | 登山・旅行

 今日は朝から大慌てだった。夜中に、トイレに起きたついで残りのブログを完成して、再び眠ることができた。目覚ましを6時にセットしておいたはずなのに、目が覚めたら、6:25だった。バスの時刻は6:43である。

 慌てて、服に着替えて、リュックに詰めて、5分で玄関を飛び出した。錦帯橋バスセンターまで走ったり歩いたりして、6:37に到着。余裕で間に合った。

 今日の行程は、岩徳線沿いの歩きだが、宿が徳山駅前にしかない。そこで、30kmをメドに歩ける駅まで歩くことにした。結果、ゴールは、今市宿を抜けた高水駅だった。

 歩き始めたら、一面霜で真っ白になっていた。気温を調べたら、0℃だった。手は手袋をはめても冷たいが、体の方はインナーダウンを着るほどではなかった。

 御庄宿~玖河宿

 御庄川や溜め池から毛嵐が立ち、温泉の様だ。

 2時間ほども、特に見るところもなく、ひたすら県道歩きが続いた。ようやく、橋を渡り、旧道へ入ると、「間の宿 柱野宿」へ入っていく。

 

 結構古い建物が残っていて、宿場の雰囲気が残っている。

 「千体仏」~このお堂の中に祀られているそうだ。

 柱野宿を抜けると、旧道は中峠への登りとなる。さらに、欽明峠へと続く。県道は欽明路トンネルを通過している。舗装道路だが、峠の前後は、結構急だった。峠には、標識も何もなかった。

 峠を下りていくと、右手に「歴史の道 旧山陽道」と「万葉歌」の案内板が立っている。中峠、欽明峠が、周防の国の一番の難所だったと書かれているが、これまでの峠に比べれば楽勝である。

 

 右手高台に「欽明寺」がある。欽明路の名前の由来となった寺である。欽明の名前は欽明天皇のことで、天皇御幸の際、休息され欽明の名をいただいて寺号としたと伝えられる。その後度々焼失し現在は日蓮宗。境内に加藤清正を祀るお堂もあったという。

  やがて、「武田屋鋪」の標識が立ち、街道の上の砲に、長い塀を回している屋敷跡がある。門から中へ入ってみたが、建物はなく、更地になっていて、左手に一族の墓地があった。

 天文9年(1540)、武田小三郎が毛利元就の援助でこの地に移り周防源氏の祖となった。その後江戸時代を経て、大正6年に16代故武田甲斐人氏が呉市に移るまで約4世紀半にわたりこの地に生きた。

 武田屋敷から600m行った右手に「玖珂小学校の分校跡」な当時の校舎が残っている。木造だが、洒落たデザインで、形が良く印象深い。

 33玖河宿~高森宿

 原動から右の旧道へ入っていくと、「玖河宿」である。

 右手に大きな石碑が建っている。義民田坂市良右衛門」の顕彰碑である。安政年間玖珂は岩国領であり代官がいた。代官は重税を課して悪政を行い民を苦しめた。田坂市良右衛門は悪政を改めるように進言して幽閉されたが、屈せず、最後は無罪となって、積年の弊害も取り除かれたそうである。

 やがて、玖河宿の中心地へ入っていく。本陣があったと思われる場所には、岩国市玖河総合支所が建っている。

 その先から、大きな門が建っている。商店街なのであろう。

 立派な商家や旧家が目につく。

 玖河のスーパーのダイソーで、ずっと探してきた、スマホ用の眼鏡型の拡大鏡を見つけて挿入。スーパーでリンゴとカキを1個ずつ買い、食べながら歩いた。これに御菓子で、昼食とした。

 宿を抜けると、家並みがなくなり、県道歩きが続く。

 高森宿の入口の交差点には「高森」の標識が付いている。

 上は、なまこ壁の塀を回した旧家。下は、「高森本陣跡」の門と塀が復元されて、小公園のようになっている。

 ここにも、重厚な商家や旧家が残っていて、宿場の面影を残している。吉田松陰先生宿泊之地」の碑も立っていた。

 「宇野千代の文学碑」~作家の宇野千代は、ここ高森の出身である。

 その奥に、今までに見たこともないような長い建物がある。納屋や農機具小屋や作業場などが入っているようである。

 そのあと、また家並みがなくなり、島田川沿いの県道歩きが続く。中峠へも県道なので、スマホも見ないでひたすら歩いていたら、峠の登りが現れない。スマホの地図を見たら、旧街道から外れて、1km以上もミナミへ向かっている。途中の中峠への別の県道の入口を見落として、拾い上げ県道を歩いた。

 慌てて戻ったら、往復2km以上もあり、30分のロスだった。この右の細い県道を見落としたらしい

 緩やかな舗装道路を中峠へむかう。峠を境に、岩国市から周南市へと入っていく。

35今市宿~高水駅

 峠を下ったら、すぐに今市宿の入口だった。

 今市宿の入口には、多くの石碑が立てられている。

 すぐに今市宿へと入って行く。

 この宿にも、旧家や古い商家がたくさん残り、宿場の面影が濃い。

 15:15、まもなく、今日のゴールの高水駅に到着。しかし、徳山行きの列車までは1時間もある。じっくりブログの下準備をした。

 暗くなって、徳山駅前のホテルAZに到着。GoTo割り引きで3432円、地域クーポン券付き。

 ホテルの中に、クーポン券が使える居酒屋があるので助かる。これから遅い夕食タイム。

 若どりの半身あげ。地域クーポン券さまさま。

今日の歩数計、49000歩。

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