癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

8日目 長久保宿~28,松田宿~29,下諏訪宿 〈29.3km〉

2016年05月31日 | 登山・旅行
 8時半に寝たら1時半に目が覚めてやはり眠られず。5時間ペースでも特に弊害はないが、朝までが長い。

 仕方ないので、5時に宿を出たまでは良かった。ところが大ポカをやらかしてしまった。前日から思い込んでいた方向へ歩き始めた。30分ほど歩いて変だなと思い、スマホで現在位置を確かめたら、なんと反対方向へ進んでいた。
 案内表示板がない、国道ではない、峠に向かっているのに下っているなど…チェックポイントはたくさんあったのに、思い込みというのは凄いものだ。

 結局、宿まで戻って仕切り直したのが6時だった。1時間、約4kmの無駄足になった。それでも、今日のゴールの下諏訪には14時には到着。ガイドブックより1時間速かった。

 まずは、次の和田宿を目指した。

 こんな茅葺きの可愛いバス停があった。


 7:35、「是より和田宿」の立派な本陣石碑。「和田宿」は、1843年には、家数126軒の、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠28軒だったが、1861年に大火でその大半を焼失。現在残っている建物はそのときに建築されたものらしい。


 それにしても、重量感溢れる出桁造り、出格子の家の連なりは壮観だ。


本陣の冠木門


 和田宿の中に立つ「江戸より五十里」の一里塚。まさに、自分が歩いてきた距離だ。200km歩いたことになる。


 和田宿を抜けて、国道から旧道へ。案内表示板が充実している。
いよいよ、中山道最高標高の和田峠越えとなる。


 ずっと幅広の快適な自然遊歩道のような足に優しい道が続く。古道の雰囲気は感じられない。所々にクリンソウの花がさいている。傾斜も急なところはなく、一定の傾斜で登っていくので歩くペースも一定で登っていける。
 

 途中にある復元された永代人馬施行所。江戸の豪商が幕府に千両を寄付し利子で旅人に粥、人馬に煮麦を施行したとのこと。


 10:50、標高1600mの中山道最高地点、旅人が難渋した和田古峠に到着。和田宿からも、下諏訪からも11.
5kmの地点だ。
 ここで、行動食を口にし、30分のんびり休憩。


 かつて、ここは御嶽山の遥拝所でもあった。


 画像は石小屋跡。反対側の道を下り始めて驚いた。いきなり急な谷地形の七曲がりが続く。それも、登山道より狭い道である。良くもこんな所を大名行列で登って来たものだと思われるような急斜面の細い道が続く。


 急斜面をトラバースし、片側が崩れているようなところもある。人はともかく、馬は大変だったろう。
 反対側から登るのは大変だと思っていたら、同年代の二人が登ってきた。おもわず、「峠を越えたら楽ですよ」と言ってあげた。


 ようやく和田側のような道になったのは、2kmほど下ってからだった。
 2.7kmからは、国道や舗装道路の歩きになった。長い舗装道路は足に衝撃が来るので大嫌いな歩きだ。
 

8kmほど下ると、諏訪神社の有名な「御柱祭」の「木落し坂」の上に到着。


 道なりに下ると、その坂の下に出た。


 国道と別れて、諏訪湖や下諏訪の町並みが見えてくるとゴールは近い。


 「下諏訪宿」は、中山道の甲州街道との合流地。東は和田峠、西は塩尻峠に挟まれた交通・軍事上の要衝地だった。さらに、諏訪神社下社の門前町で、当時は中山道唯一温泉の湧く宿場だったこともあり、旅籠は40軒もあり、大瓶賑わった宿場だったようだ。


 本陣と問屋役を務めた岩波家


 今日のゴール、諏訪神社下社秋宮の神楽殿


 今日の宿は、中山道から50mほど入った、築100年以上の古い旅館を改造利用したマスヤゲストハウス。素泊まり4000円だが、外国人の利用がほとんどなので、6畳間にダブルベットが入っていた。

 このブログを打ち終えたので、これから温泉に入りに行って、夕食の予定。


 宿のすぐ近くの銭湯感覚の菅野温泉。230円。市内のあちこちにあるようだ。

【歩数計】54184歩数、朝の間違い往復の4km分も含む。 
【諸経費】パンほか290円、缶コーヒー130円、信州おやき400円、携帯電話充電器970円、宿代4000円、夕食+生ビール2杯2200円。〈計7990円〉

9日目へ

7日目 佐久IC~22,岩村田宿~23,塩名田宿~24,八幡宿~25,望月宿~26,芦田宿~27,長久保宿 〈計24km〉 

2016年05月30日 | 登山・旅行
 今回の歩き旅で、自分の体のことで不思議なことが2つある。1つは、毎日21時前後には寝るのだが、2時前後には目が覚めてそれ以降は眠れないことだ。1度でいいから、目が覚めたら朝だった…という爆睡をしてみたいものだ。
 もう1つは、3日目以降、脚の筋肉の痛みや張りがほとんどないことだ。いつもはアスファルトの道を長く歩き続けると、すねの筋肉が痛くなるのだが、それもなく、ふくらはぎも柔らかいままだ。お陰で、腰を下ろしての休憩は昼食時だけである。
 
 さて、昨日の碓氷峠までは、「武州路・上州路」(東京、埼玉、群馬県)で、そのあとは「信濃路
」(長野)の歩きとなっている。

 当初の計画よりは快調に足を延ばしている。この旅を勧めて下さった箱館人さんに言わせると、もっと歩けるはずなのに計画が甘かったかららしい。

 今日は距離的には和田宿まで歩きたかった。しかし、そこには宿がないようなので、1つ手前の長久保宿までの楽々ペースになった。

 朝から11時くらいまで霧雨の中の歩きだった。朝食バイキングを食べてホテルを出て、7:00には中山道へ戻った。


 15分ほどで岩村田宿の龍雲寺へ。この寺は、屋根に武田菱が見られ、武田信玄が中興開山し、北信濃や西上州進出の拠点とした寺である。昭和6年に信玄の遺骨が境内で発見されたそうだ。


「岩村田宿」は、城下町ゆえに本陣や脇本陣はなく、旅籠も少なかったが、この地方の経済の中心地として栄えた。それ故に、宿場としての面影はほとんど感じられない。


 岩村田宿から塩名田宿へ向かう途中の根々井塚原集落は、立派な門構えの家が多く、旧街道の面影を残している。


 「塩名田宿」は、千曲川河畔の情緒のある宿場だった。江戸時代を彷彿とさせる店の大きな屋号看板が目に付く。


 珍しく本陣が2軒あった。それは、千曲川の川止めに備えてのこと。画像は、問屋の丸山家の方で、宿場関係の史料が多数保存されているらしい。


 千曲川の流れ。昔はよく橋が流されたが、明治時代には舟を繋いで板を架けた舟橋で渡ったそうだ。その絵も描かれていた。

 中津橋を渡ると、八幡宿に入っていく。塩名田宿からわずか3kmしか離れていないのは、江戸時代初期に千曲川の川止めの退避地、米の集散地として作られたかららしい。


 「八幡宿」の由来となっている八幡神社。859年創建と伝えられる。国の重要文化財に指定されている江戸時代造営の門、本殿、拝殿は見事な造りだった。


 和宮から下賜された品物等が伝わる本陣跡。
 どの宿場でも、「和宮」降嫁の際のことが詳しく残っているが、それは、3万人もの従者などを連れての行列か数10kmにもなり、それぞれの宿場が何日にもわたり利用されたからのようだ。中山道の歴史で最大のできことだったようだ。
 

 八幡宿と望月宿の間の百沢集落は、わずかな戸数たが、旧街道の面影が強く残る。


 今や中山道歩きの人しか歩かない急な瓜生坂。
 望月宿の前後はアップダウンが激しく、カッパを着ていると暑くてしようがなかったが、幸い雨が上がってくれた。 


 3階建ての非常に目を引く大正ロマン漂う井出野屋旅館。
 「望月宿」は、御牧ケ原台地の官牧、望月牧に由来する駒の里である。
街道沿いには白壁土蔵や出桁造り、格子の家並みが残っていた。


 望月宿と芦田宿の間に位置し、「間の宿」と呼ばれた茂多井は、白壁の土蔵や土塀の大きく立派な構えの家並みが1.7kmにわたって続く。これまでのコースでもっとも江戸情緒を残す美しい町並みだった。この道があまりにも狭くて主要道が迂回したために、宿場内の佇まいがそのまま残ったらしい。


 茂多井の武重酒造。このほかに大澤酒造と2 軒も営業を続けているらしい。

 ここを抜けたのが、12時だった。11時頃から食事ができるところは1軒も見当たらなかった。ようやくレストランを見つけ、腰を下ろして休み、ソースカツ丼を食べた。


 芦田宿の土屋本陣。客室は今でも改築された1800年当時のままのこっている。「芦田宿」は、1843年には、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠6軒があり、今でも約700mでその佇まいを残している。


 芦田宿を抜けると、笠取峠の松並木が続く。保存のために公園化されている。
 そこを抜けると、笠取峠までの国道142号線の長い登りが続く。


 笠取峠からは、原道(源道)という中山道歩きの人しか歩かない道もあった。出たところで向きを間違えて同じところへ1回りするポカも。


 14:30、今日のゴールの「長久保宿」へ。
 この宿場は、最大で43軒も旅籠があり、中山道信濃26宿の中では塩尻宿に次ぐ数を誇っていたそうだ。その要因は、宿の前後に笠取峠と和田峠を控えていたことのほかにもいろいろあったようだ。


 旧本陣石合家と復元された高札場


 「宿場の中の昔からの宿に泊まりたい」という念願が叶った今日の宿・浜田屋旅館。
 創業は江戸時代だが、この木造3階の建物も明治3年創建とのこと。


 部屋に通されて、またまた嬉しさ倍増。


 さらに、夕食もまた豪華で美味しかった。これで、朝食抜きで大瓶ビールも飲んで8300円は大満足。
 一緒に泊まった人も中山道歩きの方だった。高校まで札幌で過ごしたとのことで楽しくお喋りに興じた。この方は東海道も歩かれていて、話を聞いたら、来年はぜひ東海道を歩きたくなった。

【歩数計】41567歩

【諸経費】コピー30円、昼食800円、ビール+宿泊費8300円 〈計9130円〉

8日目へ

6日目 横川~17,坂本宿~18,軽井沢宿~19,沓掛宿~20,追分宿~21,小田井宿~佐久IC付近 <計28.3km>

2016年05月29日 | 登山・旅行
 今日のメインは、楽しみにしていた碓氷峠越えと栃木県佐野市からわざわざ昼食と差し入れを持って会いに来てくれたKa女史親子との3年ぶりの再会だった。


 美味しい朝食を食べ、ペットボトルの水をもらい、7:30スタート。まずは、2kmほど先の坂本宿を目指す。


 10分ほどで、碓氷関所。門扉と柱は当事のもの。


 坂本宿は、碓氷峠越えのために、寛永2年(1625年)に計画的に作られた宿場である。1861年の絵図によれば道の中央に用水路が流れ、その両側に本陣が/軒のほかに脇本陣、旅籠、商家が160
軒が並んでいたらしい。


 地区の公民館として使われている酒屋脇本陣跡。


 8:20、国道18号線から離れて、碓氷峠への旧中山道古道へ。
 ずっと、アスファルトの街中ウォークだったが、楽しみにしていた山中の歴史を感じる、深く掘れた古道歩きである。いろいろな史跡があちこちにあり、それらの説明板を読みながら登る。


 はね石山までの登りが急だったが、うきうきしながら快調に登った。これまで多くの古道を歩いて来たが、この道を大名行列も通ったと思えば感慨深いものがある。


 はね石の覗きから坂本宿を見下ろす。


 日曜日だったので、反対側から歩いてくる人も多かった。


 11:00、観光客で賑わう碓氷峠へ到着。この峠の名物・力餅の元祖しげの家へ。店の中を群馬県と長野県の境界線が通過していた。


 ごま力餅ソフトを食べて、20分ほど休憩。


 碓氷峠からは、旧碓氷峠遊覧歩道を下る。
 途中で栃木県佐野市のKa女史から電話が入る。すでに軽井沢駅付近まで来ていろとのこと。分かりやすい国道18号線の近衛文麿の元別荘だという市村記念館前で待ち合わせることにした。


 11:45、旧軽井沢へ下りたら、そこは前に1度来たことのある軽井沢銀座だった。今では観光客でごった返す商店街が、かつては軽井沢宿だっのだ。


 観光客の間を縫うように下り、少し横に入った地点にある本陣跡の明治天皇行在所跡へ。


 12:35、市村記念館前の公園で待っていたKa女史親子との再開。3年ほど前のニセコスキー場で一緒に滑って以来だ。Ka女史にはその前に6山ほど三百名山巡りでお世話になっている。


 群馬県や長野県で有名な、いつかは食べたいと思っていた「おぎのやの峠の釜飯」の差し入れ。なんと本舗は昨夜泊まった横川駅前の「日本最古の駅弁屋・荻野屋」だった。
 1時間ほどおしゃべりをし、直ぐ近くの沓掛宿を目指す。

 
 途中ずっと目の前に見える浅間山


 国道18号線への合流点に立つ宿場碑


 沓掛宿の中軽井沢駅前。左角には昔の股旅演歌で有名な「沓掛時次郎」由来の軽井沢銘菓・沓掛時次郎まんじゅう屋。


 15:05、堀辰雄文学館入口に立つ追分宿本陣の門に到着。


 追分の由来となっている中山道(左)と北国街道(右)の分岐


 16:40、今日最後の小田井宿へ。ここは、旅籠5軒しかなかった小さな宿場だが、大名は姫君たちが休泊に利用したために、「姫の宿」と呼ばれた。今でも流れている用水のせせらぎと整備された道路が心地よい。


 宿場碑が立つ長屋門を構える下の問屋跡・尾台家


 17:30、今日のゴールの佐久IC 近くのホテルAZに到着。夕食は、レストランの10種類ある定食メニューから選ぶシステムだったので、カツ定食を食べた。缶ビールが1本サービスだった。

【歩数計】51716歩、山越えだったので、距離の割には歩数は多かった。

【諸経費】力餅ソフト550円、コピー30円、缶ビール250円、宿泊代6130円 〈計〉6980円。


7日目へ

5日目 高崎宿~14,板鼻宿~15,安中宿~16,松井田宿~横川駅〈計28km〉

2016年05月28日 | 登山・旅行
 今日は17次目の坂本宿まで歩くつもりだった。しかし、寝る前に投稿者名不明の方(内容からすると、舞鶴なにわやさん?)から、「坂本には宿がなかったはず」とのコメントがあった。気になったが酔った勢いで寝てしまった。3時前に目が覚めたら気になって眠られず。調べようとしたら、箱館人さんから、坂本宿の2kmほど手前の横川駅近くの宿の紹介のコメントが入っていた。

 予約はネット対応をしてないので、朝になって電話してダメだったら、手前の松井田宿ででもと調べたが、ここにも宿がない。そこで、横川から電車で戻って磯部温泉か高崎でもと考えた。

 しかし、朝になって電話したら、箱館人さんご紹介の「碓日の宿東京屋」が予約できた。少し高かったが、背に腹は変えられない。安心してスタートできた。コメントを下さったお二人に感謝!

 朝食付きだったので、しっかり食べてホテルを出た。


 7:00に中山道へ戻り、まずは、漆喰彫刻が施されたあら町諏訪神社へ。城下の名所の1つで、昔から街道を行く人の目を楽しませていたという。


 10分ほど歩くと、群馬県内の宿場が描かれた中仙道街道絵巻が壁に描かれていた。


 歴史を感じる岡醤油醸造。創業は江戸時代だが、この建物は明治30年代のものらしい。覗いていたら、店主が玄関を開けて中に入れてくれた。映画のロケにも何度か使われたとのこと。


 明治天皇行幸を記念して命名された君が代橋から霞ながらも見える、三百名山巡りで登り歩いた赤城・榛名の山々が懐かしい。


 上豊岡の通りにはだるま工房が多い。高崎の名物らしい。

 やがて、烏川の堤防の上のサイクリングロードへ。ウォーキンクの男性と一緒に歩き、この辺りの歴史を教えたもらう。群馬県で唯一現存の藤塚一里塚跡の写真も撮ったが、間違ってけしてしまった。

 堤防から国道18号線を歩くと、板鼻宿へ入って行く。板鼻宿は、碓氷川の徒歩(かち)渡しで有名だった。増水すると川止めになり、ここに逗留しなければならず、多いときで、54軒の旅籠があったそうた。


 今回の歩きで初めて目にした道祖神。双体道祖神。


 板橋公民館前の海音寺潮五郎揮毫の板鼻宿本陣跡の石碑


 この公民館の一画に、文久元年(1861年)、徳川家茂に降嫁する皇女和宮が宿泊した本陣付属の書院のみが残されていた。


 板鼻宿からわずか3.3kmで安中宿へ。安中宿は、戦国時代に安中氏が築いた城下町だった。城下町らしい蔵造りなどの店など古い佇まいを残している。


 商店街の旧街道の1本上の大手坂を上がったら、明治44年に再建された碓氷郡郡役所があった。


 その並びに、かつて安中藩士の家が並んでいたことから大名小路と名付けられていた。そこには、旧安中藩郡奉行役宅と旧安中藩武家長屋(画像)が現存し公開されている。


 商店街へ下りて歩いていたら「新島襄旧宅」の案内板があった。街道沿いのから離れるので、ガイドブックにも載っていなかった。函館からアメリカへ渡航したことは有名だが、恥ずかしながら安中藩士ということは知らなかった。
 遠回りにはなるが寄らずばなるまい。実は明治になって江戸勤めから戻った両親と姉が住んだ住宅で、新島襄がここで暮らしたのは、アメリカから戻って10年ぶりの両親との再会を果たすために滞在した3週間だけとのこと。


 安中原市の杉並木。天保年間には730本もあったらしい。


 松井田宿の入口付近から望む妙義山。三百名山巡りで、栃木の岳友の女性二人と妻と4人で登ったのが懐かしい。

 12:15、ようやく見つけた松井田宿への入口のレストランで昼食を摂った。


 松井田宿は、戦国時代の城下町でもあっようだ。碓氷関所を控えて、物資の中継地点として賑わったらしい。旧街道らしい町並みも残っている。


 洒落た感じの松井田商工会議所


 松井田宿と坂本宿の中間の五料茶屋本陣。ここには、お西とお東の2軒が並んで建っている。画像は、お西。


 夜泣き地蔵と茶釜石。手前の石を石で叩いたら本当に金属を叩いた音がした。

 この辺りは、国道を何度も横切って山に上がったり、川の方へ下ったりを繰り返した。あとゴールまで1kmくらいの所で迷ってしまい、1kmほど遠回りをしてしまった。


 今日のゴール、横川駅前。


 15:00に、ちょうど8時間で、余裕のゴール。




 夕食前にブログのメドがたったので、妙義山がすぐ目の前に見える食堂で、値段以上の豪華なメニューにつられて、生ビール2杯も飲んでのんびり夕食。 
 食べ終わってからは、隣のテーブルに連泊で妙義山を登り歩いているグループと山談義で盛り上がった。

【歩数計】45364歩

【諸経費】ドリンク類260円、コピー30円、昼食1230円、観覧料210円、缶ビール250円、生ビール1200円、宿泊代9720円 〈計12860円〉

6日目へ

4日目 深谷宿~10,本庄宿~11,新町宿~12,倉賀野宿~13,高崎宿 <34.3km>

2016年05月27日 | 登山・旅行
 今日は、深谷宿を、朝食を食べないで、6時にスタート。計画より1宿延ばして高崎宿までの34.3kmを歩いた。それでも、今日のゴールとした高崎城趾に着いたのは15:00で、9時間だった。歩き旅のコツは、徹底した軽量化と早発ちであることを再認識した。

 予報は雨絡みだったが、最後まで降ることはなく、昨日とは打って変わって汗を掻くこともない1日だった。

 深谷宿は、土蔵や煉瓦造りなどの江戸から昭和初期にかけての古い建物が目立つレトロな町並みが魅力だった。
 深谷は明治20年に郷土の偉人渋沢栄一が日本初の機械式煉瓦工場が設立された町である。


 3軒もあった煉瓦造り酒屋のひとつ、七ツ梅酒造だけは廃業して、映画館や豆腐屋、カフェなどに活用されている。


 まだ営業している文久3年(1863年)創業の滝澤酒造

 深谷宿を抜け、農村風景の中を本庄宿に向かう。


 農家の庭で良く目にした可愛い花に癒される。


 幕末の国情が騒然としていたころに、岡地区の有志13人が造立した百庚申塚


 本庄宿の田村本陣の門とその奥に建つ歴史民俗資料館。
 この資料館は、元本庄警察署で明治のモダンな建物。学芸員の案内で、中も見せてもらったが、本庄宿は、中山道で最大の宿場だだったこともあり、本陣と脇本陣が2つと旅籠70軒もあったそうだ。特に、江戸末期から明治にかけては、繭の集散地として栄えた。


 旧本庄商業銀行は、大量の繭を保管するために明治に建てられた。


 樹齢300年以上の楠と極彩色の社殿の金鑚神社は本庄の輝かしい歴史の証。


 隣の上里町の浅間山古墳。石室も覗くことができた。この辺りには、古墳が多く、本庄歴史民俗資料館にも埴輪などの出土品がたくさん展示されていた。


 神流川を渡ると、埼玉県と別れて群馬県に入る。


 北条軍5万、滝川方の上州軍1万6千の神流川合戦の跡碑


 11:00、新町宿の入口付近で昼食に食べた竹の子セイロ御膳


 新町宿には、明治天皇の宿泊所として新築された屋敷が残っている。


国登録有形文化財の豪農川端家


烏川堤防のサイクリングロードを歩き、倉賀野宿へ向かう。


 倉賀野宿入口、倉賀野追分は中山道と日光例弊使街道の分岐点


 町並みには、古い建物が所々に残り、その中の1軒が無料休憩所になっていた。


 古い建物が残る倉賀野宿


 倉賀野宿本陣跡


 今日のゴールとした高崎城趾公園。
 高崎宿は、商業が盛んだった城下町で、諸大名は城下を敬遠したために本陣や脇本陣はなかった。


 ここで、今夜の宿をスマホて探した。ビジネスホテルしかなかったが、幸い、大浴場があり、安くて新しいホテル1-2-3高崎が1部屋だけ空いていた。中山道から10分くらいの所だった。

 まずは、風呂で疲れを癒し、のんびり入り、ビールを飲み、ブログのアップ作業に取り組んだ。早く着いたので、夕食前に完了することができた。
 
 ブログのアップ作業は、たくさん撮った写真の選択とリサイズから始まる。削っても削っても25枚ほどになってしまう。それに文章やキャプションを書くと、最低でも2時間は必要だ。夕食前に終えるとなると、遅くとも16時までに宿に入りたい。


 夕食は、ホテルのそぱのやき鳥から揚げ専門店へ。珍しい高崎やきとり焼そばとからあげミックスを食べたが、とても美味しかった 

【歩数計】49644歩

【諸経費】ドリンク類240円、昼食1077円、ホテル代5700円、缶ビール160円、夕食1683円 〈計8860円〉

5日目へ

3日目 鴻巣宿~8,熊谷宿~9,深谷宿<計27.4km>

2016年05月26日 | 登山・旅行

 昨日までのリュックの重さが堪えたので、四国遍路時並みの思いっ切りの軽量化を図った。洗い替えは夏物だけの2替わりとし、あと不要と思われる物や代替えが利きそうな物は全てホテルから送り返した(黒い袋)。おかげで、重さが半分くらいになり、5kg位になった。ずいぶん余計なものまで背負って来たものだ。

 ホテルの送迎車の時間が9:30と遅く、昨日の続きからのスタートが、10:00になってしまった。明日以降の計画が苦しくなるので、予定通り、熊谷宿を抜けて、深谷宿まで歩いた。軽量化の成果と温泉効果もあり、リュックの重さも気にならず、足の疲れもなく、快調なペースで歩くことができた。

 この3日間で最も暑く、汗を流しながら歩いたが、前もって予約しておいた街道沿いのきんとう旅館に、16:35に到着できた。昨日は、29kmに9時間を要したが、今日は、27kmを6時間半で歩いたことになる。


鴻巣宿商店街の歩道のこうのとりの絵と古い建物の店


鴻巣は、村人たちを救ったこうのとりを祀る鴻の宮(鴻神社)が地名のルーツと伝わる。


 氷川八幡神社は、源頼光四天王の渡辺綱が祀られていると伝えられる。地名の箕田(みだ)は、その父が箕田源氏を名乗ったことに由来。境内には、箕田の由来を記した大きな石碑もあった。


 箕田の追分に立つ中山道碑。ここから国道17号から県道365に。


 昨日までは、切れることのない市街地ばかりの歩きだったか、今日は、のどかな農村風景の中の歩きが多くなった。


 車道と別れ、荒川の土手の上の歩きもある。陽射しとアスファルトの照り返しがきつかったが、風が爽やかで開放的な眺めがうれしかった。


 世界で熊谷市にしかいないムサシトミヨが生息する、湧水を集めて流れる元荒川

 
 13:30、熊谷宿がルーツの熊谷市の駅前で、迷わず冷やし中華の昼食。熊谷市は、最近は気温の高いところで有名だ。今日も29℃まであがったようだ。氷の入った水をがぶ飲みした。


 熊谷市の中を流れる星川。昔の本陣の中の池から流れ出る人工的な川で鯉などがたくさん生息し、市民のオアシスとなっている。


 国道17号線沿いの、全国に現存する旧本陣と比べても規模・構造ともに屈指という本陣跡。しかし、熊谷宿は明治17年の火災と昭和20年の戦災で跡形もなくなったという。


 中山道は八木橋デパートの敷地の中を通っていた。表玄関から裏玄関へ抜けると、正規に近いコースになる。


 デパートの裏玄関から続く一番街商店街へ
 地名の由来となっている熊谷直実開山の熊谷(ゆうこく)寺は見逃してしまった。
 やがて、国道17号線から県道264号線の歩きとなる。


 奇妙な形の樹齢300年の欅の木が生えている新島一里塚跡


用水路が流れる街道と歴史を感じる古民家の農家


減反政策の影響が目立つ転用の麦畑


16:30、深谷宿の東の入口、東の常夜灯に到着。ここから西常夜灯までの約1.7kmの間が深谷宿である。


 さらに、5分ほど歩き、街道沿いのきんとう旅館に到着。


 予定より早く着いたので、東京駅を真似て造ったという深谷駅を見に行った。逆光なので色がくすんでいるのが残念。

 旅館へ戻り、洗濯機を回して、ビールを飲みながらトロン温泉の風呂へ。その後、乾燥機を回して夕食。風呂に入ったら、日焼けした腕と首がヒリヒリ。



 夕食付きで5184円といううれしい安さでは、十分過ぎるほど満足な夕食。

 朝、時間があったので、ガイドブックの中から、予習を兼ねて予め興味を持ち写真を撮りそうな所の説明文の下書きをしておいたので、ブログの更新が楽だった。

【歩数計】42970歩

【諸経費】ドリンク2本260円、アイス160円、ペットボトルホルダー108円、昼食756円、宿代5184円、缶ビール600円、洗濯400円、〈合計〉7468円。

 明日は、朝食を摂らないで、6時頃にはスタート予定だが、朝から雨のようだ。

4日目へ



2日目 蕨宿~3,浦和宿~4,大宮宿~5,上尾宿~6,桶川宿~7,鴻巣宿〈計29km〉

2016年05月25日 | 登山・旅行
 今日は、2次の蕨宿から7次の鴻巣宿まで、5つの宿場を通過した。
 ホテルの早い朝食を食べ、6:15にホテルを出る。


昨日の蕨宿本陣跡を6:35にスタート。


宿昔の面影を残すうれしくなるような古民家・鈴木薬局


北海道では見られないビワの木


蕨宿の出口にある一里塚碑。昔湿地が多かったため水難を護る弁財天も再建。
蕨宿を抜けて、中山道の県道164号線をひたすら歩く。


狛犬ならぬ狛兎の調(つき)神社。月に因んで兎像が境内のあちこちに。
この辺りから雨が降ってきて、45分間ぼど傘をさして歩いた。


浦和宿に入って行く。埼玉県庁がすぐそばにあるので、浦和駅からの通勤客が凄かった。
浦和は、今でこそ大都市だが、江戸時代後期には、旅籠15軒の小さな宿場町だった。


浦和宿の、家康から10万石を寄進された、平安時代に弘法大師によって建立されたという古刹・玉蔵院。


最近計画的に整備された、新しい都市機能を持つ地域のさいたま新都心駅。


大宮宿の氷川神社一の鳥居。もともと大宮宿は、平安時代に建立されたといわれるこの神社の門前町として栄えた。武蔵国一宮として、伝統と格式を誇っている。この参道は古い中山道だった。
この近くの、父の病を治そうと塩断ちした2人の娘の伝説がある塩地蔵も見た。


祠に祀られた東大成の庚申塚

11:10におよそ半分を歩いたので、宮原コミュニケーションセンターで、行動食中心の昼食タイム。


宮原市の加茂神社


上尾宿の中心となる氷川鍬神社。この向かいに本陣があった。


上尾宿の外れに建つ、魔除けの鍾馗様が乗る案内板

上尾宿から桶川宿までは、わずか3.7km。桶川宿は、紅花で栄えた宿場で、街道沿いには古民家がたくさん残っている。


桶川宿の店蔵と漆屋造りの矢部家。


その向かいの国登録有形文化財の小林家。


桶川宿の本陣跡


約380年の雛人形制作の歴史と伝統を誇る鴻巣宿。


老舗人形店の建物を活用した鴻巣市産業観光会館「ひなの里」。残念ながら定休日。


鴻巣宿の観光案内板。
15:30、ここを本日のゴールとして、鴻巣駅まで行き、予約していたホテルへ迎えを頼んだ。トータルで30km以上歩き、さすが疲れた。


車で15分も走った先にある温泉ホテルフレンドシップ・ハイツよしみ。
65歳以上割引があり、温泉で2食付きで6750円は本当に安い。唯一難点は、明日の朝の送りが9:30と遅いこと。
さすが、今日はまず温泉に入り、ビールを飲み、夕食を挟んでブログ更新。


十分満足な夕食。

【歩数計】50490歩、数年ぶりの?5万歩超え。
【諸経費】アイスコーヒー・パフェほか750円、缶ビール310円、ホテル代6750円。マッサーシ機能200円、合計8010円。

3日目へ
   

1日目 日本橋~1,板橋宿~2,蕨宿<合計18.7km>

2016年05月24日 | 登山・旅行
 家を7時過ぎに出て、JRで五稜郭駅から函館駅へ。さらに、直通バスで空港へ。9:00発ANAのシニア空割13,590円で、羽田へ。
 羽田からモノレールで浜松町、さらに浅草線に乗り換えて、日本橋到着。

 日本橋では、会社が近いとのことで、教え子のnaoさんが迎えてくれた。


11:30、naoさんにシャッターを押してもらって、スタート記念撮影


5街道の起点や現在の国道の起点を示す日本国道路元標識


老舗らしい風格の三越デパート


会社の近くまで10分ほど一緒に歩いてくれたnaoさんと別れ、国道17号線を北上。


途中の立ち食いそば屋で、かき揚げそばの昼食。ボリュームもあり、かきあげがとくに美味かった。


江戸総鎮守として、崇教を集めた神田明神


東大の赤門は、加賀前田家上屋敷の御朱殿門


真性寺の地蔵尊、江戸六地蔵のひとつ


13:40、国道17号線を離れて、旧街道の面影を残す巣鴨地蔵通り商店街へ。
ちょうど、とげぬき地蔵尊で有名な高岩寺の大祭で大賑わい。露店と人で歩くのがたいへんだった。


とげぬき地蔵尊で有名な高岩寺


近藤勇の墓だが、土方歳三の墓と連名になっている。永倉新八が、明治になってから建立したらしい。


そのまま旧街道の道幅のままの板橋商店街へと続く。下町商店街の風情がうれしい。


14:55、1つ目の板橋宿の石碑に到着。


15:15、再び国道17号線の歩きとなる。ここまでの1時間半ほどの間が、旧街道らしくて良かった。
まもなく、中山道3番目の志村一里塚。道路の向かい側にもあり、2基一対で現存する全国的にも大変貴重で、国の史跡に指定されている。


薬師の泉庭園。徳川吉宗が賞賛した清水が湧く。昔は街道の旅人の喉を潤す貴重な清水だった。


東京都と埼玉県の県境となる荒川に架かる戸田橋


戸田の渡し場跡碑
このあと、再び国道17号と別れて、旧街道の道へ。


緑の多さにホッとする下前公園通りのケヤキ並木


17:00、2次目の蕨宿の石碑


マンホールの蓋にも中山道蕨宿


蕨宿民族資料館と右側が本陣跡。
開館は16:30までだったが、通りかかって、話し掛けてきたお爺ちゃん(こっちも爺ちゃんだが)が、「北海道から来たんだから」と、無理矢理頼んで開けさせてくれた。
中には、昔の南北10町(1090m)の宿場の模型や宿や店の様子などが復原展示されていた。出てくるのをわざわ待っていたお爺ちゃんに感謝。蕨宿のことをいろいろ教えてくれた。

ここを今日のゴールとして、中山道から外れて、ホテルまで1.3km歩く。


17.30、予約しておいた蕨駅前の蕨パレスホテルへ到着。


まずはブログをアップし、近くの餃子の王将で夕食。揚げそばと餃子と生ビール1杯。

半袖の山シャツと山ズボンで歩き通した。昼は暑くて汗をかいたが、徐々に涼しくなり、後半は汗をかくことはなかった。とくに急がずのんびり歩いた。

【歩数計】36134歩(朝、家を出てから)
※距離は、ガイドブックに掲載されている宿場から宿場までの距離のみで、それ以外の、ホテルまでの往復などは含まれていないので、実際はもっと歩いている。

【諸経費】モノレール・地下鉄670円、昼食360円、麦茶129円、コピー20円、テーピング用テープ439円、夕食1338円、ホテル代(朝食付き)7000円。合計9956円。

2日目へ

中山道(その1)歩き旅へ

2016年05月23日 | 登山・旅行

 これからは、時間が今までより自由になるので、もっともっと本州の山旅と歩き旅をしてみたいと考えていた。これまでも、歩き旅は、四国遍路(37日間)、熊野古道(中辺路・小辺路)(10日間)、ぐるり富士山トレイル(6日間)を経験している。

 次に考えていたのは旧街道だった。五街道をすべて踏破した箱館歴史散歩の会主宰中尾仁彦さんによると、一番のお勧めは、五街道の中でもっとも江戸時代の面影をそのまま残す宿場町やその遺構が多い中山道のとのこと。有名な木曽路の妻籠宿や馬篭宿もこの街道にある。

 そこで、まずは、「中山道69次」の歩き旅を計画した。全長534キロで、日本橋から京都三条大橋までを山側で繋ぐ街道である。1日25km平均で歩くにしても、20日以上は必要だ。できれば、一気に歩き通したかったが、暑い夏を外して今年のスケジュールを見ると、まとまった日程が組めそうにもない。

 仕方ないので、梅雨前と秋の2回に分けて挑戦することにした。まずは、明日から6/6までの13日間、歩けるところまで歩こうと考えている。机上の計画では、武州路・上州路~信濃路~木曽路を歩けそうだ。秋は、残りの美濃路~近江路となる。
 峠越えが多いので、五街道の中では最も気力・体力を必要とするらしいが、歩き応えのある魅力的な旅になりそうだ。


 中山道歩き旅の本はたくさん出ているが、山と渓谷社の『歩いて旅する中山道』を持参して歩くことにした。コース地図や細かな見どころなどが詳しく載っている。ネット上にも多くの記録が見られるので、それらを参考にしたい。


 新しくこのために買った装備は、靴とリュックに付けられるチェストバックだけだ。あとは、登山用品で十分間に合う。

 靴は、現在登山靴として使用しているサロモンの堅牢でフィット感もホールド感も最高なトレランシューズでも良かったが、もうへたってきて、ゴアテックスがダメになっている。雨の日も歩きたいので、amazonで同じような作りのサロモンの靴を探したら、半額近いウォーキングシューズが見つかった。チェストバックも、本が入る大きさのものをやはりamazonで見つけた。

 費用は、宿泊代も入れて1日1万円以内で収めたい。したがって、宿泊はできるだけ安い宿やビジネスホテルの予定だ。これまで同様に歩く距離と相談しながら、スマホで探しながら、前日か当日にでも予約を入れて歩くつもりだ。できれば、旧宿場町での泊まりにこだわりたい。

○一応の計画
5/24(火) 函館~(飛行機)~羽田、
【武州路・上州路】 日本橋~1,板橋宿~2,蕨宿            <計18.7km>
5/25(水) 蕨宿~3,浦和宿~4,大宮宿~5,土屋宿~6,桶川宿~7,鴻巣宿 <計29.0km>
5/26(木) 鴻巣宿~8,熊谷宿~9,深谷宿               <計27.4km>
5/27(金) 深谷宿~10,本庄宿~11,新町宿~12,倉賀野宿        <計28.4km>
5/28(土) 倉賀野宿~13,高崎宿~14,板鼻宿~15,安中宿~16,松井田宿 <計26.0km>
5/29(日) 松井田宿~17,坂本宿~18,軽井沢宿            <計20.0km>
【信濃路】
5/30(月) 軽井沢~19,沓掛宿~20,追分宿~21,小田井宿~22,岩村田宿~23,塩名田宿~24、八幡宿 <計26.4km>
5/31(火) 八幡宿~25,望月宿~26,芦田宿~27,長久保宿~28,和田宿  <計21.8km>
6/1(水) 和田宿~29,下諏訪宿    <計21.5km>
6/2 (木) 下諏訪宿~30,塩尻宿~31,洗馬宿~32,本山宿~33,贄川宿  <計29.7km>
【木曽路】
6/3 (金) 贄川宿~34,奈良井宿~35,藪原宿~36,宮ノ越宿~37,福島宿 <計27.1km>
6/4 (土) 福島宿~38,植松宿~39,宮ノ越宿~40,須原宿       <計22.0km>
6/5 (日) 須原宿~41,野尻宿~42,三留野宿~43,妻籠宿       <計23.9km>
6/6 (月) 妻籠宿~43,馬篭宿~44,落合宿~45,中津川宿       <計16.2km>
   中津川~東京~羽田(飛行機)~函館

 毎日の記録は、その日のうちに、スマホからブログ「癌春日記」にアップできるように頑張るつもりなので、応援方々楽しんでいただきたい。

やばかった win10への強制自動アップグレード

2016年05月23日 | PC・HP・ブログ
 ここ数ヶ月、PCを立ち上げるたびに「Windows10を入手する」みたいな画面が出て、そのたびに、うざいと思いながら消して対応していた。

 以前から、PCに詳しい方々から、「絶対Win10にしない方が良いよ。不都合なことが多すぎる」と言われていた。ましてや、自分の場合、一番大切な15年以上使ってきたHP作成ソフトが使えなくなる。今のWin7が使えるうちは、ずっと使うつもりでいた。


 ところが、5月19日に、PCを使用している最中に、トイレから戻ったら、勝手に、PCの画面が上掲のように変わっていた。何がどうなってどうなったのか・・・慌ててPCの電源を切ろうとしたが、切れない!・・・仕方ないので、電源タップからプラグを抜いて、ことなきを得た。

 いろいろ調べてみたら、5月13日頃から「Windows10を入手する」アプリの挙動が変わっていて、5月16日頃から自動アップグレードが始まるPCが多数発生しているようだ。自分のPCもこのパターンだったのか?

 いろいろ検索してみたら、このような被害が続出しているし、「Win10への強制アップグレードを防ぐ方法」みたいなサイトがたくさん出ている。なぜ、こんな強引なことをするのだろう・・・まったくわけが分からない。

 一昨日はとりあえず、下記のサイトを参考にwindows updateの設定を、「自動」から「手動」に切り替えておいた。
http://freesoft.tvbok.com/cat97/2016/to_force_windows10_2016_02.html

 昨日、弟にその話をしたら、彼の勤務先の事務所でも同じようなことがあったらしい。Win8の場合は、なんとか使えるらしいが、自分と同じWin7の場合は、ほとんど使えなくなるらしい。「損害賠償も問えるのではないか?」という話になっているとのこと。

 今日になって、また、同じことがあれば困るし、windows updateの「手動」は面倒なので、もっと良い方法がないか調べたら、下記のサイトが分かりやすかったので、それにしたがって設定してみた。
https://121ware.com/qasearch/1007/app/servlet/relatedqa?QID=017898

 このサイトににも書いてあったが、非表示にしても、再度Windows Updateのところの確認を行うと再表示されたが、その非表示の設定を何度か繰り返しているうちに表示されなくなった。そこで、windows updateの設定を、「自動」に戻したが、果たして、どうなるか・・・・?

<追記>
 MSでも、あまり反響が大きいので、5/21、アップグレードが始まった後にキャンセルできる手順をまとめた動画を公開したようです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160523-00000003-jct-sci

1枚の写真のために函館山うろうろ

2016年05月23日 | 登山・旅行

「はこぶら」のサイトに「つつじ山要塞」とのキャプションで掲載されていた写真

 上掲の要塞とツツジの花の組み合わせが気に入って、ツツジのころになったら自分も撮って来ようと思っていた。
 明日から旅に出るので、今日のうちにと思い、車でつつじ山駐車場まで上がってつつじ山要塞へ。ところが、いくら探しても同じアングルのところはない。藪を漕いでつつじ山山頂まで行ってみたがやはりなし。もしかしたら、薬師山?と思ってそちらへも行ったが、やはりなし。
 
 あとは、千畳敷しかない。とりあえず車で下って、登山口のふれあいセンターで確認してもらおうと思ったが、管理人は外勤中。下の駐車場へ行ったら、顔見知りのグループがいたので、聞いてみた。お互いの意見は、千畳敷要塞で一致した。

 再び、車でつつじ山駐車場まで戻り、千畳敷を往復した。千畳敷要塞の中を歩いて行ったが、最初は見当たらなかった。しかし、再確認の意味で戻ったら、同じアングルの場所がようやく見つかった。見る向きが違うので、往きでは気付かなかったらしい。


 しかし、ツツジがまだ蕾だった・・・残念! 6月6日に戻って来てからでは、もう花も終わっているだろう。 


この木は毎年花を咲かせるアオダモ

 千畳敷から戻るときに、反対側から来た男性が、「アオダモの花が咲いてますよ」と話し掛け、わざわざ戻って教えてくれた。
 その方の話では、「普通アオダモは4年置きに花を咲かせるらしいが、ここのこの木は毎年花を付けるんですよ」とのこと。

近郊観光ドライブ

2016年05月22日 | 日常生活・つぶやき

朝食バイキングに出た、今朝揚がったばかりの生きている甘えび。
イキが良く暴れて皮は剥きづらいが、こりこりしてとても美味しかった。
このほかに刺身だけでもイカ刺しなど4種類もあった。他の料理もたくさん。


 ホテルを出て、まず最初の立ち寄りは「大船遺跡」。4年前よりも整備が進んでいた。


次に、今年、道の駅もできて新しくオープンした鹿部間欠泉公園。


今年から夏季の運行営業を始めた函館七飯スノーパークのゴンドラで往復。
いつも冬しか乗っていないので、新鮮な感じだった。


ゲレンデの上の方で駒ヶ岳をバックに


次は、城岱牧場展望台へ



城岱牧場から下り、大野平野を横切り、向かい側のきじひきパノラマ展望台へ


最後は、訪問を約束していた仁山のパンの店ヒュッテの親方の所へ
幼少のころ、旧大野町(現北斗市)で隣に住んでいて、歳が同じ妹と3つ上の弟は、親方とはいつも一緒に遊んでいた。
親方は、その当時のアルバムを用意していた。
当時の我が家の兄弟の写真や一緒に遊んでいたときの写真を眺めながら、昔話に花が咲いた。


我が家の3人兄弟と親方で記念撮影。

昼食はラッキーピエロ峠下総本店の予定だったが、混んでいて、中の様子を見ただけでパス。
 その足でその隣の、弟と峠下小学生時代同級生だったOさん宅へ。50年ぶりの再会でお互いに感激していた。

 函館へ戻り、飛行機で帰る妹を空港まで送り、新幹線で帰る弟夫婦を函館駅まで送って解散。
 次に会えるのは、8月下旬の弟のところの姪っ子の結婚式の予定。


翌日の昼食の食卓に上った、七飯スノーパークの上で採ったウドの天ぷら

 毎年最低1回は、登山ついでに見つけたギョウジャニンニク、ウド、たらの芽は、必ず食べていた。しかし、今年は、山菜の時期に恵山通いばかりで、採ることができなかった。ようやく、ウドだけだが口にすることができた。これで、今年の山菜は最初で最後だろう。

母の17回忌

2016年05月21日 | 登山・旅行

命日は6/15なのだが、さいたまの弟と大阪の妹やこちらの都合の良い日を選んだら、今日になった。

 弟夫婦は昨日のうちに函館に入っていたので、妹を空港に迎えに行った。14:00にお坊さんがやってきて、お勤めが始まった。


 それが終わり、お墓へ移動。お墓でも読経してもらって、今晩の宿となる大船温泉のホテルひろめ荘へ。

 途中、南茅部道の駅に寄り、縄文文化交流センターで、道内唯一の国宝・中空土偶ほかを観る。


 ひろめ荘に17:00に到着。2種類の温泉に入ったあとは、楽しみな夕食。
料理はちょっと豪勢に、地元南茅部で水揚げされた海の幸グレードアッププラン。


前浜で獲れた新鮮な刺身の盛り合わせ・・・10種類ほど

海のものがメインの料理だが、この後に大沼牛のステーキも出た。

豪華なデザートにも感激


「ランパス」30軒目 「らぁめん めんきち」

 妹を空港を迎えに行った帰りに、妹が「おいしい塩ラーメンが食べたい。」と言う。
 帰路沿いにある塩ラーメンの美味しい花園町の「めんきち」へ。


こちらの提供は「中華そば」
塩ラーメンとの違いは、たれも塩と醤油が混じっているし、ほかもいろいろ違うとのこと。結構美味しかった。


法事の準備 & 30km走挑戦・撃沈

2016年05月20日 | ウォーキング・ジョギング・マラソン
 明日は、母の17回忌法要なので、朝5時に、草刈り機と掃除用具一式を車に積んで、立待岬の墓地にある墓周りの草刈りと墓掃除をしてきた。
 終わって車のところまで下りてきたら、伊達市から来たという登山スタイルの女性が登って来た。立待岬経由で函館山へ登るらしい。挨拶方々少しお喋りをしているうちに、名前を訊かれたので答えたら、「いつもホームページやブログを拝見し、参考にさせてもらっています。今日も坂口さんの記録を参考に、谷地頭温泉の駐車場に車を置いて登ってきました。こんなところでお会いできるなんて…」と感激され、握手まで求められた。朝から爽やかな気分になった。


 昨日は仏間の整理をしたので、午前中に必要なものを購入し、仏壇周りを明日に備えた。母の命日は6/15なのだが弟妹の都合で、明日にした。


30km走に挑戦するも、23kmで撃沈
 函館マラソンまでひと月半となった。5/24~6/6の間、中山道の歩き旅に出る予定なので、その前に一度30km以上を走っておきたかった。


 地図で計測したら、自宅から五稜郭駅の陸橋を渡り、函館病院のところから大野新道(国道227号)へ出て、大野十字街までの直線道路を走り、文月~清川(道々96号)~上磯国道(国道228号)~港小学校のところから函館病院~自宅で、ちょうど30kmだった。

 最初の10kmは、1時間08分30秒(平均ラップ6分48秒/km)、10~20kmは、1時間06秒30秒(平均ラップ6分36秒)だった。道々96号線から上磯の国道228号へ出たところで、ちょうど21kmで、ハーフの距離だった。この辺りから脹脛に張りの痛みが出てきた。それでも、7分を切るペースで23kmまで走った。ところが、その辺りから、続けて走ることができないくらい脹脛が痛くなった。その後は、歩いたり走ったり、最後の4kmは完全に歩きのみとなり、20~30kmは、1時間24分30秒(平均ラップ8分24秒)だった。

 過去の函館ハーフでも、何度か脹脛が痛くなって歩いたことがある。このときはだいたいが前半のオーバーペースが祟っている。今回も、7分/kmで走れば、もしかしたら歩かないで済んだのかもしれない。特に10~20kmのペースが速過ぎたようだ。その時は、そのペースで30kmは行けそうな気がしたのだが…。未知の距離なのに甘く見ていたようだ。ちょっと悔しい。

 本番は、今回の教訓を生かし、30kmまでは我慢して7分イーブンで走り、それでも同じ症状が出るようなら、歩くだけの時間的余裕がないので、回収バスの世話になる覚悟が必要だ。来週から毎日25~30kmの中山道歩き旅が続くが、それも少しはトレーニングにはなるだろう。しかし、帰って来てから30km以上走るだけの日数的な余裕はもうないだろう。


まっすぐな大野新道(国道227号線)に架かる新幹線の高架橋


旧大野の町並みも育った子どもの頃とすっかり変わっている。
ふと、子どものころに記憶がある大野十字街手前(新道沿い)の懐かしいお宅が目に付いた。当時は洒落たお宅だった。
良く遊びに行った友人の家の隣なので、どこのお宅だったかあとで聞いてみたいものだ。


すでに葉桜になっていた法亀時のシダレザクラ


沖川小学校・・・この校名にはおもしろい謂われがある。

この校名は、中野地区の「中」に、清川地区の清のさんずいを付けて「沖」とし、清川の「川」を組み合わせている。「清」のさんずいをわざわざ「中」に付けたわけは、中野より清川の方が子どもの数が多かったからだそうだ。
旧上磯町には、このような地名を組み合わせた校名がほかにもある。「浜分」という地名はないが小学校も中学校もある。これは、七重浜の「浜」と追分の「分」を組み合わせている。
また、「石別」という地名はないが、これも小学校も中学校もある。これは三ッ石の「石」と当別の「別」を組み合わせている。


この辺は、すっかり歩きモードになっていた25km付近の国道228号の産業道路交差点


 帰宅後、これまでに経験のないほどの疲労感と足のだるさだった。妻に揉んでもらって少し楽になった。 

金山正禮「切り絵」展

2016年05月19日 | イベント鑑賞・参加

 昨日からNHKギャラリーで、金山正禮さんの『「切り絵」函館の建物・人・・・。展』が開催されているので、観に行ってきた。

 実は、現職時代お世話になった金山元教育長のお兄さんで、氏からの年賀状は、毎年このお兄さんの作品が使われている。また、自分と同じく大腸癌を患い手術したが、元気で活躍していることにも親近感を抱いていた。


 <許可をいただいて撮影~立っている方はご本人>

 本人がいらしたので、いろいろお話を聞くことができた。62歳のときにテレビで見て、さらに、上野美術館で眼にして、興味を覚えて始めたそうだ。一番大変なのは、下絵作りとのこと。下絵の作り方も教えていただいた。それができてしまえば、あとは根気よく切り抜いて行くだけだと言う。一つの作品ができるまでに約3ヶ月ほど要するとのこと。

 最近は、眼が疲れるので、お弟子さんに教えることは引退したそうだ。現在86歳とのことだが、とてもそのようには見えないお若い方だった。共通の大腸癌の話にもお付き合いいただいた。会場に竹下景子さんからのお花もあった。


入場者に1枚ずつ配布している絵はがき


「ランパス」29軒目 「JOE&RACCOON」(ジョーアンドラクーン)


 今日は、歴史的建造物の店の雰囲気と好評のメニューから早く行きたかった大町の「「JOE&RACCOON」へ。
 店名のJOEは、新島襄に因み、RACCOONはアライグマのことで、店主が似ていることによるとのこと。
 今日の本命は、NHKギャラリー近くにあるランチバイキングの「食いどころはら田」だったが、1時間前に行ったら、10食限定ですでに締め切っていた。そこで、電話をしてこちらの店へ。利用時間は11:30からだが、着いたのは12:15頃だったので、30分ほど待たされた。ここは40食限定だそうなので、遅く行った方が待たなくて食べられそうだ。



 提供メニューは、「日替わりガレットランチ」・・・木曜日は、「ピリ辛チョリソー」。
 聞きなれないガレットとは、フランス生まれのそば粉のクレープだそうだ。
 中に、チョリソー、卵、チーズが包まれていて、サラダとコーヒー付き。
 見た目より、ボリュームがあり、非常に美味しかった。ここも、ぜひリピートしたい店だ。

 
洒落た器のコーヒー      新島襄の説明と歴史的建造物の標