癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

甲州街道歩き旅〈1日目〉日本橋~9府中宿(32.1km)8時間30分

2019年11月09日 | 登山・旅行

 いよいよ今日から五街道最後となる甲州街道である。甲州街道の説明は10/30のべージ参照。
 
 昨夜の段階で、予め調べておいた宿も全て予約ができ、泊まりの心配はなくなった。

 連泊したホテルは、ワンランク上のカプセルが売りで快適なのだが、混んでいるせいか、他の客の動きが意外とうるさい。
 1時前に物音で目が覚めたら眠られなかったので、今日の予習をしながら、ブログの解説部分の下書きをした。

 今日は都心部から徐々に郊外へ抜けて行く景観の移り変わりを楽しむことができた。
 また、歩きゆえに、都心部の施設や建物の位置や地名を整理することもできた。

 今夜は、てくてく人さんと府中の宿…とは言っても京王府中駅前の24時間営業の温泉だが…。
 19時にそこへ来てくださるという。一緒に食事でもという希望だったが、到着後に聞いたら、この温泉は、レストランだけの利用はダメで、高い入浴料を払わなくてはならないとこと。また、こちらの途中外出もダメとのこと。
 すぐに電話して、自由に使える受付ホールの休憩コーナーで会うことにした。

日本橋~内藤新宿


 6:00、夜明け前の毎度おなじみの日本橋。これで最後になると思われる。


 甲州街道は東海道と同じく銀座方面へ向い、日本橋交差点を右折して皇居から四谷を経由し新宿通りへ向かう。


 呉服橋を右に行くと、「一石橋」がある。名前の由来は橋の南北両側に後藤氏両家の(金座)後藤庄三郎、(呉服所)後藤縫殿助の屋敷があり、後藤(五斗)のシャレ)と五斗で一石と名づけたという。
 隣に「まよひ子のしるべ石」というのが立っている。子供が迷子になったとき、似顔絵などを貼り付けて情報を集めたという石標がある。


 これを見つけるのに非常に苦労した「北町奉行所跡」 
 大丸の通用門に石碑があった。お馴染みの遠山の金さんこと遠山金四郎が天保11年(1840年)から3年間奉行を勤めた。


 東京駅八重洲口の横を抜けて、皇居外堀の和田倉橋から、外堀沿いに進む。


 皇居ランナーと「桜田門」~万延元年(1860年)3月3日の朝、門外で「安政の大獄」を行った大老井伊直弼が水戸浪士等に暗殺された「桜田門外の変」の舞台。


 桜田門の向かい側に建つ、TVの刑事ドラマで良く登場する警視庁は豊後杵築藩松平家屋敷跡とのこと。右奥に国会議事堂も見える。

 皇居の外堀を半蔵門前まで、およそ半周する感じで歩いた。堀沿いだけで35分も掛かった。
 国道20号新宿通りを進む。ビル街の中の歩きが続く。


 四谷駅前に「四谷見附跡の碑」が立っている。ここは、江戸城防御の城門があった。
 ここを過ぎると、内藤新宿へと入っていく。
 
内藤新宿~下高井戸宿
1 内藤新宿
・内藤新宿は甲州道中の日本橋から最初の宿場。当初、日本橋から高井戸まで宿場がなく、遠すぎて難儀したため途中に設置された。
・元禄12年(1699)から宿駅業務が開始され、途中享保3年(1718)にいったん停止されるが、54年後の明和9年
(1772)に再興している。
・江戸城造営のために整備された青梅街道は当地で甲州街道から分岐する。本陣1 旅籠24

 この辺りは杉並区だが、内藤新宿は新宿1丁目交差点あたりから始まり、江戸時代は入口の木戸が設置されていたという。


 左手奥には新宿御苑の大木戸門が見える。ここは、内藤家下屋敷跡だだたところ。
 内藤新宿もこの内藤家に由来しているらしい。
 面影を残すものは何もないが、この辺りが宿場の中心地だったようだ。
 本陣跡等の場所はガイドでも触れられていない。


 更に進んで新宿3丁目交差点。ここは青梅街道の追分になっている。
 そのまま真っ直ぐ進む道が青梅街道 左折するのが甲州街道。
 交差点の歩道に設置されている「追分モニュメント」をアップで撮ってみた。正面が青梅街道。


 通勤ラッシュの新宿駅前を通過。


 新宿駅前から国際通りに入る。ここもビル街だが、狭い道路に旧道の面影を感じる。


 途中から国道20号の上に首都高速4号が合流してきて、これが、上高井戸まで7kmほども続く。


 「笹塚の一里塚跡」~昔、街道の両側には直径1mほどの笹に覆われた塚があったという。
 「笹塚」という地名の由来になったといわれている。江戸より3里目。

 その先下高井戸駅入口交差点から先、下高井戸1丁目から次の下高井戸宿に入りる。

下高井戸宿・上高井戸宿~布田五宿
2下高井戸宿 3上高井戸宿
・現在の杉並区下高井戸1丁目から5丁目、甲州街道と首都高速4号線が分離して行くあたりまでの東西17町(約1850m)。
・上高井戸宿はその西、上高井戸1丁目の環八通りと交わるあたりを中心に東西6町(約650m)程の町並み。上下高井戸両村が半月交替で継立を分担した。 
・下高井戸 本陣1 旅籠3 上高井戸 本陣1 旅籠2

 下高井戸駅入口交差点から下高井戸宿へ入って行く訳だが、当然ながら宿跡らしきものは何もなく、国道の上を首都高速が乗っかっているだけ。 
 国道の北側は玉川上水跡が暗渠になって公園となっている。


 ガイドブックによると、この右辺りに、「富吉源蔵本陣跡」があったという。


 「鎌倉街道入口」交差点に、江戸から4番目の「一里塚」があったという案内板がある。
 案内によると・・・参勤交代でこの道を利用した大名は、 信州高嶋藩、高遠藩、飯田藩の3藩だけだったとか。

 ここを過ぎると、うっとうしかった高速道路は右手へとルートを変えて行き、騒音も少なくなり、見通しも良くなってきた。この辺りは世田谷区である。


 ガイドブックによると、その先きの右辺りに「武蔵屋本陣跡」があったという。


 「新一里塚跡の碑」~これは明治3年に内藤新宿を起点とし甲州街道に建てられた新しい一里塚で、正面には「内藤新宿より三里 品川県」と彫られている。 六カ所設置して、現存する物はこれのみという。  


「仙川の一里塚跡」~「旧市跡仙川の一里塚跡」碑と解説がある。日本橋より5里目。

 野川を渡ると直ぐに二叉となり、左手は県道119号となり、次の宿場の布田五宿の内の一つ「国領宿」へ入っていく。

布田五宿~府中宿
4 布田五ケ宿
・現在の調布駅を中心に東側より、4国領宿、5下布田宿、6上布田宿、7下石原、8上石原の五宿からなる宿場。
・五宿あわせて一宿の機能をもって、6日交代で宿継ぎ業務を分担していた。これら五宿には本陣、脇本陣共無く、旅籠も計9軒だけ。
・江戸からの距離も五里三十二町余と中途半端で「間の宿」のような存在だったと云われる。宿の長さは合計で30丁余(3270m)。

 

 上布田にあった「小島の一里塚跡」~「市旧跡小島一里塚跡碑」とその解説板がある。日本橋から6里目。


 上布田で今日初めて目にした蔵付きの旧家。


 上石原は近藤勇生誕の地とのことで、街頭沿いに幟が並んでいて、西光寺に近藤勇の座像があった。


 上石原にあった黒板塀の旧家。


 上石原で、「江戸初期の甲州道中」との分岐がある。貞享年間(1684~88年)以前の甲州古道。
 迷わず古道へ進む。県道ではないので、道幅に街道の面影を残す。
 地元では「品川街道」と呼んでいるらしく、標識も目にした。


 その古道にあった「常久の一里塚跡」~「史蹟一里塚碑」とその解説がある。ここの塚木は松と杉だったらしい。日本橋から7里目。
 左の標柱には「しながわ道の一里塚」と書かれていた。
 
 県道229号に合流してまもなく、府中宿へと入っていく。
 14:30、府中宿の中心地手前の京王府中駅入口を今日のゴールとした。


 その交差点の「大国魂神社」ではお祭りが行われていた。


 そこから5分ほどで、24時間営業の「天然温泉縄文の湯」が今日の宿(4100円)。
 6階が受付で、温泉が11階にある。7階から12階まで温泉の施設である。
 2日間シャワーのみだったので、ゆっくり浸かる。疲れが抜けて行くような気がする。
 朝眠れなかったので、説明部分の下書きを済ませていたブログも18時前にアップすることができた。
 19:00にやって来るてくてく人さんとの再会が楽しみ。


 結局、1時間半ほど温泉でおしゃべりをして過ごした。
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日光街道歩き旅〈5日目〉20草加宿~21千住~日本橋(25.1km)6時間30分

2019年11月08日 | 登山・旅行
 今日は、日本橋に到着することができ、三厩からスタートした奥州街道と日光街道のゴールを迎えた。
 特に奥州街道は、3回に分けて30日を要しただけに感慨深いものがある。通しで歩いてきた松前藩の参勤交代は人数が多いので、もっと多くの日数を要したことだろう。

 今日は朝から11℃もあり、昼は今までで一番暑い好天に恵まれた。 
 リュックをホテルに預けて、銀座線の上野で乗り換えて東武線の草加松原まで移動。

 東京へ入ってからは、複雑な交差点で道を間違えたり、うろうろしたり、多い信号に引っ掛かったりと、予想以上に時間が掛かった。

草加宿~千住宿 
〈草加宿〉
・人口3619人、家数723軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒
・芭蕉の「奥の細道」では草加宿に宿泊したとあるが本当は越ヶ谷宿だった
・草加煎餅は明治8年の資料には記載されていないので江戸時代には無かったようだ


 7:05、昨日のゴール地点の百代橋からスタート。日本の道百選に選ばれている草加松原は、当時の街道に似せて復元されている。


 草加松原の端に立つ「松尾芭蕉像」


 「草加煎餅発祥の地碑」~草加松原で茶屋を営むおせんさんが「売れ残った団子は潰して天日に干し、焼くといい」と教えられたのが由来とされている。


 その道を挟んで立つ「草加宿」の灯篭と。河合曽良像。

 このあと、先に目指すものがなかなか見つからない。犬の散歩をしている人に聞いたら、道を1本間違えていた。


 正しい道に戻って見つけた「清水本陣跡」と「大川本陣跡」の碑。
 宝暦4年(1754年)清水家が大川家より本陣を譲り受けた。


 「藤城家」~明治初期建築の町屋造りで国登録有形文化財。


 草加宿の出口に立つ「今様草加宿碑」から通って来た道を振り返る。

 草加宿を抜けて、県道49号を進む。写真を撮り忘れたが、毛長川の水神橋で埼玉県から東京都足立区へ入る。


 電柱の「旧日光街道」の表示がずっと続いていた。狭い街並みに旧街道の面影を感じる。


 やがて、荒川の堤防の上に出る。橋は国道4号に架かる千住新橋。ここから荒川区になる。


 千住新橋の上からスカイツリータワーが見えた。

千住宿~日本橋
〈千住宿〉
・人口9956人、家数2370軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒
・芭蕉の「奥の細道」の旅は千住大橋の船着場から始まった


 国道4号から分かれて堤防の上を少し進み、旧街道へ入る。昔ながらの雰囲気を残す「宿場通り商店街」。


 伝馬屋敷の面影を残している「横山家住宅」~地漉き紙問屋であった。


 その向かいに建つ「千住絵馬屋吉田家」~絵馬を初め地口行灯や凧等を描いてきた際物問屋。


 「千住宿本陣跡」の説明板


 「千住の一里塚碑」~日本橋より2里目。


 街道沿いに当時の商家の名前や屋号が設置されている。



 隅田川に架かる千住大橋の手前にある「奥の細道矢立始めの地碑」
 芭蕉は深川から舟で千住に着き、「奥の細道」へ旅立った。その際に矢立初の句「行く春や鳥啼き魚の目は涙」を詠んだ。


 隅田川に架かる千住大橋。文録3年(1594年)隅田川に最初に架けられた橋。
 
 この橋を渡った先の交差点で、間違って別の道へ進んだ。途中でお巡りさんに聞いて戻ったが、2kmほど無駄足を踏んだ。


 「小塚原刑場跡」~処刑された屍体は放置され一帯には死臭が漂っていたという。
 「首切り地蔵」は寛保元年(1741年)刑死者供養のために造立されたもの。

 このあとも、浅草雷門への道も間違って、遠回りをしてしまった。


 お馴染みの「浅草寺雷門」~すごい人出だった。外国人も多く目についた。


 神田川に浮かぶ屋形船。ここまで来ると日本橋は近い。ラストスパートを掛けたくても、人が多くて無理。


 13:30、日本橋到着。これで、奥州街道と日光街道のゴールとなる。


 日本橋袂に設置されている「日本国道路元標」~「日本の道路はすべて日本橋に通じる」と言われている。

 これまでの中山道と東海道は、ここからスタートとしたが、ゴールするのは、今回が最初で最後であろう。


 ゴールしてすぐに日本橋袂の手打ちそば屋「天松」で、おろしそばを食べた。これがまた美味しかった。


 連泊となる東京駅前ベイホテルへ。チェックインは4時からなので、休憩室でブログを打つ。

 このあと、洗濯をして、明日以降の甲州街道歩きの下準備をする予定。


 この8日間の歩数計。これは宿から宿までの歩数。


 夕食はホテル向かいの中華屋さんで。メンマの和え物と五目チャーハン。
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日光街道歩き旅〈4日目〉16幸手宿~20草加宿(32.1km)7時間45分

2019年11月07日 | 登山・旅行
 今日も後天に恵まれたが、朝はそれほど冷えなかった。
 宿は街道の近くなので、リュックを預かってもらった。5:41の電車に乗って、幸手駅まで移動。
 今日は少し早かったが、明日に約20kmを残して、草加宿の入口をゴールとした。

幸手宿~杉戸宿

 6:00、昨日のゴールの幸手駅前交差点をスタート。


 日の出はすでに6時を超えていた。

 国道4号をしばらく歩き、県道373号へ入ると、すぐに杉戸宿へと入っていく。

杉戸宿~粕壁宿
〈杉戸宿〉
・人口1663人、家数365軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠46軒
・日光街道が定められてから付近の民家を集めて宿を開いたところ
・一面に水田があり良質のもち米がとれ、将軍家の膳には必ずこの地のものを用いたと言われる


 宿場へ入っていくと、宿場時代の案内板があった。


 「長瀬本陣跡」~本陣門を残している。

ここには、多くの旧家や商家が残っていた。

 左上・「渡辺勘左衛門邸」~豪壮な家屋と蔵を残している。質屋業だった。
 右上・不明
 左下・不明
 右下・「関口酒造」~創業文政5年(1822年)


 本陣跡前から市街地を写す。


 宿場の出口付近に復元されていた「高札場所」

 このあとのコンビニのイートインでで簡単な朝食を摂る。


 杉戸宿を出て、県道373号を進む。一部旧道に入るが、その入口の九品寺があり、その前の道標を兼ねた庚申塔に「右江戸」「右日光」と刻まれている。天明4年(1784年)堤根の村民が建立したもの。


 国道4号に出てしばらく進み、今度は県道313号に入る。


 「小渕の一里塚跡碑」~日本橋より9里目。
 そばに天保3年(1832年)建立の庚申塔がある。


 大落石古利根川に架かる新町橋を渡ると粕壁宿に入っていく。
 当時は長さ6間、幅3間の板橋だった。

 粕壁宿の入口近くの旅館に預けたリュックを取りに寄った。

粕壁宿~越谷宿
〈粕壁宿〉
・人口3701人、家数773軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒
・粕壁はその昔、春日部氏という武将がいたことから発したものと分かり、昭和19年に春日部に改められた
・宿場の東側に古利根川が流れており鎌倉・室町時代には船の発着場があった

 この宿場は、宿場時代の標識が充実している。

 「日光道中粕壁宿 高札場跡・浜島家土蔵」の標柱


 「永島庄兵衛商店」~慶長年間(1596~1615年)創業の米問屋。屋根に鍾馗像をのせている。


 「田村荒物店」


 「日光道中粕壁宿 本陣跡」の標柱と中心街を写す。

 粕壁宿を出ると、再び国道4号の長い歩きが続く。


 やがて、県道325号を進む。国道歩きより静かで、街並みも古さを感じる。

越谷宿~草加宿
〈越谷宿〉
・人口4603人、家数1005軒、本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠52軒
・現在は越谷と表記するが、以前は越ヶ谷と「ヶ」を入れて表記していた
・街道筋であったことを解説するものが一切ないのはもったいないと思う


 越谷宿へ入っていくが、明治7年の火事で宿並みは焼けてしまったらしく、歴史を感じる建物がない。
 この辺りが本陣や脇本陣があったところである。


 しかし、元荒川に架かる大橋を渡ると、景観は一変して、蔵を持った旧家や商家が多くなる。火事は川から延焼しなかったらしい。


 越谷宿を抜けて県道49号を進む。途中のすき家で、大盛りの牛丼ランチを食べた。


 「清蔵院」の山門の龍は左甚五郎の作と伝えられるが、夜な夜な抜け出して悪さをするので、金網で覆われたという。


 「蒲生の一里塚」~東塚を残しているが、塚の上に植えられたこれだけ大きな榎を見るのは、これまでの街道歩きで初めてである。
 愛宕社が祀られ、塚下には地蔵尊が並ぶ。塚の前に旧道痕跡がある。日本橋から5里目。


 「蒲生大橋」の横に掲げられた高浜虚子の句。このあと、右の川岸の道を進む。


 「奥の細道の壁画」~草加宿に着いた芭蕉と曽良の姿が描かれている。


 「芭蕉の句碑」~この辺りは草加松原と言われ、昔から松並木があったという。今も復元されて公園のようになっている。


 13:45今日のゴール、草加松原駅入口の百代橋。

 あと日本橋まで20kmほどで、宿場は草加宿と千住宿を残すだけである。
 草加宿の中心部は明日の楽しみに取っておくためにも、時間的にもやや早いが、ここをゴールとした。

 東武鉄道の草加松原駅から上野で銀座線に乗り換えて日本橋まで移動。
 予約しておいたカプセルホテル・東京駅前ベイホテル(4000円)にチェックイン。 
 予約はしてなかったが連泊をお願いしたら、5800円だという。じゃらんで申し込もうとしたら、5700円だった。
 今日の分の予約は事前たったから安かったのだろう。100円しか違わないので直接申込みにした。
 東京はカプセルホテルまで高い。おまけに大浴場もない。シャワーだけ。
 実は、中山道と東海道の時に利用したホテルと勘違いして申し込んでしまったらしい。
 
 早く着いたので、19時前にブログアップ完了。これから外に出て夕食タイム。昼に大盛りの牛丼を食べたのに、腹がグーグー鳴っている。

 
 食費は1日2000円と決めているが、昨夜の分と合わせて、ちょっと豪華に。久しぶりに落ち着いて夕食を食べた。
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日光街道歩き旅〈3日目〉10小山宿~16幸手宿(35.4km)9時間00分

2019年11月06日 | 登山・旅行
 今朝も快晴の天候に恵まれたが、朝は寒かった。陽が高くなるに連れて、気持ちの良い暖かさになった。

 今日は、思いがけない出合いがあった。野木宿へ入る手前の信号で声を掛けている人がいた。こんなところで誰かな?と思って信号を渡った。
 なんと、一昨年の大千軒岳の登山口で一緒になり、最後まで同行したYaさんだった。野木町在住とのこと。
 ブログを見て、今日はここを通るはずと待っていて下さったそうだ。びっくりである。差し入れもいただいて、感謝・感激、雨あられ。

 昨日は、スタートが遅く距離も長いので、最初から高速ウォークだったが、今日はスタートが速いし距離も短めなので、最初から中速ウォークだった。
 結局、昨日とほぼ同じ時間なのに歩いた距離は6kmほども短かった。
 これまでの経験からも、途中でペースを上げるのは難しいことがわかった。
 それでも、変更した予定の幸手宿まで歩くことができた。
 
小山宿~間々田宿
〈小山宿〉
・人口1392人、家数423軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠74軒
・田原藤太秀郷が平将門を追討するために東国に下りここに城を築いた伝承がある
・秀郷の子孫である小山氏が城を守り続け、その後は北条氏の持城となった


 6:10、昨日のゴールの駅前交差点をスタート。

 すぐに、「若松脇本陣跡」を通過。唐破風の玄関を残している。「明治天皇行在所」碑も立っている。
 まもなく合流する、朝のラッシュ気味の国道4号をひたすら歩いて、次の間々田宿を目指す。


 明治25年創業の「西堀酒造」~酒蔵は国登録有形文化財に指定されている。
 やがて、間々田宿へと入っていく。

間々田宿~野木宿
〈間々田宿〉
・人口947人、家数175軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠50軒
・宿内は日光側を上町と呼び、中町、下町と続いていた
・芭蕉は二日目の夜にこの宿に泊まったのだが場所は定かではない


 間々田本陣跡と問屋跡の説明板がその場所に設置されていた。


 本陣跡の前から市街地の様子を写す。


 間々田宿の外れに建つ「小川家住宅」~明治末期の建築で、国登録有形文化財」に指定され、公開もされている。
 当時は「車屋」の屋号で肥料業を営んでいた。


 さらに、国道4号を進んで行くと、「乙女の一里塚」があった。
 榎の大木の根元に鳥居と石灯篭があり、石祠が祭られている。江戸から17里目。


 その先の「正八幡宮」に寄ろうとして、信号待ちをしていたら、向かい側から声掛ける方が冒頭で記したYaさんだった。
 やはり日本三百名山巡りをされている方で、あと残りが北海道のいくつかと九州の山だそうだ。
 そんな話を10分ほどして失礼した。画像の下はいただいた差し入れの地元のお菓子。

 なお、この神社に寄りたかったのは、源頼義・義家親子が「前九年の役」凱旋の折りに勧請して友沼村の総鎮守になったここと、
日光社参の将軍もここで休んでいるという歴史があったからだ。

 やがて、野木宿へと入っていく。
 
野木宿~古河宿
〈野木宿〉
・人口527人、家数126軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒
・野木神社の周りの村がやがて街道側に移住して野木宿となる
・小さな宿場だったので通行量が増大した後期には助郷村23ヶ村が割り当てられた


 「熊倉脇本陣跡」~現「熊倉家」。


 「熊倉本陣本陣跡」~こちらも現「熊倉家」。塀の前に「野木宿の説明板」が設置されている。


 両家の前から宿場の中心地を写す。


 宿場の外れにある「野木神社」~Yaさんの勧めもあり、300mほど奥だが寄ってみた。
 日露戦争開戦2年前に乃木将軍が同名のこの神社に参拝し、「指揮用サーベル」奉納しているという。
 境内には、樹齢700年の欅や芭蕉の句碑もある。


 野木神社から国道に戻ってまもなく、栃木県から茨城県に入る。昔の下野国から下総国へとなる。
 まもなくして、国道4号と別れ、県道265号の歩きとなり、古河宿へと入っていく。

古河宿~中田宿
〈古河(こが)宿〉
・人口3865人、家数1105軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒
・足利成氏が鎌倉より移り来て小川の地名を古河に改めた(1455年)
・古河城は無く、城跡には歴史博物館や文学館がある

 
 宿場の北口に立つ宿場名を入れた灯篭。南口にも同じものがたっていた。
 ここは、宿場だったことを観光の目玉にしているようで、いろいろな取り組みがなされていた。

 県道から別れる「よこまち柳通り」は昔ながらの商店街だった。そこを抜けて、再び国道に出る。


 国道の両側にも宿場名を入れた灯篭が立ち、史跡の説明を記していた。


 右から「史蹟古河城下本陣跡址」碑、「史蹟古河城下高札場址」碑、文久元年(1861年)建立の道標「左日光道、右江戸道」と刻まれている。

 古河宿を抜けて、あとは、見るものもなく、ひたすら中田宿を目指す。

中田宿~栗林宿
〈中田宿〉
・人口403人、家数69軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠6軒
・人馬の継立て業務を半月交代で栗橋宿と行っていた合宿である
・利根川の河原にあった宿場であり、利根川改修工事で元の宿場は跡形もなくなった

 この宿場は、特に宿場の面影を残すものは見当たらなかった。


 利根川の堤防手前の曲がり角に「房川渡しと中田関所跡」の説明があっただけ。


 堤防の上から、抜けてきた中田宿の通りを写す。


 堤防から、利根川に架かる利根川橋を眺める。渡るのも長かった。
 当時は「舟渡し」だったが、将軍の時は51艘の舟を連ねた舟橋が架橋されたという。
 橋を渡ると武蔵国(埼玉県)栗橋宿となる。

栗橋宿~幸手宿
〈栗橋宿〉
・人口1741人、家数404軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒
・利根川の船渡し(房川渡し)の町として賑わった宿場であった
・関東の北側に対する警備の要所として関所がもうけられていた


 左側の家が「池田本陣跡」


 その先には「栗橋宿」のフラッグが飾られていた。


 栗橋宿をぬけると、国道4号の横に旧道が5kmほども続いていた。


 その途中にあった「小右衛門の一里塚」~西塚のみ残存。塚の上に弁財天堂が祭られている。

 長い旧道歩きが終わり、県道56号を進むと、今日のゴールの幸手宿へと入っていく。

幸手宿
〈幸手(さって)宿〉
・人口3937人、家数962軒、本陣1軒、旅籠27軒
・日光街道と御成道との合流地点なので賑わった宿であった
・雷電の神体を田の中の社に祭っていたことから田宮という地名だったが、元禄のころ幸手に改名した


 幸手宿の入口に設置されている「幸手の一里塚」の説明碑~江戸から12里目。

 
 「本陣知久屋跡」の現「うなぎ義語家」(左)から幸手宿の通りを眺める。


 現「ポケットパーク」が「問屋跡」である。


 ポケットパークに設置されている問屋跡の説明(上)と幸手宿の昔の絵と説明。


 15:05、今日のゴール、幸手駅前通り。
 ここから東武鉄道の電車に乗り、春日部の藤屋旅館(4700円)へ。
 道路を挟んで2軒もある、新しくてきれいな旅館だった。

 今日は宿場の数が多かったので、写真も書くことも多くて大変だった。
 早めにゴールしたはずなのに、ブログアップに4時間ほども掛かってしまった。
 ガイドブックがあるお陰で見落としも少ないが、あまりにも見所が多く、取り上げることも多くなり、どうしても長くなってしまう。
 もっとはしょるか精選して、遊びの部分や旅の楽しみなども書きたいのたが…。


 今日の昼食と夕食
 朝は昨夜遅くにたくさん食べたので、食べないでスタート。
 途中でおやつとして、Yaさんからの差し入れのお菓子を食べた。
 昼食は大盛りのうどんと唐揚げのセット。
 夕食は差し入れのお菓子を食べて、ブログアップ後は外出する気もなくなり、行動・非常食とビール。
 
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日光街道歩き旅〈2日目〉4徳次郎宿~10小山宿(41.1km)9時間15分

2019年11月05日 | 登山・旅行
 朝は放射冷却で5℃まで下がったが、快晴の天候に恵まれ、後半はさすがに疲れたが、今回初めて9時間超えの40km超えを記録した。

 バスで昨日のゴール地点の富里小学校前まで戻る。6:50スタート。


 この辺りから宇都宮市街地までは、ほとんどこのような道路である。
 真ん中の低い所を車が走り、その両側の高い所に並木を植え、その外側に広い歩道があり、自転車も走れるようになっている。
 安心して歩けるが、横から道路が合流するときには下ってまた登るので疲れる。


 「高谷林の一里塚」~江戸から29里目。道路幅が広いので、拡張したときに移設したものであろう。


 歩いていて?どこかで見たことのある建物だと思ったら、一昨日Ka女史親子にご馳走になった料亭「月山」だった。


 宇都宮市街地が近くなってきたら、城下町特有の桝形の痕跡が残っていた。ここが宿場の入口だったようだ。


 奥州街道との合流地点手前に建っている蔵造りの商家。逆光が残念。

宇都宮宿~雀宮宿
(※宇都宮宿については、昨日記載してあるので省略)


 奥州街道と合流し、江戸へ向かう日光街道(奥州道中と重複)に入る。
 便宜上、このあとも日光街道としているが、自分としては、ここから江戸までは奥州街道の続きである。ちょっと日光に寄ったという意識である。



 やがて、国道194号から国道4号に入る。今回の旅で国道4号は初めてである。

 
 雀宮宿に近くなったところで、国道から離れて旧道に入る。
 わずか700mほどだったが、このような当時のままの道幅で旧道として残っているのはうれしいものだ。


 再び国道に出たら、「東京から100km」の標識があった。
 「あと100kmもあるのか?」と思うか、「あと100kmで奥州街道のゴールか?」と思うかは微妙だが、いずれにしても感慨深いものがある。


雀宮宿~石橋宿
〈雀宮宿〉
・人口268人、家数72軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠38軒
・日光街道が開けてから街道に移り住み鎮守の雀宮神社があることから雀宮宿となる
・日光側より上、中、下の三町で構成され中町に本陣が置かれていた

 この宿場は、本陣跡と脇本陣跡の表示があり、その建物の

 「雀宮宿脇本陣跡」~門構えや式台は当時の物が残っている。表札の所に「雀宮宿仮本陣」の札が掛けられていた。


 「雀宮宿本陣跡」の碑。

 雀宮宿を抜けて、ひたすら真っ直ぐな国道歩きが続く。
 昼食を摂ろう思っていたそば屋が定休日だった。仕方なく。2日続けてラーメンとなった。
 横浜家系ラーメンを初めて食べた。なかなか美味しかった。函館にも最近オープンしたようなので、帰ったら食べに行かなくちゃ。

石橋宿~小金井宿
〈石橋宿〉
・人口414人、家数79軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒
・上町、下町、下石橋と町が続き当時は繁盛していたが今は車の往来が激しいのみ
・宿役を努めていた伊沢諸氏はその昔多功城没落時に土着し百姓となった旧家である

 
「伊沢家本陣跡」~現「伊沢家茶舗」。代々「新右衛門」を襲名し、名主を兼ねた。


「伊沢家脇本陣跡」~現「伊沢写真館」。代々「八右衛門」を名乗った。


 雀宮宿の中心地


雀宮宿を抜けて、国道4号を進むと、再び旧道に入る。
ここは「笹原旧道」という名前が付いていた。2km以上の直線道だった。


 出口に建つ「大越家の蔵」。この辺りで立派な屋敷の表札を見ると大越姓が多かった。
 国道へ抜けると、小金井宿に宿へと入っていく。

小金井宿~新田宿
〈小金井宿〉
・人口767人、家数165軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒
・宿の西にあった池から黄金がとれたの伝えから小金井村と言われ宿名となった
・宿駅となったのは遅く(1681年)、宿内は日光側を上として上中下の3構成


 宿場の中心地手前にに建つ、崩れかかった幕末の建築の2軒の商家。


 「大越本陣跡」~本陣門を残している。


 「領主陣屋跡」~現「橘屋菅井製菓」


 「小金井の一里塚」~国道からすぐの所に当時のままの姿で残っている。当時の道幅を知ることができる。

新田宿~小山宿
〈新田宿〉
・人口244人、家数59軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒
・その昔は芋柄新田と言われていたが宿駅となり新田宿となった
・宿の入口は日光山、赤城山などが見え眺望よしと言われていたが今は眺望悪し


 新田宿は宿場の面影を大切にしているようで、ご苦労様の両側に宿場ばくの名を刻んだ石造りの灯篭を立てている。それには「日光街道」と刻んである(左)。
 また、「奥州街道」と書かれた標識もあった(右)。


 「幕府代官陣屋跡」の標識だけが設置されていた。

 「青木本陣跡」~本陣門(四脚門)を残している。


 宿場の中心地を抜けると、交差点の国道の横から斜めに旧道が続いていた。


 道幅の狭い旧道。その先は東北新幹線と東北本線の横を進む。
 やがて出たところは、国道4号ではなく、県道265号を小山宿へ向かう。


 「喜沢の一里塚」~西塚は原型を留めているが、東塚は痕跡のみ。


 やがて、小山駅前の小山宿の中心地へ入って行く。
 ホテルのそばに食堂もコンビニも無さそうなので、コンビニで弁当とサラダとビールを買う。
 16:05、ホテルの入口の交差点を今日のゴールとして、近くのビジネス・グランドシティに入った。
 ビジネスホテルで3000円も珍しい。確かに古いが、寝るのには申し分ない。助かる。
コメント

日光街道歩き旅〈1日目〉東照宮~1鉢石宿~徳次郎宿(30km)7時間25 分

2019年11月04日 | 登山・旅行
    

 いよいよ五街道の1つ日光街道歩き旅の始まりである。
 奥州街道も「北から歩く人は非常に珍しい」とあちこちで言われた。
 ここも、東照宮から江戸を目指すことになる。これもかなり珍しいはずだ。
 日光街道はそもそも東照宮詣でで歩かれることが目的の道だからである。日光街道については、10/30の記事を参照されたい。
 しかし、宇都宮から江戸までは奥州街道と重複するので、その間は参勤交代の大名も通っている。
 
 日光街道の計画は後半の方がきつくなっているので、1日増やすことにして、調整しながら歩くことにした。
 今日は15時をメドに街道のバス停で切り上げて、宇都宮駅まで戻ることにした。

 JR宇都宮駅発5:57の日光行きの電車に乗った。さらにバスに乗り換えてスタート地点の東照宮まで移動。
 
 今日はこれまでで一番寒い日だった。ウィンドウブレーカーを来たままでも汗を掻かなかった。
 連泊となるホテルに不要な荷物を預けて歩くことができた。

東照宮~1鉢石宿

〈日光東照宮〉
 栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが比較的多い。

 日光街道は、鉢石宿の日光橋が終点だが、せっかくなので、東照宮をスタート地点とした。



 7:20、東照宮は過去に2度訪れていて、中も拝観しているし、まだ営業前の時間なので、今回は写真だけ撮ってスタート。


「神橋(しんきょう)」
 奈良時代の末に、神秘的な伝承によって架けられたこの橋は神聖な橋として尊ばれ、寛永13年に現在のような神橋に造り替えられてから。
 もっぱら神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用された。橋手前に「下乗石」があり、将軍もそこで駕籠から降りて、徒歩で日光山内へ入った。
 一般の通行はすぐ下流に日光橋を架けて通行することとなった。
 山間の峡谷に用いられた「はね橋」の形式としては我国唯一の古橋であり、日本三大奇橋(山口県錦帯橋、山梨県猿橋)の1つに数えられている。

鉢石宿~今市宿
〈鉢石宿〉
・人口985人、家数227軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠19軒
※この記録は、このあとも天保14年(1843年)の日光道中宿村大概帳による
・芝田善平の宅地に鉢を伏せたような石があることから鉢石村と呼ばれていた
・戊辰戦争の時には官軍の板垣退助と幕府軍の大鳥圭介が話し合って日光を戦火から守った


 日光街道の終点となる日光橋を渡ると、左側に「板垣退助像」が立っている。
 総督府参謀の板垣退助は日光廟に立て籠った大鳥圭介等の旧幕府軍を説得し、日光山内を兵火から守った。その功績を讃える像なのであろう。
 大鳥圭介らも旧幕府軍の象徴でもある東照宮は守りたかったので、説得に応じたそうだ。


 その隣に建つ大きな土産店は国指定の重要有形文化財である。 


 鉢石宿の地名の由来となっている「鉢を伏せたような石」


 土産店が並ぶ中を下っていくと、宿場の中心地となる。
 右の現「さんフィールド」は、「高野本陣跡」


 右の現「手打ちそば魚要」は、「入江本陣跡」


 町並みが切れると、日光街道の象徴とも言える「松並木街道」が続く。このように国道119号として車が通っているのは初めのうちだけである。


このような古道然として残っているところもある。


 しかし、国道119号が並走する感じで、このような旧道として残っているところがほとんどである。
 この画像は石畳だが、未舗装のところや舗装されているところも多い。
 途中の集落や今市宿や大沢宿で切れることはあるが、延々と15km以上も続く。
 初めのうちは感激していたが、だんだん飽きて来て、途切れるとホッとするくらいだった。

今市宿~大沢宿

〈今市宿〉
・人口1122人、家数236軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒
・日光道中、例幣使街道、会津西街道の合流地点であり玄関口として賑わってきた
・今村は宿駅となってから賑わい市が立つようになると今市と改めた。


 この現「今市宿緑ひろば」が「脇本陣跡」


 今市宿の中心地だった現市街地


 この道の駅「日光街道ニコニコ本陣」の向かい側に「高橋本陣跡」があった。
 後ろの建物は「船村徹記念館」~出身は隣の塩谷町だが、旧制の今市中学校に通ったことが縁らしい。


 今市宿を抜けると、再び杉並木街道となる。


 杉並木の中にある「七本桜の一里塚」~両塚が現存する。塚には杉を植えるのがこの街道の特色。江戸から33里目


 そのすぐ先にある「さくら杉」~杉の幹の1.5mほどから山桜が寄生している珍しい現象。


 森友の集落で杉並木は切れるが、再び続く。


 「水無の一里塚」~江戸から32里目。「特別史跡、特別記念物」に指定されている。


 杉並木を抜けると大沢宿へと入っていく。

大沢宿~徳次郎宿

〈大沢宿〉
・人口278人、家数43軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒
・1617年日光御鎮座の後、街道が開け大沢村改め大沢宿となる


 大沢宿の中心地の交差点。この先を左に入っていく。ガイドブックにも本陣跡にも脇本陣跡にも触れていない。


 再び、杉並木に入っていく。結果的にここが最後だった。


 杉並木の最後に立っている「並木寄進碑」
 徳川家康、秀忠、家光の3代に仕えた武州川越藩主松平正綱が寛永2年(1625年)から約20年の歳月を掛けて杉並木を植栽し、家康33回忌に東照宮に寄進した…と記されている。
 この杉並木の壮大な歴史を初めて知ることができた。


 「石那田堰」~二宮尊徳の指導で堰が築かれ、用水が引かれた。
 右に二宮金次郎像、石祠、記念碑がある。


 「石那田の一里塚」~北塚を残している。江戸から30里目。
 やがて、徳次郎宿へと入っていく。

徳次郎宿

〈徳次郎(とくじら)宿〉
・人口653人、家数168軒、本陣2軒、仮本陣1軒、脇本陣3軒、仮脇本陣1軒、旅籠72軒
・下徳次郎、中徳次郎、上徳次郎の三宿を合わせて徳次郎宿といわれる
・日光・久次郎村より移住してきたことから外久次郎村、または遠久次郎村といわれていた
・新田徳次郎なる者が居住していたことから徳次郎の文字となる
・当初は上徳次郎村だけだったが、中徳次郎、下徳次郎、その他の村ができ徳次郎六郷となる


 上徳次郎に建つ、すべてが大谷石で造られている屋敷。


 中徳次郎の交差点。ガイドブックにもこの徳次郎宿の本陣跡も脇本陣跡も触れられていない。


 14:45、今日のゴールとした下徳次郎のバス停「宮里小学校前」。
 ここが徳次郎宿の南口とのことで、町並みを振り返る。

 5分もしないうちに宇都宮駅行きのバスがやって来た。
 連泊となるホテルに戻り、先ずは同じ建物の中にあるコインランドリーで洗濯をしながら、風呂に入り、ブログを打つ。

 昨夜の夕食と今日の朝食は、昨日Ka女史からの差し入れで十分間に合った。
 昼食は途中で野菜ラーメンを食べた。夕食はこれから宇都宮餃子を食べに出る。
 一番食べたかったもちもち感が売りの餃天堂駅前店は、夜の寒空に20以上が並んでいたのて、諦めて隣の典満餃子に入った。
 
 左上・揚げ餃子と生ビール、右上・焼き餃子、左下・ネギまぎれ揚げ餃子、右下・水餃子。
 一通りたべて、さらに焼き餃子一皿追加で仕上げ。十分美味しかった。考えてみたら30個も食べたことになる。
 しかし。外に出たら、餃天堂にはまだ20人以上が並んでいた。きっと美味しいんだろう、ちょっと心残り。
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奥州街道(奥州道中)歩き旅〈3日目〉91喜連川宿~94宇都宮宿(28km)6時間00分

2019年11月03日 | 登山・旅行
 昨日のブログは、早朝には画像のアップロードもできて、5時過ぎに完成させることができた。

 昨夜に栃木県佐野市在住の岳友Ka女史から電話があり、「どこかでお昼をご一緒したい」とのこと。
 これまでの歩き旅でも、何度もわざわざ駆け付けて差し入れ等をいただいている。
 できればゴール後にしたかったので、白沢宿でこちらから電話を入れて、時間と場所を決めることにした。
 結局、13時に東武宇都宮駅で待ち合わせることになった。

 宿の朝食は6時に用意していただいたので、6:20にスタートすることができた。
 今日は曇りがちの天気で、暑くもなく歩きやすかった。距離も短いので高速ウォーキングに徹した。
 ちょうど6時間で、宇都宮宿の日光街道との分岐まで歩くことができ、一応の奥州道中の区切りとすることができた。

喜連川宿~氏家宿

 
 宿を出て、街道に戻る途中で目にした「寒竹囲いの家並み」があったた。
 6代藩主喜連川茂氏は傷みやすい板塀から周辺に自生する寒竹の垣根を奨励した名残である。

 昨日のゴールとなった荒川に架かる連城橋を渡って、次の氏家宿を目指した。
 橋を渡って堤防の上の道を少し上流に進む。


 堤防から南に延びる狭い街道の面影を残す家並みの道を進む。


 その先は、車道から別れて、山の中へと入っていく。そこには、「奥州街道(古道)」の標識が立っていた。
 600mほどだが、簡易舗装のされている古道歩きを楽しんだ。


 「弥五郎坂」を下る。江戸からはずっと平地で、ここが最初の上り坂だったようだ。


 「勝田の一里塚」~「坂本宅」の敷地内に南塚が現存。江戸より32里目。
 このあとは、しばらく特に見るべきものもない田園地帯の国道293号を進む。

氏家宿~白沢宿

〈氏家宿〉
・人口879人、家数235軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒
・宇都宮氏没落により家臣の平石氏、桶川氏などが氏家に住みつき後に宿を形成した
・江戸と奥州の物資の集散地として、また水戸から海魚も届き宿として繁昌した


宿場へ入っていくと、一番先に目につく「瀧澤家住宅」~紡績業で材を成した旧家。明治天皇の休憩所にもなった。


 宿場の中心地。両側に脇本陣が向かい合って建っていたという。
 左の現村上自転車商会は「村上脇本陣跡」、その向かいの現鳥山信用金庫は「石井脇本陣跡」


 現平石歯科は「平石本陣跡」~当時の氏家村の名主を兼ねた。


 宿場を抜けた大谷街道との追分道標(左から2本目)には、「右江戸海道 左水戸かさま下だて 下づま」と刻まれている。
 左端の馬頭観世音は天保9年(1839年)建立。ここには氏家宿の南木戸があり、番屋があった。


 やがて、鬼怒川に架かる阿久津大橋を渡る。橋の500mほど下流に渡し場があった。
 この度の台風19号の大雨で川幅いっぱいに流れた痕跡が生々しい。


 橋を渡り、堤防の道を進みられる、川の方へ下りていく砂利道を進むと、河畔に「鬼怒川の渡し跡」の標識あり。


 再び堤防の道を進み、右へ続く道を進む。


 「白沢の一里塚」~元々は渡船場の近くにあったが、度々の洪水で流されたので、ここに移設し保存されている。
 
 この先で左折すると、白沢宿へと入っていく。

白沢宿~宇都宮宿
 
〈白沢宿〉
・人口369人、家数71軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠13軒
・会津の上杉を討つ徳川勢先陣の鬼怒川渡河に協力した功績から宿駅が許された


 白沢宿へ入っていくと、両側に用水路が流れ、所々に小さな水車が回っているきれいな町並みである。


 左の現白沢駐在所は「番所跡」で、右奥の白い門柱の立つ家は「宇賀地本陣跡」
 本陣跡のお宅には秋田藩、盛岡藩、大田原藩の関札等を残しているという。


 「住吉屋跡」~蔵一棟は明治28年の建築。


 非常に珍しい江戸時代の「公衆便所跡」。地中の構造は当時のもの。田畑の肥料にした。

 このあとは、ほぼまっすぐな白沢街道と呼ばれる国道125号をひたすら歩く。


 途中の道ばたで初めて目にしたカラスウリ

 宇都宮市街地に近づくに連れて、近代的な建物が増え、交通量も多くなる。


 近代的な建物の並びの中にひときわ目立つ「岩淵家屋敷門」。豪農であったらしい。


 JR宇都宮駅前角のビルの谷間に場違いな感じで?残る「旧篠原家住宅」。
 篠原家は戦後まで醤油醸造業、肥料業を営んだ。
 嘉永4年(1851年)築の石蔵や明治28年(1895年)築の店舗は国指定重要文化財。


 やがて、大きな通りから狭いオリオン通りというアーケード街の中を通る。道幅に街道の面影を感じる。

宇都宮宿
・人口6457人、家数1219軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒
・下野国第一の都会と言われていた宿場があり、不動城と言われた宇都宮城かあった
・二荒山神社が下野国「一の宮」と言われていたことから訛って宇都宮となった説などがある


 やがて、メインストリートに出る。この辺りが宇都宮宿の中心地だったようだ。
 宿場の面影は微塵もないが、歩道に江戸時代の地名や町並みの標識があり、当時の絵が描かれている。


 「本陣跡」の標識。向かいの道が日光街道となる。
 この辺りに建坪192坪強で、門構えの玄関付きであったという。
 問屋を兼ねた貫目改所が置かれたらしい。
 今でも庭木の大イチョウを残しているらしいが、あとで知ったので気付かなかった。

 12:20、ここを奥州道中の仮のゴールとし、Ka女史との待ち合わせ場所の東武宇都宮駅西口へ行く。
 運転手兼務で息子さんも一緒だった。息子さんとも会うのはこれが3回目である。


 車で移動して、有名な豆腐専門料亭「月山」へ案内していただいた。
 今まで食べたことのない豪華な「湯葉と豆腐のコース料理」をご馳走になった。恐縮至極。






 その後、是非との勧めで、ブラタモリで取り上げられていた大谷石(おおやいし)の採掘場とそこに立つ巨体な平和観音像へ案内していただいた。
 今日の歩き旅の道中にも白い石の蔵や建物が多く目についたが、すべてこの大谷石だったことが判明。

 このあとは、今日のカプセルホテル・パークプラザ宇都宮まで送っていただいた。お土産もたくさんいただいた。
 
 今日の宿は明日も連泊するが、2泊で5,810円だった。
 明日は、電車で日光へ移動して、日光街道を宇都宮まで歩く予定だが、どうも無理な感じた。
 途中から宇都宮まで移動できる交通手段をこれから探さなくてはならない。
コメント

奥州街道(奥州道中)歩き旅〈2日目〉88鍋掛宿~91喜連川宿(33km)7時間35分 分

2019年11月02日 | 登山・旅行
 朝から快晴に恵まれ、絶好の歩き旅日和だった。
 黒磯駅から昨日のゴールの鍋掛十文字に戻るバスの始発が8:45である。
 仕方ないので、それに合わせて計画段階で歩く距離も短くした。
 昨日の夕食が遅かったので朝食は食べずに、西那須野駅発8:20の電車に乗った。


 黒磯で可愛いバスに乗り換えて、9:14に鍋掛十文字に着いた。バスは公営バスのようで、距離に関係なく200円。JRは240円。
 こんなに遅いスタートは、これまでの歩き旅で初めてだ。しかし、距離が短くしたので余裕のはずだった。

 ところが、昼食タイムのときに、計画の中に佐久山宿が入っていないことに気付いた。大田原宿から約8kmが抜けていた。
 悪いことは続くもので、大田原宿を抜けるときに交差点で道を間違えて、別の方へ進んでしまった。
 結局2.5kmほど余計に歩いてしまった。それでも、なんとか明るいうちに宿に入ることができた。

 今日から3連休で天気も良かったせいか、反対側から歩いてくる奥州街道歩きの人に5組6人に会った。
同じガイド本を持っている人もいて、その本をお互いにかざして挨拶をした。
 
88鍋掛宿~89大田原宿

 9:15、鍋掛十文字をスタート。すでに宿場の中心街は過ぎていた。ひたすら県道72号を進む。


 「鍋掛の一里塚」~もとは愛宕峠の頂上付近にあったが、道路改修によって、両塚が消滅。
 北塚が鍋掛神社の擁壁の上に復元されている。江戸から40里目。


 今日は、右手に三百名山巡りで登った那須岳(上)の高原山(下)を眺めながらの歩きだった。


 「中田原の一里塚」~西塚だけ残している。道路拡張で1.5m後方に移設されている江戸から38里目。


 「与一みそ那須の風味」の醸造元の「岩上商店」

 
 蛇尾川に架かる蛇尾橋。当時は橋が流失すると人による「渡渉渡し」となり、天保3年(1832年)から船渡しとなった。
 この橋を越えると、大田原宿に入っていく。

89大田原宿~90佐久山宿
〈大田原宿〉
・人口1428人、家数245軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒
※この記録は、昨日も明日もすべて、天保14年(1843年)の奥州道中宿村大概帳による。
・室町時代にこの地を支配していた大俵(たいひょう)氏が前室山に城を築き本拠とした
・この時、姓を大田原氏と改め、前室の地名も大田原に改めた


 大田原市の市街地に入っていくと、大きな交差点に立つ「金灯籠」が目を引く。
 文政3年(1819年)鋳造の灯籠は戦時中に供出され、現在のものは昭和54年に鋳造されたもの。
 台座は当時のもので「江戸」「白川」と刻まれ、「塩原道」との追分道標でもあった。


 宿場の中心街に設置されている「幸矢の与一像」

 
 宿場の現在の商店街。宿場の面影を残すものはない。


 何度も行ったり来たりして、ようやく見つけた「本陣・問屋・高札場跡」のちいさな説明板

 
 昼食に中華料理店で食べたお得な日替わりランチ(700円)。この時、すでに道を間違えていた。
 20分ほど歩いてから、正規の県道48号に戻って、佐久山宿を目指す。

 
 途中の親園地区にある「与一の里名木選 国井宅の赤マツ」~樹齢約束200年。
 この地区は、塀を回した大きくて立派なお屋敷が並んでいた。


 箒川に架かる岩井橋~渡渉渡しであったが、のちに箒川土橋が架橋された。
 この橋を渡ると、佐久山宿へと入っていく。
 
90佐久山宿~91喜連川宿

・人口473人、家数121軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒
・この地は那須与一で有名な那須氏発祥の地である
・同族の福原氏に攻められて滅亡し城は廃城、その後福原氏の居城となる


 橋を越えてまもなく現れる「島崎酒造」~天明5年(1718年)創業。銘酒「友白髪」の蔵元。

 
 「御本陣井上勘左衛門跡」~標識がないので薬局で教えてもらった。右の平屋が末裔とのこと。


 「御菓子司小島屋」~安政2年(1855年)創業。銘菓「勘兵衛饅頭」の老舗(上)、購入した「勘兵衛饅頭」~こしあん、つぶあん、しろあん各110円。

 このあとは、ひたすら田園地帯の中の県道25号の歩きとなる。


 やがて、南和田地区から、2km弱の珍しい自然道の旧道に入る。
 山の中を抜けるが、掘れていて旧道然としているのがうれしい。


 内川に架かる金竜橋を渡る。常は橋渡しだったが、流失すると蓮台渡しとなった。
 ここを越えると、喜連川宿に入っていく。
 
91喜連川宿

・人口1198人、家数290軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒
・この地は古に狐川と称していたが足利氏藩主となり喜連川に改名した
・喜連川藩足利氏は家康により優遇措置を受けていた


 「旧萬屋」~現「ささや呉服店」創業以来250年の呉服店。


 「本陣跡」~現「街の駅本陣」上野太郎兵衛が勤め、問屋を兼ねていた。
 現在の建物は、大正15年築の旧喜連川警察署。

 
 「脇本陣跡」~現「割烹芳川」。永井家が勤めた。


 「旧旅籠」~現「かぶらぎ時計店」。「旅籠屋山田屋徳平」跡。


 今日のゴール、荒川に架かる「連城橋」。この手前から荒川の堤防の上を10分ほど歩いて16:50、宿に到着。


 今日の宿「民宿ゆもと」(左)と向かいの公営温泉「もとゆ」。宿でもらった札を持参して無料で温泉へ。

 
 2食付きで5500円とは思えないほどの料理に感激。
 どの料理も非常に美味しかった。探せばあるものだ。
コメント

奥州街道(奥州道中)歩き旅〈1日目〉84白河宿~88鍋掛宿(34.2km)8時間05分

2019年11月01日 | 登山・旅行
 いよいよ3回目の奥州街道歩き旅スタート。今回は、幕府直轄の奥州道中が舞台となる。宇都宮から江戸までは日光街道とダブルので、宇都宮宿を奥州街道の仮のゴールとして、日光街道へと繋げたい。

 郡山のカプセルホテルを出て、郡山駅発6:20に乗る。6:55白河駅到着。ここから、今回の歩き旅が始まる。
 白河宿から芦野宿手前までは国道294号歩きだが、所々に旧道と当時からの集落が残っている。
 芦野から今日のゴールの鍋掛宿までは県道72号がメインの歩きだった。
 
 ガイド地図があるお陰で、GPSは距離を計るだけ、スマホの地図も見る必要はなくなった。
 また、見落としも少なくなったが、説明が詳しいので、撮る写真がどうしても多くなる。100枚位にもなっていた。
 ブログには作業の関係で30枚位と決めているので、厳選するのが大変だったし、時間も多く要する。
 泣く泣く削り、宿場中心の写真ばかりとなってしまうのが残念だ。
 その後、ブログ用にリサイズする作業に取り掛かる。
 おまけに、ブログへの画像のアップロードが、なぜか一括でできなくなり、1枚ずつアップロードするために非常に時間が掛かるようになった。

84白河宿~85白坂宿

〈白河宿〉
・人口5959人、家数1285軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒
・徳川幕府の道中奉行の管轄下にあった奥州道中は白河が最終の宿駅であった
・鎌倉時代には結城氏が小峰城を築いて支配していたが秀吉の奥州遠征で滅ぼされる
・徳川幕府は関東の境にあたることから松平定信など各譜代大名を配置した


 7:00、前回見落とした「白河本陣芳賀家跡」。今は堀川印刷所になっている。駅からここまで戻って、改めてスタートした。

 
 皇徳寺の墓地にある「小原庄助の盃形墓石」。盃でなく徳利でない?


 城下町特有の枡形。敵の進攻に備えて鉤型の道にしてある。


 松井薬局~文久年間(1861~64年)創業。
 近代的な商店街に、このような、江戸時代から明治期に建てられた建物が点在している。


 天保元年(1830祢年)創業の味噌醤油醸造店「藤屋」
 

 宿場の出口の松並で左にカーブする。ここには街道の右と左に戊辰戦争の戦死者の碑や墓が立っている。
 白河は、1868年4月末から5月始めにかけて、会津・仙台・棚倉の東北連合軍が攻めてきた薩摩・長州・大垣(美濃国)の官軍を迎え撃った激戦地となった。
 東北連合軍が敗退、小峰城も落城した。
 手前が会津藩士の墓。奥の鎮魂碑には両軍の戦死者304名の名前が刻まれている。
 
 ここの手前にも古戦場跡があり、稲荷山公園となっている。
  
85白坂宿~86芦野宿
〈白坂宿〉
・人口289人、家数71軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒
・雨が降っても傘いらずといわれたほど昔は軒が並んでいた

 宿場町の歴史を大切にした町造りが進められ、案内板等も充実していた。 

 本陣跡の説明板


脇本陣跡の説明板


 宿場の両側に、このような当時の旅籠や店などの屋号が、ずっと連なっている。


 白坂宿の江戸側の入口から街並みを振り返る。


 ここに旅宿道の分岐があり、「白河の関へ7.5km」の案内板(左)と「おくのほそみち」の道標が立っていた。
 芭蕉は、ここから白河の関跡へ向かったそうだ。「白河の関」は奥州街道よりもっと古い東山道の関所。

 白坂宿を抜けて緩い上り坂の峠部分が、当時の陸奥国(白河藩)と下野国(黒羽藩)の境界になっていた。
 今の福島県と栃木県の境界でもあり、長かった東北の歩きから関東に入る。


 「白河二所之関趾」碑。ここに茶屋があった。


 峠を挟んで、「従是北白川領」領界石(左)、今の栃木県那須町の標識(右)


 峠を挟んで建つ「境の明神」。上が下野側の「玉津島明神」、下が陸奥側の「住吉明神」


 山中集落の「明治天皇山中御小休所碑」~鈴木家


 「泉田の一里塚」~西塚だけが残っている。江戸から44里目、下野国
最北端の一里塚。

 
 途中の間の宿・寄居の松本家の屋敷跡。問屋を勤め、寄居西組の名主も兼ねていた。

86芦野宿~87越堀宿

〈芦野宿〉
・人口350人、家数168軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒
・神田明神下の旗本芦野氏の支配下の領地で宿の東側に桜ヶ城があった
・芦野氏は鎌倉時代からの地頭であり那須七騎の一家としてこの地を治めていた

 ここも、宿場の名残を残そうとする街並み造りの意気込みが感じられる。


 宿場の面影を残す芦野宿の街並み


 臼居本陣跡~今は「ストーンプラザ」


 この宿場も当時の旅籠や店などの屋号を設置している。

  
 現鰻料理店。「旅籠丁子屋」跡で八畳二間の「安達家蔵座敷」を残している。

 街道から外れたところにある国指定名勝「遊行柳」に寄るのを忘れてしまった。気づいた時には戻るのが大儀な距離だった。
 時宗開祖の遊行(一遍)上人の使い古した柳の杖が根付き芽吹いたという。西行、芭蕉、蕪村の句碑がある。

 芦野宿と越堀宿の間は、やけにアップダウンが多いと思ったら、当時は「二十三坂七曲り」と呼ばれる難所だったそうだ。

 「寺子の一里塚」~公園内に復元されている。江戸から41里目。

87越堀宿~88鍋掛宿

〈越堀宿〉
・人口569人、家数113軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒
・1646年、奥州道中の他の宿駅よりもかなり遅く解説された
・参勤交代で仙台藩の伊達候が那珂川の川留めに遭って小屋を建てたのが宿場の始まり


 越堀宿へ入っていく。


 越堀宿の北口に立つ「此の地奥州街道越堀宿枡形の碑」。枡形の痕跡を残している。


 本陣跡。現「町田屋商店」~「御本陣藤田平治次」跡。建坪は117坪だった。


 昭明橋の上から那珂川を眺める。この橋の下に渡し場があった。

88鍋掛宿

〈鍋掛宿〉
・人口346人、家数68軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠23軒
・1600年、上杉征討の徳川軍の先鋒、水谷勝俊らが鍋掛に陣したとの記録がある
・難所那珂川を控え、越堀宿と二宿で一宿の機能を果たした。川留めのときには大いに賑わった。

 越堀宿からわずか1.1kmしか離れていない。
 宿場の面影を残すものは何もない。今でも小さな集落である。


 鍋掛宿の入口


 八坂神社。境内に芭蕉の句碑がある。この辺りが宿場の中心だったようだ。


 15:05、今日のゴール、鍋掛十文字バス停。このあとバスに乗り、黒磯駅から西那須野駅まで移動。


 16:30、今日の宿、ホテル和島屋に到着。素泊まり5170円。大浴場があり、広い和室で気持ちが良い。
 
 今日の朝食はコンビニでコーヒーとカップラーメン、昼食は芦野宿の入口の食堂でチャーハン、夕食はこれから近くのコンビニへ。
 20:40、いろいろ手間取ってようやくブログアップ完了。
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奥州街道(奥州道中)歩き旅〈移動日〉・郡山まで

2019年10月31日 | 登山・旅行
 今回の奥州街道歩き旅のスタートは福島県の白河宿である。今日は、その少し手前の郡山まで移動し、明朝1番の電車で白河まで行く計画である。
 新幹線で函館から新白河まで行けば、4時間半ほどで到着できるが、料金が2万円を超える。
 いつも通り、いろいろな乗り物を乗り継いで、安上がりなのんびり旅を楽しむことにする。


 まずは、函館発4:30の青函フェリー(1460円)に乗り、青森へ。
 家から歩くつもりだったが、途中からフェリーターミナルまでは、街灯もなく真っ暗で、妻が心配するのでタクシーを利用した。

 青森に8:30に到着。ターミナルから青森駅までのんびり歩く。


 遅い朝食は、朝7時から営業している青森駅前の「長尾」の津軽煮干し中華そば。


 「こく煮干し」~一番味が濃くて、好きな太麺。最近これにはまっていて青森では必ず食べている。
 

 メニューと〆のこばん(無料)に残りの汁をかけて食べる。これまた美味い。


 青森駅前発10:30の仙台行きの高速バス「ブルーシティ号」(5100円)に乗る。チケットは予約して、予めローソンで購入。
 途中、花輪と前沢のPAでトイレ休憩。仙台に15:20に到着。


 いつも妻が「仙台へ行ったら牛たん定食食べてみて」と言われていたが、ようやく念願がなかった。
 仙台駅の中にある有名店の喜助。空いている時間だったので助かった。早目の夕食にした。


 3枚6切れの牛たん定食。やはり美味しい。


 駅の中にあった牛たん発祥の地の絵


 仙台駅16:06のJR・快速に乗る。福島から各駅停車になる。18:12郡山到着。2310円


 今日中に白河までも行けるが、前回の最後に3連泊した郡山駅前のカプセルホテル・ワッズに泊ったほうが安く済む。
 じゃらんのポイントを使って2300円だった。
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