癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

念願の初入店「カルフォルニアベイビー」

2021年01月18日 | レトロ建築・古民家カフェ

 赤レンガ倉庫群から石畳の道を函館山方向に歩いた突き当たりにある、函館のカフェ文化の先駆け的存在の「カリフォルニアベイビー」。
 
 1976(昭和51)年に、1917年(大正6年)築の郵便局の建物を改装して始められた、今流行りの古民家カフェの先駆けでもあり、100年以上を経過している建物でもある。
 
 すでに、40年以上にわたって地元で愛されつづけていて、愛称は「カリベビ」。妻も中学生時代から入っているというが、自分は、まだ一度も入ったことがなかった。前日の「はこだて週末冬花火」を観る前に、妻に付き合ってもらい、念願の初入店となった。

 入店したときはたまたま他の客はいなかったが、テレビや映画のロケスポットに使われたことなどもあり、観光名所としても有名。天井が高く、落とし気味の照明の店内は、アメリカ好きのオーナーの趣味が反映されていて、アメリカ西海岸の港町にある店にいるような気分を醸しているという。

 使い込まれたテーブルやイス、木の床のきしむ音などにも歴史を感じる。

 ここに入ったら是非食べたいと思っていた、開業以来の人気メニュー・・・函館出身のGLAYなど芸能人のおすすめメニューでもある「シスコライス(800円+税)」。

 山盛りのバターライスにグリルしたソーセージがのり、その上からたっぷりとミートソースがかかったボリューム満点のメニュー。

  あまりのボリュームに、初めは完食できるかと不安になったが、あっさりめのバターライスとミートソースのバランスが良く、最後まで美味しく食べることができた。

 食事をした場合、250円で飲めるコーヒーも美味しかった。


産業遺産探訪~大沼第一・第二・第三発電所

2020年08月04日 | レトロ建築・古民家カフェ

 昔、この3つの大沼発電所があったことは知っていたが、その場所が分からなかった。この度、場所が分かったので、一昨日の午後にカメラに収めに行ってきた。

 大沼発電所となっているが、すべては鹿部町に存在する。第一発電所と第二発電所は大沼から流れ出る折戸川の水を利用しているが、第三発電所は大沼とは関係のない鹿部川の水を利用している。

 いずれも、明治39(1906)年に設立された渡島水電株式会社<明治41(1908)年12月に函館水電株式会社と社名を変更>によって建設され、昭和40年に峠下に大沼の水を引いた七飯発電所が竣工されるまで、 函館市内や上磯のセメント工場に電力を供給していた。

 なお、この電気を利用した「大沼電鉄」という軌道路線もあった。昭和4(1929)年1月、国鉄大沼駅(現:大沼公園駅)と大沼温泉・鹿部村を連絡する目的で敷設されたが、戦時中の1945年に不要不急線に指定され、同年6月1日の函館本線(砂原支線)の開通と同時に廃止された。戦後の1948年に国鉄銚子口駅にて砂原支線と接続する形で一部の区間が地方鉄道として復活したが、これも1952年に廃止された。

 掲載している往時の古い写真は、『函館水電株式会社写真集』からの又借り(-_-;)

大沼第一発電所

 鹿部町折戸川上流に、明治41(1908)年に完成された、旧大沼第一発電所。土木学会近代土木遺産となっている。この建物は、道道43号線大沼公園鹿部線からも見ることができる。

 折戸川の水を利用して、1000kwの出力で発電し、最終的には3000キロワットまで増加した。函館市街地まで電力を供給していた。道内では岩内水電、定山渓水電に次ぐ三番目の水力発電所だった。

 現在は、道南ファームの牧草ロールの倉庫として使用されており、屋根を定期的に葺き替えているとのこと。
 見事な煉瓦造りの建物だが、内部は白い漆喰が明るさを感じさせる。屋根だけは木造で、これは、内部で爆発があった場合に圧力を木造の屋根部分から逃がすためなのだそう。

 往時の姿

 大沼電鉄の車両と第一発電所

 稼働時のタービンが設置されている内部の様子。

 

大沼第二発電所

 第一発電所から少し下流にある第二発電所。こちらも、土木学会近代土木遺産となっている。
 大正3(1914)年にこの大沼第二発電所が竣工、同6(1917)年には大沼市街地にも電気を供給し、大沼にも電灯が灯るようになった。出力は900kwだったそうだ。

 現在は、この敷地は、水産会社の資材置き場?に利用されているが、昔は、この内部も漁具や漁網の倉庫として利用されていたらしい。

 

 窓は洒落たデザインになっている。煉瓦は第一も第二もイギリス積みで作られている。フランス積みに比べて、丈夫でコストが低いらしい。

 藪を掻き分けて中に入ってみた。すっかり崩壊した内部の様子だが、足元が悪くて歩き回ることは止めにした。

 往時の姿~この上に水を貯める堰堤があったようだ。

 タービンが設置された内部の様子

 折戸川にこのような堰堤が造られて、水を引き込んでいたようだ。

 

大沼第三発電所

 大正8(1919)年、運転開始された大沼第三発電所。出力は800kw。こちらは鹿部川沿いの、鹿部変電所裏側に現存している。

 中央部に見える塔型構造物の中が空洞になっており、後方の山から水を直接落下させてタービンを回した。他の2ヶ所に比べてかなり異色の建物である。

 近くまで寄ってみたが、これ以上中へ入る気はしなかった。

 ツタや木々で覆われているが、この陰が建物のレンガ壁らしい。晩秋にでも行けば見えるかもしれない。

 往時の姿。

 橋の右奥に第三発電所が見える。走っている電車は大沼電鉄の車両。


函館レトロ建築探訪(その12)~船見町界隈の「景観形成指定建築物」

2020年07月04日 | レトロ建築・古民家カフェ

 西部地区のレトロ建築探訪は、これで最終回です。お付き合いありがとうございました。

伴田米穀店(弁天町6-11)<大正5年(1915年)築>

 大正期に建てられた病院兼住宅で、現在は米穀店兼住宅として利用されている。外観は,下見板張りにペンキの塗装が施され、屋根下に胴蛇腹を廻し、窓はペディメント付きの窓枠で上げ下げ窓、正面玄関には洋風の切妻屋根を設けるなど、洋風で統一されている。

 

山内家住宅(船見町9-9)<大正11年(1922年)築>

 常盤坂を上った角地に建つ住宅で,当初は網元の居宅として建てられたもの。

 外壁は下見板張りで、1階部分は出窓、2階部分は縦長の上げ下げ窓で、建物全体は洋風でまとめられているが、正面の1階部分だけは和風の出格子窓となっていて、上下和洋折衷様式を取り入れています。また門柱や塀にも和風の要素が見られる。2階の上げ下げ窓や1階の出窓には井型の桟割が見られ、大正期らしい雰囲気をかもし出している。

 

旧ロシア領事館(船見町17-3)<明治41年(1908年)築>

 幸坂の幅員が狭くなり、上り坂の勾配がさらに急になるところの右手に建つ。1964年に函館市が購入、「函館市立道南青年の家」となったが、1996年で廃止。現在は売却が検討されている。

 赤煉瓦の外壁に、2階部分では縦横の太い縁取り、玄関部では隅石風に白漆喰(しっくい)が施され、赤と白のコントラストが印象的な建物となっている。坂側にある玄関には、寺院風の唐破風や組物を見せる柱頭などが取り入れられ、これら和風意匠との組み合わせが独特の雰囲気を持っている。屋根は、当初は瓦葺であったものが、現在は、鉄板葺になっている。

 日本とロシアの国交は、安政元年(1854年)に始まり、安政5年には初代領事のゴスケヴィッチが着任している。この建物は、昭和20年までは領事館として使われていた。

◎過去記事~「旧ロシア領事館内部見学会」(2013,9,28)※一階部分だけですが、内部の様子が見られます。

 

山上大神宮(船見町15-1)<昭和5年(1930年)築>

 幸坂を上り詰めたところにある神社で、景観形成指定建築物等の中では唯一の神社建築である。銅板葺きの神社建築で、棟梁只木実條によって昭和5年に竣工。

 神社の草創は、函館の街が形成され始めた17世紀末までさかのぼるといわれ、当時は神明宮と称した。その後,当時の境内があった山之上町にちなみ、山上大神宮と名称を変更し、さらに1882年現在地に移転している。

 

東本願寺函館別院船見支院(船見町18-20)<大正15年(1926年)築>

 船見町の一角の同じ通りに3つの寺院が建ち並ぶが、その東側の寺院。木造平屋建て。境内には、木造の水盤舎、石造の預骨堂がある。

 この辺りは、寺域が接する高龍寺と共に、立ち並ぶ寺院群で、寺町とも呼ばれている。3寺の本堂の屋根が重なり合う姿は、弥生坂の途中から望見できるが、異国情緒豊かなこの地域のなかで、趣の異なる風景となっている。

 

実行寺(船見町18-18)<大正7年(1918年)築>  

 3つの真ん中に建つ寺院。入母屋瓦葺の土蔵造の寺院。正面に唐破風の向背を見せている。

 

称名寺(船見町18-14)<昭和4年(1929年)築>   

 3つの寺院の西端に建つ寺院。市内では、東本願寺函館別院に次ぐ鉄筋コンクリート造の寺院。

 これらの3つの寺は富岡町(現弥生町)にあったものだが、明治12年の大火後の街区改正に伴い、現在地に移転されたもので、その後、明治40年の大火にも見舞われ、現存しているのはその後に建てられたものである。

 

高龍寺・本堂(船見町21-1~3)<明治33年(1900年)築>

 国登録有形文化財(平成24年登録)で、本堂をはじめ諸堂がコの字型に配置された伽藍が整い、船見町寺町を代表する寺院となっている。

 開基は、寛永10年(1633年)とされ、現在地には明治12年に移転している。寺院内には、明治後半から昭和初期の建物が数多く残され、本堂をはじめ9件が景観形成指定建築物等に指定されている。

 本堂は,入母屋瓦葺屋根とその下に裳階(もこし:庇状の部分)が正面から側面にかけてまわされている。総ケヤキ造りで、越後衆の工人達によって竣工。

 

高龍寺・山門(船見町21-1)<明治43年(1910年)築>   

 国登録有形文化財(平成24年登録)で、山門は、前後に4本の柱を立てる八脚門で、入母屋瓦葺の屋根をかけ、装飾性が豊かで非常に複雑な飾り彫刻が随所に施されている。

 

高龍寺(そのほかの国登録有形文化財・景観形成指定建築物)

(左上)金比羅堂<大正4年>、(右上)水盤舎<大正4年>、(左下)位牌堂<昭和8年>、(右下)開山堂<明治32年>

(左上)宝蔵<大正5年>、(右上)鐘楼<大正11年>、(下)袖垣・防火壁<明治43年>

 

ティーショップ夕日(旧函館検疫所台町措置場)(船見町25-18)<明治18年(1885年))築>

 外人墓地の奥に、函館港の北側を向いて建っている。明治18年(1885年)内務省の決定により、当時の主要6港(函館、横浜、神戸、下関、長崎、新潟)に常設の消毒所が建設されたが、この建物は消毒所の事務所として建設されたものである。

 

 9間×6間の木造平屋建ての建物で、軒先に蛇腹を廻し、妻面や背面の上げ下げ窓は両開きの鎧戸を付け、笠木のみで窓台を持たない単純な額縁形式で、初期洋風建築の様式を伝えている。

 正面入口両側には廊下を下屋として付設し、両端に戸袋を付けたガラス戸を建て込んで、在来の縁側的な処理が見られる。建物の性格上、装飾性の少ない建物だが、全国的に数少ない初期港湾施設の遺構といえる。

 過去記事~古民家カフェ「ティーショップ夕日」(2019,9,20)※内部のようすをどうぞ!

 西部地区の「レトロ建築探訪シリーズ」はこれで終了しますが、下記過去記事もどうぞ! 

 過去記事~「青柳町建物探訪」(2017,10,17)

 過去記事~「古い建物ウォーキング」2013,5,7)


函館レトロ建築探訪(その11)~バス通り付近の「景観形成指定建築物」ほか

2020年06月18日 | レトロ建築・古民家カフェ

 今日は朝から雨模様だったので、このシリーズに取り組んだ。あと残りは、今回と次回で終わりとなる。今回は、船見町とこれまで取り上げた以外の弁天町は次回に残して、バス通り付近の元町・弥生町・大町の「景観形成指定建築物」を中心に紹介したい。

◎プレーリーハウス(旧佐田邸)(元町32-10)<昭和3年(1928年)築>

 元町の日和坂(ひよりざか)の小路の奥にたたずむ歴史的な洋風建築で、「伝統的建造物保存群地区」からわずかに外れたところにある「国登録有形文化財(平成12年登録)」でもある。函館の海産商だった佐田作郎の住居として建てられたもので、その後、すぐに同じ海産商の小熊家の住宅として長く使われた。

 アメリカの著名な建築家F.L.ライトの弟子であり,北海道の自営建築家の先駆けとして知られる田上義也の代表作の一つ。幾何学的モチーフの門扉や窓のサッシ割りなどが斬新で,昭和初期のモダン住宅の雰囲気を伝える逸品となっている。

 数年前は、『日和茶房( ひわさぼう)』としてオープンしていて、その頃に訪問したことはあるが、現在は閉鎖されている。

 過去記事~日和茶房(プレーリーハウス)(2013,9,13) ※現在は見ることができない内部の様子をどうぞ!

 

◎日本基督教団函館教会(旧日本メゾシスト函館教会)(元町31-19)<昭和6年(1931年)築>

 バス通りに面した昭和初期の教会。明治19年、本教会の前身函館美以教会として、現在地に教会堂が建築されたが、大正10年の大火で焼失し、その後燃えない会堂を目指してコンクリート造りで建設された。

 尖頭アーチの窓や塔屋正面の多葉飾りなどヨーロッパ中世のゴシック様式を意識したデザインは、この会堂の建設に携わった建築家萩原惇正が得意としたもので、この建物の他にも北海道大学構内の理学部や農学部など中世スタイルの建築を残している。

 

◎函館市立弥生小学校(弥生町4-16)<昭和13年(1938年)築/平成23年(2011年)改築>

 昭和9年(1934年)の大火後の復興都市計画の一環として耐火構造の小学校が6校建てられたが、その中では最後に建てられたもの。

 コの字型に校舎を建て,校舎に囲まれるように中央にグラウンドがある。大火の際、住民の避難所となるよう意図されている。玄関口となっている2カ所の建物角部分を曲面で仕上げているほかは装飾性を排除した,さっぱりとした外観となっている。

 平成23年、校舎の老朽化の進行が著しいことから、復原・新築されている。その際、半円状の玄関とその上の部分は当時のまま残されている。 

 

◎岩崎家住宅店舗(弥生町8-16)<大正13年(1938年)築>

 小規模な町屋で、当初は、間口3間、奥行き5.5間だったが、昭和10年に向かって右側に1.5間の増築を行っている。

 その後、窓廻りに手が加えられ、縦長窓がなくなっていたが、縦長窓を再現するなど平成11年外観改修工事を行い、上下和洋折衷様式に復原を図っている。

 岩崎家の隣に建つ、長屋風の和洋折衷住宅。これにも「景観形成建築物」のプレートが貼られていたような気がする?由緒や歴史は不明。 

 

◎大正湯(弥生町14-9)<昭和3年(1928年)築>

 船見坂を上ると、左手角地にあるピンク色が目立つ、洋風建築の外観を持つ銭湯。この建物は昭和3年の建物だが、創業は1914年(大正3年)と古い。西部地区に多く見られる洋風建築風の外観が印象的で、古いながらも当時のモダンさが偲ばれる外観だピンク色にしたのは終戦後直ぐだそうだ。

 特に間口と高さの均整がとれており、ペディメントをもった屋根などが一体となった、左右対称の正面の姿には美しさが感じられる。左側にある附属棟は、床屋として当初から建てられていたもの。   

 過去記事~レトロ銭湯「大正湯」入浴(2009,9,5)※内部の様子をどうぞ!

 

◎中華会館(大町1-12)<明治43年(1910年)築>

 国登録有形文化財(平成13年登録)にも指定されている、函館における異国風の建物の中でも、ひときわ異彩を放つ、純中国風の建物。建築当初の姿を伝える関帝廟形式の集会所としては、日本唯一のもの。

 函館が開港されて以降、海産物の買い付けのために多くの華僑が函館に渡ってきたが、そうした華僑達の親睦と連帯を図るための施設として建設されたもの。

 木骨煉瓦造で、煉瓦は1枚半積み、目地は出目地にしている。煉瓦の外観と、瓦屋根、壁窓にはめ込まれた透かしの飾りが美しい建物。

 

◎旧小林写真館(大町2-9)<明治40年(1907年)築>

 東坂に面した、現存する写真館としては道内最古と言われる洋風の建物。平成20年に空き家となったが、復原改修を経て、平成21年から新たな写真館(タニスギ写真館)として利用されていた。しかし、今年3月に閉館となっている。

 竣工当時と比べると、2階バルコニーが撤去されて、建物向かって右側に増築された部分があるが、原形がほぼ残されている。

 上げ下げの縦長窓、胴蛇腹、下見板張りなど洋風建築の特徴をもち、また、懸魚風妻飾りがペディメントに付けられ、軒天井と軒蛇腹が一体となってまとめられていることなど、当時の洋館建築に係わった職人達の思いと工夫が感じられ、写真館として栄えた創建当時の函館のハイカラな雰囲気を偲ばせる建物である。

 

◎函館元町ホテル 蔵の宿(大町4-5)<大正元年(1912年)築>

 左側に建つ蔵が「景観形成指定建築物」。度重なる大火の経験もあったためか、地域内では土蔵が数多く残されているが、その中でも比較的良い状態で保存されているもので、漆喰塗りとささら子下見板の組み合わせが美しい建物。現在は「函館元町ホテル 蔵の宿」として利用されている。

 

◎松原家住宅(大町5-2)<明治43年(1910年)築>

 大きな切妻屋根が特徴の京風町家。実際に建築時には京都から大工を呼んだとの話もある。明治時代の建築とは思えないほどの保存状態に、建物の質の高さと、当時の商人(海産商)の隆盛ぶりが垣間見られる。

 様々な意匠の建物が町並みを形成する中で、この純和風建築は一服の清涼感を与えてくれる、貴重な建物。


函館レトロ建築探訪(その10)~十字街から弁天までの市電通りのレトロ建築物

2020年06月11日 | レトロ建築・古民家カフェ

<お知らせ>

夕方に、HTB北海道テレビから連絡があり、先日の捜索の様子が、下記予定で放映されるそうです。
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■放送予定番組
「イチオシ!!」(月ー金・午後3時45分~午後7時※道内ローカル)
※その他HTB・テレビ朝日系列の番組・各種媒体で発信する場合がございます。
■放送予定日
2020年6月12日金曜日
※午後6時15分~午後7時の道内ニュース枠
※事件事故などニュースの状況により変更となる可能性あり
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あらかじめ、録画されておいた方が良いかと・・・?

 今日は久しぶりに雨模様の1日だったので、恵山捜索の件でしばらく中断していたこのシリーズを再開・・・写真はだいぶ前に撮ったものだが、いろいろ調べるのに時間が掛かるので、このような天候の日はありがたい。

 今回は、十字街から弁天までの市電通りの末広町・大町・弁天町のレトロな建築物を紹介したい。 

北斗ビル(旧目貫商店)(末広町17-15)<大正10年(1921年)築>

 明治12年(1879年)に起きた大火を教訓に防火帯として設置された二十間坂下に建つピンク色が特徴のビル。銀座通りに多く見られる鉄筋コンクリートブロック工法。

 もとは外米、砂糖、麦粉を取り扱う目貫商店の自社ビルとして大正10(1921)年に建てられたものである。この年の4月には函館の中心部で大火が発生し、それを機に建てられたのが旧目貫商店のビルだった。(建築物の指定なし)

 一時ホテルとして営業していたこともあるが、現在は1階にはアパレル雑貨ショップが入居しているようだ?

 大正11年の絵葉書に竣工当時の姿が写っている旧目貫商店~屋上にペレットが付いている。

SEC電算センタービル(旧百十三銀行本店)(末広町18-15)<昭和元年(1926年)築>

 八幡坂下の角地に建つ。古い建物には見えないが、明治11年北海道で最初の地場銀行として函館に創設された第百十三国立銀行が、明治20年に改称され、第百十三銀行となった後の、昭和元年に本店として建てられたもの。

 当時のドイツ建築様式を巧みに取り入れたもので、中央に出入り口を取った左右対称の外観で、両側に半円柱が並ぶ古典様式の形式を踏襲しているが,パラペット部を連続する三角形で飾り、入口両側の柱装飾や入口上部に並ぶ半円形の小窓などドイツ表現派風の意匠も取り入れられ、古典建築と近代建築の様式が洗練されたデザインで組み合わされている。 

  設計者は、函館に数々の名建築を残した建築士・関根要太郎、施工は日本初のコンクリート寺院・東本願寺函館別院や東京銀座の松屋を造った木田保造(木田組)が担当。(景観形成指定建築物)

HakoBA函館(旧安田銀行函館支)(末広町23-9)<昭和7年(1932年)築>

 安田銀行は、大正末期から昭和10年代中頃にかけて、全国各地に同じ形態の支店を建設しており、外観は中央に円形の付け柱を4本建て、その間に縦長の窓を開け、両隅の壁にも小さな縦長窓を設けていた。その一つが函館支店で、昭和7年に大林組の施工で竣功している。

 函館支店は,昭和43年に函館どつくの外人専用ホテルとして転用されたが、銀行建築のみならず近代建築の再利用としては全国的にも比較的早い事例のものらしい。   

 小樽市にも昭和5年に建設されたものが現存(現日刊北海道経済新聞社)しているが、外観に類似性が認められるとのこと。(景観形成指定建築物)

 

市立函館博物館郷土資料館(旧金森洋物館)(末広町19-15)<明治13年(1881年)築>

 明治11、12年の大火後に豪商渡辺熊四郎が洋品小間物店として建てたもので、年代が確実に判明するものとしては地域内の商家建築の中で最古。

 函館近郊の茂辺地煉化石製造所(北斗市)で造られた煉瓦を使用して建てられており、建物側面の一部に明治7、8年の刻印が入った煉瓦を見ることができる。

 開口部は正面と裏側の出入り口、2階部分の窓だけで、側面には開口部が無く、耐火を意識した開口部の少ない造りとなっている。また,伝統的な土蔵造りの技法を用いて、1階入口部、2階窓内側には分厚い塗り込め戸が取り付けられ、屋根には野地板の上に煉瓦を敷き詰めその上に瓦をのせるという耐火に対する意識が徹底した造りとなっている。

 外観意匠では、煉瓦の表面を漆喰で仕上げてあり、建物隅部や入口・窓周り等には隅石が型どられるなど、明治初期に全国的に建築された擬洋風建築の意匠要素が見られるという。また、1階正面の鋳鉄製の柱で支えられた3連アーチや鋳鉄製ブラケット等は、その後函館に建築される商家建築にも共通して見られる手法とのこと。(北海道有形文化財・景観形成指定建築物)

 

函館市文学館(旧ジャックス社屋・旧第一銀行函館支店)(末広町22-5)<大正10年(1921年)築>

 第一銀行の函館支店として建てられたもので、近傍にある銀行建築と同様に、中央に出入り口を設け、左右対称となっている。

 花崗岩とタイルの茶色が調和し、石に刻まれた装飾も美しい建物である。基本構造は鉄筋コンクリートと煉瓦の部分が分けられて使われており、鉄筋コンクリート構造が取り入れられていく過程での中間的な構造と考えられている。

 ジャックス社屋としての再利用を経て、平成5年、函館市文学館として生まれ変わっている。(景観形成指定建築物)

 

函館市北方民族資料館(旧日本銀行函館支店)(末広町21-7)<大正15年(1926年)築>

 基坂通と市電通りの角に建つ大型ビル。大正末期に建てられた日本銀行函館支店だったもので、今は改修されて函館市北方民族資料館になっている。アイヌ・ウイルタ民族などの北方民族資料を展示している。

 改修されているので、重厚ながら銀行らしさが薄い建物だが、石貼り風の外壁に、玄関周りの柱は当時の姿を留めている。鉄筋コンクリート造り、3階建て。(建築物の指定なし)

 

橋谷家住宅・旧店舗(大町6-12)<大正10年(1921年)ころ築>

 目に付く建物だが、大町電停のすぐ西側にある古い洋館。左側に住宅、右に蔵のような旧店舗が並んでいる。歴史的建造物の指定もなく、情報が少ない。

 横へ回ったら、現在も居住しているような?感じで「橋谷巳之吉」の表札も下がっている。市内のあちこちに広大な土地や倉庫を持つ「橋谷株式会社」(本社神戸市)の住宅と旧店舗であろう。橋谷株式会社は、明治28年に橋谷巳之吉が函館で創業し、第二次世界大戦前までは現在の食品卸売業、倉庫業、不動産業の他、本社登記のある神戸を拠点として海運業も行なっており旧満州の拠点を含む当時の日本国内の物流を自社の航路で担っていた。当社の屋号である(ダイボシ)は、所有していた船舶の名前(大星丸)でもあり、昔から『ダイボシさん』として地域に親しまれてきた。

 住宅は木造に石貼り風の外観。2階には縦長の上げ下げ窓のある洋風建築だが、屋根は方形屋根、玄関庇の破風も和風になっていて、いわゆる和洋折衷といえる。石貼り風に見えるが、モルタル塗りに目地を切りこんだものかもしれない。玄関上部や、2階の窓の上部には洋風のレリーフがあしらわれ、建物両側と玄関両脇の柱には白いタイルが貼ってあるなど、かなり凝った意匠です。木造2階建て。

 一方、隣の旧店舗と思われる、蔵造りの重厚な建物。函館で多く見かける形状ですが、少し色褪せた白い外壁が存在感を主張している。こちらは土蔵造り2階建て。(建築物の指定なし)

 

ワインショップ・丸又和田商店(弁天町14-11)<明治13年(1881年)前後築?>

 1階が和風、2階には洋風のアーチ型の両開き窓を設けた角に面した和洋折衷土蔵店舗。和田商店は後に建物を引き継ぎ、明治40年から平成10年までこの地で商いを行っていた。明治11年末にこの地域が大火で焼失しており明治12年から14年の間に建てられたもので、明治中期の遺構として数少ない貴重なもの。

 『丸又 和田商店』土蔵店舗はその後、住宅と車庫へとリフォームされていた。現在の4代目当主は、この家に住みながら建物を守り現在の中心部本町へと「ワインショップワダ」を 出店していたが、ここをリノベーションしてここへ店を移した。(建築物の指定なし)

 現在の店長の和田一明氏は、日本ソムリエ協会1999年ワインアドバイザー選手権で準優勝した方のようだ。

 

 明治18年に発行された『北海道独案内商工函館の魁』に描かれた「和田商店」の絵。

 軒下に残っている商標を見ると、店名は丸又和田商店となっているが、もともとは醤油店だったようだ。

杉野三次郎商店(弁天町16-3)<明治18年(1885年)前築>

 函館でも古い部類に入る現存する蔵造り風商家建物の一つ。以前は建物両脇に防火目的の〔うだつ〕が付いていたそうだが、昭和43年の十勝沖地震で損壊したという。それでも貫禄十分の函館の古建築である。最近リノベーションされたようできれいになっている。

由緒不明の古い建物

 大町や弁天町の市電通りには、特に指定を受けていない、歴史を感じさせる由緒不明なレトロな建築物が多く見られる。

 弥生坂下の角のこの建物は、取材時には外装のリノベーション工事の最中だった。今日撮り直しに行ってきたが、内装工事中のようで、まだ何に使われるかは不明な感じだった。


函館レトロ建築探訪(その9)~西部臨海通りの「景観形成指定建築物」ほか

2020年05月22日 | レトロ建築・古民家カフェ

 今日も朝から雨が降り続き、最高気温10℃までしか上がらず、寒い1日だった。これで、4日連続ポータブルストーブを点け放しである。

 今回は、ベイエリアから、緑の島の入口前を通り、弁天町の西浜岸壁までの「西部臨海通り」に建つ「景観形成指定建築物」ほかを紹介したい。

◎函館大学ベイエリア・サテライト(旧金森船具店)(末広町22-17)<明治44年(1911年)築>

 かつて北海道の玄関口であった東浜桟橋に面して建つ、ルネッサンス風の重厚なデザインの建物。そうは見えないが、レンガ造りである。

 1階両側の戸袋や2階部分の後退、大きく立ち上げた袖壁など土蔵造町屋の形式をもちながら、正面2階は、三角形のへディメントが施された上げ下げの縦長窓が並び、後退部をベランダとしたことや、袖壁を漆喰仕上げとしているものの、目地を切って石造風にみせ、さらに1階には、2本のトスカナ式鋳鉄柱や大振りな鋳鉄製のブラケットを設けるなど洋風の仕上げとなっている。 

  2013年(平成25年)4月に設置された、函館大学の教育施設で、観光を題材とした大学生と社会人の共同教育、共同研究の拠点として利用。2018年8月には、イスラム圏のムスリム礼拝所を設置して、一般へ開放している。

 

◎喫茶JOE(旧遠藤平吉商店)(大町9-14)<明治18年(1805年)築>

 東坂と湾岸の大通りの角地にある明治初期の白漆喰と3連アーチが美しい、往時の洒落た雰囲気をしのばせる建物。建築当時は、上海や大連に航路を持つ廻漕店の遠藤吉平商店の店舗。屋根は方形の瓦葺きで、煉瓦壁に白漆喰を塗り、一部には目地を切って石造り風に見せている。1階には大型の3連アーチ、2階には小ぶりな2連アーチ窓を配した洋風建築。3連アーチは鋳鉄製の柱で支えられている。

 なお、店名のJOEは、1964(元治元)年に、この建物の前の岸壁から同志社の創設者・新島穣がアメリカへと密航を企てたという場所といわれ、それが店名の由来のようだ。現在は営業はしていないようだ?

 営業していたころの画像 ※2016年当時入店したことがあるが、内部の様子は撮影していなかった。

 

◎港の庵(旧松橋商店)(大町8-26)<明治35年(1902年)築・明治40年ころの説もある>

 緑の島入口前に建つ、明治から時空を超えて甦った建物。道路側から煉瓦造、木造、土蔵の3種で構成された、函館の歴史の奥深さを知ることができる大変貴重なもの。当時米穀店と海産商を営んでいた松橋像作によって建てられた。

 以降4代にわたって所有者が変わり、解体予定だったものを、2014年に建築当時の姿に復元している。基本的には出資者を中心とした団体の定期食事会で使用しているため、一般公開はされていない。景観形成指定建築物にはなっていないが、復元後、平成27年の「函館市都市景観賞受賞建築物」となっている。

 建築当時のままの、玄関上に施された蔦のような植物模様の浮き彫り。これは世紀末に勃発した、アールヌーヴォーのムーブメントの影響を少なからず感じさせるものであるとのこと。

 

◎函館市臨海研究所(旧函館西警察署庁舎)(大町13-1)<大正15年(1926年)築・平成18年(2006年)復元新築>

  建設設当初は、函館市水上警察署として利用が開始され、昭和59年(1984年)まで現役の函館西警察署として使われていたが、平成18年(2006年)に建設当時の工法だった型枠コンクリートブロック造りを用いて復元・新築されている。

 建物角部を曲面で仕上げ、そこに正面玄関を配し、角地に建つ建物であることを意識した造りとなっている。玄関両脇の太い4本の柱や縦長の窓など,垂直線を意識したデザインもとり入れ、全体としては、重厚な中にも柔らかさを感じさせる造形に特徴がみらる。屋根の上の物見塔は水上警察署時代の名残り。

 

◎太刀川家住宅店舗(弁天町15-5)<明治34年(1901年)築・洋館は大正4年(1915年)築>

 函館の豪商・太刀川家が経営する太刀川米穀店の店舗として建てられた北海道屈指の和洋折衷の土蔵風商家建築。かつての海岸通の繁栄を伝える商家の一つ。現在はカフェとして再生されているが休業中である。

 左右両側に袖壁を備えた店舗は、防火造り商店の代表格となっている。屋根は,寄せ棟の瓦葺で、煉瓦の壁を漆喰で仕上げ、鉄柱で1階梁上の3連アーチを支えている。2階部分が和風の意匠となっている。1階2階とも開口部が広がり、開放的な感じを与える。(国指定重要文化財)

 左の洋館は、応接専用室として増築したもので、2階部分の破風や軒下に彫りの深い植物模様が施され、アカンサス葉状のブランケットの彫りも丹念につくられている。これに対して、首の長いコリント式円柱が支持する1階部分のアーチ廻りは平坦な印象を受けるが、竣功当初はスパンドレルや胴部飾り板に唐草模様のレリーフが貼り付けられ、華やかな印象だったと言われている。

 太刀川家は越後国(新潟県)長岡出身の初代・太刀川善吉(?~1909)が、函館で米穀商と海産商をはじめたのがその始まり。その経営は順調で、明治中期には函館を代表する実業家になるまでの存在になっている。その頃に初代・善吉が建てたのが、この白漆喰塗りの店舗であった。

 

◎ロマンティカ・ロマンティコ(旧堤商会)(弁天町15-12)<大正5年(1916年)築>

 函館の北洋漁業の一時代を築いた日魯漁業の前身・堤商会事務所として,大正期に建築された木造3階建ての貴重な建物。当初は3階正面にバルコニーと屋根にパラペットを持たせた洒落た建物だったそうだ。現在は、1階にカフェ、2階に物販店、3階に事務所が入っている。   

 堤商会は、当時30代の堤清六(1880~1931)と平塚常次郎(1881~1973)が明治40年に新潟で発足した漁業会社で、大正2年に函館に移転。前身は、大幸機動興業所社屋で、玄関の上にも「日用雑貨諸道具類販売 佐藤商会」の看板がかかっている。

 上掲の通称ロマロマの隣の角地に建つ建物で,当初は、米穀店と住宅を兼ねて建築されたもので、後ろに蔵もある。

 正面の店舗部分は、瓦屋根をもった2階建てで、和風様式となっている。後ろの住宅部分は、平屋と2階建てで、屋根は鉄板葺きで、平屋部分は格子窓で和風、2階建て部分は縦長窓を採用し、洋風意匠となっています。 

 2018年2月に、「BENTEN CAFE&DINING (弁天カフェ)」としてオープンしたが、現在は休業中のようである。

 

◎函館クラシックホテルズ藍(旧和島家住宅)(弁天町16-9)<大正4年(1915年)築>

 幸坂の電車通りと西部臨海通りの間の道路に面した上下和洋折衷様式の典型的な建物。1階は引き違い戸,堅繁格子の出窓と和風のたたずまい、2階は縦長の上げ下げ窓に井型の桟割が施され、下見板張り、屋根の持ち送り、胴蛇腹などが正面から側面に配置され、洋風のたたずまいとなっている。

 

◎小森家住宅店舗(弁天町23-14)<明治34年(1901年)築>

 現存する上下和洋折衷様式民家(擬洋風民家)の中で最古で、そのルーツとも言われると言われる、数少ない明治30年代の貴重な建物。近年、〔海のアンティークショップ〕としてリニューアルオープンした小森商店だが、当初は、田中仙太郎商店という海産商の建物だったそうである。

 一般的な函館の擬洋風民家スタイルであるが、興味深い箇所が幾つかみられるという。まず一つ目が、観音開きになる窓。函館の擬洋風民家および木造洋風建築は、一般的に上げ下げ窓が主流なのだが、このスタイルはかなり珍しいもの。

 もう一つは、軒下の持ち送り。この持ち送り軒を支える何気ないパーツではあるが、かっての函館の人達はこの部分に隠れたお洒落というか、かなりの拘りを持っていたようだ。この小森商店もその例にもれない作りなのだが、他とはちょっと様子が違う。とにかく大きい。カラフルに塗られたペンキに翻弄されがちだが、この形は和風の寺社建築などに見られる造形に近いものだといえる。


 

◎旧野口梅吉商店・わらじ荘(弁天町32-5)<大正2年(1913年)築>

 この旧野口梅吉商店は、米穀店として建てられた和洋折衷方式の商家建築だが、2年前の、渡島総合振興局などが取り組む「木づかいプロジェクト」の一環で外観の修繕が行われた。そのときに携わった北海道教育大学函館校の学生4名が、「わらじ荘」と愛称を付けたこの建物に昨年12月から住み始めたことが話題となっている。4月には建物内に私設図書館を開設する予定で、子ども向けの書籍や絵本が多数寄贈されている。

 瓦葺の寄棟型に、2階のドイツ式下見板張りに洋風の上げ下げ窓、1階の和風の作りなど、函館擬洋風民家の正統派と言いたくなるようなスタイルが特徴。大正末から昭和初期にかけての函館下見板建築文化のベーシックとも言うべき存在とのこと。

 

◎旧西浜旅館・ミートハウス別館(弁天町22-14)<明治40年(1907年)築>

 西埠頭そばの角地に建つ典型的な上下和洋折衷様式の建物。最大の特徴は、北側のレンガ造りの防火壁(卯建・うだつ)。

 戦前は、鉄工所やイカつけ番屋として利用されていたということが、戦後は、旅館・番屋など様々な用途で使われていたという。現在は「ミートハウス」という民宿の別館として使用されている。ちなみに、この民宿は主にバイク旅行者が利用するとのことで、春過ぎになると建物前には宿泊者のバイクがずらりと並ぶ光景がしばしば見られるという。


函館レトロ建築探訪(その8)~基坂・日和坂沿いの「伝統的建造物」

2020年05月20日 | レトロ建築・古民家カフェ

 今日も、朝から雨が降り続き、最高気温も6℃までしか上がらず、39年ぶりという寒い1日だった。そんな中、恵山では、みぞれの降る中、道警と消防30人態勢で捜索を行ったそうだ。本当に頭が下がる・・・お疲れ様です!

 今回は、在庫から、基坂と日和坂沿いの「伝統的建造物群保存地区」で指定されている「伝統的建造物」の紹介をしたい。

◎旧相馬家住宅(元町33-2)<明治41年(1908年)築>

 元町公園の南隣の一角に建つ、明治40年(1907年)大火の翌年に建築された、明治末期の函館を代表する和風・洋風の建築意匠からなる歴史的建造物。(国指定重要文化財)

 相馬家最後の代に増築された住居が、現在は内部も開放されており、贅を尽くした造りの部屋や調度品などが見られる。蔵を改築した「元町ギャラリー」は歴史回廊・歴史的美術館として活用され、アイヌ絵巻や江差屏風などの展示物も見学できる。

 この豪邸を建てた相馬哲平は、1861(文久元)年に新潟に生まれ、後に箱館(函館)に渡って米穀商で財を築き、旧函館区公会堂の建設費5万8千円のうち、私財を投じて5万円を負担するなど、函館の発展に貢献している。

 

★公式ホームページ   ※内部の詳しい様子などをどうぞ!

 

◎旧イギリス領事館(元町33-11)<大正2年(1913年)築>

 元町公園から基坂を下った右手に建つ、白壁に瓦葺きの寄せ棟屋根の洋館。昭和9年(1934年)に閉鎖されるまでイギリス領事館だった建物。平成4年(1992年)の市制施行70周年を記念して復元され、現在は函館市が管理する開港記念館(現名称は函館市旧イギリス領事館)として一般公開されている。

 海側に並ぶ5連の半円アーチ窓、青色の軒天井。白亜の壁から木造に見えるが、実は煉瓦造り。中庭に面する半円形ア-チを架けた吹き放しのコロネードなど、イングリッシュガーデンのある裏庭に面する縦長窓の青い窓額縁も印象的な外国公館らしいモダンな建物。設計は英国工務省上海工事局だが、施工は大村合名会社建築部。(函館市指定有形文化財)

★過去記事~「リニュアル~旧イギリス領事館」(2009年)※内部の様子をどうぞ!

★過去記事~「旧イギリス領事館のローズガーデンほか」(2019年)※見事なローズガーデンの様子をどうぞ!

 

◎伊賀家住宅(元町32-10)<昭和9年(1934年)築>

 日和坂から1軒奥まったところに建つ住宅。竪繁格子付出窓、簓子下見板張り、漆喰塗りの小壁を配し、洒落た趣を感じさせる和風の建物である。

 もともと、この右側に連なる1軒2棟の建物だったようだ。現在は、右側には繋がってはいるが、日和坂向きに新しく建て替えられたと思われる同じ雰囲気の和風の建物になっている。

 

◎本郷家住宅(元町32-10)<昭和3年(1928年)築>

 日和坂沿いに横向きに建つ住宅。洋風っぽい雰囲気のお宅で、大火後に不燃質の木造2階建てとして建てられたもの。外観は質素なデザインだが、邸宅風の重厚さを感じさせる。

 

 

◎高橋病院天使寮(旧海員ホーム)(元町32-13)<昭和3年(1928年)築>

 日和坂に面している。外壁は、木製下見板張りで、縦長窓を配し、妻部分に木組みを強調したハーフティンバーとなっており、どこか北欧風の匂いを漂わせる建物である。

 もともとは、海員掖済会の宿泊所「海員ホーム」として建てられ、その後白百合学園の寮として使われたのち、高橋病院の寮になり、現在は、高橋病院系列の「通所リハビリテーション元町」として利用されている。

 

◎日下部家住宅(末広町20-1)<大正6年(1917年)築>

 日和坂とバス通りの南西角に建つ和風の住宅建物。1階2階とも,外壁は簓子下見板張り、窓は戸袋がついた横長の出窓に、化粧垂木を持った庇がついている純和風の建築物である。現在も住居として利用されている。

 意匠的に優れたものが随所に見られ、建物の構造面でも、現在では見受けられない技法が用いられているという。土蔵を包み込んだ外観は、地区を代表する建物の一つである。 

 

◎箱館元町の宿・響場(きょうば)(旧住宅兼診療所)(末広町20-1) <明治42年(1909年)築>

 バス通りに面して建つ建物。もともとは、函館区病院(現:函館市立病院)第7代院長・饗場守三が独立し住宅兼診療所として建設したのが始まり。診療用と自宅用の玄関が2つ備えられているのもその為。この辺りは明治期開業医が多く、俗に医者町とも呼ばれていたそうだ。現在は、「箱館元町の宿・饗場」として利用されている。

 外観は開口部を含め改変されているが、1階2階の外壁は南京下見板張り仕上げで、胴蛇腹のデンディルや飾りパネル、持ち送りを持っており、往時のバラエティに富んだ洋風要素が見受けられる。

★公式ホームぺージ

 

◎元町ガラス工房(生田ステンドグラス函館)(大町1-33)<明治42年(1909年)築>

 基坂に面して建つガラス店。1階は和風、2階は洋風と和洋折衷様式の特徴を持った建物で、平成4年までは町家であったが、現在は地下にステンドグラスの工房をもち、1階はガラスショップになっている。

★公式ホームページ

 

◎相馬株式会社函館本社(大町9-1)<大正2年(1913年)築>

 市電通りと基坂の交差点の北西角に建つ大正初期のルネッサンス様式の洋館。函館を代表する実業家の一人で、函館区公会堂の建設資金の大半を寄付するなど篤志家でもあった相馬哲平の相馬合名会社事務所だった。現在も不動産賃貸を主業とする相馬株式会社の函館本社として使用されている。

 建物は互いに接続された3つの建屋から成っていて、マンサード、寄棟、切妻の3つの形式の屋根が複雑に組み合わされています。市電通りに面しているルネッサンス様式の主屋の正面ファサードは単純な対象形ではなく、向って右側に少し突き出るような翼屋がある。
 外壁はモス・グリーンの幅広の下見板貼り。ルネッサンス様式の主屋の屋根には、正面左側に円形、東西中央部には切妻屋根の神殿風のドーマー窓を置いて変化を持たせている。窓は1階が三角ペディメント、2階が櫛形ペディメントの庇が付いた窓。このように使い分けるのはルネッサンス様式の特徴の1つだそうだ。北側の建屋は切妻屋根の建屋で、1階中央のガラス部に格子が付けられた引き違い戸と、両脇に引き違いのガラス窓があり、こちらは、かつての作業場のような印象である。

 


函館レトロ建築探訪(その7)~港が丘通りの「伝統的建造物」

2020年05月13日 | レトロ建築・古民家カフェ

 今回は、いつもは観光客で賑わうハリストス正教会から公会堂までの「港が丘通り」に面した「伝統的建造物」を紹介したい。

◎函館ハリストス正教会復活聖堂(元町3-13)<大正5年(1916年)築>

 函館では有名な建物のひとつ。いかにもロシア正教会らしい外観。2~3枚積の煉瓦壁の表面に、白漆喰仕上げとした美しいビザンチン様式で、屋根は木造小屋組の銅板貼りである。鐘楼の尖塔を含めて、6個のキューポラと十字架の付く形式は、日本で唯一のものである。煉瓦造平家建て。(国指定重要文化財)

 

◎遺愛幼稚園(元町4-1)<大正5年(1916年)築>

 ハリストス正教会の隣にある大正初期築の遺愛幼稚園。雰囲気はアメリカンコロニアル風。当初はここに遺愛女学校があり、その後この幼稚園が併設され今も残っている。

 赤い屋根にピンクの下見板張りの外壁と柱や窓枠は白。玄関ポーチは破風の形が和風だが、正面をガラス張りとして、両側が吹き放しで、左右から階段を通って出入りするようになっている。シンプルながら軽快ですっきりしたデザイン。設計者は不明だが、杉並町にある遺愛本館との意匠が似ているので、本館と同じJ.M.ガーディナーの可能性があるといわれている。

 

◎山田家住宅(元町7-11)<昭和9年(1934年)築>

 1階は、南京下見板張りで横長開口部、2階に縦長窓と白小壁を持った昭和初期のシンプルな和洋折衷様式の建物である。

 

◎茶房 菊泉(元町14-5)<大正10年(1917年)築>

 和風平屋建の妻入り建物としては、当該地区では唯一のもので、平成12年から住宅を店舗として再利用している。かつての酒問屋別邸で、当時独占販売していた大分県の酒蔵の清酒「菊泉」に由来する。

★過去記事~古民家カフェ「茶房 菊泉」(内部の画像もどうぞ!)

 

◎甘味茶房 花かんろ(元町14-5)<大正10年(1921年)築>

 昭和の始めごろから駄菓子屋を営んでいた実家の商店兼住宅を、1995(平成7)年に一部改装(2階部分はその時の増築)して始められた店である。
 和洋折衷の粋な外観は当時の姿そのままの外風情のある外観が魅力である。竣工時の平屋の部分と増築の2階部分は何の違和感もなく見事に融合している。今でも実家時代から続けて、たばこや切手・はがきなどの販売もしている。

★過去記事~古民家カフェ「花かんろ」(内部の画像もどうぞ!)

 

◎元町日和館(元町10-13)<大正10年(1921年)築>

 1階2階とも、上げ下げ縦長窓、南京下見板張り、胴蛇腹、持ち送りなどシンプルではあるが特徴を持った建物である。右側の外装修理中の建物もセットで「元町日和館」となっている。

 函館の作家の作品や授産施設で作られた雑貨などを扱うみやげ店。函館みやげとして人気の北うさぎグッズやポストカードの品揃えが豊富。

 ここから北側に並ぶ6棟の民家がすべて大正11年の建築で、伝統的建造物に指定されている。

 

◎旧門前家住宅(元町10-11)<大正11年(1922年)築>

 1階は簓子下見板張りに格子付引違玄関戸、2階は戸袋付横長開口部、庇に化粧垂木を配した和風の建物である。

 

◎川村家住宅(元町10-10)<大正11年(1922年)築>

1階は簓子下見板張りに漆喰塗りの小壁の和風、2階は縦長の上げ下げ窓、持ち送りを持った和洋折衷住宅の町家である。

 

◎小林家所有建物(元町10-10)<大正11年(1922年)築>

 簓子下見板張り、軒裏化粧垂木、漆喰塗りの小壁など、純和風の建物である。

 

◎小林家住宅・旧三浦家住宅(元町10-9)<大正11年(1922年>

★小林家住宅(左)~南京下見板張りで縦長窓、胴蛇腹や持ち送りなど、この付近では珍しい洋風建物の原型をそのまま保持している建物である。

★旧三浦家住宅(右)~1階2階とも簓子下見板張りとなっており、格子付き横長窓、和風の特徴を持つ玄関屋根、化粧垂木などを持った、当時の町家住宅である。

 

◎黒田家住宅(元町13-7)<昭和2年(1927年)築>

 元町公園に向いて北向きに建つ建物。屋根は桟瓦葺、外壁は小壁に漆喰塗りを持った簓子下見板張りと、和風の建物であるが、左側に洋風部分を持ったモダンな建物である。

 

◎旧函館市公会堂(元町12-1)<明治43年(1910年)築>

 函館港を見下ろす高台に建つ旧函館区公会堂。正面にバルコニーを見せるコロニアル様式の木造洋風建築の典型的な建物で、両袖妻の唐草模様の装飾と正面玄関にあるコリント式オーダーの柱頭飾りの彫刻意匠も良く、ドーマーウインドーを設置している北海道独自の洋風スタイルである。(国指定重要文化財) 

 ブルーグレーとイエローの組み合わせがとても美しく、見る人を惹き付ける。外観に劣らず華やかな館内には貴賓室や130坪の大広間があり、とくに2階のバルコニーから眺める港の景色はすばらしい。3月から12月にはクラシックなドレスを着て、豪華なシャンデリアなどを背景に写真を撮ることができる「ハイカラ衣装館」も営業。

※保存修理工事に伴い、2018年10月〜2020年4月頃(予定)まで休館中。(2020年5月5日現在も休館中)

★過去記事~旧函館区公会堂保存修理工事・現場見学会(2019年月22日)

「旧函館公会堂」公式ホームページ(内部の様子が分かります)
 
 
◎旧開拓使函館支庁書籍庫(元町公園内)<明治13年(1880年)築>
 
 外壁は、フランス積み煉瓦壁で、外部の四隅には、隅石が組まれている。屋根は桟瓦葺で、小屋組は杵束式木造トラスである。開拓使直営の茂辺地煉瓦石製造所の煉瓦が使用されている貴重な明治期の遺構である。(北海道指定有形文化財)
 
 
◎旧北海道庁函館支庁庁舎(元町公園内)<明治42年(1909年)築>
 正面玄関はポルティコでエタンシス風の4本のコリント式柱が支えている。ルネッサンス様式を基調とするその意匠は本格的で品格がある。(北海道指定有形文化財) 
 函館区が函館市となった大正11年から昭和25年まで渡島支庁庁舎として、その後は北海道関係施設として昭和32年まで使用された。以後は、函館市の所有となり、准看護婦養成所や失業対策事業の作業所を経て、現在は函館市写真歴史館・函館市元町観光案内所として活用されている。

函館レトロ建築探訪(その6)~大三坂周辺の「伝統的建造物」ほか

2020年05月06日 | レトロ建築・古民家カフェ

 ベイエリアから函館山に向かって延びる石畳の大三坂は、「函館伝統的建造物保存地区」に指定されていて、その周辺に「伝統的建造物」に指定されている建物が多い。

 大三坂の由来は、昔、坂の入口に大三という家印の郷宿があったのでこの名が付いた。郷宿というのは、地方から公用で出てくる村民が泊まった宿である。それ以前は、木下という人の家があったので「木下の坂」といった。昭和62年「日本の道百選」に選ばれた。(坂標より)

◎川越電化センター(旧リューリ商会)(末広町18-21)<明治40年(1908年)築 / 昭和59年(1984年)復元>

 大三坂と電車通りの交差点右側に建つバルコニーのある洋館。ロシアの貿易会社リューリ商会の店舗だった建物を復元したもの。和様折衷の店舗兼住宅が多い函館では珍しい完全に洋風な建物。

 2階のアーチ型のバルコニーが長崎の洋館を思い出させる外人商館の風情を醸し出している。正面2階に、半円3連アーチをみせるベランダがあり、アーチを支持する4本のフリューティングの付いた木柱、柱間には手すりが付いている。笠木や額縁には溝状の装飾、窓台下にも垂れ飾り風のレリーフを彫るなどの凝った意匠がみられる。

 

◎エビス商会(旧目貫商店)(末広町17-11)<大正11(1922)年ころ築>

 電車通り交差点の左側(大三坂を挟んで上掲の川越電化センターの反対側)に建つ。元は毛皮商の店舗兼事務所として建てられ、現在は海産物や食料品卸を営むエビス商会の事務所になっている。この建物も大正10年に起きた函館大火後に多く建設された、鉄筋コンクリート製耐火建築のひとつである。(※伝建の指定なし)

 正面の飾り柱や縦長窓、中央の破風の意匠は欧風だが、よく見ると屋根は寄せ棟で瓦葺きというユニークな和洋折衷のビル。この時期に建てられたコンクリート建築の大概が、屋上を設けられるフラットルーフ(陸屋根)の状態なのに対し、この寄棟屋根はかなり異色なものとのこと。

 

◎大三ビルヂィング(旧旧仁壽生命函館支店)(末広町18-25)<大正10年(1921年)築>

 「大三ビルヂング」とは、2017年11月に箱バル不動産が買い取ってリノベーションした、旧仁壽生命函館支店の社屋とそれに付属する土蔵・民家の通称である。旧社屋にはレストランとシェアオフィスが、土蔵であった建物にはキャンドルショップが入っている。

 外壁を白壁としてシンプルにしながらも、建物角部を曲面で仕上げ、縦筋模様の浮彫やテラコッタの装飾を配するなど、大正モダンの象徴的な建造物である。また、土蔵が併設され、近代建築と和風建築との融合が、新しい大正モダンを感じさせている。 

★リノベーション後の一般公開時に見に行った2017年11月26日の過去記事

★リノベーション前の内部公開時に見に行った2017年01月30日 の過去記事

 

◎藤山家所有建物・佐藤理容院(元町30-10)<大正10年(1921年)築>

 バス通りと大三坂の交差点に建つ1棟2軒の建物。左側の建物の外観は、1階部分の和風および2階の洋風スタイルは残されており、右の理容院の外観部分の意匠は改変されている。 

 

◎蕎麦彩彩 久留葉(旧村田専三郎宅)(元町30-7)  <大正14年(1925年)築>

 大三坂に沿って建っている、古民家を内部だけ改造した蕎麦屋。小さくまとまっている和風の平家建となっており、この地区では貴重な建物である。

 元は、函館の建築史の祖と言われている村田専三郎氏の私邸で、その凝った造りが、現代では何とも言えない叙情を滲ませてくれている。

 

◎Tombolo(トンボロ)(元町30-7)<大正10年(1921年)築>

 「蕎麦彩彩久留葉」に隣接し、全体的の洋風さが感じられる建物であるが、1階部分の正面に和風の意匠を取り入れている。

 もともと、陶芸家である父の作品を展示するギャラリースペースの一部を利用して、娘さんが2020年に「パン工房」を開業。店が閉まっていたこともあり、パン屋さんだとは思わなかった。

 

◎旧カール・レイモン居宅(元町30-3)<昭和5年(1930年)築>

 東本願寺函館別院門前に建つハム・ソーセージの「函館カール・レイモン」を生み出した、カール・ワイデル・レイモンの旧居宅。1階、2階とも、開口部は縦長窓、外壁の仕上げはモルタル塗となっており、シンプルながらもオーソドックスな洋風の建物である。

 昭和7年にロシア人毛皮商だったD.N.シュウエツが住居として建てた家で、そのシュウエツ氏が亡くなった後、昭和13年にレイモン氏が購入したとのこと。数年前までは蔦が全面に這う家であったらしい。戦後になり、この自宅の隣にハム・ソーセージ工場を造り、その跡地が現在のレイモンハウスというショップになっている。

◎函館カール・レイモン本店(戦後築)

 戦後になって、ここに工場を建築したが、その跡地に建った建てられた建物。(伝建ではなく、函館市景観形成指定建築物)

 

◎カフェ やまじょう(旧山田・太田邸)(元町30-5)<築年不明・昭和初期?

 

 カール・レイモン本店の隣の角地に建つ典型的な擬洋風建築(和洋折衷建築)。1階が町屋風、2階は白い下見板張りの洋風。
 左側の玄関には、2010年に発足した「北海道アイヌ協会函館支部」の看板が懸かっている。
(伝建等の指定はなし)

 

◎島家住宅(元町31-26)<大正11年(1922年)築>

 大三坂沿いの北側に建つ民家。平成13年までは、1棟2戸建となっていたが、現在は、1階が和風、2階が洋風の和洋折衷様式となっており、持ち送り、隅柱、胴蛇腹など特徴部分を残している。   

 

◎大野家住宅(元町31-18)<大正10年(1921年)築>

 1階部分に和風の様式が見られ、2階は出窓、軒裏に持ち送りが付いており、外壁は下見板張りであったものと思われるが、現在は人造石の洗い出し塗となっている。

 

◎東本願寺函館別院(元町16-15)<大正5年(1916年)築>

 画像の二十間通りから大三坂までの敷地に建つ、国内最初の鉄筋コンクリート造りの寺院。

 江戸期の宝永年間(18世紀初頭)から箱館に寺院を構えていた同寺は、明治12(1879)年の大火を機に現在地に移転してきた。しかし明治40(1907)年8月の大火で寺院が焼失。これを機に金森合名会社の代表で、同別院の檀家総代を務めていた三代目渡辺熊四郎の立案により、不燃素材による伽藍建設が検討される事になった。明治45年着工、大正5年完成。(本堂は国指定重要文化財)

 当時鉄筋コンクリートの強度が解らず、大きな屋根や瓦が、鉄筋コンクリートで持つかどうか不安で、寄付金が思うように集まらなかった。そこで、高床に芸者を上げて踊りを見せて、その見物客も全員中に上がらせて、その強度を認識させたという逸話が残る。

 

◎磯田家住宅(元町15-23)<昭和元年(1926年)築>

 大三坂の角地に海側を向いて建つ民家。屋根は寄棟造で一文字葺の鉄板貼、外壁面は簓子下見板張りに格子付の横長出窓となっており、玄関の意匠を含め純和風の建物である。

 

◎金子家住宅(元町15-26)<大正10年(1921年)築>

 大三坂に面して建つ民家(現在は居住していないようだ)。1階は、和風の意匠を持ち、2階は洋風となっているが、本来は、1棟2戸建ての建物であった。

 

◎鷲見家住宅(旧亀井勝一郎生家)(元町15-28)<大正10年(1921年)築>

 大三坂面してカトリック教会の下に建つ洋風住宅。柔らかにうねる破風、開き窓を見せる曲面のペイウインドー、屋根上に見える暖炉用煙突など、ロマンティックな洋館で、セセッション風の建物である。木造モルタル2階建て。

 設計はユーゲント・シュティール(フランスやベルギーでいうアール・ヌーヴォー)のエッセンスを取り入れ、当時、西欧で流行していた建築様式「セセッション」に影響を受けたモダンな作風で知られる関根要太郎と弟の山中節治。

 

◎カトリック元町教会(元町15-30)<大正13年(1924年)築>

 元町の代表的風景、教会群の一角を占める。最初の教会堂は1859(安政6)年創建。現在の建物は1923(大正12)年に再建。大聖堂内の祭壇はローマ教皇から贈られたもの。聖堂(右)のレンガ壁をRC補強したゴシック様式の建物で、外壁の仕上げは人造石洗い出し塗となっており、同年に建築された鐘楼、司祭館とともに異国情緒を醸し出している建物のひとつである。

 キリスト教宣教再開の象徴として、横浜と長崎に建立するカトリック教会と並び、国内では最も古い歴史を持つ。

 附属門柱と石塀もこのときの築で「伝建」に指定されている。

 

◎左から小形家住宅・幌村家住宅・(1件置いて)真壁家住宅店舗<明治41年(1908年)築>

★小形家~外観の意匠は改変されているが、建設当時の形態は残されており、復原可能な建物である。

★幌村家~1階は簓子下見板張り、竪繁格子の出窓2階は下見板張りの外壁に縦長窓を設け、胴蛇腹、歯飾りをつけている。 

★真壁家~1階は簓子下見板張り、竪繁格子の出窓の和風、2階が縦長窓、胴蛇腹、軒下飾りパネルなどの洋風で典型的な和洋折衷様式の町家である。漁業関連会社の社宅として建てられている。


函館レトロ建築探訪(その5)~十字街周辺

2020年05月04日 | レトロ建築・古民家カフェ

 今回は、在庫から、「伝統的建造物群保存地区」以外の十字街周辺のベイエリア・末広町・元町の「景観形成指定建築物」とその他の建物を紹介したい。

◎函館市地域交流まちづくりセンター(旧丸井今井百貨店函館支店)<大正12年(1923年)+昭和5年(1930年)昭和9年(1934年)築>

 かつての函館市の中心街だった十字街地区のシンボル的存在の建物で、自分が幼少のころは5階建ての通称「丸井デパート」だった。アール状の角に玄関があり、その上に縦長窓、屋上には円形ドームのある欧風の様式。一方、塔屋のある南側は角ばったモダニズム様式の5階建てになっていいる。随所の細やかな装飾がかつての繁栄を感じさせる。

 当初3階建てだったものを、昭和5年、昭和9年に5階建てに増築している。その際、北側のドーム部分はなくなり、代わりに南側の塔屋ができた。昭和45年(1970年)からは市分庁舎、休眠期間を経て耐震性の問題から、平成17年(2005年)~平成19年(2007年)の大改修で建設時の姿にほぼ復元されている。その時にドーム部分が復元された。
函館市景観形成指定建造物)

 改修前の5階当時の画像と内部の様子は、過去記事(2007年)からどうぞ!

 共同設計と施工は北海道コンクリート建築の先駆者といわれる木田保造(1885~1940)。他に不動銀行函館支店、拓銀函館支店、函館商工会議所本館、天主公教会、渡辺合名会社、大谷女学校、百十三銀行、函館貯蓄銀行、称名寺、日魯漁業函館事務所、函館製綱船具など、大正初期から昭和にかけての函館市内の主だった建築を数多く手がけている。

最近のビル建築には見られない細やかな装飾がみごと。

◎酒問屋・旧丸本本久商店倉庫(末広町16-13)<大正10年の大火直後築>

 ベイエリアの一角に建つ、青の外壁が印象的な大正末竣工の古風な煉瓦製倉庫。当時の函館で3本指に数えられたという酒問屋・丸本本久商店の倉庫として建てられた。青く塗られた外壁に二階の洋風窓、そしてその上には〔久本〕と大きな文字と屋号がレタリングされ、なかなか重厚感がある建物だ。一見鉄筋コンクリート造りのように見えるが、左窓枠下側の漆喰が一部剥がされ、そこから煉瓦が露出している事でこの建物の構造が一目で分かるようになっている。

 この界隈はかつて〔船場〕と呼ばれ、その名の通り多くの海産問屋が並ぶ町の主要な場所だった。往時のこの界隈の繁栄を微かながら今に伝えている大正末期に現れた古風な倉庫建築である。
 
 数年前までは「金のこころ」というケーキ屋さんだった。現在は、「sign of the times」という刺繍職人が営む呉服屋さんになっているようだが・・・?
 
 
◎函館市海産商同業協同組合事務所(末広町15-13)<大正9年(1920年)築>
 
 
 ベイアリアの一角に建つこの建物は、木造3階建てとのことだが、素人目には、決して木造には見えない。
 建物の両側に膨みを持たせた独特のデザインの建物で、ユーゲントシュティルという、20世紀初頭にヨーロッパ各地で流行していたモダンな建築様式がそのデザインに用いられているという。(景観形成指定建築物)
 
 この周辺は、大正から昭和初期にかけて百貨店や銀行が立ち並ぶ函館の経済の中心地で、商業活動の中核としてシンボル的な意味を持たせるためか建築デザインにも強い意気込みが感じられる。設計者は、当時の函館市内の多くの建築物を手掛けた関根要太郎。
 
 
◎カルフォルニア ベイビー(旧特定郵便局)(末広町23-5)<大正6年(1917年)築>
 
 
 大正6年に建築された特定郵便局を改修して、現在はアメリカンスタイルのレストランになっている。昭和52年にここでレストランをオープンしたというから、同じベイエリアにある金森の赤レンガ倉庫や、郵便局を再生した赤レンガの明治館などよりも古建築再生としては大先輩にあたる建物である。
 
 ファサードの妻壁が流線形が組み合わされたような面白い曲線を形作り、控えめな装飾がちりばめられている、軽快でセンスがいい建物です。入口が中央になく、左側にあり、右側に縦長窓が並ぶ非対称の設計。木造モルタル塗りの平屋建て。

 
 
◎函館五島軒本店(末広町4-13)<昭和10年(1935年)築>
 
 五島軒といえば、全国的にも知られる、函館を代表する老舗レストラン。この建物は、昭和9(1934)年3月の大火で焼失した旧館(大正11年竣工)に代わるものとして竣工している。自分の両親も、自分の亡妻との結婚式も2代にわたってここで上げている。
 
 五島軒の歴史は明治12(1879)年に、創業者である埼玉鴻巣出身の若山惣太郎が、富岡町(現在の弥生町)で、パン屋を開業したのがその始まりである。また五島軒という店名は、長崎五島列島出身の五島英吉が料理長を務めていたことから、この名が付いたという。当初はロシア料理を提供していた五島軒だったが、徐々にフレンチのメニューへとシフトチェンジし、現在へと至っている。特にレトルトパックでも販売されているカレーは、全国的にも有名である。

 設計者の一人である亀井勝次郎は、作家・評論家として知られる亀井勝一郎の弟。なお、戦後、5年間駐留軍の軍政部として接収された歴史を持っている。(国登録有形文化財・函館市景観形成指定建造物)
 
 
◎函館元町港ヶ丘教会(旧日本基督教会函館相生教会)(元町29-15)<昭和9年(1934年)築>
 
 五島軒の向かい側に建つ、質素ながら可愛らしい印象を受けるこの教会だが、昨年12月に、洋服と雑貨のセレクトSHOP「VERYCO」、紅茶専門店「Juicy Fruits Tea HAKODATE」、カフェ「wave+snow」の3店舗が同時にオープンしている。 

 その前はウエディングチャペルになっていたが、もとは日本基督教会函館相生教会として使われていたものである。なお同教団は明治14年よりこの土地に教会を構えていたが、度重なる大火の度に聖堂を焼失。現在の教会は昭和9年3月の函館大火後に建てられたものだ。(函館市景観形成指定建造物)

 右隣の和洋折衷住宅にも「函館市景観形成指定建造物」のプレートが設置されていたが、一覧表には掲載されていなかった。

 

函館市企業局元町配水場管理事務所(元町1-14)<明治22年(1889年)築>

 緑の芝生が敷き詰められた元町配水場(水元公園)内に残るこじんまりとしたレンガ造りの建物。

 函館の上水道は、横浜に次いで全国2番目にできたもので、元町配水場は亀田川で取水した水を当時の市街地であった西部地区に安定的供給するために造られ、この建物もそのときに建てられたもの。(函館市景観形成指定建造物)

 

<おまけ>本日がピークの五稜郭公園のサクラ


函館レトロ建築探訪(その4)~ベイエリアの指定伝統的建造物

2020年04月29日 | レトロ建築・古民家カフェ

 今回、この「函館レトロ建築探訪」シリーズを掲載するにあたって、いろいろな目に付くレトロ建築物を見て歩いていたら、西部地区には「伝統的建造物」と「景観形成指定建築物」のプレートが設置されている建物が多かった。

 その2つの違いを調べていたら、歴史的な建造物が数多く存在するいわゆる「西部地区」と言われる一帯は、「都市景観形成地域」として指定されている地域があり、その中でも、核心的な地区が「伝統的建造物群保存地区」として決定されていることが判明。

 その中で「伝統的建造物」に指定されている建築物は「伝統的建造物群保存地区」に存在し、「景観形成指定建築物」に指定されている建築物は、その他の「都市景観形成地域」に存在することが分かった。(上の地図の青色の建物が「景観形成指定建築物」で、緑色の建物が「伝統的建造物」)

 ちなみに、これまでアップしてきた、「その1・その2・その3」の建物はこの指定地区から外れている。

 今回(その4)は、その「伝統的建造物群保存地区」の中のベイエリア周辺の「函館市伝統的建造物」に指定されている建物を取り上げることにした。(※ただし、自分がウォーキング途中に目に付いて撮影したものなので、漏れがあるかもしれない)

◎ベイエリアの中心的存在の「金森倉庫群」<明治42年(1909年)築>

 函館観光を代表するランドマーク的な金森倉庫群・・・手前左から「BAYはこだて」、道路を挟んで「金森洋物館」、「函館ヒストリープラザ」、「金森ホール」。

 1909(明治42)年建築、1988年から全面リニューアルし、ショッピングモール、ビアホール、イベントホールなどとして営業。 

 いずれも函館で輸入雑貨、時計や船具の販売を始めとし、新聞社や銀行などを幅広く手掛けた「金森」の倉庫として建てられたイギリス積みの煉瓦造り平屋建てである。「金森」の創業者は渡邊熊四郎で大分県生まれ。長崎で商いを始めたのち、函館に出てきたそうだ。1907(明治40)年に発生した大火で倉庫6棟を焼失し、不燃質の倉庫として再建されたのが、現在の建物。

 

◎はこだて明治館(旧函館郵便局)<明治44年(1911年)築>

 昭和37年(1962年)まで函館郵便局として使用されていたものを再利用したショッピングモール&ミュージアム。

 この建物は金森倉庫群と同じ明治40年8月の函館大火以降に建てられたもので、その中の代表的建築の一つといえる。この旧函館郵便局は函館の古建築再生活用のパイオニア的な建物でもある。

 

◎箱館高田屋嘉兵衛資料館(旧田中家昆布倉庫)<1号館(左)大正12年(1923年)築・2号館(右)明治36年(1903年)築>

 切妻屋根を桟瓦葺とし,外壁を漆喰塗とするなど,和風の意匠を取り入れている建物で,海産物用倉庫を資料館として再活用している。左の1号館は鉄筋コンクリートなのかが平屋建て、右の古い方の2号館は石造平屋建てそのこと。 

 

◎ザ・グラススタジオイン函館(旧海産商・宝興業倉庫)<明治43年(1910年)築>

    
 明治の海産商の倉庫で、切妻屋根に桟瓦葺、開口部はアーチ型となっており,港町の風情を偲ばせる洋風の建築物である。昔は木工場として利用していたが、平成4年にガラス工房となっている。 煉瓦造平屋建て。

 

◎古稀庵(旧海産商・渡辺商店)<明治42年(1908年)築>

 海産商・渡辺商店の建物として,典型的な洋風町家形式(和洋折衷住宅)のデザインを踏襲している。1階は竪繁格子をみせた和風の意匠、2階には、コーニスのデンティル、ブラケットの彫刻などを持った水準の高い意匠を展開している。現在は宿泊設備とレストランになっている。右側の建物は土蔵らしい。古稀庵の名前の由来は、ご主人が古稀の時に始めたことに因るとか・・・。

 

◎茶房旧茶屋亭(旧海産商・近藤商会店舗)<明治末期築>

 海産商・近藤商会の店舗として建てられた典型的な函館の和洋折衷の町屋。2階が洋風で1階は和風の擬洋風。1階の赤い庇と2階の白い下見板貼りが明るいコントラストになっている。1階の窓にはステンドグラスがはめ込まれていて、和風とはいえ、ここもちょっと洋風を感じさせる。
 一時は裏側にあるホテルの施設だったが、ホテルが廃業したため、現在は喫茶店になっている。

 向かって左端には分厚い煉瓦造りのうだつ(防火袖、卯達)があり、現在は車庫兼通用門となっているようだ。ホテルのときは通用門として使われていたらしい。

 

◎和雑貨いろは(旧海産問屋・轟工業店舗兼住宅)<明治41年(1908)年築>


 ザ・グラススタジオ・イン函館の横に建つ、明治末期の和洋折衷の店舗兼住宅。元は海産問屋の店舗として建てられたものだとか。一時はザ・グラススタジオ・イン函館の2号館だったことがあるが、今は和雑貨の店になっている。

 左側に煉瓦のうだつ(卯建・防火袖)があるのが特徴。1階は簓子下見板張り、開口部に格子を持ち庇を配した和風、2階は南京下見板張り、縦長窓を等間隔に配置し、軒蛇腹を持った洋風で、妻壁は人造石の洗い出し仕上げとのこと。 

 

◎ラコンチャ(旧深谷米穀店)<大正6年(1917年)築>

 建築当初は米穀店であったが、現在はスペイン料理店として営業している 1階は、竪繁格子窓、簓子下見板張り仕上げで、2階は南京下見板張りに縦長窓、胴蛇腹、軒蛇腹、持ち送りを配する住居部分で、和洋折衷建物である。 

 

◎Lサイズの店もりや(旧市水商会店舗)<明治42年(1909年)築>

 


 もとは海運関連を取り扱う会社の店舗だったらしい。今は洋服店になっている。ただし、現在は営業をしている感じではなかった?1階は、竪繁格子窓、簓子下見板張り、2階は南京下見板張りに縦長窓、胴蛇腹、軒蛇腹、持ち送りを配する和洋折衷建物。

 

◎箱館カネサ商店 (旧 カネサ佐々木邸)<明治42年(1909年)築>
 
 

 2019年7月1日にオープンした駄菓子屋。たこ焼き、焼きそば、たい焼きも扱っているようだ。2019年(平成29年)に外観が復原された建物で、1階は和風で堅繁格子の出窓、2階は洋風で縦長窓を等間隔に配している上下和洋折衷様式の建物。

 こうして、このベイエリアの「指定伝統的建造物」を見ると、明治40年の大火直後に建てられて、そのまま残っている建物が多いことが分かる。

 函館特有の和洋折衷住宅についての解説は、下記が詳しい。

  函館の街並みの「華」・和洋折衷住宅の魅力(函館市公式観光情報)


函館レトロ建築探訪(その3)~銀座通り

2020年04月26日 | レトロ建築・古民家カフェ

 ここ「銀座通り」は、函館山山麓の和風建築や和洋折衷住宅や洋館などが並ぶ華やかな元町や末広町に比べて地味な感じだが、大正~昭和初期にかけては東京以北最大の大歓楽街として栄えたところである。

 ここは、大正10年の大火の後、火事に強い町づくりが進められた。防火帯としての20間幅の広い道路、鉄筋コンクリート製の不燃建築、3階建て以上の高さなどで66棟が建てられた。7割はキャバレーやカフェで一大繁華街だった。東京の銀座に模して柳も植えられた。北洋漁業で栄えた当時の函館の面影を色濃く残すところでもある。

 この都市計画は、行政でなく地元の有力者らにより立案・計画されたものというところに函館の歴史の「民の力」の凄さが伺われる。しかし、昭和9年の大火で半分近く焼け、当時の建物で現在残っているのは10棟程度。

大正10年代の銀座通り

~写真手前のビルは江口眼科の先代の病棟として使われていたもの。右奥に、屋根にパラペットを載せた現存する小野寺住設の建物が見える。

 

昭和初期ごろ?の銀座通り

 

◎はこだて工芸舎(旧梅津商店)<昭和9年(1934年)築>

 函館銀座通りと電車通りの交差点の角地に建つ旧食料品店。北海道を中心に活躍した実業家・梅津福次郎が興した酒類、食料品、雑貨を扱う店舗。

 当時の銀座通りの建物で残っている古いものは大正10年の大火後に建てられたものだが、この建物は昭和9年の大火で前社屋が消失して、建て直されたもの。鉄筋コンクリート造りに見えて、実は木造だそうだ。木造モルタル塗り、2階建て。決して木造には見えないしっかりした造りが見事である。

 2014年から、「はこだて工芸舎」として、再利用されていて、1階だけは内部を見ることができる。

 

◎旧ホテル中央荘(旧小野商店)<大正10(1921)年ころ築>
 

 銀座通りの電車通りから見て左側の入口に立つ、鉄筋コンクリート造り3階建ての建物。洋風建築だが、どことなく和風な感じも漂う。2000年ころまで営業していたホテル以前は、小野商店という呉服問屋と草刈薬局の店舗として使われていたものらしい。

 また昭和9年に起きた函館大火では、銀座通りの建物の大半が当日の猛火により内部を焼失したというが、この建物は奇跡的に火災の被害から免れた建物だという。
 その防火対策だが、当時の家主が四樽ぶんの味噌を防火扉や窓の内側に目塗りした事により、内部延焼を防いだそうである。これは、「ひし伊」も同じ方法で焼け残っている。

 カーブを描いた軒の破風部分はいかにも大正期の建物らしい。また中央の「丸に小」の文字はかっての家主・小野商店の屋号のようだ。その両脇にある植物模様の浮き彫りも美しい。また銀座通りに現存する大正期に建てられたビルディングの多くには、このような植物や果物をモチーフとした浮き彫りが施されている。 

 2000年ころのまだホテルとして営業していたころの写真。自分もこの印象が強い。

 

◎ラッキーピエロ十字街店(旧理容院)・旧梅津商店倉庫(旧函館公証役場)ほか<大正10(1921)年ころ築>

 電車通りと恵比寿通りの間の1角に連なる4棟。左からWOODROW'S(旧金子商店)、左から2軒目はラッキーピエロ十字街店(建築当時は対馬理容院)で、右は旧梅津商店倉庫(旧箕浦公証役場)。

 特に、右の梅津商店倉庫になっている建物は、幾何学的な装飾が特徴である。3階の両側に施されている切れ味鋭い逆三角形の上に三輪の花模様のデザインが印象的である。一時期ギャラリーとして使われていた時もあるらしい。

 

◎宝来パン本店ほか<大正10(1921)年ころ築ほか>

左から、旧喫茶プロスパー、旧マルダイストア、宝来パン本店、前そば処天満店(2019年閉店)、空き地(ここにも最近までは旧カフェースターという3階建ての建物があった)、旧カフェー三の糸。

★「旧喫茶プロスパー・旧マルダイストアー」(昭和9年の大火以降?)~この2軒の場所には昭和9年前の大火前には3階建ての建物があり、それぞれに「開文堂書店」と「レンカ堂・御祝品店」だったという。そのことからしても、この2軒は昭和9年の大火の後の建物と言えそうだ。2軒目のショッキングピンクの塗装が施された建物は、数年前までマルダイストアーという青果店として使われていた。以前はとても美しい浮き彫りが施されていたが、外壁の剥離が激しいため現在の姿へと改修されているという。

★「宝来パン本店」(大正10年ころ)~他の建物と同じように、ビル最上部や壁の装飾がとてもお洒落。

★「前そば処天満つ」~10数年前に新築されたレトロ風建築(都市景観賞受賞)。大正ロマン漂う町並みに調和した非常に優れたデザインだが、昨年9月に閉店してしまった。何度か入ったことがあるが、軒の破風部分に施された飾り同様に大きなエビの天ぷらが印象的だった。

★「旧カフェー三の糸」(大正10年ころ)~無装飾で武骨な建物だが、竣工時の姿がほぼ保たれている感じである。間口の狭い小規模なビルが多いのも銀座通りのレトロビル群の特徴だ。

 軒の破風部分の浮彫の模様~植物模様が多い

 

◎旧美容室あみん(建設当時は銭湯・衛生湯)<大正10(1921)年ころ築>

 個人的には、銀座通りでもっとも印象的ではないかと思われる建物。アーチ型の入り口が二つあるデザインは、なんと大衆浴場「衛生湯」として建てられたもの。2つの入口は男湯と女湯の入口だったのだろう。外見からは分からないが、煉瓦造らしい。中央2本の柱のあいだに搭屋が付いていたそうだが、昭和9年大火後は撤去されてしまったようだ。

 こんなお洒落な建物が銭湯として使用されていた当時の銀座通りは、さぞかし華やかで賑わっていたのであろうと容易に想像できる。現在も利用はされているらしいが、営業内容は不明。

 

◎小野寺住設(旧安全自動車商会)<大正11(1922)年ころ築>

 昭和のはじめは安全自動車商会のビルとして使われていた建物。外壁は若干改修されているが、以前は大正期に流行したセセッションという直線形のデザインが施されていた。
 また少し高めに設けられた屋上のパラペットは、少し離れた場所からでも一目でわかる今も昔も銀座通りのランドマーク的な存在の建物だ。(このページの2番目の画像「大正11年ころの銀座通り」の絵葉書にも写っている)


函館レトロ建築探訪(その2)~大手町・豊川町・末広町

2020年04月25日 | レトロ建築・古民家カフェ

◎加賀谷旗店(大手町10-12)<大正3年(1914年)築>

 

 創業明治30年の老舗。当初は別の場所に店があったそうだが、大正3年に染物工場、店舗兼住居として建てられたここに移転。昭和9年の大火では近隣の多くの建物が罹災したが、加賀谷旗店は無事だったとのこと。過去に何度も補修されながら、大切に使われ続けて、外観や内部ともに当初の姿を留めているそうだ。

 下見板張りの外壁に、傾斜の緩やかな屋根。平たい妻面上部の白い漆喰塗と黒い下見板の対比がアクセントになっている。正面にある土管の煙突も素朴でレトロ。数少ない大火前の下町の店舗併用住宅の歴史を伝える貴重な建物。(函館歴風文化賞受賞)

 

◎カフェ&ダイニング リット(大手町3-10)<明治45年(1912年)築>

 木骨2階建ての土蔵として建築されている。室内の柱、梁などが創建当時のままである。このあたりは昭和9年の大火にあっているが、残ったと思われる。平成15年に飲食・雑貨店として再生した。(函館歴風文化省受賞)

 

 大手町には、このほかに目に付くレトロ建築では、「ニチロビル」と「函館大手町ハウス」があるが、下記の過去記事からどうぞ!

◎ニチロビル  ◎函館大手町ハウス

 

◎豊川町会事務所・豊川稲荷神社社務所(豊川町9-14)<昭和9年(1934年)ころ築>

 豊川町会事務所とこの前にある豊川稲荷の社務所を兼用している建物。コーナーにある塔屋が印象的な洋風建築。頂部に高さを違えて緑色の正三角形を東西南北の四方に向けている。棟の下部のペディメントや側面の丸窓など洋風のモチーフが随所に見られる興味深い意匠。一方、スクラッチタイル貼りの玄関周りは和風の雰囲気も漂う、遊び心を感じる設計である。(函館歴風文化省受賞)

 

◎佐藤十五郎宅(豊川町9-20)<昭和9年(1934年)ころ築>

 昭和9年の大火後の建築で、寄棟、平入り、2階建て。海産物問屋を営む店舗併用住宅で、前面を全て出格子窓で印象的な和風外観が見事である。大工は「茶屋亭」と同じ人で、材料は当主の出身地の新潟から取り寄せた欅材で上等な造りとのこと。

 

◎紫ぜん(豊川町10-10)<明治末期築>

 

 明治館と道路を挟んだ真向かいにある欧風レストラン「紫ぜん」。明治末期に建てられた呉服商の反物倉庫だった建物(海産物倉庫という情報もある)を再生利用している。木骨土蔵造り。

 左側に煉瓦壁にアーチ型の出入り口があるが、本館の土蔵との関係はよく分からないが、当初からは併設されていなかったた感じとのこと。外から見ただけだが、内部も梁や柱は当時のままのものが使われていて、落ち着いたレトロな雰囲気だそう。(函館歴風文化賞)

 

◎花かるた(旧児玉商店)(豊川町2-12)<昭和9年(1934年)築>

 銀座通りの1本北側の通りに残る、天狗の顔が描かれた看板が目を引く純和風「居酒屋・花かるた」。看板の右側には〔京都 大石天狗堂製天狗印〕と書かれている。
 実はこの看板こそこの建物の歴史を物語るもので、もとは児玉商店という北海道における花札の総代理店だったそう。「花かるた」というのは、花札のことなのだと言う。ちなみにこの児玉商店は幕末から花札販売をはじめ、2代目はマージャンを函館に普及させた人物だったという。

 児玉商店は戦後になり、花札のほかマージャンやトランプの販売をおこなっていたそうだが、昭和58年からは居酒屋としてリニューアルオープンしている。
 

 この天狗印の看板は、明治期に京都の花札製造元より贈られたものだという。この界隈は昭和9年3月の大火で全焼した地域なので、大火の当日店主は大切なこの看板を持って、火の手が迫るこの場所から避難したのだろう。そして大火後再建されたこの建物に、歴史ある天狗印の看板が再び掲げられる事になった訳である。

 

◎箱館昆布館(旧田中商店)(末広町12-17)<昭和5年(1930年)ころ築>

 鉄筋コンクリート造りにしては、和風の意匠が施された少し地味目な感じのする外観デザイン。しかし、また和風の商家というイメージでもない。1階両脇の庇の下には、洋風建築の定番であるアカンサスの装飾が付けられていたり、何とも摩訶不思議な印象を受けてしまう建物である。左横に金属製の昆布のレプリカが立っている。

 バブル経済が全盛だった頃の函館西部地区は、投機目的のマンションが多く建てられ、歴史ある古い建物の多くが姿を消していったという時代だったという。またこの箱館昆布館も一度は開発業者の手に渡り、近いうちに解体される予定だったという。しかし地元の市民団体が再度この建物を買い取り、昆布の資料館として再生されたのだという。しかし、現在では、資料館も閉鎖されてしまった。(函館歴風文化賞受賞)

 1階両脇の庇の下には、洋風建築の定番であるアカンサスの装飾が付けられている。

左横に残る「繋柱」~現在のベイ函館の浜の掘割にあった船の繋柱。ここに移設されたようだ

 

◎〈おまけ〉 餅の老舗・栄餅(栄町5-13)※創業明治33年(1900年)

 今日、撮り直したい写真があったので、その帰りに寄って、いくつかの餅菓子を買ってきた。

 レトロ建築とは言えないが、創業明治33年(1900年)で、120年たっている函館市内でもっとも古い和菓子屋。現在は4代目。昔はこの辺りの各町内にはそれぞれ餅屋がたくさんあったそうだが、今でも続けているのはここくらい。

 昔、近くの職場に転勤してまもなく、この店に寄ったら、奥さんが子供のころ旧大野町の近くの友達の家に同居していた叔母さんだったのには驚いた。今の店主のお母さんだが、今日、店主とそのときのことやお母さんの実家のことを話したら、とても懐かしがっていた。足は不自由だがまだご健在とのこと。

 

 ゲットした、薄皮さくら餅、べこ餅、豆餅(塩味)


函館レトロ建築探訪(その1)~若松町・旭町・豊川町

2020年04月22日 | レトロ建築・古民家カフェ

 今日は、風が非常に強く、寒かったので外出は控えた。先日カメラに収めてきたレトロ建築の中から・・・。 

◎旧滝花質店(若松町)<建築年は不明>

 石造りの蔵とくっついている和洋折衷住宅(擬洋風建築)の旧滝花質店。いつ頃の建築物なのかはネット上では不明。

 直接電話してみたら、年配のおばあちゃんが対応してくれたが、自分が嫁に来た時にはもうすでにあったので、詳しいことは分からないとのこと。ただし、母屋も蔵も昭和になってからのものにはまちがいないだろうとのことだった。なお、質店はもう営業していないとのこと。

函館で3軒しか現存していない殺生釘のある蔵。

・「殺生釘(せっしょうくぎ)」は、蔵の屋根の端の鬼瓦や鬼板の上に、陽炎のような数本の釘状の金属が放射状に付けられているもの。語源は不明だが、地域によっては「陽炎」「からす」とも呼ばれている。京都・奈良以北にしか見られない。
・「殺生釘」の目的ははっきりしないが、①魔除け ②烏が瓦に糞をしたり巣を作ったりすることの防止 ③建築主の財力の誇示などの諸説がある。

・函館は大火が多かったので「火避け」の意味合いもあったのではないかとの説もある。

 

◎旭町の「函館根津製餡株式会社」<昭和10年築>

 根津製餡は、昭和9年の大火でそれまでの店舗が焼失したため、その翌年の昭和10(1935)年に建てられたものだという。ちなみにこの店舗、現在の函館では珍しい純和風の本格的商家建築である。なお、蔵は鉄筋コンクリート製で、根津製餡が函館で創業した明治40(1907)年ころに竣工したものらしい。

 根津製餡は明治40(1907)年の創業。〔北海巴こしあん〕という乾燥餡子(あんこ)の製造で知られる、函館の老舗会社である。創業者の本間家は、江戸時代から北前船のルートとして函館と交流のあった越後・新潟の出身。この昭和9年大火焼失後の店舗のデザインは、本間家のルーツである新潟の商家建築を参考に建てたそうである。

 

◎豊川町・電車通りの「及能商店株式会社」<昭和11年築>

 昭和9年の大火後に建てられた骨太な鉄筋コンクリート造りのオフィスビルディング

 昔は函館駅前から十字街までの電車通り沿いには年季の入った建物が見られたが、この「及能株式会社」はこの界隈で生き残った、数少ない歴史的建造物になってしまった。

 装飾を排除した地味で武骨な外観は、当時の時代背景が影響していると考えられる。窓がかなり小さめに取られているのも、火災時を考慮しての設計なのだろう。

 建物の施主である及能(きゅうの)株式会社だが、石川県金沢出身の及能仁三郎が明治18(1885)年に家族と共に函館へ渡り、西川町(現在の豊川町)で畳屋を開業したのが会社のルーツである。更に及能は明治42(1909)年に自身の店を合名会社として登記、本業の畳屋のほか雑貨販売、不動産賃貸、倉庫業、金銭貸付業、食品製造業をはじめ現在に至る。

 moomooタクシーの社屋を挟んで、同じような意匠のビルが建つ。これも同じころに、同じ設計者の下で建てられたのではないかと言われている。

 

◎豊川町・電車通りの「伊藤商事株式会社」<昭和11年築>・「旧塩瀬菓子舗」<建築年は不明>

 電車通りとグリンベルトの交差点に建つ「山三伊東商事株式会社」と隙間なくくっついて建つ「塩瀬菓子舗」

 近くの及能商店と同じ頃に建てられたが、割と華やかな意匠になっている。細い縦長の窓がモダンな感じである。

 「山三伊東商事株式会社」の創業は明治18年(1885)、砂糖問屋として創業し130年を迎える。現在は業務用食材のほとんどを取り扱っている。

 後ろにも社屋が繋がっている

 

 「旧塩瀬菓子舗」~窓間の柱に面白い輪切りを重ねたような雅趣ある装飾を施したレトロビル。「塩瀬」と壁に大書してある。なんでも東京に本店を置く老舗菓子舗であったとか・・・昔は和洋菓子を扱っていたが、現在は営業はしていない。

 建築年は不明だが、隣の伊藤商事と同じ頃の可能性大だが、意匠や間口の狭さからすると銀座通りに立ち並ぶ大正10年ごろの建物と似ている。もしかしたら、昭和9年の大火で焼け残った建物・・・?

 検索してみたら、東京に「塩瀬総本家」という、宋から渡ってきた中国人が始めたという創業660年ほどの御菓子の超老舗がある。当時函館は東京以北随一の都会だったことを考えると、ここにその支店があったとしても不思議ではない。

 この辻向かいにあった、この辺りでは一番目立っていたレトロ建「旧函館信用金庫本店(旧十二銀行函館支店)」は、今年の1月に解体されてしまった。


古民家カフェ「パザールバザール」 & 早咲きのサクラ

2020年04月11日 | レトロ建築・古民家カフェ

 二十間坂を市電の通りから少し上がった右手に建つ、壁にツタがからまるかわいらしい建物が「PazarBazar」である。昭和初期の建物に合うように、取り壊した家屋から柱などを持ち込んでリノベーションした店主のこだわりの店だけあり、異国情緒がただよいながらも、懐かしいぬくもりがある。

 ご夫婦が二人で経営しているトルコ料理がメインの店である。ご夫婦はアジア旅行が大好きで、トルコの大都市・イスタンブールの食堂で働いた経験がある店主がその時に食べた味を函館で再現するため、40種類以上のスパイスを巧みに組み合わせ調理しているという。

 元の建物は何だったかを聞くのを忘れたが、民家にしては小さい感じで、造りからすると倉庫だったのような感じも受ける。

 玄関を入ると、右手が会計カウンターと厨房。

 

 客室は急な階段を昇り、2階となっている。壁のレンガが良い味を出している。

 

 テーブルは、2人掛けが2つ、4人掛けが2つのこじんまりとした部屋である。しかし、吹き抜けになっているので、窮屈な感じはしない。

 

トルコ独特のステンドグラスランプが美しい

 

 シシケバブなどのトルコ料理がメインのようだが、自分は料理より建物の内部が興味の対象だったので、申し訳ないが安く済むコーヒーのみにした。

 今度は、妻同伴で料理を楽しみたいものだ。

 

◎早咲きのサクラ

 中央図書館前にすでに咲いているサクラがあるという情報を得て、見に行ったら、車道に面したまだガラスに接している八重咲のシダレザクラが確かに咲いていた。

 咲いているのは、窓ガラスに接しているものだけである。反射熱で早く咲いているのかも?

 

 トサミズキ