癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

利尻山元号またぎ登山(平成は長官山避難小屋まで)

2019年04月30日 | 登山・旅行

 長官山到着。平成最後の利尻山山頂部をバックに。

 四国からやってきた法起坊見習いさんにお付き合いの「利尻山元号またぎ登山」の今日は、平成最後の日である。今日の予定は8合目にある長官山避難小屋まで登り、そこに泊まり、令和元年の初日の明日は、登頂し、そのまま下山の予定である。

 天塩の道の駅で朝を迎え、4時にスタート。
 

  豊富町で迎えた平成最後のご来光

5時半に稚内道の駅に到着。着替えと荷物の整理をして、コンビニで朝食ほかの必要な物を購入。6時に法起坊見習いさんと、昨春の四国遍路以来の再会を果たす。


 早く着いたので、1便前の6:40のフェリーに乗ることができた。
 お金持ちの法起坊見習いさんがこちらの往復の乗船券まで払ってくれた。なお、彼は車を積んで、明日の下山後も利尻に留まり、その後礼文にも渡る予定。
 

 出港してまもなく、ノシャップ岬の利尻山を写す。


  海上に浮かぶまだ白い利尻山。

 8:20、鴛泊港到着。法起坊見習いさんの車で、登山口へ。




 9:00、スタート
 今日は8合目までなので時間はたっぷりある。荷物が重たいので、法さんのペースに合わせてゆっくりゆっくり、休み休みながら登る。
 無風・快晴のこれ以上はないと思われる天候に恵まれた。


 登山道尾根の登山道の左側の雪の付きの良い雪庇側を登る。


 礼文島とポン山をバックに登る


 上から下りてきた3人を見たら、なんと、函館山の会の林会長と若手の2人だった。お互いに「こんな所で会うなんて」とビックリ!
 今日は、15人くらいの人たちに会った。
 

鴛泊市街地をバックに


 第2見晴台から長官山を見上げる


15:35、法さん、長官山へ到着。


 小屋の上のピークから右下に避難小屋を見下ろす。


16:00、避難小屋に到着。2階の入口から入る。


 貸し切りなので、2階に寝床を作る。まずは、ビールで乾杯し、ブログを打つ。

     
     夕食の準備 

 明日の予報は曇りのち雨だが、雨は夕方からなので、朝の内に登頂して、下りると大丈夫だろう。朝の内だけでも晴れてほしい。


 平成最後の夕日は、残念ながら薄い雲の中で残念。

一路稚内を目指し、天塩道の駅で車中泊

2019年04月29日 | 登山・旅行

てしお温泉夕映

 四国遍路でお世話になった松山市の法起坊見習いさんが、何を思ったのか、昨年3月時点ですでに「元号またぎ利尻山登山」を計画して、遠路はるばる来道している。1年以上も前からの計画だったが、こちらも同行する約束をしていた。

 そこで、函館を11時に出て、国道5号は混んでいたので、大沼ICから黒松内JCTまで高速に乗り日本海側へ抜けた。さらに余市まで延びた高速に乗り銭函で下りて、あとは日本海側をひたすら北上した。

 明日の7:30のフェリーで利尻島へ渡る予定だが、一気に560kmの運転は辛い。それでも、490km先の天塩まで走った。GWでも日本海側の道路は空いていて、高速道路みたいなものだ。19時に着いたてしお温泉夕映で運転疲れを癒して、道の駅に移動。今は車中泊態勢に入っている。
 明日は、あと70km走ると稚内に到着し、法起坊見習いさんと合流できるはず。
 平成最後の明日は、7合目の長官山避難小屋に泊り、令和元年初日の明後日の朝頂上に登って下山する予定である。

自分なりの平成を振り返る

2019年04月29日 | 日常生活・つぶやき

堀の上に枝を延ばす五稜郭公園標本木のサクラ

 昭和から平成に変わるときは、昭和天皇が亡くなってすぐなので、元号が変わることに対する対する思いというのは特になく、「ああ、平成に変わったか?」という程度だった。

 しかし、今回は1年以上前から変わることが分かっていて、ひと月前に新元号の令和が発表された。単なる通過点に過ぎないのに、「平成最後の・・・」「令和初の・・・」などとその変わり目を否が応でも意識せざるを得なかった。
 今、人生の終末になって迎える令和だが、自分にとっての平成という30年間はどんな時代だったのかを思いつくまま振り返ってみたい。

 まずは、時代背景だが、昭和19年の戦争中に生まれた自分にとっての昭和は、まさに復興と繁栄の時代だったと言える。常に夢が持てて、それに向かって頑張れた良い時代だったと思う。それに比べて、平成はバブルがはじけて、経済的にも横ばいで、自然災害も非常に多く、高齢者社会になり、昭和に自分が味わったような夢もあまり持てなく、特に若者にとっては気の毒な時代だったような気がする。

 そんな中で、自分にとっての30年間だが、平成元年は管理職元年だった。学級担任から教頭になり仕事の内容がガラッと変わった。しかし、3年前までいた職場だったので、職員も子どもたちも半分は同じ顔ぶれだった。何と言っても一番の強みは地域を良く知っていることだった。それだけに迷うことなく楽しく仕事をすることができた。

 そして、3年後、校長試験を受けたら受かってしまった。若過ぎることもあって、1年待たされて校長となった。順風満帆過ぎるこの4年間だけでも、考えられないほど多くの人たちに支えられ、引き立てられたことに心から感謝している。

 今や自分の第2の人生の中心となっている登山を始めたのもこの4年目の年である。健康増進と老化防止はもちろんだが、「仕事以外で、自分の能力だけで、充実感や満足感を味わえる新しい挑戦はないだろうか?」と思ったことが大きい。それが、「一人歩きの山歩き」にハマったきっかけでもある。

 校長として11年間、4校に勤めさせていただいた。最初は八雲町で残りの3校は函館市内だった。週末には山に登り、気分転換を図ることができ、仕事にも大いにプラスになった。職員にも恵まれ、11年間、自分がやりたい学校経営を思う存分楽しくやらせてもらったと感謝している。

 しかし、良いことばかりが続くわけではなかった。平成13年6月に突然余命3ヶ月を告げられた先妻が、わずか5ヶ月で逝ってしまった。ただ、自分の学校経営以外に校長会事務局長という一番忙しい役職を仰せつかっていた年で、その後の2年間も校長会長として、15年に1回しか回ってこない全道規模の大事業の推進もあり、悲しみに打ちひしがれているヒマなどは全くなかった。それでも山にだけは良く登った・・・。その2年間で、2人の子供も相次いで結婚してくれた。

 平成16年3月に円満退職を迎えることができ、いろいろあった再就職の話はすべて断って、山三昧の第2の人生が始まった。一人で好きなように過ごすつもりだったが、東京にいた今の妻が「私が先生の面倒を見る」と申し出て来た。昔の教え子で、子供のころから性格も生い立ちも良く知っていたので、これも第2の人生に与えられた何かの縁だろうと決断して現在を迎える。ひょうきんなくせに几帳面で、典型的な「押しかけ世話焼き女房」ぶりを発揮してくれている。特に平成20年と23年の大腸癌手術のときには、本当に助かった。

 退職後、一番長い趣味であるスキーは函館スキー指導員会長と道スキー指導者協会副会長を各12年間も務めさせていただいた。退職時に唯一断ることができなかった退職校長会の仕事も最後の2年間は、函館支部長と道本部副会長を各2年間務めさせていただいた。今は一切の役職から解放されている。

 単なる遊びの世界のはずの登山は、タイミングがインターネットが大衆化してきた時期と重なったのが大きい。当時まだ少なかった山のホームページを開設し、翌年に北海道の山の情報交流サイトであるHYML(北海道山のメーリングリスト)の創設に関わったお陰で、多くの山仲間に恵まれ、どんどんステップアップすることができた。山岳雑誌の原稿依頼や新聞の連載、さらには講演やガイドの仕事なども舞い込み、おまけに、自分の財産となる著書まで発刊することができた。なお、ここ数年ハマっている古道・街道歩き旅も登山の延長である。

 こうして平成の30年を振り返ってみると、仕事も遊びもある意味挑戦であった。しかし、それも支えてくれる人や力を貸してくれる人があってこそである。自分の人生訓は「挑戦と感謝」である・・・もちろんその土台となった昭和も含めて、「本当に人に恵まれた幸せな人生」であると心から感謝している。

 さて、あと2日で迎える令和は、自分の終末の人生にどんな思い出を与えてくれるのだろうか・・・? 最期はボケないで「本当に幸せな人生だった。ありがとう!」と言って逝きたいものである。

函館市街地のサクラ巡り

2019年04月28日 | 花・紅葉だより

 24日に開花した函館のサクラであるが、その後、寒い日や雨の日が続いた。今日ようやく暖かな春らしい陽光に恵まれ、一気に開花が進んだ感じである。
 そんな中、五稜郭公園、千代台公園、桜が丘通り、函館公園へサクラ巡りに出掛けた。

◎五稜郭公園





毎年「今年も咲いていたか?」とホッとする老木


大規模な花見グループ


昨日の雨が雪になり、真っ白な横津連峰

◎千代台公園

ここはエゾヤマザクラが主体だった。

◎桜が丘通り




◎函館公園

すりばち山から噴水公園と津軽海峡を見下ろす


サクラの間から函館山山頂を見上げる


旧図書館前


大混雑の露店通り


30分待ってようやくありつけた露店一番人気のくいだおれのたこ焼き

◎夕方に五稜郭公園へ出掛け、妻と2人だけのささやかな花見

 毎年の自分の花見宴会は、函館トライアスロンクラブと退職組織の2回である。しかし、今年の函トラはいつもお世話してくれる事務局長のMAEちゃんがスペインでの世界大会への出場でいないので中止。退職組織の方は日程の関係でどうしても参加できず、花見に付きもののバーベキューやジンギスカン鍋を楽しむことができない。
 そこで、夕方に五稜郭公園へジンギスカン持参で出掛け、妻と2人だけでささやかな花見をしたという次第。

若松埠頭に接岸のシルバー・ミューズ号

2019年04月27日 | イベント鑑賞・参加

若松埠頭に接岸したSILVER MUSU

 今年の函館港へ入港するクルーズ客船は49回の予定である。今年の特色は、これまでは港町埠頭にしか接岸できなかったが、今年から昔の連絡船の埠頭だった若松埠頭へも接岸できるようになったことである。
 ただし、若松埠頭は4万トンクラス以下で、それ以上の大型は港町埠頭へとなっている。今年の若松埠頭への接岸は15隻で、残りの大型クルーズ船は34隻は港町埠頭となっている。
 
 8:00入港予定だったので、入港風景も見たくて、早めに行ったが、7:40にはすでに着岸していた。


 このシルバー・ミューズ号は、日本のシルバーシークルーズ社の船
 総トン数40,700トン、乗客定員596名、乗組員411名、長さ218m。
 小型船ながらも客室はゆったりとしたスイート仕様で広々とした空間を演出しているそうだ。




 これまで港町埠頭に接岸していたクルーズ船に比べてやや小型なのは否めないが、
 隣に係留されている摩周丸(3782総トン、全長118.7m)と比べると、かなり大きい。




 東浜埠頭から摩周丸とシルバー・ミューズ号を眺める
 

昨日オープンしたTHE DANSHAKU LOUNGE(男爵ラウンジ)

2019年04月26日 | 日常生活・つぶやき

七飯町道の駅なないろななえの隣に、昨日オープンしたTHE DANSHAKU LOUNGE(男爵ラウンジ)

 このラウンジは男爵いもの生みの親「川田龍吉 男爵」に由来している。川田男爵が英国の恋人ジェニーを懐かしみ輸入した種いもを、七飯町の自家農園「清香園」で試験栽培したのが「男爵いも」の始まりである。それを日本の風土でも栽培できるよう品種改良したのが現在の男爵いもである。

 そんな川田男爵のスピリッツを受け継いだ、七飯町の未来へ繋げるまちづくりのために、歴史文化遺産の展示、地元の食文化を継承するレストランやショップのほか、イベント・コミュニティスペースを備えた新しいスタイルのラウンジ空間である。

 広い空間に、川田男爵がアメリカから輸入した当時の農耕具等を展示し、その間にお土産等を展示販売している。左奥にはレストラン、正面奥にはテイクアウトメニューコーナーもある。
 なお、ここに展示されている農耕具等はすべて北斗市の当別にあった男爵資料館から移設・展示されたものである。

 施設内の天井から紙吹雪のように吊るされたのは、男爵の死後に金庫の中から発見された男爵とイギリス人女性ジェニーとのラブレター・・・これは当別の男爵資料館で展示ケースに展示されていたが、それをコピーしたものであろう。 


 川田龍吉は、江戸時代末期の安政3年に土佐で生まれている。慶応義塾大学を出た後、造船技術を学ぶために21歳でイギリスへ留学。その後、日本郵船機関監督助役を経て、横浜ドック社長を経て。明治41年に函館ドック社長に就任。函館ドックの経営が軌道に乗ったところで勇退した龍吉は、残された生涯を北海道農業近代化のためにささげることを決意し、当別におよそ1,200町歩の山林農地の払い下げを受けて農場を建設。主として、米国より最新式の農機具を多数輸入し、機械化による農業を試みている。→川田男爵の詳しい経歴


入口に展示されているアメリカのロコモビル社製蒸気自動車。日本人初のオーナードライバーとなる。










レストラン



テイクアウトメニューのカウンター


 入口の左奥にあるワインやチーズの販売コーナー


 昼食代わりの道の駅なないろななえの方のテイクアウトメニュー
レストランは男爵ラウンジが充実しているが、テイクアウトメニューは道の駅の方が充実している

胃カメラ検査 & 泌尿器科再診・・・ちょっと異変あり?

2019年04月25日 | 大腸癌以外の検診・健康関係

我が家のシバザクラとチャボアヤメ

 前回、検査の日の朝にうっかりして牛乳を飲んでしまい、胃カメラの検査ができなかった。今日改めて五稜郭病院へ出掛けた。その後、やはり旅に出る前に平田泌尿器科の検診で、レントゲンやCT検査を受けたが、膀胱に気になるところがある。血液検査の結果も分かるので、旅から戻ったらまた来てくださいと言われていたので、再診に出掛けた。

◎胃カメラ検査
 2年ぶりの胃カメラで、今回も鼻からカメラを入れての検査を選んだ。口からの検査よりはずっと楽だが、それなりに辛さはある。
 
 結果だが、「萎縮性胃炎の症状が見られます。これはピロリ菌が原因のことが多いんですが、ピロり菌の検査はしたことがありますか?」とのこと。
 
 ピロリ菌の検査は、2年前の胃カメラの時にしてもらっている。しかし、そのあとの大腸検査のときに、結果を先生も言い忘れて、自分も聞き忘れていた。改めてPCでデータを調べてくれた。「ああ、やっぱりいますね。除菌をしなくてはなりませんね。しかし、その前にちょっと心配なことがあるのですよ」とのこと・・・ドキッ!
 「実は、血液検査の結果ですが、腫瘍マーカーの数値がほんのちょっとですが上がっているのですよ。大腸と胃は大丈夫ですが、CT検査を受けた方が良いでしょうね。ピロリ菌の除菌はそのあとに考えましょう。」とのこと。

 実はこのあとに平田泌尿器科へ再診に行くこととその目的を告げた。先生は、血尿が出ていないのであれば、膀胱癌は大丈夫ではないかなと言われた。
 とりあえず、CT検査の日程を5/8に入れてくれた。しかし、非常に混んでいて、空いている日を待っていたらかなり遅くなるので、その日の検査の合間に入れてもらうことにしてくれた。

 腫瘍マーカーの数値が高い項目は、CA19-9で基準値は37.0U /ml以下だが、40.2だった。この項目は、すい臓癌をはじめ胃や大腸などの消化器系の癌の可能性があるらしい。胃と大腸は検査を終えて大丈夫だったので、すい臓か?一番罹りたくない癌なのだが・・・。
 しかも、この血液検査の採血は50日前のものである。ちょっと心配だ。今はなんともないことを祈るのみ。

 また、萎縮性胃炎のことであるが、自覚症状はまったくない。検索してみたら、萎縮性胃炎は、長年にわたって胃の粘膜に 炎症が起こること(慢性胃炎)で、胃液や胃 酸などを分泌する組織が縮小し、胃の粘膜が 萎縮した状態です。 萎縮性胃炎が進むと、胃の粘膜は腸の粘膜のようになり(腸上皮化生)、さらに胃がんに まで発展してしまう恐れがあります。 炎症の原因として最も多いのは、ピロリ菌による感染です。とのことだった。これは、除菌をすれば治るのかもしれない。

◎泌尿器科再診
 こちらは、「血液検査の結果は心配な数値は出ていないし、今日の尿検査もきれいなので、多分、腸管が膀胱をちょっと圧迫しているだけなのでしょう」とのことで、ひと安心。

サクラ前線上陸

2019年04月25日 | 花・紅葉だより

図書館前の道路に面した西側が多く開花していた

 昨日、函館地方気象台は、「函館市で桜が開花した」と発表した。去年より1日早く、平年より6日早い開花だそうだ。

 夕方、留守中の妻の誕生日と結婚記念日、そして自分の旅の打ち上げを兼ねて、函太郎五稜郭店へ出掛けた。その前にちょっと五稜郭公園へ寄ってみた。


 多くは、開花し始めてはいるが、全体的にはほんのりと色付いている感じである。


かわいい胴咲きサクラ




 例年一番先に咲くのは、六花亭の裏であるが、もうすでに満開状態だった。
 今日以降2日間は、雨や低温の日が続きそうである。花持ちは長くなりそうだが、花見は寒そうな感じだ。

奥州街道・その2(盛岡道~仙台道)歩き旅を振り返る

2019年04月24日 | 登山・旅行

 昨秋の三厩宿~盛岡宿までの松前道に引き続き、12日間にわたって、白河宿までの盛岡道と仙台道を踏破することができた。通過した宿場は63次、迷ったり、寄り道したりの距離を合わせて、トータルで約410kmの旅だった。
 なお、宿から宿までの歩いた毎日の歩数は、最低で約45,000歩、最高で約61,000歩だった。


 今回は、天候にも恵まれ、北上する桜前線と仙台付近でクロスすることができ、早咲きや遅咲きの桜のほかに梅や桃など、さらには、道端や庭の春の花々を楽しみながら歩くことができた。
 
◎今回も一番の頼りにしたサイト
 前回に引き続き、今回も「揺次郎のウォーキングライフ」の「松前道ウォーキング」の「松前道」「仙台道」を頼りにして歩いた。
 このサイトは、『奥州街道―歴史探訪・全宿場ガイド』を基に歩き、宿場間ごとのルートをgooglemap上に記載してくれているので、拡大すると、建物や店の名前、信号の場所も提示されるので非常に助かる。


◎盛岡道~仙台道を歩いてみて

 一里塚と明治天皇行幸の石碑ばかりが印象に残った松前道に比べて、今回の盛岡道と仙台道は、参勤交代で利用した大名も増え、9世紀の坂上田村麻呂や12世紀の奥州藤原氏三代やそれに関わる源義経など、さらには、戦国時代から徳川時代に掛けての藩政、幕末の戊辰戦争など、さまざまな重層的な歴史や文化が渦巻き、いろいろな歴史遺産や史跡やその説明板や案内板も多い充実した街道歩きだった。


 参勤交代で歩いた大名の数が増え、松前道に比べて、本陣跡や脇本陣跡も多くなり、有壁宿には当時のままの本陣が残っていた。しかし、中山道や東海道に比べては、宿場の面影を残すところは少なかった。


 ただ、松前道に比べて、街道筋や宿場には大きな屋敷を持つ旧家や江戸時代から続いていると思われる○○屋□□店といった老舗が多く目に付いた。

 もともとあった奥州街道に沿って国道4号が走っているが、県道や市町村道となっている街道や、わずかながらも山越えの昔のままの街道が残っており、思っていたより国道4号歩きは少なかった。また、街道に沿って東北本線が走っているお陰で、宿の関係で移動するのには便利だった。

 史跡などは、分からないときはうろうろしないで、通行人や近くのお宅や店に飛び込んで、聞くように努めた。

◎歩く距離と時間について
 今回は日が長いので、5時スタート15時までにはゴールを基本に、35km前後の計画を組んだ。実際には少ないときで27km、多いときで42kmだった。ちなみに、歩いた距離は、その日の街道のスタート地点からゴール地点までのGPSによる実測距離なので、迷ったり寄り道したりした分も含まれている。



 冬のクロスカントリースキーやハードな雪山登山を続けたあとの出立だったので、体力的には疲れを感じたり筋肉痛になったりすることはなかった。ブログアップの時間を確保するために、遅くとも15時までにはゴールするように努めた。ただ、宿がゴール地点で確保できなかったときには、電車で移動するので、始発が6時以降になり、スタートが遅くなることもあった。

◎費用と宿の確保


 宿は、素泊まりで5000円以内、素泊まりのときの食事は朝と昼で1000円、夜は1000円とし、1日7000円を基本とした。実際の宿は、13泊の内5000円を超えたのは3回、2000円台で収まるカプセルホテルが4回とトータルで考えれば、宿代は5000円以内で収まったと思う。仙台までの盛岡道は、スタート前に予約を入れて確保しておいて、無理してでもそこまで歩いたが、仙台道へ入ってからは、毎日その日の昼に、残りの距離を考えて宿を探すようにした。


 食事は、朝はコンビニでコーヒーとサンドイッチが多かった。昼は座って休みたいし、その日の宿を探すためにも食堂やレストランが多かった。その点、すき屋、ガスト、まるまつ、かつやなどは500円前後でボリュームもあり、栄養バランスの取れた食事が摂れるので重宝した。夕食は、宿の近くの外食もあったが、風呂に入ってブログを打ち始めると、着替えで外に出るのが面倒で、宿に入る前に買い込んだコンビニ弁当+αで済ませることもあった。

◎ブログアップについて
 「歩いては書く」をポリシーとしている以上は、その日のうちに旅日記をアップすることを自らに課したミッションとしている。昔の松浦武四郎を初めとする旅人は、筆と墨で毎日の記録を書き、さらには詳しいスケッチまでしている。それに比べたら楽なはずである。

 今回は、歴史遺産や史跡が多く、その写真の選択から、何を削って何を書くかということに頭や時間を多く費やした。ガイドブックがないので、前述した「揺次郎のウォーキングライフ」の史跡や文化財の説明部分を参考に書いたり、物によっては、それをコピペさせてもらったこともあり非常に助かった。

 しかし、毎日3~4時間ほどを費やすことが多かった。それだけに、なるべく15時前にゴールするように努めた。それでも、遅いときはアップできるのが21時前後になる日もあった。

 体や足はそれほど疲れを感じることはなかったが、目が疲れて集中力が途切れると間違いが多くなり効率が悪くなる。最後の2日間は打ち終えた後に手首が軽い腱鞘炎症状を起こしていた。

◎白石藩の松前家の墓所について


 白石藩の片倉家の菩提寺にあった松前家の墓所があったことに驚いたが、これは、
松前藩祖・松前慶廣の八男安廣を祖としている。。安廣は慶長十四年(1609)伊達政宗の家臣となり、二千石の領地を賜っている。これは父・松前慶広が来仙して、安廣の仕官を政宗と約束したとも、または旗本になっている伯父を頼りに仕官を求めて江戸に登る途中。白石にて片倉重長の知遇を得て、政宗に推挙されたとも言われている。
 また寛永6年(1629)には政宗の腹心片倉小十郎景綱の子・小十郎重長の娘喜佐を妻として娶り五男三女をもうけていて、その後、仙台藩松前家として、維新に至っている。→仙台松前家の系図

 なお、これとは関係ないが、松前藩ゆかりの地で、寄るつもりが寄らずに来てしまったところがある。

 松前藩は、1807年~1821年の14年間、蝦夷地が幕府直轄となり、当時の陸奥国伊達郡に転封された時代がある。現在の福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡の梁川城跡に陣屋を置いた。梁川に連れてきた家臣は111名であったという。その梁川町(現伊達市)に寄ってみたかったが、思い出したのが、その近くを通過してしまった後だった。
 文化の交流やゆかりの品も多く、その縁で昭和59年10月に松前町と旧梁川町の間で姉妹都市提携を結んでいるという。いずれ、東北の山巡りのときにでも寄ってみたいと思っている。

◎今後の奥州街道歩きの予定
 奥州街道の残りは、幕府直轄の白河~日本橋(奥州道中)である。ついでに、宇都宮から別れる日光街道を合わせて、今秋に歩く予定である。

帰路に就く

2019年04月23日 | 登山・旅行
    
 朝の郡山駅前の様子。3連泊した郡山だが、ここがこんなに都会だとは認識不足だった。人口が33万人で、福島市より4万人ほど多く、福島県随一の大都市だった。交通もすぺてここが拠点になっていた。

 いかに安上がりで、効率良く帰れるかをいろいろ調べるのも楽しいものだ。
 その結果、下記のような乗り継ぎの計画を立てた。
郡山駅前8:25~(高速バス)~10:25仙台駅前〈2,300円〉
仙台駅前11:30~(高速バス)~15:50弘前駅前〈5,400円〉
弘前駅16:16~(JR)~17:01青森駅〈670円〉
青森駅~(徒歩30分)~青函フェリーターミナル
青森18:00~(青函フェリー)~21:50函館〈1,440円〉
函館・青函フェリーターミナル~(徒歩35分)~22:30自宅
※費用合計9,810円。ちなみに郡山から函館までの新幹線料金は19,240円。

 長距離移動には高速バスの利用が安上がりである。JRや飛行機に比べて時間は掛かるが、安いのが助かる。金はないけど、時間は売りたいほどある年金生活者には最高である。

 仙台から青森までの直通バスもあるが、朝と夕方しかないので、今回は弘前までの直通バスを利用した。

 仙台での乗り継ぎに1時間あるので、昼食は妻お勧めの店で牛たん定食を食べるのを楽しみにしていた。しかし、途中高速道路の工事渋滞に遭って、30分以上も遅れた。やむなく、牛たん定食は牛たん駅弁に変わった・・・残念!
 弘前から青森までのこの時刻の電車は、昨年の妻との弘前花見のときも青森で夕食を摂る時間がなかったことは経験済みである。今回も前回同様、駅弁を買ってフェリーで食べた。

 今日の楽しみは、食べることだけだったが、結果は下記の通り。

          
 カプセルホテルの朝食〈500円〉

     
 昼食の牛たん弁当〈1,080円〉
 この弁当、おもしろかった。紐を引き抜くと温かくなる加熱機能付容器に入っていた。底の方を見たら生石灰と水が袋に入っていて、紐を引き抜くとそれが混合されて熱を発するらしい。ご飯も熱いくらいだった。

     
 夕食の比内鶏の鶏めし〈1,080円〉※これが一番美味しかった。

 さて、サクラ前線を迎えに行ったような今回の旅だった。
 仙台でちょうど見頃に出合った。今日は青森がやはり見頃を迎えていた。青森は19日に開花したそうだ。
 妻からのラインでは、函館は明日辺りが開花しそうとのこと。もし、そうなると、まさにサクラ前線とともに帰函することになるのだが・・

 フェリーの中からのブログアップしたが、明日は、今回の旅をゆっくり振り返ってみたい。


〈12日目〉75須賀川宿~76鏡石宿~77笠石宿~78久来石宿~79矢吹宿~80中畑新田宿~81大和久宿~82踏瀬宿~83太田川宿~84小田川宿~85根田宿~86白河宿<30km>(8時間15分)

2019年04月22日 | 登山・旅行
 計画に一部間違いはあったが、予定通り、12日で盛岡道と仙台道を歩き、無事に白河宿に到着できた。残りの江戸までの奥州道中と日光街道は秋に歩く予定。

 明日函館まで帰る最も安くて効率の良い行程を調べたら、今日も郡山まで戻ることがベストだった。そこで、同じカプセルホテルに3連泊することにした。安い上に、新しいので非常に快適だ。さらに、不要な荷物を預けてほぼ空身で歩けるのが良い。

 今日の宿場間の距離は、一番長いところで4kmで、あとはそれ以下で、次々と現れ、12宿も通過した。

 今日も天気に恵まれたが、暑かった。途中で24℃の表示があった。9時過ぎには半袖とハーフパンツでも汗を掻いた。

 6:20の電車で須賀川まで移動移動して、街道へ戻り、6:45にスタート。

須賀川宿~鏡石宿~笠石宿
 
     
 駅入口の街道から少し進み、現代の中宿橋を通って釈迦堂川を渡る。昔の中宿橋からの道へ入って抜けるのに少しまごついた。この橋を渡ると、須賀川宿の中心地となる。

     
 昔の面影の感じられないビルの並ぶ商店街が続くが、ビルの間から小路を覗くと白壁の建物が見え、街道の面影が残る。

 この須賀川市はウルトラマンやゴジラといった特撮映画を世に送り出した円谷プロダクションの円谷英二の生まれ故郷でもあり、繁華街にウルトラマンに登場するキャラクターの大きな人形が配置されている。どうも町の雰囲気にそぐわない感じがした。
 
     
 NTTの社屋前に芭蕉記念館がある。その隣の空地の角に相楽等躬宅跡、可伸庵跡の案内板がある。芭蕉と僧良は元禄2年4月22日から8日間、この等躬宅に滞在したと記している。

     
 その向かいは公園になっていて、芭蕉と曽良の石像があり、案内板には、8日間滞在した時に詠んだ俳句が記載されている。

 東京オリンピックの円谷選手の出身地で銅像も立っていた。円谷監督と円谷選手は親戚かも?そんなことを考えながら進む。

     
 繁華街を抜ける左手の東北電力の事務所の前には、須賀川宿の南の木戸だった黒門跡の標識がある。朝4時開門、夜22時閉門だったと記されている。木戸の内側に曲尺手があったのでその名残で街道がカーブしている。内側から見るとずれていることが良くわかる。

    
 郊外へ抜けると、国道118号に寸断された街道へ迂回して進むと、左右に松が植えられている上り坂へと入っていく。

    
 上っていくと、須賀川の一里塚が現れる。両側とも現存しているのは、久しぶりだ。しかし、旧国道の工事で街道が切り下げられたのか土手の上に存在しいるのがやや難点だ。日本橋からは59番目だと案内板に記されている。松並木や一里塚が現れると街道の風情が醸し出されて嬉しくなる。

 やがて、鏡石宿へと入っていく。

     
 商店街に入る手前に、これまでと少し変わった屋根の旧家があった。
 
 その後、鏡石商店街が続く。ときおり旧家は見られるが、現代的な商店街で宿場の面影はない。

 境目がわからない商店街のまま、いつの間にか笠石宿に入っていく。

笠石宿~久来石宿

     
 笠石宿の中心地辺りに笠地蔵の標柱が現れ、そこにお堂はあるが、笠地蔵が良くわからない。ここのお地蔵様は民話によく出てくる菅笠お被った地蔵様ではなく板碑だというのである。案内板には笠石とも記されているとのことなので町名の起こりがここにあるようだ。

     
 さて、どういうものかとお堂の中を覗いたがそれらしいものが見えなかった。お堂の横に回ってみると、他の場所から移設した文和碑伝型板碑とその解説があった。なる程笠を被った板碑だと納得した。
 
     
 商店街から農村へと入っていくと、このような木の枝をきれいに刈り払って門と塀のようにしている農家があった。

     
 このような立派な屋敷が多く目につく。

久来石宿~矢吹宿

 久来石の宿場は、1600年ころに作られた宿場だというが、街道筋の面影は残っていない

     
 やがて、左手に矢吹宿の一里塚跡の標柱が現れる。

矢吹宿~中畑新田宿 

     
 矢吹宿は大きな宿場だったようで、落ち着いた感じの商店街が続く。

     
 この広場は本陣跡である。「最後の本陣」とかかれているが、意味が良くわからない。

     
 その先の右手にしゃれた洋風建築の大正ロマン館が建っている。大正6年建築の元産婦人科病院だったとのこと。

      
 その向かいには、造り酒屋・大木代吉店だ。慶応元年(1865年)に味噌醤油業から独立して創業したと言われいてる。慶応四年の戊辰戦争では宿場も火災にあったが、創業者の代吉は酒蔵を守り抜き、奥州列藩同盟の落武者たちに酒を振る舞って励ましたとのことだ。

     
 今回は、まだどこでもその土地の名物を食べていなかった。柏屋菓子店で矢吹名物あん入りゆべしと珍しい柏草餅を購入して、食べながら歩いた。
 
     
 矢吹宿の外れに水戸街道の分岐の常夜灯が立っている。これは江戸時代のものだそうだ。

中畑新田宿~大和久宿~踏瀬宿~太田川宿~小田川宿

 これらの宿場は、農村の集落ごとにその中心地が宿場の働きをしていようで、今では商店街どころか、店すら1軒もなく、街道の面影は多少は感じられるが、宿場の面影はない。

     
 社が見えない神社の門の前に中畑新田宿の標柱が立つ。

     
 中畑新田宿の外れに「従是白川領」の石碑が立っていた。ここから白河藩の領地立ったのだろう。

     
 大和久宿の端から山に向かう奥州街道の標識があるので、そちらへ向かった。

     
 初めはタイヤ痕のある林道だったが、途中からは全くのやぶ道になった。確かに昔の街道の痕跡を残している。
 その先で旧国道に吸収されたかのように消えていた。急な法面を下りて旧国道へ下りた。

 その先の国道4号との交差点のラーメン屋で味噌味ワンタンを食べた。野菜は多かったが、高い割りに味はイマイチで残念だった。

     
 街道はやがて緩い下り坂となる。その手前の左手に卯右衛門茶屋と文七茶屋跡の案内板が現れる。往時、ここには深井戸からの水が美味しい「馬宿」と言われた卯右衛門茶屋と、眺めがすばらしい「丑宿」と言われた文七茶屋の二つの茶屋があり、休み所として繁昌していたと記載されている。 

     
 その先に見事な松並木が現れる。こちらの松並木が昔の街道の松並木のようだ。ワクワクしながらカメラに収める。案内板によると、この松並木は白河藩主・松平定信の当時に植えられたもので、明治18年ごろに補植したと記されている。いつまでも残しておきたい風景だなと、暫し見とれる。

     
 やがて、踏瀬宿へと入っていく。 

     
 この辺りの宿場は、集落が切れているので、次の宿場が分かりやすい。その途中には昔のままの街道が残っているところもあった。

     
 太田川宿の宿場は戊辰戦争で全焼したので街道筋の面影が残っていない。

     
 途中の林の中に突如姿を現した大きな武光地蔵(首切り地蔵)には驚いた。

     
 小田川宿までの間には、このような快適な街道歩きが楽しめるところもあった。 

小田川宿~根田宿


     
 小田川宿はきれいなチューリップの花壇が並んでいた。 
 小田川宿の先には、昔のままの街道が残っていたので、進んでいったら、先が消えていた。右の旧国道に吸収されていた。その法面をよじ登って旧国道に出た。

     
 その先は、高い切通しになっていた。昔の街道はこの上の尾根を越えていたので、大変な峠道だったものと思われる。

     
 根田宿の手前に白河だるま製作所があったので、中を覗かせてもらった。小さなだるまを作っているようだった。

根田宿~白河宿

     
 根田宿は整然とした小さな集落だが、やはり戊辰戦争で焼かれてしまい、昔のものは残っていないという。その出口の根田醤油合名会社の大きな建物が現れる。操業以来200余年という醤油会社の建物に微かに往時の面影が残っている感じだ。

     
 阿武隈川を渡る田町大橋を渡ると白河宿だ。ゴールは近い。

     
 城下町特有の大鉤形の道の先には、詩人荻野朔太郎の妻の実家の造り酒屋がある。宿場の雰囲気を出している。

     
 その先には脇本陣跡の公園かあった。次の鉤形を曲がると白河駅前である。そこを今回のゴールとした。

     
 15:00ちょうど、白河駅に到着。なかなか雰囲気のある古い駅だ。
 下りの電車は出たばかりだった。次の電車まで駅カフェでブログの下準備をした。
 
    
 駅のホームから小峰城を眺める。

 郡山駅でお土産を買い、3連泊となるホテルへ。今日は平日料金で2600円だった。土日月とすべて料金が違った。
 ブログの打ち過ぎで手首が腱鞘炎気味で、目がしょぼしょぼ。足はまったくなんともないのに・・・?!


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〈11日目〉65杉田宿~66本宮宿~67高倉宿~68日和田宿~69福原宿~70郡山宿~71子原田宿~72日出山宿~73笹川宿~74須賀川宿<34km>(8時間45分)

2019年04月21日 | 登山・旅行
 今日は反対側から歩いてくるてくてく人さんとの再会が叶った。3年前の中山道歩きのとき、同じ宿になって以来、ネット上でのお付き合いが続いている。
 彼は、今日はこちらのゴールの須賀川から歩いてくることになっている。多分ほぼ中間地点の福原辺りで会えると楽しみに歩いた。そのためにも、道を間違えないように慎重に歩いた。
 さらに、宿に戻ってきてからは、栃木の山仲間のKa女史もわざわざ差し入れ持参で駆け付けてくれた。郡山駅のカフェでお会いすることができた。今日は、出会いの日だった。そういえば、今の妻との結婚記念日でもあった。

 今日の宿場は、間の距離が一番長い笹川宿~須賀川宿の8kmで、あとはすべて5km以下で、1kmなどというところもあった。そのためか、9宿も通り抜けた。しかも、ほとんど旧国道の歩きで、街道然とした道はなかった。

 連泊するので、不要な荷物をホテルに預けて、郡山発6:10の電車で電車で杉田駅まで戻り、昨日のゴール地点を6:35にスタート。電車移動はどうしてもスタート時間が遅くなるのが難点だ。

杉田宿~本宮宿

 駅は杉田宿の中心を抜けてしまっているので、本宮宿を目指す。特に見るものもなく黙々と歩く。

本宮宿~高倉宿

 本宮宿の江戸時代は、人口2384人、旅籠30軒、茶屋12軒、飯盛女70人という街道屈指の宿場だったそうだ。本陣も北と南に2軒
あった。

     
 本宮宿を進んで行くと、北町の本陣跡碑と樹齢200年と云われる黒松がある。本陣を努めていた鴫原家はその裏にある。

     
 宿場の中には、このような豪華な白壁造りの屋敷も多い。

     
 街灯に南の本陣通りと書かれているが、場所は特定できなかった。 

     
 本宮宿の外れに薬師堂があり、その境内の隅に戊辰戦争(1868年7月27日)の碑と解説がある。二本松藩軍と官軍がこの地で攻防戦をくり広げたことが記されている。

     
 その先には、会津街道と合流するが、そこには供養塔を兼ねた道標かをあり、「右あい津」「左江戸」と彫られていた。ここには本宮宿の南の木戸があったらしい。 

     
 進んでいくと、積達騒動鎮定之遺跡が現れる。1747年、毎年の不作つづきで年貢の軽減を農民が嘆願したが、わずかな軽減しか受け入れられず1万8千人の安積一揆がこの地で発生。この時、藩と交渉して流血することなく年貢軽減を実現し鎮定した冬室彦兵衛を顕彰したものだ。泣く泣く我慢をしたのだろう。

高倉宿~日和田宿
 
    
 やがて、高倉宿へ入っていく。特に宿場の面影を残すものは見当たらない。

    
 高倉城址の標識があった。

 写真を撮り忘れたが、暫く進むと明治時代に架けられた五百川の橋が現れる。五百川の名は、京の都から旅をしてきた人が、この川は丁度五百番目の川になるといったことからその名がついたとのことだ。しかし、本当に良くも数えたものだと感心する。

日和田宿~福原宿

     
 日和田宿は宿場の手前から宿場の中にも、昔の街道の松並木が残っていて、現在も新しく植えているようだ。

     
 宿場内には街道筋の面影は残っていない。宿場の北端に蛇骨地蔵堂が現れる。この蛇骨地蔵堂というのは、家来に両親を殺されたあやめ姫が大蛇となって仇を討つだけでなく里を荒らし、毎年16歳の娘の人身御供を要求していた。ついに33人目の時に、身代わりとなった佐世姫のお経によって大蛇は骨を残して成仏したので、この骨で地蔵尊を彫って祀ったのがこのお堂であるとのことだ。

      
 陸橋の上から、通ってきた日和田宿の町並みが見えた。

福原宿~郡山宿
 
      
 福原宿にも松並木が残っていて、街道の雰囲気を残している。

      
 この福原宿が今日のコースの中間地点なので、前から歩いてくる人日を気を付けながら歩いていると、ちょうど宿場の中心地辺りを、目印の赤いタオルを首に巻いた男性が歩いてくる。東京のてくてく人さんだ。彼は、こちらの姿をビデオカメラに収めながら歩いていた。3年ぶりの再会が叶った瞬間だ。

 休みながら話ができる所を、わざわざこちらの方向に戻って、探しながら歩いてくれた。コンビニのイートインがなかったので、向かいの図書館へ入ったが、ロビーはなかった。図書館に来た人が隣の総合学習センターを紹介してくれた。

      
 自販機もあり、缶コーヒーを飲みながら、椅子に腰かけて30分ほどお喋りを楽しんだ。今回こちらの日程に合わせて、会いたくて、わざわざ一昨日に白河から奥州街道の旅をスタートさせたと言う。感謝至極!

      
 再会記念の場となった学習センターをカメラに収めて、お互い反対方向へ別れて歩みを進めた。

      
 踏み切りを渡る手前に藤乃井酒造が現れる。これまでも必ずといっていいほど街道沿いにあり、昔からそこで営業を続けているという感じが好きである。

 すでに、郡山市街地との境が分からないほど建物が並び、徐々に賑やかになって郡山宿へと入っていく。
   
郡山宿~小原田宿

     
 宿場内というより、現代的な商店街へ入っていくと、Y字路が現れる。赤い風船という看板の下に、従是三春道という道標と、奥州街道と会津街道を示す道標の二つが立っている。元々ここには奥州街道と会津街道の分岐を示すものが大正3年に立てられたとのことである。

     
 やがて、繁華街のど真ん中のなかまち夢通りへと入っていく。

     
 本陣は、ビルの谷間にある八幡様といわれる安積国造神社の鳥居の先の右側にあったという。今はホテルの敷地になっている。

 なかまち夢通りから南銀座商店街へとつづき、境目のないまま、小原田宿へと入っていく

小原田宿~日出山宿

     
 小原田宿の入口と思われるクランク状のカープは、城下町に多い昔の先が見通せないかぎ形(曲手尺)の名残である。。

     
 立派な門構えと板塀のある旧家(旧庄屋)などが現れる。かすかに宿場の面影が残っている様子だ。

     
 その隣に小田原古民家と書かれた建物がある。中は公開されているようだが、寄らずに通過。

小原田宿~日出山宿
 
 この区間は、わずか0.9kmしかなく、境目もなく、気が付いたら通過してしまっていた。

日出山宿~笹川宿

     
 橋を渡る手前のささやき公園には耳語橋と音無川の由来が面白かった。それによると、奈良時代のこと、按察使(あぜち)として陸奥に来ていた葛城王が都に帰る時に、この地まで見送りにきた見目麗しい春姫と橋の上で別かれをおしみ何やらささやいたが里人には何も聞こえず川の流れも一瞬止まったと云われ、後世この川を「音無川」、橋を「耳語橋」と称するようになったと記されている。

 15:10、地下通路を潜ったら、須賀川駅への入口だったので、きょうはここをゴールとした。須賀川宿は明日のお楽しみ。

 駅に着いたら、10分もしないうちに郡山行きの電車が来た。
 連泊のホテルに戻ってチェックインしたら、日曜日は2300円だという。うれしい限りだ。
 風呂にも入らないでブログを打っていたら、電話がなる。栃木の山仲間のKa女史だった。今郡山駅前に車で着いたとのこと。前もって連絡はなかったのでびっくり。
 着替えて駅まで行ったが、広い駅でお互いに不案内なので、会うまで大変だったが、なんとか会うことができた。駅中のカフェで30分くらいお喋りして別れた。

     
 Ka女史からの差し入れ。いちごは1パックはほかの客にお裾分け。


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〈10日目〉59福島宿~60清水町宿~61若宮宿~62八丁目宿~63二本柳宿~64二本松宿~65杉田宿〈29.6km〉(8時間50分)

2019年04月20日 | 登山・旅行
 今日を入れてあと3日で今回のゴールの白河まで行けそうである。そんなに無理しなくとも、あちこち寄る距離や迷ったりろうろしたりする分も含めて、実測で1日30kmほどで良さそうな気配だ。そこで、今日はのんびり歩くことにした。

 朝は寒かったが、良い天気に恵まれて快適に歩くことができ、7宿を通り抜けた。

福島宿~清水町宿

     
 5:20に宿を出て、福島宿の中心地へ向かう。福島市の市街地の道を進むと、十字路の角に福島市道路元標がある。ここは元は高札場だったとの解説がある。

     
 その先はビル街だが、道幅は昔の街道の広さに合わせた一方通行の車道にしている。この辺りが本陣や脇本陣があったところらしい。
 その先の曲がり角辺りに、街なか広場があり、その脇に本陣跡が当時の絵図で示されているというので、その広場を探したがそれらしいところはない。

     
 その先の地下道を2回も潜っては戻って、通行人に聞いてようやく分かったのがここである。何かの工事現場になっていた。これなら分かる訳がない。30分近く無駄な時間を費やした。

     
 商店街の両側に昔からあっような屋号のついた店や古そうな感じの店を見ながら進むと、右手に「す桝屋」という江戸時代末期からの農村向け雑貨屋の建物がある。福島市内においても今に残る老舗の代表格であると説明板に書かれている。

     
 やがて、信夫橋に差し掛かる。橋から歩いてきた道を振り返るが、往時にはこの手前に石垣が組まれた番所があって、城下町の出入りの取り締まりをしていたそうだ。その絵も説明板に書かれていた。
 右の赤い社は、柳稲荷である。1684~88年の間の荒川氾濫の祭、流れてきた稲荷の御神体が町を救ったことからここに祀られたとのことだ。 
 
     
 信夫橋の上から荒川の上流に見える山は、右が吾妻連峰で、左が安達太良山である。自分が登った山を季節や場所を変えて眺めるのも良いものだ。

 商店街から住宅街に変わり、さらには農村地帯の旧国道歩きが続く。

     
 分岐に案内板があり、奥州街道は右で、天正年間の1573~1593年間に伊達政宗公により開設されたと記されている。 
 その道は高台に続く快適な道で、そのまま共楽公園の中の遊歩道となり、その先は山中の農道となっている。さらに清水町宿の入口まで続いていた。

清水町宿~若宮宿
 
     
 若宮宿の入口に崩れた土壁の屋敷があったが、往時は仙台屋という旅籠だったとか?

      
 白壁の家もあるが、現代的な建物が並ぶ清水町宿を進む。宿場の面影はない。宿場を抜けると、急に広い旧国道となり、情緒がなくなる。

若宮宿~八丁目宿
 
     
 清水町宿からわずか1.5kmで若宮宿となる。塀も建物もすべてレンガ造りの屋敷が目立っていた。

     
 宿場を抜け、旧国道と別れると、快適な街道歩きが続く。こんな道は街道歩きの楽しみでもある。そのまま、松川事件で有名な松川町に入って行くが突然松川ニュータウンが現れる。その先は再び街道然とした道となり、八丁目宿へと入っていく。

八丁目宿~二本柳宿

 八丁目宿は本陣跡も残っていて、旅籠も多く、大きな宿場だったようだ。八丁目宿の由来は境川から八丁目の所に宿場があったからと云われている。また、「酒館、青楼多し、妓娼を置き客を招き、宴にはべらしむ」との記録があるほどの歓楽街だったようだ。

      
 宿場の入口には白壁造りの酒造がある。

      
 その先の十字路の角のガソリンスタンドに本陣跡の標識がたっていた。それには、大名が泊まる宿と書かれている。
 その先には今も営業している桝屋という旅籠や案内板だけだが旅籠若松屋もあった。大名が泊まるとお付きの家臣も泊まるので、もっとたくさんの旅籠があったのであろう。
     
      
 宿場を抜けると、めがね橋と呼ばれる石組造りの橋もあった。

     
 次の二本柳宿までの道は、細い街道然としたアップダウンのあるハイキングコースのような快適な歩きが続いた。坂を登りきるとどんな風景が広がるのかと楽しみだった。

二本柳宿~二本松宿

 二本柳宿の由来は、宿場の街道に向かい合った柳の木があったことによるとのこと。

      
 宿場の入口の曲がり角に円東寺が現れる。その隣には稲荷神社もならんでいた。境内の遅咲きのサクラがきれいだった。
     
 宿場内の所々の家に昔の屋号が掲げられており、材木屋や問屋や鍛冶屋という屋号が現れる。

二本松宿~杉田宿
 
 二本松宿は城下町で、戊辰戦争で戦死した二本松少年隊士で有名な所でもあり、途中には高村智恵子の生家があり、観光客も多かった。
 ここは、昨夏の7月に富士山の帰りの北東北の山への途中に観光でよっている。

     
 街道の途中の油井には、智恵子の生家がある。酒造元のお嬢さんだったようだ。この辺りには智恵子に因んだ観光地がたくさんあり、観光客も多い。

     
 二本松宿の手前には、家具の街竹田坂があり、両側には家具屋や建具屋が並んでいる。

     
 宿場の手前の街道は、拡張されて新しい町並みとなっている。大きなホテルかと勘違いしそうなビルは、昔からここで営業していた大七酒造株式会社だった。

     
 その先の角を曲がると、宿場の中心地となる。老舗らしい○○屋□□店の看板を挙げた店が並ぶ。
 城下町のせいか、お菓子屋がやたらと多い感じがした。

     
 街灯に本陣跡と書かれていたので、その前の薬屋さんに入って聞いたら、パンフレットをいただいて、説明をしてくれた。
 それによると、上の写真の古いお菓子屋さんの間に大手門入口があって、その両側に上(東)本陣の下(西)本陣があったそうだ。江戸時代創業を詠っている老舗のお菓子屋さんは、あとから本陣跡へ移転したきたそうだ。

     
 大手門跡には、その土台となっていた石垣だけが残っていた。
 二本松城は昨夏にじっくり回っているので今回はパス。

 宿場内の中華屋さんで、ランチの野菜タンメンを食べた。とても美味しかった。そこで今夜の宿を検索した。この二本松か郡山にしかないようだ。いずれにしても、このあと杉田宿まで歩いて電車での移動しかない。二本松は観光地で土曜日なので、どこも満杯。郡山駅前のカプセルホテルが取れたので安心して、再び歩き始める。

     
 街道から少し外れるが、二本松少年隊士が眠る大隣寺へ寄った。ちょうどシダレザクラがみごとだった。

     
 戊辰戦争に参加し戦死した隊長と副隊長のほか12歳から17歳までの25名の少年隊士の墓。
少年隊士といえば、会津白虎隊が有名だが、ここにも悲劇の少年たちがいたのである。そんないたいげな子供たちに合掌して杉田宿を目指した。

二本松宿~杉田宿

      
 二本松宿からの街道は旧国道の歩きとなるが、そこから別れるところに一部草地の道が残っていた。

     
 その出口に七夜桜の歌碑と案内板があり、ちょうど見頃な花を付けていた。往時の七夜坂が消失してしまったのでこの地に立てたものだ。歌碑には藤原実方の歌が刻まれている。「七夜桜 はるばるここにきたすぎた やがて都へかへる身なれば」 元の歌碑は1826年に立てられたとのことである。八幡太郎義家や水戸光圀公もこの桜の名所に立ち寄ったと解説してある。

     
 杉田宿は、本来北杉田宿と南杉田宿に分かれていたが、境目が分からないので、ここでは、1つにまとめた。 
 宿場に入っていくと、長い塀に囲まれた旧家が目を引く。名主だった市川家の屋敷だ。

      
 14:10、気が着いたら、杉田駅前を過ぎて、宿場も抜けていた。慌てて戻って、歩いてきた宿場の様子をカメラに収めて今日のゴールとした。杉田駅から郡山へ移動。

     
 駅から5分のところにある、まだ開業して1年も経っていない新しいキャビネットホテルワウズにチェックイン。2800円。すべてが新しくて非常に気持ちが良い。
 これからもう一度風呂に入って、館内にあるレストランで遅い夕食にする。

     
 レストランは着替えるのが面倒なので、休憩室に届けてもらえるメニューからカツ定食と晩酌セット。合計1300円。これまでで最も豪華な食事。宿代と合わせても4100円。  
 明日歩くつもりの宿場には宿はないが、駅はあるので、明日も電車で移動して連泊にするつもり。不要な荷物も預けて行けるし…。


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〈9日目〉53白石宿~54斎川宿~55越河宿~56貝田宿~57藤田宿:~58桑折宿~59福島宿<37km>(10時間)

2019年04月19日 | 登山・旅行
 9時頃まで雨が降ったり止んだりを繰り返し、その後も涼しかったので歩きやすかった。小雨なので傘だけで済ませた。

 今日は、宮城県と福島県の7宿も抜けたが、国道歩きが少なく、快適な街道歩きを楽しむことができた。

     
 朝の4:40なのにわざわざウコギと豆の入ったおにぎりを部屋に届けてくれた。暖かいうちの方がおいしいと思い、食べてから、5:10にスタートした。

白石宿~斉川宿

 今朝になって、宿の前が街道だということに気づいた。

     
 少し進むと左手に変わった山門の当信寺が現れた。この山門は白石城の東門だったものである。

 しばらく進み、郊外に出る辺りに、片倉家の菩提寺である傑山寺がある。そこには初代片倉小十郎の銅像と片倉家と松前藩の松前安廣とその子孫の墓所があるというので、街道から離れて行ってみた。

     
 初代小十郎景綱の銅像が寺の前に鎮座している。

     
 墓所の左上の方に、片倉家の墓所の隣に確かに松前家墓所があった。松前安廣がなぜこの白石藩にいたのか、その経緯は説明されていない。

斎川宿~越河宿

     
      高速道路の下を潜ると、斉川宿に入っていく。
 
     
 宿場の中央部に歴史を感じる長い塀が現れる。その入口に消防車が停まっていた。訊いたら、その中のお宅でボヤがあったという。

     
 入口を見たら、「検段屋敷」の標識が立っていた。屋敷内には明治天皇の小休所の石碑が立っている。だいぶ痛んでおり廃墟と化しているようだが、ボヤ騒ぎで何人か住人が見えた。ここが斎川宿の中心地だったようだ。

     
 宿場の外れには、斎川宿の看板がたっていた。

     
 まもなく、田村神社が現れる。その昔、村人を苦しめていた悪路王や青頭、赤頭の鬼を、坂上田村麻呂が斎が川で身を清め鈴鹿明神の助力を得て退治したという伝説から、その徳を慕って村人達が建てたのが始まりだといわれている。
 また、境内には甲冑堂という六角堂がある。義経の家来として活躍し討ち死にした佐藤継信、忠信兄弟の妻たちは、夫の形見の甲冑を身に着け、兄弟の母親の元へ帰り、「ただいま帰参しました」 と述べて母親を慰めたといわれており、江戸時代この話に感服した当地の住人が妻たちの像を安置したお堂を建立したという。

     
 大きな馬牛沼が現れる。ここにも、坂上田村麻呂や源義経の伝説がある。

越河(こすごう)宿~貝田宿

 郊外の農村地帯を進んで行くと、越河宿へと入っていく。

         
 宿場内は、年代を感じる家もあるが、現代風の家並みが続き、街道筋の面影は残っていない。越河宿は仙台藩の南端であるため境目足軽が配置され、藩境を越える人や物を検閲していた。また藩主の参勤交代の時には重臣がここまで送り迎えしたといわれている。

     
 東北本線を挟んだ先に越河番所跡の大きな碑が見える。この先に、福島県との境があるので、仙台藩の南端の番所だったのだろう。

貝田宿~藤田宿

     
    8:30、福島県へ入る。そばに、県境の標石もあった。

     
 貝田駅の先に、貝田宿の幟が立っている。観光にやる気を感じる。それにしても、桃の花が見事だ。福島県は桃の名産地である。このあとも、ずっと目についた。

     
 昔の街道がそのまま舗装された感じの道を行く。

     
 貝田番所跡の標識。県境の福島藩の北端の番所だったのだろう。

     
 昔の鉄道のレンガ橋が保存されていた。

     
 宿場の面影がないまま、反対側の入口に来てしまったので、振り返って家並みを写した。

   
 そのあとも農村地帯の快適な街道歩きが続く。一面の桃の花の向こうにこれから下りていく福島盆地の広がりが見える。

    
 阿津賀志山防塁横断地点の看板。その隣に立つ説明板には、この地が源頼朝の鎌倉軍と藤原泰衡の奥州軍とが激突した古戦場であるとともに、芭蕉の「奥の細道」に「路縦横に踏んで伊達の大木戸を越す」と記された箇所がこの辺りの坂道であると解説されている。

藤田宿~桑折宿
      
      
 藤田宿は国見宿とも云われていた。今の町名は国見町であり、藤田宿がその繁華街である。白石から以南一番賑やかな商店街が続いていた。しかし、往時は、家数145軒、人口708人、旅籠14軒とある。番所がなく、取り締まりが緩やかで、遊廓が旅籠より多かったらしいが、その面影は全くない。

       
 繁華街を抜けると、少し街道の面影を残す旧家も点在する。

       
 羽州街道との追分が現れる。追分は表示杭や案内板が立つ広場になっている。

桑折(こおり)宿~瀬上宿 

     
 桑折宿は、旧家が非常に多く残っていて、裕福な宿場だったような気がした。

     
 白壁の旧家が多い中、このような木造の立派な家も印象的だ。 

     
 街道の正面に洒落た旧郡役所がある。そこで、街道は迂回するように右に曲がる。
 その隣のコンビニのイートインで、昼食を摂り、福島宿での今夜の宿を探す。駅近くのビジネスホテルは7~8000円もする。歩いている途中で安そうな宿があったら、飛び込みでも良いと思い歩き続けた。

     
 桑折一里塚の標柱だけで、なんの説明もない。瀬上宿までは、田園地帯の平坦な道が続く。やがて、福島市に入る。

瀬上宿~福島宿
 
     
 瀬上宿に入った途端に、レンガ造りの長い塀を回した立派な旧家が現れる。
 
     
 このような変わった屋根の旧家もある。

     
 瀬上宿を抜ける手前に今度はばかでかい屋敷がある。国登録有形文化財嶋貫本家の表示板があった。

     
 3色の桃の花の木を見つける。てっきり3本の木だろうと覗いてみたら、なんと1本の幹だった。接ぎ木でもしているのだろうか?

 瀬上宿を抜けると国道4号と平行して続く街道は、旧電車通りとなる。昔、市電でも走っていたのだろうか。

 福島宿までのマップを見たら、街道が直角に曲がる角に和風ホテル福島屋があることが分かる。ネットで調べてみたら、それほど高くはない。電話を入れたら、素泊まりで5400円だという。すぐに予約して前進。

      
 15:15、ちょうど10時間で、和風ホテル福島屋に到着。早速、大風呂で思いっきり足を伸ばして疲れを抜く。
 洗濯機もあるので、洗濯もした。しかし、乾燥機が塞がっていて使えない。女将さんに聞いたら、時間とお金ばかり掛かるので、部屋で干しても朝まで乾くと言う。納得して、部屋中掛けれるところすべて掛けて、ブログを打ち始めた。
 
 ところが、着ていたものすべて洗濯したので、外に食事に出られない。厨房へ行って何か食べるものがないか聞いたら、予約の分しかないという。「おにぎりでよかったら、できるけど」と言ってくれる。
 300円と言われたが、こまかいのが250円しかなかったら、それでも良いと言う。

     
 わざわざ部屋まで届けてくれた鮭おにぎり2個と味噌汁。ことのほか美味しかった。胸いっぱい、腹いっぱい。


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〈8日目〉48槻木宿~49船迫宿~50大河原宿~51金ヶ瀬宿~52宮宿~53白石宿〈27.3km〉(8時間20分)

2019年04月18日 | 登山・旅行
 今日は、22℃まで上がり、10時前に半袖とハーフパンツだけで歩いた。風呂に入ったら腕がヒリヒリした。暑いとだるくなりなんとなく疲れる。どうしてもペースが落ちる。
 昼の段階で、無理しないで、今日のゴールを白石宿にし、白石城も見てから宿に入った。スタートも遅かったので、30km未満で8時間強ののんびり歩きだった。
 それでも、宿場間の距離が短いので、6宿を通過した。

槻木宿~船迫宿
 
    
 6:30に槻木駅をスタート。槻木宿を抜けると、河畔の街道となる。このような道は街道歩きの醍醐味である。特に朝は気持ちが良い。

    
 白石川では、朝からボートの練習が行われていた。流れが塞き止められていて、練習場やレース場になっているようだ。

     
 新政府は明治22年に一里塚ではなく、仙台の芭蕉の辻を起点とした里程標を改めて設置した。ここは、仙台から7里とのこと。

     
      こんな手作りの標識もあった。

     
 白石川の堤防には、ずっとサクラ並木が続く。ここから国道4号を横切って船迫宿への街道となる。

     
 その横切る地点に船迫内余川の一里塚跡の表示がある。

     
 船迫宿の入口にある江戸時代建築の薬師神社。神社やお寺は昔から同じ場所にあるのだろうなと思いながら通過。

     
 船迫宿には、江戸時代の街道や宿場の絵と当時の商家などの市を書いた案内板があった。結構いろいろな店があったようだが、宿は見当たらなかった。同じ場所とは思えないほど、当時の面影はない。

 やがて、国道を横切るが、その角にすき家があったので朝食にする。390円で栄養バランスも取れてボリュームのある朝定食がいろいろあるのが嬉しい。

船迫宿~大河原宿

     
 しばらく進むと、サクラで彩られた白石川を挟んで、船岡城址が見える。
    
     
 国道に合流する角に二本杉の一里塚跡の説明板がある。二本杉とは、街道を挟んだ塚の上に杉を植えたことが由来とこのと。

     
 国道から別れて橋を渡る手前に「大河原 ようこそ!一目千本桜のまちへ」の看板がある。
 橋を渡ると、大河原宿へと入っていく。

大河原宿~金ヶ瀬宿

     
 確かに、白石川の両側の堤防には見事な一目千本の桜回廊が続いている。

     
 大河原商店街へと入っていく。

     
 宿場の雰囲気を感じさせる長い塀と白壁の旧家も目につく。

大河原宿~金ヶ瀬宿~
 
     
 大河原宿を抜けると、国道4号の右側に側道のような形で街道が残されている。

     
 金ヶ瀬宿に入ると現代的な家並みの中に門構えのある旧家や蔵造り家がいくつかあり街道筋の面影を残している。
 その他にも、本町の各家の玄関が白石の方角(南西)に向いているとのことだが確かにそうだ。どの家も街道に平行して南西向きに玄関が造られている。右手の家も左手の家もそうなのだ。
 その前の新町の家は逆に仙台を向いているらしいのだが、通りすぎて確認できなかった。これは金ケ瀬宿の西側の本町には片倉藩の足軽百姓が住み、東側の新町には仙台藩の百姓が住んでいたことによるとのことだ。

     
 金ヶ瀬宿の端に大高山神社がある。南部鉄でできた珍しい鳥居があるというので階段を登る。1801年に鋳造されたものだが錆びて風格が出ている。そのほかにも、境内の中にやはり鉄で造られた九輪塔もあった。

金ヶ瀬宿~宮宿

    
 やがて、国道歩きとなる。柴田町から蔵王町へと入っていく。国道の正面に蔵王連峰が大きく迫る。

     

     
 宮宿にも旧家と思われる建物が、街道の雰囲気を残している。
 国道へ出たところにコンビニがあったので、そこのイートインで昼食にする。その時点で、今日のゴールを7km先の白石宿に決める。早く着きそうだが、白石城も見たいと思った。

宮宿~白石宿


     
 ずっと国道歩きが続く。途中で白石市に入る。その途中に街道に残るこけしの欄干の立つ橋があった。その名前が児捨川橋である。ドキッとする。
 そのそばの案内板によれば、「日本武尊はこの地に王子を残して都に帰京した。村人は王子の偉貌と能力を恐れて王子を川に捨ててしまった。王子は白鳥と化して村々に災いをもたらしたので、村人は悔いて白鳥を祀った」ことが由来とのこと。

     
 国道から離れて、白石川の橋を渡り、しばらく堤防の上の歩きとなる。

     
 白石宿に入ると、白壁造りの建物や旧家が目につく。宿場というよりは、城下町の雰囲気である。

     
 商店街の手前に蔵王酒造もある。

     
 街道から離れて、白石城へ。ここには珍しく木造復元された天守閣があった。
 白石城は関ヶ原の合戦直前に独眼流で有名な武将・伊達政宗によって攻略され、政宗の片腕として名をはせた片倉小十郎景綱によって治められた城である。しかし、明治維新では、幕府側に付いたために、明治になって取り壊される。
 ここから、片倉小十郎を中心とした白石藩の北海道開拓の歴史が始まる。木古内のサラキ岬で沈没した咸臨丸に乗っていた人たちも、この家臣の開拓移民団である。

      

      
 予約しておいた岡崎旅館へ着いて、ビックリ。宿場巡りにはぴったりのうれしい宿である。築100年以上は経つが、旅館としては70年だそうだ。その前は肥料会社をしていた方の屋敷だったそうだ。
 「貸し切りなので、好きなように使ってください」といわれ、角の庭の見える一番良い部屋へ通してくれた。着いたら風呂も沸いていた。旅館は足を伸ばして入れる風呂があるので嬉しい。素泊まりで4200円だが、白石名産の白石温麺(うーめん)のお土産までいただき、明日は早いのにウコギおにぎりを作ってくれるという。

     
     おみやげにいただいた白石温麺

     
 夕食は、宿のおすすめのいち藤へ。これまた、渋いお店。ここは手打ちの温麺を食べることができるとのこと。

     
 温麺なのに、冷たい方が腰があって美味しいとのことで、張り込んで、天もり温麺を頼んだ。素麺との端的な違いは、短いことと、素麺は昔は油をつかっていたが、こちらは油は使わずに稲庭うどんと同じような作り方をしているとのこと。あっさりしていて腰が強くて美味しかったが、天ぷらもまた美味しかった。

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