夢うつつ♪つれづれ草子

書いて残しておきたい事が、たくさん出来ました(*^^*)
自分自身のための備忘録なんだけれど…いろいろ書きたいな♪

続・宝塚の舞台のフェルゼンについて思うこと。

2014-09-13 21:04:42 | 極私的「ベルばら」語り@危険地帯

※引き続き、毒吐いています。観劇報告ではないので‥‥逃げてください


ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン。
原作では魅力的な男性です。
それなのに‥‥


うえ○氏の脚本によると、フェルゼンの存在は、アントワネットが立派なフランス王妃となるためには障害でしかない、という酷い描かれようです

確かに革命家たちに煽られた市民たちは、フェルゼンを「王妃の情夫(いろ)」として憎んでもいたでしょう。
でも実際にベルサイユでは、ポリニャック夫人が王妃を唆して莫大なお金が動いたり、プチトリアノンの造営に気の遠くなるような金額がかかったり、その他の政治上の失策が重なって、遂に革命に至ったのであって、フェルゼンが宮廷で糾弾されるようなことは決してありません。

あげくに、オスカルにまで「その原因のひとつに君があるのだ」と酷いことを言わせています
これってオスカルをバカにした台詞よね
オスカルを、真実が見えていない愚か者にしているのですから

原作を読んでください。

オスカルはアントワネットに「フェルゼンやメルシー伯爵、今まで陛下のために尽くしてきた者たちの意見を聞いてください。」と進言しています。
オスカルがフェルゼンに「スウェーデンに帰った方がよいかも…」と勧めたのは、アントワネットがいよいよ王妃になる、という時です。

う○だ氏のお読みになっている『ベルサイユのばら』は、私たちが読んでいるものとは違っていて、うえ○氏の専用のが存在するのかしら


ここにきて、理代子先生が精力的に episode の執筆を始められたのも、穿った見方をすれば、「あっちは偽物こっちが本物よ」という気概のあらわれかもしれませんね。

でも『ベルサイユのばら』のファンは、みーんなわかっています

今や宝塚歌劇の『ベルサイユのばら』は、『ベルばら』の名を借りただけの、客寄せパンダのような作品に成り果ててしまいました。
脚本・演出家が同じままでは、この凋落に歯止めはかかりません。

わたしたちは、作品そのものに期待するのは、無駄なことと学習し尽くしました。
キャラに命を吹き込んで少しでも魅力的にみせようと、日々、努力を惜しまず頑張っている生徒さんたちに会いに劇場に通ったり、DVDを購入したりするのです


興奮して、長くなってしまいました
でも、いくらでも書けますね
ここまで辿り着いてくださったかた、どうもありがとうございます

(終わり)
コメント (2)
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宝塚の舞台のフェルゼンについて思うこと。

2014-09-13 21:01:59 | 極私的「ベルばら」語り@危険地帯

※カテゴリーが“@危険地帯”です。観劇報告ではありませんので、ご注意ください。

逃げて‥‥重苦しいから‥‥逃げて‥‥


『ベルサイユのばら』原作に登場するフェルゼンは好きです男性キャラでは、ジェローデルの次に好きかもしれませんアンドレ、ごめんねー

が、しかーし
うえ○氏の手にかかると

宝塚の『ベルサイユのばら』でのフェルゼンの扱い方でとても嫌なのは、彼がフランスでもスウェーデンでも罪人扱いされていることです

当時の革命家たちが、
「王妃はフェルゼンとの不倫にうつつを抜かし、政治を顧みず遊興に耽ったので、フランスの財政が逼迫し、我々の暮らしは悪くなる一方だだから、王妃とフェルゼンが悪い
と庶民たちを煽り立てたように、私たち観客も脚本に煽り立てられて、フェルゼンとアントワネットの恋愛がフランスに危機を招いたと思いこまされます

宝塚の舞台でのフェルゼンは、帰国勧告を受けるまでフランスに居座って、アントワネットとの逢瀬を繰り返していただけの男のように描かれています。
しかも、オスカルの気持ちに気づかないまま、オスカルを責め立てて帰国してしまうヴァージョンまである始末です
フェルゼンに感情移入できない理由がこのあたりにあるのだと思います。

だって観客の多くは、フェルゼンよりもアントワネットよりもオスカルさまが好きなんだもの。
理不尽な言われかたをされて、言葉を返すこともできずにひとり泣くオスカルさまなんて、見たくないもの
こんなフェルゼンはオスカルさまが心震わせた初恋の相手ではないもの


フェルゼンは自分の意志でアメリカ独立戦争にも従軍したし、革命の1年前にはグスタフ3世の命令で帰国しているし‥‥
こういった史実を余さず舞台に取り入れてほしいとは言いません

せめて、フェルゼンが自らの意志で帰国を決めて、オスカルにアントワネットのことを託す、という流れにすればよいものを‥‥
なぜ一幕最後のような場面(最近では、'13年雪組、'14年の花組と宙組)が必要になるのか、まるでわかりません

またスウェーデン帰国後にしても、「監視の眼が光っている」だの「スウェーデンの恥」だのと、そこまでフェルゼンを貶めなくてもよいのではと台詞を聞きながら悲しくなるわけです

思うに、○えだ氏はアントワネットとフェルゼンの関係を不倫としてしか捉えていないということですよね。
(初演当時、これは不倫の物語だから「清く正しく美しく」な宝塚の舞台にのせるのに躊躇した、という逸話を聞いたことがあります。)

不倫=悪という図式なので、悪人(フェルゼン)は追放しなくてはなりません。しかし、フェルゼンは主役なので、あからさまに悪人扱いは出来ないのです‥‥
で、国王陛下に「それは困るぞ、帰国を延ばせぬか?アントワネットが悲しむぞ。」などと言わせたりしています‥‥この一言で、フェルゼンは妻の不倫相手ではなく、国王陛下公認の仲のよいお友達になり‥‥とりあえず主役のフェルゼンの立場は完全な悪人ではなくなりました‥‥で、フェルゼンはフランスで受けとめたさまざまの愛に感謝して帰国します‥‥万々歳です、○えだ氏的には。

それにしても、何故あのような公式の場で、フェルゼンが自分の心情をとうとうと語らなくてはいけないのでしょうか

さらに、あの場の誰もが答えを知っているのに「して、その人の名は」と敢えて問う台詞の意図がわかりません‥‥“国王陛下はフェルゼンを認めても、我々臣下は、王妃とフェルゼンの外国人同士の不倫はあくまで糾弾しますからね”という決意表明ですか

とにかく、ワタクシにはう○だ氏の脚本の意図がくみ取れません

(続く)
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