あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

相澤三郎考科表抄

2017年09月01日 06時10分29秒 | 相澤三郎


相澤三郎

相澤三郎考科表抄
考科表とは陸軍の定期異動 ( 進級、退職も含む ) の月たる八月、
それに異動のある三月、十二月の人事異動の参考に資すべく、
直属上官が作成する部下の成績表である。
官衙 ( 陸軍省、参謀本部、教育総監部など ) や諸学校においても、
もちろん局長、部長、課長、校長などにより考科表は作成されるが、
聯隊に勤務する将校 ( 中佐以下の隊付将校 ) はいずれも聯隊長がつくる。
聯隊長の考科表は師団長が作り、
少将、中将の階級にある軍人の人事は、人事局長、陸軍次官、参謀次長、
教育総監本部長、参謀総長、教育総監でほぼ決せられ、
最後の決定は官制により人事権を持つ陸軍大臣によりなされるのである。
この考科表により青年将校時代の相澤の成績は判明するし、
また後年 相澤事件を起す精神的萌芽が既にいくつかの箇所にあらわれていることは、
読まれるごとくである
・・・現代史資料23  国家主義運動3  資料解説  から

一、性質
 朴直にして活気あり、志操堅確にして高尚、
気概頗る新取の気象に富み 難局に当り不屈不撓 之を遂行せざれば止まざる風あり。
体格強壮。
ニ、出身前の経歴及出身時の景況
 明治四十一年五月三十日 陸軍中央幼年学校卒業
同月三十一日 士官候補生として 〔 福島若松 〕 歩兵第二十九聯隊へ入営、
同四十三年五月二十八日 陸軍士官学校歩兵科生徒五百九名の内九十五番を以て同校教育課程卒業。
三、勤務
 頗る熱心にして躬行率先の微風に富み、著意周到毫も労苦を厭はざるを以て実務の成績も亦良好なり。
四、学術及特有の技能
 軍事学は典令教範 其他に於て理解記憶共に良好にして其応用も概して要領を得、
外国語は仏語にして普通の会話に支障なし。
実兵指揮は号令活潑、指揮厳正にして其応用も亦概して適切なり。
体操は其技術最も長ずる所なり。
五、義務心及品行
 奉公の念厚く品行端正。
六、家政、家計
 家政は父之を掌り一家五人、相団欒し動、不動産合せて約四千五百円余を有し、
本人は勤倹質素なり。
将来将校として品位を貶おとすることなし。
七、交際の景況
 上下に対し礼儀正しく 同僚間の厚誼敦厚なり。
八、既往現時の変易及将来の見込
 気概品性共に向上の傾きあり。
亦 職務に忠実にして著意可なるを以て将来益々発達の望みあり。
・・・明治四十三年十二月  日  歩兵第二十九聯隊長  森 知之

一、本年二月 戸山学校を終へて帰隊せり。
 其の修業成績左の如し。
総員百五名中第三位    歩兵科総員七十四名中第三位
戸山学校より帰隊後体操術大いに発達し、頗る熱心にして其教育方法も亦適切なり、
将来発達の見込あり。
・・・大正二年十一月  日      歩兵第二十九聯隊長  寺西秀武

一、終始一貫誠実且熱心、其職務に勉励し其成績良好。
又 剣術に長じ志気常に旺盛なり。
将来大に発達の見込あり。
・・・大正四年三月  日    歩兵第二十九聯隊長  村岡長太郎

一、朴直にして謹厳気概に富み古武士の風あるも稍単純なり。
責任観念旺盛にして毫も労苦を厭はず常に引率力行し、範を生徒に示して指導しつつあり。
唯 思想稍単純なるを以て時に常軌を脱する嫌なきにあらざるも、
本人として誠心誠意の発露にして、従て生徒の信望は相当之れを受けつゝ在り。
要するに本人は配属将校として正確に稍欠くも、
軍隊指揮官としては性格上適切にして相当の真価を発揮し得べきものと認む。
・・・昭和四年十二月三十一日  歩兵第一聯隊長  東條英機

一、其後の服務情態を鑑察するに、熱心精励毫も変易なく成績漸次向上しつゝあり。
 又本年聯隊剣術寒稽古に当りて愛子の病中にも不拘、一日の欠席なく早暁出場し
専ら下士官兵卒の指導を補助し、其の熱心と義務心に厚きは衆人の認むる処なり。
・・・昭和五年十二月三十日    歩兵第一聯隊長  東條英機

一、性格
 純情にして木彊所謂一本調子にして感激性強く思想稍単純なるも古武士的気魄に富む。
一、服務
 大隊長として未だ成績の見るべきものなきも熱心にして率先力行範を垂れつゝあり。
一、学術技能
 久しく隊を離れありし関係上充分ならざる点あるも、素質良好にして研究真摯なるを以て進歩の見込あり。
一、統御其他
 率先垂範情味に富むを以て部下次第に心服す。
本年処分せられたるは時事に憤慨悲憤の余り、同志と相結び企画実行する所あらんとして
未発に終りし事件に因するものにして、爾来謹慎軽挙を反省するに至れり。
一、将来の見込
 思想単純 時に思慮の周密を欠き常軌を逸するの行動に出づることあるも、
一面正純なる思想を有し、尊信すべき人物なるを以て指導宜しきを得ば、好箇の隊付将校たらん。
・・・昭和六年十二月三十一日    歩兵第五聯隊長  平田重三

一、本年四月聯隊主力渡満後、留守隊大隊長として時々夜間にも出勤巡視するなど
 率先垂範 熱心其職務に精励せり。
又 部下を愛護する情味を有し部下又心服しあり。
然も其行動時に常軌を逸し、又過度に部下を愛護するの風あるを以て将来此点に注意指導せば
隊付将校として見るべきものあり。
五月十五日事件突発直後上京せんとせしも、元来其性 率直単純なるを以て爾来謹慎反省せり。
・・・昭和七年八月八日    歩兵第五聯隊長  谷 儀一

一、性朴直純情にして古武士の風あり。
 上を敬ひ下を慈む。
真に模範的武人なりと雖も、世相の変遷に伴ひ中佐の心境に一大変化を生じ、
国家改造の外 又他に興味なきが如し。
然れども世相にして一進化を遂げ得、又本人の心境一転化を來さんか、
本来の優良なる 「 彼 」 を復活するならん。
・・・昭和八年十二月二十八日    歩兵四十一聯隊長  樋口季一郎

一、本夏季 中耳炎治療して帰隊して以来別人の如く隊務に精励し、
 経理委員首座として綿密事を処理し傍ら 特務曹長、曹長に対する諸教育を担任し其成績可なり。
此状態を以て変化なからんか、独立守備隊長等に用ひ得べし。
・・・昭和九年十二月二十五日    歩兵四十一聯隊長  樋口季一郎

現代史資料23  国家主義運動3 から


大蔵栄一 ・ 大岸頼好との出逢い 「 反吐を吐くことは、いいことですね 」

2017年09月01日 06時09分51秒 | 大岸頼好

大岸頼好大尉と相識る
後期学生が卒業して行くと、年の瀬を感じる。
世の中は師走の風に吹きまくられて忙しくなってゆくが、私らにとってはかえって暇の季節である。
私が休暇を利用して、和歌山に大岸頼好大尉をたずねたのは
昭和七年十二月であった。

大岸は陸士三十五期、私の二年先輩である。
土佐の産、広島幼年学校では西田税の一期後輩である。
西田が台賜の銀時計であり、大岸は、西田に勝るとも劣らぬ逸材であった。
ともに青年将校革新運動の草分け的大先輩である。
初めて教えを乞う私は、大きな期待を持っていた。

和歌山に着いて、ようやくたずね得た大岸の家は、陋巷ろうこうの片隅に古ぼけて建てられた、
みすぼらしい家であった。
当時の社会的地位からいって、大尉の住む家としてはあまりに貧弱すぎるように思えた。

「 大岸さんのうちは、神社みたいだ 」
拝殿 ( 玄関 ) から神殿 ( 座敷 ) がお見通しというわけだ。
「 大岸神社にお詣りしよう 」
と、親しみとも、ひやかしともつかぬ言葉が、われわれの間でささやかれていた。
一つには大岸に対する敬愛の気持ちと、二つには陋屋に対する印象とがうまくミックスされて、
何の抵抗もなしに、みんなの口をついて出ていたのだ。
私は拝殿ならぬ玄関に案内を乞うた。
女中まがいの粗末な女が顔を出した。
「 大蔵さんでしょう 」
粗末な女は、私の訪問を待っていた風であった。
「 そうです、大岸さんは?・・・」
「 どうぞ、お上がり下さい。聯隊ですが、もう、じき帰りますきに 」
土佐弁まじりでテキパキ処理するところをみると、大岸夫人らしい。
「 奥さんですか 」
と、切り出し兼ねるほど粗末であった。
この粗末ななりの女こそ、不羈奔放ふきほんぽうの大岸に仕えて、よく後輩の面倒を見て、
大岸以上に親しまれた夫人であった。


大岸頼好
昭和7年1月6日撮影

『 兵農分離亡国論 』 を 書いて 『 兵科事件 』 を まき起こした大岸だ。
私は白皙瘦躯のかみそりタイプを想像していた。
だが目のまえに見る大岸は、全く予想と反した、茫洋たる豊かさを持っていた。
わずかに下がった目尻、潤いのある澄んだ眼、色の黒い大きな顔、
すべてが親しみのある風丰ふうぼうだ。
かつて胸を病んだとは思えない、がっちりした堂々たる体軀でもあった。
初対面のあいさつがすむと
「 大蔵さん、反吐へどを吐くことは、いいことですね 」
このわけのわからない言葉が、大岸の第一声だった。
「 何ですか、反吐を吐くとは・・・?」
私は、きつねにつままれた思いで問い返した。
「 反吐を吐くとは、全くいい 」
彼は同じことを繰り返した。
酒が出て、盃を交しながら語り合うことはたわいもないことばかりで、
ことさらに時局を論じ合うことはなかった。
話しの合い間に繰り返されることは 「 反吐はいいですよ 」 と、いうばかりであった。
「 読むとしたら、どんな本を読んだらいいでしょうか 」
私は、まともな話がしたかった。
「 そうですなァ、別にありませんね 」
大岸は、ちょっと考えて
「 しいて読むとすれば、ホイットマンの詩集と、赤穂浪士の覚え書ぐらいのものでしょう。
赤穂浪士が、泉岳寺に引き揚げてきたとき、
泉岳寺の和尚が浪士から聞いたこと、見たことを書きつけたもので、
現在、日本には全部で十五、六冊はあるでしょうか 」
私は はぐらかされたようで、面白くなかった。
しかし、考えてみると、人生の基本線を触れているような気もしないではなかった。



「 對馬君を知っていますか 」
「 弘前の對馬勝雄中尉ですか、まだ、会ってはいませんが、うわさは聞いています 」
「 その 對馬君のことですが、満洲に出征して間のないころ、
旅団命令で、部下三名を率いて将校斥候に出されたんです。
目的地の敵情偵察をしましたが、異状がなかったので命令された地点より奥深く侵入した。
ところが 突然、敵の射撃にあい、部下一名を戦死させましてね、
對馬はその部下の死体を、苦労しながら、血だるまになってかついで帰ったんですよ。
旅団長は
『 オレの命令通りにしないで、余計なことをするから、殺さんでいい部下を殺したんだ。オレは知らんぞ 』
と、責任回避をしたそうですね。
對馬は、カンカンに怒ったそうですが、いまどき、こんな将軍がざらにいそうですね 」

大岸は酒豪であるが、私はいまでも初対面の人からきかれては否定するほど、
みかけによらず酒をたしなまないので早々に切り上げ、
大岸の案内するままに、新和歌浦の旅館に一泊した。

翌日は日曜日であった。
大岸といっしょに大阪へ出た。
難波駅についたとき、鼻下に髭ひげを貯えた、一人の小柄な男に出迎えられた。

「 中村義明君です 」
と 大岸が紹介した。
四角なひげ面、眼鏡ごしに見る凹んだ眼、どことなく暗い影のある男。
軍人でないことは確かだ。
何者だろう---私は、興味を持った。
「 おとといは ご迷惑をかけました。反吐まで吐いたりして・・・」
「 さァ、行きましょう 」
大岸は、中村の言を無視して歩き出した。
何の目的で、どこに行くのか、私にはさっぱり判らないまま、両者に続いて歩いた。
「 中村君は、転向者ですよ 」
大岸が、歩きながらささやいた。
これで、反吐の疑問が解けた。
中村が反吐を吐くといっしょに、心の中まで全部を洗い流してしまった、
と 大岸は自分自身で確認したという意味のことをいったわけだ。
いかにも回りくどい、単刀直入でない大岸の態度に
『 古だぬき 』 的要素を多分に感じた私は、いささか反発を覚えた。
訪問先は、大阪商大教授田崎仁義博士であった。
大岸は和服、中村は背広、私は軍服という妙なトリオを、博士は喜んで迎えた。
瀟洒しょうしゃで柔和な好紳士の博士には、一本筋の通った強靱さのある頼もしさを感じた。
約一時間歓談の後、田崎邸を辞去した。
「 中村君が、近く雑誌を出す予定です。いずれ東京に出ますが、
その節はよろしく面倒を見てやって下さい 」
中村の地盤は大阪で、東京は未知に近く、私を頼りにしているようであった。


大蔵栄一著
二・二六事件への挽歌  から