あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

大岸頼好の統帥論

2017年09月02日 08時20分18秒 | 大岸頼好

昭和九年を迎えた。
和歌山から大岸が、正月の休暇を利用して上京してきた。 ・・< 註 >
夕方くるなり、
酒を出せ、さかなはタクアンで結構だ、といってチビチビやり出した。
「大蔵さん、統帥ということについて考えたことがありますか」
「別にまとまって考えたことはありませんが、
上官と部下との間に魂の交流があってこそ、ほんとうの統帥じゃないですか」
「そうです。それが基本だとボクも思います。
いいかえると、わが国の統帥は上官と部下との交互躍進ですよ。
前の方に例えば 「ひもろぎ」 という鏡をおいて、その鏡に向かって上官も部下も前進する、
しかも交互に前進することです。
「ひもろぎ」 という鏡に上官が背を向けて、部下と向かい合ってとる指揮は低級な統帥です。
率先垂範は往々にして鏡に背を向けた場合が多いようですね。
あまり強調しすぎた率先垂範とか率先躬行とかいうことで教育された軍隊は、
一歩誤れば弱い甘えた軍隊になります。
人おのおの長所もあれば短所もあります。
上級者といえども、弱い欠点だらけの人間です。
鏡の前にすべてをさらけ出して魂を交流し合うことが、ほんとうの統帥の姿ではないですか。
そこには上官だけの率先躬行はありません。
ただあるものは上官、部下の交互前進があるだけです」
「じゃ、率先躬行はいらんということですか」
「そうじゃありません。
上官のみの率先躬行を強調すると、
そこにはすでに上官と部下とが二元的であるということで、
別々のものが軍律というきずなでつなぎ合わさせれたものにすぎません。
あるときは上級者が率先躬行し、
あるときは下級者が率先躬行する場合があっていいはずです。
軍隊の統帥ほどやさしくて簡単なものはない。
そこには厳しい軍律があるからだ。
というのは、前者の場合で最も低級だということです。
軍律が厳しければ厳しいほど、真の統帥はむずかしいと思います。」
大岸のしんみりした教えに、私ははじめて接した。
この夜、私は大岸の真骨頂の一面をのぞいた。

 大岸頼好 西田税  
翌日大岸は午前十時ごろ、行き先をつげずに出て行った。
私が午後四時ごろ西田を訪ねてみると、
応接間で西田と大岸が、ちょっと深刻そうに話し合っていた。
「・・・・水きよければ魚がすまんといいますからね 」
と、大岸がいった。
「 魚が住めば水はにごる 」
と、西田がいった。
どんな話をしていたか私は知るよしもなかったが、
いまの二人の言葉で私にはおおむね想像がついた。
この言葉の中に、
西田と大岸の性格の相違がはっきり出ていて、私は面白いと思った。


大蔵栄一  著
二・二六事件への挽歌 から
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< 註 >
昭和8年 ( 1933年 )
12月31日  大岸頼好、東京青山の磯部宅へ ・・・大蔵、安藤、林正義、他 多数集合・・・蹶起を慰留す
昭和9年 ( 1934年 )
正月休み  大岸大尉、上京 大蔵栄一大尉宅へ 
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昭和九年の正月、休暇を利用して、市川 ( 芳男 ) らに約束した通り上京した。
こうして明石 ( 賢二 )、市川と私 ( 黒崎貞明 ) の三人は在京の革新将校の自宅を訪問して、早期の蹶起を要請した。
しかし私たちの意見に賛同してくれたのは栗原中尉ただ一人で、
北一輝、西田税をはじめ、村中孝次、安藤輝三、大蔵栄一、香田清貞らの各大尉は、
いずれも 「 時期尚早、軽挙妄動するな 」 の一点張りでわれわれをなだめるという始末であった。
「 五 ・一五事件の二の舞いでは駄目だ。次にわれわれが何事かをやるとすれば、 それはわれわれの最後のものとなる。
 ただ死ねばよいというものではない。この理が分からなければもはや絶好する以外にはない 」 というのである。
こうなっては取りつくしまもなく、三人はただスゴスゴと原隊に帰る以外にはなかった。
・・・中略・・・
昭和九年の正月、早期決行をうながすため東京の各先輩同志を歴訪した時のことが浮かんでくる。
「 よし。やろう。 捨て石は多数いらぬ。今、革新の必要を叫んで死ぬことは、犬死にになるとは思わぬ」
 と、唯一人賛成してくれたのが栗原中尉。
「 天の時、地の利、時の勢いというものがある。犬死にをしてくれるな 」
 と、涙声とともに諫めてくれたのは安藤大尉。
「 少なくない同志が次々と捨て石になってバラバラになったら、われわれの希求する革新は、ただ狂人の夢となるばかりだ。
 なるほど、明治の維新も幾百幾千の狂人の屍の上に成り立ったことはみとめる。
しかしそれは討幕の旗印を京都から得たからだ。
現在の日本は曲がりなりにも聖明のもとに法治国として存在し、幕府はないのだ。
この時にわれわれの微忠を示すことは至難のことである。
険悪な国防情勢のなかで、一刻も速やかに皇国の真姿を顕現せんと願うわれわれの赤心は、貴公らに決してひけはとらぬ。
死ぬときは一緒だ。
俺は理屈に弱い。 が不退転の決意は誰にも劣らぬと思っている。今のところは、原隊にかえってよい兵を練成してくれ 」
と、抱きしめてくれた村中大尉。
人間の安藤、理論の村中といわれた この二人に説得された私たちは、遂に決行をあきらめた。
その夜は北さんの配慮で、大蔵さんに連れられて神楽坂の料亭で痛飲した。

そして翌日、市川や明石とともにスゴスゴ原隊に帰ったのだった。
・・・香田清貞大尉の奥さんの手料理のチキンライスはうまかった  ・・・黒崎貞明著  恋闕 から