あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

大蔵榮一 ・ 大岸頼好との出逢い 「 反吐を吐くことは、いいことですね 」

2017年09月01日 06時09分51秒 | 大岸頼好

大岸頼好大尉と相識る
後期学生が卒業して行くと、年の瀬を感じる。
世の中は師走の風に吹きまくられて忙しくなってゆくが、私らにとってはかえって暇の季節である。
私が休暇を利用して、和歌山に大岸頼好大尉をたずねたのは
昭和七年十二月であった。

大岸は陸士三十五期、私の二年先輩である。
土佐の産、広島幼年学校では西田税の一期後輩である。
西田が台賜の銀時計であり、大岸は、西田に勝るとも劣らぬ逸材であった。
ともに青年将校革新運動の草分け的大先輩である。
初めて教えを乞う私は、大きな期待を持っていた。

和歌山に着いて、ようやくたずね得た大岸の家は、陋巷ろうこうの片隅に古ぼけて建てられた、
みすぼらしい家であった。
当時の社会的地位からいって、大尉の住む家としてはあまりに貧弱すぎるように思えた。

「 大岸さんのうちは、神社みたいだ 」
拝殿 ( 玄関 ) から神殿 ( 座敷 ) がお見通しというわけだ。
「 大岸神社にお詣りしよう 」
と、親しみとも、ひやかしともつかぬ言葉が、われわれの間でささやかれていた。
一つには大岸に対する敬愛の気持ちと、二つには陋屋に対する印象とがうまくミックスされて、
何の抵抗もなしに、みんなの口をついて出ていたのだ。
私は拝殿ならぬ玄関に案内を乞うた。
女中まがいの粗末な女が顔を出した。
「 大蔵さんでしょう 」
粗末な女は、私の訪問を待っていた風であった。
「 そうです、大岸さんは?・・・」
「 どうぞ、お上がり下さい。聯隊ですが、もう、じき帰りますきに 」
土佐弁まじりでテキパキ処理するところをみると、大岸夫人らしい。
「 奥さんですか 」
と、切り出し兼ねるほど粗末であった。
この粗末ななりの女こそ、不羈奔放ふきほんぽうの大岸に仕えて、よく後輩の面倒を見て、
大岸以上に親しまれた夫人であった。


大岸頼好
昭和7年1月6日撮影

『 兵農分離亡国論 』 を 書いて 『 兵科事件 』 を まき起こした大岸だ。
私は白皙瘦躯のかみそりタイプを想像していた。
だが目のまえに見る大岸は、全く予想と反した、茫洋たる豊かさを持っていた。
わずかに下がった目尻、潤いのある澄んだ眼、色の黒い大きな顔、
すべてが親しみのある風丰ふうぼうだ。
かつて胸を病んだとは思えない、がっちりした堂々たる体軀でもあった。
初対面のあいさつがすむと
「 大蔵さん、反吐へどを吐くことは、いいことですね 」
このわけのわからない言葉が、大岸の第一声だった。
「 何ですか、反吐を吐くとは・・・?」
私は、きつねにつままれた思いで問い返した。
「 反吐を吐くとは、全くいい 」
彼は同じことを繰り返した。
酒が出て、盃を交しながら語り合うことはたわいもないことばかりで、
ことさらに時局を論じ合うことはなかった。
話しの合い間に繰り返されることは 「 反吐はいいですよ 」 と、いうばかりであった。
「 読むとしたら、どんな本を読んだらいいでしょうか 」
私は、まともな話がしたかった。
「 そうですなァ、別にありませんね 」
大岸は、ちょっと考えて
「 しいて読むとすれば、ホイットマンの詩集と、赤穂浪士の覚え書ぐらいのものでしょう。
赤穂浪士が、泉岳寺に引き揚げてきたとき、
泉岳寺の和尚が浪士から聞いたこと、見たことを書きつけたもので、
現在、日本には全部で十五、六冊はあるでしょうか 」
私は はぐらかされたようで、面白くなかった。
しかし、考えてみると、人生の基本線を触れているような気もしないではなかった。



「 對馬君を知っていますか 」
「 弘前の對馬勝雄中尉ですか、まだ、会ってはいませんが、うわさは聞いています 」
「 その 對馬君のことですが、満洲に出征して間のないころ、
旅団命令で、部下三名を率いて将校斥候に出されたんです。
目的地の敵情偵察をしましたが、異状がなかったので命令された地点より奥深く侵入した。
ところが 突然、敵の射撃にあい、部下一名を戦死させましてね、
對馬はその部下の死体を、苦労しながら、血だるまになってかついで帰ったんですよ。
旅団長は
『 オレの命令通りにしないで、余計なことをするから、殺さんでいい部下を殺したんだ。オレは知らんぞ 』
と、責任回避をしたそうですね。
對馬は、カンカンに怒ったそうですが、いまどき、こんな将軍がざらにいそうですね 」

大岸は酒豪であるが、私はいまでも初対面の人からきかれては否定するほど、
みかけによらず酒をたしなまないので早々に切り上げ、
大岸の案内するままに、新和歌浦の旅館に一泊した。

翌日は日曜日であった。
大岸といっしょに大阪へ出た。
難波駅についたとき、鼻下に髭ひげを貯えた、一人の小柄な男に出迎えられた。

「 中村義明君です 」
と 大岸が紹介した。
四角なひげ面、眼鏡ごしに見る凹んだ眼、どことなく暗い影のある男。
軍人でないことは確かだ。
何者だろう---私は、興味を持った。
「 おとといは ご迷惑をかけました。反吐まで吐いたりして・・・」
「 さァ、行きましょう 」
大岸は、中村の言を無視して歩き出した。
何の目的で、どこに行くのか、私にはさっぱり判らないまま、両者に続いて歩いた。
「 中村君は、転向者ですよ 」
大岸が、歩きながらささやいた。
これで、反吐の疑問が解けた。
中村が反吐を吐くといっしょに、心の中まで全部を洗い流してしまった、
と 大岸は自分自身で確認したという意味のことをいったわけだ。
いかにも回りくどい、単刀直入でない大岸の態度に
『 古だぬき 』 的要素を多分に感じた私は、いささか反発を覚えた。
訪問先は、大阪商大教授田崎仁義博士であった。
大岸は和服、中村は背広、私は軍服という妙なトリオを、博士は喜んで迎えた。
瀟洒しょうしゃで柔和な好紳士の博士には、一本筋の通った強靱さのある頼もしさを感じた。
約一時間歓談の後、田崎邸を辞去した。
「 中村君が、近く雑誌を出す予定です。いずれ東京に出ますが、
その節はよろしく面倒を見てやって下さい 」
中村の地盤は大阪で、東京は未知に近く、私を頼りにしているようであった。


大蔵栄一著
二・二六事件への挽歌  から


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