あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

赤子の微衷 (一) 蹶起した人達

2020年03月29日 19時17分12秒 | 赤子の微衷 2 蹶起した人達 (訊問調書)

「 任せて帰ることにした 」 野中は落着いて話した
「 何うしてです 」 澁川が鋭く質問した
「 兵隊が可哀想だから 」 野中の声は低かった
「 兵隊が可哀想ですって・・・・。全國の農民が、可哀想ではないんですか 」 澁川の声は噛みつくようであった
「 そうか、俺が悪かった 」 野中は沈痛な顔をして呟くように云った

・・・
澁川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」
・・・ 澁川さんが來た

赤子の微衷 (一)
蹶起した人達
目次
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・ 村中孝次の四日間 1  『 君側ノ奸ヲ芟所シヤウ 』  憲兵訊問調書  昭和11年3月2日
・ 
村中孝次の四日間 2  『 今度ノ行動ハ我々ハ絶對正義ト思ツテ居ル 』   憲兵訊問調書  昭和11年3月2日
・ 村中孝次の四日間 3  『 私共ハ陛下ノ御命令ニ從ヒマス 』   憲兵訊問調書  昭和11年3月2日
・ 磯部淺一の四日間 1  『 陸軍大臣官邸ニテ片倉少佐ヲ射チマシタ 』   憲兵訊問調書  昭和11年3月2日
・ 
磯部淺一の四日間 2  『 不成功ノ場合ハ賊名ヲ受ケルト考ヘテ決行シタ 』   憲兵訊問調書  昭和11年3月2日
・ 磯部淺一の四日間 3    憲兵訊問調書  昭和11年3月3日
・ 香田清貞大尉の四日間 1  『 陸相閣下ト叫ビマシタ 』   憲兵訊問調書  昭和11年3月1日
・ 香田清貞大尉の四日間 2  『 決戰ハ拂暁ト思ヒマシタ 』   憲兵訊問調書  昭和11年3月1日
・ 安藤輝三大尉の四日間  『 中隊ハ一心 』   憲兵訊問調書  昭和11年3月3日
・ 澁川善助の四日間  『 二十八日 午前十時、幸楽ニ行キマシタ 』   憲兵第一回訊問調書  昭和11年3月1日  第二回訊問調書  昭和11年3月6日
・ 栗原安秀中尉の四日間 1  『 愈々本日維新ニ向ツテ前進スル 』  憲兵第一回訊問調書  昭和11年3月1日
栗原安秀中尉の四日間 2  『 國家ニ仇ナス者ハ討ツ 』  
憲兵第一回訊問調書  昭和11年3月3日
・ 栗原安秀中尉の四日間 3  『 内閣ノ首班ニハ誰ヲ据ヘルコトヲ希望スルカ 』   憲兵第二回  昭和11年3月3日  第三回  昭和11年3月6日  第四回  昭和11年3月10日
・ 中橋基明中尉の四日間   『 非常、ト認メ直ニ宮城ニ到ル 』  憲兵訊問調書  昭和11年3月1日
・ 對馬勝雄中尉の四日間   『 部下ノ爲ニ、後顧ノ憂ヲ取除イテヤロウ 』  憲兵訊問調書  昭和11年3月1日
・ 竹嶌繼夫中尉の四日間    憲兵訊問調書  昭和11年3月1日
・ 丹生誠忠中尉の四日間   『 正義ノ爲メ身命ヲ賭シテ働ク 』  憲兵訊問調書  昭和11年3月1日
・ 坂井直中尉の四日間 1   『 洵ニ夫人ノ態度ハ立派デアリマシタ 』   憲兵訊問調書  昭和11年3月2日
坂井直中尉の四日間 2   『 澁川サンガ私ノ部隊ニ附カレ、最後迄色々御世話ニナリマシタ 』   憲兵訊問調書  昭和11年3月6日
・ 田中勝中尉の四日間   『 今日カラ昭和維新ニナルゾ喜ベ  』  憲兵訊問調書  昭和11年3月1日
・ 高橋太郎少尉の四日間 1   『 私ハ昭和維新實現ノ爲一身ヲ犠牲ニシ決行シヤウト決心シマシタ 』  憲兵訊問調書  昭和11年3月2日
・ 
高橋太郎少尉の四日間 2   『  生死ハ一如ナリ 』  憲兵訊問調書  昭和11年3月2日
・ 安田優少尉の四日間 1  『 天誅国賊 』   憲兵訊問調書  昭和11年3月1日
・ 
安田優少尉の四日間 2  『 皇威ヲ發揚シ、國家ヲ保護ス可ク誓ツタ 』  憲兵訊問調書  昭和11年3月1日
・ 中島莞爾少尉の四日間  『 眞ノ大決心ノ御發揚ヲ仰ガネバナラヌト   憲兵訊問調書  昭和11年3月2日
・ 林八郎少尉の四日間  『 私は最忠最良ヲ行ッタ 』  憲兵訊問調書  昭和11年3月1日
・ 池田俊彦少尉の四日間  『 斷乎 妖雲ヲ一掃シテ、天皇御親政ノ眞ノ國體ヲ顕現セン 』  憲兵訊問調書  昭和11年3月2日
・ 常盤稔少尉の四日間   『 吾々ノヤツタ行爲ハ、陛下ハ必ズヤ御嘉納下サル 』  憲兵訊問調書  昭和11年3月1日
・ 鈴木金次郎少尉の四日間  憲兵訊問調書  昭和11年3月1日
・ 清原康平少尉の四日間  憲兵訊問調書  昭和11年3月2日
・ 麥屋清濟少尉の四日間  憲兵訊問調書  昭和11年3月4日、5日
・ 今泉義道少尉の四日間  憲兵訊問調書  昭和11年3月2日
山本又 豫備少尉の四日間   『 今ニシテ時弊ヲ改メズンバ 』  憲兵訊問調書  昭和11年3月4日

・ 
香田清貞 ( 憲聴取 ) 『 神州の危急を知ろしめずんば朕をして君たるの道を失はしむるものなり 』 憲兵聴取書  昭和11年3月16日
對馬勝雄 ( 憲聴取 ) 『 内敵を一掃し、後顧の憂いを残し 戰死した戰友部下に酬る 』  憲兵聴取書  昭和11年3月20 日
安田優少尉 ・ 行動錄 ( 1月18日~2月29日 ) 

・ 
憲兵訊問調書について ( 大谷啓ニ郎、昭和憲兵史 ) 
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要望事項
1、陸相ノ斷乎タル決意ニ依リ 速ニ本事態ノ収拾ニ任セラレ度シ
理由
(一) 隊外情勢急迫ノ現狀ニ照シ、此ノ混亂ヲ一刻モ速ニ収拾スルハ絶對的ノ必要
(二) 事態収拾ノ方策ハ一路御維新ヲ仰ギ奉ルニ在リ
2、皇軍相撃ツ不祥事ヲ絶對ニ起サザルノ處置ヲ速ニ取ラレ度シ
理由
(一) 同志ハ蹶起ノ主旨ヲ貫徹スルニ在リテ無用ノ混亂ヲ絶對ニ防止シ度シ
    然レドモ主旨貫徹ノタメニハ一歩モ引カザル決意ヲ有ス
    從ツテ吾人ノ心事行動ヲ生カス方策ニ出デラルルコトナク無理解ナル處置ヲ
    取ラルルニ於テハ  已ムヲ得ズ此所ニ皇軍相撃ツノ不祥事ヲ惹起スベシ
處置
(一) 憲兵司令官ヲシテ憲兵ノ妄動ヲ避ケ事態ノ認識ヲ明確ナラシムル迄靜観セシムルコト
(二) 警備司令官及兩師團長ニ命ジテ皇軍相撃ヲ絶對ニ避ケシムルコト
3、左ノ諸官ヲ速ニ逮捕セラレ度シ。
(一) 南大將
(二) 宇垣総督
(三) 小磯中將
(四) 建川中將
理由
(一) 軍ノ統帥ヲ破壊セル元兇
(二) 特ニ此ノ處置迅速ナラザレバ各地同志ノ蹶起シ此等諸官ニ殺到シ重大ナル事態ヲ惹起スル恐アリ
4、軍中央部ニ蟠踞シテ軍閥的行動ヲ爲シ來リタル中心的人物ヲ除ク事
(一) 根本博大佐
(二) 武藤章中佐
(三) 片倉衷少佐
5、荒木大將ヲ関東軍司令官タラシムルコト
理由
(一) 對蘇関係今日ノ危機ヲ大事ニ至ラシムルコトナク突破スル適任者ナリ
(二) 國内収拾力ニ就テハ已ニ試験濟ニシテ遂ニ今日ノ事態ニ迄突進セラシメタレタリ
    吾人ハ國内収拾ニ關シテハ同大將ニ信頼セズ
6、左ノ將校ヲ即時東京ニ採用セラレ度シ
大岸大尉、菅波大尉、小川三郎大尉、大蔵大尉、朝山小二郎大尉、佐々木二郎大尉、
末松太平大尉、江藤五郎中尉、若松満則大尉
理由
(一) 此等諸官ノ意見ヲ聽取シテ善處スルコトニ依リ  全國軍隊ノ不穏化ヲ防ギ安定ヲ見ルコトヲ得
(二) 單ナル弥縫コト的處置ハ徒ラニ事態ヲ混亂ニ導クノミ
7、突出部隊ハ事態安定迄現位置ヲ絶對ニ動カシメザレコト
理由
吾人同志ノ士ハ前述ノ事項實行セラレ事態ノ安定ヲ見ル迄ハ斷ジテ引カザル堅キ決意ヲ有ス
願ハクハ明斷果決御維新ヲ仰ギ奉リ  破邪顯正皇運御進展ニ翼賛シ奉ランコトヲ爲念
山下少將ヲ招致シ海外竝ニ國内ニ對スル報道ヲ適正ニ統制セシメラレ度シ

・・・
「 只今から我々の要望事項を申上げます 」


憲兵訊問調書について ( 大谷啓ニ郎、昭和憲兵史 )

2020年03月29日 05時41分06秒 | 赤子の微衷 2 蹶起した人達 (訊問調書)

二 ・二六事件
憲兵訊問調書
目次
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憲兵訊問調書に就いて
磯部淺一訊問調書
 ・ 被告人訊問調書 ・・・
赤子の微衷 ( 一 ) 蹶起した人達 ・・ 磯部淺一の四日間 1 
 ・ 第二回被告人訊問調書 ・・・赤子の微衷 ( 一 ) 蹶起した人達 ・・ 磯部淺一の四日間 2 

 ・ 被告人訊問調書 ・・・暗黒裁判 ・反駁 1 ・・ 磯部淺一 訊問調書 1 昭和11年4月13日 「 眞崎大將のこと 」
栗原安秀訊問調書
 ・ 被告人訊問調書 ・・・赤子の微衷 ( 一 ) 蹶起した人達 ・・栗原安秀中尉の四日間 1 
 ・ 第二回被告人訊問調書 ・・・赤子の微衷 ( 一 ) 蹶起した人達 ・・
栗原安秀中尉の四日間 2 
 ・ 第三回被告人訊問調書 ・・・赤子の微衷 ( 一 ) 蹶起した人達 ・・栗原安秀中尉の四日間 2 
 ・ 第四回被告人訊問調書 ・・・赤子の微衷 ( 一 ) 蹶起した人達 ・・栗原安秀中尉の四日間 2 
安藤輝三訊問調書
 ・ 被告人訊問調書 ・・・赤子の微衷 ( 一 ) 蹶起した人達 ・・安藤輝三大尉の四日間 
對馬勝雄訊問調書
 ・ 被告人訊問調書 ・・・赤子の微衷 ( 一 ) 蹶起した人達 ・・對馬勝雄中尉の四日間 
香田清貞聴取書
 ・ 聴取書 ・・・赤子の微衷 ( 一 ) 蹶起した人達 ・・香田清貞 ( 憲聴取 ) 『 神州の危急を知ろしめずんば朕をして君たるの道を失はしむるものなり 』 
對馬勝雄聴取書
 ・ 聴取書 ・・・赤子の微衷 ( 一 ) 蹶起した人達 ・・
對馬勝雄 ( 憲聴取 ) 『 内敵を一掃し、後顧の憂いを残し 戦死した戦友部下に酬る 』 
北一輝聴取書
 ・ 聴取書 ・・・赤子の微衷 ( 一 ) 北一輝と西田税 ・・
北一輝 (警聴取4) 『 西田は、同志と生死を共にしようと決心した 』 

憲兵訊問調書について
二 ・二六事件資料として叛乱鎮定直後における憲兵の訊問調書数篇をここに収めた。
全く今日まで世に出たことのない、生々しい当時の彼等の供述書であるが、ただこの調書は、
(イ)  事件の捜査手続が今日謂うところの緊急逮捕事件に相当し、
 当時に於ても逮捕してから四十八時間以内に事件を軍法会議に送る必要があったため、
東京憲兵隊では将校総がかりで三月一日と二日の二日間に最も精力的に取調を進めたのであるが、
この時間的制約のためその取調は徹底した追及が行われていない。
(ロ)  叛乱将校にしても二十九日夕刻軍刑務所に拘置されて身辺の激変に遭い、
 その上、事件緊張のあとの精神的空白なども手伝って、その記憶も必ずしも正確でなく、
また第一線出動以外の関係者にはお互いに迷惑をかけまいとする審理が働いて、
その供述するところも曖昧な点が少なくはない。
などの憾みはあるが、しかし、ともかくも事件直後における叛乱将校の供述書といった意味で、
二 ・二六事件におけるもっとも貴重な資料の一つである。
調書は右に述べたように強制捜査であったため、すべて訊問の形式が用いられていて
任意供述のかたちをとっていないし、また、訊問者の訊問能力の稚拙から、
被告人の心の動きが浮彫にされていない欠点もあるが、・・・・
なお事件当時捜査官だった私は、これらの調書について若干の解説を加えておきたい。
一、磯部調書について
1  その第一回、第二回調書はその日付が示すように事件直後のもので、
 磯部としても、西田税や北一輝それに山口大尉との関係などは一切これを否定して、
いささかも関係のないように供述しているし、また、金銭関係においてもボヤけてしまっている。
磯部は森伝氏にはたいへん世話になり時々は金をもらっていたし、
さらに今度の蹶起資金として村中が亀川哲也から千五百円を貰っていたこと、
また、栗原が斎藤瀏少将その他から軍資金の調達をしたことなどは共に承知している筈だが、
これらに就いても全く鍼している。
これら好意ある人々に迷惑をかけてはならぬとの心遣いであろう。
だが、こうしたことを除いては、磯部の陳述は大体において真実に近いものがある。
2  磯部の供述で特にここで指摘しておきたい点は三つある。
その一つは第一師団の渡満が蹶起の動機ではないとしていること、
その二は 「 維新ハ戦争前デナイト危険ダ 」 といっていること
その三は蹶起の時機は尚早だと内心ひそかに考えていたと述べていることである。
(イ)  師団の渡満を蹶起の動機とすることは不同意であるということ。
 今日、一般に二 ・二六は第一師団の北満移駐を動機として事は起されたかのように理解されている。
たしかに第一師団の渡満によって多くの革新将校が東京を離れるので、
これが渡満前に君側の奸を取除き、非維新勢力を威服せしめておきたいと考えたことは事実ではあるが、
しかし革命家を以て自任する彼は、その革命条件の成熟を内外情勢の判断の上に求めていることを注意したい。
だが、その国家内外の情勢といっても究極するところは、
軍内の非維新勢力 ( 軍幕僚 ) の跳梁に対し軍の維新 ( 粛正 ) を期待したのであって、
それは後記する第三の調書によって正確にこれを窺うことができる。
(ロ)  戦争の前に維新をやらないと危険だということ。
 戦後一部の人によって二 ・二六は戦争をなくするために蹶起したのだと解されている。
だが、この考えは青年将校にはなかった。
青年将校は維新即ち国家改造と戦争の関係においては、
戦争必至内外情勢下では速かに国内維新を断行し、
その国内情勢を整えてから戦争に臨まなければ国家は危ふいと考えていたのである。
のちの安藤調書にも 「 先ず維新によって国を固めてから外敵にあたるべきだ 」
と言っているのは、この磯部の思想と軌を一にするものである。
このような彼等の思想は
当時軍一部の幕僚によって唱えられていた 「 戦争ともなれば必然に国内維新はできる、維新は急ぐことはない 」
との説に対抗するものであって、
戦争防遏ぼうあつのための国家改造ではなかったのである。
(ハ)  時期尚早を内に蔵していたということ。
 安藤は時期尚早を理由にこの蹶起に反対した、
いわゆる内外の条件が未成熟で成功覚束ないというのであった。
磯部はこの安藤の時期尚早論を各種の準備工作の完了をあげて成功率の高いことを示して説伏した。
しかしその彼にしてもなお秘かに時期尚早の危惧をもち
不成功の場合にはあえて賊名をうけることを覚悟して蹶起したという。
するとこのような危惧を懐きながら蹶起した、彼等の焦りは何だったのか、
隊付将校の決行熱の高まりによる勢いであったのか、
あるいは軍内情勢上、その粛正の緊急性を確かり強く自覚したものか、
蹶起の真意についてはなお色々と究明すべき問題を含んでいるように思われる。
2  磯部の第三の調書は主として真崎大将に関する容疑資料集めを目的とした訊問であったので、
 その大部は真崎大将に関係ある事項に集中されている。
この中で私の関心をもつことは二つある。
(イ)  本件中、真崎大将に時局収拾をお願いしたのは、何も彼を首相ときめてかかったわけではなく、
軍の実力者として登場してもらいたかったと云っていること、
できれば首相になって頂ければより満足だが、
三長官の一人に返り咲いてもらって事態収拾に乗り出して頂ければかったのだと述べていることは、
史実としても重要である。
それは真崎内閣を固執していないのである。
元来真崎内閣説は西田税、亀川哲也、山口一太郎らの時局収拾案で、
真崎を首班とする強力内閣による維新断行を希望したが、
北一輝は真崎の革新性や政治力には何等の期待を持たず、
ただ真崎ならば青年将校を見殺しにしないだろうとの考えから、
時局収拾を真崎に一任することを蹶起将校に勧告したに過ぎない。
これは北一輝も後に収めたその聴取書で言っている。
だから真崎内閣説にもいろいろの思惑があったわけだが、
磯部のこの供述は彼の本心であったと私は考えている。
この事件の蹶起前にひそかに軍の動向、特に蹶起後軍の出方を仔細しさいに偵察し判断したのは、
磯部その人であったが、彼は軍の大きな二本の革新の柱として川島陸相と真崎大将とを設定し、
これに一部好意ある幕僚の強力な支援により陸軍は維新態勢に導入し得ると判断したのである。
だから真崎大将は軍の中核となってくれればよいわけで、
必ずしも維新内閣の首班たることを要しないのであった。
(ロ)  彼は 「 維新運動ヲ阻害シ軍浄化ヲ防ケル者ハ軍幕僚 」 だと断定して、
 これらの幕僚をやっつけることのできなかったことを痛く後悔しているが、
それは蹶起の心の動きに、その真意をはっきり暴露せるものとして、注目を引くところである。

二  栗原調書に就て
1  供述の曖昧
山口大尉、斎藤少将等に関する供述は磯部の場合と同様、
これらの人々に迷惑をかけまいとしてあいまい模糊としている。
山口とは彼に絶対に迷惑をかけないとの固い約束が出来ていたことは、
後に山口の取調ではっきりした。
また、首相官邸の襲撃についてもボヤけているが、
これも殺害という事実をくわしく語ることを好まなかったのであろう。
2  爆薬の奪取
歩一では栗原が、歩三では週番司令の安藤が弾薬庫から弾薬を持出すことに計画されていたのだが、
栗原は兵器委員助手の石堂軍曹を拳銃を以ておどし弾薬庫に連絡して開扉せしめている。
これが真相であるが一般には栗原が石堂軍曹より弾薬庫の鍵を奪ったように解されている。
或は小説 『 叛乱 』 の叙述が定説化されているのであろうか。

三  安藤調書に就て
彼が自傷後の静養中の取調とあってか、あたりさわらずの訊問となっており、
彼が蹶起に踏み切る苦悩や最後まで兵と共に抗戦を続行しようとして果さず、
ついに自決に至る心の動きなど重要な点には全く触れていないのは残念だが、
彼は元来多くを語るを好まずその供述は消極的であった。
ここに語られている鈴木邸襲撃にしても、侍従長を誰が射撃したのか、
また そこで夫人がどんな態度に出たかなど全くかくされている。
それは彼の人柄のせいであり、
また、くわしく云えば部下の下士官に責任の及ぶのをおそれてのことである。

四  對馬調書に就て
彼の供述で最も印象的なのは、その維新運動に入った動機である。
對馬は満洲事変に参加し功五級金鵄勲章を拝受している戦場の殊勲者である、
その彼は、
----満洲事変デハ自分ガ指揮官トシテ自分ノ部下ノ後顧ノ憂ヲ感得シ
又自分トシテモ国内ノ内憂ニ対スル心配ガ大キクナリマシタノデ
共ニ死スベキ部下カ後顧ノ憂ヲ持チツツ或ハ斃レ 或ハ傷ツクコトニヨリ
更ニ自分ハコノ事変デ生キテ帰ツタラ此等ノ部下ノ為メニ
其後顧ノ憂ヲ取ノ除イテヤラウト決心シタ
のである。
純真な青年将校が戦場に於て部下の死を前に維新に挺身することを誓ったのであるから、
其運動は強烈にして決死的なものであった。

五  磯部は石原大佐をどう見ていたか
最後に磯部調書と栗原調書を見てはっきりしておきたいことがある。
それは石原大を当時青年将校がどう見ていたかということである。
石原大佐は事件の朝、叛乱将校の占拠する陸相官邸大広間で、
斎藤少将に 「 言うことを聞かねば軍旗をもって来て討つ 」 といい放ち、
この大広間を一瞬にして険しいものにしたが、
彼は叛乱軍将校の同調者であったのか、対立者であったのか。
磯部の遺書 『 行動記 』 には、この大広間で栗原が石原に向い、
「 大佐は維新に対していかなる考えを持っているか 」 と詰問したが、
大佐は 「よくわからんが僕は軍備を充実すれば維新はなると言うのだ 」
と答えた。
栗原は磯部らに向って 「 どうしますか 」 といってピストルを握っていたが、
磯部がだまって答えなかったので栗原も引き退ってきた、と書いている。
だが、事件発起までの磯部の石原観は、そうではなかった。
石原は昭和維新に熱意をもち、
少なくとも彼等の蹶起にはこれを支援するものと考えていた。
これは彼が所持していた手帳の中に、
牟田口、西村、村上、鈴木貞一、満井中佐、
小畑、岡村、山下、本庄、荒木、真崎、石原、川島、古荘、今井
という名前が列記してあったが、
これらの人々は予め一大事が起ったならば、
これに善処をお願いする予定者だったというのである。
なる程、右の列記の人々は誰が見ても皇道派に近い、
また、これに好意をもつと考えられる人々であるが、
その中に石原の名前があることは、いささか異とするものがある。
石原は林陸相の下、作戦課長に抜擢された人材だが、
皇道派でも、また永田一派の流れをくむ統制派でもなかった。
むしろ軍の中の青年将校運動には批判的でこれを粛正する立場にあった。
だからその限りにおいて青年将校に対立するものがあったからである。
だが、磯部は、石原は国家革新には熱意を持つ幕僚だと見ていたので、
渋川善助や満井中佐を通じ事前工作をしていたのである。( 磯部第二回調書 )
また、栗原はこれを裏書するように、その第二回調書で、
「 石原大佐は ( 註、昭和維新について ) 少し違った点があったようでありますが、
 事件の途中に磯部が会った時には、同じような意見であったと磯部から聞きました 」
と述べている。
これからみると、磯部は事件前から事件中にかけて、
石原を昭和維新の準同志として認めていたことになる。
それだから二十九日安藤が 「 囲みを解いたら兵はかえす 」 と絶叫したとき、
磯部はすぐ柴大尉を石原戒厳参謀のもとに走らせて、囲みをとくよう申入れさせた、
好意ある処置がなされるものと信じていたからだろう。
しかし、その石原の答えは
「 今となっては脱出か自決しかない 」 といった冷酷非情のものだったので、
彼の怒りは心頭に発し その石原観も一転回したのではないかと考えられる。
ともかくも磯部は事件集結に至るまで、
石原大佐を維新の準同志とみて、これに期待をかけていたということは、
ここではっきりしておきたい。

大谷敬二郎
昭和憲兵史 から