あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

西田税 (憲聴取6) 『 昭和維新への道程 1 』

2020年03月11日 09時33分12秒 | 赤子の微衷 1 西田税と北一輝 (聽取書)


西田税

第六回聴取書

住所  東京市渋谷區千駄ヶ谷二ノ四八三番地
著述業 西田 税
当三十六年
右者、昭和十一年四月十一日、東京憲兵隊本部ニ於テ、
本職ニ對シ任意左ノ陳述ヲ爲シタリ

前回ニ申上ゲナカツタ點ニ就イテ、引續キ申上ゲマス。
一、國家革新意識ヲ持ツニ至ツタ最初ハ、大正八年頃ト思ヒマス。
 當時、陸軍中央幼年學校在學中デアリマシタガ、
當時ノ社會情勢ハ、其ノ前年即チ大正七年ニハ米騒動ガアリ、
又、當時私共ノ郷里ニハ大本敎ガ勃興シテ、ソノ發展期デアリマシタ關係上、
多數ノ在郷軍人モ加入シテ居リマシタ爲ニ、私ガ休暇デ歸省致シマシタ際、盛ニ其ノ加入ヲ勧告サレタノデアリマス。
然シ、私ノ父ガ大本敎ニハ反對デアリマシタノデ、
私ハ大本敎ノ宣傳シテ居ツタ日米戰爭ノ切迫ト其ノ對策ニ就テ、大イニ關心ヲ持ツタノデアリマス。
一方、當時幼年學校ニ在學中デアリマシテ西岡元三郎 ( 士官學校第二十六期生 ) ガ、
大陸會ニ關係ヲ持チ、盛ニ満蒙問題ヤ大陸發展上、
國内ヲ纏メル必要ガアルト話シテ居リマスノヲ聞キ、興味ヲ感ジタノデアリマス。
以上ノ様ナ關係カラ、國内ヲ何トカセネバナラント感ズル様ニナツタノデアリマス。
即チ、私ノ國家革新意識ニ對スル動機ハ、大本敎ノ日米戰爭關係ヲ聞イテ、
大陸發展ノ必要ヲ感ジ、之ガ爲ニハ、國内ヲ改造スル必要ガアルト感ズル様ニナツタノデアリマス。
然シ、當時ノ考ヘハ未ダ漠然タルモノデアリマシタ。
ソシテ、當時在學中ノ同ジ様ナ考ヲ持ツテ居ル者ト、大陸發展問題ヲ中心トシテ交際スル様ニナリマシタ。
此ノ様ナ大陸問題ニ關心ヲ持ツニ至リマシタ關係上、私ハ朝鮮聯隊ニ行クコトヲ志願シタノデアリマス。

士官學校在學中
私ハ士官學校ニ入リマシテカラ、大陸問題ノ研究ノ必要上、支那語ノ研究ニ努メタノデアリマス。
尚、當時西岡氏ノ紹介ニヨリ、長崎氏 ( 陸士二十三期生 ) ヲ知ル様ニナリ、
又、長崎氏ノ紹介ニ依ツテ黒竜會ニ出入リシテ、大亜細亜主義問題ヲ研究スル様ニナツタノデアリマス。
當時、長崎氏ハ黒竜會ノ機關誌デアル亜細亜時論ノ編輯ヲシテ居リマシタ。
ソシテ黒竜會ノ關係カラ、満川亀太郎氏ヲ紹介サレ、満川氏カラ鹿子木員信氏ニ紹介サレ、
又、鹿子木氏カラ印度革命家 「 ボース 」 ニ紹介サレタノデアリマス。
尚、當時、満川氏カラ北一輝著支那革命外史ヲ借用シテ讀ミ、其ノ主張ニ共鳴シタノデアリマス。
尚、其ノ頃、雑誌ニ依ツテ猶存社ノ名ヲ知リ、其ノ大亜細亜主義ニ共鳴シタノデアリマス。
又、満川氏ノ紹介ニヨリ北一輝ト初メテ識ルコトヲ得タノデアリマスガ、
北氏カラ日本改造法案ノ原稿ナゾヲ借リテ讀ンデ居リマシタ。
結局、私ノ士官學校在學中ハ、満川亀太郎氏及ビ北一輝氏ニ依ツテ種々ノ思想的指導ヲ受ケタノデアリマス。
當時士官學校同期生中、私ト同ジ様ナ考ヘヲ持ツタモノハ凡ソ二十名許リ居リマシタガ、
其ノ主ナルモノハ、宮本進 ( 後飛行將校トナリ墜死 ) 福永憲 ( 平壌聯隊中隊長 )
ノ二人ガ一番深イ關係ヲ有シテ居リマシタ。
然シ、當時ハ未ダ國家革新問題ニ對シテ明確ナ意見ヲ持ツテ居ツタ譯デハアリマセン。
オ互將校ニナツタラ、確リヤロウデハナイカト語合ツタ程度デアリマシタ。

騎兵少尉任官後
コノ様ニシテ私ハ士官學校ヲ卒業シ、
朝鮮ノ騎兵二十七聯隊附騎兵少尉トシテ勤務スル様ニナツタノデアリマスガ、
其後騎兵第五聯隊トシテ轉任シマシタ。
在隊間ハ殆ンド國家革新問題ニ就テ大シタ變化ヲ認メマセンデシタ。
大正十四年、私ハ肋膜肺尖デ自宅療養中、同年六月現職ヲ去ツタノデアリマスガ、
同年四月新タニ行地社ガ創立セラレ、
満川亀太郎、大川周明、安岡正篤ノ三氏カラ私ニ上京セヨト申シテ來テ居リマシタノデ、
私ハ現職ヲ去ルト同時ニ上京シテ、行地社ニ參加シタノデアリマス。
行地社ニ於テ私ハ、一面同人トシテ機關雑誌 「 日本 」 ノ編輯ニ當リ、
又私ト大川氏とガ實際的運動トシテ、主トシテ軍人方面ヲ担當シ、啓蒙運動ニ進出シタノデアリマスガ、
一方、私ハ行地社ノ敎育機關トシテ設置セラレタ大學寮ノ寮監ヲ兼ネ、
又、寮ノ講師トシテ國防問題ノ講義ヲ致シテ居リマシタノデ、實際的問題ハ實行不可能デアリマシタ。
要スルニ、私ノ行地社存社中ハ殆ンド雑誌ノ編輯ト講義ニ追ハレタ研究時代デアリマシタ。

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・ 西田税と大學寮 1 『 大學寮 』
・ 西田税と大學寮 2 『 靑年將校運動発祥の地 』
西田税と十月事件 『 大川周明ト何ガ原因デ意見ガ衝突シタカ 』 ・・〈 註 1〉

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大正十四年
同年秋、安田保善社ノ爭議ガアリマシタガ、
行地社同人ガ同社ニ關係シテ居リマシタノデ、私ハ大川氏ト意見ノ相違カラ行地社ヲ脱退シタノデアリマス・・〈 註 1〉
ソシテ、大正十五年 二月迄、
大學寮ト同ジ場所ニ在リマシタ社會敎育研究所ニ於テ、社會問題ニ關スル研究ヲシタノデアリマス。
ソシテ同年二月、代々木山谷ニ一家ヲ借リ受ケ、獨立シテ思想ノ研究等ニ努力シタノデアリマス。
當時、西岡元三郎氏ガ目白ノ憲兵分隊跡デ
「 星光同盟 」 ト云フ在郷軍人ノ勞働者達ノ無料宿泊所ト簡易食堂トヲ經營シテ居リマシタガ、
同年四月頃私ガ之ヲ譲リ受ケ、其ノ擴大ニ努力シタノデアリマス。
其ノ目的ハ、當時左翼勞働運動ガ非常ニ勃興シテ居リマシタノデ、
之ニ對シ軍隊敎育ヲ受ケタ勞働者中ノ在郷軍人ニ依ツテ
新シイ勞働運動ヲ起コス必要ガアルト考ヘタカラデアリマス。
ソシテ、ソノ擴大鞏化ニ努メテ居ツタノデアリマスガ、
其ノ途中ニ於テ、同年五月頃、所謂宮内省怪文書事件等ヲ起コシテ、
同年八月暴力行爲取締法違反ニヨリ未決ニ入リマシタ爲、
星光同盟ノ運動モ中絶ノ止ムナキニ至ツタノデアリマス。
宮内省怪文書事件トハ、皇室土地山林ノ払下不正ノ責任ヲ糾弾シテ、
當時ノ牧野宮内大臣、関屋宮内次官ニ辭職ヲ勧告シタ問題デアリマス。

昭和二年、
同年二月十五日、私ハ未決監カラ出所致シマシテ、代々木山谷ニ
1、人類ヲ正導スベキ則天日本ノ建設
2、白人種ノ隷從ヨリ全有色人種ノ解放
3、國家生存權ノ國際的主張
等ノ綱領ヲ掲ゲテ 士林荘ノ看板ヲ掲げマシタガ、其ノ實體ハ何モナカツタノデアリマス。

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西田税 『 士林莊 』 
・ 天劔党事件 (1) 概要 
・ 天劔党事件 (2) 天劔党規約 
・ 天劔党事件 (3) 事件直後に發した書簡   
・ 天劔党事件 (4) 末松太平の回顧錄 
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天劔党事件
當時、陸軍士官學校第三十九期生 ( 澁川善助ノ期 ) 中、二、三十名ノ者ガ私ノ処ニ出入リシテ居リマシタ。
當時、「 ハプチャップ 」 ノ息子モ私ノ家ニ出入リシテ居リマシタガ、
夫等ノ者ハ盛ニ大亜細亜主義ヲ前提トシテ、満蒙ノ研究ヲヤッテ居リマシタ。
海軍ノ藤井齊モ支那革命外史ニ共鳴シテ満蒙研究ヲシテ居リマシタガ、
同年七月頃、士官候補生ノ卒業式ニ際シテ、
私ト藤井トガ天劔党規約ト題スル印刷物ヲ作ッテ配布シタ事ガアリマス。
其ノ規約ノ内容ハ、
1、當初ハ満蒙改策ニ出發シ
2、更ニ大亜細亜主義ニ移リ
3、進ンデ世界道義的革命主義ヨリ
4、其ノ行程手段トシテ國家改造主義ニ到達ス
ト謂フ様ナモノデアリマス。
同年九月頃、之ヲ天劔党事件ト名附ケテ新聞ニ發表致シマシタガ、
内容ハ秘密結社デモ何デモ無カッタノデアリマス。

昭和四年
田中内閣當時、所謂不戰條約問題が發生シマシタノデ、
黒竜會、大化會、明徳會、政敎社、愛國社等ト合同シテ政府糾彈運動ヲ行ツタノデアリマス。
不戰條約問題トハ、人民ノ名ニ於テ條約ヲ締結セントシタ田中内閣ニ對シ、
御批准反對ヲ鞏請シタ問題デアリマス。
次デ、所謂張作霖爆死問題ガ勃發シテ、同年七月田中内閣ハ倒レタノデアリマスガ、
私ハコノ爆死問題糾彈運動ニハ反對デアリマシタ。
同年秋、浜口内閣ノ金解禁問題カラ、昭和五年正月、井上蔵相告發問題ガ起コリ、
私ハ告發關係者トシテ告發ヲシ、其ノ内容ヲ撒布セントシタ爲、
捕ヘラレテ十日間ノ拘留處分ヲ受ケマシタガ、結局不起訴トナリマシタ。
コノ様ニシテ、私ハ不戰條約問題カラ愛國政治運動ノ必要ヲ痛感シ、
愛國派ノ少壯有志ガ會合シテ日本主義政党ヲ組織スル必要ヲ認メマシタノデ、
中谷武世、津久井竜雄 等ト相談ノ結果、夫々
私ハ日本愛國党
中谷ハ愛國大衆党
津久井ハ急進愛國党
ヲ中心トシテ合同組織スルコトニ致シマシタ。
私ハ日本國民党ニ於テ表面名前ヲ出サヌ心算デアリマシタガ、・・〈 註 2 〉
結局同党ノ統制委員長トナリ、
昭和四年十一月、頭山満、内田良平、長野朗ノ諸氏ヲ顧問トシテ結党式ヲ擧ゲタノデアリマスガ、
前申述ベマシタ井上蔵相ノ告發問題ニヨリ、党紀ヲ紊ルコトトナリマシタノデ、同党ヲ脱退シタノデアリマス。
昭和五年
三月中旬カラ、所謂ロンドン條約問題ガ發生シ、三月十五日遺英全權カラノ請訓ガアリ、
同年四月一日政府カラ回訓ガ發セラレマシテ、所謂統帥權干犯問題ガ起ツタノデアリマス。
私ハコノ問題ニ就キ相當反對運動ニ努力シタノデアリマス。
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ロンドン條約問題 『 統帥權干犯 』 
ロンドン條約をめぐって 2 『 西田税と日本國民党 』 ・・〈 註 2 〉
ロンドン條約をめぐって 3 『 統帥權干犯問題 』

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爾來昭和六年頃迄、凡ソ一年近く 「 ロンドン 」 條約問題ハ絶糾致シマシタ。
當時、私ハ黒竜會等ノ右翼團體ノ外、海軍ノ洋々會ヤ恢弘會ナドト鞏調シテコノ問題ノ解決ニ努力致シマシタ。
海軍ノ小笠原長生子爵ナドト知己ヲ得マシタノモ、コノ時代デアリマス。
昭和六年三月、幣原外相ノ失言問題ガ起コリマシタガ、
私ハ昭和五年ノ秋ニ於ケル
「 ロンドン 」 條約御批准後カラ昭和七年三月迄ノ間ハ海軍ノ補充計畫問題ニ就テ努力致シマシタ。
後ニナツテ、コノ三月ニ
所謂三月事件ノ計畫ガ行ナハレテ居ツタト云ふ事ヲ聞イタノデアリマス。
昭和六年六、七月頃ハ満洲事變ノ直前デアリマシテ、満蒙問題ガヤカマシク叫バレテ居ツタ時デアリマス。
一方、所謂十月事件問題モ、此頃カラ漸次計畫ガ進メラレテ居ツタノデアリマス。

十月事件
當時、參謀本部ノ作戦部長建川少將ハ、
騎兵第五聯隊時代ノ聯隊長デアリマシタ關係上、時々訪問シテ居リマシタ。
満蒙問題ニ就テ話ヲ聞イテ居リマシタガ、
同年八月頃、橋本中佐カラ所謂十月事件ノ大體ノ計畫内容ヲ聞カサレ、
海軍ヲ參加サセル様に努力ヲシテ呉レル様ニトノ依頼ヲ受ケマシタ。
其処デ、私ハ同年八月下旬 聯合艦隊ガ入港致シマシタ際、
私ト藤井ト日召トガ主トナリ、
日本青年會館デ陸、海、地方合同ノ會合ヲ開催致シマシタ。
其際、陸軍カラハ三、四名、
海軍カラハ十四、五名、
地方側カラハ井上日召其他愛郷塾關係者等デアリマシタ。
然シ、當日ノ會合ハ、大シタ纏ツタ話モアリマセンデシタ。
藤井ト井上日召トハ、
十月事件ニ參加シタイ希望ヲ持チ、私ニ對シテ陸軍側トノ聯絡方ヲ依頼致シマシタ。
陸軍側ニ於テハ、
同年八月ノ異動デ菅波中尉ガ東京ニ轉任シテ來マシタノデ、
近歩三ノ野田又雄中尉、戸山学學校ノ末松太平中尉ト菅波トノ三人ガ中心トナリ、
部隊側ノ將校、戸山學校、砲工學校ノ學生等ヲ取リマトメル事ニナリマシタガ、
部隊側ノモノハ、幹部將校ノ意見ガ不明デアリマシタノデ、
私ニ對シ橋本中佐ト部隊側トノ聯絡折衝ノ依頼ヲ受ケタノデアリマス。
コノ様ニシテ、私ハ十月事件ニ於テハ、
陸海兩軍側カラノ依頼ニ依リ、
橋本中佐ヲ中心トスル幹部將校ヘノ聯絡折衝ノ役目ヲシテ居ッタノデアリマス。
當事、私ハ長勇少佐ニ二度許リ、
大川周明ニ一度許リ會ヒマシタガ、橋本中佐以外ノ幹部ニハ餘リ會ツテ居リマセン。
同年十月ニナツテ、橋本中佐カラ其ノ計畫内容ニ就イテ更ニ話ヲ聞キマシタガ、
其ノ内容ハ最初聞キマシタモノト大變々ワツテ居ル様ニ考ヘラレマシタ。
夫れは最初の方針と異り、近歩二の田中信男大隊が參加スルトカ、
近歩四ノ森一郎大尉ガ機關銃隊ヲ引率シテ出動スルトカ、聯隊旗ヲ出ストカ申シマシタノデ、
ソレ迄ハ、私ハ靑年將校一團ノ直接行動ノミデアルト考ヘテ居リマシタノニ、
部隊ヲ引率シテ出動スルト申シマシタノデ、
私ハ橋本中佐ニ對シ
「 陛下ノ命ナクシテ皇軍ヲ動カス事 」
「 私上ノ事ニ聯隊旗ヲ持チ出ス事 」
ニハ反對デアルト爭論致シマシタ。
然シ、橋本中佐ハ私ノ意見ニ賛成シテ呉レマセンデシタ。
ソウコウスル中、此ノ事件ハ暴露サレ、不發ニ終ワッタノデス。
其ノ當時ニモ皇軍相撃ト云フ事ガ問題トナリマシタ。
ソシテ、吾々幕僚ガ兩軍ノ間ニ入ツテ其ノ様ナ事ノナイ様ニ奔走スルト謂フ事ヲ盛ニ言フテ居リマシタ。

血盟團事件
昭和六年ノ十月事件ガ不發ニ終リマシタ爲、海軍側ノ者ヤ井上日召一派ハ大變焦ツテ來タ様デアリマス。
ソシテ、其ノ立場ニ困ツタ様ニ見受ケラレマシタ。
私ガ度々注意ヲ致シタノヲ惡意ニ解釋シ、私達トハ別ニ計畫ヲ始メマシタ。
ソシテ、年末カラ昭和七年ノ初メニカケ、陸軍側ノ靑年將校ヲ引入レ様ト努力致シマシタ。
昭和七年ノ一月中旬頃カラ、彼等ト私等トノ聯絡ハ全ク絶タレタノデアリマス。
同年二月、井上蔵相ノ暗殺カラ、
其ノ拳銃ノ出所ニ就テ、捜査ノ手ガ、海軍側ニモ伸ビル様ナ狀態ニアリマシタガ、
三月五日ニ三井ノ團男爵ガ
暗殺サレマシタノデ、
私ハ三月六日警視廳ニ留置セラレ、約三時間留メ置カレマシタガ、
其ノ間ニ井上日召ヲ中心トスル所謂血盟團ノ大部分ガ檢擧サレ、
三月下旬日召以下檢事局ニ送致サレマスト共ニ釋放サレタノデアリマス。

五 ・一五事件 
私ガ血盟團事件ニ依ツテ警視廳ニ留置中、海軍側ノ靑年將校ト陸軍側ノ士官候補生トガ結合サレマシタガ、
陸軍側ノ靑年將校ハ動カナカツタノデアリマス。
私ハ三月下旬警視廳カラ釋放後、海軍側ノモノハ私ニ對シ誤解ヲ懐イテ居タ様デアリマシタノデ、
古賀中尉ニ私宅迄來テ貰ツテ色々説得シマシタガ、之ニ應ジマセンデシタ。
ソシテ、陸軍側ト聯絡ヲ採ルトカ採ラヌトカ言ツテイル内ニ、トウトウ五 ・一五事件ガ勃發シタノデアリマス。
五月十五日、川崎長光ガ私ヲ射ツト同時ニ、彼等ハ實行ニ着手シタノデアリマス。
北一輝ト私トガ親子ノ様ナ關係ニ至リマシタノハ、
コノ事件ニ依ツテ私ガ病院ニ入院中カラ親身モ及バヌ介抱ヲ受ケタカラデアリマス。
私ハ同年六月三十日退院シ、七月中ハ轉地療養ヲシテ、漸ク恢復致シマシタ。
其後大シタ運動ハ致シマセンデシタ。

十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 ) 
昭和九年十一月、片倉少佐、辻大尉ナドノ報告ニヨリ、
十一月二十日靑年將校ニ對シ取調ベガ開始セラレマシタガ、内容ハ何等具體的ノモノデハアリマセンデシタ。
コノ事件ニ關係アリトシテ退校ヲ命ゼラレタ武藤候補生ハ、其ノ以前カラ私ノ家ニ出入リシテ居リマシタガ、
佐藤候補生ハ其ノ四、五日前カラ私宅ニ來ル様ニナツテ、一回丈來タノデアリマス。
私ハ二十一日頃、赤坂憲兵分隊ニ召喚サレ、取調ヲ受ケマシタ。
此ノ事件ニ關シ、村中、磯部等ハ軍法會議ニ拘禁サレ、
昭和十年三月保釋サレ、四月ノ初メニ停職ヲ
命ゼラレマシタ。
ソシテ、同年七月
肅軍ニ關スル意見書ヲ印刷頒布シタ廉ニヨリ、免官トナツタノデアリマス。

眞崎敎育總監更迭問題 
昭和十年七月、眞崎敎育總監ガ更迭さレマシタノデ、
私共夫々更迭事情ニ就イテ知リ得タル情報ヲ持チ寄リ、
色々研究致シマシタガ、其ノ更迭事情ガ三長官會議デ反對シタト言ハレテ居ル、

其ノ反對ガ秦中將ノ罷免反對ニアツタノカ、
又、大將自信ノ總監罷免ニアツタノカ、判リシタ原因ハ不明デアリマシタ。

相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )
相澤中佐ノ永田軍務局長刺殺事件後、色々ノ怪文書ガ出マシタガ、
其ノ現場ノ模様ニ就テ、私ハ凡ソ三様ノ話ヲ聞カサレテ居リマス。

然シ、其ノ何レガ眞デアツタカハ、公判ニナツテ初メテ判ツタノデアリマス。
敎育總監更迭問題竝ニ相澤事件ヲ中心トシテ色々ノ怪文フミガ出マシタガ、
私ハ其ノ筆者ガ誰デアルカ判リマセン。

相澤公判
相澤公判ニ於ケル私ノ立場ヤ辯護人ノ選定其他ニ就テハ前回申上ゲタ通リデアリマス。
只、豫審調書ハ、満井中佐カラ村中ガ借リテ、五、六部複冩シマシタノデ、
龜川哲也ヤ山口大尉ニヤツタノデアリマス。

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二 ・二六事件


今回ノ事件ニ就イテ
事件前後ノ狀況ニ就イテ前回述ベマシタ點、稍々申落シタ點を申上ゲマス。
・・・以降・・・次頁  西田税 (七) 道程 2  に 続く

二・二六事件秘録(一)より