先日、とてもショックな本を読んでしまひました。
数ヶ月前から、大量に地獄図関連の本を読んでゐて、まづ奪衣婆(だつえば)といふ、三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた 亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の姿を追ひ求めてゐる脱衣婆フェチの方の本を読んで、夫婦でありながら影の薄くなった懸衣翁の存在を尻目に、完全に閻魔大王の愛人!!となった(あるひは、閻魔大王のを操ってゐるともいはれるー)その存在に深く興味を抱き、むか~し、長野か甲府の善光寺へいったとき、堂内の地下に地獄めぐりのやうな暗い場所があって(あれは、一種の胎内めぐりだったのでせうかー)、その暗闇の中で、卒塔婆小町の像に出会った。
ひどく驚いて、能の”卒塔婆小町”も見たりしましたが、あの像は、まさしく美しく才女だった小野小町が、その慣れの果てに、脱衣婆となって亡者の地獄ワールドへの案内をするといふ、すさまじい変転の姿を見せてくれたものでした。
山寺の中腹にも有名な脱衣婆の像があって、あらためて近々見に行かうかと思ってゐます。
そして、その地獄から逃げる手段として、補陀落渡海といふ行為が延々と続けられてゐて、その詳細な事例を解説した今回の本にショックを受けたのです。
『観音浄土に船出した人びと』(根井 浄/吉川弘文館)
残された文献をもとに、詳細な事例を載せてゐますが、それらがすべて事実である保障もないのですが、
ある僧は長い信仰の果てに、あるものは殺人の罪の苦しみから逃れるために、異様な姿の渡海船を仕立て(こちら)、あるものは1週間の食料と油を積み、あるものは1ケ月分の食料と油を積み、乗り込むと外部はすべて外側から封印され脱出不可能の作りとし、光の当たらない狭い空間を友として熊野の岸から放たれる。
ただ唯一、南の方角にあるといふ、補陀落山をめざしてー。
しかし、あるものは四国の浜辺にたどり着き、あるものは九州に、あるものは沖縄にたどり着いてしまひ、そこで第二の修行をはじめるものや、海原で彷徨し、もはやこれまでと悟ったものは”南無三!”と仕掛けられてゐる船底の栓を抜き、海中にもあるといふ補陀落山へと死地の旅へでる。
日本に宣教できてゐた外国人たちは、そろって”悪魔にとり付かれた狂気のさた!”と本国へ報告してゐますが、
”人は生れ落ちたときから、死ぬ為にひたすら行き続ける、
ならば、生き続けるために、死ぬこともまた真理”
といふ、とてつもないパラドックスにとり付かれた僧やそれに随行する人びと。
退路を断った信仰であるかもしれません。
狂気にとりつかれた集団自殺なのかもしれません。
凡庸な小生などには、その深いところはわかりませんが、きはめて日本独自だったといふこの宗教行為は、しばらく小生の興味から離れず、そして、同じ熊野の地を、陸路で勧進にでかけ、日本全国へ散っていき、やがて歴史から抹殺された熊野比丘尼の姿も、今、追ってゐるところです。
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