自転車のサドルの上で・・・

サドルの上での気ままなひとりごと

北山一揆

2020-10-19 | Weblog

 今回の熊野行は「北山一揆」の跡に触れる目的があった。北山一揆は秀吉の時代の天正一揆(1586~89)と大阪城冬の陣の時の慶長一揆(1614~15)の2回あった。北山は現在の奈良県(上・下)北山村、紀和町(熊野市)御浜町の一部、和歌山県の一部を中心として発生。
 天正北山一揆は、秀長と山(山林)奉行の藤堂高虎、慶長北山一揆は関ヶ原で徳川方についた紀州の領主であった浅野長晟が相手方である。
 一揆の理由は諸説あるが、この地域は守護大名の支配が弱く、士豪、地侍が地域をまとめていた。そこへ太閤検地など中央支配の仕組みが強行される。士豪等は武士から年貢を納める身分になるわけで、不満がでる、そこへ豊臣に敗れた雑賀や山伏等の牢人残党が組して勃発、というのが定説?伊賀の乱も同様の構造かと思う。地域の既得権益が中央に侵されるという構図。 
 赤木城の建設も一揆が元であり1589に完成したらしい。今回訪れた田平子峠刑場跡地は一揆に加わった男のみならず、その妻子まで処刑された地である。天正一揆の際の数は分からないが、慶長一揆の際は冬の陣出陣で手薄な新宮城を攻めようと3000人が加わったものの、熊野川を渡れず、敗退し、ここで363人が処刑されている。また、慶長20年赤木城の落成祝いとして付近の有力者を呼びよせ、次々に捕縛し、160人がここで処刑されている。一揆の身内は徹底的に征伐された。
 今はこの地に昭和43年に設立された殉難者供養の塔が立っている。(写真)
 道路沿いには一本の表示があるのみだけで、そこから少し登る必要があり、分かりにくい。赤木城址とともにここも国史跡なのでもう少し説明板など整備が必要だ。また、現状の道路は開削されて作られたもので当時はもう少し広がりがあったのではと想像した。当時を思い、南無阿弥陀仏。

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