アコースティックならフォークでエレキならロック、なんて阿呆なことを
言うつもりは毛頭無い。ロック者なら当然の解釈だ。しかしながら旧態依然の
フォーク好きの人にとって、先のような解釈はなかなか難しいだろう。
アコースティック・ギターの音色が好きなのは人の好みであろうが、
エレキ・ギターに拒絶反応を起こす人種が今もいるのは事実である。
そして、そんな人たちは「フォーク」という言葉に安住してしまう。
意地悪く言えば、日本のフォークはニューミュージック(死語)や演歌に
シフトダウンして、演奏する側も聞く側も都合よく歳をとってしまった。
そもそもフォークとは民謡とか古来の伝承歌を基盤にしたプロテスト・ソング
だったはずなのに、いつのまにか日本ではしみったれた身の回りの
取るに足らない事象を歌うようになっていったのではないか。
たまたま使った楽器がアコースティック・ギターであったということである。
それでも優れた演奏者は、自分なりのリズムを模索したり、フォークという
ジャンルを超越して自分自身をジャンル化したりしたのだけど、
聴き手の多くはノスタルジーに浸っている。
それではエレキを持てばロックかと言えばそういう訳でもない。
わが国で最大の売り上げをあげるユニットはエレキギターでどちらかと
いうと、ハードな音を売りにしているが歌詞は悲しくなるほど
小さな世界に収束している。こんなものはロックの末席にも置くべきでは無い。
掲載写真はグルーヴァーズの藤井一彦の初ソロ・アルバムで、
全編アコースティック・ギターでの録音である。非常にシンプルなアレンジで
あるが、見事にロックである。言葉は有機的にギターの音に絡み、
視点は限りなく広い。私がグルーヴァーズのファンになるきっかけとなった
「ウェイティング・マン」の再録が個人的に嬉しかったのはさておき、
ヘンリー・マンシーニの「MOON RIVER」というおよそ単純なロック好きの
発想からはほど遠い曲をここまで郷愁とリアルさを込めて2008年に
再現できたことは奇跡ですらある。今のわが国の閉塞を憂うかのような
「憂国の口笛」は傑作だ。アシッド・フォークなんて言葉は嫌いなのだが
そんな言葉をを軽く吹き飛ばす言葉と音がある。先の言葉から想像される
音と違うのは、これは現実逃避ではないということだ。
「確信犯的ストレイシープ」のスリルと「clover」の美しさと醒めた
問いかけに背筋が伸びる。最終曲はあまりにファンに対して優しい曲で
これだけちょっと私の趣味で無いのだけど、こういう解りやすい曲も
必要ということなのだろう。
巷に溢れる、誰かと解り合いたいとか解って欲しいとかいう甘えたような
歌にはもう、うんざりだ。死ぬまで「自分探し」やってろよ。
このアルバムで聞ける言葉はそんなものとは違うと思いたい。
「昔は友部正人とか聴いていたけど、最近は忙しくて音楽を聴いてないな。」
そんな人に是非とも聴いて欲しい1枚。
「例のディランのブートレグ・シリーズ第八弾、高かったけど3枚組
買っちまったよ。まだ封をきってないけど。」
そんな人の棚には収まって欲しくない1枚。
もう今年もあと2ヶ月。
「年末恒例のロック大賞はポール・ウェラーとスティーヴ・ウインウッドの
1-2フィニッシュか」と思っていた半年前。事態は大きく変わった。
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