山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

18 ダメな男に従属する女はダメ

2007-07-19 14:39:50 | 読書
村上龍 「ダメな女」

“今、決断を迫られる機会が多いのは女のほうだと思う。
女のほうがより普遍的な悩みを抱えている”

概要
村上氏は宮崎駿さんと対談をしたことがある。そのとき、男を主人公にすることができないという話が興味深かったそうだ。
「今、決断する機会が多いのは女だ。だから男を主人公にすることはできない」のだそうだ。もののけ姫でも男はろくな人間が登場せず、アシタカは男でも子どもである。
日本社会の男たちは「決断」と無縁で生きている。だから、男の主人公ではリアリティがない。男がリスクを負って何事かを成し遂げる、という設定が無理な状況になってしまっている。
日本の男はこの近現代、戦争もし、必死に働き、努力の末に日本を先進国とし、世界でも恥じない社会を作ってきた。さまざまな問題はあるにしても、そのことは評価できることだ。しかし今、中高年の男たちが自分たちに自信をもつこともできず、うつ病になったり自殺をしたりする人も増えている。自分たちがしてきたことで、誇るべきものは誇ってもいいのに、それができない。
というのは、1990年代に起こった不良債権問題などでもいえるが、一方に失敗を隠そうとする日本の男の体質がある。失敗を正直に認めて早く対処するという潔さがない。
誇れるべきところも誇らず、失敗を失敗と認めるべきこともできないのが日本の男のダメな部分だ。ダメな男は、「自らリスクを負いコストを払って何かを成し遂げよう」とはしない。
そんな中で、決断を迫られるのが女だということだ。
日本は昔から「従属」の社会だった。だから、女は男に従属していた。
しかし、今やダメな男に従属しているような女には、当然明るい道は開けないだろう。

男にもいろんな男がいるとは思いますが、そういう個々のことではなく、日本全般の男という捕らえ方で見た場合、こういうことがいえるでしょう。
たとえば、最近の日本の政治家などを見ても、男には碌なものがいません。特に大臣になるような人間にお粗末なのが多すぎます。自分の失敗を失敗として認めない、ごまかす、いいのがれる、それを総理が保護する。政治家と言うのは特に日本の古い体質を残しているのではないでしょうか。保身と出世と金儲けしか考えていない器の小さな人間です。そして、それがうまくいかなくなるともう道がない。そういえば、自殺をしてしまった人もいました。

やっぱり、29日の選挙は女に入れようかな。 
 




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17 ワインに対し謙虚であろう

2007-07-19 00:28:00 | 未分類過去
村上龍 「ダメな女」

“日本はワインの本場ではない。
わたしたちはそのことに対し
謙虚でなければいけないと思う”

概要
村上氏はイタリアのベルージャというところに滞在している。ベルージャは中田選手が移籍したチームの街で日本人にも馴染みのあるものになったが、そこでは、住人向けのレストランがあり、食べ物もワインも非常においしい。その土地で育った葡萄で作られ、大切に造られたワインであることを感じさせられるという。それは、日本ではなかなか味わえるものではなかった。
「日本でワインを飲んではいけないと言っているのではない。日本はワインの本場ではないということだ。その土地でしか味わえないワインが星の数ほどあって、わたしたちはそのことに対し謙虚でなければいけないと思う。わたしたちが知っていることは限りがある。日本で手に入る情報だけで世界を知った気になってはいけない。日本でワインについてあたかも自分のもののように語るのは非常に愚かなことだと思う。」のだそうだ。

日本でいろんな高級レストランなどに行き、様々なワインを飲んで「通」になっていても、それで知ったような気になってはいけない。確かにそうだろうと思う。
まあ、私などはレストランでワインを選ぶようなことは滅多になく、そういうときもお店の人にお勧め品とか軽いか重いか甘いか辛いかを聞いて、後は適度な値段(最高3000円くらい)のうちから選ぶ程度である。そんなことをたまにしたからと言って、舌が肥えるわけでもなく、まるでワインの知識などつくはずもない。
酒屋で安いワインを買ってくることもあるが、フランスよりドイツやイタリア産のほうが安くておいしい感じがする程度だ。普段はもう日本の「彩食健美」で充分だ。
しかし、先日夫が外国人の知人からワインをもらってきて飲んだらすごくおいしかった。それもすごい高級品と言うわけでもないのだろうが、どういうのを選ぶとこういうおいしいものに出会えるのかも判らずじまいである。その辺の店で同じものを探してもなかなかない。という具合で、まるで「ワインおんち」である。だから充分謙虚だ。
だが、日本人でありながら日本酒はもっとわからないくらいだ。日本酒はワインより飲んだことがないから、日本酒についても十分謙虚だ。ビールはどうかな?発泡酒とビールの違いもわからないくらいだから充分謙虚だけど、本場ドイツ(?)のビールはおいしいかな?

この前、欧風居酒屋で飲み会をした5人グループの中に「ワイン通」がたまたま2人いたのだ。そりゃあ、もう何を頼むかで火花が散るようだった。
1人はフランスに何年も暮らしていた人だったし、もう1人も外国によく行く人で日本でワインの飲み方なんかを勉強した人だった。
2人の好みはちょっと違っていて、意見がわかれたりする。それで自分はこれを頼みたいんだけど皆さんどうですか?などと聞くわけだ。こっちはわけがわからないけど、「赤の辛口がいい」だとか、「さっきのはとてもおいしかったけど今度は別のも飲んでみたい」だとか適当な意見を言って、それでちょっと注文が変わったりするわけだが、それで出てきたワインを飲んで、「ああやっぱり最初に頼んだのがよかったわ、これはぜんぜんよくないわ」などと駄目だしがでたり、私がよく知ってるんだからやはり私に従ったほうがよかったのよと言わんばかり。1人だけ通がいるならまだいいけど、2人いるとやっかいだ。
それなら、ワインのわからない人ばかりで適当に頼んだほうが、どうでもよくてあとくされがない。ワインなんかこんな味かいなと思う程度で、あまりおいしく感じなくても自分の舌が無知なんだと思うばかりである。だから注文の選択が間違っていたとは思わずにすむ。
この間、芸能人が高級ワインのあてっこをしていたが、おいしく感じるものが高級というわけでもなく、全然違っている人もいた。

やはり、ワインがわかるようになるのは相当の者だろう。
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16 信頼できなくなった共同体

2007-07-18 02:00:22 | 読書
村上龍 「ダメな女」

“今世の中でいつも明るく笑っていられるのは
ひょっとしたらバカだけかもしれない。”

この記事は1998年の夏に起きた「和歌山カレー事件」の後に書かれたもののようだ。
「この記事が活字になる頃には、和歌山や新潟の毒物混入事件の犯人は逮捕されているだろうか?」という言葉から始まっている。
文庫本の巻末を見ると、初出は「CLASSY](光文社)1998年7月号~2001年6月号とある。CLASSYって何かと思ったら、20代女性向けファッション雑誌らしい。こんな若い女性向けに書いた記事だったんだなと再認識。
それからもう9年もたって40代のおばさんが読んでるっていうのも変な話だが、年月を経て改めて考えることもいいことかもしれない。

「和歌山カレー事件」、そういえば、そんな恐ろしい事件があったなと思いだした。最近なんかテレビでも裁判のことかなんかで放送されていたような気がしたが、特に気にも留めなかった。そのときは、そんな事件が過去にあったなあと記憶が一瞬呼びもどされた程度で、すぐ忘れてしまった。

改めて、この事件を振り返ってみる。今から9年前の7月25日、夏まつりでカレーを食べた67人が腹痛や嘔吐になり、初めは食中毒かと思われたが、カレーの中から亜ヒ酸が検出された。結局、たまたまカレーを食べた人の中の4名が砒素中毒で亡くなってしまったという悲惨な事件だ。
後に容疑者として、その日その地域で一緒にカレーを作った主婦たちの中の一人、林眞須美が逮捕された。林は他にも知人を保険に加入させてから殺そうとしていた別件があり、逮捕に至った。確か、夫までもが砒素中毒にされて具合を悪くしていたのではなかったか。
この林眞須美容疑者は私より1歳年下であり、年齢が近いこともあってよく覚えている。
その後、裁判で林容疑者は黙秘を続けているので、動機などははっきりしていない。 

それから、「新潟の毒物混入事件」とは何か?こっちは、それに比べると小さな事件で記憶にも残っていないくらいだったが、そういえばこんなのもあった。
同年8月10日、新潟の木材防腐処理会社で、電気ポットの中にアジ化ナトリウムという毒物が入っていて、ポットのお湯を飲んだ社員9人が中毒になり数日入院したと言う事件だ。犯人は同じ会社の44歳の男で、パチンコやギャンブルで借金を作り会社から400万円を横領していた。その日は本社から監査が入ることになっていたため、事件を起こせば混乱で騒ぎになり、監査が中止になると思って犯行を思いついたとのことだ。

どっちの事件も内部の“仲間”と言える者の犯行だったのはショックである。

村上氏の記事の概要
日本の郊外の風景は寂しい。空地があり、水田のまわりに新しい建売住宅が建てられ、店と言えば、中古車センターやパチンコ屋やファミレス、アウトドアショップ、スーパー等が味も素っ気も無く建っている。
そんな中で、人々がふれあいの場を持つべく、カレーやおでんを作って食べ、カラオケ大会をするのが典型である。
しかし、そんなことで本当に心をふれあい、理解し合えるのだろうか、と著者は感じる。
心のふれあいのために企画した催しでこんな事件がおきると、「どこかが狂っている」と表現されることが多い。だが、狂っていない正常なこと、いつも元気で楽しく、他人に優しく・・などという状態がいつもいつもあり続けることのほうがありえないのかもしれない。こんな社会状況の中では、誰だって気分が沈んだり人と接したくないときもあるのが普通ではないだろうか。それを、カレーを一緒に食べてカラオケすればみんな心が触れ合って幸せだなどと短絡的に考え信じている人がいたら、それはめでたすぎる人=バカだろう。
 日本には昔から、おすそ分けという文化があって、心あたたまる習慣だったが、毒物事件以来そういうものを信用して食べられない状況になってしまった。
今や同じ共同体の人間だからと言って信用できない。今後信用できるのは個人しかなくなってしまった。とのこと。

確かに、カレー事件と言うのは衝撃的だった。
同じ仲間による殺人というのを思い出すと、その後の事件では、自家用車で交替制で幼稚園の送り迎えをしていた母親が、自分の子でない園児2人を殺害してしまったという事件もあった。(2006年2月17日、滋賀県長浜市園児殺害事件)。中国人の母親が、交替で複数の子供を車で送っていくというシステムに耐えられなくなったようだった。これも、みんなで助け合って仲良く登園すればふれあいもあり楽しく安全で負担も軽くなる、などという本質を考えないで表向きの長所だけを見たやり方だろう。こういうことをするのも地方の郊外だ。人通りのない道路などが田や畑の中に通っていて、そこにまばらに家が建っているいるような、閑散とした地域だったと思う。
そういうところで、無理やりに人と人とのふれあいを作るような状況に無理があるのかもしれない。だからと言って、やはりやらなきゃますます人とのつながりがないだろうし、困ったことだ。

あのカレー事件以来、世の中はどうなったかって、・・・幸いにも祭りや地域のレクリエーションがなくなったわけではなく、毒物が入っているのではなどと不安に思うこともなく食べているように思う。あれは特殊な事件だったんだと思って、記憶から消えつつある。

最近の日本では、むしろ業者の売っているものが信じられない。ミートホープなど食肉産業の不正事件があったからだ。原材料を信じられない世の中だ。
また、特に中国産の物は信用できない。肉まんを見ると、日本の街頭で売られている手作り肉まんにもダンボールが入っているんじゃないかという気がして食欲がなくなってしまう。

今の世の中、明るく笑っている人は一人もいないんじゃないでしょうか。
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15 エルメスの似合わない日本

2007-07-17 01:48:38 | 読書
村上龍 ダメな女

“ わたしたちはエルメスが似合わない風景の中で
似合わない人と一緒に生きているのだ。 ”

概要
著者はワールドカップの取材で3週間フランスの各地に滞在した後、日本に戻ってきた。帰りのJALの機内で女性誌を広げたところ、そこにエルメスのシャツを着、エルメスのバッグを持った女のグラビアを見て違和感を持ったという。その写真は、なるべく日本を感じさせないおしゃれな雰囲気の場所でとられているものだったが、やはり本国のフランスとは違っていた。そして、日本の一般的な風景(パチンコ屋だの牛丼屋だのコンビニだの、渋滞している環状七号線だの、汗をかいているサラリーマンなどの現実風景)がエルメスには全く合わないことが歴然と感じられた。しかし、フランスではどこに行っても(庶民的なレストランでもアイスクリーム屋の屋台でも列車の駅でも・・等々・・)違和感なく似合うものだった。とのことだ。
以下引用。
「わたしたちはエルメスのバッグやシャツが似合わない町並みに囲まれ、似合わない風景の中で、似合わない人々と生きているのだ。そういうことを忘れようとするのは無理だ。
そんなことを言ったら夢がないじゃないの、という反論があるかもしれない。ブランド品を持つと一瞬でも現実を忘れることができるし、ちょっとした贅沢で夢を見たいのだ、と。そういうことは理解できるような気がする。日本の景色には私たちの現実だけがあって、美しいものが少ないからだ。」
フランスは本当にきれいで、フランス人の知人にどうしてきれいなのか聞くと、「私たちはきれいなものが好きなのだ」と答えた。そうだ。

ふ~む、確かにそうだ。やはりどうしたって欧州はきれいだと思う。街の中も家の中もきれいである。とにかくセンスが違う。日本はどんなに頑張ったってやはり東洋だなと思う。
日本より発展が遅れているアジア諸国の雑然とした町の様子や家の中などを見ると、日本もやっぱりこっちの部類だなと思うことが多々ある。整理整頓の仕方や美的感覚が元々違うからどうにもならない。
エルメスを身に付けたすごくきれいな人がいたとしても、そのひとはなんだか浮き上がってしまうだろう。それはどうにもしょうがないことだな。

ま、これが事実だということで、まったくその通りです。
日本の女はそれを自覚していないより、自覚していたほうがいいでしょう。
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安全

2007-07-16 23:55:16 | 未分類過去
新潟のほうで大きな地震が起こり、柏崎原発では変圧器で火災が起きたり、放射能を含んだ水が海に流れたりと、不安なことが続いて起こっています。
地震の多い日本での原子力発電って本当に大丈夫なのでしょうか?
ニュースで見たところ、火災が起きている民家や工場など特に無いようですが、原子力発電所のような一番高度に安全対策がなされているであろうはずのところで、こんなにいろいろなことが起こっていいものかなと疑問がおきます。
原子力発電は一番地球環境に良いとか、石油に限界がある以上今後のエネルギー対策には欠かせないものだとされていますが、放射性廃棄物を安定した地中に密封して埋めるなどということも、この地震の多い日本で、そんな場所があるのだろうかと不安になります。テレビでは埋める場所を見つけることがみんなの宿題だというようなことが言われているところを見ると、その宿題は出されたまま誰も解いていないのではないかと思えます。放射性廃棄物はどんどん増えていくのだろうし、それらはいったいどうなるのでしょうか。何代も後の子孫にとって恐ろしく危険で有害なものとならないだろうかと思います。

地震は近年、あちこちで起きているので怖いです。東京はかなり長い間来ていないということもあり、いつ来ても不思議ではありません。倒壊した家や非難した人の様子を見ると、やはり常日頃から地震対策に心がけ、せめて家具が倒れたり物が落ちたりしないようにしておくべきだし、非常持ち出し袋などに飲料水などを準備しておいたほうがいいようです。

毎日の安全を考え、そして未来の安全も考えて生きていかなくちゃいけないなと思いました。
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14 ダメになっていく男たちへの対処

2007-07-15 14:12:55 | 読書
村上龍 ダメな女

“女たちは
ダメになっていく男たちに対して
どういうスタンスで
向かい合えばいいのだろうか。”

概要
日本には「よろしくお願いします」という言葉が日常多く使われているが、他の国にはそれに相当する言葉がないことも多い。その言葉が翻訳できないということは、そういう概念も使う場面もないということだ。
日本では、仕事上でも「よろしくおねがいします」と言えば、「私自身に対し、あるいは自分に関わる仕事や作品に対し、どうかあなたのほうで好意と誠意をもって対応してください」という意味になる。しかし、外国人はそのようなことが理解できず、仕事や作品の良し悪しのみで判断する。ダメなものを多めにみるというようなことはない。
 日本の中高年の男の中に、うつ病や自殺が増えている。なぜそのようなことになるかというと、未来に希望が持てなくなるからだ。モチベーションもなくなる。
日本社会が変化して、日本だけで通用していた価値観が変わっていくのについていけない中高年の男たちはうつ病になったり自殺を考えたりするようだ。
そういう男たちに女性はどういうスタンスで向かい合えばよいかということだが、身内でないかぎり放っておきましょう。とのこと。

日本の昔ながらの社会で生きてきた中高年の男性というのは、年功序列・終身雇用のような社会のなかで、いわば集団に所属することで守られてきたのかもしれない。
「よろしくお願いします」で何でも通ってきた。
そういう人が、それでは通用しないような社会に変化したとき、それに適応していけず、自信を失い、モチベーションもなくなり、しぼんでいくことがある。
そんな男はしょうがない。そんなおとこにしがみついて頼っている女はもっとしょうがいないだろう。男も女も他人を頼らず自立して、生きる力を習得するべきだということだろう。

シビアな世の中になってきました。


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ハムスター的脳ミソ

2007-07-15 11:18:10 | 未分類過去
ハムスターっていうのは、長期の記憶がないらしい。それで、ひどいケースでは頬袋に入れた食べ物のことを忘れたままにしていて、中で食べ物が腐り頬袋の病気になる場合もあるのだそうだ。
長期どころか直前の記憶もないのだそうで、今何をしていたかも忘れるのだという。
まあ、ハムスターの日常生活の場合、それで支障はないのだろう。

私も似たようなもので、興味の対象が次々にずれていく。
ご飯をたべようと思ってご飯をよそってテーブルに持って行ったときに、隣の部屋にウサギが見えるとウサギをさわりに行き、そこで干草がなくなっているのを見ると干草を補充し、そのついでに水を取り替えてやろうと洗面所に水を入れに行くと、そこに洗濯物が見えるので、あっ洗濯をしなくちゃと思い、洗濯物を洗濯機に入れにベランダに行くと古い花びらが下に落ちているからベランダの掃除をする・・・ベランダから戻ってきてテーブルの上のご飯を見ると、ああそういえばご飯を食べようとしていたんだったと後になって思いだすような始末である。

これは勉強や読書をしていても同じで、放送大学の試験勉強を仕掛けたと思うと小説を読み、それを中断してエッセイを読み、それを中断してブログを書き、人のブログを読みあさり、そこに放送大学のことを書いてあるのを見ると、今度は放送大学の後期の受講科目を考え、考えている途中で郵便屋さんが来て玄関に出ると、郵便物を受取って居間に行き、居間で新聞広告を見かけると日曜の求人広告広げ、・・・・などというふうで、これも何一つちゃんと終えるものがない。
こんな感じなので、結局は単位をとれないで終わる科目があり、小説は全部途中までしか読まないで図書館に返却し、ブログにくだらないことを書き込み、時間を浪費し、面接授業は登録を後延ばしにしたまま申し込みそこなう・・・などと言うふうな状況になっている。

目の前に新しく見えたものに気を奪われる性質、というか一種の病気だ。
人間の場合、これでは困る。
なんとかしなくてはいけないが、年をとるごとにひどくなっていくようだ。
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13 モデルがみつからない不安

2007-07-15 02:49:16 | 読書
村上龍 ダメな女

“今の若い人は生きていく上での
モデルがみつからないという不安に
耐えなくてはならない”

ここでは、何がダメな女というふうには書いてない。
もともと、このエッセイ集は何かの雑誌に連載されたものなのだろう。
だから一貫して「ダメな女」を書き連ねているわけではない。
ただ、モデルがみつけられない女より見つけられている女のほうが目標があって、前進できるから、いい女になれるだろう。

概要
人は様々であるから一概には言えないが、今の若い女の子は自分がどんな女性になりたいかを考えたときに漠然としたイメージしか持っていないように思える。たとえば、ある女子高生にどんな人になりたいか聞いたところ、「村上里佳子みたいな感じ」になりたいという答えがあったそうだ。それはどういう意味なのか?、女優やタレントになりたいのか、主婦になりたいのか、結婚しても自由な感じになりたいのか、問い直してもよくわからない。単に楽しい感じが好きだと言っても、どういうことが楽しいのかも漠然としている。
そのようなことから、村上氏は
「今の子どもや若い人はモデルを持つのが不可能なのだなと思った。生きていく上でのモデルが未だみつからないという不安に耐えなくてはいけないということだ。
さらに言うと、その不安こそが自分が生きていることの証なのかも知れない。・・・略・・」と述べている。

私はもはや若い女ではないが、こんな年になってもまだ生きていく上でのモデルがみつけられないでいる。現実に存在する人間にはなかなか自分にぴったりとくる人はいない。

自分で目指す人をみつけられないのなら、この人をモデルにしなさいとか、これが女の理想像ですなどと言ってあてがわれ、それに従えば楽である。
誰が目指しても悪くはないモデルというのも確かにあるだろう。
しかし、やはり人それぞれ好ましいと思うものや好きなものは違うのだから、人から決められるのはいやだ。
多くの人からみて理想的な女性像ではあっても、ある人にとってはあまり魅力を感じることのできない理想像もある。自分にはほど遠く非現実的なものも目指すことはできない。

理想像がみつけられないこういう世の中にあって、「女性の品格」「男の品格」などという目指すべき人間像を示す教科書的な書物も出版されている。
そして、それに飛びつく人もいる。飛びついてみたけれどやはりどこか違うんじゃないかと思う人もいるだろう。
それならまだ漠然と雰囲気の好きな女優でも思い浮かべていたほうが自分らしいと感じるかもしれない。
そういうのはどうも心もとなくおぼつかないものだが、しかたがないということだ。

私は自分にとって目指す人、モデルがないことは、やはり物足りないと思っていた。
そして、自分に合う作家探しをしていた。
村上春樹も江國香織もぴんと来なかった。
今現在、村上龍氏がいちばん魅力的で、手ごたえのある人だと思っている。
同じ社会の中に生きていて、映像で生の姿を見ることもでき、作品のみならず意見などを聞くこともできるからだ。
自分の意見のみならず、対談などで人から情報や魅力を引き出すことも面白い。
そういう活動を積極的にしている作家と言うのは非常に興味深い。
私にとってひとつのモデルが見つかったということだろう。




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12 自分は「ダメな女」ではないと思っている女

2007-07-14 17:48:19 | 読書
村上龍 「ダメな女」

“タイトルを見てどきっとしてしまったあなた。
あなたはたぶんダメな女ではないでしょう”

ここでの内容はいちいち引用しないことにするが、実際この本を買うに至ったのは、ドキッとしたからだろうと思う。

「ダメな女」ということで連想するもの。
優柔不断な女、依頼心の強い女、依存する女、悲観的な女、自己中心的な女、気位の高い女、虚栄心の高い女、卑下する女、相手を見て態度を変える女、自分が一番正しいと思っている女、等々・・・
表面的にみると、だらしない女、身だしなみを整えない女、不潔な女、ルーズな女、大騒ぎする女、慌てふためく女、物事を極端に捉える女、自分の意見を言わない女、物事に対して何も判断しない、等々・・・

私の場合、
片付けのできない女 自己主張の強い女 ってところかな。

この本を買ったきっかけは、「女性の品格」を買いたくなかったからだ。
もっとストレスのたまらないマシな本はないかいなと思って探したからだ。
私は、駅前で配られるポケットティッシュを有効利用したい人間だし、安物の服しか買えない人間だから、「品格のある女性」になんかなろうとは思わないが、すくなくとも「ダメな女」にはなりたくないのだ。
この本が、「整理整頓ができない女」「ただの物をもらう女」がダメな女である、などということが書いてないことは初めからわかっていたし、そういう切り口でないところがすきなのだ。
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11 構造のくだらなさに気付かない女

2007-07-14 17:12:04 | 読書
村上龍 「ダメな女」

“世界を相手に国際的競争をするのに、
日本のくだらない「構造」は必要ない。
そこから脱出する方法を探るべきだ。”

村上氏が嫌う日本の構造とは、様々な職業や年代の人々がそれぞれその属性にしたがってポジションを与えられ、そこにとどまって、そのポジションにふさわしい言動をとることを要求されること。
そして、苦労してはい上がった人間を「世間」が認め、ちやほやすること。

しかし、この文章が書かれてからすでに6年の年月がたち、そのような日本の古い構造もかなり壊れてきていると言えるだろう。
いまや、苦労をした人間が報われるなどという考えをする人は少なくなっているし、むしろ苦労が報われなのは、その活動の仕方がおかしいか、よほど要領の悪い人間だということだ。今は、頭をかしこく働かせ効果のある活動をすることのできる人が、社会的地位も財力も得ることができるのだ。

海外で暮らしたことのない私は、日本社会を外から眺めたことがないから、日本のくだらなさはよくわからない。確かに外国に出てみることは大切なことかもしれない。
ひとかどの人は皆、日本を出て見ることだろう。

数年前とはずいぶん変わってきたこのごろではあるが、逆にまた別の位置づけが固定されてきているような気がする。つまり成功者というものは、血のにじむような努力ではなく、頭を使って工夫をしながらポジティブな姿勢で生きた結果成功を勝ち取ったに違いないというような発想だ。また、老後に貯金しか残っていない人間は人生を失敗したようなものだなどという発想だ。
人間にはいろんな人生があり、いろんな成功の仕方がある。いろんな幸福の形がある。人間を勝ち組、負け組みなどとひとつのパターンにあてはめて決めてしまうこと自体、それも新たな構造に人間を閉じ込めているような気がする。

今、この日本の構造の中での「ダメな女」を考えてみると、「なんとかセレブになろうとしている女」、逆に「負け組みから抜け出せるわけがないとすねている女」(私?)。
年金問題に躍起になっている人。
いずれにしても、やはり日本社会の渦の中に入り乱れて、かき混ぜられている人かな。

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あるべき自分

2007-07-13 23:59:30 | 未分類過去
自分の信念がぐらつくことが一番の問題なんだろう。
他人がなんと言おうと、自分が良いと思ったことに迷わず突き進めるときは問題がない。しかし、自分までもが、自分の生き方や考え方に疑問を持ち始めたら、とたんに足場が崩れていってしまう。
変人と思われても、自分の信念を貫く強さが欲しいものだ。
他人の言動に惑わされるのはもうやめよう。
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今日は何をしていたかって?

2007-07-13 00:14:11 | 未分類過去
このごろ、放送大学に勉強に行くというのは、ことごとく中止にし、サボりまくっている。
理系の勉強をすることにあまり意欲がなくなってしまっているのだ。会社の仕事を一生懸命すること自体にあまり意欲がなくなっている。頑張る甲斐がない。そんな気がする。

勉強をするかしないかは自分の自由である。どうしても自分を縛ってしまう。
しかし、解放されていいんだと思う。勉強しなければならないという追い立てられるような気持ちがなくなったら、どんなにか気が楽だろう。
しかし、それは「逃避だ」という人もいるかもしれない。人間は死ぬまで走り続けなければいけないのだと。
逃避が許されないのであるなら、人間は苦しみ続けなくてはならないということだ。
逃避ではなく、それを前向きな生きがいにしろというのも酷な話だ。

仕事をするためにメガネを新調した。
今日それができたので、それをとりに歩いて行ってきた。このごろ運動不足だからできるだけ歩くようにしているのだ。途中で雨が降ってきたので、手持ちの傘をさす。片道30分、往復歩くのはなかなか大変。
食料も買うが少なめにする。暑くて歩いているうちに冷蔵品がダメになるから、氷をもらって入れてくる。
そうすると氷の分だけ重くなるから、それも少し大変だ。体の重さと荷物の重さが足の裏にかかる。今日もサンダルで行ってしまったがやはり足が痛くなる。やはりウォーキングシューズがいい。

メガネは4万5千円した。結局自分の貯金から出したので、本当にお金の余裕がなくなってきた。放送大学は後期は申し込まないで、今期のを半分後期に回せば、お金もかからないし、勉強も少なくて済むしちょうどいいやと思う。
金が無いといいながら、本屋に行って4冊3000円ほど衝動買いしてきた。こっちはクレジットカードで夫の口座から引き落とされる。2冊は村上龍の本だ。

家に戻ってお昼を食べて、それから夕方まで昼寝だ。
よく寝た。

明日はまた仕事だが、残業はしないでさっさと帰ろう。
自分の好きなことをして、気楽に生きたい気分だ。
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坂本龍一

2007-07-12 19:22:45 | 未分類過去
MSN村上龍ビデオレポートで、特別対談“坂本龍一×村上龍”を見た。
おもしろかった。今回の対談の内容は、地球の環境を守るためにどうするかという話だった。大部分、坂本が話し、村上が教えられているという形勢だった
坂本の話は非常にわかりやすく、興味深い。今まで、坂本龍一に関する音楽はいくらかは知っていたが、特別な関心をもったことはなく、この人が音楽以外のことにこんな関心を抱き啓蒙運動をしていることも知らなかった。
話の内容にはこんなのがあった。水を飲むのに、体に良い上質のペットボトルの水を買って飲むとする。しかし、その水ははるか遠いところから運んでくるものであったりする。すると、当然ながら運ぶための石油エネルギーが使われている。すなわち二酸化炭素が排気されている。だから、坂本自身はその場にある水道の水を飲むように心がけている。そのほうがそこに無駄なエネルギーが使われていないからだ。たとえば、鶏肉などもブラジル産の鶏肉が安いと言ってもそれも運んでくるのに余計なエネルギーを使っている。水と同様の理由で、なんでも近くのものを利用したほうがいいということだ。同じ物であってもそこに使われた排気量を考えると見る目が違ってくる。そういうことで、無駄な燃料を使わないよう心がけていけば、世界の総排気量を減らし、温暖化や環境破壊を食い止めることもできるはずだ。とのこと。
なるほど、私もそういうことを考えて物を買うようにしようと思った。

坂本龍一と村上龍はかなり親しい間柄のようで、一緒に本を出したりもしているようである。良い友なのだろう。
話を聞いていると、坂本龍一という人は、非常に頭の良い人だなという感じがした。話が非常にわかりやすく面白く、自分が取り組んでいることをこのように人に説明できる人というのは、絶対に普通の頭ではないと思った。
対談を見る限り、村上龍より魅力的である。スタイルもいいから座り方ひとつもサマになっている。当然ながらタバコも吸わないはずだ。
いっぽう、村上はずんぐりした感じで顔も見栄えがよいとは言えない。そこもいいところではあるのだが、今もタバコを吸っているらしい。しかし、最近は禁煙が広まっているのでタバコを吸うのも気が引けるような世の中になってきただろうと坂本に言われていた。二酸化炭素をたくさん排気している工場や、環境のことを考えない企業が恥ずかしい状況になってきているのも同じとのことだ。やはり村上もタバコをやめたほうがいいだろう。

坂本龍一が素敵だったので、WIKIPEDIAで調べてみた。1952年1月17日、山羊座、血液型B型。わあ~、誕生日が私と一日違いだ。そして同じB型だ。だから波長が合うのだろうか?いや波長が合うというよりも、ぐんぐん引っ張られていく。そして、私自身、この8歳くらい年上の年代の人間に引かれる傾向がある。やはり、そのくらい年上だと人生経験が違うし、そうかと言って年上すぎるということもなく、共感できるのだろう。
東京芸大大学院卒というのも、やはりすごいなと思った。芸大を目指している知人などがいたが、芸術も並々では当然無理だが、芸術だけではなく勉強もできないとダメだそうだ。

ところで、坂本氏の環境の話を聞いていたときに、ふと思い出したことは、坂本龍一家族は「エホバの証人」だったな、ということだった。正しく言えば、奥さんの矢野顕子が熱心な信者らしいのだが、私が以前エホバの証人から聖書のことを教わっていたころ、大きな大会に行ったことがあり、その時に坂本龍一家族を見たことがある。
一番前の席に座っているわよと知人に聞いて、それとなく前のほうに足を運び見てきたのだが、露骨に視線を向けることもできなかったので、ちらっとしか視界に入らなかった。
顔の浅黒い人に見えた。お子さんも連れていた。一番前の列というのはなるほど顔が見えなくて有名人には良いかもしれない。

エホバの証人も、やはり神が人間を住まわせるために創造した地球を大切に使うことを心がけて環境にも気を遣うはずである。しかし、聖書の預言では、富や名声に目のくらんだものたちが地球を破壊していくことに歯止めは利かず、地球は破滅への道を歩むということになっており、最終的には神が介入するしか方法がないということになっている、というのがエホバの証人の教えだ。もはや人間の力ではどうにもならず、最終的には、神は神の言葉をきかない人間や霊者を滅ぼすことによって地球を守る。生き残るのはエホバの証人であるとのことである。
エホバの証人の中にはかなりの知識人もいて、やはり一旦は学んでみる価値があると判断する人も多いのだろう。その結果、その全てを信じるかどうかはその個人が決めることではある。神の介入を待つ人もいれば、できうる限り人間の手でなんとかしたいと思う人もいる。

聖書の話を書くと長くなってしまうのであるが、話の根源はアダムとエバが神のいいつけを守らず、自分たちの意思で物事の善悪を決定する道を選んだことに物義が始まっている。そして、その裏には「神が食べてはいけないと言っていた木の実を、神の意に反して食べる」ということを陰で勧めた「へび」の存在があった。この蛇は実は「みつかい」であり、霊者である。人間をそそのかしたわけだ。
それ以来、人間は自分で善悪の判断をし、自由に生きてきて、現在に至っているのだ。
多くのみつかいも人間も自由意志によって自分の判断で事がうまく行くと主張し、いわばそれができるかできないかが、長い人間の歴史の宇宙論争となっている。もし、人間が自由意志で揉め事も戦争も起こさず、環境も破壊させず、幸せを勝ち取れたら、それはアダムとエバをそそのかした「みつかい」の主張が通ったことになる。
その「みつかい」というのは、人間のように物体のある生き物ではなく、そういうのは「霊者」であるが、宇宙にはそういうものも存在している。そして、その蛇のふりをして語りかけたのは、最も優れた美しいみつかいだったのであり、そのみつかいは「大いなる龍」である。聖書の預言の書では、神に対抗する邪悪なものは「龍」で象徴させている。その龍に対抗する存在として、神の教えを守るように人の形として地上に現れたのがイエスキリストである。
この世の中で聖書の教えでない宗教、たとえば日本の仏教や神道でもそこに「龍」が出てくることが多い。龍は力があり縁起のよいもののように、彫刻や絵になっているのだ。祭のおみこしにもついている。また、国連のマークには蛇が巻き付いていたと思う。
これは、万物創造の神からはなれて自分たちの力でやっていくという意思の象徴のようなものであろう。龍というのは本当にいる動物でもないのに、あのようにはっきりした形として、そちこちに現れているのは本当に不思議だと思う。

それで、なんでこんなふうに話がそれてきたかというと、実はそれているわけではない。
村上と坂本の2人の名前が偶然にも「龍」だった。

私は、エホバの証人から聖書を8年間学んだが、証人にならずに途中でやめた。
その理由は、もしその教えが本当だとしても、私は自由意志で生きたいと思ったからである。そして、神から離れたとされる人間たちが好きだからだ。
何が善であり、何が悪であるのか?それを神の教えに従うか従わないかで決め、従うものは善、従わないものは悪という考え方が受け入れられない。
確かに、聖書の教えは正しいことが多い。しかし輸血がだめだとエホバの証人が解釈しているからといって私はそれには従えない。何事も自分の考えで納得できない限り受け入れることができないのだ。

だから、人間の力で地球環境や人間社会を守るように、最後まで頑張りたいと思っている。
それで、二人の「龍」氏の考えや行動に感心を持っている。
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10 仲間を欲しがる女

2007-07-12 01:33:57 | 読書
村上龍 「だめな女」

“ “仲間”は決して“友達”ではない。
  努力も緊張感もない“仲間”より
  甘えのない“友達”を作るほうがむずかしい。 ”

村上氏によると、“仲間”というのは、「関係性において一体感を楽しむこと」。つまり甘えをもった間柄だということだ。仲良しであるということを味わう「仲間モード」「仲良しグループ」ということだ。
「仲間同士は必ずなれなれしいくだけた調子で話し合うが、グループに対して自分だけが別の意見を持つことが難しい。仲間同士は排他的で、新しい人間を受け入れるのを嫌う。仲間内にはどうでもいい会話しかなく、シリアスな会話は敬遠される。仲間モードに緊張感はない」とのことだ。
それに対し
「友達はお互いに批判を受け入れるし、決してなれなれしい態度をとらないし、違う意見を尊重し、新しい友達とも個人的に接触することができる。深刻な悩みからたわいのないジョークまで、友達とはどんな話でもできるが、いい友達でいるためにはある程度の緊張感に耐えなくてはいけない。
だから、友達の欠点は、つき合うのに神経を使うことだ。お互いを認め合うための努力が必要になる。・(略)・・」

引用が長くなってしまうので、このへんにしておくが、とにかく村上氏は仲間と友達をこのように定義しているようである。

私の場合は、ちょっと違い、仲間は複数の集り、友達は個人の関係と言うふうに捕らえている。仲間は複数であるから、その中には個人的な友達とまでは言えないような人もいる。だから個人と個人が掘り下げた意見交換などをするとは限らないが、そのグループの基準が高ければ、自分がその一員としてそれに恥じないような人間であるように努力しなければならないとは思う。また、その中で個人の個性や生き方を尊重されてもいるし、意見の相違をぶつけ合って、よりよいグループを作っていこうという場合もある。
一方、確かに馴れ合いのグループという仲間もある。具体的にいうと、自分と頭の程度や生活水準が同程度でぜんぜん気どる必要のない人間の集りだ。こっちは逆に自分が真面目であることを隠さなければならなかったりする場合もある。

友達は基本的に個人対個人の関係だと思っている。それがたまたま複数かたまっていれば仲間にもなりうる。友達にも馴れ合いの友達とある程度の緊張を要する友達がいる。
ある友達には自分のずぼらな面をさらけ出せるが、ある友達にはいい加減な姿は見せられない。向上心の持ち方で尊重しあっている友達ならば、その人の前では向上心を持ち続けなければいけないと努力する。一方、馴れ合いの友達は「愚痴の言い合い」や「同じ傷のなめあい」などをしていることもある。

こういうのは定義の違いだからどうでもいいことだ。
とにかく、馴れ合いの人間関係ではなく、緊張感を持った人間関係を築いていくべきであろう。
また、世の中には個人対個人の関係がなかなか築けない人というのがいるのかもしれない。
そういう人は、なんとなく仲間の中に所属して満足しているが、実は寂しい人である。表面的に気が合うようなポーズをしているだけかもしれない。そういうところから脱することができない女はやはりつまらない女だろう。

私自身、友達はいるが、長年仕事仲間の中に「友達」と言える人をみつけることができなかったと思う。だから、仕事を辞めればもうそれっきりになっているし、仕事以外のことで付き合ったりすることはない。そういう人間関係だけだったとすれば寂しいことだ。


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9 ダメな社会を支えている女

2007-07-12 00:34:15 | 読書
村上龍「ダメな女」

“ 援助交際の女子高生が
本当に欲しいのは“お金”じゃなくて、
“寂しさを感じさせない社会”かもしれない。 ”

援助交際の相手は30代後半の男性が多く、女子高生の若さや肌の張りに惹かれるらしい。一方、女子高生はお金をもらえるからというのが理由だが、実はそれだけではなく、寂しいからでもあるという。
こういう社会問題を無くすためにどうしたらいいかを話し合うと、「どうしたらいいんですかねえ」「こまったもんだですねえ」というような“他人事”としてのコメントしか得られない。テレビ討論や座談会などしても誰もがこんな調子である。自分の子供がそんなことをしたらどうするかという質問に対してもまともな返事は返ってこない。
援助交際のみならず、少年の凶悪な事件でさえ他人事としてとりあげ、大騒ぎするものの、しばらく繰り返し放送され一時すると忘れてしまう社会である。
このような社会だからこそ、少女が援助交際に走ったり、少年が犯罪をおかしたりするのではないか。というようなことだ。

私たちおばさんとしても、自分の娘が援助交際をしていなければ関係ないと思っている。
そして、興味本位に他人事としてテレビのワイドショーなどに関心を抱き、釘付けになったりしているが、それはいわばその場の楽しみでその後は他人事であるから忘れてしまう。
こういう構造がいけないし、こういうおばさんがテレビを見て視聴率を上げたり、週刊誌を買ったりするから、マスコミもそういう取り上げ方をしたりするのだろう。
誰もが本当にそういう子をなんとかしなければと真剣に考えているわけでもないのだ。
当然ながら男も同様である。

世の中全体が腐っているということか。

(注)「ダメな社会を支えている女」というのは、「社会をダメにすることの片棒を担いでいる女」という意味です。

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