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山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

引っ越し先は
https://ask0065.hatenablog.com/です

出光美術館と帝国劇場

2008-08-10 23:09:10 | 日記
昨日のこと。
ルオー展の会場である出光美術館は、有楽町駅から皇居のほうに向って行ったところにあり、下は帝国劇場になっています。同じ建物の9階が出光美術館です。以前「西行の仮名」で行ったことがあるので、これが2回目でした。(どっちも無料でゲットした入場券です。)

出光美術館に向っていると、反対からものすごくたくさんの人たちがぞろぞろとやってきました。3時すぎくらいだったでしょうか。それが9割以上が女性です。私くらいの年齢の母と娘という組み合わせも多かったです。
いったいこの集団はなんだろうと思って近づいていくと、その人たちは帝国劇場から出てきた人のようでした。ちょうど終わった時間だったのでしょう。何をやっているのかな~と思い、美術館の入り口を通り越して帝国劇場の正面まで行ってみると、「ミス・サイゴン」というミュージカルをやっていました。
へえ~こういうのが人気なんだな~と思いました。
キャストは、別所哲也、市村正親とか書いてありました。内容は「ベトナム戦争の末期のサイゴンの売春バーで働くベトナム人少女キムとアメリカ大使館で軍属運転手を務めるクリスの悲恋」(Wikipedia)というようなものらしいです。
ミュージカルに比べるとルオーはマイナーだなと思いつつ、エレベーターに乗って上に上がっていきました。
ルオー展は、国立美術館などの展示ほどは混んでいませんでした。観ている人はやはり中高年が多いようでした。人と連れ立っているという感じではなく、個人個人が独立してみているという感じでした。それでもある程度の多くの人間は入っていました。絵の前に群がってしまうほどではなく、ちょうど良いくらいだったようです。
イヤホンガイドがあるかと思いましたが、ありませんでした。なので、壁に設置されている解説を読んで進んで行きました。
出光美術館では、展示を見終わったあと、無料で給茶機からお茶をいただいて飲めるのが嬉しいです。そして、皇居の景色が見渡せます。

エレベーターを降りて外に出てから、皇居のほうのとおりに出てみると、観光バスが止まっていました。そのバスには「東海バス」と書かれていて2台見えました。私の故郷のほうのバス会社なのでおやっと思いました。そこから人が降りて帝国劇場のほうに入っていきました。団体で「ミス・サイゴン」の夜の部でも見に来ているのでしょうか。

私もたまにはミュージカルでも見たいものだな~と思います。
せっかく東京に住んでいるのにね。

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ルオー大回顧展

2008-08-10 04:27:55 | 日記
今日は、出光美術館にルオーの絵を見に行きました。
今までに見たルオーの絵は、多くの様々な画家の絵の中に並んだ数枚として、「太い黒い線に特徴のある絵」という程度の認識しかありませんでした。しかし、今日のように、ルオーの絵だけがいっぱい並んでいるのを見て、初めてルオーという人の特質が見えてきました。
これは、かなり重いです。正直言って、今ここで概要を述べるまで私の中で煮詰まっていません。だから、ちょっと書くのは難しいからやめときます。
とにかく、見に行ってよかったです。

あっ、でもしかし、わかったことだけでも拙い文で書かなくちゃいけないのかもしれない。
難しい事から逃れてはいけないのかもしれない。少なくとも文を書く者として、安易なほうに流れては進歩がないのかもしれない。

私は絵を見ることを趣味とする者としては、初心者である。だから、常識さえもないかもしれないが、書いてみる。

まず、最初のほうに展示されていたのは、裁判官や道化師だった。道化師の絵は、以前熱海のMOA美術館で何枚かみたことがあった。そのときは「サーカス」のテーマで展示されていたが、そのときと同じものが今回数枚あり、絵との再会を懐かしく思った。2度目に会う絵は、初めて会う絵とは確かに違い、強い印象があった。
道化師というのは、一種異様なものである。人を笑わすがそれは表向きの顔であり、そのこと自体がいかさまである。そしてそういう職業をしている人間が背負っているものが、楽屋裏などにいる姿ににじみ出ている。「道化師は哀しい」というのは、現在世間でも常識のようになっていて、テレビドラマや映画の中でも象徴的な映像として使われることがあるが、ルオーの場合は、その人間をもっと真正面から見詰めているように思える。サーカスの馬に乗っている女の絵もあるが、「サーカス」と言うもの自体、本質的に、華やかな中に歴然とした暗さがあるものである。そういうものを好んで描いている。

裁判官の絵は、やはり、その人間がその職業を負っている顔をしている。それらしき顔つき、それらしき風貌になってしまう、その醜さというのだろうか。人が人を裁くことなど本当はできないことかもしれないが、それを当然のようにする職業だ。ルオーは友人を介して裁判所に出入りし、裁判をよく傍聴していたそうで、裁判官の絵が何枚もある。その中には、人を裁くものとしての偉そうな表情のものや、人を裁くということの苦悩をはらんだ表情のものもあるようだ。

まだ、最初の段階でこんなに長くなってしまったので、最後まで書くとどうなるかわからないから、適当なところにしておこう。

その後、本の挿絵として作られた版画が多数あった。
そして、戦争の絵。人間の行いとして納得できない苦悩のようなもの。
イエスキリストに関連したもの。聖書の内容を絵にしたもの。

結局、ルオーは、世の中の不条理や悲しみに対する救いをイエスキリストに求めていた。

しかし、挿絵として描かれた多数の絵等は、人の依頼により、職人として描いたものとも言えるだろう。

その後、図書館から借りた「ルオーと白樺派」という本をめくって見たところ、ルオーという人は、いったん完成して人手に渡った作品にも、後に自分が納得できるまで手を加えるような人だったそうだ。

そのほかにも、所有権をめぐって裁判になっていた大量の絵を、制作途中だということで、裁判中に焼いてしまったこともあったという。

ルオーという人の個性は強烈だが、それは理解できないものではない。

絵自体について、色合いがどうの、タッチがどうの、ということは私には語れない。あんまり暗すぎないものが好きだ。
特別に気に入った絵はなかったが、「正面を向いた道化師」「小さな家族」「小さな女曲馬師」「トリオ」の4枚の絵葉書を記念に買ってきた。
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