このgooブログをつくって初めて作成する記事です。今まで他のブログからの転載だったので。
昨年シアターコクーンで蜷川幸雄演出の『エレクトラ』を観て、エレクトラそのものが憑依してしまったかのような大竹しのぶの演技に圧倒された。その彼女が同じエレクトラと名のつく作品に主演するとのことで、今度はどのように演ずるのだろうかとの期待で楽しみにしていた(新国立劇場も初めてなのでそれも楽しみだった)。
パンフに目を通したら、今回の作品はギリシャ悲劇のエレクトラを下敷きにして舞台をアメリカの南北戦争時代に移して家族の愛憎劇としてユージン・オニールが書いて1931年に初演された作品とのことだった。
エレクトラというタイトルなのに主人公の名前はラヴィニア(大竹しのぶ)。シェイクスピアの古代ローマを舞台にした『タイタス・アンドロニカス』に出てくる不幸な娘の名と同じだ。彼女の父エズラと弟オリンは戦争に北軍の将とその部下として従軍している。
彼女に言い寄ってきている男アダム・ブラント(吉田鋼太郎)が、実は父の甥でさらに母親のクリスティン(三田和代)と密通していることを知る。ラヴィニアは父親を愛するが故にふたりを許さない(いや、後のセリフでアダムへの未練がありそうなこともわかるが)。
その追求に追い込まれたふたりはエズラの心臓病の発作の薬をすりかえて毒殺する。帰還後の妻とやり直そうとするエズラを演じる津嘉山正種が魅力的で、過去のふたりのすれ違いが不幸の始まりと思わされる。
娘はそれに気づき、帰還した弟をたきつけてアダムを射殺させる。そんなことをすれば母親が生きていないことを知っているのにである。その通り、母親は自殺。とここまでの母と娘の刺激的なドロドロ関係を大竹・三田ががっぷり見せてくれるのがいい。このふたりがいなければこの芝居が成立しない。
そのことで弟(堺雅人)はおかしくなっていく。その演技が神経症的にうまい、はまり役!
その姉弟を幼馴染のご近所の兄妹が支えていく中でそれぞれが結婚ということになっていく。下敷きのエレクトラ劇でも、アポロンの神託により周囲にいる適齢の男女にそれぞれくっつかせるという結末で救いをしめすのだが、ここからがこの作品の決定的な違い。
弟オリンが自殺し、一族で残るのは自分だけになってしまったラヴィニア。愛情からの憎しみを抑制できなかったことから、家族も自分も追い込んで不幸のどん底に落ちていく。そこで気が狂うのではなく「自分で自分を罰するしかない」とその結末を自分で背負い込んで生をまっとうする覚悟をしめすのだ。母が墓場のようと嫌ったマノン家の邸宅を自らの墓場と決めて。最後まで彼女をその境遇から抜け出すようにすすめていた執事のセスもその覚悟を知るやそれを支える側に回るのだ。
栗山民也の演出は、この悲劇を過剰な演技は引き出さずに描いていく。舞台装置も回り舞台の上にいろいろな場面の装置を置いて少しずつ回すと効率的に場面が変わるようになっていて、その装置がよかった。さらに最後には主要な場面のマノン邸の正面(墓石に見える)が奥深くまで下がっていく。この中劇場の奥行きの深さを最大限に生かし、板が2段になっているのも驚いた(さすが新しい劇場)。その奥から出演者が出てくるカーテンコール。まんぞく~!!
ギリシャ悲劇では運命劇は神によって決められた運命を主人公達は生きた。しかるにユージン・オニールは傷つけあう家族の宿命を神のせいにはしなかった。家族の中で生きるひとりひとりの思いのぶつかりあいの結果として描いたのだ。ただし、救いは示していない。そこが重苦しいところではある。
現代を生きる私たちも家族の中でどのように自分を生きていくのか、同じテーマを生きていると思った。
昨年シアターコクーンで蜷川幸雄演出の『エレクトラ』を観て、エレクトラそのものが憑依してしまったかのような大竹しのぶの演技に圧倒された。その彼女が同じエレクトラと名のつく作品に主演するとのことで、今度はどのように演ずるのだろうかとの期待で楽しみにしていた(新国立劇場も初めてなのでそれも楽しみだった)。
パンフに目を通したら、今回の作品はギリシャ悲劇のエレクトラを下敷きにして舞台をアメリカの南北戦争時代に移して家族の愛憎劇としてユージン・オニールが書いて1931年に初演された作品とのことだった。
エレクトラというタイトルなのに主人公の名前はラヴィニア(大竹しのぶ)。シェイクスピアの古代ローマを舞台にした『タイタス・アンドロニカス』に出てくる不幸な娘の名と同じだ。彼女の父エズラと弟オリンは戦争に北軍の将とその部下として従軍している。
彼女に言い寄ってきている男アダム・ブラント(吉田鋼太郎)が、実は父の甥でさらに母親のクリスティン(三田和代)と密通していることを知る。ラヴィニアは父親を愛するが故にふたりを許さない(いや、後のセリフでアダムへの未練がありそうなこともわかるが)。
その追求に追い込まれたふたりはエズラの心臓病の発作の薬をすりかえて毒殺する。帰還後の妻とやり直そうとするエズラを演じる津嘉山正種が魅力的で、過去のふたりのすれ違いが不幸の始まりと思わされる。
娘はそれに気づき、帰還した弟をたきつけてアダムを射殺させる。そんなことをすれば母親が生きていないことを知っているのにである。その通り、母親は自殺。とここまでの母と娘の刺激的なドロドロ関係を大竹・三田ががっぷり見せてくれるのがいい。このふたりがいなければこの芝居が成立しない。
そのことで弟(堺雅人)はおかしくなっていく。その演技が神経症的にうまい、はまり役!
その姉弟を幼馴染のご近所の兄妹が支えていく中でそれぞれが結婚ということになっていく。下敷きのエレクトラ劇でも、アポロンの神託により周囲にいる適齢の男女にそれぞれくっつかせるという結末で救いをしめすのだが、ここからがこの作品の決定的な違い。
弟オリンが自殺し、一族で残るのは自分だけになってしまったラヴィニア。愛情からの憎しみを抑制できなかったことから、家族も自分も追い込んで不幸のどん底に落ちていく。そこで気が狂うのではなく「自分で自分を罰するしかない」とその結末を自分で背負い込んで生をまっとうする覚悟をしめすのだ。母が墓場のようと嫌ったマノン家の邸宅を自らの墓場と決めて。最後まで彼女をその境遇から抜け出すようにすすめていた執事のセスもその覚悟を知るやそれを支える側に回るのだ。
栗山民也の演出は、この悲劇を過剰な演技は引き出さずに描いていく。舞台装置も回り舞台の上にいろいろな場面の装置を置いて少しずつ回すと効率的に場面が変わるようになっていて、その装置がよかった。さらに最後には主要な場面のマノン邸の正面(墓石に見える)が奥深くまで下がっていく。この中劇場の奥行きの深さを最大限に生かし、板が2段になっているのも驚いた(さすが新しい劇場)。その奥から出演者が出てくるカーテンコール。まんぞく~!!
ギリシャ悲劇では運命劇は神によって決められた運命を主人公達は生きた。しかるにユージン・オニールは傷つけあう家族の宿命を神のせいにはしなかった。家族の中で生きるひとりひとりの思いのぶつかりあいの結果として描いたのだ。ただし、救いは示していない。そこが重苦しいところではある。
現代を生きる私たちも家族の中でどのように自分を生きていくのか、同じテーマを生きていると思った。
古今東西、父と息子、父と娘、母と息子(姉と弟もこの擬似関係だろう)、母と娘のそれぞれの関係は、常に緊張と融和の間を揺れ動いている。権力者の家庭での、息子による父殺し(もしくは父の否定)は珍しくない。たとえば、武田信玄も父を放逐している。
普遍的テーマであるだけに、身につまされ、しんどい舞台であった。
いよいよ明日、歌舞伎座に段ちゃん観に行ってきます。玉さん、勘九という大御所相手に見劣りして当然。まして、和事の優男は存在感を出すのが難しいものです。要は、この抜擢をいかに自身の肥やしにできるか。千秋楽で評判がどう変わっているか、期待。