毎年毎年、実家の母の年越しの相手を誰がどのようにするかで姉妹3人が相談し、直前に決まる。しかしながら、今年は妹2が名古屋の妹1の家に一人で行って年越しをするという。娘と2人で実家に泊りこむよと母に連絡したら、お断りされた。孫娘が一緒だと気を使うのでそれなら一人が気楽だという。
元日は映画の日なのでそこで一緒に「大奥」を観ることにして、大晦日は久しぶりに我が家で過ごした。(昨年の顛末記はこちら)
年末に娘は大学の友人と夜行バスの往復と現地素泊まり一泊で京都旅行に行ってきて、そのお土産のお菓子を届けに30日のランチを一緒にしてきた。その後の買い出しはどしゃ降りの中となり、けっこうぐったり。年末年始の録画のためにHDDの容量確保のため、勘三郎の追悼番組をBRにダビングする作業をしていたら、NHKの京都南座顔見世大歌舞伎のオンエアを忘れてしまった。
大晦日、久しぶりに二度寝の寝覚めの夢の記憶。「年忘れ」というくらいで、日本人は嫌なことを忘れてしまおうとする意識が強すぎる国民性なんじゃないか・・・・・・とか、夢の中でいろいろ考えていたらしい。大晦日のTV番組は「年忘れ・・・お笑い・・・」とか「年忘れ・・・○○の歌」とかが多く、またまた考える。
今年は香山リカさんのお話を聞く機会があったが、人間はつらいことにあうと忘れようとする自衛本能が働くのだという。しかしながら潜在意識にはつらかったことが残るので、それを本当に克服するためにはつらいことに向かいあって乗り越えることが必要なのだとのこと。自分の力で乗り越えられなければならないけれど、専門家がそのサポートをする必要があるということだった。
その香山さんが、東日本大震災から1年ちょっとで日本人の多くは忘れてしまおうとしているんじゃないかと指摘していて、その通りだと思った。
また、日本人は、先の戦争についてきちんと向かい合って国民全体で乗り越える経験をもつことができなかった。日本を二度と戦争しない国にするという国際世論を執行すべくアメリカのGHQがとっていた日本民主化の政策は、国際情勢の変化で(中国に共産政権樹立等)転換し、日本の教育内容は日本が近現代にしてきた歴史をきちんと教えないでよいことになってしまったからだ。
その後、安保闘争などの盛り上がりは一時期あったが、結局はそういう戦後60数年を経てきたわけだから、中国や韓国の人びとが日本にされたことの歴史教育との差が世代を重ねれば開くばかりだろう。原子力政策についてもアメリカの核政策のもとにあるわけだから、近現代史をきちんと学ばなければ考えていく材料がなさすぎるだろう。
野田秀樹のNODA・MAP公演「エッグ」でも、そのことを痛烈に皮肉る内容だった。「過去に背を向けよう」という台詞が胸につきささっている。井上ひさし亡きいま、社会的なメッセージをストレートに盛り込める作家の第一人者だと思う。
東日本大震災のことも、復興だけでなく脱原発の推進をしていって欲しいが、小選挙区制の歪みからできた新政権にそのまま任せるのは危険きわまりない。自分にやれることをやっていくしかない。こんなところで言いたいことを書くのもその一つだと思っている。
大晦日は、大掃除ならぬ小掃除のあと、酒のつまみの買い出しに行き、紅白歌合戦を見ながら娘と酒盛りをした。京都旅行で伏見の酒蔵もめぐってきた娘は純米大吟醸の原酒を目の前で瓶詰めしたものを抱えて帰ってきた。それと先月の私の福井の土産が「一本義」純米吟醸。酒盛りを終えての撮影。大瓶ではなく300mlとかの小瓶(^^ゞ
紅白歌合戦は、過去の司会経験者二人の追悼ということで森光子、中村勘三郎の遺影をしょって和田アキ子が「この愛、届きますか」を熱唱。リハで2回とも泣いてしまった和田が涙をこらえて歌っているので音程がふらついている。私も目頭が熱くなってしまう。
勘三郎が森光子をしょった舞台写真も映し出されていたが、あれは2007年の「寝坊な豆腐屋」の時のものだ。
福山雅治の年越しライブからの中継で、猿之助と中車が襲名披露をするということは早くから話題になっていたが、二人の口上だけでなく、会場で二人のダブル宙乗りまでやってくれた。福山雅治デザインの祝い幕もポスターの背景の画像も使われていて、懐かしい。襲名披露公演「ヤマトタケル」の記事に関連のリンクあり
歌舞伎界の2012年の2つの大きな出来事、澤瀉屋の襲名と勘三郎追悼の両方が紅白歌合戦にまで盛り込まれてしまった。人間国宝になった玉三郎も司会の嵐メンバーによる各界の方々へのインタビュー映像で登場していたし。
全てのつらかったことも忘れずに、自分の中に取り込んで、新たな年に望みをもっていこうと思う。
さて、以下に年越しそばの写真もアップ。我が家は関東風の天ぷらそばではなく、京風のにしんそばにする。生協の年末企画でにしんの甘露煮を忘れずに買う。今年もやっぱり美味しかった。