先日紹介したアルバムは、結局 高解像度のスキャナーで複写することに
アルバム自体の作りが、ページを全開できるタイプで助かった
そのアルバムに書かれたキャプションには
叔母の筆跡で 昭和29年(1954年) 5月30日 とある
この日 従姉のCちゃん(当時10歳)は、花束贈呈の大役
しかしその要請が来たのは当日の朝だったという
急な話の中でも、まだ物資不足の国内で精いっぱい着飾っての晴れ舞台
時代を感じさせるが、それよりも後方に集まった凄まじい数のギャラリーに驚く
それは~
自分はまだ生まれてはいないこの地に
初めてヘリコプターが飛来した歴史的記念日
今ではメジャーな航空機のヘリコプターだが
歴史は案外浅く、実用化されたのは戦後のこと
朝鮮戦争の影響で急速に進化もしていっただろう飛び物
戦後 日本は翼をもがれて模型飛行機さえ空を飛ぶことはできなかったという時代を経て
1952年(昭和27年)サンフランシスコ講和条約発効で再開された日本の空
それから2年後に、当時は交通の要所であったこの地で
毎日新聞社ヘリコプターによる訪問飛行が行われた
ヘリの前、薄い色のスーツ姿で花束を受け取ったのがパイロット
叔母のキャプションには、近藤 完 機長と書かれてある
手前右の洒落者は、アチコチのコマに写り込んでるから毎日新聞のブンヤさんなのかな
機長の足元、皮製の短ブーツに目が留まった
これに似たブーツを、私の父がバイクに乗る時に履いてた記憶
それは昭和30年代後半の話だけどね
ヘリのキャノピーに描かれた
Bell の文字と毎日新聞社のマーク、その下に手書きで描かれただろう 「スワン号」 の文字
こんなものも時代を感じさせる
コックピットをアップにすれば、メインの操縦桿は見えないが
コレクティブレバーや、足の棒状のアンチトルクペダル(ラダーペダル)が確認できる
座席のクッションは、他の Bell機 もこんな感じなのかな
当時の経済事情からすれば、豪華なクッションに見える
これからが肝心な画像
機体の真横画像はなかったが
全体像が写るのは、わずか 5cm×5cm程度の写真のみ
それをスキャナーで複写、解像度をフルに上げて1200dbiも試したが
あまり意味はなく、600dbi~800dbiが限界のようだ
機体は Bell47 とわかるのだが、なんとかレジ(機体番号)がわかるコマはないものか
スキャンした画像をアップで探してみる
ちょうどレジが描かれている尾部がせっかく写りこんではいたが
ローター止めのコーションタグが邪魔で、末尾が見えないなんて・・・
ギャラリーは学生服?が多く見られるから、小学校の全校見学なのかな
この辺りの詳細は不明だが、当時の地元首長も出席しているので一大イベントだったようだ
(Bell47のトラス奥に見える初老の方がその人)
もう一つの小写真にレジが写り込んでいることを願いスキャン
ローター部に昇っているのはパイロットだが
後部の二人は整備員かな、この飛来時の搭乗人数も不明だ
この画像をアップにすると、尾部に描かれた JA7003 の文字を確認できた
JA7000番台はピストンエンジンのヘリに割り当てられた番号
JA7001 は産経新聞 シコルスキーR-6A
JA7002 は産経新聞 ヒラーUH-12B
そして
JA7003 は Bell 47D-1 毎日新聞社
1952年11月、日本の航空再開に合わせて導入された機体のようだ
そのあとの
JA7004は 欠番
JA7005 、JA7006 も某新聞社の Bell 47とあるので
日本で最初の登録された Bell47となりそうだ
しかし 1955年 5月にはJA7003は大破して登録抹消されている
パイロトに花束贈呈を果たした従姉はこの後実際に Bell 47 で飛行を体験したのだが
これは現場で急に話があったもの
一般庶民が航空機で空を飛べるような時代ではない
パイロットから、Cちゃんの母親(叔母)に同乗させてもよいか話があったという
飛行中、パイロットから「あなたの家は何処ですか?」と尋ねられた従姉
近くに独特な屋根の形をした映画館があったので「あのあたり~」と
下の画像は、当時の新聞社用写真を後日いただいたもののようだ
画像に添付されてる記者からのキャプションは
「○○(地名)についた本誌ヘリコプター、 長の版」
こちらのキャプションは「ハナタバゾーテイ! ○○(地名)にて 長の版」
長野電送と書かれた文字が印象的だが
急いでいたのだろう、キャプションは逆のような気がする(汗
もうひとつ、この画像を見て背景の山がおかしいな~ と思ったら コレ裏焼きだ
番外でもうひとつ ふたつ
この日、初めてヘリコプターを見た、知っただろう地元の方々
このヘリに搭乗したのは、当時の首長だった方とCちゃんのみ
翌日 Cちゃんが学校へ行くと~ あだ名がつけられていたそうだ
それは「ヘリコプター」(笑 なんとも直な あだ名 だが
それだけインパクトがあったからだろう
叔母もキャプションにヘリコプターを 「ヘリコ ブ ター」 と書かれてあった
ヘリの認知度はまだまだ低かったようだ
ヘリに急遽搭乗できた Cちゃん は後日、近藤パイロットの礼状を書いたということで
今でもパイロットの名前をしっかり記憶していた
さらに番外は~
この同じ地で18年後、私も同じ Bell47 のG型で、初めて空を飛ぶこととなる
今はなきインペリアル航空の遊覧飛行でね
アルバム自体の作りが、ページを全開できるタイプで助かった
そのアルバムに書かれたキャプションには
叔母の筆跡で 昭和29年(1954年) 5月30日 とある
この日 従姉のCちゃん(当時10歳)は、花束贈呈の大役
しかしその要請が来たのは当日の朝だったという
急な話の中でも、まだ物資不足の国内で精いっぱい着飾っての晴れ舞台
時代を感じさせるが、それよりも後方に集まった凄まじい数のギャラリーに驚く
それは~
自分はまだ生まれてはいないこの地に
初めてヘリコプターが飛来した歴史的記念日
今ではメジャーな航空機のヘリコプターだが
歴史は案外浅く、実用化されたのは戦後のこと
朝鮮戦争の影響で急速に進化もしていっただろう飛び物
戦後 日本は翼をもがれて模型飛行機さえ空を飛ぶことはできなかったという時代を経て
1952年(昭和27年)サンフランシスコ講和条約発効で再開された日本の空
それから2年後に、当時は交通の要所であったこの地で
毎日新聞社ヘリコプターによる訪問飛行が行われた
ヘリの前、薄い色のスーツ姿で花束を受け取ったのがパイロット
叔母のキャプションには、近藤 完 機長と書かれてある
手前右の洒落者は、アチコチのコマに写り込んでるから毎日新聞のブンヤさんなのかな
機長の足元、皮製の短ブーツに目が留まった
これに似たブーツを、私の父がバイクに乗る時に履いてた記憶
それは昭和30年代後半の話だけどね
ヘリのキャノピーに描かれた
Bell の文字と毎日新聞社のマーク、その下に手書きで描かれただろう 「スワン号」 の文字
こんなものも時代を感じさせる
コックピットをアップにすれば、メインの操縦桿は見えないが
コレクティブレバーや、足の棒状のアンチトルクペダル(ラダーペダル)が確認できる
座席のクッションは、他の Bell機 もこんな感じなのかな
当時の経済事情からすれば、豪華なクッションに見える
これからが肝心な画像
機体の真横画像はなかったが
全体像が写るのは、わずか 5cm×5cm程度の写真のみ
それをスキャナーで複写、解像度をフルに上げて1200dbiも試したが
あまり意味はなく、600dbi~800dbiが限界のようだ
機体は Bell47 とわかるのだが、なんとかレジ(機体番号)がわかるコマはないものか
スキャンした画像をアップで探してみる
ちょうどレジが描かれている尾部がせっかく写りこんではいたが
ローター止めのコーションタグが邪魔で、末尾が見えないなんて・・・
ギャラリーは学生服?が多く見られるから、小学校の全校見学なのかな
この辺りの詳細は不明だが、当時の地元首長も出席しているので一大イベントだったようだ
(Bell47のトラス奥に見える初老の方がその人)
もう一つの小写真にレジが写り込んでいることを願いスキャン
ローター部に昇っているのはパイロットだが
後部の二人は整備員かな、この飛来時の搭乗人数も不明だ
この画像をアップにすると、尾部に描かれた JA7003 の文字を確認できた
JA7000番台はピストンエンジンのヘリに割り当てられた番号
JA7001 は産経新聞 シコルスキーR-6A
JA7002 は産経新聞 ヒラーUH-12B
そして
JA7003 は Bell 47D-1 毎日新聞社
1952年11月、日本の航空再開に合わせて導入された機体のようだ
そのあとの
JA7004は 欠番
JA7005 、JA7006 も某新聞社の Bell 47とあるので
日本で最初の登録された Bell47となりそうだ
しかし 1955年 5月にはJA7003は大破して登録抹消されている
パイロトに花束贈呈を果たした従姉はこの後実際に Bell 47 で飛行を体験したのだが
これは現場で急に話があったもの
一般庶民が航空機で空を飛べるような時代ではない
パイロットから、Cちゃんの母親(叔母)に同乗させてもよいか話があったという
飛行中、パイロットから「あなたの家は何処ですか?」と尋ねられた従姉
近くに独特な屋根の形をした映画館があったので「あのあたり~」と
下の画像は、当時の新聞社用写真を後日いただいたもののようだ
画像に添付されてる記者からのキャプションは
「○○(地名)についた本誌ヘリコプター、 長の版」
こちらのキャプションは「ハナタバゾーテイ! ○○(地名)にて 長の版」
長野電送と書かれた文字が印象的だが
急いでいたのだろう、キャプションは逆のような気がする(汗
もうひとつ、この画像を見て背景の山がおかしいな~ と思ったら コレ裏焼きだ
番外でもうひとつ ふたつ
この日、初めてヘリコプターを見た、知っただろう地元の方々
このヘリに搭乗したのは、当時の首長だった方とCちゃんのみ
翌日 Cちゃんが学校へ行くと~ あだ名がつけられていたそうだ
それは「ヘリコプター」(笑 なんとも直な あだ名 だが
それだけインパクトがあったからだろう
叔母もキャプションにヘリコプターを 「ヘリコ ブ ター」 と書かれてあった
ヘリの認知度はまだまだ低かったようだ
ヘリに急遽搭乗できた Cちゃん は後日、近藤パイロットの礼状を書いたということで
今でもパイロットの名前をしっかり記憶していた
さらに番外は~
この同じ地で18年後、私も同じ Bell47 のG型で、初めて空を飛ぶこととなる
今はなきインペリアル航空の遊覧飛行でね