前回の「父達の戦争体験」からだいぶ時間が経ってしまいましたが
終戦記念日と共に、締め括として
自分の父親の戦時体験たどってみました
私の父は6人兄妹の長男
女性ばかり5人で、男は父のみ
昭和19年春、この年から1年早く徴兵検査があり
早い人は同年夏ころから召集されていたという
父にはなかなか召集令状がこなかったが
20年3月にいよいよ届いた
前年に父親を亡くしていたので、母親を含めた家族の支えは自分のみ
残す家族の事を考えると食事も喉を通らなかったそうだ
地元の神社で、他の出征兵士2名と共に出征祝いが施行され
最後に残すつもりで写真館で撮った写真は
受け取りに行くと「乾板(フィルムの代わり)を入れ忘れて撮れなかった」と
撮り直す時間的余裕などない父の胸中は察するに・・・
大阪の部隊に入隊、兵舎は元小学校校舎だった
同期に召集された者には、19歳だった父も居れば30代後半の方も
文字を読み書きできない、文盲の地方農家出身者の方も何人か
代読、代筆を何度か頼まれたという
(こんな事も、当時の時代背景か)
この時期、すでに内地の兵部隊には武器となるものはなく
銃には一度も触ることもなく、もちろん一度も撃つことはなかった
訓練はもっぱら体力運動のみ
食事は金属製の茶碗はなくなり、竹の茶碗に ご飯 と みそ汁 を盛る
おかずはタクアン2切れのみ
(画像は息子が中学時代に作った新聞より)
炊事当番になると、竹の茶碗はみな大きさが違うから
一番大きなモノを取り、さらには一膳飯なので
ご飯を竹椀にぎゅうぎゅうに押し込む、それだけが唯一の楽しみ
入隊直後に大阪空襲があり
B29が低空で焼夷弾を投下し周りは火の海になった
(記録では3月13日、14日)
その後、九州 博多に移動
山陽本線は瀬戸内海沿いに進むと、軍港の呉があるため
列車の海側日よけ(木製の鎧戸)を下され、目隠しして走行していった
博多での任務は、満州から運ばれてくる
農産物(落花生や大豆)を船から陸揚げする港湾労働
約100kgの俵を一日70俵運び、倉庫や港の広場に積み上げる
まもなく博多も高空からの夜間焼夷弾爆撃に襲われる
(記録では6月19日夜)
大阪の空襲と違い、福岡には高射砲部隊が配備されていたので
猛烈な対空砲射撃が行われた
しかし高空を飛行するB29に弾は届かず、燃える街の火に照らされ
銀色の機体がキラキラきれいに見えていた
港湾に積み上げた俵も燃えてしまい
街も破壊されてしまったが、最後には絶対勝つ! と信じていたという
門司港では目の前で、機雷にやられ沈没する船を
博多港では、船が来ない! と様子を見に行った船が触雷し座礁するのを見たそうだ
博多港で一台のラジオから「玉音放送」を聞き、終戦を知る
中国大陸から移動してきていた上級兵達の何人かが
部隊長をだまし、故郷へ逃げるように帰ってしまった
自慢げに大陸での所業を日頃話していたというから
戦後の追及を逃れてのことだったようだ
しかし、結局連れ戻されてきたという
博多にあった捕虜収容所の官舎付近には
米軍の双発爆撃機から物資がパラシュートで投下された
(父は爆撃機と話したが、双発という記憶は確かなようだから
たぶん輸送機の DC-3 あたりだと思われる)
後日、米兵がやってきたが
銃も持たず、紳士的な対応に驚いた
帰郷には、沈没船から持ち出した石鹸とタクアン2本をリュックに
途中の通過する街は、広島をはじめことごとく焼き尽くされており
帰り着いた田舎では、極度の食料不足が待っていた
以上は私の息子が、10年以上前に父から聞き出し
宿題の新聞にした内容に、自分が後日聞いた事柄も加えたもの
聞き取り時に70代だった父も、現在90歳を目の前にしている
終戦直前に召集された者さえも、この歳になってしまっている現実
記憶を残せるのは、あとわずかな時間しかない
※ 使用した画像はイメージです
久しぶりに 従姪 が営業している「cafe中寿美」のHPにリンクしておきます
ちょうど叔母(父の姉)の話が載っていましたが
その叔母からも「出征した父はもう帰らない」と覚悟した
と子供の頃に聞かされました
時代だったのでしょうが、日本中で家族はそんな思いをされていたのでしょうね
終戦記念日と共に、締め括として
自分の父親の戦時体験たどってみました
私の父は6人兄妹の長男
女性ばかり5人で、男は父のみ
昭和19年春、この年から1年早く徴兵検査があり
早い人は同年夏ころから召集されていたという
父にはなかなか召集令状がこなかったが
20年3月にいよいよ届いた
前年に父親を亡くしていたので、母親を含めた家族の支えは自分のみ
残す家族の事を考えると食事も喉を通らなかったそうだ
地元の神社で、他の出征兵士2名と共に出征祝いが施行され
最後に残すつもりで写真館で撮った写真は
受け取りに行くと「乾板(フィルムの代わり)を入れ忘れて撮れなかった」と
撮り直す時間的余裕などない父の胸中は察するに・・・
大阪の部隊に入隊、兵舎は元小学校校舎だった
同期に召集された者には、19歳だった父も居れば30代後半の方も
文字を読み書きできない、文盲の地方農家出身者の方も何人か
代読、代筆を何度か頼まれたという
(こんな事も、当時の時代背景か)
この時期、すでに内地の兵部隊には武器となるものはなく
銃には一度も触ることもなく、もちろん一度も撃つことはなかった
訓練はもっぱら体力運動のみ
食事は金属製の茶碗はなくなり、竹の茶碗に ご飯 と みそ汁 を盛る
おかずはタクアン2切れのみ
(画像は息子が中学時代に作った新聞より)
炊事当番になると、竹の茶碗はみな大きさが違うから
一番大きなモノを取り、さらには一膳飯なので
ご飯を竹椀にぎゅうぎゅうに押し込む、それだけが唯一の楽しみ
入隊直後に大阪空襲があり
B29が低空で焼夷弾を投下し周りは火の海になった
(記録では3月13日、14日)
その後、九州 博多に移動
山陽本線は瀬戸内海沿いに進むと、軍港の呉があるため
列車の海側日よけ(木製の鎧戸)を下され、目隠しして走行していった
博多での任務は、満州から運ばれてくる
農産物(落花生や大豆)を船から陸揚げする港湾労働
約100kgの俵を一日70俵運び、倉庫や港の広場に積み上げる
まもなく博多も高空からの夜間焼夷弾爆撃に襲われる
(記録では6月19日夜)
大阪の空襲と違い、福岡には高射砲部隊が配備されていたので
猛烈な対空砲射撃が行われた
しかし高空を飛行するB29に弾は届かず、燃える街の火に照らされ
銀色の機体がキラキラきれいに見えていた
港湾に積み上げた俵も燃えてしまい
街も破壊されてしまったが、最後には絶対勝つ! と信じていたという
門司港では目の前で、機雷にやられ沈没する船を
博多港では、船が来ない! と様子を見に行った船が触雷し座礁するのを見たそうだ
博多港で一台のラジオから「玉音放送」を聞き、終戦を知る
中国大陸から移動してきていた上級兵達の何人かが
部隊長をだまし、故郷へ逃げるように帰ってしまった
自慢げに大陸での所業を日頃話していたというから
戦後の追及を逃れてのことだったようだ
しかし、結局連れ戻されてきたという
博多にあった捕虜収容所の官舎付近には
米軍の双発爆撃機から物資がパラシュートで投下された
(父は爆撃機と話したが、双発という記憶は確かなようだから
たぶん輸送機の DC-3 あたりだと思われる)
後日、米兵がやってきたが
銃も持たず、紳士的な対応に驚いた
帰郷には、沈没船から持ち出した石鹸とタクアン2本をリュックに
途中の通過する街は、広島をはじめことごとく焼き尽くされており
帰り着いた田舎では、極度の食料不足が待っていた
以上は私の息子が、10年以上前に父から聞き出し
宿題の新聞にした内容に、自分が後日聞いた事柄も加えたもの
聞き取り時に70代だった父も、現在90歳を目の前にしている
終戦直前に召集された者さえも、この歳になってしまっている現実
記憶を残せるのは、あとわずかな時間しかない
※ 使用した画像はイメージです
久しぶりに 従姪 が営業している「cafe中寿美」のHPにリンクしておきます
ちょうど叔母(父の姉)の話が載っていましたが
その叔母からも「出征した父はもう帰らない」と覚悟した
と子供の頃に聞かされました
時代だったのでしょうが、日本中で家族はそんな思いをされていたのでしょうね