三丁目の飛行機屋

飛行機マニアのオヤジが
撮影遠征記やマル秘コレクションの公開などをしていきます。

終戦後 69年、父の記憶を残す

2014年08月17日 | 老兵の記憶 父達の戦争体験
前回の「父達の戦争体験」からだいぶ時間が経ってしまいましたが
終戦記念日と共に、締め括として
自分の父親の戦時体験たどってみました


私の父は6人兄妹の長男
女性ばかり5人で、男は父のみ


昭和19年春、この年から1年早く徴兵検査があり
早い人は同年夏ころから召集されていたという

父にはなかなか召集令状がこなかったが
20年3月にいよいよ届いた

前年に父親を亡くしていたので、母親を含めた家族の支えは自分のみ
残す家族の事を考えると食事も喉を通らなかったそうだ



地元の神社で、他の出征兵士2名と共に出征祝いが施行され

最後に残すつもりで写真館で撮った写真は
受け取りに行くと「乾板(フィルムの代わり)を入れ忘れて撮れなかった」と
撮り直す時間的余裕などない父の胸中は察するに・・・



大阪の部隊に入隊、兵舎は元小学校校舎だった
同期に召集された者には、19歳だった父も居れば30代後半の方も
文字を読み書きできない、文盲の地方農家出身者の方も何人か
代読、代筆を何度か頼まれたという
(こんな事も、当時の時代背景か)


この時期、すでに内地の兵部隊には武器となるものはなく
銃には一度も触ることもなく、もちろん一度も撃つことはなかった
訓練はもっぱら体力運動のみ

 食事は金属製の茶碗はなくなり、竹の茶碗に ご飯 と みそ汁 を盛る
 おかずはタクアン2切れのみ
 
  (画像は息子が中学時代に作った新聞より)

炊事当番になると、竹の茶碗はみな大きさが違うから
一番大きなモノを取り、さらには一膳飯なので
ご飯を竹椀にぎゅうぎゅうに押し込む、それだけが唯一の楽しみ


入隊直後に大阪空襲があり
B29が低空で焼夷弾を投下し周りは火の海になった
(記録では3月13日、14日)


その後、九州 博多に移動
山陽本線は瀬戸内海沿いに進むと、軍港の呉があるため
列車の海側日よけ(木製の鎧戸)を下され、目隠しして走行していった

博多での任務は、満州から運ばれてくる
農産物(落花生や大豆)を船から陸揚げする港湾労働

約100kgの俵を一日70俵運び、倉庫や港の広場に積み上げる


まもなく博多も高空からの夜間焼夷弾爆撃に襲われる
(記録では6月19日夜)

大阪の空襲と違い、福岡には高射砲部隊が配備されていたので
猛烈な対空砲射撃が行われた
しかし高空を飛行するB29に弾は届かず、燃える街の火に照らされ
銀色の機体がキラキラきれいに見えていた


港湾に積み上げた俵も燃えてしまい
街も破壊されてしまったが、最後には絶対勝つ! と信じていたという

門司港では目の前で、機雷にやられ沈没する船を
博多港では、船が来ない! と様子を見に行った船が触雷し座礁するのを見たそうだ


博多港で一台のラジオから「玉音放送」を聞き、終戦を知る

中国大陸から移動してきていた上級兵達の何人かが
部隊長をだまし、故郷へ逃げるように帰ってしまった
自慢げに大陸での所業を日頃話していたというから
戦後の追及を逃れてのことだったようだ
しかし、結局連れ戻されてきたという


博多にあった捕虜収容所の官舎付近には
米軍の双発爆撃機から物資がパラシュートで投下された
(父は爆撃機と話したが、双発という記憶は確かなようだから
  たぶん輸送機の DC-3 あたりだと思われる)


後日、米兵がやってきたが
銃も持たず、紳士的な対応に驚いた

帰郷には、沈没船から持ち出した石鹸とタクアン2本をリュックに
途中の通過する街は、広島をはじめことごとく焼き尽くされており
帰り着いた田舎では、極度の食料不足が待っていた


 以上は私の息子が、10年以上前に父から聞き出し
宿題の新聞にした内容に、自分が後日聞いた事柄も加えたもの


聞き取り時に70代だった父も、現在90歳を目の前にしている

終戦直前に召集された者さえも、この歳になってしまっている現実

 記憶を残せるのは、あとわずかな時間しかない

 ※ 使用した画像はイメージです


久しぶりに 従姪 が営業している「cafe中寿美」のHPにリンクしておきます
 ちょうど叔母(父の姉)の話が載っていましたが
 その叔母からも「出征した父はもう帰らない」と覚悟した
 と子供の頃に聞かされました
 時代だったのでしょうが、日本中で家族はそんな思いをされていたのでしょうね
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老兵の記憶をここに~ 終戦まで

2013年02月10日 | 老兵の記憶 父達の戦争体験
当然ながら、台南基地も米機による攻撃、爆撃の対象となり
P-38ライトニング(双胴の悪魔と呼ばれた)が度々現れた


 (1992年のUKは ATI エアショー会場 にて私が撮影したP-38)
P-38は当時は米陸軍航空隊機(まだ空軍はなかった)で、中国大陸から出撃してきたものと思われる

地上にはデコイ(竹や木等で作られた航空機の囮)とタコツボ(個人用の塹壕)を作ったが
偽装網で隠された木造のデコイは激しく銃撃を受け、効果があったそうだ

ある日銃撃が終わったのでタコツボから出てP-38を見送った
するとインメルマンターンしたのか
突然戻ってきた機体は地上の人員めがけて機銃掃射を開始
父の体をかすめた銃弾は地面にプスプスと音を立てて突き刺さったという
(P-38は機首に20mm1門、12.7mm 4門 の固定銃を装備)

「映画のような煙は発生しない」、考えれば鉛弾が爆発しないのは当然のことだ
機上の任務中では、「死」など怖いと思わなかったが
油断して地上で襲われた、この時が一番怖かったそうだ

また爆撃に飛来した米?爆撃機(機種はB29との事だが不明)を撃墜したということで
機体の調査に出かけたことがあったそうだ
近くで見る米機のエンジンには油漏れ等はなく驚いたが
リベットやネジ類も、空気抵抗を押さえた沈頭鋲で製造技術に感服したという

機内を調べると何体かの遺体があり
通信席付近にあった、体がちぎれた搭乗員はなんと女性だった

当時の米軍にはWASP(Women Airforce Service Pilots)と呼ばれた女性パイロト部隊が存在したが
最前線へは女性をパイロット任務にはつけなかったという記述もある
例外はどの世界にもあることで、搭乗員としては存在したのか
たまたまこの日、仲の良かった男性搭乗員に誘われて黙認で搭乗中に・・・
想像を巡らしたらいくらでも可能性はあるものだ
米軍の記録には戦死した女性搭乗員は38名とあるが、この事例も入っているかは不明だ

米軍機からはこういったビラも撒かれた


台南で拾った実物ということだ(画像は裏写りしてしまった)



一気に終戦に飛ぶが
日々減っていく機体だったが、それでも「日本は絶対に勝つ!」と思っていたそうだ
8月15日の玉音放送は雑音だらけで何を言ってるのかわからなかった
戦争が終わったと聞いても誰も信用しなかったが
しばらくして敗戦が事実とわかると、上官の一人は機体のエンジンを始動させ
目の前で海に突っ込み自決した

残った銀河はわずかに6機 (自決機が含まれているかは不明)
約半年前に到着したのが53機だから、事故等もあったろうが
その戦耗率に驚く


やはり航空ファン誌の2010年1月号に

「台湾に残された海鷲達」という記事が載った
このリストについて父に聞いたが、存在も作った記憶もないとのこと
リストの内容から判断すると
台南に残された銀河の数は父の記憶とほぼ一致するのには驚いた


終戦から暫くすると、基地に残った航空機を中国側に引き渡すとの話が
「そんなことは絶対できない!」と航空機の部品を
特にエンジンのパーツ(気化器等)を外し、穴を掘って埋め隠してしまった

しかしそれもスグにみつかり、しっかりパーツの清掃整備をさせらて散々だった


さらに引き渡す機体には晴天白日旗をマーキングすることに(リンク先には銀河機を含め詳しく解説あり)
背中に番傘一つを背負った(銃ではなく番傘だとは・・・)役人が
日の丸の上に定規を使って丁寧に描かせた

チョッとでもはみ出たり曲がったりすると、厳しく叱責したという
あのマークはそう簡単には描けない事は想像に堅い

日の丸から少しズレて白日旗マークが描かれた
銀河の画像を以前どこかで見たことがあるが(上の航フ、イラストと同じ)
父が言うには機体日の丸の真上に上塗りさせられたとのこと


翌年船で鹿児島へ戻り、さらに郷里に戻れたそうだが
改めてこの話を聞くまでは話さなかった事もあわせて聞くことができた

しごきは毎日休みなく続き本当にきつかった、殴り殺された奴もいたし・・・
あれは戦死扱いにしたのだろうか、事故死なのか
志願兵は志を一つに故郷を出てきたのになぁ~

他にもそっと話してくれたが、国内の前線基地では・・・
「明日をも知れない若い男達だから、しかたないさ」で終わっちゃった事例? 事犯?も
こういう話はあるだろうと誰もが想像はしてるが、公の話で出ることはなかった

さらに俺達の給料はどうなっていたのか、上官はなぜか大金を持っていた
帰国する時持ち出せなくて、下級兵に鹿児島で渡すように預けたが
終戦で階級も関係ないし、だ~れも渡さなかったとか
他の戦争体験者からも似たような話を聞いた


歴史書には残らない小さな記憶、そんな記憶がもうすぐ消えていく
言い換えれば、大局の歴史は変わらぬとも
身の回りの歴史(記憶)は、いとも簡単に消え去り
書き換えさえも可能な時代を迎えようとしている
遥か昔からの歴史書がそうだったように

近年は記憶の一部でもファイル等として後世?に残し得ることができるのが唯一の救いだ


※コメントの表示までに少々時間を頂いておりますことをご了承下さい
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老兵の記憶をここに~ 銀河台南へ

2013年02月07日 | 老兵の記憶 父達の戦争体験
昭和20年(1945年)1月、戦況の悪化にともない台湾の航空機が不足
稼動全「銀河」を台湾に空輸することになり、いよいよ実戦へ向うことに


昔から銀河の話は聞いていたが
航空ファン誌 2003年9月号に初めて台湾での銀河戦史が載り
以前に聞いていた内容がそこに書かれていて驚いた
  
 もしこの号をお持ちの方は 渡辺洋二氏 の記事も合わせて御覧下さい

義父は先ず厚木から鹿児島の出水(いずみ)に移動して訓練を受けたが
厚木から出水に向かう時は寒中で
初めて電熱服を着ての飛行は温かく助かったそうだ
銀河は双発爆撃機、パイロットはベテランばかりだったが
出水に向う途中、2機程が機体トラブルで途中の他基地等に不時着した

出水で爆撃と雷撃の訓練を暫く続けた後、台南へ移動することとなった

先ずは銀河の下面の銀無塗装部分や目立つ塗装(日の丸以外)部分を
機体色の緑色で塗り目立たなくした

私はてっきり、夜間に飛行したのだろうと思っていたが
今回話を改めて聞いてみると~
昼間低空を雲伝いに単機づつ飛行

「景色は見れましたか?」と聞くと
そんな余裕はなく、いつ艦載機に攻撃されるか
操縦席後ろの銃座で上空を見張っていたそうだ

(模型では閉じられているが、キャノピー最後部が銃座となる)

沖縄付近ではリバ艇(上陸用舟艇)等に囲まれた
島影がハッキリ見え、その景色が脳裏に焼きついている
無事に台南基地に到着した銀河は 53機 
(数字の記憶は何時でもハッキリしており驚く)

当時の台南の環境は「初めて電灯を見た!」というくらいの所
住民が度々バナナを売りに来たが
ゴムで包まれた羊羹、楊枝を挿すとキュルッとむけるあの羊羹と
バナナとの物々交換が喜ばれた
航空隊搭乗員ということで食料は比較的良かったそうだが
戦局の悪化に伴い台湾でも次第に食料不足になっていった

日本の基地周辺では近くの畑からカボチャ等もこっそり調達したが
台湾でも売り物とは別にバナナ他をナイショで調達したようだ
現地で食べたラーメンには「カエルが浮かんでいた」というので
聞きなおすと調理されたカエルがのっていてビックリしたということだった


「エナーシャ回せ」当時の航空関係者でなければわからない言葉だが
この言葉を初めて父から聞いた時は、本当に航空屋(ヒコーキヤ)だったんだ!と感心した記憶がある

エナーシャとは航空機のエンジンを始動するためのセルモーターみたいな役目をするもの
トラックのエンジンに連結されたシャフトをプロペラの先につけて行なう機体や
エンジン部の横にクランク棒を入れて、人力で回すものとがあったそうだ
爆撃機「銀河」はエンジン横にクランクを差し込み始動した



ある日、搭乗した機体のエンジンを始動する為にエナーシャを回した整備員
始動後に何かにつまずいたのか、疲労でふらついたのかプロペラに叩かれ即死してしまった


   (息子の新聞イラストより)
台湾からはフィリピンのリンガエン等を目標に爆撃(攻撃)に行ったが
昼間は敵機にやられてしまうので夜間に攻撃
それでもすでに米軍にはレーダーを装備した戦闘機もあり
撃墜されては機数が減ると同時に、搭乗員は3名ということで戦死者も増え続けた
次第に士気も低下したのか、理由をつけて引き返す機体も少なくはなかった

部隊内では機密保持の観点からも横の繋がりはあまりなく
同じ小隊ぐらいしか隊員の名前は知らなかったそうだ

そして銀河に乗っていたと知った頃から聞かされていた
「現地で胴体下に機銃を幾つも斜め下向きに取り付け、地上攻撃を行なった」
これが上記「航空ファン」誌の記事に書かれていた時には正直驚いた!



雑誌の記事によると、機体に取り付けられた銃の数は2説あるようだが

父は昔に聞いた時から「一列に10丁」と即答していた
装弾もベルト式でドラムではなかったと

改造された機数は「残った機体は全てだったと思う」とも
雑誌の記事とは幾つか食い違いもあるが、過去を確かめる術はない

父の記憶では戦況の悪化で物資も不足
魚雷はすでになく、爆撃に使える250kg爆弾等も在庫が底をついた状態
そんな中で現れたのが機体下面に機銃を下向きに並べた改造機だったと
改造された機体は何機かあり、改造機で攻撃に参加したこともあったという


模型の魚雷がある部分が爆弾装、この部分に機銃を取り付けたようだ
(タイヤから飛び出ているシャフトは機体を台座に固定する為のネジ部)

                                      ~つづく

   ※コメントの表示までに少々時間を頂いておりますことをご了承下さい
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老兵の記憶をここに ~霞ヶ浦入隊

2013年02月04日 | 老兵の記憶 父達の戦争体験
一昨年に上げた「父たちの戦争体験」記事からだいぶ経ってしまいましたが
義父の海軍航空隊時の記憶をやっと紹介させていただきます

コレは戦争の悲惨さを伝えるものでも、賞賛するものでもありません
あくまで義父の記憶を聞き、書き残すことが目的
尚、内容には戦後68年の歳月が経とうとしており
記憶違い、思い違い等が有ることも充分考えられることをご了承下さい


息子が中学の時に作った新聞です

この時70代後半だった父に聞き取りした頃は、記憶もある程度鮮明でしたが
今年で88歳となる父に記憶の真偽を追及するには酷な歳となってきました

父はこの歳でも軍隊経験者としては若輩者の部類
時は確実に流れ、歴史の生き証人は減少の一途です

息子が聞き取った時のマイクロカセットや、今回新たに聞き取った録音ファイルとの
両方から文字に残してみました


~昭和17年、17歳の父は海軍志願兵に合格
地元から紙テープと万歳に送られ列車で霞ヶ浦へ
  

入隊初日、上官から海軍霞ヶ浦航空隊入隊の祝辞と共に~
「現在、海軍ばかりではなく陸軍(特幹)でも人員がかなり不足している
  もし、陸軍に行ける者がいたら挙手せよ」と

何人かの者が手を上げたという

その後に響いた罵声!
「日本男子たるもの! 一度「志」(こころざし)を決めた事を翻すとはなにごとか!!」
と鉄拳で体が飛んだ

これが軍隊生活の始まり 

その後の日常と訓練は、連日の鉄拳とバッターの嵐が待ち構えていた事は想像にかたい
(バッターとはクリケットのバット風の棒や棍棒で尻等を殴る行為
         精神注入棒とわざわざ書かれた物も存在したようだ) 

霞ヶ浦航空隊は近くにあった土浦航空隊とは根本的に違い
土浦は沿岸部に位置しており、フロート付の水上練習機が配備され
内陸にあった霞ヶ浦は陸上機のみで、父に水上機の搭乗経験はないとのことだ

霞ヶ浦には大正13年にドイツから押収した
ツェッペリン飛行船用の巨大格納庫があったという(霞ヶ浦駐屯地HPにリンク)

  

当時空の英雄として奉られた
片翼帰還の「樫村機」が校門横に置かれていて、訓練に向かう際には敬礼して行ったそうだ
銅像か何かか?何度か聞きなおしたが実機があったということだ
(96艦戦機の樫村機は旧海軍兵学校にあったという文献もありで未確認)

飛行訓練にはすでに実用化されていたパラシュートを装備したが
あくまで訓練時のみで、配属後は捕虜を嫌い装備することはなかったそうだ


 参考画像として、以前親戚から頂いた93式練習機「あかとんぼ」と思われる写真を
 撮影場所も記念写真の人物名も不明の写真、写り込んだ左下の機体も気になる

  

霞ヶ浦では阿見村の「山崎」さん方に下宿、近くには桜並木があり芋を焼いている店があった
皆で食べた記憶があるそうだ (旧海軍道路の並木と思われる)

霞ヶ浦の訓練後は仮入隊で羽田飛行場へ
そこには昭和12年、日本とロンドン間飛行を成し遂げた
朝日新聞の神風号が格納庫にあった
(航空ファン誌 2011年8月号に「神風」に関する記事があり
 昭和14年に台湾付近で海上に不時着大破、後日分解引き上げとある
 その後は日本に送り返す指示があったようだが行方不明
 羽田にあった機体は姉妹機の「幸風」、「朝風」、または複元機
 それともその行方不明だった機体なのかは謎だ) 


蒲田には美味い芋羊羹(ヨウカン)屋があったそうだ
時代背景か年齢か、食べる事が楽しみだったようだ(笑)

その後 父は、羽田から木更津 → 豊橋と移動
木更津は「鬼の木更津」と海軍では言われており
連日連夜のバッターによるシゴキに耐えなければならなかった
しかし豊橋はそれを上回る「地獄の豊橋」
バッター棒は木から金属棒にとって代わったそうだ

豊橋から厚木に移動し
昭和20年1月、台湾での機体不足解消の為
可動「銀河」全機を台湾に進出させる隊編成が行なわれ
いよいよ部隊に配属、前線に向かうこととなった
  
                              (息子の新聞イラストより)

                                       ~つづく


     ※コメントの表示までに少々時間を頂いておりますことをご了承下さい
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老兵の記憶をここに~ 銀河 をプラモで再現

2011年07月29日 | 老兵の記憶 父達の戦争体験
前回7月5日の記事からの続きです
カテゴリー「老兵の記憶~ 」も新設いたしました
今後の「老兵の記憶~」は、カテゴリーより
お入りいただくと読みやすくなると思います


RIATから帰国後、銀河の連合軍コードネームを調べようとしたが
1999年の私にネット環境などなく検索などは無理
航空雑誌を開こうとしたが~ 捜すの面倒・・・

手っ取り早く「銀河」のプラモを自宅前の模型店に捜しに行った
義父の乗機は魚雷攻撃もした、ということを聞いていたので

ハセガワから1/72で発売になっていた雷撃型を即購入
そのボックスに書かれていたのは

空技廠 日本海軍陸上爆撃機「銀河」
そしてコードネームは Francis(フランシス)
なんとも爆撃機らしくない響きの綺麗な連合軍コードネームだこと
(後に調べるとFrancisと命名後に、
    Frances(フランセス)と改名されたとの文献もあった)

それを完成させたものがこれ


大きな改造箇所はないが、義父に贈呈するので展示ケースも自作
ケースはアクリル透明版から台座も全て自作した
さらに出張先で立ち寄った模型店で購入した
メタル製の1/48スケール 「誉」エンジンも置いてみた



機体番号等は記憶が薄いということで単純に付属デカールをそのまま使用

雷撃機ならば魚雷も鏡で見えるようにしてみた


パネル縁に塗装の剥がれも再現したつもりですが難しいね

機体はタイヤにネジを埋め込み台座に固定
たぶん逆さにしても落ちないとは思うが
機体側に固定した脚元部は普通の接着なので強度はたいしてない


完成品はこのまま義父に進呈してしまうので
無用のケース開封など出来ないように
極小ネジで全て固定してしまった

横にある義父の写真は、霞ヶ浦で訓練中の肖像です
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